はてなキーワード: 旧約聖書とは
元増田です。
少なくとも俺は「刑務所から出所した元犯罪者」は強盗も詐欺も性犯罪も殺人も横領も平等に扱われるべきだと思うのでメーガン法を日本に導入することは反対する。
・「聞きたくもない工場の騒音を聞かされて不快ですby 周辺住民」→これが講じて第一種住居地域とかの区分け(ゾーニング)があるよね
これは当然。客観的に測定できる音量によって健康被害が出るという因果関係は明らかなので、音量(あと光量や臭気も)による一定の規制は当然。
あるいは、「画面の激しい点滅により、一定の割合で光過敏性てんかんを引き起こすという健康被害があります」ならば不快以上をもたらす因果関係は明らかなので規制は当然。
私はシャルリーです。揶揄という言論には言論で対抗するべきであり、私的な暴力により対抗するのは誤りです。
・「宅八郎みたいな戯画化した格好でコントされたり絵に書かれると不快ですbyオタク」→これは「ツリ目メガネ出っ歯みたいな格好で日本人役の映画に出られると不快ですby日系人」みたいに制作側が取り扱いに配慮することで消えてったな。
抗議するのは自由ですよ。制作側には配慮するかしないかを決定する自由があります。それだけです。
配慮するべきではない。
逆に聞くが、
「同性愛者を見ると気分が著しく落ち込み半日動けなくなるのですbyムスリム」
「同性愛者は殺されるべきと書いてある旧約聖書を聖典とする宗教の信者を見ると気分が著しく落ち込み半日動けなくなるのですby同性愛者」
が両方存在したらどうするべきなのか。
公共の福祉とは、原則として権利や利益同士が対立した時にそれを調整するためのものだ。
ここで問題になるのは『権利や利益同士』であることだ。決して権利を超えた❝公共の福祉❞があるわけではない。それでは結局、『権利を超えたものを理由にすればいくらでも人権を制約できる』ということになり、「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ」権利を有していた大日本帝国憲法と何ら変わらないことになってしまう。
表現・出版の自由が公共の福祉によって制約された例としては、『ジャニーズ追っかけマップ裁判』というのがある。
かつて出版社が『ジャニーズ追っかけマップ』という書籍を出しており、そこにはジャニーズのメンバーに会える場所としてスタジオなどの場所の他に自宅の最寄り駅、自宅の住所、電話番号といった個人情報が掲載されていた。
このことについてジャニーズのメンバーが『プライバシーの権利の侵害』として訴えたことに対し、出版社は『表現・出版の自由』を主張した。
そして最終的に『ジャニーズのメンバーのような社会的影響力のある芸能人のプライバシーの権利は著しく制約されるが、それでも自宅で静穏に過ごす権利は認められるから自宅の住所と電話番号は削除するべき。それ以外については出版社の表現・出版の権利を認め、出版自体は認められる』という判決が出た。
わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。
わいせつな文書、図画を作ったり売ったりすると罪になるということは大抵の人が知っている。だが、この法律が何を目的にしているのかは案外と知られていない。
刑法のこの条文が保護しているのは、性的な物を見たくない人の権利……ではない。
では何を保護しているか、というと。判例上は”最低限の性道徳”である。(この解釈については流石に時代錯誤を指摘する声は複数あるし、増田もおかしいと思うが前提として現時点ではそうなっている)
わいせつ図画の判例では比較的有名な(高校の公民の教科書にも載っているかもしれない)チャタレー事件で「社会の平均ではなく、あくまで最低限」という解釈が出され、、四畳半襖の下張事件で「その時代に合わせた性道徳」を基準にすることになった。
当然ながら、『私はこの創作物を見て不快になりました』を主張する権利は当然にある。
あるいは、「萌え絵は性犯罪と地続き」と主張するのは自由だ。現在の法律上、誰かの権利を侵害しているという扱いにはならない。
同様に、「日本画は戦争と地続き」だろうが「彫刻は殺人と地続き」だろうが「洋画は差別と地続き」だろうが”萌え絵、日本画、彫刻、洋画”といった抽象的なジャンルならば誰かの権利を侵害しているという扱いにはならない。
ただし当然ながら、『その主張はおかしい』と批判する自由もある。
一方で、業務(※なお、刑法における”業務”とは「社会生活上、何度も繰り返して行われる事項」のことをいう。だから自動車で人を轢き殺してしまった場合はプライベートで運転していた場合でも業務上過失致死罪になっていた。そういえば変わったんだった)
で制作している特定の作品について「この絵は性犯罪と地続き」や「このvtuberは性犯罪を誘発する」のような発言ならば、その明確な根拠が示されない限りは偽計業務妨害罪が成立し得る。(実際に起訴されて有罪判決が出るかは分からない)
さて、フェミニストが主張するような創作物規制・広告規制を行うとするならば、それは当然に『表現の自由』に対抗できるだけの権利・利益が無いといけない。
