はてなキーワード: 画一的とは
http://anond.hatelabo.jp/20170510230513
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20170510230513
このブコメとか「何言ってんだ!子供最高だろ!子供は全てに優先するんだ!子供こそ正義!子供子供子供子供子供子供子供子供子供!!!!!!!」の大合唱である。
つまりユーザーの多くがそういう世代になったのだ。真の理由は色々あるだろうが、とにかく子供を持ってしまったから、あとは子供最高という価値観に自分を変えていく(あるいは既に変更完了)以外無いのだ。
こういう、いかにもという感じの画一的で視野狭窄で余裕の欠片もない脳味噌になりたくないから子供が欲しくない、というのはかなり大きい。
読んでみて、ねーよとは思いましたが、
なにかしらアプローチを考えようとする人は好きです。
そのまま懐に居座る。で印象を残す。
自己評価が低く、キビシイことを言う人の方が自分を分かってくれていて好きだとおもう人
相手から求められたり、口説かれたりしたことが乏しく求められることにただ喜ぶ人
(見ようとしても、全く見えていない私が言うのもアレですが・・・。)
人によってどういう会話が楽しいのか、どういう時に距離が縮むのかは
千差万別だと思います。そこで手を抜いて、画一的な方法で無理矢理心に押し入って
それが成功すればOKは、まぁ違うかなと。そこはラクしちゃだめなとこでしょと。
国際化が進む日本でも、地方のように、歴史的な遺産の残る原風景も探せばまだまだある。これは韓国や台湾や中国も同様だ。大都会から続く現代都市は、必ずどこかで途切れる。
しかしそういう場所を通ると、必ず別のことにも気づく。それは、本来都市と無縁である地域にもかかわらず、ついこの間まで歴史的に価値のあったような場所が無秩序都市に変貌していることだ。田舎に分譲マンションが建設されていて、本来は学園都市と無縁である地域に大学キャンパスがドカドカ建ち、鉄道や道路は満員状態だ。
東アジアはよく「欧米や東南アジアのように未来志向なだけではなく、歴史もあって田舎もあってバランスが良い」ことを売りにしている。たしかに関西や中部や関東のように、都市の無秩序化対策にとことん取り組みつつ歴史的遺産をきっちり守る場所もある。どうも大都市圏方面ばかりそういう施策はあるのに、田舎のそれを蔑ろにしすぎだと思う。
日本は田舎が都会の何倍以上もあるが、田中角栄政権移行の画一的開発化に伴う開発もあって、もはや「田舎」は残っていない。つまり貴方たちが云う田舎はその地域の片隅にしか残っていない。北関東や東北にも歴史スポットはあるが過去の名残もあっても観光地化に適しているとはいえない。
日本の都市開発はやたら前時代的と言われる。しかし日本において「道路の便利な場所」なら大都市部にもある。例えば札幌と新潟だ。ではそれらを資源として活用しているだろうか?新潟市出身の親父の友人いわく帰省がてら訪問したら悲壮感がただよっててやばかったという話である。文化人はそんな場所で生まれやすい。
オタク文化の担い手の地方出身者の多さは、日本のポップカルチャーというものがいかに社会の暗さを世界に示したように見える。都市や中央の恩恵を受けず、そこで生まれた人間が学と徳を弁え、現地は都市ほど産業が少ないので自営業が多くなり、中には漫画や文学などの作家になってしまう。
こういう系列のクリエイターが首都圏から輩出することは少ない。まして都会の場合、かつて流行していたアングラ漫画とか、社会風刺もののような、どちらかというと現実風刺路線の、文化的な味がやや薄い作品ばかりだ。
私は少年少女漫画・小説の中で東京都市部・神奈川県の地元民が描いた作品がダサくなっていると思っている(あくまでも数字のみで見た考えで、作品ごとの評価は別)。とくに高校生を描いた物は、往年の不良漫画みたいに野暮になっている。同じ関東でも埼玉や北関東のものと比べても悪い意味で飽きやすい。高評価される作品も地方民・地方出身者が書いたものが主流。ギャルやヤンキーのようなダサいものは地方っぽいが、今のサブカル面は違う。
で、なぜ作品のレベルがばらついているというと、やはりそれは地方に行くほど仕事の数が少ないが、時間とお金にゆとりのある人が転入するために、作品作りへのゆとりが生まれやすいからではないか。そういう場所では、ありのままの地元を描くことが難しいが、空想ものの作品を生むにはうってつけの場所だ。
社会風刺と文化的なものが分離されていることが理想であるが、だったらそれがなぜ都会でも出来ないのか。広義の都会人の自分が言うのも説得力ないかもしれないが本当はこういったばらつきはないべきで社会風刺と娯楽ものの区別が明確になければ文化強国は持続しない。
ダテコーの事をよく知らない人や見下したい人ばかり寄ってたかってると感じる。
ダテコーは、ネトゲでいう、「ちょっとLVも装備も足りてないけど変わった攻略法を試したいから付き合ってくれる人募集!」ってシャウトしてるPTリーダーみたいな人だと思う。ネットで叩いてる人は、その「ゆるい募集」を見ずに入ってきて、自分では絶対にPTを立てないけれど、入ったらリーダーの指揮とかメンバーの振る舞いの至らなさに悪態をつく、他人への要求が高すぎる人と被って見える。ダテコーがやっていることは、メジャーで洗練されたビジネスライクな効率PTとは違う性質のもの。仮にてさぐれ部活もの以上の大ヒットを当てたとしても、ひねくれ者のダテコーは大手制作会社のような作品は作らない気がする。自分の信じる「ゆるさ」や「面白さ」を表現するために、永遠にチープでマイナーなもの、悪く言うとキャスト・スタッフや視聴者の好意に甘えた、アットホーム感のある作風にこだわりそうだと私は感じる。そして、そういうスケールアップをあえてしない道は、茨の道だけれどもアリだと思っている。
