私には古くからの知人がいる。私用で久しぶりに遇い、互いにプライベートな話にも花が咲いた。
お互い我が子も社会人となり、そろそろ所帯を持つか、初孫の顔を楽しみにするか、という時期である。
が、知人の顔色は優れない。いささか酒も入って饒舌になっていたのもあり、何なら相談に乗るぞと持ちかけると、知人は「実は」と切り出した。
知人には娘がいる。名の知れた大学を卒業し、社会人となって数年。気の早い親ならばそろそろ「良い人」の一人や二人を期待する頃合いである。
が、今現在、知人と娘さんの関係は「ほぼ絶縁状態」だという。奥方とは連絡は取り合っているようなのだが。
事の成り行きはこうだ。
少し前、娘さんにも縁談の話が持ち上がった。父親である知人と同年代の私が言うのもなんだが、娘さんは気配りの利く、嫋やかな女性である。
あわよくば私の長男の所へ来てもらえまいか…などと夢想していた事もあった。
脱線した。結論を書く。この縁談、知人の軽はずみな言動が原因で破談となってしまったのだ。
二度目か三度目の、お相手の男性、娘さん、知人夫婦と四人揃ってのレストランでの事だったという。男性のご両親は遠方にお住まいだが、関係は良好だった。
そこで知人が口走った事は、ひいき目に見ても相手の激昂を誘うような言葉ではなかったと、今も私は思っている。
しかし、お相手の男性は違っていた。男性は一万円札をテーブルに数枚置いてさっさと立ち去ってしまったのだという。
後に残るのは、突然の事態に追いかける事すら忘れ呆然とする知人夫婦と、泣き崩れる娘さんの三人。それ以後、お相手の男性とは断絶状態。携帯電話まで解約されているらしい。
何と不幸な出来事であろうか。娘さんを溺愛していた知人のお眼鏡にかなう人物だ。きっと身持ちのしっかりした好青年であった事だろう。
私に娘は居ないが、手に入りかけていた我が子の幸せを、自らの不注意で駄目にしてしまったのだ。どれほど不幸な出来事であるかは想像に難くない。
背広姿でごった返す週末の安酒場で、人目もはばからず号泣する知人をなだめつつタクシーに押し込み、その日はお開きとなった。
前置きが長くなった。ここからが本題だ。
後日、仕事の関係で、若者の文化や価値観などを長年調査している大学の先生のお話を伺う機会があった。
せっかくなので、私は前述の出来事を(知人や娘さんの名誉のために各所をぼかしつつ)話してみた。
頭の固い私は「キレる若者」的な反応を幾分予想していたのだが、「ここ数年、温厚で理性的な人ほどそういう傾向がありますね」と、先生はこともなげに答えた。
「特にデスクワークが主な非正規労働に就いている若い人というのは、現状の人間関係や仕事にしがみついたり、周囲の反感をいとわずよかれと思った事をする、という価値観が希薄な傾向があります」
何故なのか。
「非正規労働者は、雇用側が必要無いと判断された瞬間に切り捨てられる存在です。労働法規上は色々と制限はありますが、残念ながら現状機能していないに等しい。法改正もあって、そういうワークスタイルに慣れている、もしくは、社会人になった当初からそういうワークスタイルしか知らない若者が近年激増しています。つまり、切られる事に最初から抵抗がないどころか、上の都合であっさり切られるのが当たり前になっているのです。そのため、自らもまた、些細なことで人間関係や所持品を切り捨てる事に抵抗がないのです。近年スマートフォン等による独特なコミュニケーション文化が若者に人気なのも、『いつでも捨てられる安心感』に満ちた道具に見えるからなのではないでしょうか」
思い当たる節がある。知人によれば、前述の男性は、特に感情的になった様子もなくその場を去ってしまっていたという。そして彼は、ちょっと特殊な技能に長けた、年単位で勤める会社を変えている人だった。
こわすぎだろこの話…ゆとり世代で片親の自分はいったいどうすればいいんだ… 人から愛されたことのない者は他人を愛せないのか?
前置きが長い割に抽象的で殆ど意味がない。 本題もありがちな論じ方で面白みがない。
長過ぎる上に、肝心の軽はずみな言動とやらが書いてない この長文読んでも時間の無駄