似たような『市営地下鉄で不快になる広告放送を聞きたくない権利』を主張したとらわれの聴衆裁判で、『聞きたくない音によって心の静穏を害されることは、プライバシーの利益と考えられるが、本来、プライバシーは公共の場所においてはその保護が希薄とならざるをえず、受忍すべき範囲が広くなることを免れない。一般の公共の場所にあっては、本件のような放送はプライバシーの侵害の問題を生ずるものとは考えられない』という裁判官の補足意見がついている。
見たくない権利も同様だ。公共の場所ではむしろ受忍すべき範囲が広くなる。
『女性』には人権はない。これは何も「女性は二等市民だからフルスペックの人権は認められない」という意味ではない。人権があるのは個々の人物であって、『女性』という抽象的な存在の集団的人権は認められないという話だ。同様に「日本人は殺人狂だ」だろうが「在日朝鮮人は人間のクズだ」だろうが「同性愛者は生産性がない」だろうが、現在のところ法律には触れない。
そもそも表現に限らず自由権の本質は『他者を不快にして我慢させる権利』なのであり、「近所にユダヤ人が住んでいて不快です幸福追求権の侵害ですbyネオナチ」や「聞きたくもない韓国音楽を聞かされて不快ですby在特会員」や「『女と寝るように男と寝る者は殺されるべき』と書いてある旧約聖書が不快ですby同性愛者」は配慮されないし、配慮されるべきではない。
将来、脳波や脳内物質から人の現在の感情を読み取る技術がさらに発達し、「黒人を見ると気分が著しく落ち込み半日動けなくなるのですbyKKKメンバー」を同意の上で検査した結果、脳波や脳内物質がうつと同様のパターンになっていて主張が事実であることが判明したとしても同様に配慮されないし、配慮されるべきではない。増田はそれを自明のことであると確信する。
「萌え絵やそれを含めた女性をアイキャッチャーにする広告が公共の場所にあることで現在の男性中心社会を拡大再生産する」というモデルそのものは小宮友根氏や牟田和恵氏によっていくつか提唱されている。だが、それだけだ。
現実には男性中心社会を拡大再生産するものの候補は萌え絵広告以外にも『周囲の保守的な親戚・教員・友人などからの意見』『私企業の採用活動の実態』『女性向け創作物の刷り込み』など無数にある。
その中から「広告の効果が無視できないほど大きい」こと、および「それを打ち消す手段が他に存在せず、禁止以外の手段がない」ことが証明されない限りは規制されるべきではない。
なぜならば経済的自由権は金銭で補償が可能であるが、表現や内心といった精神的自由権は規制しようという動き自体が萎縮効果を生むため、より慎重になるべきだからだ。
以上のように、今フェミニストが主張しているような創作物規制は『公共の福祉』の観点からは成立しないと考える。
全然納得できないんだけど。"最低限の性道徳"が保護法益になるなら何だって保護法益にできそうだし175は良いけどフェミニズムに基づく立法がダメな理由ってあるの?
だからこれについては多数の異論が出ているし俺も問題だと思っている。
ただ、これの合憲論を採用しても、創作物規制は「ジェンダー平等を実現するための最低限」しか認められないだろう。
"「在日朝鮮人は人間のクズだ」だろうが「同性愛者は生産性がない」だろうが、現在のところ法律には触れない"。こいつ意図的に「ヘイトスピーチ規制法」スルーしてるよな。
ヘイトスピーチ規制法など存在しないのでスルーのしようがないですね。
ブコメが言いたいのは通称「ヘイトスピーチ対策法」でしょうけれど、これはあくまで国や地方公共団体に努力義務を課しているだけです。
“フェミニストが主張するような創作物規制・広告規制” 既にコメントがあるとおり私も法規制を求めない むしろ法規制させないために「違法じゃないから何してもOK」を控えてほしい 職場水着ポスター問題のように
会社は従業員のパフォーマンスを低下させ利益に反する行為を排除できますが、公共の場所は他者危害でない行為を排除できないし、排除するべきではない。そういう話です。
「そもそも不快にされない幸福追求権」そんなものはない。ではなく、その権利を求めてるんだよ。だってその方がいいじゃん。そのための対話が必要。
「同性愛者を見ると気分が著しく落ち込み半日動けなくなるのですbyムスリム」「『女と寝るように男と寝る者は殺されるべき』と書いてある旧約聖書を聖典とする宗教の信者を見ると気分が著しく落ち込み半日動けなくなるのですby同性愛者」が両方存在したり、
2つ以上の宗教が「我々の宗教は全ての人が我々の宗教の信者になるべきと考えているため、異教徒が不快です」を言い出した場合には
2022/07/04/21:40頃追記
日本でキリスト教徒の印象を聞くと、大抵”神”というファンタジーを本気で信じている幼稚な人間という扱いを受けるがそれはあまり正しくはない。
基本宗教において神の存在はあまり重要な意味を持たない。それについて簡単に説明をしてみようと思う。
まずキリスト教の前身はユダヤ教であり、その聖典は旧約聖書である。
旧約聖書でどんなお話が語られるかと言うと、有名な物では:失楽園、カインとアベル、バベルの塔、ソドムとゴモラなどであり
それらの共通点は全て人間が”やらかした”お話であるという事だ。
「人間は調子に乗るとロクでもないことをやらかしがちなので、皆ルールを守り慎ましく生きましょう」
という事を教えている。神が存在するか否かはあまり関係がない。
ではユダヤ教徒であったキリストが新しく提案した教えはどんなものであったのか?
