はてなキーワード: 希薄とは
Victory!ファミリーマートがフォアグラ入り弁当の販売中止を発表!
http://www.hopeforanimals.org/topics_detail6/id=274
この団体の強烈さも燃焼補助材となって、ネットを中心に大きな話題となった。ここではその生産に係る倫理性は論じない。「そもそもフォアグラは不味くないか?」という問題提起をしたい。
私は今まで一度も美味しいと思えるフォアグラを食べたことがない。
美味しんぼ1巻では、フォアグラを美食の王として崇める食通達に、フォアグラよりも美味しいアンコウの肝を食べさせて、軽薄な食通を叩きのめす話がある。人工的に作った病気のガチョウの肝であるフォアグラは、大自然の中で育ったアンコウの肝に劣るという理由付けには同意しないが(自然だから美味い、人工だから不味いというのはおかしい)、フォアグラよりもアンキモのほうが美味しいという結論には大いに納得したものである。
予断であるが、1巻から6巻くらいまでの美味しんぼは本当に面白い。触れるものすべて斬り付ける山岡、可愛い栗太、傍若無人そのものの雄山などキャラクターに魅力がある。内容も濃い。名作と言って過言ではない。10巻以降からこじつけや薀蓄の垂れ流しが増え始め、農薬と化学調味料や大メーカーを叩くワンパターンがエスカレートし(初期のうちは30年近く前であり、現代よりも状況が酷かったので、同意できる部分はある)、雄山は最初の設定をなしにして神格化され、栗田は顔も台詞も説教くさくなり、ストーリーが希薄となって物語の魅力が落ちていく。10巻まででも90話、ネタ切れもやむなしであり仕方ないかと思う。最近久しぶりに100巻前後の単行本を読んでみた。衝撃を受けたという感想以外はあえて書かないが、山岡栗田の結婚あたりで引き際があったのではと強く思う。
話が脱線しすぎた。フォアグラである。自分が「美味しいフォアグラ」を食べたことがないだけではないかとも疑ってみた。そういう落差の食べ物はある。例えば天ぷら。安いものや和食のコースに入っているようなものは、わざわざ食材を不味くして食べていると思わざるを得ないものが結構あるが、昼なら5千円、夜なら1万円だして定評のある専門店に行って食べる天ぷらは本当に美味しい。勿論もっとずっと安くて美味しいてんぷら屋もある。そこで、一時期、ミシュラン星付フレンチなどに行く機会に、フォアグラがあった場合は必ずフォアグラを選ぶというルールを自分に課してみた。私のような一介のリーマンが星付フレンチに行く機会など当たり前だがそうあるものではない。多くの美味しそうな他メニューを横目に毎回フォアグラを注文し、そして幻滅した。
鮮度の問題か、とも思った。件の美味しんぼでも、アンキモに劣る理由のひとつとして、日本で取れるアンキモとフランスから空輸することになるフォアグラの鮮度の差を上げている。そこで、今思えば本当にもったいなかったと思うのだが、貴重なパリ旅行や出張の機会に張り込んで星付きあるいは口コミの良いレストランに行く際もフォアグラを頼むようにした。そして、やはり毎回幻滅した。きちんとしたレストランのものほど味の透明度が上がるのだが、結局脂っこすぎて油分をそのまま食べさせられているような気分がある。最高の生クリームを飲んだら美味いかと言われたらスプーン1杯なら美味いと思うが、それ以上はいやだ。同様にフォアグラも角砂糖1個分ならまあ美味しいかもしれない。
食べ物の美味い不味いは、最終的には個人の好みであるが、その以前にはある程度普遍的に美味い不味いがあると私は考える。そしてフォアグラはかなり過大評価されていると思う。フランス人だとだいぶ味覚が違うのかもしれないし、脂耐性がそもそも違うのかもしれないが、少なくとも日本人の間ではかなりの過大評価だと断言したい。有難がられるのは珍味としての珍しさゆえで、同じ脂っぽい食べ物なら霜降り肉や大トロのほうが美味しいし、珍味大国の日本で有難がられるほどのものではないと思われる。その意味では日本のマツタケも過大評価であるが、マツタケがたいしておいしくないというのは、日本人の中では結構一般的な認識になってきたと思う。
今回の弁当中止はビックリしたが、味に関して言えば、おそらく食べられなかったことをガッカリする必要はないだろう。話題性でどうしても食べたければファミレス行けば食べられるしね。
https://twitter.com/Eguchinn/status/425181251914321921
なんだけど、この、ハンドルネームでネット上で絵を発表してる若い人たちに共通して感じるのは「世に出る」という感覚の希薄さ?僕らの世代だと絵でも小説でも音楽でもなんでもいいけど自分の技量で「世に出たい」というのがまずあったんですよ。この「世に出たい」という感覚がもう古いの?ダサいの?
“「世に出る」という感覚の希薄さ”を「ダサい」の一言に要約しちゃう感覚にはすげえ違和感を覚える。ダサいという形容がもうダサいっす!っていうかそれ死語っす先生〜!
――まあそれはさておいて。『虚無的なのがかっこ良く、お金儲けは下品』という昭和ベクトルでこの世代を眺めるのはいささか古い。いや江口寿史Disってるわけではないすよ? ただ、見方として、江口寿史がこのたび想定しているPixiv世代についていえば、個人もしくは仲間内でひったすら趣味活動を醸成しつづけた結果、プロ並の技量を得てしまった、とみるのが(おそらく)正しい。趣味であるゆえそれに注がれる熱量たるや凄まじいんすよね。実際生産量がムチャクチャに多いしアホみたいな書き込み量だったりするんで本当にビビリます。
技巧やノウハウについてはPixivやブログに「講座」というかたちで星の数ほどアップされていて編集者や先輩イラストレーターから教わらなくてもよい状況にありますし、できあがった完成品はPixivやTwitterという超強力ツールによって24時間いつでも品評されます(Favや評価点という定量的数値として)。なんだったら同人誌にしたためて売りに出すこと売れても売れなくても強烈なリアクションが期待できます。
――このようなサイクルに放り込まれたPixiv世代は、趣味のスタンスをまったく崩さないままプロ並と呼ばれる水準にまで到達できてしまうことも充分可能でしょう。パッと見『「世に出る」という感覚』が希薄だったり、自分の技量にやたらと無頓着だったりするのも、お金を取れるレベルに自分が達していることに気づいていないか、『プロ(=専業)』という生態を至上とはしていないせいと考えられます。
同人活動をしている知人の話になりますが、イラストレーターの報酬額には毎回とても悩むといいます。金額をまったく提示してこないからです。好きでやってるんだからタダでいいよというケースすらあるそうですよ(ちなみにイラストレーター氏は受賞歴が複数あり、Pixivではオリジナル非エロが評価点5桁レベルの技量ということです。プロで通用するレベル)。
技法や知識はネットで調べられる、絵道具はペンタブとソフトで充分、Favや評価点でレスポンスが超ハッキリ提示され、気のあう仲間と盛り上がって楽しくすごせる……。そんな環境に囲まれたPixiv世代を外部から理解するにあたり、それこそ江口寿史くらいの年齢層ならば出世欲の希薄さにフォーカスしてしらけ世代との近似を想定するのも無理からぬ話ではあります。ただし言われたほうはコレジャナイ感に満ち満ちる。以上に書いたとおり「しらけ」とは程遠い熱量を持っているからです(イラストレーターごとの個体差はもちろんあります)。むしろオタク的情熱がインプロージョンして世間から観測しづらくなったと言えるのかも。
昔のように身を賭してイラストレーション関係の賞に積極的に応募してこないのは――内部事情をビタイチ知らないので憶測ですが――リスクヘッジが働いていると見るのが妥当でしょう。プロで生きていくより平日ふつうに働いて土日の余力でちょいちょい仕事もらうほうが精神的には遥かによろしい。先が見えなさすぎるイラストレーター稼業のリスクを加味したならば、あえてプロ化しないのも至極まっとうな選択と言えます。そりゃ誰だってジジイババアになってから路頭を迷いたくはない。そういう算段を皆しっかり行うようになったんで「賢くなった」ように見えるのだと思います。
個人的には『無謀こそが最善手』とするのは精神論すぎると思う。トキワ荘のみんなは死んじゃったし。バブルも弾けて華やかな未来は霧散したし。専業はやっぱ怖いすよ。
https://twitter.com/takokainahare/status/425185441478766592
“@Eguchinn 書く事と収入のバランスが悪い。「世に出て」安定した収入を得るまで年月がかかる。働きながら趣味で描いてる方が安心ですよ。”
あと、江口寿史が働きはじめたくらいの頃はメディアたる雑誌の「賞」という入口のほかに不特定多数からリアクションを獲得する手段が存在しえなかったと思います。PixivもTwitterも21世紀のサービスですからな……。今日ではそういったSNSでいくらでも褒めてもらえることが出来る。飯の種を探すことすら可能です。今昔の違いが雑誌の賞に現れるのも、まあ妥当な作用なんじゃね?って気はします。
教えて欲しいわ。
増田でも時々、定期的に家族や家庭の事情に問題がある/あった系の独白が書き込まれるし、自分自身も問題がある系なんだけど。
潜在的にけっこうな人が家庭の問題で悩んでそうだよね。