ダテコーはバウンスィという制作会社を経営してるけど、アニメ業界の人はほぼいない。カネがなく(資本金350万だよ)、テレビ業界とコネがあり、メンバーは構成作家や演出家、音響技術者くらいの10人少々。アマチュアレベルのMMDに手を加えた3Dモデルを動かす人形劇アニメにもかかわらず、大手アニメと肩をならべて放送枠をとっている零細ベンチャーみたいなもの。だから大手制作会社と同様の条件でやろうというのは無理ながらも、キャストを含め作風に共感してくれるスタッフの好意と熱意に支えられて、もがいているチャレンジャーという立ち位置。しかも彼はツイートしてるように、キャストに約束した給料は不払いせずきちんと払ってるし(あくまで大手制作会社とくらべて安いから申し訳なく思ってるって事だろう)、自身は会社設立以来1年間無報酬でやっていて、貯金もほぼないそうだ。局で作家をしていたころは一般サラリーマンの3倍ほど貰っていたらしいが、テレビ局の構成作家は3000万稼いで一人前という世界から身を引いた方なので、ベンツを乗り回してみたいなネットの噂で僻んでも仕方がない。ともかく、稼いでいるのに金払いをケチる悪い人間、という風評は悪意的だと思う。
彼を追ってきた人なら分かると思うけれど、実際はクソ真面目で、言われてるような声優アドリブ芸や内輪ネタに頼りすぎた作風を良しとせず、脚本や音響などスタッフ達がきちんと仕上げて編集する作品作りにこだわっている人。だからこそ、現場がそういうディレクションを軽視して「やっぱ声優さんすげーわ任せるわ」ってなるたびに怒って監督をやめている。職分を超えて、声優の負担を増えさせる不健全な状況には敏感な人だ。実際BDのノーカット版などをみた人ならば、編集はじめクリエーターたちのすごさが伝わっていると思うし、最終回の作り方などには、彼の美学を感じさせられる。
あのツイッター発言についても、本意と違う悪意的な捉え方ばかりされていると思う。本意としては、自虐的ながらも、「ウチは普通のとこと違うし当然売れないもんだから、普通のビジネス感覚でやってくる人とはお互い良くない、俺たちはファミリーが欲しかったんだけど残念だ」くらいのことだと思う。私は別に条件が合わなかった相手をdisる意図はないと感じたし、その条件が合わなかった人のことを指して「技量がない」と言っているようには思えなかった。このへんはネットで西野さんが炎上してた時にも私は思ったんだけど、みんな悪意的に捉えすぎている。「ダセー」だとか「お金の奴隷」は西野さん自身に向けられた言葉だし、自分がお金にこだわって可能性を閉ざすやり方を一部改めたからといって、お金(対価)を大切にする普通の人たちを貶す意図は感じなかった。むしろ、西野さんにも石舘さんにも、普通の人達に対して理解を示す言葉があった。それすらも乗り越えて、それを用意周到な言い訳とみなし、煽られたように捉えてしまいカチンとくる自意識過剰な人が多すぎるように思う。自分の労働ぶりを自虐的に捉えている人がそれだけ多いのかもしれない。
ともかく叩いてる人らは彼を典型的なアニメ業界の監督だと思って、「こういう奴がいるから業界は…」と感じているようだけれど、ここまで語ってきた文脈を捉えてもらえれば、ピントがずれていることが分かると思う。業界の薄給問題でほんとに叩くべきなのは大手制作会社で、彼のようにテレビ業界とのコネとアイデアで飛び込んだベンチャー社長みたいな人を叩いてたら、余計に業界は健全化しないと思う。カネはないけどツテとキャストやスタッフの好意に上手に甘えつつ、アニメ業界に切り込んで新しいカタチを提案していく、そういう立ち振舞は資本力のある大手には許されないけど、ベンチャーとしては参入が許容されてしかるべきだ。そういう遊びを許容しないと、市場に新しい風は生まれない。もちろん、労働法の範囲内でだけど。そこは実際にはおそらく問題ないのに、彼が自虐的な言い方をしすぎるせいで、問題のある労働が行われていると勘違いさせている。新しい風と言ったけど、低予算のMMDアニメだとか、リアルタイム3D人形劇の先鞭をつけたのはダテコーだし、実際人を選ぶけどファンはついてるわけだよ。キャストだって、弱小ゆえの至らなさやダサさをネタにして監督をイジる事は多々あれど、ツンデレというか作品も監督も基本愛しているように思う。そういう文脈を捉えてない人や、一般企業で安くこき使われてる人たちの怒りが、ダテコーというアニメ業界を代弁できないイレギュラーな存在に矛先を向けてしまった。本来アニメ業界の大企業のおエライさん方に向けるべき正論を、辺境の霧の中にぶちこんで無駄にしている感じがする。ダテコーの言うことは、クリエイティブの、しかも不安定なベンチャー分野で通用する、熱意の方向性に関する局所的な話なのに、クリエイティブ業に携わることも、ベンチャーにジョインする人脈や熱量とも無縁な性質の勤め人たちから、「一般常識」で殴られている感じが、見ていて本当につらい。
堀江貴文さんなどもそうだけれど、内面がクソ真面目すぎるせいで強い思想をもち、世間から見ると変わったことをやっていて、世の「普通」に一切媚びない人種の方々は、無頓着だからすぐに炎上してしまう。何に無頓着かって、自身のやってきた文脈を一切とらえずに一般論に基づく感情で殴りかかってくる人たちに「誤解」されないための言葉選びや長ったらしい自己説明をまったくしない辺り。そういう異能たちが、出る杭だと叩かれてノーマライズされる方向に圧力が掛かるのは悲しいことだ。
それはさておき、私はダテコーのような新興の弱い買い手が、背伸びをせず等身大の報酬しか出せないけども、その弱さを隠蔽せず、詐称せず、そして契約を強要せずにいる姿勢はとても誠実だし、ホワイトだと思う。「ウチは小さいから相場ほど報酬あげられないけど本当にいいの?考え方に賛同してくれるとかじゃないとやってけないよ?」と正直に言った結果、断られ続ける。それは愚痴りたくもなるけど、むしろ倫理的には賞賛されるものだと思う。取引は双方の合意があって成立する。そのことを売り手(被雇用者)に常に自覚させ、選択権を与え、冷静に賢い判断をしてもらうことは重要なこと。売り手側が考えるまでもなく、お利口な買い条件しか提示しない、良い所しか見せない企業ばかりだと、判断能力が育たなくて恐ろしいし、画一的でいびつ、非現実的だと思う。経済的に未熟な企業から、成熟した企業まで、さまざまあっていい。経済的に未熟な企業はどうしても無い袖は振れない、これを理解せずに「相場を払えないなら経営するな」という人ばかりだと、誰もPTリーダーをやらなくなる、もとい起業しなくなる。もう少し、柔軟性があってもいいはずなんだ。「ボッタクリでも時と場合によっては買うぜ」って人が稀にいるのと同様、「多少安売りしてでもこの会社この人とならコラボレートしたい」という希少な人の存在を、「賃金」のポリコレ棒で生まれる前に消滅させてしまってはいけないと思う。