キリスト教の聖典、新約聖書で有名な話は例えばは姦淫の女の話がある(ヨハネによる福音書第8章2節-11節)
姦通の罪で捕らえられた女性に石投げをしようとする人々にキリストが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」と言うお話だ。または良い羊飼い、放蕩息子のたとえ話なども同じ教えなのだが、
キリスト教では
「確かにルールを守るのは大事だが、ルールを破ってしまう人もいる。そんな人たちをただ排除するのではなく正しく導いてあげましょう。自らでさえもそうなりうるのだから」
という事を教えている。やはり神が存在するか否かはあまり関係がない。
そんな当たり前の事わざわざ神なんて言葉を使わず普通に言えばいいじゃないか!と思う人もいるかもしれないが、多くの人たちは今自分がしているように”物語”にしなければ物事を理解できない。
https://www.pixiv.net/artworks/97652638
ともかく、今回の話は凄かった
杉浦氏が「34話、うまく描けた気がする」「自分は34話みたいなお話が描きたいんだな」と言うのも良く分かる
「ロボットの考えてた事を吐き出せてスッキリしたけど、もう自分の中に何にもないな…そろそろインプットしないとな〜」となるのも良く分かる
これを描いてしまうと、この先に何を表現すればいいのかが見えなくなってくるだろうな、と
とりあえず、私は私が感じたことを書いていくことにする
【ネタバレ要素】
ちょびっツ、ブルーピリオド、物語シリーズ、ライ麦畑で捕まえて、異世界迷宮の最深部を目指そう、風の谷のナウシカ、余は弁明ス
【4コマ目】
「真剣に聞かないでどうするの」
最後のコマのセリフを聞いてから読むと、この時の気持ちが、もう伝わってくるようで
【5コマ目】
個人的に好きな所
【6コマ目】
ここは難しいところ
家族でやるのが正しいのか、アップデートという名の支援を受けるべきであったのか
答えはない
【7コマ目】
今回のメイン
表情も含めて、本当に苦しい
「ひとつ残らずいなくなればいいのにって思う」
自分が何も生み出せないことを“気持ち悪い”と思い、自分自身の事を“不自然”であると感じる
誰しも、同じような気持ちになったことがあるからこそ、このセリフは響く
ある種の特性・特徴を持ち、自分がその特性をネガティブに感じている時、“いなくなればいいのに”と感じるよなあ、と思った
ひとにすがたを 見せられぬ
「早く人間になりたい!!」
【8コマ目】
「私はずっとロボットを 町から追い出したいと 思っていました」
「追い出すということは その先で壊されることも あります」
後のコマを見てもわかるんですが、これもこれで本心なんですよね
久永先輩の誠実さ(フェアさ)はこういう形なんですよ
厳しく辛い道である
もう一つ言うなら、今回は一人の人間が持ち得る色々な思想・考え・立場をそれぞれの登場人物に振り分けているところが読み応えのある所だな、と
【9コマ目】
「みんなのことが好きで ホイホイ入っちゃったところがあって…」
「ロボットを追い出すって どういうことか 考えてなかったんです」
「あの子たち みんないい子で やさしくて 頑張り屋なんです」
“自分(自分たち)と違う相手を排除することについて、深く考えてこなかった”という自覚
この種の「良い子で優しくて頑張り屋で、純粋なんです」というセリフが刺さる
ここが、この話の本質だ
頑張っていない人より、頑張っている人の方が好きだ
意地悪な人より、優しい人が好きだ
醜い人より、美しい人が好きだ
自分の事を理解してくれない人より、理解してくれる人の方が好きだ
自分を憎む人より、愛してくれる人の方が好きだ
至極当たり前の人だ
自分に害をなす人を、自分にとって“良いこと”がない相手をどうして大切にできるのだろうか
それをなしに、我々は我々を規定できない
その町には 誰もいなかったの
お家もあるし
窓から明かりも見える
でも 道には誰もいない
窓から中をのぞいてみた
ヒトがいた でもアレといっしょだった
ほかの家もみた
やっぱりアレといっしょだった
この町も ほかの町とおんなじだった
みんなはもう外には出てこない
この町には誰もいない
「最初は 好き好き言っててもさ」
これとか、これとか、これとか、これとか、これとかで考えていたことと近いな、と感じる
自然だとどうして良いんですか
「裸も」
「幸せになれなくとも、なりたいもんになれりゃいいんだし」
【14~15コマ目】
「死ぬほど頑張って 恋人も友達も 出来ない人は どうするんですか?」
「一生孤独に 生きて行かないと いけないんですか」
「… 振り向いて もらえなくても 努力は無駄に ならないはずです」
「頑張って 頑張って 頑張っても 誰ひとり 振り向いて 貰えない人に」
「それでも『成長できてよかったね』って言うんですか?」
「言います…」
「人でなし!」
ここはコミカルに描いているように見えて、凄く鋭い
皆がその理想に殉じられるわけではないということに通ずるものがある
そうはいっても腹は減るし、金は欲しい。人を憎むことも上昇を望むこともある。すべて人の業である
もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。
私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。自分の精いつぱいの物を。然し、必ず、こはれるものを。然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。それより外に仕方がない。
それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。私が、私自身に裁かれさへしなければ。たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。
――坂口安吾「余は弁明ス」
【16コマ目】
「文明が発達して それをしなくても済む人が 沢山増えました」
「お腹を満たす事以外に リソースを割く事が できるようになった代わりに その過程で 無くなった仕事や大切な物が 沢山あったと思います」
「ロボットが居る事で 私たちは 必死に苦労しなくても 心を満たせるようになる」
「満たせない事で 苦しまなくて 済むようになる」
「代わりに失うものも たくさんあるでしょう」
「でも私は そうするべきだと 思います」
「心が満たされた あとの社会」
「その向こう側に 行けると 信じているからです」
「ロボットと 一緒ならね」
ここがどうしてもこのエントリを書きたくなった所だ
以前に語ったように、人間は「自分でできることの増加」ではなく、「自分の周り(環境)」を変えることを志向して進化してきた