家族問題って、先天的なものと後天的なものに分けられる気がする。
自分は先天的な問題、つまり、子供のころから親や家庭や親戚がおかしいのがいた。
人の暖かさを感じられたことが希薄で、過労で体も壊したし、人間不信になっている。
それに女性に愛された経験というのが無い。母にも彼女にも。彼女を作ろうと努力してオシャレして何度か告白もしたが諦めてしまった。時代的立場的に結婚もできないしね。
それでも、この右肩が下がっていく日本と自分だけど、せめて少しは人間らしく暮らしたい。それでも人間をちょっと信じたい。生きててよかったなと思いながら死にたい。
いまは疲れ果てて生活リズムも狂ってて体重も減っててなんも行動できないけど。
それをシェアハウスのような生活に求めてるんだと思う。やったことないし、リアルな失敗談も聞くけど。検討ばっかりずっとしてる。
家族、結婚、友達、といった関係性の定義や形はどうでもよくて、従来のスタイルだろうが新しいスタイルだろうが構わなくて。今よりも少しでもより良い、地に足の着いた、人の暖かい、居心地のよい居場所を求めてさまよってる。
会社、不倫している友人、家族、ずっとわだかまりを持っていたが黙っていたものを、ここ1~2年で順番に、それぞれへのマジレスが済んだ。マジレスしたらスッキリした。自分のやるべきことがわかった。
大学を卒業したあたりから、自由にできる金が増え、反面人間関係が希薄になったことで、人を誘う手間を惜しんでひとりで映画をみることが多くなっていたのですが、この2年ぐらいは劇場で映画を観るときには人を誘うように心がけています。何もかも嫌になった日、授業や仕事をさぼってひとりで観にいき心を奪われた映画もとても大切だけれど、誰かと観る映画にも、昔の友人に電話をしてみるぐらいの手間をかけるだけの価値はあると思うのです。中学高校の頃、休みのたびに少ない小遣いを握りしめて映画館に向かったのは、鑑賞後に喫茶店やマクドナルドで、映画の話や映画とは全然関係ない話をするのが楽しかったから。両親に連れていってもらった『ジュラシックパーク』も細かい内容はほとんど覚えてないけれど、普段態度は大きいが実は気が小さい父が真っ暗な劇場でひときわ大きな声をあげて驚いたことは鮮明に覚えている。
第5位 劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語
第4位 地獄でなぜ悪い
第2位 パシフィックリム
第1位 キャビン
2013年の鑑賞本数は約80本(劇場20本、レンタル60本 含旧作)内、人と観た映画は1/3程度。
単純に面白かった映画の年間ベストとは別モノとお考えください。
友人A(男)と一緒に鑑賞。2日目初回。Aは既に初日初回に観ており、この日が2回目。
会場前の行列に並んでいる間、ほむらちゃん派のおれに対し「えらいことになるから、覚悟しときな」と言いながら遠い目をしていた。鑑賞後、劇場が明るくなり茫然としているおれにAは「・・・な?」とドヤ顔。劇場を後にする人の目がことごとく死んだ魚のように濁っていたのが印象的。
友人B(女)と一緒に鑑賞。
映画の冒頭「全力歯ぎしりレッツゴー♪」と少女が唄うCMが流れるところで「あんた、こういうの好きやろ」と喋りかけてきた。どうやら既に映画が始まっているとは思っていなかった様子。確かに好きです。鑑賞後は「劇場にあんたによく似た男がいっぱい居たな」と言われる。確かにいました。映画自体にはそこそこ満足した様子。
奥さんと一緒に鑑賞。初日初回。
最近は「ラブコメ以外は観たくない」と言いながら韓流ドラマばかり観るマシーンと化してしまった奥さんを無理やり連れ出して鑑賞。「超おもしろかった」とのこと。久しぶりに、映画を観たあと興奮していた。「主人公の生い立ちや過去を振り返るようなシーンが挿入されないのが潔くていい」と、普段楽しそうにみているソープオペラを全否定するような発言を繰り返す姿をみて「もしかしたら今後は、付き合いはじめた頃みたいにサスペンスやホラーも一緒に観にいってくれるかも?」と淡い希望を抱き、後日ためしに白石晃士『カルト』を自宅で一緒に観たが、こちらはお気に召さなかった。
同級生(女)と鑑賞。学生時代はいつもツンと澄ました表情を崩さず、どこか近寄りがたい雰囲気だった同級生(当時クラス委員長)(美人)(三つ編み)と、同窓会で再会 → ホラー映画話で盛り上がる → 一緒に観に行く? という夢のようなシチュエーション。
映画の終盤の大虐殺シーンで横顔をのぞき見ると、向こうも気がつき、目が合って、満面の笑顔にスクリーンの光が当たり、長いまつ毛がキラキラと輝き、その瞬間全ての景色はスローモーション、おれは高校生のころ夢中になって読んだ『グミチョコレートパイン』のことを思い出しながら「あ、これ走馬灯でみるな」と思いました。鑑賞後は「●●●●は出演する映画を選ぶべきではないのか」という話等で盛り上がる。真面目に生きていればいいことがある。
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今年は、誰と映画を観に行こう??
http://togetter.com/li/605410 コメント欄より
「不謹慎だ」と怒っていらっしゃる方々は、いったいどんな時に微笑むのでしょうか。何をしたら、笑ってもらえるのでしょうかねぇ。社主が大人しくなったら「ザマァ」とか言って笑うんですかね?それこそ不謹慎なんだけど、ブーメランの自覚ないんですかね。
namihei_twit 6 hours ago 4
(´-`).。oO(つまり、というか、むしろ、というべきか、言い訳、開き直り、をしているのは、組織票で真っ赤な人達の方、であろう、と。)
namihei_twit 2 hours ago
ツイッターのTLを見てみると、どういう性質の人が虚構新聞を支持しているのかよく分かる
https://twitter.com/namihei_twit
@namihei_twit
対処療法より体質改善。今、何をすべきか考えるのが好き。悪「者」
捜しは嫌い。■フォローはお気軽に。アンフォローもご自由に。こちら
も気分でフォローさせてもらってます。●固い呟きが多いですが、ユル
くお付き合いください。★突然のリプご容赦ください。
【@kyoko_np の件に思ったこと】「不謹慎だ」といつも何かに怒っていらっしゃる人達は、いったいどんな時に微笑むのでしょうか。何をしたら、笑ってもらえるのでしょうかねぇ。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 23
言葉の怖さを知ったこと、と、言葉を発することを怖がること、は、くっつけたらイカンよ。ヽ(´ー`)ノ10;皆が思い思いに好き勝手に発した言葉で、皆、日々、励まされたり、傷ついたりしてるんだからさ。10;10;RT @harukazechan いまは文章をつづることも、こわくなってしまった— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 23
「レイシストを許さない」で、いいの?10;10;「レイシストにはならない」10;「レイシズムを許さない、認めない」じゃないの?10;10;すごく細かいことを言っているのは重々承知なんだけど、違いが分からん、とか言われたら物凄く恐ろしいことなので。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 21
レイシズムは嫌いだし、レイシズムに反対だけど、レイシスト差別はよくないと思うわけ。10;10;貼りつけられたレッテルが「レイシスト」なら、差別していいの?10;10;それ、自己矛盾で自己崩壊しない?— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 21
@namihei_twitがRT
マスコミが猪瀬さんを執拗に叩くってのはマスコミにとって「邪魔者」かもしくは金を貰ってやってるってに決まっている。そこには正義などないよ。— ヒトラー総統 (@hitler_soto) 2013, 12月 18
@namihei_twitがRT
私は猪瀬知事の続投を支持します。10;10;なぜなら10;都議員の民主をはじめ無能議員が知事を責めあげ、10;マスコミが相乗りで猪瀬知事を攻撃しているから。10;10;これは10;「自分たちに都合の悪い人物を潰したい」という意図。10;10;この現象は10;マスコミと朝鮮の癒着という10;「暗黒の民主政権で学んだ」からです— sakuhana (@mina005) 2013, 12月 17
@namihei_twitがRT
結局のとこ、マスコミと我々民衆が都知事をやめさせるわけでしょ。で、たかだか5千万円の事で、都知事選で50億円使うと。— 金本茂 Shigeru KANEMOTO (@ssci) 2013, 12月 18
自己暗示をかけて殻に閉じ籠る、浮世離れしてるたぐいの方々が、ネットというツールのおかげで、あちらこちらで殻から漏れ出している、という。これも、可視化?見える化?みたいに呼んでいいのでしょうか?ヽ(´.. http://t.co/H0Snoq4suq— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 16
