はてなキーワード: 賞状とは
お前らのそういうところが駄目なんだよ。
つまりは「人間は自分が加害者と振る舞ってることを忘れて、自分が被害者ぶれることだけを認識しがち」ってことなんだけどさ。
お前らがする言い訳に先回りしておくと、次の2つは駄目だよ。
・もう10年ぐらい前の話じゃん。その当時はセーフだった。今はアウトなのが分かってるから直したよ。
・俺達は実際に「低能先生」から被害を受けていた。奴は悪い奴だったから軽蔑されて玩具にされても仕方ない。
まず上の方から突っ込むけど、10年はまだ経ってないよ。
そして、今もはてなーは平気でやってる。
具体的に指摘するまでもないから指摘しないので自分たちで気づいてね。
次に下の方だけど、賞状を送った人達も同じ気持ちだったんじゃないかな?
成績を挙げない同僚のせいで会社は被害を受けている→会社に被害を出しているということは加害者だ→馬鹿にするぐらいなら許される→いや正当な権利のはずだ!
って感じで。
そもそも自分たちが嫌なことをされたからといって、それを止めるのに不必要な行為はするべきじゃないよ。
「低能先生」と呼んで馬鹿にするのがあの状況でなんか意味があった?
なんで「先生」って呼んだの?
完全に馬鹿にしてるよね?
加速したよね?
それで人が死んだよね?
それって結局は自殺するまでイジメ抜いて殺してしまったあとも「悪いとは思ってない」と言い張る青森の不動産屋と何が違うの?
いい加減、まともな人間になれよ。
貴方は、今まで大した成績を残さず、
あーあって感じでしたが、ここ細菌は、前職の事務職で大成功した職歴を生かし、
現在でも変わらず事務的営業を貫き悪気は無いがお客様にも機械的な対応にも関わらず、
見事おったまげーの三位です。陰で努力し、あまり頑張ってない様に見えて、
非常に冷静な気持ちでこの文書を見つめながら書き起こしたが、この文書を考えた上司もある意味狂っているとしか思えない。
そしてこれを賞状(賞状を症状。最近を細菌に変換するセンスも地獄)として渡される人の気持ちとか、本当に何も考えなかったのだろうか。
考えなかったから作って渡したんだろうけど。
100歩譲って「部下を鼓舞する為に面白半分で作ったもので悪意はなかった」として、その感覚のおかしさを指摘されたり気付く場面が人生の中で一度も無かったのが不思議でならない。
こういう大人が目に見えないだけで、全国に沢山いるかと思うと溜息しかでない。
しかも社長が「表彰の一環」とコメントしているのが本当にヤバすぎる。
本心じゃなくても謝罪して再発防止に努めますと言わないのは何故なんだろうか?
前者は絶対に叩かれるじゃん。今後も経営することを考えたら後者を選択した方がリスクが無いのに、前者を選ぶってことは認めたら余計に叩かれる不安があって、それで判断能力がおかしくなって炎上するようなコメントをしてしまうのだろうか。
ここまで頭おかしいと人災というより何らかの地理的因縁を感じる
八戸藩は、天明の大飢饉で深刻な打撃を受け、百姓一揆も起き、年貢の増徴による藩財政の改善も見込めない状況に陥っていた。このため、八戸藩の運営は御用商人からの借り入れに頼らざるを得なくなっていた。そんな中、時の藩主南部信真は野村軍記を登用し、文政2年(1819年)、「国政御主法替」と称する藩政改革に乗り出した。その一環として、八戸藩最大の産物である大豆の専売制を開始。もともと大豆の流通に力を持っていた商人たちを排除し、あらたな御用商人を登用した。その過程で、従来最大の権勢を誇っていた七崎屋を取り潰した。文政6年には大野鉄山を藩営とし、実際の運用を西町屋に任せて利益を藩に収めさせた。天保3年(1832年)、天保の大飢饉が発生。八戸藩では領知高2万石のうち1万1千石が損毛となる大凶作となった。翌年も8割の減収となった。藩は財政に窮し、御用商人の西町屋や美濃屋に銀札を発行させ、預かり小切手も発行して米や食糧の買占めを行おうとした。しかし、インフレが急激に進行し経済が大混乱となり、天保5年には久慈の農民が一揆をおこし、民衆が八戸城下へ押し寄せる事態となった。いわゆる「稗三合一揆」である。これは、藩が1人1日稗三合の食糧を残して、残りを全て価値の激減している銀札や小切手で買い占めようとしたことから、このように呼ばれた。一揆に対して野村軍記は武力鎮圧を主張したが採用されず、一揆側の主張をほぼ受け入れる形で決着した。そのため野村軍記が進めていた藩政改革はほとんどが否定されることになり、野村自身も失脚。幽閉され間もなく死去した[2]。