究極的には、全てが自動で行われる「システム」となるかもしれない
その向こう側に行けるのだろうか
「信じているからです」と言いきる、その横顔が眩しい
機械も含めて、全ての存在(生命も含めて)に対する信頼が見える
「…………どの真実をだね?」
「あの時代 どれほどの憎悪と絶望が 世界を満たしていたかを 想像したことがあるかな?」
「有毒の大気 凶暴な太陽光 枯渇した大地 次々と生まれる新しい病気 おびただしい死」
「ありとあらゆる宗教 ありとあらゆる正義 ありとあらゆる利害」
「とるべき道はいくつもなかったのだよ」
私はあなたの期待に応えるためにこの世に生きているわけじゃない。
そしてあなたも、私の期待に応えるためにこの世にいるわけじゃない。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
「ロボットが 初めて 二足歩行した時 感動したと 思うんだよね」
「? そうですね」
「で 次は段差を どう乗り越えるか 観たくなるでしょ?」
「私 ブロックになりたいの」
全然文脈が違うが、「ライ麦畑で捕まえて」を思い出す言い回しだ
「ともかく僕は子供たちがみんなこの大きなライ麦畑の中で何かゲームをしているところを思い浮かべるんだ」
「何千という子供たちがいてね、辺りには誰もいないんだ」
「大人は誰一人いないんだよ。その僕以外はね」
「そして僕はすごく急な崖の端に立っているんだ」
「僕がしなきゃならないことは、子供たちが崖から落ちそうになると捕まえてやることなんだ」
「子供ってのは走っている時には前を見たりしないから、僕がどこからか出て行って捕まえてやらなきゃならないんだ」
「一日中僕はそれだけをしてる」
「僕はライ麦畑の捕らえ人になりたいんだ」
――J・D・サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」
【18コマ目】
「私の意見は 変わりませんが 皆さんの意見も 変えられませんでした」
「今回の件は保留ということにします」
地味に好きポイント
やはりフェア
「そうだ 『勇さんを壊すべき』と 結論が出たら当然 壊さなければいけない」
「『壊すべきでない』と 結論が出たら 勇さんの内面を 否定することになる」
「どちらにしても 勇さんは救われない」
「どうすれば…」
やはり誠実だ
そして、ここのテーゼ・アンチテーゼが次のコマからアウフヘーベンの布石となる
「あなたが誰かを 傷つけても」
「人やロボットを 殺しちゃっても」
「自分を 殺しちゃっても」
「私は そのとき 一緒にいたいの」
「殺していいって言ってます?」
「久永先輩 いいんですか? こんなの」
「いいわけ ないでしょ」
「でも その 良くないことで 勇さんは救われたの」
これがジンテーゼとなる
否定も肯定も、自分が認めがたいことも含めて、それ自体を受け止めてくれる他者
これが正に尊厳であり愚行権であり、ハーム・リダクション的でもあり、アクセプタンスである
ただあるがままを受け止めて貰い、その衝動も含めて「(肯定でも否定でもなく)存在を承認」してもらうこと
「正しくあれ正しくあれと教えられっ、教えられた通りに正しく生きて正しく生きてっ、最期には正しいまま死んでしまってっ! やっとそれに気づきました! 正しくあれなんてそんな言葉、教えた人の都合でしかありません! ええっ、薄々とわかっていました! 正しい人ほど不幸になるってことくらい!!」
「だから、わたくしは思うのです。ええ、いまこそ、正直に申します。
ずっとずっとわたくしは――間違いを犯したかった」
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。
一日一日を生き、
この時をつねに喜びをもって受け入れ、
困難は平穏への道として受け入れさせてください。
これまでの私の考え方を捨て、
イエス・キリストがされたように、
この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。
あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。
天鵞絨の海にも 仕方のないことしか無かったら
あたしはどう致しましょう
【27-27コマ目】
「みんなが」
「勇さんが 要らないって 言うまで 無くしたりしない」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないわ」
もう、なんというか
ズルいと思う、このセリフは
これをやられたらもう何も言えない
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92703?imp=0
定年までしがみつくことが前提というのがダサい。
全体を通して「謎の大物クリエーター」をありがたがりすぎ。
すると、その場にいたみんなの視界がパーッと開けていったのでした。私はこの光景を「モーゼの奇跡」と呼んでいます。『旧約聖書』でモーゼが海を割ったように、道がなかったところに、大島さんがいつも道を示してくれるからです。
元の会議が下手すぎて「普通に会議をすすめただけ」で整理されただけなんじゃないか。
なお、私はいつもミーティングをするときにホワイトボードや紙に図や絵、文字を記しながら話をするのですが、それは大島さんの影響によるものです。
「お前は大企業でないとやっていけないだろう」と評価されてたって話なので、自慢にならない。
大島さんのような優れたクリエイティブを創れる人が、正当な評価を受ける世の中であるべきだと思いました。それこそ、大島さんをスポーツ選手のような高額プレーヤーにしたかったのです。
じゃぁさっさとアフィリエーターを始めればいい。成功報酬型で契約すれば結果に連動した報酬になる。失敗しても責任とらないくせに何を言ってるんだ。商品コンセプトから作りたければ、D2Cを始めればいい。製造委託してくれる会社なんぞ山程ある。やるやつはやってるし、事業も大きくなってる。
ちるちるBLアワードとは、商業BL情報サイト「ちるちる」主催のイベント。前年に発売されたBL作品のなかで、ちるちるのレビューページの得点が200点以上の作品からノミネートされる。そして1月にちるちるユーザーの投票がなされて、4月に結果が発表される。
推し作品がノミネートすらされなかったのでやさぐれてしまい、私は投票を完遂できなかったのだけど。BESTコミック部門とBEST小説部門の結果は一部予想通りだった。
BESTコミック部門第1位は『夜明けの唄』(ユノイチカ)。これは納得。私はあまり好きじゃないんだけど、皆好きだよねーこれ。あまりにも爆発的に流行っていたので、これしか1位はないだろうなと思った。