誰にも負けない強さを持ち、あらゆる相手を打ち負かす人など何処にも居ないと思う。10;10;全てに万能な人間など非現実的だから。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 15
しかし、あらゆる人から味方をして貰える人に成れたなら、どうだろう。10;誰にも太刀打ち出来なくてもいいのだ。10;10;勝負にならなくたって「敵無し」なわけで。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 15
相手を打ち負かし屈服させる力とは、自分を蝕んでいく負の力だ。 反撃に怯え、近づく者を拒み、敵を作り続け、自らを孤立させる力だと思う。10;10;適材適所で適度に使う分には構わないだろうが、自らの強さを誇示するため、敵を作っては打ち負かす、というのは愚かと言う他ない。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 15
メモ(一人言)10;10;性善説、性悪説、「性弱説」10;10;「状況の奴隷」10;10;発想の冒険10;10;未知への挑戦10;10;好奇心10;10;可能性— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 14
イイワケの域を出ていない。自分を奮い立たせるのは良いけれど、自分をよく見せるため自分が満足するためで、お客に満足してもらうためお客に喜んでもらうため、じゃないよねソレ。満足する部分もあればこそまぁ仕.. http://t.co/kbIAOQLbwZ— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 14
「こんな思いをしてまで自分では望んでない者になってるのに、アイツ等あんなに好き勝手にやりやがって、ムキー」10;10;(´-`).。oO(望んでないモノかもしれないが、あなたが選んだモノだよ。選ばせてくれなかった?今はもう選んで選り好みしても良いものだと認識してるよね)— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 14
https://twitter.com/namihei_twit/status/411692962871910400から
だから、人の目が怖くなるんだよ。 10;だから、面と向かって目を見て人と話せなくなるんだよ。 10;だから、相手の話に耳を貸さず、ひたすらまくしたてて逃げるんだよ。10;10;さらには、自分自身すら誤魔化すために「勝ち名乗り」とかあげちゃったりしてな。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 14
自分が「変な人ですね」って言われることが最高の褒め言葉だなんて思っているようなヤツだから、こんな変なヤツを好きだなんてどんな変なヤツだよ、と好感度が上がってしまうのだが。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 9
(コメ欄が本題からどんどん遠ざかっていってるけど、遠ざけようとしているのは誰か、遠ざかりたがっているのは誰なのか、目を背けているのは誰か、読んでる人達はちゃぁんと生暖かく観てますからね。シメシメとか.. http://t.co/nnug16JB0L— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 9
@azukiglg 誰も真相を知らないことをいいことに、見てきたかのようにデタラメを垂れ流す人には、どのように不幸が訪れるのでしょうか。知らないフリをしてはいるけれど、ソイツの言葉に根も葉もないことを知っている人は、しらを切り続ける以外無いのでしょうか。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 8
検証ができずホラ吹きの暴走が止められないと、何も知らない人は成す術なく間違った情報を植え付けられてしまう(信じる信じないはともかく)。秘密になっている情報が、過小評価や過大評価をして勝手に右往左往してくれるのは大歓迎、という類であればそれも良しなんですが。 @azukiglg— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 8
世界と繋がれない人、が居る。10;誰かの言葉にただひたすら従う人。自分で考えようとしない人、自分の考えで動くことに戸惑う人。10;一見、指示をする誰かの手足になることで繋がっているように誤解されるが、そこに自分という実体が存在していない、つまり、世界の中に自分は居ない、ということ。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 7
指示に忠実に動いても、自分の考えを挟むことをためらうことがあっても、自分の意志行動の決定を自分でしたうえでなら、そこに自分は存在している。10;自分の考えとして取り込み、自分の意志として行動する限り、私は私であり、私はここに存在している。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 8
「~してくれない」って騒ぐこと、騒ぐ人に付き合うことの、空虚さは、「~してくれない」と騒いでいる人の空虚さ、自分の無さや希薄さに通じていると思う。10;10;そこに自分が存在していれば「~してほしい」と言い替えれられる。10;10;そこに他人しか存在していないから「~してくれない」になる。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 8
誰かが相手をしてくれている間だけ、いや、誰かが自分の望む通りの相手をしてくれている間だけ、心が安らぐ。10;常に、自分に目を向け自分に対して時間を割き続けることを、誰かに求めているわけで、そこに際限は無い。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 8
保身に走って、自分が痛くならないうちに切り捨てよう、とか、この痛みを押し付けよう、ってするから、反発を受けるんだよねぇ。10;10;自分が相手にそんなことをされたら当然の如く反発し抵抗するのに、自分がそれをするときは反発するな抵抗するなと?10;10;どの口が言うか。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 6
アフィリです。
でも、全然働かなくてもいいので、この一ヶ月くらい、1秒も仕事してない。
ちなみにサイト量産(笑)とか中古ドメイン(笑)とかブラックなSEO(笑)とかそういうくだらないことはしてないので当分は安泰だろう。
金の話はもういい。
気力が無い。
生きてる実感が希薄。仕事はしてなくとも、勉強とかやりたいことはいくつかあって、それに時間を使っているのだけど、それの気力すら希薄。
結局、今日は朝起きて、外出の準備をして、外に出るのではなく、布団の中に潜り込んだ。それが許されてしまう(自営アフィリで年2千万だから)。
んで、なんか知らんけど、無職.com(http://musyoku.com/)というサイトにたどり着いた。
そこの日記を舐めるように見ていた。優越感を感じたかったのかもしれない。
でも、たいして優越感を感じることはなかった。
それどころか、この人たちの気持ちになんとなく共感してしまうことが結構あった(収入面に関する箇所以外で、だが)。
実際話をすると、話合わないなーとか、陰気くさいなーとか、あんまり深入りしない方がいいんじゃないかとか思ったりすると思うけど、根っこの部分ではかなり似てるのかもしれない。
一方でだ。
俺のfacebook見ると、皆威勢がいいの。起業家とか有名企業勤務とか有名大学生とかそんなんが大半を占めてるってのがデカいのかもしれんが、皆威勢がいい。
「某有名企業の○○さんとのご飯美味しいです!(笑顔でフォアグラを口に入れつつ、的な写真と共に)」
「○○さん(モデル級美人)と一緒☆(美女と肩を組んでる写真と共に)
「新しいビジネスの種、ワクワクします!(会社の仲間達と笑顔で集合、的な写真と共に)」
「資金調達しますた!(資金調達が掲載されたニュース記事へのリンクを付けつつ)」
こんな感じ。
吐きそうだな、こいつら。
別に悪い奴らだとは思わないけど、合わなさそうって思う。
人間関係があんまりないのが問題なのかもしれない。就職でもしようか?しかし、色んな意味で自信がない。
仕事を頑張ってて、充実してる頃はなんとなく自信もあった。でも、今は。
なんで仕事がうまくいかずに自信もなくなってるのに収入が増えてるんだよ。心のバランスが取れない。
もう2年こんな調子だ。
何も成長できてねーな。
この状況を打破するような、解決策を考えなくてはならないが。まず、問題がみえてこな・・・・くないか。
問題はいっぱいある。単に見たくないから、見ないようにしているだけな気がしてきた。
ボディブローのように深く響いてくる問題。
俺はこいつとやっていけるのだろうか。
・収入。
流れの速いITで何もせずに10年安泰ってのは普通に考えてないだろう。
新しい何かを考え、実行しないといけないな。
・こんなもん?