2022/6/21 18:48
新年会で男性に渡された賞状を模した書面。翌月、男性は自殺した(画像の一部を加工しています)
青森県八戸市の住宅会社「ハシモトホーム」が、青森市の40代の男性社員=平成30年に自殺=に、賞状を模し侮辱する内容の書面を渡していたことが、遺族側への取材で分かった。遺族は20日、パワハラや長時間労働が自殺につながったとして、会社などに約8千万円の損害賠償を求め、青森地裁に提訴した。会社側は「表彰の一環」と説明している。
原告側によると、関係会社も参加した30年1月の新年会で、男性は課長が作った「症状」と題した書面を渡された。文面には「今まで大した成績を残さず、あーあって感じ」などと書かれていた。上司から「おまえはバカ」とのショートメッセージを受け取るなどした男性は翌2月、重度の鬱病を発症し自殺した。
男性の妻は、代理人弁護士を通じ「こんな『症状』を渡して、家族が見たらどう思うのか、何も想像しなかったのかと不思議でなりません」とのコメントを出している。
https://www.sankei.com/article/20220621-SAR4XBLCPVNZNEDYKGDZKZPR74/
被害者に合掌
ドキュメントスキャナを買うんだ。自分もかつて紙の山に囲まれていたけど、スキャナを導入したことで片づけることができた。
いいか、積もった紙は三つに分けられる。
この3つだ。2 をスキャンして捨てるために 1 と 2 を分別する作業に着手できれば、その過程で山に紛れている 3 を見つけて処分できる。
迷うならとりあえずスキャンだけして取っておいても良いんだ。そういうときはスキャン済だと分かるように分けてファイリングしておくと後で捨てたくなった場合に楽だ。
「スキャンしたから捨てても大丈夫」というのは心の余裕だ。心の余裕を得るためにドキュメントスキャナを買うんだ。
紙を入手するたびにすぐ分別する(そして捨てる)のが理想だけど、それが無理なら未処理の紙を置く箱かスペースを一つ用意してそこに全部突っ込め。
そして毎週でも毎月でもいいから、定期的に分別する時間を取る。手帳やカレンダーアプリを使っているなら予定として登録しろ。
家に大きいスキャナを置く場所がなければハンディタイプもある。大学生なら通学鞄に入れておいても良いかもしれない。
ただし、スキャンする際の紙送りは自動でやってくれるものを選ぶんだ。ハンディタイプには手で紙に沿ってスキャナを動かしてスキャンするものもあるけど、それだと大量の紙を処理するのは大変だ。
学校のプリント類ならA4までスキャンできるものがあればほぼ事足りるだろう。A3は半分に折ってスキャンすればいい。
めちゃくちゃ長いよ。
本人にバレたら私が死んじゃうから所々濁して描くね。
私は自分が世間的に見てもかなり絵が上手い方だと思う。オリジナリティーも意識してるしぶっちゃけセンスあるし。
でも最近、学生時代のお友だちと比較しちゃって、考えることが多くなってきた。嫉妬ではないけれど少し引っかかるものがある。自分でも分からない。それがなんなのか教えて欲しい有識者。
幼稚園・小学生のころから何かしら描いてた。1年に1作品は必ず選ばれたり、市のポスターになったり実績はあったから同世代の子の中でも自信があった。
中高も美術部で鉛筆画デッサンをやりつつ、デジタルでイラストを描いてた。もう学力を全て犠牲にして絵を描いてた。
んで、その時に私が誘って美術部に入った友だちがいた。その子は絵が上手い、というよりもどんどん絵が上手くなっていった。それでも私は、私自身の絵に自信があったから特に何も思わなかった。むしろ推しキャラを描いてくれるのでありがたかった。ノートの切れ端のラクガキすらも貰ったものは全部大切に保管してるよ。大好き。