最低賃金だとかダンピング防止みたいな例外はあるものの、基本的には、どんな値段をつけるのも自由であるべきで、そっちの基本部分の方を甘く見ている人が多いように感じる。ボッタクリにも理由があり、存在価値がある。だから絶対悪ではない。自分が買い手の場合にそういう考え方ができるのなら、自分が売り手(被雇用)側になったときに同じ考え方ができていいはずだ。自由状態でこそ市場は成長するし、人間としても取引に多くを学び、成長していくんだと思う。市場の失敗が起こるとしたら、大体は倫理にもとる行い、ズルをしている場合。産地を偽ってボッタクリ価格を正当化している、とかね。そういう訳でもなければ、一方的にすべての企業に「十分な(平均並の)支払い」を求めるのは、経済理解に暗いがゆえに計画経済的な発想になっている人なのかなと思わせる。イラストレーターの買い叩きとかクラウドワークス的なのが批判される時、企業にもっと払えと言う人がその無理筋ぶりに無自覚なのと同じで。
話を戻すと、彼を叩いている人たちは、経済的に未熟な企業を許さないんではなくて、ダテコー側が倫理的に未熟な企業だと思いこんで叩いているようだ。もちろん倫理的に未熟な企業ということなら、市場の失敗をもたらすから零細でも大企業でも許容されるものではない。ただ、その判断をするのはネットの野次馬ではなく、労基署とか公的機関だけれどね。今回のダテコーの件の場合、ダテコーの側は経済的には未熟な企業だけども、倫理的には叩かれるほどの問題はないと思う。若い零細クリエリティブ企業としてはむしろ身分相応で卑屈すぎるくらいで。これがワタミのような余裕のある大企業で、そのくせ相手に判断させる余裕も与えず洗脳に近いことをして雇用するのだったら大問題となって然りだけれど。
あと、叩いている人たちに感じた疑問がもう一つあって。そもそも、一企業が、従業員を養う責任を負うのが当たり前のように思われているけど、重すぎると思う。そういう考え方をしていると、日本の労働環境はいつまでたっても全体的にブラックなままだと思う。企業はおのおのの身の丈にあった、妥当な配分を労働者に与えればいい。それで足りない場合、国が負担する。それはナントカ手当だったり、ベーシックインカムだったりしてもいいけど。そういう考えが前提になってほしい。経営者だって人間だし、完璧ではないし不安定な存在だ。会社が小さいうちは、自分の人生ですら支えられるか分からない。経営者も若い事が多いし。だからもっと柔軟に、雇用区分だとか時間を変えてワークシェアを進め、流動性を高めて、一企業に人生を預けるようなとんでもない常識を変えていかないといけないと思う。労働をフォールトトレランスな分散型に。
他人に求めすぎる悪態ネトゲプレイヤーがPTにありつけなくなる問題の解決策は、PTリーダーに対する期待値を下げること、あるいは気楽にPTを立てれる空気をつくることだ。そういう考え方が出来る人が少しでも増えて欲しいと思う。人生はしょせん、すべてがごっこ遊びで、全ての人がなんらかのロールを演じているにすぎない。お仕事も、特に日本人のお仕事は、お仕事ごっこだ。そんなに崇高に考えて、他人に崇高さを求めてもどだい無理なんだ。もちろん、実際に崇高度が高くて「強い」企業の横暴には敏感になって良いけれど、相手の顔が見えないネットだからこそ、相手ももしかしたら弱い人間なのかも、と想像することはとても大事なことだと思う。慈しみを。神のご加護を。
もし、これが増田だから本人乙とか関係者乙と穿った見方をする人がいたとしたら不本意なので、一応自己紹介すると、私は中部地方に住む32歳職歴なしのニート(家事手伝い)です。
などがありますが、いずれのソースも単体では味のパンチが弱いです。
なので、それを補うために必ず旨味のある肉類か魚類を加えることが重要です。肉類・魚類に一切頼らないパスタは、それ以外の素材が相当良いものでないと、満足のいく味に仕上げるのはなかなか難しいです。
(※ ソースの旨味の弱さを補うためにコンソメを加えるレシピが多々ありますが、味が画一的になりがちで食べ飽きやすいため、おすすめしません。)
逆に、以下の食材は案外味が蛋白なため、あまりおすすめできません。
また、加工されていない生肉・生魚を使う場合は、塩コショウでしっかり下味をつけるのを忘れないようにしましょう。
そして仕上げに、トングや菜箸でフライパンを 4〜5 周するように全体をぐるぐると激しく混ぜましょう。いわゆる乳化を狙ったものです。
これでソースがトロッとした状態になったら完成です。全体的にパサついていてトロッとならない場合は、EV オリーブオイル / バターを加える前にパスタの茹で汁で調整すると良いでしょう。
最後に、ミートソース(ボロネーゼ)は人気の割に美味しい作り方があまり知られていないため、触れておきます。
特に 1 が重要です。この飴色香味野菜こそがミートソースのコクのベースになります。
飴色になる時間を短縮させるコツは、香味野菜を極力小さなみじん切りにしておくことで、火が通しやすい状態にすることです。手動みじん切り器やフードプロセッサーを使うと良いでしょう。
( ※ ちなみにこの「飴色になるまで炒めた香味野菜」は一般にソフリットと呼ばれ、スープやトマト煮込み等で使うと味の素の役割を担ってくれます。まとめて作り置きしておくと重宝します。)
1, 2 どちらも満たすレシピをざっと調べましたが、 こちら などが良さそうです。(ブーケガルニは省いて良いと思います。)
けもフレは使いやすいワードを使ってるだけで、内容が面白いからではない、と言う層が結構いる
そもそも動物はコンテンツ力が高く、設定を作り込まなくても、調べるだけで(もちろんそれも大変だ)奥行きの深いキャラができるし、作品以外にも自然と広がれる
だがそんなことはけもフレの本質ではない
けもフレの本質は自分を自分のままで受け入れてくれると思わせてくれる懐の深さだ
残念ながら、現実社会、いや日本にはないからここまで支持されている
出た釘は叩かれる、画一的になることが目的の日本の教育のせいで
海外ではけもフレが受けないのは、もともと個性を個性として受け入れる下地があるためだ
けもフレが激しく受けてる人をみると、平均から逸脱している人が多くないだろうか?