結局、金と女か。ここさえそこそこうまくいってりゃ、幸せなのかもしれない。
そうだよね。別に大好きな女優と結婚しなくても、事業で大成功して億万長者にならなくても、
普通に好きって思える人と結婚して家庭を作り、それなりに食べていける仕事をする。
最高に幸せそうだ。そう考えると幸せっていうのはそんなに難しくないのかもしれない。
やっぱFBとかで「資金調達しますた」なんてのが流れて来た日には「スゲーな。俺も・・・」とか一瞬思っちゃうし。
モデル級の美人と肩を組んでる写真を見ると、「可愛いな。俺も・・・」とか一瞬思っちゃう。
たいていの人は良い事とか、前向きな内容しか流さないし、それに対するコメントも良いことしか書けない雰囲気だし。
自己顕示欲の掃き溜めとか、見ていても目に毒だろ。無職.comの方が精神衛生上は良いわ。
まぁ、それはいいとして。
やべー、くだらん。
なんだか、俺の悩みがくだらない。なんでこうもくだらないのか、それを考えてみたいところだ。
「承認欲求」だな。それが足りなくてボヤいてるだけだ。
まぁ、結局こういうことなんだろ。
既婚者男性向けのお小遣いサイトを作った。
まだ執筆中の部分もあるが、
人間を一番パワフルにさせるのは「お金がほしい」「セックスしたい」この2つであると考えた。
他にも人によってパワフルになる要素は違うと思うが、
例えば「この漫画が大好きで考察を見てみたい!」というユーザーのためにアフィリエイトサイトを作っても、
いまいち展開ができないと思った。
私が知識量で特化したジャンルもないし。
いかんせん競合サイトが多く、飽和しきっているのでターゲットを絞った。
「お小遣いを増やしたい旦那さん」というのが今自分が置かれている境遇にもマッチしたのでOKとした。
この国は中流層なるものは存在せず、ごく一部の富裕層以外は「もっとたくさんのお金がほしい」と感じていると考えた。
これが問題で、現在の一つのASPでは全てカバーすることは難しく、
各ジャンルの業者に直接アフィリエイトを契約するはめになった。
さらに、ボリュームが出たのはいいが内容が思っていた以上に希薄になってしまった。
これは私が各ジャンルのことを勉強すればいいだけの話なのだが、
何か特徴がないとキノコれないと考えた。
サイトの見た目にこだわった。
見た目が悪くてほんとうに美味しい果実があっても、
見た目が良くないと買ってもらえない。
参考サイトを漁っていて思った。
綺麗で儲かるサイトを作れば良い話。
最も重要視したのはこれくらい
あといくつか気をつけたポイントはあるけど、また気が向いたら書きます。
よかったら見に来てください。
私には古くからの知人がいる。私用で久しぶりに遇い、互いにプライベートな話にも花が咲いた。
お互い我が子も社会人となり、そろそろ所帯を持つか、初孫の顔を楽しみにするか、という時期である。
が、知人の顔色は優れない。いささか酒も入って饒舌になっていたのもあり、何なら相談に乗るぞと持ちかけると、知人は「実は」と切り出した。
知人には娘がいる。名の知れた大学を卒業し、社会人となって数年。気の早い親ならばそろそろ「良い人」の一人や二人を期待する頃合いである。
が、今現在、知人と娘さんの関係は「ほぼ絶縁状態」だという。奥方とは連絡は取り合っているようなのだが。
事の成り行きはこうだ。
少し前、娘さんにも縁談の話が持ち上がった。父親である知人と同年代の私が言うのもなんだが、娘さんは気配りの利く、嫋やかな女性である。
あわよくば私の長男の所へ来てもらえまいか…などと夢想していた事もあった。
脱線した。結論を書く。この縁談、知人の軽はずみな言動が原因で破談となってしまったのだ。
二度目か三度目の、お相手の男性、娘さん、知人夫婦と四人揃ってのレストランでの事だったという。男性のご両親は遠方にお住まいだが、関係は良好だった。
そこで知人が口走った事は、ひいき目に見ても相手の激昂を誘うような言葉ではなかったと、今も私は思っている。
しかし、お相手の男性は違っていた。男性は一万円札をテーブルに数枚置いてさっさと立ち去ってしまったのだという。
後に残るのは、突然の事態に追いかける事すら忘れ呆然とする知人夫婦と、泣き崩れる娘さんの三人。それ以後、お相手の男性とは断絶状態。携帯電話まで解約されているらしい。
何と不幸な出来事であろうか。娘さんを溺愛していた知人のお眼鏡にかなう人物だ。きっと身持ちのしっかりした好青年であった事だろう。
私に娘は居ないが、手に入りかけていた我が子の幸せを、自らの不注意で駄目にしてしまったのだ。どれほど不幸な出来事であるかは想像に難くない。
背広姿でごった返す週末の安酒場で、人目もはばからず号泣する知人をなだめつつタクシーに押し込み、その日はお開きとなった。
前置きが長くなった。ここからが本題だ。
後日、仕事の関係で、若者の文化や価値観などを長年調査している大学の先生のお話を伺う機会があった。
せっかくなので、私は前述の出来事を(知人や娘さんの名誉のために各所をぼかしつつ)話してみた。
頭の固い私は「キレる若者」的な反応を幾分予想していたのだが、「ここ数年、温厚で理性的な人ほどそういう傾向がありますね」と、先生はこともなげに答えた。
「特にデスクワークが主な非正規労働に就いている若い人というのは、現状の人間関係や仕事にしがみついたり、周囲の反感をいとわずよかれと思った事をする、という価値観が希薄な傾向があります」
何故なのか。
「非正規労働者は、雇用側が必要無いと判断された瞬間に切り捨てられる存在です。労働法規上は色々と制限はありますが、残念ながら現状機能していないに等しい。法改正もあって、そういうワークスタイルに慣れている、もしくは、社会人になった当初からそういうワークスタイルしか知らない若者が近年激増しています。つまり、切られる事に最初から抵抗がないどころか、上の都合であっさり切られるのが当たり前になっているのです。そのため、自らもまた、些細なことで人間関係や所持品を切り捨てる事に抵抗がないのです。近年スマートフォン等による独特なコミュニケーション文化が若者に人気なのも、『いつでも捨てられる安心感』に満ちた道具に見えるからなのではないでしょうか」
思い当たる節がある。知人によれば、前述の男性は、特に感情的になった様子もなくその場を去ってしまっていたという。そして彼は、ちょっと特殊な技能に長けた、年単位で勤める会社を変えている人だった。
この手紙をどうはじめたらいいだろうと蝉の鳴き声もかまびすしい夏からずっと考えていましたが(伝えるって本当に難しいです)、結局気の利いたすばらしい挨拶が見つかりません。ですから、はじめまして、小鳥さん、とだけわたしはいいたいと思います。あなたに伝えたいことがあって今回このお手紙を書くことにしました。突然のことで申しわけありません。
*
あなたはまず思ったことでしょう。お気に入りの自転車のかごに放り投げられた、飲み口にまだ内容物のこびりついている中途半端につぶされた空き缶みたいな不躾で無礼なこの恋文を送りつけてくるわたしが誰なのか。
わたしは現在36歳、独身、職歴なし(アルバイト歴はあります)、童貞、アニオタ、精神のほうをわずらっており、精神障害2級、まったくありがたいことに障害基礎年金も受給させていただいており(2級。786,500円/年)、日々社会復帰に向けて努力している(作業所で時給200円で働いております。内職系の作業です)日本に確実に数%は存在するありがちな中年男性です。若いころのあだ名は塩昆布です。キモオタAAを想像していただければおわかりになると思いますが、この世の悪意を集中的に浴びてきたせいか皮膚が月面のクレーターのようになってしまっており、細身という点ではまだ社会的に許容されうる生物なのかと思ってはおりますが、実際かなりの醜男です。野良猫に般若の面をかぶせて火をつけてみれば、野良猫はおそらく面を残してなに食わぬ顔で逃げていきますが、ちりちり灼かれていくその面に残った放火魔の殺意と怨念と哄笑こそがわたしの顔からにじみ出ているといってもよく、わたしはそのような人間とは正反対の人見知りでおとなしい男であるにもかかわらず、買い物先のイトーヨーカドーで出会った幼児には顔を見るたびになにか恐ろしいものでも見たかのようにびくっと反応され、かならず泣かれてしまうのです。
小学生のころから容姿をからかわれいじめられてきたわたしは他人に自分の姿を見られるのが恐ろしく、友人も恋人も作らず、いや、作れずといったほうが正確でしょうか、人生に絶望し、引きこもり、勇気を出して面接に行っては人事担当にお祈りされ、ついに自殺未遂をしたあとでは、家族にもうなにもするなといわれ、こうやって小鳥さんのことを考えて毎日すごしています。小鳥さんの腋を見ると、わたしのあのひからびてしまった棒状の物体(その先は言う必要ないですよね)も突如として復活し、さらさらとしたそれでいて粘性のある透明な液体が山奥の新鮮なわき水のようにちょろちょろとあふれてきて止まりません。そんなしょうもない中年のわたしですが、小鳥さんは「わたしでしていいよ(・ω<)」といって顔をほんのり赤らめほほえんでくれます。ああ、なんて天使なんだ!
「小鳥のやつはさ」と鉄男さんは眠たげに足を組むと、たばこに火をつけていいます。「遊馬のことが好きなんだ。だけど遊馬のやつはED(勃起障害)でさ。超越論的跳躍(かっとビング)しすぎた副作用らしいけど。小鳥も酬われないよな」
「わたしは遊馬のことが許せませんよ。小鳥さんを情熱的に愛撫すべき立場にいながら、なめらかな肌といやらしい声と絶妙なチラリズムの天使を無視して、蜜蜂のように扱ってはしっしっと追い払ってしまう」
「そこなんだよ。たしかに処女膜から声は出ていないが、間違いなくあいつは処女だぜ。でも遊馬はEDなんだよ。詰みだよ、詰み。チェックメイト。E、N、D」
「EDになってから幽霊(アストラル)が見えるようになったとか」
「霊感商法ってやつだよ」
「まったくひどい!」
「その通り」鉄男さんはそういうと、たばこを排水溝にはじき飛ばして立ち上がり、ふうとため息をつきました。その背中がとても男らしかったです。
鉄男さんは遊馬と親友という噂でしたが、実はそれほどでもなく、微妙な距離感を保っているらしいですね。ちなみに鉄男さんには璃緒さんという統合失調症の未来の恋人がいるらしいので、小鳥さんには興味がないということでした。よかった!