しばらくしてお互いにTwitterを始めた。イラストを描いたり漫画を投稿したりする趣味垢。
結論から言うと私はTwitterに向いてなかった。他人からの評価にドキドキするし、人間関係も微妙だし、社会人に紛れ込むのも苦しくなって色々あってとても疲れて今ではpixivに一本化した。一方、友だちはTwitterでマイペースにやっていた。そのうちに有名で大好きな絵師と相互になって喜んだりもしていた。ここ最近は特に勢いがすごい。4桁いいねを安定してもらったりしているのも見た。「これは私には描けないな、負けたな」って思うイラストが増えた。私がその子の作品を表現できないように、その子も私の絵を描けないのはわかってる。いいねとかRTとか評価云々はどうでもいいんだ。
昔から友だちが絵に対して私を意識してるだろうなぁ、と感じている。これは自意識過剰ではない絶対の自信がある。例えば、友だちの絵が私の絵の描き方にとても似せている時がある。例えば、中高時代に行われた絵や漫画のコンクールで私は一度もその子に負けたことがない。例えば、その子に教えていない私の絵垢を鍵リストにぶち込んでいるのを知ってしまった。例えば、私が絵をネットに挙げた後は必ずその子の創作頻度が活発になる……など。お前もネトストしてるじゃんかって?ご名答。お互いに意識してるんだと思う。
つまり、私はその子に現実的な実績では負けたことがない。負けたら発狂してたと思う。その子への嫉妬で狂っていたかもしれない。
もし大賞発表の時その友だちが横で1位の賞状を握って喜んでいたら……もし、名前を呼ばれた友だちがステージに立っているのを暗い客席から見ているだけだったら、、と想像したら私には耐えられない。拍手なんてできない。心から「おめでとう」って言えない。絶対悔しい。絶対震えて泣く。でも泣くのもバレなくない。仲良く出来ないかもしれない。
では友だちはその時、どう思っていたのだろう?横で何を感じていたのだろう?最近それが気になる。とてもいいやつで、サッパリしているやつだから気にしてないかもしれない。
幸い、もう別々の道に進んだから直接的に競い合うことは無くなったけれど、私は怖くてTwitterの創作アカウントを作れなくなった。と思う。作ったとしても何も知らない時のように楽しく自由に運営はできない。友だちには絶対に見て欲しくない。見つけて欲しくない。もし数字で惨敗する姿を見られたら、もし私の絵を見て「ああ、これくらいか」って思われたら嫌で気になって仕方がなくて、いくらか反応をもらっても、友だちもこのアカウントを見てるんじゃないかってビクビクしちゃってすぐ消しちゃう。
評価じゃないのは分かっているけれど、いいね数やRT数で差が出たらどうしよう?その子は絵を挙げたら安定して稼げるようになっている。FF比も1:20くらいでフォロワー数も多い。なのに私が頑張って描いた絵に閑古鳥が鳴いてたらどうする?閑古鳥なんて鳴く前に殺してしまえ。
だから私は一人で黙々と描いて、溜まったらたまにpixivに挙げるだけだ。それも嫌になったり気分じゃなくなったり、逆に嬉しいコメントやスタンプをもらって満足したらすぐ非公開にする。
怖い。絵に劣等感を抱くのが本当に怖い。数字の評価に殴りつけられたら反撃できない。受け入れるしかない。でも友だちにプレゼントで絵を贈るとすごく喜んでもらえるし、実際かなり上手く描けてるし、満足してるし、私は私の絵がめちゃくちゃ好きだ。勝ってる部分も多いと思う。内心、「ふふん、どうだ」と思って贈っている節もあることは認める。お互いに「一番は相手に喜んでもらいたい!でも勝つぞ!」と思いながら絵を投げつけていると思う。
8年以内にはTwitterのフォロワー数が2万人くらいになってお互いに切磋琢磨するのが夢だし楽しそうだなと思うんだけどね。
私は余裕があるつもりだったけれど全然余裕がなくて、いつも忙しない。
飽きるよね?
