はてなキーワード: 挟持とは
http://www.fujitv.co.jp/muscat/20180392.html
ファンがこわくてセリフを変えられないのかと思ったらプロデューサーの希望だったと。
このプロデューサーのやったことは結局、できのわるい原作者へのファンレターだったというだけで「作品」とも呼べないものに落ちている。
クリエイトした意味を問いたい。清々しいくらいにプライドがない。
批判が怖いだけじゃん。
おまけに尺都合で必要な「間」もなく、駆け足な話の流れ。
昔話ですが。
当時つるんでた知人(5歳くらい年上だったと思う)がスラダン大好きで。アニメ化して喜んで見てた。
自分も原作は読んでてそこそこ(途中まで)面白いと思って読んでたからアニメも見始めた。
だから正直に「そのまんますぎてつまんなくない?」と知人に訊いた。
彼女はまんがそのまんまがいい、原作が大好きだから、原作に声がついてるのだけが見たい、といった。
自分は20歳そこそこだったけど、この意見というか気持ちがなんかカルチャーショックだった。ヤック・デ・カルチャ。
原作がある場合は、そういう思いのファンも少なからずいるんだなと認識した。
それはそれとして。
原作あれど、アニメ化するうえでは新しい作品を作るわけじゃん。クリエイターとしての挟持とか、原作超えたるわい!ていうような自負とか、ないんかい。
知らねーよ。
いっそゴッドマーズぐらい突き抜けたらどうなんだいと思うわけ。
逆にね。
今、JOJOの黄金の風アニメもやってるわけだけど。JOJOはあの原作に対してどうやってアニメ化するのかを一部からすごい試行錯誤してて、原作へのリスペクトもすごく感じるわけで、あれはある意味「原作のまま」が昇華されてるなと思う。すごいと思う。
でもスラダンはどうなのよ。
そっか、リスペクトか、足りないのは。リスペクトが感じられないからつまんないのかな。
BANANA FISHはでも、原作大好きな人たちが作ってるんだよね。でもつまんないんですがそれは。製作者の力量かね。
( 2018年秋アニメ2話までほぼ全部観たから感想書く その3 からの続き)
スマホゲー原作。時代劇にみえて異世界ファンタジー。舞台は概ね幕末あたりか。タイトルにある通り元々恋愛ゲームだけれど、アニメ化にあたり導入部分が改変、恋愛要素が廃されている模様。
史実のイケメンがたくさん出てくるので概ねチャンバラアクションがメイン。一方でモブとの戦闘がコントじみてて、シリアスになりきれない感じが好き。流血表現もない親切設計。
タイムマシンを使って訪れたパラレルワールドの幕末を舞台にしたファンタジーなので、登場人物は割と何でもありの模様。幕末なのに真田幸村出てくるし。原作ゲームはどれくらい武将が出てくるのだろうか。
「きつねのこえ」と読む。中国の人気漫画原作ショートアニメ。ゴーストシンガーソングライターのお仕事。制作はゆめ太カンパニー。
中国の原作でで日本でも放送する作品ってなんか世間を出し抜く影のヒーロー的なシナリオ多い気がする。
ゴーストシンガーソングライターという、おそらく現代ならではのモチーフが面白い。もちろん多少のファンタジーこそあれ「匿名で活躍する、顔も名前も分からない有名人」っていうのは実在するわけだし。意外だったのは「名声を得たイケメンアーティスト(声だけ偽物)」と主人公が対等な関係として描かれてること。「世間一般における成功」の、形というか在り方の変化を感じた。
コウテイペンギンのヒナが京都のまちを探訪するショートアニメ。ナレーションは森本レオさんでも岩合光昭さんでも増岡弘さんでもなく堤真一さん。
内容的には「街を歩くペンギンが可愛い」なので、毎週と言わず毎日放送してくれても見れるやつ。あとモブが無言でペンギンにスマホを向ける姿が今っぽい。
スパイク・チュンソフトのゲーム原作。元のタイトルは「CONCEPTION 俺の子供を生んでくれ!」。R-15なのでエロゲーでは無い、のかな。ちなみにアニメ放送に合わせてPS4移植版が発売予定。唐突に始まる異世界ハーレム生活。物語の本筋にたどり着くため、1話は怒涛の展開。
全体的にゲームのリスペクトが強い。例えば12星座の巫女システムをそのままシナリオに落とし込んでいる。ゲームのサントラかな?っていう感じのBGMに、ゲームのような演出、ゲームの解説パートみたいな解説パート。ゲームのチュートリアルだコレー!?
