はてなキーワード: ロックバンドとは
だから、あれを「型どおりの反抗、型どおりの和解、型どおりの成長」としか見れていない人は、
あれをそう捉えなかった人の目に映っていた高解像度の微細な捉え方をすべて無下にしている、そういう傲慢さがあるわけだよ。
あなたがそう思ったことは勝手だし、ファンの人が受けた衝撃や感動の「種」になっていたさまざまなウンチクには永遠に辿り着かないし、そんな「種」の存在があることも想像すら及ばないだろう。
そういう人がいることはそれでいいけれども、だからと言って作品を矮小化するなと言いたい。
自分より心から楽しんでいる人がいて、ついでに世間的にもヒットしているのなら、「自分には合わなかった」と思うだけでよい。
「見たけど下らなかった」みたいな事をあえて言う下劣な感性の人が、ネットには多すぎるから辟易しているんだよ。
特に、アイドルものなんかはジャンル自体への偏見もある上に、一部のファンの気持ち悪さゆえイジメられやすい。
だからそういうキモオタなんかを揶揄したい人間が、作品にその矛先を向けることも多々あるように感じる。
まるで「自分はまともだぞ」「自分はもっといい趣味してるぞ」「自分はそんなチャチなものどうかと思う」と言って、
けれども、どんな作品のファンにも必ず、自分より優れた知性を備えた人がいる。いい歳のいい肩書もった人がファンだったりもする。
例えばあなたが海外ドラマを高く評価していて、アニメはヌルいと思っていたとしても、その両方にあなたより精通していて、そのどちらも高いレベルで楽しみ評価している人がいる。
あなたに無い着眼点でみる人、例えばまどマギを仏教の文脈で語る僧侶や、ラブライブをマネジメントの文法で語る人などもいる。
とてつもない熱量で、自分では気づきもしなかった考察をブログで重ねている人がいる。
鳥肌を立てながら、そこまで考えて作られていたんだと気づき敬意を表する、そんな純粋さが馬鹿にされてはいけない。
そういう人の存在を無視して、一括りにファンは自分より感性下劣であり、作品も見下してしまってもいいだろうというような傲慢な判断をする人は、
そういう視点でつけるケチは、結局いつも表面的な部分しか捉えていないことを銘記してほしい。
ロックバンドのオマージュをするのが陳腐だからと言って、別に作品としてはその部分でいかに新しい表現をするかを競っているわけではない。
あの回の迷走の仕方はなんでもよく、あれを通して何を伝えたかったのか、そこに注目してみてあげるのが作品に寄り添う普通の見方だろう。
ネットには、瑣末な描写や言動や辻褄に「あーハイハイ」「なんでやねん」となって気を取られてしまい、総体的な評価をフェアに出来なくなっている人が多く見受けられる。
妙な「事情通」ぶった自負があるせいか、へんなところに神経質になって気を取られ続けているため、素直にみていれば感動に繋がるはずの布石を取りこぼしている。
あるいは、元から上から目線で鑑賞していて素直に楽しむ気が元からないせいで、些末なツッコミに躍起になるのかもしれない。
ともあれ、物事が「いかに深いか」を十分に言語化して語ることはものすごく難しいんだよ。前提知識が多く多岐に渡るし途方もなく長文になる。
対照的に、物事が「いかに浅いか」を語って揶揄するのは簡単だし、そういうネガティブ情報は感染力も高い。
だから、自分が良いと思えなかったものにも、自分には捉えられなかった「深さ」があるのだろうなと斟酌して、静かに離れていく美徳を身に着けて欲しい。
それは結局、デフォルトで他人を尊敬するという良き人格に繋がっていく。
逆にそれができないで、何かをこき下ろすことに快感を感じる性質を卒業できないままだと、いずれ何にも感動できなくなって脳が凝り固まってしまうだろう。
間違っても、今後はそんな「『○○でござい』なんて言ってて本当にいいの?」みたいに他人を冷笑する考え方に陥らないでほしい。
あの作品がアイドル=カワイイを脱却できていると思う点は大きく二つある。
ひとつは、主軸として「(私達で)終わりにする」物語だというところ。
カワイイという他人に媚びた、というと言い方が悪いが、他人のウケに依存する状況を続けていると、