*
わたしは小鳥さんの魅力を語りたいのです。
*
まずは腋です。小鳥さんはことあるごとに片手を突き上げてその美しい腋を全世界に全宇宙に見せつけています。小鳥さんの腋のくぼみ方はミケランジェロも参考にしたといわれるほどの芸術的な曲線美で、腋汗が溜まりやすく、舐めると南国の風の爽やかさとやや辛めの塩味が感じられてとても美味です。安い発泡酒を飲みながらちびちび舐めるのがとくに好きで(まずい酒のほうが腋汗のうまさが引き立つ)、まるで食べて応援することによって日本社会が皮肉っぽくも明るくなるように、わたしの鬱々とした気持ちも小鳥さんの腋汗によって応援されるようなのです。鬱病患者に「頑張って」は禁句だと世間はいいますが、それは世間のしょうもないオッサン、オバハンからの善意という名の嫌がらせについていうものであり、火星の砂粒やミトコンドリアすら愛するような天使からの励ましはわたしを勇気づけてくれます。「増田くん、頑張って!」「いいですとも(`・ω・´)」
鉄男さんは小鳥さんの腋について以前こうおっしゃっていました。
「小鳥の腋はすげえよ。おれが小鳥に決闘(デュエル)で勝てないのはあれのせいなんだ……」
「というと?」
「見たらわかるだろう? あの肉感的な陰翳、くぼみに渦巻く官能的な黒い風。あの腋が生み出す磁場はファルスを屹立させる特殊効果を持っているんだ。おれは決闘に集中できなくて、それでどこに意識を集中してるかっていったら……」鉄男さんはちっと舌打ちすると、それにつづくことばをためらっているようでした。
「なるほど。でも鉄男さんは璃緒さん押しなんですよね」
「もちろんそうさ。璃緒さまは小鳥とは違うよ。璃緒さまは性的なものを超越していらっしゃるからな。でも小鳥はやばい」
「ですね」
「小学生のころ、夢のなかに小鳥が出てきてさ、『鉄男くーん』とかいって頭の上で手を振ってるんだよ。まだ毛も生えてこない腋がちらちら見えてな。そしてあの磁場がおれのファルスにとりついて、シェイクスピアの生み出したあの世紀のアホ、リア王とでも比べればいいのか、情けないことにおれは下着を濡らしてしまった! とんだ娼婦だよ、あの女は!」
「でも、その……、よかったんでしょう?」
「まあな」鉄男さんはそういって照れくさそうにくすくす笑うと去っていきました。こちらを振り返らずにあばよと手を振ってよこしたのが夕陽の逆光のなかで見えました。
おそらく小鳥さんの腋からはなんらかのフィールド魔法が自己言及的に発動していると思われます。腋が下半身に絡み付いてくる、ちょうど異星人の触手が美少女戦士をしめあげて離さないように。そこでわたしは腋地獄という概念を提唱しました。小鳥さんの腋はバウムクーヘンのように七層構造になっていて、そのそれぞれが自律的に動いています。そして腋全体も螺旋状に回転していて、ちょうどウロボロスの蛇のように、リビドーが第七層の腋まで達すると今度は第一層の腋に連結され、循環され反復されることによって小鳥さんの腋地獄はさらに磁力を増すのです。もがけばもがくほど深みにはまる底なし沼、負ければ負けるほどやめられないギャンブル、呑めば呑むほど呑みこまれるアルコール。そうです、小鳥さんの腋とはあらゆる依存症のメタファーなのです。小鳥さんの腋はやめられない。前立腺の指圧師! 快楽の大銀河!
*
つぎに太ももについてです。これについても新概念を導入しましょう。それは不可視のパンティです。あるとき鉄男さんはつぶやくようにいいました。
「なあ、増田ちゃん」
「なんです、鉄男さん」
「お前、見えてるパンツをどう思う?」
「どうってどういうことです?」
「いやな、おれくらいになると見えてるパンチラに興奮しないんだよ。わかるかな。見えてるパンツはただの布だよ、増田ちゃん」
「メモっておきます」わたしはあわててオタク風の黒いリュックサックから黒い手帳と黒ボールペンを取り出しました。「でも、パンチラとは見えるからチラなのでは?」
「そこなんだよ、増田ちゃん」鉄男さんは少々呆れたように笑います。「パンチラとはいうが、チラってしまえばパンチラではないんだ。パンチラとは一種のパラドクスのことなんだよ。パンチラとは非パンチラのことだ。おれたちはその見える“かもしれない”という可能性に人生をかけているのであって、布に人生をかけているわけではないのだ。見えそうで見えない、でもよく見ると見えているかも、いや、見えていない。それがパンチラというものだ。わかるかい、増田ちゃん」
「うーむ。なるほど。あ、すみません、鉄男さん。このボールペン、インクが出ないのでメモれません」
「書けないボールペンとな!」そういって鉄男さんはぼくの手からボールペンを引ったくると大事そうにズボンのポケットにしまいました。「見えないパンティこそ美しい。書けないボールペンを使えば時空の果てでも恋文が書ける。そして璃緒さんはうるわしい!」
わたしは小鳥さんのパンティを見たことがありません。あ、どうか勘違いしないでください。わたしは見たいと言っているのではありません(それでは変態さんですね)。見えそうな状況でも見えないということが小鳥さんの魅力だといいたいのです(しかし絶対に見えていないともいいきれません)。小鳥さんはパンティを見せないことによって、自分の存在が布へと矮小化されてしまうことを一種のヒロイン的生存本能によって防いでいるのです。布ならば手に取りじっくり見て分析し解釈し考察することもできますが、小鳥さんはそのような研究対象から逸脱した、科学的な尺度によっては測ることのできない超越者だということなのです。小鳥さんの太ももには慈悲があり永遠の平和がある。そこにわたしは神を見たのです。
*
小鳥さんはとても明るく元気でまるで熱帯雨林のように表情豊かな方です。明るい陽射しのなか丘の上に立ってこっちに手を振って鈴蘭のように笑っている顔も、土砂降りのなか服をびしょびしょに濡らして蒼白になって泣いている顔も、誰かさんのテストの点数のように真っ赤になって恥ずかしがっている顔も、遊馬を心配している顔も、感じている顔もすべて素敵です。そしてその表情のすべてが一回きりのもので、ふたたび同じ表情が現れることはありません。小鳥さんの表情は数によって大小を示せるようなものではなく無限そのものなのです。これは誇張でもメタファーでもありません。小鳥さんの顔は見ていて飽きません。
「増田、おい増田」誰かと思って振り向くと雑居ビルの影から鉄男さんが呼んでいました。
「鉄男さん、どうしたんですか。てか、そんなところでなにやってるんですか」鉄男さんの首にはひもがかかり、その先端にカメラがぶらさがっています。
「いいからこっちこいって」あの穏やかで紳士な鉄男さんがいつになく興奮しています。
雑居ビルの影に隠れると、わたしは十数枚の写真を渡されました。そこには璃緒さんが写っていました。
「美しいだろう?」
「きれいなひとですね。で、なにやってるんですか」
「これから璃緒さまが病院に行くんだ。ここはその通り道になってるってことだ」渡された写真をよく見てみると、どの写真も雑居ビルの薄汚れた壁と特徴的なお掃除ロボットが写っていて、まさにこの場所だとわたしにもわかりました。璃緒さんは写真ごとに異なった服装です。
「璃緒さま、今日はどんなお洋服なんだろうな」
「鉄男さん、これってストーカーってやつでは?」
「おれには愛がある!」
璃緒さんの無尽蔵の洋服が鉄男さんのコレクター魂を刺激し惑わせ堕落させたように、わたしも小鳥さんの表情に吸い寄せられ離れられなくなってしまいました。でもこれは愛なのです。
*
小鳥さんの声はわたしの敏感な部分に海底トンネルのようによく響きます。よくあるきんきんした味気ないテンプレート的萌え声ではなく、ロリであるにもかかわらずエロいという特徴があって、少女として見ると大人っぽく、大人として見ると幼女っぽいという絶妙なバランスとなっております。尿検査では中間尿を採取しますが、それと同じようにわたしたちが最も注目すべきなのは、少女でもなく大人でもない、その境界線を肉付きのいい脚でまたぎ、ふくらみかけの乳房を突き出しながら居心地悪そうに立っている半熟の女の子なのです。小鳥さんの声はまさにその時期を繊細に表現しているいってもよく、この世でもっとも貴重な声のひとつであるとわたしは断言いたします。
*
最近の女子は料理が作れなくなってきたといわれています。そんな現代社会ですが、小鳥さんは決闘飯(デュエルめし)を作ることができるとても家庭的な素敵女子なのです。小鳥さんの体液、通称小鳥汁がしみ込んだ決闘飯とはいったいどんな味がするのでしょう。鉄男さんによれば、小鳥さんの決闘飯は「バイアグラの味」だそうです。
*
ああ、どうしましょう、くだらないことを書いてしまいました。申し訳ありません。わたしはどうしたらいいのでしょう。生きているとつらいことばかりです。すべてがむなしいです。幼女を見てもかわいそうだと思うようになってしまいました。こんな不完全な世界の重圧をその春風のような無垢なほほえみで受け止めなければならないなんて。世界はグロテスクで悪臭を放っていますが、迷信のごとき科学技術や洗練された(!)法治主義社会がたくみに見せかけの清潔さで覆い隠してしまいます。それは合成着色料のようで、すべてはフォトショップ的ともいえる一種の嘘で塗り固められていて、どこにも真実はなく、しかし虚偽すらなく、ただひたすら軽薄で浅薄で希薄で、原初の一点から湧き出たあの宇宙的エネルギーはどこにいってしまったんだと、この時代の無意味さ、無価値についてわたしは考えるわけですが、わたしのそんな行為ともいえない似非行為すらまったく意味のないことで、わたしが死ねばすべてはどうでもよくなるのだと思ったりもするのです。
しかし自殺しようかなと思ったときに毎日小鳥さんがわたしにほほえみかけてくれます。「増田くん、超越論的跳躍(かっとビング)よ!」なるほど、たしかにわたしの眠っていた愚息は雪融けのように感動的な反応を見せ、天上の世界(アストラル界)を目指してぐんぐん伸びていきます、蛇玉さながらに。そしてわたしは今日も生きようと思うのです。EDになるまでは。小鳥さん、あなたが存在していてくれてありがとうございます!