ゲームシステムの肝が「擬似セックスで戦力増強」なのが原因なのか、出てくるゆるキャラがゲスい。カマトトぶるキャラクター達の分までシモネタを吐き出しまくる。
結局セックスするんかーーーーーーーーーーーーい。セックスを描いている=18禁、ではないのね。単純に直接表現(秘部の露出とか)があるかどうか、っていうことなのかな。
監督の古川博之(「はじめてのギャル」監督等)が立ち上げた制作スタジオ「マギア・ドラグリエ」共同制作アニメ。
「妹の名を冠するラノベ」という、一種のテンプレートがあるのね。説明的な前置きが少なめで話を進められるのはアニメにとって大きなメリット(例:家に両親がいないのはなぜ?とか)なのかな。
1話はシスプリコラボ回(コラボ時間 約60s)。ちなみに作中のキャラクターと絡み無し。イースターエッグ的な趣向なのかな。永見涼花の中の人曰くアフレコブースが凄いことになっていた、とのこと。
シリーズ構成は「はじめてのギャル」で監督と一緒に仕事をした人なので、作品のベクトルは「はじめてのギャル」に近いかも。冴えない主人公を中心としたハーレムモノ。古川博之監督が手がけてきた作品の流れをくむエロアニメ(「奥様は生徒会長」「魔装学園 HxH」「はじめてのギャル」など)なので、Q:なんでヒロインはパンツとか乳首晒してんの? A:監督がそういう作品を作ってきた人だから と思われ。「妹さえいればいい。」「エロマンガ先生」みたいな作品を想像しながら観ると大抵びっくりする。でも監督が手がけた他の作品と比べ疑似セックスシーンが無いのが気になる。徐々に本気出すのかな。
ビキニアーマー販売店の日常ショートアニメ。冒頭のドット絵とか作中の8ビット音楽とか、ファンタジー世界というよりファミコン時代のRPGが舞台といった感じ。ゆえにゲームでしか出てこないようなデザインの防具を売っている。当時のあるあるネタとか出てくるのかな。
ひかりTVのみ見放題。アマプラ等で各話が有料配信されている他、公式Youtubeチャンネルで1,2話が無料配信中(コレで1話を観ようと思ったのだけれど、右上とか下に出ているテロップがどうしても耐えられなかった)。
Netflix独占配信。DEVILMANと同様全話一斉配信済み。
FOD独占配信。1期みたいに後で1話ずつ無料配信してくれないかな。
いろいろある作品の企画でも特に「アニメと同時に展開されるスマホゲーム」というパターンは2010年以降に顕著な形だけれど、いかに現在スマホゲーが他のコラボの形と比べて儲かっているかが分かる。いち視聴者として思ったのは「スマホゲーなんて片手間でできるレベルのものしかないし、たいていおもんないやん。その派生/宣伝であるアニメ化なんて推して知るべし」という雑な先入観はクソの役にも立たなかった、ということくらいだ。そんな私にとって本年は、スマホゲーと同時展開でアニメを制作するというやり方が「最もメジャーなアニメの作り方の一形態」として確立しているんだ、ということを再認識する機会に恵まれた年になった。今後もこの形がアニメ界隈を席巻していくのかな。楽しみ。
新作1話全部視聴はおすすめできない。今期は敢えて「1週間で全作品を追っかけるためのスケジューリング」を組んでみたのだけれど、仕事をしていない時間をほぼすべてアニメに突っ込んでようやく、という感じだったので「生きるためにアニメを見ているのか、アニメを見るために生きているのか」ということをいよいよ真面目に考えてしまった。「尊すぎてしんどい」の「しんどい」は多分これじゃない。
そんなこんなで新作を一通り観てみるという趣味を続けて早1年近くになり、それを経た率直な感想は「なんて業の深い趣味なんだ」ということである。趣味の域を超えているというか、誰も幸せにならないというか。少なくとも作り手が「毎期何十作品も見比べている人」を想定してはいないだろう(知らんけど)。もっと別の、それこそ何らかの個人的な挟持でもない限り継続は不可能に思える。これを成し遂げている人がいたらぜひ「なぜ?」と聞いてみたいくらいだ。そういう意味でも、新作1話全部視聴はおすすめできない。