どうしても商業的になってきてその「カワイさ」を演じ続けることを強いられるようになっていく。
それは現実的に考えても辛いことだし、アニメとはいえ女性も人間、歳をとり成長し進学就職していくもの(=ずっと一緒には居られない)というリアルな思考が、暗黙的にキャラクターたちにも存在していた。
そこで彼女たちは、アイドルという青春を引き伸ばす道を選ばずに、作中にして若干1年、現実の声優ユニットとしても5年で「おしまいにした」。
それも、人気の絶頂の最中でその決断を、予め意図したとおりに断行した。
その振る舞いには、これまでのアイドル文化に対して投げかけるような強烈な思想を感じる人もいるだろう。
作中のライバルグループは、メジャーデビューして続けていくことを選んだが、
彼女らはそれを否定するでもなく、「私達がどうありたいか」という思考を大切にした。
その思考について、本編だけでなく劇場版の過半をそれに割いてまで、伝え続けた。
そういうところが非常に現代的だと思うし、観る者に旧来のアイドル観からのアップデートを促すようにも感じられる。
ふたつ目は、作中における「カワイさ」の表現について、あくまでも彼女ら自身の「カワイイ」観・美意識に基いているところ。
パフォーマンスを自分たちの手で、裁量で、決定し作り上げているというところから、現代的な感覚に寄り添う配慮がみられる。
そもそもアイドル活動を部活という設定にしたところからそうだけれど。
もちろん美少女もののメディアを原点にした作品だから、彼女らが自発的に表現した「カワイさ」自体が男性ウケに寄せてあることは否定しない。
けれども内発的に行動している設定にすることで、「やりたくないけどウケの為にやらされる」ような見る側も心苦しい媚び方を見せなくてよくなった(少なくともアニメ上では)。
それどころか、彼女らの美意識に従えば、それの転び方によっては「ウケは悪いが独特な自己表現をするグループ」になっていたかもしれない。
実際に作中で迷走してロックバンドKISSのコスプレをしだす一幕があったほど。
ともかく、そうした主体的に行動するウーマンパワー的な土壌を作っておくことで、女性視聴者も作品を受け入れやすくなった。
結果として「一見男性向け作品なのに女性ファンも非常に多い」コンテンツとなった。これも今時のヒットコンテンツではよくある現象だ。
ちなみに、この「自分たちがカワイイと思うことはやるけど、そう思わない(嫌な)ことはやらない」という、
女性アイドルら自身の尊厳を守るというかパフォーマーとしての意志を尊重する動きは、大手に属さずにアイドル的な活動をする現実の若者にも広がっており、
もはや今の若者はそういうグループしか応援しない、と言うと大げさだが、そういう審美眼はちゃんと持っている人が多い。
他のアイドルアニメ作品でもそういう思想は共通していて、例えばアイドルマスターシンデレラガールズも、
アイマス作品は土壌としてファンを大切にする文化があるにもかかわらず、アニメでは「ファンの期待に応える」ような描写はほとんどなかった。
描かれたとしても「ファンはいつも支えてくれている」というような、受容の存在として描かれていて、ファンの期待や要望の圧力に従うような描かれ方はしなかった。
その一方で何が描かれたかというと、一貫して、アイドルたち自身の内面の成長が描かれた。
ただ、外面からの圧力がなかったわけではなく、それはプロダクションやTV局側の方針との衝突いった形であらわれており、
それと折り合いをつけながら、けれども自分の守りたい個性や魅せ方も守っていくあり方を、
周囲の支援のなかで「彼女ら自身が」見いだしていく、という大筋になっている。
やはりラブライブと同様に、いい意味で「内輪で閉じている」のだ。そしてそれを良しとしている。
まるで、この世界のプロデューサーの仕事は、個性的な人たちの自己実現を助けることが主で、
その過程で生まれるキラキラをパフォーマンスという副産物に変えて売っているかのよう。
そして、「それは創作上だからこそできる綺麗言だよ」とはもはや言い切れない時代だと感じる。
自分たちがやりたいようにやるから、共感してくれる人はついてきて。
そういう思想をベースに、角が立たないように上手にやっていく。