あくまで人づてに聞いた話なので、どこまで本当か分からないけど、ある大学のサークルで、秋入学でやってきた中東出身留学生(イスラム教信者)に酒と豚肉の飲食を強要させたってことで大問題になっているらしい。
ことの顛末はこんな感じ。
2013年に秋入学でやってきた日本文化(というかアニメ)が大好きな留学生M君が、オタク系サークルに思い切って入部。
不慣れな日本語を使いながらも趣味を通じた友情をはぐくんでいたと思っていた時期に、学園祭の打ち上げがあり、まぁパーティの一種ってことで興味がてら参加。
そこで、ジュースとサラダしか食べないM君をみかねて?か、友人(だと思っていた)男子学生Aが、
「ここは日本でアラーも見ていないし、酒と串カツたべちゃえよ笑」と軽口をいったところ、
「絶対うまいから食ってみろよ、他のイスラム教徒も食っているんだから」と学生B、Cもこれを扇動。にっちもさっちもいかなくなり、串カツを食べなければならなかったらしい。
実際には食べたふりであって、そのあとすぐにトイレに行って吐き出したらしいが、留学生M君はそれ以降、サークルに行くこともなくなり、また、ふさぎ込んでしまい帰国を考えているとのこと。
上記の事件の話をしてくれた友人Rは、そのM君のチューターで、とりあえず、これを学生課に報告、またそのサークルに怒鳴り込みに行ったらしいのだけれど、学生Bからは謝罪と同時に
「けど、Mも豚肉美味しいって言ってたましたし・・・(注・改めて書くがMは食べてない)」と言われたらしく、その信じがたいほどの宗教タブー意識の希薄さ、非常識さに愕然としたとも言っていた。
まぁ、ハラール表示とかもないので、日本では日本人と普通に飲食すること自体、ハードであり、M君はそこら辺の疎外感もあって帰国したがっているらしいのだけれども、
それにしても、2chのコピペを信じた馬鹿に宗教のタブーを破らされて更に美味しいとまで言わなければならなかったM君の気持ちを考えるとほんと悲しい事件だなと思う。
なんかその学生たちに、ペナルティとかないのかなぁ。不公平な気がする(なお、学生課からは、宗教問題には立ち入らないのでと返された模様)
追記 翌日、友達Rと一緒にM君に会ってきました。
追追記 M君はいったん帰国となりました。
結婚して子どもが生まれてでも仕事は毎日続いててみたいな生活が何年か続き、どんどん自分っていう個の部分が希薄になってきていて主にそれは家族を守りたいとか家族のために生活することは楽しいしやりがいがあるという気概が原因なので良いことだと思っているのだが、ふと、一人の時間が昔より少なくなったなと思い返していると「なあ、自分だけのこと、やりたない?」ともう一人の自分というか自称ライフアドバイザー的なやつがなぜか関西弁で聞いてくる。こいつは怪しげなマジシャンみたいな格好(イメージ)をしており、人生という名の列車に乗って安穏と毎日をすごしている僕のところにたまにやってきては、いらん事をいう。
前に来たときは「チャリとかええんちゃう」と言われて僕は気づいたら自転車を買っていた。もちろん自転車が悪いってことじゃなくて8段変速のBellissimo 8speedをとても気に入っているのだが、僕は何故かこの変なアドバイザーの言う事を聞いてしまうことが多くて自分で呆れる。(ユングだったらエゴの象徴で変な格好をしているのはトリックスターが云々とか言うのだろうけどそんな大層なもんじゃないことは本人が一番分かっている。)
何かをやりたいのかと聞かれたら確かにやりたいんだけど、「家族を放置せずに自分の為になってかつ楽しい個人的なこと」なんていう条件を満たすものは少なくて特に楽しいことって基本的に家族をある程度放置しなければできないことが多いので躊躇してしまう。というか「その時間があったら家族のため(主に3歳の息子のため)に使うべきだガネ」というONE PIECEのMr.3みたいなやつ(メガネ着用)も自分の中にいるし全く困ったものである。
子供がさらに成長したらこんなことは言っていられないし奥さんこそ自分の時間が必要だし、「そもそも自転車があるじゃないカネ?」とかMr.3は痛い正論を言うしそろそろまとめないといけないのだが、世の人ははどうやって自称ライフアドバイザー(関西弁)と折り合いをつけて(押し切って)いるのだろうか。「僕は(私は)これで黙らせた!」的なエピソードがあったら聞いてみたい。
(まずは自転車だガネ)
今週末は乗りまーす!
ゆるキャラをみうらじゅん氏が取り扱い始めたころのことを思い出してもらいたい。
みうらじゅ氏は、「いやげもの」という価値基準をもうけて、もらっても困るたぐいのおみやげを集めていた。
文句をいうわけでもなく、「なんだかいいね」という評価を下すために集めていた。なかなか凡人にはできないことだ。
普通ならば、価値がないといって取り付く島もないところだが、「なんだかいいね」といって集めていた。
そんな当時のゆるキャラは、残念ながらマーケティング的には、効果を発揮していなく、仕事はしているけど、お金を生む状態ではなかった。
多分、マーケティングの訓練を受けていない人が急に白羽の矢を立てられて、やっていたのだと思う。
ちぐはぐで突拍子もなくて、誰も得しない感じ。うっかりすると業者に乗せられてお金だけを取られてしまう。
そんな感じのところもあった。
このシロウト同然のマーケティングのお仕事を手伝うとお金になることに気がついた人がいた。天才だと思う。
村おこし、町おこし、県おこしで、公的な機関からそれなりの金額のお金が出る。
お金を支出するほうも効果がない使い方では、たたかれるので、それなりのプランを提示してきたところにまかせたい。
シロウトは、思いつき、鶴の一声、お金をかけずにできること、これまでやっていたことのようにマーケティングのプランとしては戦略性が希薄なことをしてしまう。
それに比べるとある程度マーケティングの訓練を受けた人や会社の仕事は、一貫した戦略があるためにそれなりに効果を発揮する。
でも、お金がないとできない。
お金がないと、人に依存する構図になり、当たるときは一気に当たるが、こけるときは人もろとも崩壊する。
あやうい運営になってしまうこともある。
グレーゾーンを白として攻めていく力がある。
地域のお祭りにぜんぜん関係のないコンテンツをぶち込んだりする。関係性はないけど人は集まる。
さらに口コミをお金で作ったり、ブクマをお金で買ったり、日雇いで行列を作ったりのようなグレーゾーンのお仕事に抵抗感が低い。
それを仕事にする会社もあるのだろう。多重下請け構造を作って、ばれたら尻尾を切る用意も忘れない。
ゆるキャラにおいてもプロが介在すると、グレーゾーンを攻めてくる。
役所で朝一の仕事がコンテストへの投票になったり、出入りの業者にも協力をお願いする。
道義的にはハテナがつくが、投票のルールが守られているので、インチキではない。
このグレーゾーンを攻める強さがプロであり、シロウトとは価値観がことなる点だ。
プロの仕事としては、バイラルマーケティングはありのスタンスだろう。集客目標を達成する必要もある。新聞・テレビに取り上げられように花火を上げ続ける必要もあるのだろう。
久しぶりに来てみたら、
この前書いた記事にたくさんブックマークついていた。
twitterのコメント見てると、批判であっても的を得ているので元気がでるのだけど、
・エビデンスを示せ
・一般論で語るな
というコメントがとても多いのだが、
証明しても反応なし、
エビデンスを示しても反応なし。
時々長々と反論書いてあると思ったら、
途中で間違いに気づいたのか削除されてたり。
そもそも科学論文じゃないんだから一般論なんか最初から書くつもりねーし。
こういうコメントするやつって、
何考えてるのか、何したいのかよくわからんけど、
言動から察するに、
少なくとも人を負かすことに喜びを感じているように見える。
かと言って議論は時間がかかって面倒だし、
誤字脱字とか、一般論言うなとか、勝ち目がある(?)コメントだけしていく。
議論する能力がないので、戦って負けそうになると逃げる。
政治やビジネスにおける責任の所在の曖昧性は長らく日本批判として存在しているが
趣味では音楽製作をやる傍ら、プログラミングやWebデザインの仕事を請けてきた。
自分自身の人間レベルがまだまだ足りない、まだ頑張れると思って就活はしなかった。
結果として、私は大学院に進学した。
だが、それが失敗だったのだと思う。
そして、研究室の学生もそれぞれ研究分野が殆ど異なっており、私が決めた研究分野に近い先輩などもすでに卒業して居なくなっていた。
研究室といえば普通先輩が後輩に指導して進捗を報告するようなイメージがあったが、指導するという習慣もなく、報告する会も一切なかった。
それどころか、一部の先輩同士の仲が悪く、両方の先輩からしょっちゅう片方の先輩の愚痴やネガキャンを聞かされた。
その代わりに、週一回合同ゼミが開かれていた。
ゼミでは他の学生の進捗発表が行われ、教授がそれをフィードバックするものだった。
私の研究室の学生は、他の研究室の教授から一方的に攻撃を受けていたし、一方でその教授陣は目に見えて自分の研究室の学生には甘かった。
そりゃそうだ。自分の指導が必要ない、自分の責任の無い学生に対しては何とでも言える。
論文の読み方や先行研究の探し方なども自己流で見よう見まねでやってみたが、全然要領を得ていなくて、どう勉強したら良いかも分からなかった。
そのまま修士2年になった。
仕事は依然として充実していたし、忙しくて断ることもあるくらい困らなかったけど、大学院での生活は本当に苦痛だった。
どうしてこんなに仕事に打ち込んでいたのかというと、ひとつは家計が苦しかったからだ。
他の金持ちの学生と違い、私の実家は田舎にあり、学費を払うのも精一杯、生活費はとても……という状態だった。
ましてや、実家で親が会社と揉めて、最終的に弁護士沙汰になって退職することになった。
だから、そんな状況を打破してやろうと思って、仕事に打ち込んだ。
バイトなんかしなくても学費生活費全部貰って大学に行ってる他の学生が妬ましくて、悔しくて、だけどそれがバネになって頑張った側面もあったと思う。
就職活動は2日で内定が出た。今までの実績と開発したものを見せれば一発だった。ITでは日本で指折りの会社だし、一生働きたければ働ける規模の会社だ。
しかしその代償として、仕事はまぁまぁできるが研究は一切できない大学院生が出来上がった。
「このままじゃ本格的にやばい」
そう思って、僕は仕事でやっていたWeb開発のスキルを活かして、その延長線に研究を持ってくることにした。
みるみるうちに画面ができ、機能もでき、サービスとしても研究としても良い感じだと思った。
「研究じゃなくて開発じゃない?」
「独自性はどこにあるの?」
「サービスとして完成させることに集中しすぎて、研究になってない」
などのコメントを貰った。
全部ごもっともだ。
趣味の目的が逃避になり、創作のようなエネルギーを使うものは一切出来なくなった。
試しに何度か試そうとしたけど、自分が自分で無くなったかのように、何のアイデアも湧いてこなかった。
結果として、私は創作関連のコミュニティからだんだん疎外されていった。
クリエイターとしての私は好きだった人は、私がクリエイターでなくなった時点で興味を無くした。
学部時代の友人は卒業したし、サークルは完全に遠ざかって今更関わることも出来なかった。
人間関係が狭く固定化され、希薄になっていくのがよくわかった。
今まで仲良くしていた人がSNSとかでも全然反応してくれなくなるのが、本当に辛かった。
そして、年明けには修士論文を提出しないといけない。
云われた内容を元に研究っぽく体裁を整えたものの、全然結果が出ないし、そもそもその結果の評価方法が良く分からない。
先行研究の劣化コピーを実装し、偏りまくったデータを元に研究の真似事をでっち上げて、一体何になるのか。
このまま成果出せなかったらどうなるんだろう?