2位は知らんからわからん。3位の『神様なんか信じない僕らのエデン』(一ノ瀬ゆま)は読んだけどかなり面白かった。オメガバース作品なので、設定だけで嫌がられたり過剰に求められたりだと思うが、最近はオメガバースも下火なので、逆境を潜り抜けて3位に輝いた感ある。
そしてBEST小説部門。これは私の予想は「魔道祖師は絶対に1位を取れない」だったんだけど、大当たり。「このBLがヤバい2022」では2位と大差を着けて圧倒的1位に輝いたという『魔道祖師』(墨香銅臭)が何故ちるちるBLアワードでは1位を取れないと思ったのか? それは、このBLがヤバいの方は一般の読者も投票するし有識者の意見も入るらしいんだけど、ちるちるBLアワードの場合はちるちるユーザーだけが投票する(つまり極めつきに商業BLにのめっている人間ばかりが投票する)から。それと、ネットで『魔道祖師』の情報を漁ったところ、「買ったはいいが積んでいる」という人がかなり多かったので、「魔道祖師の人気=原作小説の人気」ではないと思った。
商業BL小説の読者層というのはかなり独特な感性をお持ちで、その他ジャンルの小説を読み漁る、本の虫タイプの読書家の常識では計り知れないところがある。だから、ただの小説として、もっと狭い意味でライトノベルとして、圧倒的な高クオリティの『魔道祖師』はだからといってマジもんの商業BL小説系腐女子には受け入れられはしないんじゃないかなと。単純に売上だけはすごくいいんだろうけどね。しかしそれでも2位だったのはかなりの健闘ぶりだ。たぶんこれ、ドラマとアニメの人気だと思うけど。実は買ったものの積んでいるけど、アニメとドラマ好きだし他の作品は読んでないから取り敢えず投票したって人(商業BL小説読まない民)、多そう。
予想外だったのは、BEST小説部門1位を取ったのが『Interlude 美しい彼番外編集』だったこと。私これ持ってるしすごく面白くて好きだけどマ!? 番外編だぜ!?!?!? うわぁー、さすがに商業BL小説史上に残るレベルの人気シリーズ。番外編集の半分は購入特典などの再録本なので、コアなファンは買って得するようなもんじゃないというのに、すごい。
作者の凪良ゆう先生の書く文章はとても平易で分かりやすい。一方、2位だった『魔道祖師』は「漢字が多くて読めない~」(振仮名ふってあるやんけ)とか、「古代中国の文化なんかわからない~」(脚注あるやんけ)とか言われて敬遠されまくっていた。分かりやすいって大事だなと思いつつ、薄々思っていたけど商業BL小説ばかり読む人ってやっぱり【自主規制】いんだなと思った。
BESTシリーズ部門1位は『囀ずる鳥ははばたかない』(ヨネダコウ)まあねまあね、皆好きだよねー(私は読む気もしないけど)。
『オールドファッションカップケーキ with カプチーノ』(佐岸左岸)は去年のBLアワードのBESTコミック部門ぶっちぎりの第1位作品の続編なのだが、やはり1位は取れなかった。予想通りである。「名言製造機になった」「野末さんがあざとすぎる」など、ボロカス言われてたからなあ。私は好きだけど。人気があるからといって続編を作ったらコケてしまったパターンかもしれない。でも本作も漫画としてのクオリティの高さ半端ないので、むしろ商業BLの民よりも薄く広く漫画を読む人におすすめだ。
あれっ、ノミネート作品のなかでは私の最推しだった『秋山くん』(のばらあいこ)がどこにもランクインしていない。でもまあしょうがないか。ただでさえ複数巻のものは腐女子にはあまり支持されないうえに、『秋山くん』の場合は完結までに12年もの歳月を要したのだ。その間に腐界の雰囲気も変わったらしく、あの衝撃の第1話がまず受け入れられないといって読むのを止めてしまう人が多いようなので。でも最終的には大団円で終わったので、未読だが興味あるけど試し読みしたら怖かったって人は安心して読むがいいさ! 秋山くんにはBEST受け部門にランクインして欲しかったなあ(投票した)。攻めの柴くんはあのBEST攻め部門の錚々たる面子の中にとりつく島はないのはわかる。(ひどい)
やっぱりスクカー底辺男は攻め様ランキングには食い込めないのかなと思いきや! BEST攻め部門第1位を『美しい彼』の平良(ひら)が取っていて笑った。さすが平良! でもこの人の底辺ぶりはあくまでも自己評価でしかない。無自覚ハイスペックニュータイプ亭主関白俺様攻めだから、平良は。
アワードについてはこれでおしまい。次は最近読んだBL。(ネタバレあり)
2018年2月のある日、体育の授業中に突然ヒートを起こした西央(にしお)につられて発情してしまった喬(たかい)。二人は体育館倉庫に転がり込み交わったが、西央の体調は改善せず、倉庫から出られなくなってしまう。喬は一人で倉庫を出て食料や生活用品をかき集め、西央の籠城生活の環境を整え、同時に自分達の体に何が起きたのかを考察する。
籠城三日目、どうやら西央のヒートの峠が過ぎたらしい。あと数日で西央を家に帰せるという見通しをたてた喬だったが、それに一抹の淋しさを感じた時、彼の本能があらぶり始め……。
オメガバース作品で、『旧約聖書』の1節からスタートする本作。人類史上初めてのαとΩの誕生という大事件が、高校の体育館倉庫という狭い密室でひっそりと起きていたという、壮大にしてミニマムなお話。
そもそもオメガバースとはなんぞや? というと、ググった方が早いんだがざっくりいうと欧米発祥の特殊設定。ヒトに男女の性別のほかに「バース性」という性別がある。すなわち、支配者の性α、凡人のβ、産む性(隷属の性)のΩ。それらのバース性のいずれかが男女それぞれについてくる。男性α、女性α、男性β、女性β、男性Ω、女性Ωの六つの性別があるということ。
本作は人類史上初のαとΩの物語なので、主人公の喬(α)は自分とΩの西央が一体何であるのかを知らない。喬はせっせと文献を調べ考察していくうちに、自分達の生態が狼の生態に近いことに気づく。そして自分と西央が異様に盛る様に「発情(ヒート)」という名をつける。
下巻はもっぱら喬がαとしての本能のダークな面をなんとか抑えつけようと奮闘しつつ、αらしい一途さで西央を守ろうとする話。そして喬と西央は互いに相手とは本能抜きではどういう関係なのか? と疑問を懐く。
商業BLではあまり見られない、深いところまでつっこんでるストーリー。オメガバース設定のBLというのは社会問題やジェンダー問題に切り込むものが他にもいくらかある。『リバース』( 麻生ミツ晃)、『シマちゃん家の番事情』(三日ミタ)、『嘘つきな愛を買う』(ポケラふじ子)とか。でも、数年前に二次創作の世界で初めてオメガバース設定を見た時には、社会問題提起系というよりは、SMっぽいというか虐待描写メインの特殊性癖っていう印象だった。今となってはBLでポリコレの影響を最も受けていそうなジャンルのような?