上でも下でもそういう人達は、日本の同調圧力のせいで生きづらいのだ
(できる人でもできない人に合わせなきゃいけないのは難しいしストレスなのです)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1611/21/news096.html
人工知能のニュースで逆に人間の方の理解力の低さが浮き彫りになったっていうのがあってそんな馬鹿なとは思っていたんだけど。
文章や発表の趣旨をくみ取ってそれが何を表すのか何のためのものなのかを理解できない人がここまで広く存在するとは。
いや驚いたのはこれ。
http://blog.livedoor.jp/itsoku/archives/50239533.html
前からデータの恣意的表現に対する異常な反応は気になっていたがここまでだったかと思ったね。
番組本編を見ればわかるけどこれ、全然データの目盛の取り方と説明におかしな相違がないんだよね。
池上彰が説明してるのは格差が広がっている原因としてアメリカでは富裕層がさらに富を増やし続けるという傾向があり、一方日本では下位90%の所得が下がり続けている、という趣旨だ。
つまり縦軸の目盛が二つのグラフで違っているということが結論に対して何の悪影響も及ぼしていない。
それなのに
目盛の幅が二つの図でちがう。→ミスリードだ!子供だましのトリックだ!
と騒ぎ立ててしまう残念な連中。
先進国に生まれ、21世紀を生きる人間がこれじゃああまりにもだな。
ああ、ちなみにこれ見てはてなをチェックしてる連中はましだと思ったわ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/itsoku/archives/50239533.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.jgnn.net/ls/2016/12/post-14336.html
平然とネタバレさせるか、ネタバレすることを自己忌避する姿が気持ち悪い。
Twitterのバルスツイート、シンゴジ実況、あと何かにつけてハッシュタグを付けて拡散させようとする風習が気持ち悪い。
「観ないと人生損をするよ」という押し付け感を露わにして、それに対する周囲への配慮とか、そういったものを全く考慮しない浅はかさで、それ自体を恥ずかしくないと思っているのが気持ち悪い。
必要以上に画一的で真新しさもない「映画批評」を乱立させるブロガーとか気持ち悪い。
(とりあえずここまで。他にあったら随時追加する)
こういうのってあらゆる娯楽媒体、ジャンルを問わずいるんだけど、"映画ファン"ほどこういう行為に対して、甚だしいほど厚顔無恥だなー、って思うんですけどどうですかね。
NHK杯戦準決勝の観戦記(「NHK将棋講座」5月号64頁)の冒頭に記された渡辺明竜王の痛烈な三浦八段批判である。
「若手にメールや電話で聞くのはA級棋士としての自覚に欠けると思います。そういう人たちの将棋は並べる気もおきませんね。目新しい手を指しても、どうせ誰かに聞いたんだろ、と思ってしまいますので。こういう人には負けたくないです」(渡辺)。
三浦八段は、若手棋士から最新の序盤情報を入手しており、「三浦八段の得意な脇システムや相横歩取りは、実はすべて若手の研究なのです」(事情通)と言われるほどだ。こうしたことから、渡辺竜王は、三浦八段の他、丸山九段、深浦八段の3人を「質問三羽烏」と呼ぶなど、こうした行動をとる棋士を厳しく批判している。
こうした最近の渡辺竜王発言について、「先輩をなで斬りにする辛辣な口調は若き日の升田幸三のよう」と懐かしむオールドファン声も。いずれにしても、「質問三羽烏」とは、なんともユニークな呼称であり、読んでいて微笑ましくなる。
観戦記は、「現代将棋と情報は切っても切り離せない。画一的な内容は面白味に欠けるというファンの声も少なくない。だから、渡辺は棋界を代表する竜王として、序盤偏重の傾向に危惧を抱いている。冒頭の言葉はそういう観点から発せられたものだ。決して個人的中傷ではないことを断っておきたい」とこの話を結んでいる。
彼氏が酔ったときに「うちのごはん」のCMを眺めながら独りごとのようにつぶやいた。
森高千里のスタイルの良さは誰しもが認めることだろう。あんな健康的で綺麗な脚になりたいものだ。
当時の衣装を見ると、毎回とても短いスカートにストッキングにハイヒールで、それでは全く芸がない、と私の彼氏は説く。
あの、バブル時代の良く解らない派手な衣装は措くとしても、パターンが毎回同じでどうなってんだ! と憤る。
確かにそうだなーと思う。
たとえばチャイナドレスって当時なかったの?
ストッキングも黒いのとか見てみたいのだが!!
靴もハイヒール以外のが見たい!
それと裾ももう少し長くして、踊る中でふとももがちらふわっと見えるように、こう! こう!
前がはだける衣装とか!
もったいねーもったいねー、あの時代、あの美脚を活かしきれなかった、表現が画一的なあの時代が憎い。
楽天がAmazonに追いやられてるというニュースが最近流れた。
いつぞやの優勝記念セールにケチがついてから随分と同じような記事、楽天失墜論を見る。
もう完全に嫌われ役。
このイメージの悪さも斜陽の原因だろうがそれはそれとしておこう。
楽天はAmazonによく比較されているからか楽天自身もAmazonを大分意識していると思われる。
が、そこがそもそもの間違いではないだろうか?