ちなみに毎期に渡って特に1話切りはしていないけれど、かといってすべての作品を完走しているわけでもない(理由として一番多いのは「作品が多すぎて、どれを観ていてどれを観ていないのかわからなくなる」だったりする。あと夏期は転職したり通勤中の事故で救急車のお世話になったりストレスで難聴になったりと色々忙しかった)。完走した作品の感想を書くのは本旨にそぐわないので省略するけど、以下に今年完走した作品の一覧を乗せる。リアタイ勢の参考になれば幸いだ。
〜作品一覧〜
からかい上手の高木さん
ヒナまつり
鹿楓堂 よついろ日和
ルパン三世 Part 5
SAOAGGO
〜ここから旧作〜
アニメガタリズ
エロマンガ先生
ヤマノススメ 1st,2nd
のんのんびより 1期、2期
響け!ユーフォニアム 1期
ゆゆ式 1期
ゆるゆり 1期
それで一部の人達が765ASがまた公式に見捨てられた!俺たちはこんなに765ASを応援したいのに、やり場がない!またみんなまとめてアイマスの名のもとに俺たちは葬りさられようとしている!って言っている。
もちろん騒ぐのは自由だし不平不満を言うのも自由だ。けどさ、子供じゃないんだからもう少し想像力を働かせてポジティブに生きようよ。
デレミリエムDSを応援している人達が同じような思いをしつつ、ASが辿った道をより発展させながら進んでいるとは思わないのか?自分たちのような思いを他がしていないと思うのか?
デレが初めて登場した時にただの課金ポチポチゲーだって煽られたりアニメが逐一アニマスと比べられたり、ミリがグリー版終了してエムが先にアニメ化して本家の加護を受けながらこのザマって言われたり、
エムがホモマスって煽られたりユニットの格差がデレも真っ青なレベルだったり、DSに至ってはカメオ出演すら満足にない有様だったりしてきたけど、それでも頑張ってきたじゃないか。
それらは一部の心無い人たちだけであって、俺達は他に迷惑かけずに真摯にASを応援してきたって言うだろう。そう思うよ。でもだからいつまでもそこに固執して、最終的にサクラ大戦みたいに閉じた世界になって、
同窓会がうっかり三次会まで続いてしまって終電逃して身内だけで居酒屋でグダグダして全く生産性のない昔の思い出話だけしながらひっそりと終わっていくような、そんな寂しい宴がいいのか?
俺はそんなの見たくない。SPの頃からASデレミリエムDS全部応援してきたけど、ASが残した足跡に敬意を払いながら、でも自分たちのやり方で、もっともっとすべてのアイマスが発展してほしい。
その為に(ASと比べて)若いコンテンツをメインに据えるのはそんなに悪いことなんだろうか。マッカーサーだってAn old soldier never die, just fade awayって言ってたから歴史に残る将軍になったんじゃないのか。
初星宴舞は感動したよ。久しぶりに歌って踊るアッキーを生で見て本当に嬉しかったし、仁後ちゃんが応援してくれる人がいる限り続けたいって言ってくれたときはミンゴスみたいなリアクションを席でしていたよ。
でも演者の発言を依り代にして自分たちのスタイルを曲げずに愚痴を吐くのを正当化するような関わり方はしたくない。残念は残念だけど、それで他に対して扱いの差を嘆くような愚痴を吐くより、もっと先輩としてどんと胸を張ろう。
部下に仕事を任せて、会社が成長することを願おう。いつまでも最前線でいることを求めず、明日の仕事への期待と今まで成し遂げてきたことの挟持を胸に良い酒を飲んで一日を終えよう。
すぐに切り替えるのは難しいけれど、俺はそうしたい。多分そうした方が、長い目で見たとき自分の人生を楽しく振り返ることができるはずだ。
http://anond.hatelabo.jp/20161119215613
最終的にキリスト教様様に持っていきたい方のご意見と思い反論をさせていただきます。
◇黒澤明『生きる』を観る。
⇒結論:子供に生きる意味を見出してる人が多いけど間違い。とにかく楽しく生きることに意味を見出すのも違う。生きる意味は、何かを作り出すことにある。
⇒疑問:何も作り出せない人はどうすんの?