『僕エデ』はジェンダー問題以上に生命の不思議にウエイトが置かれている感じで、昨今流行り? の反出生主義に疲れたハートには心地よかった。終盤、自身と西央が新しいタイプの進化した人類だと悟った喬が、「自分達が多数派になる日が来るまで潜伏する(誰にも内緒にする)」と決断したことろは、ベタでありつつ(漫画の登場人物って変な生き物を発見すると、政府や研究機関に取られるのを恐れてとりあえず隠そうとするよね。)老子っぽくてよかった。
『シマちゃん家の番事情』を読んだ時も思ったけど、今っぽいニュータイプのオメガバースっていいなと思いつつ、しかし以前のもはや男女カプでは容易に描けなくなった禁忌なネタの駆け込み寺的なジャンルが浄化されてしまったようで、それはそれでどうなんだという気がする。でも最近はまたしても欧米渡来の因業設定「Dom/subユニバース」が定着したので、アングラエログロの行着く先はそこかな? いずれそれも浄化されそうだが。
※「Dom/subユニバース」とは……ググった方が早いがざっくり説明すると、ヒトの性別に男女の他にDomとsubという性があるという設定。Domは支配者でsubは被支配者である。Domはsubと二人で決めたワードをsubが言うまでsubを虐めることが出来る。要はSMだな。
真理(まさみち)は美貌の男・佐藤と同居中。というのは、ある夕方にカフェで真理がうっかり通りすがりの佐藤のコートにコーヒーをぶちまけてしまったから。コートのお値段、なんと86万円。怒った佐藤は86万円ぶん真理の家に居座ってやると宣言。以来、奇妙な同居生活が始まった。
佐藤の言うことを何でも受け入れてしまう真理。「マリちゃん」呼びから始まって、ただいまのキスやらなんやら、佐藤の無茶ぶりは次第にエスカレートしていき……。
あんまりレビューが良くないが絵が物凄く綺麗なので、これは絵以外に良いところ無し系の漫画なのかとビビりながらも、試し読みしてみて冒頭一ページに惹かれたので購入。思いの外よかった。
美貌の変人佐藤に常識人陰キャのマリが振り回される系かと思いきや、マリが愛すべき変な生き物って感じで、何が起きても動じないマリに佐藤が戸惑うという話だった。
途中で佐藤の元カノの登場。すごく重要人物という訳でもなくカッコいい姐御でもなく身内でもない女がさらっと登場するのは、BL読者にはあまり喜ばれないところ。だが佐藤と元カノの会話の様子から、もしかして佐藤って実は心から他人を好きになったことがないんじゃない?(だから別れた相手と屈託なく喋れるのでは)という疑念がうっすらと湧いてくる。もしかしてこれはタイトルの伏線回収なのではないだろうか。つまり、86万円がきっかけで初恋をしたのは陰キャのマリだけでなく美貌のコミュ強佐藤もまたそうなのだという。
マリの歳上すぎる友人の件以外、派手な事件は起こらない話だけれど、心情的な揺さぶりやどんでん返しがあり、退屈しない。が、例えばジャンプ漫画みたいにハッキリと事件事故が起きて悲喜劇にならなければ漫画とは認めないような人には、向いていないだろうな、と思う。
表紙がとても綺麗で、中身の絵もとても綺麗。短文モノローグがしばしば挟まるのだが、それらが独特のリズム感を生んでる気がする。
レーベル的にエロがすごく多いのかと思ったら、わりと落ち着きのある感じのエロ配分(オカズ系というよりは人類の一習性レベル)だった。
今日はこれまで。
オタクは後天的な趣味だから、先天的で変更できないor変更困難な属性(在日、黒人、ゲイ、女性etc...)に置き換えるのは無理がある。
「オタク差別」を論じる時には「異教徒から改宗してイスラム教徒になった人への差別」が置き換えるのに適切な例だと考える。自分で選んで差別される立場になったという共通点から。
https://anond.hatelabo.jp/20211121073713
いちいち言うのも嫌だけど、オタクを在日とかと入れ替えてみてくださいよ。
在日から凶悪におぞましい犯罪者が出たら(実際出てる、当たり前)、在日全体を蔑視したり疎外したりしていいの?
(中略)
tokatongtong 先輩「俺はゲイだけどゲイは弁えるべきだし同性婚まで求めるべきではないと思う」っすかあ
「古臭い差別野郎の手垢のついた手口」を更に天丼してくるそれってなんかのギャグなんすか?
イスラム教は、開祖のムハンマドは最愛の第四婦人アイーシャが9歳の時にセックスして、聖戦で死んだ者が行く天国は処女膜が無限に再生する美少女ハーレムと描写されている。どこかの「エロゲ」か「なろう小説」かな?
コーラン他の聖典には異教徒差別、女性差別、同性愛者差別がいくらでも見つけられる。
こういうのが(旧約聖書の食事のタブーのような)古代のとっくに廃れた教義では留まらず、現代に至るまで、
「自爆すれば美少女ハーレム天国に行ける」と絶望的な生活をしているパレスチナの少年をテロリストが勧誘する文句に使われたり、
女性や異教徒を奴隷にするイスラム国やタリバンを生み出している。
フィクションと理解した上で12歳小学生アイドル催眠陵辱エロ同人誌でオナニーしているキモオタと比べて、9歳女児第四婦人セックスや異教徒性奴隷化や無限処女ハーレム天国を神聖な預言者の事績や神の言葉と本気で信仰しているイスラム教徒の方が潜在的に遥かに危険な連中であるのは間違い無い
……とイスラム教については素人の私などはついつい偏見を抱いてしまいそうになる。
しかし、だからと言って、仏教徒からイスラム教徒になった日本人に対して「このロリペド・セクシスト・ホモフォビア野郎め!」と罵倒してはならないし(たとえ彼が生まれながらの信者ではなく自分の意思で「9歳女児とセックスしたムハンマドは神の使徒なり」と改宗を誓ったとしても)、
公共の施設でイスラム文化に関する展示が行われる時に「このような女性差別・同性愛者差別の思想を公共の場で税金を使って宣伝することは許されない」などと攻撃して展示の中止を求めるのは宗教差別であろう。
我が国には信教の自由というものがあって、ペド教祖が受信した差別主義の煮凝りのような神の言葉を聖典と崇める宗教の信者が、公共の場で堂々と彼らの宗教シンボル(例えばヒジャブ、女性の隷属的地位の象徴と批判する意見もあるだろう)を表現できる(偏狭なフランスと違って礼拝所の外ではヒジャブを脱げとか日本では法規制されない)。
公共の場で児童婚をした教祖を崇めて実在の女性にヒジャブを被せるイスラム教徒を容認するほど、我々の社会は多様性を尊重するのだから、12歳の架空の偶像を陵辱するキモオタの罪の無い妄想ぐらいは容認すべきであろう。
というわけで、オタクを黒人や在日のような生来のマイノリティに例えるのは無理があるけど、イスラム教差別への反論はオタク差別への反論に使えるぞ。
子供のころからずっと「週の始まりは月曜日」が当たり前だっただろ。
キン肉マンだって「月火水木キン肉マ〜ン金土日はあ〜そびたい」って歌ってたぞ。
そう言ってる人たちはどこでそんなこと教わったんだ?