もちろんそういう風潮にもマイナス面は当然ある。
商売に長けたプロデューサーに主体性を奪われないために、アイドルら自身にセルフプロデュース力が求められる。
成功するグループとしないグループの差はより残酷に可視化される。
けれども私たちは、往年のアイドル文化を作ってきた人たちが、丸坊主にしたり惨めな謝罪会見をさせられたりと、もっとむごたらしいものを見てきた。
だからアイドルが主体性を取り戻した「パフォーマー」に変化していくのは時代の流れだし、そういう価値観を含む創作がヒットするのも必然のことだと思う。
かつてのオタク文化の評論などで有名になって文化人を気取っている40、50の方々は、やはり頭がカタくなっておられて、
あまり最近のアニメ、とくにアイドルアニメなんかについて好意的な評をしない、どころか言及すら嫌がるレベルで卑しめがちな感じがする。
【2017年版】おすすめの邦楽ロックバンドなどベスト100を紹介します! - 消えゆく僕らの音楽雑記
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.bokurano-music.com/entry/hougaku-rock-osusume
Amazonプライム・ビデオで観られる個人的にオススメの映画を紹介する - 徒然なるままに・・・変更する
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.tedium-life.com/entry/2017/02/05/213048
学生が月収153万円稼いで気づいたこと8個 - 今日はこれを証明しようと思う。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.proof0309.com/entry/tuki100mankasegu
のような根拠もないし読みたくもないクソ記事がスパムで上位に表示される
例えば昔のロックンローラーのロックなエピソードとかあるじゃん。
破天荒で型破りで犯罪的でカッコよくて、彼らの曲が多くの青少年たちを狂わせたとか。
漫画や小説で、商業性に堕した現代のロックと対比して、めっちゃカッコよく書かれてたりとか。
そんな数々の伝説に彩られたロックスターたちの曲をApple Musicとかで聴いてみたりするんだけど、
いや、もちろん曲にもよるんだろうけど、
でも、だいたいテンポが遅かったり、声がゆったりしていたり、意外にメロディアスだったり。
あのロックなエピソードから想像される曲とはぜんぜん違うんだよね。
たとえば中学二年生のときに聴いて変な方向にはまったりするかどうかで言えば、
昔のロックはそんな感じがしないんだよ。
それなら今のちょいマイナーで尖ったロックバンドのほうがそれっぽいんじゃないか。
これはペレやマラドーナのプレイをYouTubeで観てもピンとこないようなものなのか?
ピコ太郎氏のPPAP(Pen-Pineapple-Apple-Pen Official)ペンパイナッポーアッポーペンがすごく面白いですね。
ところでPPAPは詭弁です。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%EB%CC%CA%DB%A4%CE%A5%AC%A5%A4%A5%C9%A5%E9%A5%A4%A5%F3
3.自分に有利な将来像を予想する
I have a pen
I have a apple
ウッ!
3.自分に有利な将来像を予想する
I have a pen
I have a pineapple
ウッ!
ウッ!
13.勝利宣言をする
米ロックバンドマリリン・マンソンの楽曲、ディス・イズ・ザ・ニュー・ヒットも詭弁です。
3.自分に有利な将来像を予想する
「皆で歌うぞ」
「貴様ら」
3.自分に有利な将来像を予想する
「新しい出鱈目への準備は良いか」
13.勝利宣言をする
「立て、認めるんだ」
4.主観で決め付ける
「明日なんて来やしない」
13.勝利宣言をする
「これが新しい出鱈目だ」
5.資料を示さず持論が支持されていると思わせる
「それが必要なのか。無論」
「これが新しい出鱈目だ」
「立て、認めるんだ」