そうなったらもう首括るしかないよね。
どうして研究せずに仕事ばっかりやったんだろう。どうしてこんな研究室に来たんだろう。
全部自業自得だよね。
もう嫌だ。しんどい。やめたい。
以下本より引用
僕の知人によく交通事故を起こす男性がいた。彼は「自分は運が悪い」といつもこぼしていた。彼に事故の話を聞くと大抵の場合、彼は悪くないように感じられた。しかし、実際に彼の車に乗ったら、事故を起こす原因がよくわかった。例えば、彼は自分が直進しているとき、対向車が右折しようとしてセンターラインを超えても、まったくよけようとしない。直進する自分の方が優先車両だと思っているからだ。彼は「交通ルールを守ってさえいればよい」という考えの持ち主だったのだ。
だが事故を起こさない人はどちらが優先車両かということを考えつつも、危険を回避する運転もしている。だが、彼はそういうことをしない。その上で、自分と他の人の運転の差に気づかずに「自分は運が悪い」といっている。彼が自分の運を嘆いているうちは、交通事故をしょっちゅう起こすという運命は変わらないだろう。
だが、なぜ彼はそのような運転をしているのだろうか? それは簡単で、彼は自分の運転の仕方にメリットを感じているからだ。
彼にとっては正しいことが重要である。相手が正しくない運転によって自分を事故に合わせるなら、とことん相手を攻撃しようと考えている。彼は間違った運転が許せない。それにより、自分がスピードを落とすことは理不尽だし、相手が間違った運転をしたら、正しい運転で懲らしめようと思っているのかもしれない。だから、危険を顧みずにスピードを上げるときさえある。でも、彼は自分なりの「交通ルール」にのっとって運転をしているのだ。
つまり、彼の考えの根底にあるのは、1つはルールを守っている人間が正しくそれ以外は悪だということ。もう1つは安全に関する考えの希薄さだ。彼は車を運転するときのリスクをまるで考えていない。それ以外のメリットだけに囚われて行動をしている。
そして、彼は自分の運転が危険であること、なぜ危険な運転をしてしまうのかという先に述べたような理由に根本的にきづいていない。おそらく指摘されても変えないだろう。彼がよく事故を起こす理由は生まれるべくして生まれている。
彼には長い時間が必要だろうが、いつかは安全運転をするようになるだろう。なぜなら、年を重ね、社会的な地位や家族を得たとき、事故を起こして失うものの大きさに気づくに違いないからだ。助手席に妻を乗せ、後部座席に子供を乗せてもなお危険を冒すとは考えにくい。彼は事故によって失うものの大きさに気づいて、ようやく細心の注意で運転するようになるだろう。仮に、彼が妻子を得てもなお運転の仕方を変えなかったばあいでも、交通事故で子供を失うなどの経験をすれば、その痛みから安全運転に目覚めるようになるかもしれない。あるいは車の運転そのものをやめてしまうかもしれない。
これまで彼は、事故を時々を起こしても、その運転にメリットを感じていたが、あるときから「何がメリットで」「何がリスクか」という状況は変わっていく。言い換えれば彼の中でメリットやリスクに関する考え方が逆転しない限り、彼は変わらないのだ。
~以下恋愛でなぜ同じ失敗を繰り返すかという話が続き、そのあと
しかし、恋愛に限らず、人はいつも同じ失敗を繰り返す。その理由は知人の車の運転方法でも述べたが、人が生き方を変えられない点にある。人はある生き方を好んで選択している。その生き方があまりに心地いいので変えようとは思わない。変えようとしないから自分の失敗に気づきにくいし、気づいていたとしても、よほど痛い目にあわないと、自分を変えようというエネルギーが湧いてこない。
例えば、いつも余計な一言を言ってしまう人がいるが、それによって自分が誰からも距離を置かれるという不利益があることに気づいていない。気づいてもそれを大したこととは思っていない。「言われる人間が悪いんだろう?」「本当のことを言って何が悪いの?」などと思っている。そして、余計な一言を発することで、その人は相手を思い通りにしたり、自分が相手より優れていることを示したり、相手を正確に評価できる能力を誇示できたり、あるいはストレスを発散するという、本人にとっての大きなメリットを得ている。
一言多い人が、心から自分を変えようと思うのは、要らぬ一言によって何か痛い目に合ったときだ。余計な一言で友達全員から無視される日々を送ったり、大切な恋人を失ったり、会社で信用をなくすといったことがあれば、その人は言葉に気をつけようと本気で思うチャンスを得る。人は痛みを覚えたときこそが、自分の間違いに気づくチャンスだと思う。
働く女性が増えているとの番組が多いですが、子どもの思いが1つも取り上げられない事が、悲しいです。
保育所を増やすばかりが重要と、声高に語る政治家や企業。生まれる前から預ける事しか頭にない母親。せめて、自分の思いを言葉にできる小学生位まではゆっくり過ごしてはいけないのでしょうか?長時間預けられている子どもはゆったりした家族の時間を知らずに育っていくのでしょうね。病気の時まで預けられ、親子関係が益々希薄になりそうです。乳幼児が振り向いた時に、そのまなざしを受けとめてくれるのは親ではなく保育士なのですね。寂しく思います。
番組内で働く女性を「両立」と表現していましたが間違いと思います。保育園に預けた段階で「両立」ではありません。一日の大半は保育園でその間は子育てしていないのですから。預ければ母親と接するのは子供の起きている間で2、3時間程度です。
それを「両立」と表現されては、一日中、大変な子育てを自分でしている母親に失礼です。
子育ては立派な仕事です。自分で子育てしている母親は、お金を稼ぐお勤めをしていないだけで、仕事はしているのです。
私は元小学校教員です。授業を妨害したり思春期になったらこの子は大丈夫かな?親は何も気づいていないけど・・・という子供は父親の収入で生活できるのに、母親が外でお勤めをしたくてしている子が大半でした。例外は祖父母と同居、またはすぐ近くに住んでいて「おばあちゃんがお母さん」になっている子でした。やはり、健やかな子育てには子供を第一にする大人が誰か必要なようです。
『馬鹿と言う人が馬鹿』 これはもう疑いようのない事だと思う。
これについてこれから度々考察し、匿名ダイアリーに書くことにしようと決めた。自分の考えをまとめて整理する為だ。
この『バカとゆう人がバカ』といった言葉に、最初に出会ったのはいつであったであろうか。
過去を遡れば小学生の頃であろうか。・・いや、もの心がついて間もない時まで遡るかもしれない。
その時は自分も含め、親兄弟そして友達クラスメイト、はたまた恩師にいたるまで『馬鹿』とゆう言葉を多用していたように思われる。
「この馬鹿っ」「いやーぃバーカばーか」「うるせーよバカってゆうおまえが馬鹿だよ」「カーバ」「ばっかじゃねーの」
「馬鹿なんだからやめろよ」「んもう・・バカなんだから❤」・・・など多種多様な使われ方、使い方をしてきた。
この『馬鹿』という言葉について違和感や嫌悪感を感じたのはいつであっただろうか・・・
この疑問もきっと幼少時まで遡ることになるのだろう。
それほど馬鹿と言われるような行為をしてきたし、また短絡的に『馬鹿』と言ってしまう人物に囲まれた環境であったようにも思う。
ここで『馬鹿』と『馬鹿といわれるような行為』は分けて考えるべきだと提案したい。
理由は後で上手く説明できれば良いと思っている。
それで、馬鹿という言葉に対しての違和感や嫌悪感なのだが・・・
こんなもん言われたら嫌に決っているからだ。
なぜならば他者を『馬鹿』と断罪する人間は、決まってその対象者を見下し侮蔑しているフシがある。
この点については、異論など様々状況によって変わってくるであろうが、総じて『馬鹿』と他者対して言う人間は自分のほうが優秀だと思っている。
そして『馬鹿』と言ってしまう人間は言った相手に対して、考える事をやめてしまっている。
短絡的に『馬鹿』と断定し断罪し、慮ったり思いやったり、なぜ相手がそうなのかについて思考することをやめてしまう。
思考を停止して決めつけてしまう・・・。これはとても『愚かな』行為なのではないのだろうか。
まして『馬鹿』とゆう言葉を受け取った側の人間からすると不愉快極まりない。
その言われた瞬間に、相手から見下されてしまっているからだ。ここで怒らない人間はよっぽど出来た人ではないと無理だと思われる。
くだらないプライドを捨て、謙虚に真摯に『馬鹿』という言葉を受け止める。そういった人だ。
あほか!無理や!