はてなも増田も、競馬の話題でブクマ付かなくなってきてるもんね
ウマ娘やってるときは原作と思って競馬を見てみたけど、ウマ娘への飽きと同時に競馬からも興味が離れた、が正解だろうね
でも、せっかく始めた趣味なんだから、やめちゃうのはもったいないよ
実際、私、増田もウマ娘からちょっと離れてたけど、それはもう、ダビスタ買ったせい
でもまたウマ娘に戻ってる
結局ウマからは離れてない
で、ウマ娘の遊び方
馬を育てて、走らせて、勝敗を競うゲームなんだから、カジュアルに勝敗を競う場をいかに用意できるか、で面白さが全く変わる
これはもうね、リア友だよ
我々は職場で、その週末にある実際の競馬のレースと同条件のレースを毎週末ルームマッチで開いている
もちろん、誰でも参加できるようにウマ娘のレベル上限はBランクまでの縛りルール
入賞5着までの人に賞状、2、3着くらいまでの人にお菓子など景品を用意している
でも、勝ったらお祝いがある、これがあるだけで、めちゃくちゃモチベになる
勝った負けたをカジュアルに週一でできる環境というのは面白いよ
お題を決めた限定ルールで、知ってる人とわいわい戦う、ゲームは結局これが一番面白い
知らん人と戦うオンライン対戦は、負けたら腹立つだけだけど、リア友のA君が今週勝ったんだー、というのは別に腹立たない
だからさ、ルームマッチやろう、リア友とルームマッチを定期開催しよう
さらに、ウマ娘で勝つにはレース場の特徴を把握して育成する必要があるので、その週の競馬への理解度が増す利点もある
そのおかげで増田はオールカマーではレイパパレに2100円飛ばされた
で、リアフレルームマッチをもっと白熱させるなら、そりゃもうお金を出すことでしょうな、と思う
参加費取って、入賞者に割り振る、というのは、Eスポーツの大会ならば合法のやり方はあるみたいだけど、何も調べずにやればそりゃ賭博で犯罪になるでしょう
でもま、自己責任だけど、やったら面白いんじゃないかなと思うよ
うちはやらんけど
今週末は凱旋門賞だけど、ウマ娘で類似のレース設定できないし職場カップはスプリンターズステークスのみ
凱旋門賞で盛り上がれば、ウマ娘にロンシャンレース場の導入もあるかもね!
econcon サポカはいいけどキャラガチャ渋いのはなんかもういいかな…となった
syabazochang ガチャが渋いのに唯一嫌いなテイオーが来た時心が折れた
rundyh 競馬は一週間どれに賭けるかいくらでも考える暇つぶしが出来てガチャする快感の代わりに賭けた馬券が当たるかの快感が得られる。ソシャゲなんてやってる暇はないだろう
そうだよね!
元ネタが競馬だからこそ、この10連分3000円あれば、今週の競馬でもうちょいいい勝負できるな、とか
この10連2回やったつもりになれば、ウイポorダビスタ買えるな、という気持ちが、ウマ娘継続の一番の敵だと思う
ウマ娘の女の子が特別好きな方はウマ娘じゃないといけないけど、ウマ娘じゃなくても競馬って面白いよねって感じの人にとっては、競馬に関する遊びの中でウマ娘は基本無料に見えてもっともコスパが悪い遊びなんだよな
現状、娘ガチャで星3当てるより、競馬勝つほうが可能性あるもんな
「競馬に使うよりはガチャに払ったほうが確実に楽しみは増えるでしょ!」くらい思わせてくれないとね、と思う
それか無課金でも新鮮に遊べるようにどんどん状況が変わるようにしてくれるかだなー
オレの小学校の時の自由研究のテーマが「七夕豪雨の爪あと」だったんよねw
近所で山崩れたところとか、浸水したところとかの写真を撮って模造紙にいっぱい貼って。
なんだか名目は忘れたけど、ちっちゃい賞をもらって、賞状が実家のどっかに残ってるかもw
20人だか30人だか死んだのもアレだけど、もっと大問題だったのが、東海道本線と国道1号線という「ニッポンの大動脈」が土砂に埋まって何週間?だったか不通だったことよな。
それで、地滑りの原因になったデカイ山を何10年かかけてほぼほぼ削り取って平らにした。公共工事のオカネで地元の土建業者などが長年ウハウハだったww
お母さんがくれた賞状だぞ
元増田の末梢血幹細胞の提供日記を読んだので、のっかってみる。元増田は家族間提供、私は骨髄バンク経由なのだけど、日記の内容は殆ど違いがない。
「あー、そうだったそうだった」と思いながら書いている。
私の時はだいたい
・入院初日(水曜日):健康診断→自由時間→夕飯→自由時間→寝る
・2日目~4日目:朝一採血・回診→飯→9時頃G-CSF→自由時間→昼飯→自由時間(朝の採血結果をこのあたりで聞く。)→夕飯→自由時間→寝る
・5日目:朝一採血・回診→飯→G-CSF→10時ごろ末梢血幹細胞の採取開始~13時過ぎ終了→車椅子で部屋に戻る(昼飯は時間が過ぎているので、院内の売店で事前に購入しておく)→自由時間→夕飯→自由時間→寝る
・6日目:採血・回診→「既に患者さんには投与されました。必要量あったので問題なしです。明日退院」→昼飯→自由(以下略)
・8日目:出社
みたいな流れであった。暇すぎる。
・ドナーになるとどうなるか?