俺はそれを「月曜日から世界を作りはじめて日曜日に休んだ」と思い込んでいたんだが
本来は「日曜日から世界を作りはじめて土曜日に休んだ」ということだったらしい。
ともあれユダヤ教では
これはわかりやすいよな。
しかしキリスト教では「キリストの復活」が起きたのが日曜日だったので、日曜日に仕事を休んで礼拝を行うことが定着してしまった。
古代ローマ帝国の時点で「安息日が土曜日ってのは取り消し!礼拝は日曜日に行えよ!」という法律が発布されていたらしい。
それなのに「週の始まりは日曜日」という慣習だけは残ってしまったから大変だ。
アメリカでは今でも「週の始まりは日曜日」なのに「休みも日曜日」という混乱した状況になっている。
ややこしすぎるよな。
「どっちが宗教的に正しいか」じゃなくて「どっちのほうが現実的か」で割り切れるじゃん。
そんで普通に考えて「一週間の始まりだから休もう」みたいな発想にはならんじゃん。
やっぱり働いたあとに休むのが自然の摂理じゃん。
だから現実に即せば「月曜始まり」のほうが正しいことになるじゃん。
異論ある?
エルサレムのおとめたちよ
野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。
大学2年生をしている。
キリスト系の大学に通ってるんだけど、神学的な講義がぜんぜん意味不明だった。
なので、一生に一度と思い、聖書に挑戦してみることにした。
率直に感想を述べる。
長かった……とにかく長かったー! ぜんぶで2000ページ以上もあった。
そのうえわたしは、本を読むのが遅い。なので、1ページに平均3分ちょっとかかった。詩編だと2分くらいかな。
なので、1ページにつき3分とすると、2000ページで6000分=約96時間も読んでいたことになる。こんな読書体験は初めてだ。
得られる物はもちろんあった。半年もかかって読み終えたのだ。成果なしでは悲しすぎる。
全文引用はちょっとどうかなと思うところもあったけど、この聖書の発行元は、250節までは引用OKとしている。
なので、この2編だけグサッとまるまる引用する。ほかにもちょっとだけ引用している。冒頭の詩は、『詩編』(追記:雅歌の間違いでした)という閑話休題的な部分から取らせてもらった。(私が持っている)旧約聖書の1052ページに載っている。
子どもの頃、こんな題名のドラマを観たことがあるかもしれない。
放蕩息子のたとえ
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
最初は意味不明だった。お前は何を言ってるんだ? そんな気分だった。
さて、解説サイトを巡ったところによると、この掌編というのは――父親を神に、放蕩息子を(いつも罪を犯しがちな)迷える人間に喩えているらしい。
なるほどと思った。イエスの説話にはたとえ話がよく登場するが、たとえ話の中でもたとえを使っているのだ。
神は寛容な存在だ。聖書においても、寛容さが重要な徳であると述べた個所が多くある。
現代社会においてもそうだ。昔に比べると、個人に対する寛容さが求められるようになっている。傍目では愚かに見える行いであっても、当人の意志を尊重する。自己決定権というやつだ(うろおぼえ)。
聖書というのは、なんかもういろいろと今の社会を先取りしているのだ。いや違う、普遍的というやつだ。どんな時代でも共通する大事なことを、ひとつひとつ、じっくりとしっかりと述べている。
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
――ルカによる福音書 16.1-13(16章の1節~13節) P.140
「それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?」という、中学生の時に読んだ漫画の台詞を思い出した。
読み始めは、聖書らしい勧善懲悪を期待していた。読了後は、こいつやりたい放題だな! と感じつつ、この物語は何を意味しているのだろう――今度は自分で考えることにした。
こたつ机の上で、通勤途中の自転車で、トイレの中で、サイゼリヤでの雑談中に、神学のWeb講義中に、何度も考える機会があった。
わからなかった。結局。
それで、解説サイトを巡ってみることにした。どうやら聖書のたとえ話の中でもメジャーな作品らしい。
しかし、わからない。どの解説サイトを読んでもしっくりこないのだ。
どのサイトにおいても、「どんなに苦しい状況の中でも、神の国に行くために最善の行動を取ることが大事」と書いてあった。不正にまみれた富でいいので、いつか最後の審判が訪れて、永遠の国に住む時のための友達を作っておくべき、みたいなことが書いてあった。
例えば、主人が召使い3人に、自分が留守の間お金を預ける話がある。3人の召使いの中で、そのお金を資産運用によって一番増やした人が主人に一番褒められていた。お金を土の中に埋めておいた人は、主人の命でそれを取り上げられ、一番増やした人に渡ったうえ、彼は外の暗闇に追い出されてしまう。
(だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる)
でも、その一方で、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」みたいなことを述べた箇所が同じ新約聖書に3つ以上はある。
約二千年前に作り始められたわけだから、矛盾する箇所も当然あるだろう。しかし、それにしても不正な管理人の話には納得がいかない。
そうこう考えてググっているうち、こんな本をアマゾンで見つけた。
要約すると、長い年月に渡って聖書が写本され続けた結果、当初は存在しなかった物語や解釈や意図が入り込んでいった、とのことだ。