不動産屋と小売業。そもそも比べるのが間違っているのではないだろうか。
わざわざ相手の得意な戦場に乗り込んでいく、しかも相手は一流。
負けるのは自明。
楽天がするべきことはAmazonと戦える店子を作るために「売りやすい環境」を作ること。
Amazonがお客様である「ユーザーファースト」を徹底しているように、
楽天は楽天のお客様である「店子ファースト」を徹底すべきだと思う。
当然不良店子は一掃すべきだが、そのために規制規制罰則罰則で他の店子にも負担を強いることでは店子は疲弊してしまう。
体力のない小さい店舗は撤退し、画一的な店舗だけが残る。Shopping is Entertainmentでは全くない。
CS経営で疲弊した企業が、ES経営に移っていったように、楽天もユーザーファーストから(そのユーザーからも嫌われているのが痛いが)店子ファーストに、
指原莉乃さんによって史上初の二連覇が成し遂げられ、ベテランメンバーの勇退やフレッシュな新顔の台頭に沸いた第8回AKB48選抜総選挙。
80位までのランクインメンバーから構成されるランク帯のひとつ、33位~48位の「ネクストガールズ」に、36位のメンバーとして私の「推しメン」、HKT48の本村碧唯さんがその名前を刻みました。
「推しメン」とはいったものの、私はいわゆる在宅ファン。現場に足を運ぶ勇気もなく、TV番組だって全部はチェックしない、HKTのファンを名乗るのも若干はばかられるくらいのにわかなファンです。
私がAKB48を好きになったのは、ちょうどグループが国民的アイドルへと進化を遂げ始めていた頃、そのきっかけは当時総選挙で初の選抜ランカー入りを果たした指原莉乃さんでした。
「こんな面白い子がいたのか」と贔屓にしていた彼女がHKT48にその拠点を移し、私の関心も自然と博多の少女たちへと移りました。
指原さんの巧みなプロデュースや若いメンバーの瑞々しいパフォーマンスがすっかり気に入り、特定の贔屓はいないものの歌番組やレギュラー番組を時々見て楽しんでいた私の心を奪ったのが、いま「推しメン」として名前を挙げた本村碧唯さんです。
彼女のことは名前だけ知っている程度、いわゆる妹キャラで泣き虫の通称「あおいたん」、というのがその時かろうじて知っていた知識でした。
もともと指原さんが好きというだけあって、どちらかというと一癖二癖あるような子の方が好きだった私にとって、事前情報から判断するに彼女はまったく興味範囲から外れていました。
そんな彼女が、レギュラー番組「HKT48のおでかけ!」にて活躍の著しかったメンバーを表彰する恒例企画「おでかけ総選挙」にてフィーチャーされた活躍ぶりは、あまりに意外なものでした。
畑仕事中におもむろに巨大なミミズを手づかみし、周囲のメンバーが泣きべそをかいて逃げる中ひとり無邪気に笑う姿、キャンプ体験中、ひとり器用に火を起こしスタジオの指原さんやフットボールアワー後藤さんの口をあんぐり開けさせた姿、釜戸で番人のごとく火加減を見ながらウチワを仰ぐ、妙に手慣れた職人のような顔。ベビーフェイスで泣き虫、そして妹キャラというイメージからは想像もできない野生児っぷりに「こんなに面白い子がいたなんて…!」と一瞬にして心を奪われました。
そんなたくましい姿を見せたかと思えば、他の番組では泣き虫キャラとして一躍有名に。メソメソ泣くというよりは話している間にぼろぼろと涙が零れてくるような涙腺の緩さはもはや一芸クラスのインパクトをもたらしていました。
ただこれはただの取っ掛かりにすぎず、私が彼女を「推しメン」と呼ぶようになったのはもう少し後のことです。
この頃からメンバーのSNSをチェックするようになり、他のメンバーの顔と名前もようやく一致するようになりました。歌番組でも、ゆるい在宅ながら彼女に注目するようにもなっていました。
他のAKBグループと比較してあまりダンスに特化していないHKTにおいて、彼女のダンスはずば抜けていました。
小柄な身体をしなやかに操る綺麗なモーションと、若々しいゆえにパワフルな振付を要するHKTのダンスにおいて誰よりも脚が動いている高い身体能力。
グループ楽曲では主に後列にいながらも、劇場公演やTV番組で披露していた「回遊魚のキャパシティ」でセンターを務めたときのフォーメーション先頭に立つ凛々しさ。もともと体育会系として知られていた初代チームKの曲とあって高難易度のダンススキルを要するこの曲において、彼女はかつての大島優子さんのポジションで、当時のパフォーマンスに引けをとらない堂々としたダンスを披露していました。
彼女のダンスは、梅田彩佳さんや木下有希子さんのようなスクールやコンテストで鍛えたプロフェッショナルな巧さと、前田敦子さんや小嶋陽菜さんのような、「抜け」を作りながらもキメ所を外さない、マイクを持ったTVパフォーマンスにおいて最大限に映える巧さをバランスよく兼ね備えています。タイプは違えど、そんな彼女のダンスの巧さは松井珠理奈さんに通ずるものがあるなと個人的に思っています。
私はふだん生息している他ジャンルでもダンスを長いこと見てきましたが、ダンスに弱いと言われがちなHKTにおいて彼女が群を抜いて踊れるのはもちろん、そのダンスはグループ全体でも通用するほどレベルの高いものだと確信しています。
ベビーフェイスのあおいたんがストライクゾーンに躍り出たのはそれが所以です。
劇場公演にて行われるメンバーの生誕祭のたびに彼女がGoogle+に書くお祝いの言葉は、どれもメンバーのことをよく見ていて、人のいいことろを見抜く力に長けた彼女の才能をよく表しています。
特に、後輩である二期生メンバーへの言葉はどれも印象的でした。
「いい子すぎるんじゃないかってくらいいい子」と評した渕上舞さんが選抜メンバーから外れた翌日、選抜に残った側としてどう声をかけるべきか迷いながらも買い物に誘い出したそうです。のちに渕上さんは、その日はひとりホテルにこもるつもりでいたところ碧唯ちゃんが声をかけてくれた、と語っていました。
ことし卒業した岡田栞奈さんに対しては、「はじめはちょっと苦手だった」という一見ぎょっとするような書き出しに続けて、あんまり自分のことを褒めてくれるから裏があるんじゃないかと当初は不安になったけど、次第にそれが彼女のストレートに人を褒められる魅力のひとつなのだと気づいたと記していました。
所属するチームKⅣのキャプテンかつAKBの大先輩である多田愛佳さんのことを「愛佳」と呼び、愛佳がキャプテンでよかったと書くほど強い信頼を寄せています。