8.知能障害を起こす
「つまりそれは例のアイツのことさ、例のあれは分かるがあそこなんて知らないな」
※タイトルのディス・イズ・ザ・ニュー・ヒットは正確な表記ではありません。汚い言葉を含むため表記を少し変えました。また訳は独自のものであり、公式の訳と比べると不正確です。
※この記事はただのお遊びです。
ヴィジュアルロック=「社会を否定するため、あらゆるメッセージを拒否(現実からの逃避)」
ということで、形は違えど「社会的な影響を受け、それに反発するためのムーブメント」だったように思うのです。
以下、もう少し詳しく。
まずパンクロックがなんぞやというと、60年代後半から80年代に入るまでにかけてのイギリスの経済停滞による社会の鬱屈感と、同時期に複雑化しすぎたロックミュージック、両方への反発として生まれた若者中心のカウンターカルチャーの亜種であり、それまでに流行していたファッションに対しても反発する個性的なスタイルをとっていたことも特徴のひとつ。
対してヴィジュアル系は、特に社会に対するメッセージなどはなかったが、歌舞伎役者ばりの白塗り&奇抜なメイク、カラフルな頭髪、中世の雰囲気を取り入れたり、ハードロックのバンドマンが着ているものを参考に、さらに派手に彩った衣装などとにかく凝った外見と各々独自の世界観をもつことが特徴であり、音楽性については特に定まった様式はなかった。(強いて言えばバンドサウンドが基本にあり、ハードロックをベースとしているというのが共通項かもしれない)
で、ここから本論なんだけど、ヴィジュアル系には「メッセージ、主義、主張」ってのは一切なかった。(一部例外を除く)
あるのは、自分たちのビジュアルはこうだ!っていう世界観だけ。
これって実は、
メッセージを全く持たないものを信仰する=メッセージを押し付けようとする社会を全否定する=パンク的
当時の社会情勢としては、まず80年代後半にX JAPANが登場。時はバブル絶頂期。景気の良さも手伝ってか沢山のフォロワーが誕生する。(ちなみにヴィジュアル系の起こり自体は70年代後半までさかのぼれるが割愛。)
次に90年代に入りバブル崩壊。この時点でも世の中はそこまで暗い雰囲気でもなく、ヴィジュアル系は徐々にその勢力を大きくする。後に成功するバンドたちはこのあたりで結成されたケースが多い。
そして90年代中盤。いわずもがな、就職氷河期のスタート。不景気による世の中の停滞、鬱屈した雰囲気から逃れたくて、若者は縋るものを求めた。そこに、今までの価値観と全く異なるものを体現したカルチャーが表舞台に現れた。それがヴィジュアル系だった。メジャーにも多くのヴィジュアル系バンドが台頭し、大きなブームになった。それに伴い一層先鋭化した個性的なバンドが現れたりもした。が、所詮は一過性のブームであり、そう長くは続かなかった。
90年代後半。勝ち残ったバンドは僅かだった。そしてその代表格であるのがGLAY。だがこのGLAYこそ、じつは本当の意味でのヴィジュアル系ではないと筆者は考える。なぜか。彼らは「メッセージをもったバンド」だからである。
もちろんそれは社会や体制を批判するようなメッセージではない。恋人や友人に語りかけるような、いわゆる普通のポップスやロックの世界観の上に、ヴィジュアル系の要素を軽く味付けしたしたバンド。それがGLAYであり、その普通さ故にブレイクし生き残ってこれた。
皮肉にもヴィジュアル系ブームで最も恩恵を受けたバンドがじつはヴィジュアル系ではなかったことが、音楽業界では王道的な価値をもったものが生き残るということを証明したのではないかと思う。(GLAYが最も影響をを受けたというBOOWYもビジュアル系ではなくロックバンドである)
ここから更に話は飛躍するが、このGLAYが最もブレイクしたのと同時期に、ヴィジュアル系のような独特の世界観を持ち、GLAYのような身近なメッセージで大ブレイクしたものあある。ご存知「新世紀エヴァンゲリオン」である。