1. ドナー手帳が交付される。 https://www.jmdp.or.jp/documents/file/02_donation/donor_techo202008.pdf みたいなやつ。
これは骨髄移植でも末梢血幹細胞提供でも中身はおなじ。家族間提供でも同じものをもらうみたい。ここに注意事項とか記載されている。
自分の提供スケジュールとか、提供までの緊急連絡先(事故などで提供できなくなった場合のバンクや病院への連絡先)を書く。
2. 骨髄バンク経由の場合、かなり頻繁にコーディネータから現状確認の電話がある。風邪引いてないかとか、不安はないかとか。オカンかってくらい心配される。
3. 骨髄バンク経由の場合、提供にかかる費用は原則負担しない。
私の場合、田舎にすんでいるのだが、ドナー候補者としての説明(これだけ最寄りの大規模な病院であった)、提供の意思確認~提供後1ヶ月検診まで、提供のために必要となった交通費は支給された。入院中、個室になったがこれも私は負担していない。
患者さんが個室料金を負担されたようだが、高い負担で大変だなと思う。ドナーは健康な体なので病院側としても病人や怪我人と同じ部屋にするのにリスクを感じるのだろうな。
4. 骨髄バンク経由の場合、提供後に事実を証明する書類を発行してくれる。近年は市区町村の条例で骨髄・末梢血幹細胞を提供すると補助金を出してくれたり、医療保険で請求できる場合があるが、このときに使用する書類である。
1. なぜ提供したのか? …… ①骨髄バンクのことは過去何度か献血をするなかで、パンフレットなどをよくみたため知っていた。 ②知人がバンク経由で骨髄移植を受けて復職した。 提供してみようと思ったのはそういう理由。
2. 骨髄提供か、末梢血幹細胞か選択できるか? …… 原則できない。どちらが患者さんの状況に適しているのか、によって採取する方法が決定される。
3. 仕事はどうしたのか? ……有給を使用した。提供時期はたまたま忙しくない時期だった。これもまた、患者さんの状況によって決定される。このあたり、ドナー選定時に確認されるため、「忙しいけど提供させられた!」みたいなことはない。提供できるような時間的余裕があるときにだけ応じたらよい。
4. 入院中は何してた? ……自由時間はだいたい読書か動画。個室なのでテレビカードなくても見放題だったが。あと、飲酒喫煙を除き飲食に殆ど制限がないので、おやつ食ってもいい。
元増田も書いているが、ドナーには医療上の特別な制限はほとんどない。病院の入院上のルールくらい。なお、入浴は他の患者さんとの調整が必要なので、若干制限されることがあるかも。
5. 提供中は何してるの? ……末梢血幹細胞提供は両腕に針刺して、片方から血を抜き、幹細胞を分離してからもう片方の腕に返すため、なにもできない。
暇潰しの準備をするようアドバイスされる。元増田も書いているが、タブレットとかノートパソコンを持ち込んでもいいし、飲食も準備しておけば手伝ってもらえる(今はどうなんだろう、コロナの件もあるからだめかも?)