SKE48から兼任メンバーとしてチームKⅣにやってきた木本花音さんとも大の仲良し。HKTの先輩にあたる木本さんは、当初はメンバーと距離があり廊下でひとりお弁当を食べていたこともあったそうですが、碧唯ちゃんはそんな彼女を真っ先に「のんちゃん」と呼び、兼任が終わるころには「花音」「碧唯」と呼び合う仲に。木本さんのHKT最終公演にて特別に披露されたふたりのユニットパフォーマンスでは、会場から割れんばかりの歓声が上がりました。
HKT48の周年祭として行われた過去の公演のアンコール上演にて、かつて一期生で披露していた演目を披露した日。いつもと同じ公演後の更新に、楽しかったという旨に加えて、ふだんネガティブなことを口にしない彼女が「自分のことで精一杯で、この公演の経験のない二期生に気を配れなかった」と反省を零していました。
彼女の語る言葉は、私の知らないメンバーの素敵なところをたくさん気づかせてくれます。それは彼女がふだんメンバーに向ける洞察力と気遣いの現れでもあります。そして同時に、彼女が先輩にも後輩にも慕われる人物であることを伝えてくれてもいます。
ドラフト二期生のオーディションではキャプテンとともに選考に加わるスカウトマンに抜擢され、その時指名した松岡はなさんとは、いちばん先輩といちばん後輩というキャリアの差を飛び越え握手会でお揃いの服を着るほどの仲良し。
渕上さんや同じく二期生の朝長美桜さんは、先輩である彼女を「碧唯ちゃん」と呼び親しくしています。
三期生の矢吹奈子さんは彼女を「マブダチ」と紹介。(その真意はいかに)
卒業した後藤泉さんは、彼女を慕って自ら「あおさんのTO」と名乗っていました。
移籍当初その幼い可愛らしさに盛大な寵愛(笑)を受けていた指原莉乃さんとは、今ではお互い元気がなさそうな時に連絡を入れ合う仲。
キャプテン多田さんはことあるごとに彼女の名前を挙げ、もっと評価されていいのに、と悔しさすら零すことまであります。
同期との固い絆はどのグループどのメンバーにも共通して言えることですが、彼女の先輩後輩を飛び越えた強い信頼関係とそれをもたらす「人を見る力」に、気づけば強く惹かれる自分がいました。
そんな彼女を「推しメン」に据え、初めて自ら一票(記念のつもりだったのでほんとうに一票)を投じた昨年の選抜総選挙。
一昨年初ランクインで48位を記録した彼女の順位は、ランクイン圏内ギリギリの80位でした。
ステップアップを目標にしていた彼女にとっては本意ではない順位。それでも、ほんの一票でもそこに自分の票を投じてよかった、81位じゃなくてよかった、もし自分が投票しないまま彼女の名前が呼ばれなかったら、もしその一票で彼女が81位に落ちていたらずっと悔やんでいただろう、と心から思う自分がいました。
自分が投票した子が呼ばれるって、こんなに嬉しいことだったんだ、と気づかせてくれた瞬間でした。
ただ、選抜常連の人気メンバーとはいえ最後列の端が定位置だった彼女にとって、その順位は試練を意味するものでもありました。
高校3年生になり、後輩も増え、一期生だけの頃のような妹的なポジションにはいられない立場。
AKB選抜に名を連ねる宮脇さんや兒玉さん。グラビアで活躍する同期。野心に溢れた二期生の開花。圧倒的な妹分である三期生「なこみく」コンビの存在感。そして逸材揃いのドラフト二期生。
層の厚いHKTにおいて、彼女の存在感が常に安泰とはいえないような1年でした。
そして最新シングルで初めての選抜落ち。私も、そして彼女もGoogle+に記していたように、「いつか来るかもしれない」と危惧していた瞬間でした。
今年の選抜総選挙を直前に控えた頃、「HKT48のおでかけ!」にて、一期生メンバー数名を集めた食事会の様子がOAされました。
そこで彼女が口にしたのは、「アイドルに向いていない」という言葉。
それを聞いたとき、私は「そんなこと言わないで!」と思う反面、たしかにそう言える節もあるかもしれないな、と妙な納得を覚えていました。
AKBが「アイドルらしさ」という画一的な価値観を打ち破った昨今、「アイドルに向いているかどうか」は一概には決められないと思っています。
それでも、彼女の性格はたしかに、セルフプロデュースがカギを握るAKBにおいては、たしかにあまり有利には働きません。
そしてそれが、悲しいかな彼女の長所と紙一重であるとも思っています。
碧唯ちゃんのダンスはたしかにグループでも指折りの巧者といってよいほど。
ただ、その長所は、言葉を選ばずに言えばアイドルとして当然に求められるスキルが秀でているだけのことにすぎません。
もちろんどんな特技や長所を持つ子でも、みんな同じくらい努力をしているしそれぞれの秀でた能力そのものに優劣の区別はつけられません。だけど、アイドルとしての彼女のそのスキルは、集団の中で目を引いたりテレビで大きく取り上げられたりはされにくいという面があります。(例えるなら、学校のテストで満点や一番を取った人が、スポーツの大会で優勝した人のように賞状とトロフィーが贈られ全校集会で表彰されるとは限りません。)
さらに、碧唯ちゃんは本当に周りをよく見て他者に気を配る代わりに、あまり自分をグイグイ出すことはありません。
ファンに対して強いアピールや確固たる目標を口にするのもあまり得意でないようです。
真面目な性格の分器用に立ち振る舞うのが苦手なようで、指原さんに「適当にできない(TVのアンケートに時間をかけすぎて怒られたりする)」と涙ながらに相談していたこともありました。
二期生や三期生の急進メンバーのような、キャラを立たせ、おいしい機会を逃さないというハングリーな強さにはやや欠けるところもあります。
私はそんな不器用なほどにまっすぐなところも含めて彼女を好きになったのですが、たしかにそんな彼女の課題(欠点とはいいません)は大きなハンディキャップになります。
人前で決して弱音を吐かない潔さの反面、悩みや本音を抱え込んでいないか少し不安に思うこともあります。(多田さんや木本さんがそんな彼女の性格を慮っている様子を時々見かけます)
周りをよく見ているだけに、選抜から外れたときも、悲しい顔をしていては初めて選抜入りした二人が喜べないから、と、初選抜のメンバーを祝福する強さをもっていました。
誤解を招きたくないので念を押しますが、私は決して、彼女が報われないと嘆いているわけでも、彼女を不遇のヒロインとして描きたいわけでもありません。
ただ、彼女の素敵な魅力は課題と紙一重になりかねない、だけど私は彼女のそんなところを好きになったんだ、というもどかしい思いを抱いているだけです。
セルフプロデュースによってスポットライトの下に行き、ファンの物理的な支えで直接その光を浴びるアイドルとして、彼女はあまり器用な人ではありません。