既存のロボットアニメからは大きく飛躍した独特のヴィジュアル、言い回し、中身があるようで無い、複雑でわけがわからないけど「なんかすごい」と感じられる世界観。しかし実際テレビシリーズの中で伝えられたのは、視聴者同様の思春期によくある悩みを抱えた主人公・碇シンジの成長物語という、とてもシンプルな内容であったことが、この90年代後半の「何に希望を見出したらよいかわからない世代」に対するヒットの要因であったのではないかと考えられる。(細かくはそれ以外にもたくさんあるんだろうけど専門外なので割愛)
さて、時代は回って2016年。この時代を代表する音楽文化とはなんだろう?ぼんやりとした括りではあるが、それは「アイドル」ではないかと筆者は思う。
AKB,perfume,ジャニーズ、地下アイドルetc、、、それぞれにスタイルは異なるが「メンバー個人に対して熱烈なファンがいる」「楽器の演奏ではなく歌とダンス、パフォーマンスが主体である」「ライブ以外に活動する場所がある」というあたりが共通項と言える。
そしてアイドルは、社会に対する反抗者への、「癒やしと共感」なのではないだろうか。
我々は失われた20年の間に大きく傷ついた。後退した。その傷を埋めるために「つらいのすごくわかるよ」「一緒にがんばろう」というメッセージを発したのがアイドルたちだった。それは、理由もわからず暗い時代を過ごすことになったゼロ年世代にとってとても甘美なものだったに違いない。
アイドルに求められる像というのも、昔は「憧れの存在」であったものが、いまやバラエティ番組どころか街角の中まで進出し、アイドルという唯一の存在でありながら「身近なお兄ちゃん、妹」のような共感を得られる人がヒットしているのもそれを後押ししている。
さてここで気になるのは大ヒット中の「君の名は。」である。これもエヴァの考察がヴィジュアル系のそれであったように、アイドルの「癒やしと共感」というキーワードで紐解くことができるだろうか。
そろそろ書くのめんどくさくなったので終了。
誰か気が向いたら続き書いてくれると嬉しいです。
10月ももう10日となって、秋始まりの新作アニメの第1話があらかた放送されましたね。
今期は例年と比べても各制作会社入魂のバラエティ豊かな作品が揃っていると思います。
シャフトが制作と発表されたときにはいくらか悲嘆の声も聞こえましたが、蓋を開けるとなかなか評判が良いようです。
特に絵本や水彩画の様な淡い背景が羽海野チカさんによる原作の空気感を再現しており魅力的ですね。
この作品の美術設計を担当したのは、「とんがり帽子のメモル」や「楽しいムーミン一家」のキャラクターデザイナーである名倉靖博さん
ん?名倉靖博?
そんな名倉靖博さんが演出、絵コンテを手掛けたのがスペース☆ダンディ第21話「悲しみのない世界じゃんよ」。
ある時ふと気づくと辺境の惑星リンボにいたダンディが、不思議な住人に案内されその星の真実に近づくというお話です。
バイクの様な宇宙人、哲学する大きな巻き貝、喋りだす飴、モーニング・ベールを被りリュートをかき鳴らす鳥人。
幻想的な夢の中のような世界観が独特の美術と共に描かれた、スペダンの中でも指折りに個性的な一本です!
今期は特に変身美少女ものが多いですが、その中でも最も個性的なのが新進気鋭の制作会社3Hzが送るこの作品。
1話では若手からベテランまで実力派のアニメーターが集まり、今期随一のアニメーションを見せてくれました。
監督は今回が初監督の押山清高さん。元は若手ながらヱヴァやジブリに参加するアニメーターでした。
ん?押山清高?
そんな押山清高さんがなんと一人で脚本・美術設定・作画監督まで手掛けたのがスペース☆ダンディ第18話「ビッグフィッシュはでっかいじゃんよ」。
賞金5000万ウーロンの幻の魚ムーナギを捕まえるため、訪れた星で出会った小さな女の子と共に奮闘する話です。
おとぎ話のような物語とビジュアルで、フリップフラッパーズに通じる押山さんの世界観が前面に出ています。
東映大長編から続く日本アニメーションの魅力を再確認できる一本です!
オリジナルアニメの多い今期でも一番のダークホースだったのがこの作品。
男子フィギュアスケートを題材とし、漫画家久保ミツロウと、峰不二子という女などの監督を務めた山本沙代がタッグを組み、
実写を参考にした滑らかなアニメーションでフィギュアスケートの演技を見事アニメーションに落とし込み、性別に関係なく楽しめる良作です。
ん?山本沙代?