ちなみに、そうやって暇潰しの準備をしたが、立ち会いの血液内科医や看護師とお話しするほうが面白かった。
6. G-CSFってなに? どうなるの?……簡単に言えば、血液中に幹細胞などをたくさん放出させるためのお注射。インフルエンザの予防接種くらいの痛み。毎日、注射してもらう腕を交互に変えてもらった。
あと、3日目くらいから、骨のいたみがあった。私の場合は腰だけでなく、胸の間の骨(胸骨圧迫するときに手をあてるあたり)。この痛みはロキソニンが欲しくなるくらいズキズキくる。
注射を止めて1週間くらいまで残った。
7. 宝くじあたった? ……全部外れた。
・ 今どうしているか
1. 患者さんとドナーとは1年間で2回まで手紙のやりとりができるが、1回だけした。正直書きたいこととかはあんまりなかったし、どうされているかとかもあまり知りたくない。患者さんが元気になってくれればと思うだけ。
2. ドナー登録は削除した。提供後は自動的に保留となるが、1年経過後はまたドナー候補となる。これ以上提供しようって気にはならない。
これは患者さんがどうとか今回の提供がどうとかっていうより、自分の家族のことを考えての判断。あと、ドナー候補に選定されてから、抹消血幹細胞を提供しおえて採取室から車椅子で運びだされる瞬間までの緊張感(何かあったら患者さんの命が! とか思うと、寝られん日もあった)はけっこうつらい。
3. 厚生労働大臣の感謝状を貰ったが、スッポンスッポンする賞状入れの筒にはいったまま。飾ってどうってはなしでもないしね。
4. 市町村の補助金を頂戴した。上でも書いているが、市区町村の条例で骨髄・末梢血幹細胞を提供すると補助金を出してくれる場合がある。ドナーとして活動するために必要な日数×単価みたいな内容なので、1ヶ月後の検診もカウントしていただいた。あと医療保険のドナー給付金も。頂けるものは頂いた。
上記の緊張感とか仕事を調整することの負担を考えると、こんなお金を目当てにするのは割にあわないと思うよ。
5. 献血は、ドナーとして選定されてから提供後半年くらいまでできない。半年ちょっとたってから再開した。最後に献血したときとかわらず、とくに異常はなかった。
おしまい。
ちょうどその頃から祖母がボケ始めた。休日に祖母の家に来てくれと電話が鳴り、母が出ないので私が取り、仕事で疲れているから無理だと断っていた。
社会人1年目の冬、知らない番号から着信があったので出てみたら、祖母のかかつりけ医らしい。
母と連絡が取れないので、祖母宅にメモがあった私の番号にかけたらしい。
祖母の病状が悪く、一度見に来てほしいとのことだったので休みを取って行った。仕事が佳境だったので恐る恐るだった。
祖母はがんにかかっていたらしい。顔が酷く腫れ上がって明らかに弱っていた。
小学生の時は私をネグレクトした母の代わりにご飯を作ってくれ、父宅に住んでいた時も、私を呼びだして会う度にご飯を奢ってくれ、お小遣いもくれた祖母だった。酷い状態に涙が止まらなかった。医師の話も聞いた。
何回か通ううちに、私のことを祖母の妹の名前で呼ぶようになった。それがつらくて行くのをやめた。
祖母の親族と母に連絡するだけで自分の役目を終えたような顔をして、また仕事に行って休みは寝たり遊んだりする日々に戻った。
仕事が終わって自宅の最寄り駅に着いたばかりの私は、「疲れているので行けない」と返した。
祖母はそのまま亡くなった。連絡が来てからやっと自分のしてしまったことに気づき、熱を出して寝込んだ。熱が下がらないまま遺品整理の手伝いに行ったがまるで役に立たなかった。
葬儀の喪主は母だったが、やはり様子はおかしかった。親戚や父も含めて会食をしようとしたらしいが、場所を押さえてないので無理だった。八つ当たりされたので逃げ帰った。
小学生時代は祖母に育ててもらったようなものなのに、大学生にもなってお小遣いを貰っていたのに、なんで仕事で疲れたくらいであんなに簡単に切り捨てられたんだろう。自分はまともな人間だとばかり思っていた。おばあちゃんごめんなさい。
骨壷は母が持っていたが、どうも墓に入れるのを面倒がっていたので、私が行っている墓には祖母がいないかもしれない。墓越しに謝ることすらできない。
墓参りには線香しか持っていかなかった。あとは掃除だけして帰った。
祖母は私の着物姿を見て喜んでくれた。習字で金賞が取れなかった時だけ怒られたけど、私がもらった賞状やトロフィーをたくさん並べていた。
次は花を持っていった方がいいだろうか。祖母の好きな花も知らない。仏花は菊だったっけ?