そういう意味では、たしかに「アイドルに向いていない」と自らを評価する気持ちも少しわかるような気がします。
それでも私は、今年も彼女にアイドルとしての期待を託し票を投じました。
不器用でも人目を引きづらくでも、彼女のスキルと頑張りを評価したいと思ったから。
器用に振る舞えない分、どんな時でも一切弱音や環境への不満を漏らさず、たとえ冗談でも他人を悪く言わない彼女のまっすぐな姿勢に惹かれているから。
選抜から外れ、アイドルに向いていないと自分の魅力を陰らせてほしくなかったから。
そして何より、彼女が数多いるアイドルの中で私の目に飛び込んできてくれた唯一の存在であるから。
実のところ、在外中ということもあってモバイルのキャリア認証の壁に阻まれたこともあり、実際の投票数と貢献度はほとんどないに等しいようなものです。彼女の結果に「頑張ってよかった」とも「悔しい」とも言えるような立場ではないただの在宅として、ほんのわずかでも彼女に届けば、との思いで票を投じました。
そして昨日、開票が進み、HKTメンバーの名前が続々と呼ばれ、私ももしかしたら彼女も、今年はもうダメかもしれないと不安を抱き始めた頃、36位のスポットライトは、本村碧唯さんのもとに当たりました。
両手を深く握りしめたガッツポーズ、両手を大きく挙げて喜んだ指原さん、36位のスピーチ中にカメラを向けられ、大きな笑顔でピースを作った仲良しの後輩、松岡はなさんの姿。
速報順位から大きく狂い、「箱推し票」ともいえる第一党グループをかけた駆け引きに左右されたとも噂される大混戦の中、HKT48全体で6番目の位置につけた彼女は、昨年から1万票以上増えた得票をもって、この日自身の最高位を記録しました。
開票終了後に更新されたGoogle+には、彼女の喜びと感謝、そして選抜復帰にかける意気込みに続いて、こんな言葉が記されていました。
「1人じゃ何もできないので(以下続く)」
私はこの言葉を見て、初めて彼女に少しだけ怒りました。(といっても心の中で「もうっ><!」と思った程度のそれ)(基本欠点を指摘する暇があったら好きな子のいいところをできるだけ多く見つけたいタイプ)
碧唯ちゃんは、ひとりでは何もできないようなアイドルではありません。
ずば抜けたダンススキルはグループの垣根を超えて、高橋みなみさんの卒業を前に企画された特別公演の一つ「ダンス選抜公演」に抜擢されるほどの評価を得ました。
メンバーに向けた気遣いとパフォーマンス能力の高さは、自身の誕生日に際し他のメンバーが「これからは碧唯が自分のために動けるように」とコメントしたり、キャプテン多田さんが「頼もしい」「もっと評価されていいのに」と評価したりとグループ内で確固たる信頼に繋がっています。
大混戦の中36位というグループ6番手の位置につける得票は、紛れもない彼女の魅力と功績への評価がもたらしたものです。
彼女は今年の総選挙の目標を掲げるにあたって、「唯一碧く輝く宝石になれるように」という自信の名前に由来して、輝く宝石になりたいいつも自分を輝かせてくれるのはファンのみなさんです、と語ってくれていました。
その言葉がとても彼女らしくて嬉しく思うと同時に、「逆だよ、あおいたん」と思うこともしばしばありました。
本村碧唯というアイドルは、それ自身がキラキラ輝きを放つ碧い宝石です。
磨かれて宝石になるのを待ってるんじゃない、もうとっくにあなたは宝石なんだよ、と、勇気が出ず握手会にも行けない在宅は心の中で叫ぶほかありません。
たしかにAKB48という世界において、最終的に彼女たちにスポットライトを向けるのはファンの力です。
それでも、少なくとも私は、「この子を宝石に磨き上げたい」という思いではなく、「この綺麗な輝きをもっともっと光らせたい」「この美しい宝石に似合うステージへ歩むべく少しでも背中を押す声となりたい」という気持ちで彼女を応援しています。
何より、数多いるアイドルの中から彼女を見つけるための道しるべは、他でもない彼女自身の放つ光だったから。
決して器用ではない彼女が、今年になってたくさん言葉にしてくれた強い思いを、一にわかファンながら嬉しく頼もしく思っています。
だから碧唯ちゃん、これからは、その輝きでみんなを照らしていってね。
碧唯ちゃんが輝けば輝くほど、その光をもっと広く届けたいと思う人が増えるはずだから。
あなたはとっくに輝いてる、本村碧唯という宝石は今まさにスポットライトを浴びて輝きを一層増そうとしているのだと、彼女が自信をもてるようなきっかけになればいいな、と願っています。
本村碧唯という、碧く輝くただひとりの宝物に、心からの祝福を。
勢いで書き殴っておいて最後に言い訳するのは最高にかっこ悪いのですが、私はほんとうにただの在宅にわかで、今回の結果に至るまでに頑張ってくれた彼女のファンの皆様にただただ感謝するばかりです。
何の力にもなれてないファンだけど、大好きな碧唯ちゃんの飛躍が嬉しい気持ちには変わりなかったので紙吹雪代わりに匿名でネットの海にばらまくことをお許しください。
了
最近ツイッターばかりやっていて、どうも140文字で言葉をまとめる…というより無理矢理詰め込むような表現に疑問を感じていた。
文章には情報を搭載する能力だけでなく、それ自身流れを作る力がある。
文章はただ情報を集めてまとめるだけでなく、文章の作る流れの力でそれを自然と読み手の脳内に流し込む機能が求められている。
140文字にまとめられた言葉にはそれがない。代わりにタイムラインという一種の強制力が、ただ時間の流れとしてツイートを五月雨式に送り込み、ユーザーの意識を同期的に支配することになる。
問題は2つある。
一つは、ただ時間軸に乗せられて流れる言葉にはロジックが内在しないということ。
文脈、前提条件などと言っても良い。
140文字で切り取られ、一秒単位の更新時間で機械的に並べられるライムラインだとか、RTによる拡散だとかでポップアップしていく情報には、大抵文脈が欠けている。どんなに短い言葉にも、本来書き手がそれを発するに至った個人的社会的意義、文脈というものが存在するはずなのに、切り貼りされたタイムラインの中で、140文字でそれを表現するのは事実上不可能だ。
この弱点を克服し、140文字でなにがしかの「感銘」を与えたように感じさせる、注目されるために、ある種の野心を持ったツイートには、つねに何か擬似的な文脈のようなものが付加される。