作り出すものは商売になる創作物だけではありません。実際、生前は優れた創作を作りながらも全く評価されなかった芸術家も数多くいます。自分が作ったものが評価されるかどうかは後世の人の価値観によるものです。
◇宮崎駿『もののけ姫』庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』を観る。
⇒結論:生きるのはめちゃくちゃ辛いけど、とにかく生きなきゃダメ。
⇒疑問:いや、理由は?
まあ、今時の若者に対しての「死ぬんじゃねーよ。俺たちの老後が困るだろー」っていうプロパガンダ的に優秀な作品ですよね。
◇イニャリトゥ『バードマン』を観る。
⇒結論:生きる意味は成功や名声にあるのではない。やりたいことをやることにある。
⇒疑問:やりたいことをやれない人はどうすんの?
やればよくない?
やれないなら、やれるところから自分のやりたいことを探すこともできるはず。
◇カフカ『城』『変身』を読む。
⇒結論:個人の生きる意味は社会に占める地位(職業、父)を通してしか存在しないよ。
⇒疑問:そんなん辛すぎて死ぬわ。
悲観論に引きずらるのは、悲観論を正論としたい気持ちがあるからでしょ。カフカ存命中とは全然社会状況違うし。
⇒結論:群体としての人類ならともかく、個体としての人間には生きる意味なんかないよ。
⇒疑問:・・・。
ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上の星の輝きと、わが心の内なる道徳律
~~この辺で上記の映画・本が前提していた無神論(=キリスト教でないこと)に疑問を持ち始める~~
⇒結論:個人個人の高潔さが人類全体の罪を贖うんだよ。そこに生きる意味があるんだよ。
⇒おお・・・
⇒結論:金儲けや教育や物書きの才能がある人はそれで後世に遺産を残せる(そこに生きる意味がある)けど、そうでない人も、高潔な生涯を送ればそれ自体が後世への遺産になるんだよ。
⇒(泣)
◇『聖書』を読む。
例えば自分が自殺しようとする時に、「どうせなら他に死にたいと思ってる人を救うっぽいことして死んだらカッコよくない」くらいの感じじゃないすかね。
恋愛心理の特集をしたいと知り合いの編集者に頼まれて、裏付けがあるわけではないのに、「こういう性格の人は、こういう男性と付き合うほうが心理学的にもいい」と言うことがあるわけですね。それなんか、すごくいつも、ちょっと罪悪感、後ろめたい気持ちがある。
自分のなかでは、これは治療行為とは違うんだ、エッセイを書くのと同じようなもので、ああそうなんだって思う人はそれでいいし、これは絶対真実だとみんながみんな思っているわけではないんだから、解釈という範囲で済むことなんだとか、そうやって自分に言い聞かせながらやっているんです。でも、それだったら精神科医って言わずに、エッセイストとか詩人とか言うべきだよなとか、そうじゃないんだからおかしいよなって思ったり、これでも葛藤があるんですよ。
だから、私の場合は、自分だけの話なんですけど、白衣を着た写真は絶対に出さないという線引きがある。白衣を着た私が「こうですよ」と言っているのは、それはやめてもらって、白衣という権威は利用しないっていう線引きがあるんだけど、それは全然あまり意味のない、それだけのことで。
ただ、いずれにせよ、うしろめたくやっているんです。うしろめたいからいいとか、うしろめたくないから悪いとかじゃないんですけど。でもきっと、うしろめたくない人もいますよね。「あんなもんにだまされやがって」って思いながら言っているんですかね。
最近ツイッターばかりやっていて、どうも140文字で言葉をまとめる…というより無理矢理詰め込むような表現に疑問を感じていた。
文章には情報を搭載する能力だけでなく、それ自身流れを作る力がある。
文章はただ情報を集めてまとめるだけでなく、文章の作る流れの力でそれを自然と読み手の脳内に流し込む機能が求められている。
140文字にまとめられた言葉にはそれがない。代わりにタイムラインという一種の強制力が、ただ時間の流れとしてツイートを五月雨式に送り込み、ユーザーの意識を同期的に支配することになる。
問題は2つある。
一つは、ただ時間軸に乗せられて流れる言葉にはロジックが内在しないということ。
文脈、前提条件などと言っても良い。
140文字で切り取られ、一秒単位の更新時間で機械的に並べられるライムラインだとか、RTによる拡散だとかでポップアップしていく情報には、大抵文脈が欠けている。どんなに短い言葉にも、本来書き手がそれを発するに至った個人的社会的意義、文脈というものが存在するはずなのに、切り貼りされたタイムラインの中で、140文字でそれを表現するのは事実上不可能だ。
この弱点を克服し、140文字でなにがしかの「感銘」を与えたように感じさせる、注目されるために、ある種の野心を持ったツイートには、つねに何か擬似的な文脈のようなものが付加される。