私が死んだら祖母に会って謝れるんだろうか。
比較的楽しく過ごしているけど、ふと祖母のことを思い出す度に罪悪感で苦しくて涙が止まらなくなる。本当にごめんなさい。父と母に振り回されていた私をかわいがってくれたのに、報いるどころかネグレクトで返した。
言い訳しようと思えばいくらでもできる。そう思う度に自分の外道さに反吐が出る。仕方なくなんかない。疲れていたとか関係ない。祖母に比べれば大変なんかじゃなかった。休みには遊ぶ余裕があったのになんで行かなかったんだ。きっと私がそういう人間だからだ。屑だ。生きていていいのだろうか。父と母が死ぬ時も私はこうなんだろうか。私が代わりに死ねばよかったのにな。ごめんなさい。ごめんなさいと伝えられない。ごめんなさい。おばあちゃんは許してくれるだろう。こんな屑に優しくしてくれたんだから。
天罰を与えてくれ。
母方の祖母は長男である叔父(母の弟)を大事にしていて、遺産も家も全て叔父に渡していた。大正生まれの昔の人だというのもあるのかもしれないが、叔父がすげえ可愛かったんだと思う。
祖母がなくなりひとりになった叔父は、奔放に生活しとった。叔父は、病(※昔の登山事故で頭打った後遺症で海馬がおかしくなったのと、晩年はリンパのがん)も患ってたので、母はときどき何度か看にいってた。そしてその翌日に「(ばあちゃんはあたしに)よくもこんなもん(叔父)を残して逝ってくれたな」「私には一千も残さなかった、全部弟にくれたくせに。世話だけ私か」と文句を言っていた。私はよくその愚痴を聞いていた。今年の冬に叔父は亡くなった。
そのあと空き家を何度か片付けにいったけど、おくの部屋は叔父の賞状とかたくさん飾ってあったわ。それを見た母は「やっぱり長男が可愛いかったんだよ」と言ってた
一方で、うちでは母が兄のことを大切にしているように思う。最近、仕事で精神的に参ってて一人になると一人言をつぶやく兄(糖質の一歩手前?などと母から聞いたがようわからん)。そんな兄にたいして、母は、気を遣っていた。部屋が片付いてないと兄は母を怒鳴り散らかすし、休みの日は朝8時から自室に掃除機をかけてるし夜は遅いときは深夜までうるせー音量でテレビを観てるし、ネットショッピングではほぼ毎日中古のCDや本や服などを買い溜めてる兄。自室に買い溜めた物が入りきらなくなったら、真ん中の姉(いまは嫁にいっていない)の部屋に自分の本棚を移動したりしてる。一方で、兄は他人の散らかってる部屋をみたら許せないらしく、少し前は物置に保管してた農具や季節の靴を捨てたし(私のブーツも捨てられた)、今朝は母の部屋の服も勝手に捨ててた。仕事は真面目なのかもしれないけど、家ではすげー身勝手な兄貴だよ。でも、母は、兄を怒らず、なぜか下からでてなだめ、後々で私に愚痴をこぼすのさ。兄に殴られて骨折とかしたらやじゃん。
でも我慢ならない私が、兄に反論しようか、というんだけど、母は、それはやめろお前が殴られるから、と言って とめるんだ。
また、朝と夜は、私から兄に挨拶してやってくれ、とか、私から話しかけてやってくれだとか、母は私に変な協力を強いる。兄が糖質寸前だか知らねーが、私は兄が昔から嫌いなので、それには応じることができない。
祖母は叔父のことをすげー大事にしていたみたいだけど、私からしたら、母も兄のことをすげー大事にしているように見える。そして、母は私が一番末っ子で立場が下だからといって強い物言いや喧嘩腰で来たりするんだ。祖母、叔父、兄にはそんなことしないくせに。母も性格が悪いと思う。私はなんなんだろう、サンドバッグかなにかか。一人暮らしをやめて実家に戻ったのが、やっぱりだめだったかな。そりゃ、だめか。世間的にも、アラサーで独身で、仕事もいまいちな、おばさんだもの。痛いよね。
夜めし食べてたら、母が「おにいちゃんには●●やるけど、てめえ(私の事)、うらやましがるんじゃねえぞ」って言ってきたの。私、なんにも話してないのに。母よ、なんで、そんなに喧嘩腰なの? 自分が兄から何か言われた時は私に愚痴るくせに。なんなの??ほんと、おまえらなんなの?私、家にいちゃだめですか。
ぐちゃぐちゃ書いて、ごめん。
昔から読書が大好きで、絵本、児童書、ラノベ、小説と年齢によって読むものは変わるものの、学校の休み時間には本を開き、夏休みなんかは1〜2日で1冊読破するペースで読書をしていた。小学校の時の「読書の記録カード」みたいなやつは、50冊で1枚埋まるのを年間で3枚とか埋めて賞状を貰うくらいだった。
が、ここ3年くらい、1冊も本を読んでいない。読書をまったく楽しめない。
本を手で持って、小さい文字を追いかけるのがどうにも億劫になってしまった。
たまーに「やっぱり本読みたいな」と思って、本棚からお気に入りを引っ張り出してきたり、本屋で目に留まったのを買ってきたりして読むのだが、本の数ページ読んだだけで疲れてしまって、飽きる。漫画もそうで、好きな作品をまたイチから読み返そうと思っても、なんか疲れてしまって途中でやめてしまう。
私が思うに、なにか知りたいことがあったらスマホで検索して、どうでもいい情報や広告は飛ばして知りたいところだけ読む、というような頭の使い方ばかりするようになったから、文学的な表現や情景の描写が挟まるのがまどろっこしく感じるようになってしまったんだろう。
ミステリー小説なら、登場人物達にどのような関わりがあるのか?犯人はどうして犯行に及んだのか?どのような方法で被害者を殺害したのか?場所は?道具は?時間は?…というのを、読み進めながら推理して楽しむものなんだろうが、私は「○○が△△を殺した」という事実だけを知りたいと思うようになってしまっているのではないかと思っている。
楽しめないのに無理に本を読むのはただ時間を無駄にするだけなので、別に読みたくない時に進んで本を読もうとはしていないが、本がそこにあるのに開くこともしないのは結構寂しいな、と思う。
大正生まれの祖父は、坊主頭でメガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子である父から聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。
対照的に祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。
祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父の遺影はインテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真の遺影の人でしかなかった。
そんな祖父の遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父へ政府が贈ったものだ。戦後、日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父は戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。
去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父は戦後も抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎の山中にある村で、家業は農家という典型的な家だった。時代が時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。
その頃から興味が沸いていたんだと思う。
遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。
私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日、実家で終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。
兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父は陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要なものは、対象者が故人の場合は申請者との繋がりがわかるための除籍謄本と戸籍謄本といった、役所で簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。
まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父の戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言の事実のみであるのだから。
当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。
読み解いてまず驚いたのが、祖父は1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州で国境警備をしていたらしい。大きな作戦や戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。
次に驚いたのは1944年2月、祖父は除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父が満州で終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父の人生はガラリと色を変えた。
千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。
千島列島といえば、日本の降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島(ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵、終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。
お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島にソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前で漠然としているだけで、よくわかっていなかった。
どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。
祖父のいた部隊は結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。
得撫島はもとより、千島列島は自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい、今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空からは米軍の攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれて沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。
得撫島はラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意の戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずにはいられない。
兵籍簿には、祖父の召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的な情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。
古ぼけた紙は語っていた。戦争は8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ、祖父は戦後も長らく闘い続けていた。自分の血縁者である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父の存在への深みが増した。
シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気が流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ。戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。
祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去な抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父は日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷の山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。
ここでは政治的な話はしない。
兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父の存在がぐんと近づいた。存在そのものを実感した。祖父はちゃんと生きていた。過酷な時代を生き抜いた。ドラマや映画の主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷な環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和な世界でツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。
兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分の流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。
仏間へ行き、再び祖父の遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影は漠然とした無機質なものではなく、凄惨な時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。
今はもう死んでしまったんだけど、戦争についてどう思っているのか、戦時下に何を思っていたのか、その時のことを今どう思うのか、知りたかった。
拳銃を持った兵隊さんの絵が飾ってあった。(おじいさんは強い兵隊だと思っていたら、少し前におじいさんの弟におじいさんは満州で馬の世話をしていたと聞いてすこしがっかりした)
結局聞けなかった。というか死んでからそれが気になった。
もし、もう少しうまくやってたら今の日本はだいぶ違ったんだろうなあと思う。
もっとましになってたかもしれないし、もっとひどくなってたかもしれない。
僕は今は非常事態だとは思っていないが、日本の非常事態というのはこういうものだ、というのがわかった。
やっとわかった。
は?
ふざけんなよ。
俺たちの税金はお前らを身内で讃え合わせるために払われてるわけじゃねえぞ?
こう言うこと言うと「でも、それが市長クラスの仕事だから〜」とか言い出すトンチンカンがいるけどよお、俺が聞いた内容が正しければ単に公務員同士が公務員同士で褒めあってるだけで町内会すら参加してねえらしいぞ。
つまり、ソイツらは俺たちが税金で雇ってやってる時間に「身内が身内に褒められるためのイベントに身内を駆り出して、そのあいだ仕事を止めていた」んだぜ?
許せるかよ。
許せねえよなあ?
アホかよ。
「おお、なんと羨ましい」
「そちたち、誠の忠臣よの。これからも励むが良いぞ」
「ビシッ!」
「ほほほ、そちたちこそ公僕の鏡であるぞ」
とかやってる間によお、公共事業の調整は遅れるんた。
市民が不便を被る時間が伸びても、お役所は「メンゴメンゴ(うっせーなー)」で済むんだぜ?
マジで糞だよなあ。
許せねえよ。