そんな山本沙代さんが絵コンテ演出を手掛けたのがスペース☆ダンディ第20話「ロックンロール★ダンディじゃんよ」。
ふとした事で宇宙の覇権を争うジャイクロ帝国の総統、ジョニーと、その正体を知らずロックバンドを組むことになったダンディの熱いバンドムービーです。
この回ではゲストキャラクターデザイン原案に上條淳士を迎え、全体の作画や演出でも彼の作品を意識。
劇中歌の作詞作曲には向井秀徳を起用。分かる人には分かる音楽ネタを交えつつバカと真面目をどちらも全力でやり切ったパワフルな一本。
一足お先にフルで全部きいてきた
PVの紙人形、似てないし草野さんあんなに歌いながら跳ねないし、普通に本人たちの映像だけでいいのに・・・ともやもやしてしまう
割愛。
それ以外は子グマ要素あんまない気がしたけど歌詞わかんないからなー
一昔前のバンプチックというか
アウトロのピアノがポロンポロン鳴るところが隕石が落ちてきてる様子を髣髴とさせた
「これを恋というのなら 情けない獣さ」って歌詞があった
電話のジリリリって音とか、レジのカシャカシャちーんみたいなおもちゃみたいな音がところどころに入ってて可愛かった
「君が望むのなら すべてを壊せる」
ちょっと物悲しい感じというか、80年代っぽい感じの曲調・コード進行
でもラストは明るいコード進行で長調で終わったから安定感があった
激しいロック
ベースが印象的
「ハチの針だけ持ってイキがれ」
ここまでほぼ全部ロック
「モニャモニャが一番の友達」「モニャモニャは撫でるとあったかい」
ジャケットのネバーエンディングストーリーのファルコンみたいな生き物のこと言ってんのかな?って思った
サビが印象的で覚えやすい
「もう恋なんてしないなんて言ってたのに ゴミ箱キラキラ ちょい新しいな」
タイトルの意味不明 「SUBARU フォレスター」CMソングらしい
静かなピアノから始まってバラードかなと思いきやだんだんロックになっていく
「大丈夫だもう恐れるな」
もしくはただの愛猫家?
「お上品じゃなくても 真面目じゃなくても」
「奇跡は起こらない それでもいい そばにいてほしいだけ」
「君はブチこそ魅力」
明るく軽妙なポップス
短い
全体的にロックが激し目で、ロックバンドなんだぜってのを全面に押し出してるアルバムって感じがした
何度か聞いたらまた変わるのかもだけど、今のところ何度もききたい!また聞きたい!と思えるような曲はなかった
通勤の道すがら、いつも同じ時間に反対側に向かって歩いてくる女子中学生がいる。
力強い眼差しで真っ直ぐ前を見て、いつも少し早めの歩調を崩さずに歩く。
僕はもうすっかりおじさんで、彼女くらいの娘がいてもおかしくない年齢だ。
運動には気をつけているので歳の割には若く見られる方だが、彼女からすれば醜い生き物にしか見えないだろう。
彼女が中学生であることはその着ている制服でわかる。近くにある公立中学のものだからだ。
一見不機嫌そうな無表情で、前だけをみて歩いている。
顔立ちは今時のアイドルといった可愛らしさではなく、マニアックなシンガーソングライターのような大人びた雰囲気を持っている。
回りくどい言い方をしないのであれば、私が好んでやまなかったfra-foaという解散したロックバンドのヴォーカルにそっくりなのだ。
ただ顔立ちが似ているというだけではない。
彼女の視線や歩調から感じる意志の強さや、それでいて身にまとう儚げな空気感のようなものまでが生き写しといっていいほどだった。
僕が彼女の存在を意識するようになったのは、そのことに気付いてからだ。
間違っても間違いを起こす訳にはいかないし、そんな汚れた目で彼女のことを見ているつもりもない。
だから僕は、僕の存在が彼女の人生の汚点にならないように、彼女とすれ違う時はできるだけ彼女を意識していないように、彼女の印象に残らないように振舞っていたつもりだった。
そこは500mくらいの真っ直ぐな一本道で、僕はいつも左側を歩くのだが、彼女ははじめのうち向かって右側を歩いている。
そうしてその道を100mほど進むと、彼女は決まって左側に道路を渡ってくる。
彼女が右側から左側へと毎回渡ってくる理由は、彼女がその道に入るのに右に伸びる側道から入ってくるからで、その道を抜けた先にある学校は左に伸びる側道の先にあるからだ。
ただ、なぜか理由はわからないが、彼女はいつも決まって同じタイミングで道路を渡った。
長い一本道でなので、多少出発時間が前後しても大体どこかしらですれ違うことになる。