具体的に言えば、一種の「ベタ」でコーティングする。みんなが叩いているものを叩く。誰かへの批判。「俺たち」の賞賛。「敵」を認定し、「俺たち」の立場からそれをやっつけてやる。大抵はおおむねそんなものだ。しょせん擬似的な文脈なのだから。
タイムラインはより大きな文脈を忘れさせ、たかだか140文字ででっち上げられる程度の擬似的な文脈を、その陳腐さを省みさせることなく肥大させ続ける。タイムラインは流れるだけで永遠に蓄積しない。言葉を重ねれば重ねるほど、そこで人は深い認識を失い、空虚な幻惑のなかをさまよいつづけることになる。
二つ目は、一つ目の現象の裏返しとして、本来あったロジックも見えなくなりがちなところだ。
またある種の、野心より挟持を優先したツイートには、このようなでっち上げの文脈よりは多少複雑な、固有の文脈で送り出されるものがある。
ツイートをパラグラフか段落のように見立て、またそこまでではなくとも、マッシュアップされる前の自分自身のタイムラインだけで醸し出される文脈を大事にする。更新時間で並べ替えられたタイムラインで目立つことよりも、自分自身の文脈のなかでメリハリの利いた言葉遣いであることを意識する。
このようなツイートは、その真意を読み解くために、投稿者の背景や前後のツイート、RT、さらにはここ最近ちょくちょく取り上げている問題が何かを把握しないと、場合によってはほぼ反対の意味にすら解されてしまうことがある。そういうことを、恐れずに(もしくはあまり注意せずに)発信されている。
…とこれは少し主体的に書き過ぎたが、そこまで覚悟を決めてなくとも、あえて「ベタ」な文脈に固執しているタイプの並々ならぬ野心に燃えている場合を除けば普通はいくらかはこのような、個人の文脈にとらわれた「誤解の恐れのある」ツイートをしているものである。人間の自然な生理として。
タイムラインはこれら全てを切断し、タイムスタンプだけに依拠したツイートのリストへと単純化する。読む人はこの流れに支配され、ただタイムラインのなかの異物として特異な文脈を持ったツイートを認識する。
ある人は身勝手に単純化して「俺たち」の賞賛として受容し、ある人は身勝手に単純化して「俺たちの敵」の悪あがきとして攻撃する。個人的にはあるツイートがどのような文脈で生み出されたものであるのかを常に気にしているし、そうやって探るうちに見えてくるものを楽しみとも感じているのだが、そういう人はすくない。
そういう人のことを、わからないわけでもない。
結局のところ、繰り返すがこの問題はものごとの裏表であり、前者が後者を生み出しているところがある。
タイムラインで目立つということが一種の生存競争として成立してしまった状況下で、文脈を捨て去った(あるいは、単純な疑似文脈に頼り切った)ツイートが力を増すなかで、より普通の文脈を持った言葉が埋もれていく。同じ分別ラインで処理されていく。
紋切り型のツイートにならされた脳は、運動をしなくなった身体のように、柔軟性を失い、運動性能を落としていく。認識の単純化とともに、目に見える世界もまた色を失い、記号化されたデジタルな情報としてしか理解できなくなっていく。
事態の改善には、これを考慮して考えると、まず自らのなかにある文脈に意識的になることだ。
大きな文脈とは何かを忘れた状態で、大きな文脈を読み取ろうと努力だけしてもなかなかうまくはいかないものだ。
タイムラインの支配から抜け出す。画一的に切り取られた140文字の枠を忘れる。
140文字で書かれた言葉の軽さに気づく。140文字で書かれた言葉の、裏にあるものの重さに目を向ける。
だからといって長文を気負う必要もない。枠を気にせず書いた結果なら141文字でも良い。なんなら140文字以下でも良い。
字数調整から意識を解放し書きたいことを書きたいように書き、書き散らかった内容を字数で言い訳せずにうまく落とす。
多少無駄があっても良い。しょせんこれは日記である。自分が思っていることを、どれだけ複雑な文脈でものを考えているのかを、考えるべきなのかを、あらためて認識する。
そのきっかけになれば良い。
自分自身の複雑さに気づくことが出来れば、他者の複雑さを慮る準備もできるだろう。
部屋のなかは蒸す。
コンビニにでも行こう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.yodobashi.com/
ここをみると
nao318 でSurface 3検索したつもりが、3としか検索されていなくて、炊飯器がたくさん出てきてびっくりしたところ
monamour555 現実逃避の誘惑に勝てず, で DELL Chromebook 11 をポチってしまった. いーんだよ宵越しの金は持たねーんだよ3代続いてないけれど挟持はエドッコなんだよ.