日々そうゆう人間になりたいと努力は続けているが無理や!短絡的に『馬鹿』っていってくるような人間に謙虚などなれるかいっ!ぼけぇ
・・・少々取り乱してしまったが、本人が故意に間違いを犯したり、性根が曲がっていてワザと『馬鹿な行為』をしている場合ではないのに対し、
『馬鹿』だろ?「おまえバカだろ」などと言ってくる人間を、私は軽蔑するであろう。
なぜなら【人にされて嫌なことはすべきではない】と思っているからだ。
これは年を重ねていくうちに経験として、また他者から教えられて実感し学び身につけて来たことだと思う。
この点についてだけでも、他者に対し『馬鹿』などと言うことは良くないことだと明らかだと思われるのだが。
だって嫌な事されたり言われたりしたら不愉快じゃん。ムカムカイライラするじゃん。嫌われるじゃん。
別に嫌われてもしかたない場合もあるけれど安易に嫌われる必要ないじゃん。好きな子にフラれちゃうじゃん。
あと自分自身が『馬鹿』と言われる対象者ではなく、第三者の立場であった場合においても不愉快である場合が多い。
誰かが誰かに『馬鹿』と言われているのを聞いてしまったりする場合だ。陰口であったりした場合などは、なおさら最悪である。
まあ例外もあって、自ら『馬鹿と言われるような行為』を理解したうえで行った場合は別である。
「うわーい今日は白ーしーろしーろ白パーンツー」「ばっっかじゃないのっ!」
とかいった場合は『馬鹿』と言われても仕方がない。自ら解っていてやっているのだ。
しかしこれについてもスカートめくりをした本人が『馬鹿』なのではなく、スカートめくりという『行為』が『馬鹿』なのだ。
なぜなら・・・なぜならスカートをめくった本人は相手の女の子を好きであったりするかもry)
その人自身が『馬鹿』なのではなく『馬鹿』といわれる行為があるだけだ。
『馬鹿』と言われる『人間』があたかも存在し、またそれが当たり前かのように思われているかもしれないが、
それは『馬鹿』と他者に対して言ってしまっている人間が創り出し、短絡的に決定付けてしまっているにすぎない。
この言葉を意識し、本当に考え始めたのはいつだったろうか・・・
やはりトム・ハンクス主演の映画[フォレスト・ガンプ]を見てからだったように思う。
あの映画の主人公は、自分の話し方や行動行為で、他者から絶えず『馬鹿』(gump)と言われていたはずだ。
そして言われるたびに主人公は言い返すのだ。『馬鹿と言う人が馬鹿』であると。
映画を観た方ならわかると思うが、はたして主人公は『馬鹿』であっただろうか。
決してそうではなかったはずである。
昨今インターネットを閲覧していて、とてもよく見かけるのだ・・・短絡的に他者を馬鹿よばわりする人を。
安易にそういった言葉で他者を避難したり卑下したり揶揄したり見下したりする人たちは、自分がされる場合になったら嫌ではないのだろうか。
果たしてその対象者は『馬鹿』と断ずるに値するのであろうか。ただ単に経験が足りなかったり、知識がなかったり、知らないだけだったり、はたまた勘違いをしていたり。
そういった事なだけではないのだろうか。
上記のような状況を私はインターネットや私生活で見聞きしたりする度に、悲しくなったり深く考えたり、気分が悪くなったりするのだ。
そして
嘆かわしいとゆうか悲しいとゆうか驚くのだが、「知識人」と呼ばれている方などに特に多く見うけられる気がする。
ある程度の地位などに就いている方なども、そういった傾向がある気がする。
そしてだ。こういった方々は必ずといっていいほどブーメラン現象をみせてくれたりする。
自分が行っていた行為や言説で、自ら墓穴を掘ったりしてしまうのだ。
はたから見ていて目も当てられない。
最悪な事に、自分が間違ったとしても認めなかったりもする。間違っているのにもかかわらず、自らを省みずに他者を攻撃し続けたりもするのだ。
恥ずかしくはないのだろうか・・・もはやそうゆう感覚もないのだろうか。
それとも自分だけが正しく、まわりは間違っているに決まっていると思い込んでしまっているのだろうか。
他者をすぐ『馬鹿』だと断定してしまう人に、こういった事例が多い傾向があるように思われる。
こういった事こそが愚かで『馬鹿』な行為なのではないのだろうか。
確かに解らなくもないのだ。
知識がある方からすれば、知識がない人は愚かに見えることもあるだろう。
経験を積んだ年長者から見れば、若い人々の行為が愚かに見えることもあるだろう。
知っていて当然だと思う事を知らなければ「え?」っとなる気持ちもわかる。
出来て当然だと思える事ができなければ「なんで?」となる気持ちもわかる。
しかし気をつけて欲しい。果たしてそれは知っていて当然なのだろうか。出来て当然なのだろうか。
知らない事に対して理由があるのではないのだろうか。
出来ない事に対して理由があるのではないのだろうか。
出来る人はできない人の気持ちはわからないのだ。
目が見える人に目が見えない人の気持ちはわからないのだ。
歩ける人に歩けない人の気持ちはわからないのだ。
若い人に年老いてしまって体が不自由な人の気持ちはわからないのだ。
高等数学を苦もなく解ける人に算数でつまずく人の気持ちはわからないのだ。
語学が堪能な人に国語の勉強でつまずく人の気持ちはわからないのだ。
会話が得意な人に吃音で悩んでいる人の気持ちはわからないのだ。
赤ちゃんが何故なくのか日々生活に追われる大人や子育てをしたことのない人にはわからないのだ。
または忘れてしまっているのだ。
まだまだたくさんあるだろうけど、今挙げた例は逆もまた然りなのだ。
経験していない事、出来ない事や立場については理解することは難しい。
きっと何かについて苦もなく出来てしまう人は、出来ないという経験を積む事がないから
悩んだり苦しんだりする気持ちがわからないのだ。
悩んだり苦しんだりという感情を経験してないから、そういった感情自体を知らないかもしれない。
あまりにも出来てしまう人はきっと悩んだり苦しんだりする経験が薄すぎるから、感情が希薄になってしまう事もあるのかもしれない。
怖い事なんだけど、有能だと言われている人にはこうゆう傾向があるように思える。
・・・これはまた別の問題かな。今回の『馬鹿とゆう人が馬鹿』といった問題とは別かもしれない。
さて・・・
しかし、だ。
それら理解できない状況や立場、行動行為、人などを『馬鹿』と断定してしまって良いのだろうか。
切って捨ててしまっていいのだろうか。
理解しようとせずにいていいのだろうか。
それではあまりにも短絡的すぎるのではないだろうか。
思考停止と言えるのではないだろうか。
短絡的にすぐ断定したり、思考を停止させてしまう行為こそが愚かなのではないだろうか。
決め付けや憶測での価値判断こそ『馬鹿』な行為ではないだろうか。
高度な事を教えるのなら段階的に教えればいい。
基礎の事から学ぶように導けばいいだけの話だ。
なぜそうなるのかわからない場合、局所的な事実では見えない事もあるのだから、大局的な捉え方に目をうながすのも良い。
ちょっと立ち止まって思いやったり想像したり、相手の立場になって考えたりしてもいいのではないだろうか。
自分が上手く説明できたりするようになればいいのではないだろうか。努力してみたらいいのではないだろうか。
そういった姿勢や考えこそが賢く、【利口】と言えるのではないだろうか。
ふぅ~・・・ここまで書いてきて今気づいたのだが・・・あまりにもまとまりが無い。
文体、文脈、論理展開など滅茶苦茶じゃないだろうかこれは・・・。
このテーマについてはまたこれからも考察したりしていこうと思っている。
自分が他者にたいして短絡的に『馬鹿』などと言わない人になるために。
だが人に言われるのは好きじゃない。