具体的に言えば、一種の「ベタ」でコーティングする。みんなが叩いているものを叩く。誰かへの批判。「俺たち」の賞賛。「敵」を認定し、「俺たち」の立場からそれをやっつけてやる。大抵はおおむねそんなものだ。しょせん擬似的な文脈なのだから。
タイムラインはより大きな文脈を忘れさせ、たかだか140文字ででっち上げられる程度の擬似的な文脈を、その陳腐さを省みさせることなく肥大させ続ける。タイムラインは流れるだけで永遠に蓄積しない。言葉を重ねれば重ねるほど、そこで人は深い認識を失い、空虚な幻惑のなかをさまよいつづけることになる。
二つ目は、一つ目の現象の裏返しとして、本来あったロジックも見えなくなりがちなところだ。
またある種の、野心より挟持を優先したツイートには、このようなでっち上げの文脈よりは多少複雑な、固有の文脈で送り出されるものがある。
ツイートをパラグラフか段落のように見立て、またそこまでではなくとも、マッシュアップされる前の自分自身のタイムラインだけで醸し出される文脈を大事にする。更新時間で並べ替えられたタイムラインで目立つことよりも、自分自身の文脈のなかでメリハリの利いた言葉遣いであることを意識する。
このようなツイートは、その真意を読み解くために、投稿者の背景や前後のツイート、RT、さらにはここ最近ちょくちょく取り上げている問題が何かを把握しないと、場合によってはほぼ反対の意味にすら解されてしまうことがある。そういうことを、恐れずに(もしくはあまり注意せずに)発信されている。
…とこれは少し主体的に書き過ぎたが、そこまで覚悟を決めてなくとも、あえて「ベタ」な文脈に固執しているタイプの並々ならぬ野心に燃えている場合を除けば普通はいくらかはこのような、個人の文脈にとらわれた「誤解の恐れのある」ツイートをしているものである。人間の自然な生理として。
タイムラインはこれら全てを切断し、タイムスタンプだけに依拠したツイートのリストへと単純化する。読む人はこの流れに支配され、ただタイムラインのなかの異物として特異な文脈を持ったツイートを認識する。
ある人は身勝手に単純化して「俺たち」の賞賛として受容し、ある人は身勝手に単純化して「俺たちの敵」の悪あがきとして攻撃する。個人的にはあるツイートがどのような文脈で生み出されたものであるのかを常に気にしているし、そうやって探るうちに見えてくるものを楽しみとも感じているのだが、そういう人はすくない。
そういう人のことを、わからないわけでもない。
結局のところ、繰り返すがこの問題はものごとの裏表であり、前者が後者を生み出しているところがある。
タイムラインで目立つということが一種の生存競争として成立してしまった状況下で、文脈を捨て去った(あるいは、単純な疑似文脈に頼り切った)ツイートが力を増すなかで、より普通の文脈を持った言葉が埋もれていく。同じ分別ラインで処理されていく。
紋切り型のツイートにならされた脳は、運動をしなくなった身体のように、柔軟性を失い、運動性能を落としていく。認識の単純化とともに、目に見える世界もまた色を失い、記号化されたデジタルな情報としてしか理解できなくなっていく。
事態の改善には、これを考慮して考えると、まず自らのなかにある文脈に意識的になることだ。
大きな文脈とは何かを忘れた状態で、大きな文脈を読み取ろうと努力だけしてもなかなかうまくはいかないものだ。
タイムラインの支配から抜け出す。画一的に切り取られた140文字の枠を忘れる。
140文字で書かれた言葉の軽さに気づく。140文字で書かれた言葉の、裏にあるものの重さに目を向ける。
だからといって長文を気負う必要もない。枠を気にせず書いた結果なら141文字でも良い。なんなら140文字以下でも良い。
字数調整から意識を解放し書きたいことを書きたいように書き、書き散らかった内容を字数で言い訳せずにうまく落とす。
多少無駄があっても良い。しょせんこれは日記である。自分が思っていることを、どれだけ複雑な文脈でものを考えているのかを、考えるべきなのかを、あらためて認識する。
そのきっかけになれば良い。
自分自身の複雑さに気づくことが出来れば、他者の複雑さを慮る準備もできるだろう。
部屋のなかは蒸す。
コンビニにでも行こう。
こんなこと昔じゃ考えられなかった。曾て何にでも噛みついたユーザーコミュニティーは死んで、ベンダーの一挙手一投足について翼賛する者だけになってしまったからだ。最近では誰もが批判者なのに、画一的になってしまったおかげで、一度集団ヒステリーに陥ると、なかなか気付かない。
まとめてみる。似たような言葉が並んでいるが。
<まとめ>
・横一列で競争を嫌う=みんな一緒
・ポジショニングできない=横一列
=やばいかも
⇒産業は衰退し原始人にもどりそう
●だから
性別に関係なく男性的な思考と女性的な思考の両方をバランスよく持っている人間が理想的
<まとめここまで>
色々突っ込みどころはあるが、
まず、ポジショニングってなんなのか。急にモノを配置始めるのか、俺はここだもんねとか言い始めるのか。
何とでも取れるが好意的に「職位・職掌の采配」とでも見ておく。
上記から推測すると、男性的・女性的思考は次のような特徴として見ていると思われる。
・横一列での競争
=結果による職位・職掌の采配
・競争を伴わない=(転じて協力的な業務遂行・ノウハウの共有?)
要は競争原理と成果主義の仕事に無理に非競争と画一的な職務采配を導入するとヤバイ。
そりゃそうかもしれんが。
何がヤバイって社内の話に留めておけばいいものを経営や産業の理論とやらが破壊されて
原始に戻るほど競争・階級主義じゃないかと思うが原始人=ド低脳ぐらいに好意的に読み替えても
それはもう女性とか男性とか限らずド低脳のトップと社会だったに過ぎないんじゃないかと。
住宅メーカーや地元のビルダーが「○○○万円で一戸建て!」とか宣伝しているよね。
あれを見て住宅展示場とかに足を運ぶお客さんも多い。
でも実際のところ、そんなお客さんが○○○万円(坪25~30万円)の家を建てることはまずない。
些細なこだわり、好みでも、カスタマイズしていけば結局普通の値段になってしまう。
要するにあれは人寄せパンダ。
それに寄ってきたお客さんを取り込んで普通以上の買い物をさせるため。
まあそれでも建主が満足してるならいいけど。
個人的には、部屋数とか面積とか自分の必要最低限の条件を満たしていれば○○○万円の家でいいと思う。
子供がいても、そのうち出て行って戻ってこない。一緒に住まない期間のほうが長い。
無駄な借金して金利払うより、少しの間だけ安い家で我慢して、差額を他に使ったほうがいい。
それじゃロマンがない?
もっとコストパフォーマンスのいいロマンもあるよ。