私は両親が死ぬ日を待っている。
母は若くして私を産んだ。
そして弟、妹と次々産み、三人きょうだいをほぼワンオペで育ててくれた。
専業主婦だった。
父も若く、五人家族を一馬力で回していたので経済面はいつもカツカツだったときいている。
(幼い頃、母が「お金がないお金がない」といつもイライラしていた。)
父はギャンブルや浮気こそしないものの、酒タバコを嗜みとにかくお金にルーズな人だった。
そして短気で、暴力的で、一度怒り始めると手がつけられない大男だった。
そのくせ怒りが鎮まると「俺は家族を愛している」というのだ。
よく「褒めると調子のるから褒めないよ」と言われていた。かけっこで一等賞になった日も、めいっぱいおしゃれした日も、受験に合格した日も母が私を認めることはなかった。
ヒステリックで、他人の悪口を好み、周囲を見下して生きていた。
そして毎日毎日悲劇のヒロインのように「ママはかわいそうなの」と口癖のように言っていた。
些細なことで父に怒鳴られ、殴り蹴られる子供たちに対して「助けてあげたいけど、そしたらママがやられるから。」と悪びれもせずいた。
頭を下げれば受け入れてくれる実家もあった。
必死に働けば出来ないことはなかった。
お金がない・パパが嫌いだ・私はかわいそうだと毎日言いながら、抜け出そうとはしなかった。
子供達は成長するにつれそんな家のおかしさに気づき、距離をおこうとした。
私は高校生になりアルバイトをはじめて自然と帰る時間は遅くなり、家に寄り付かなくなった。
すると厳しい門限を設け、バイトの時間を制限されるようになった。破れば父は私を殴り、母は私の荷物をゴミ袋に詰めて外に出した。
大学生になってからはほとんど家に帰らなくなった。奨学金を借りて看護大学に通いながらアルバイトをして、交際相手の家に帰った。
たまに顔を合わせると母は「お前は逃げる男がいていいよな」と吐き捨てた。
交際相手との結婚や同棲は許されず、勝手を働けば勘当すると強く言われ、父が怖くて逆らうことは出来なかった。
情けない人間だったと思う。
ただ働きはじめてからの両親は優しいことしかなくなった。今までの感情の起伏の激しさが嘘のように、引越しを手伝い差し入れをしてくれ、しばらくたつと今までの反対からは考えられないくらいあっさりと結婚も許された。
職場では辛いこともあったが配偶者に恵まれ、何より両親と離れられたことで何物にも変えがたい幸福感を得られた。
ここにいれば怒鳴り声に怯えることも、暴力で苦しむことも、朝無意識に泣きながら目が覚めることもないのだ。
私の家族にとっては初孫だったので、両親はとてもとても喜んでくれた。
絶交すれば良いのに、私は両親を完全に拒絶することはできなかった。
恐怖感もあったし、「お前らから離れた私はこんなに幸せになった。何もかも手にいれたんだ。」とわからせてやりたかった。
どうにかして母に私を認めさせたかったのだと思う。
腹の底にドロドロした気持ちを抱えながら、一見穏やかな親子になった私たち。
父は老いた。孫をみる優しい眼差しに胸がキュッとなった。そんな風に私のことも愛してくれた日があった気がする。
母は私に「あんなに殴られて泣き叫んでたのに、普通に話せてるしトラウマになったりしてないんだねー」と笑って言った。
心の中ではきっと私に申し訳ないと、絶対許されないほど恨まれているのではないかと、ちゃんとわかってくれていると思っていたので、これは心にズシンときた。
両親は何も思っていないのだろう。
「その方がうまくいくから、そういうふうにしているんだよ」とだけ伝えた。
結局私も若き母と同じなのかもしれない。
この薄暗い気持ちは両親が死んだら消えると信じている。
どうでもとぐろまきうんち
なんのオリジナリティもないね
とても読みやすかったですがオリジナルティーが足りないと思いました 次回は頑張ってみてください
ただ働きはじめてからの両親は優しいことしかなくなった。今までの感情の起伏の激しさが嘘のように、引越しを手伝い差し入れをしてくれ、しばらくたつと今までの反対からは考えら...