ならば納得できる。この『不正な管理人のたとえ』の真実は、こうだ。昔、聖書を写本していた権威ある人が、「このネタ入れたら面白いんじゃね?」的なノリで挿入したシュールギャグだったのだ。それが不正な管理人のたとえの正体である――解決。
解説サイトやヤフー知恵袋なんかでこの掌編を肯定している人は、もしかして、あれじゃない? 権威に弱い人なんじゃないか?? おかしいものはおかしいとして、はっきり言わないといけないんじゃない??? と、わたしは思いました。(小学生並みの感想
聖書を読んでよかった。
はっきり言おう(ここイエスを意識している)。わたしにとって収穫だったのは、多くのコンテンツの原典・元ネタであることを確認できたからだ。以下のようなものがある。ネタバレ防止のため、どの作品に派生しているかは原則述べない。
例えば、①エジプトの王宮でのモーセ&アロン VS ファラオの対決時に、お互いの杖を蛇に変えてバトルする場面とか、②サムソンが今わの際に両手で二本の柱を押し倒して数千人を巻き添えにして死ぬところとか、③ペルシャ王クセルクセスが、「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」って2回も言うところとか、④大岡裁き(どちらが本当の母親か決めるやつ)の元になった母親2人の諍いの話とか、⑤ダビデの三勇士の一人イシュバアルは、槍のひと突きで800人を殺してしまうとか、サラっと書いてあって思わず吹いた……。
ほかにも、ここには挙げきれないほど多くの漫画や小説やゲームの元ネタに会うことができた。これだけでも読んだ甲斐があるというものだ。
特に、士師記のサムソンには笑わせてもらった。スラップスティック・ギャグコメディの原型が聖書にあったなんて! 高橋留美子も、これを読んで『うる星やつら』の肥やしにしたのかもしれない。
聖書というのは、宗教書というよりは総合文学の書であって、これを基に、その人がどう人生を生きるか考えるきっかけにする、みたいなコンテンツなんだと思う。
聖書は、各編によって色あいが相当違う。格調高く綴られた世界創造の語りだったり、長い旅と王国の繁栄の中で主人公が次々と交代していく群像劇のようにも見えるし、小説上のジャンルはだいたい網羅している(冒頭の詩は兄×妹の恋愛ものだ)し、どんな生き方が正しいのかという論じ合いもあるし、お笑いな感じの喜劇もあるし、いきなり箴言集になったりするし、詩もたくさん出てくる。
ところで、聖書に出てくる神は、その時々によって寛容だったり不寛容だったりする。人によらずとも、矛盾していると感じることがある。
キリスト者を迫害した人や、信心や律法の罪を犯した人を赦す場面もあれば、かの有名なオナンさんはあっさりと殺されるし(彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。)、聖者エリシャを「禿げ頭出ていけ」と詰った子ども達42人は、突如現れた熊2匹によって皆殺しに遭っている。
同じ人でもやることなすことに筋が通っていたりいなかったりすることがあるし、理不尽だと感じた運命が後に自らを利するものであることがわかったりするし、法律や常識に反した行動がみんなの共感を得ることだってある。
わたしが若者でいられる時間は少ない。あと10年以内には若者ではなくなってしまう。それまでには、ひとかどの人物になっていたい。今回、半年がかりで聖書に向き合った経験が生きたらいいなと思っている。
最後に、物語の背景を知らなければ厨二な詩としか思えない台詞を書き留めて結びとする。
サタンの弄びにより、死に等しい皮膚病に冒されてしまった義人ヨブの独白の一部だ。
自分が譲れない条件(お金や職業安定性や外見的優位さ)を選んだことによって
結婚生活の維持で最も必要になる部分(相手への寛容さ、精神的な安定性、子育てへの志向、経済観念、価値観のマッチング)を選ばない
という選択をしたんだろう
いわゆる男らしさや格好良さ、リーダシップやそれに伴う経済的な優位性というのは
共感性のなさや攻撃性(広義の攻撃性ということにしておく≒自己主張性)がベースになるところがある
自分の遺伝子をばら撒くという方略を持つオス個体にとって、メス個体を上手く騙して自分の遺伝子を残すことが至上命題になる
進化を経るごとに、そうしたタダ乗り志向のオス個体はメス個体を騙す技能をどんどん先鋭化させ、それに対抗するようにメス個体は騙されないように進化していく
タダ乗り個体の遺伝子は、それ単体ではメス個体側の資源(資産や、メス個体の近親者=子育て協力者)に頼ることしかできない
つまり、俗な言い方で言えばヒモなので、生産性がない=経済力がない=養育能力がない
なので、通常はそうしたタダ乗り個体の遺伝子は育たないため、遺伝子としては少数派になる
しかし、福祉国家である日本(あるいは現代世界)においては事情が違う
人権や公共の利益追求という名の弱者救済によって、そうした生産性のない個体でも生き残れるようになった
かくて、タダ乗り個体、すなわちメス個体を上手く騙してコントロールすることに特化した「幼稚な夫」が結婚して子供を産ませることに成功する
そして、メス個体への訴求力こそない代わりに、知的・経済的・性格的に安定した、いわゆる「理解のある彼君」が托卵されるわけである
ここに、システムとしての綺麗な循環がある
あらゆる個体がそれぞれに任じられた役割を全うし、種としての繁栄と存続の礎となる
そこに、個々人の不幸や嘆きは勘定されない
産めよ、増えよ、地に満ちよ。
あらゆる地の獣、あらゆる空の鳥、あらゆる地を這うもの、あらゆる海の魚はあなたがたを恐れ、おののき、あなたがたの手に委ねられる。
命のある動き回るものはすべて、あなたがたの食物となる。あなたがたに与えた青草と同じように、私はこれらすべてをあなたがたに与えた。