ayatorch で New 3DS LL ポチろうとしたらアクセサリ選んでるうちに売り切れになってしまって結局 Amazon で買うことにした。
このへん。
突如、で〜を、とかでてくるんだけど
元々何が書かれていたんだろう。
http://toianna.blog.fc2.com/blog-entry-22.html
に惹かれるものがあった。「自国」って何? とは思うが。もしかして「自分」の書き間違いか?
ポルトガルで学んだポルトガル語学習者、とブラジルで学んだポルトガル語学習者間で「さやあて」があるのだろうか、興味がある。
中南米のスペイン語の盟主というのがどの国かわからないが、同じような構図がありうるように思う。
cやzの発音を巡って話者の品定め的なトピックがあるのは知っているが、もっと具体的生々しい感情というものがあるのではないかと思う。
ともあれ、留学した先の言語や文化に自分を一体化するということは実際にあるのだな、
「新大陸のほうの分家が今や主導権を握っていること」に対する複雑な気持ちも共有できるくらいに自分を変えてしまうことができるのだな、と思った。
一方で、日本国内にも、イギリス人として生まれたわけではないのにイギリス英語(イギリス文化)にかぶれた人や、
フランス人として生まれたわけではないのにフランス語(フランス文化)かぶれた人もいる。
これらは少数派としての挟持、マイナーな選択をした自分に対する誇りを上乗せしている感じがあって、
それは自分語りの道具として、由緒の有りそうなものを利用しているのだと思っている。
つまり、「誇り」の有効範囲は日本国内までであるということを、おそらく自覚していると思う。
イギリスやフランスに行って名誉イギリス人、名誉フランス人として扱ってくれるとは、まさか思っていないだろう。
その意味では、このブログを書かれた人とはやや違うのかもしれないと思った。
後、旧制高校などではドイツ語選択、フランス語選択などを元に、自分の文化上の宗主国を主体的に選ばせるような習慣があったのだろうか、と思うこともある。
一方で、諸外国()では、ある国・ある地域の言語を学ぶことはその言語の文化圏の代理人になることを意味しない。
中国の王毅外相は、日本語の機微まで理解し、日本人も舌を巻くような日本語使いだが、彼にとって日本語は手段であり、知日派ではあるが親日派ではない。
サイデンステッカーやドナルド・キーンみたいな人もいるよ、と言われるかもしれないが、実務の人と文学者はまた別ではないかと思う。
昔から、学生どころかいい大人が、テレビドラマやタレントの動きやしゃべりを模倣したような言動、行動でコミュニケーションをしている。
アニメやゲーム、あるいは舞台や演劇の言い回しでそれと同じことをする人は、痛々しいオタク扱いをされた。彼らの文化からははおたくという二人称も、そういうコミュニケーションも忌避されるようになってしまった。
そして、テレビドラマの真似をする人たちは、今も変わらない。
彼らの話す言葉だけでなく、挟持のようなものまで、口をついて出るのはテレビドラマやバラエティの受け売り。
それらを平気で他人に押し付ける。
とても、キモい。