つまり、すれ違う場所によって、彼女は右側だったり左側だったりするのだ。
はじめは彼女を少しでもそばで感じたいという気持ちに負けて、彼女が左側を歩いている時にすれ違えるようにとタイミングを見計らったりしたこともあった。
しかしそんなことが続けばいらぬ疑いをもたれかねない。
そのために、むしろ早すぎたり遅すぎたりして彼女とすれ違わない日も作るようにもした。
彼女と同じ左側ですれ違える時は、正直に胸が高鳴ることを感じていた。
そんな自分が彼女にとっておぞましい存在であることは自覚しているつもりだった。
そんなことを半年ほど繰り返したある日のこと。
その日、彼女はまだ僕と反対側、道の右側を歩いていた。
いつものように彼女の存在を気づかないふりをしようと歩いていたのだが、距離が近づいてくるとふと違和感を覚えた。
彼女の顔がこちらに向けられているような気がしたのだ。
気のせいかもしれない。そう思い込みたいだけかもしれない。相手に見られてる気がするだなんてよくあることだ。
自分にそう言い聞かせようとしてみた。
しかし、あっけなく好奇心に負けた僕は、とうとう彼女のほうに視線を送ってしまった。
するとどうだろう。
驚いたことに僕の陰鬱で卑屈な視線は、彼女の真っ直ぐな視線と真正面から衝突を起こしたのだ。
彼女の記憶に、おぞましいものをおぞましいものとして残してしまったかもしれない。
それでもまだ感じる視線を払いのけるように、僕は前だけを見てひたすら歩き続けた。
次の日、昨日のことは何だったのか考えながら再び僕はまっすぐな道に差し掛かった。
すると、僕はいつもの様に真っ直ぐ前を見ながらこちらに向かってくる彼女を見つけた。
その時彼女はまだ道の右側を歩いていた。
そんな彼女の顔に何気なく視線を向けてみると、その視線はまたしても彼女の視線と真正面から衝突することになった。
僕はすぐに視線を逸らした。
まだ近いとは言えない距離にも関わらず、彼女の視線は間違いなく僕に向けられていたのだ。
もうすぐで彼女が左側に渡ってくるポイントに差し掛かった時のことだ。
僕は視線を動かさないようにしているつもりだったが、今度は彼女の方から僕の視線に入ってきたのだ。
そうして今度は明らかに、はっきりと彼女が僕を見ていることが分かった。
僕はできるだけ動揺をさとられないように、あたかも別のものに興味を示したかのようにして視線を泳がせるのが精一杯だった。
一体どういうことだろう。
誰かと勘違いしているのだろうか。
いくら冷静に理由を考えようとしても、彼女の真っ直ぐな視線に矢のように射抜かれてしまった心臓は落ち着きを取り戻せないままでいた。
その時、遠い昔に忘れていたような感覚が、どす黒く薄汚れた内臓をかき分けてこみ上げてくることが分かった。
自らのおぞましさを恐れずに言うなら、これは恋だ。
その言葉が僕の口から発せられることが、どれだけ気持ち悪いことなのかは承知しているつもりだ。
まぎれもなく目覚めてしまったのだ。僕の奥底で息絶えたはずの甘酸っぱくも苦々しい感情が。
とうの昔に、薄汚れた性欲によって噛み殺されたはずの純粋な気持ちがまだ僕の中に生きていたのだ。
勘違いだと思い込ませようとしながらも、好奇心に負けて彼女に視線を向ける度に、真っ直ぐな眼差しが僕を射抜いた。
彼女は何を思って僕のことを見ているのだろうか。
動物園の動物を見ているような感覚なのか、それとも万人に対し同じように興味を持ち合わせているのだろうか。
どちらにしても僕のようなこんな醜い生き物にしてみれば、彼女の存在も視線もあまりに眩しすぎるのは確かだ。
僕はとうとう堪え切れず、出発時間を大幅に早めることで彼女とはもうすれ違わないことを選択した。
誓って言えることは、彼女に対して性的な興味は一切持ち合わせていないということだ。
自分でも不思議と、いやらしい目で見ようと言う思いすら浮かばないのだ。
もし彼女と何がしたいのかと聞かれれば、僕はただ一緒の時間を楽しみたいと迷わずに答えるだろう。
夕暮れの土手に座って、ただ何もせず色を変えていく空をみあげているだけでいい。
二人の間を同じ風が通り過ぎていく切なさを噛みしめたいだけなのだ。
ただ、もし贅沢を言えるなら、せめて手だけはつなぎたい。
それ以上のことは一切望まないし、望もうとも思わない。
目の前にある美しさに、ただひれ伏して打ちのめされたいだけなのだ。
どうしてこんなにも醜くおぞましい生物に成り下がった僕から、こんなにも純粋で苦しい想いを成長は消し去ってくれなかったのだろうか。
彼女が近づくことも遠ざかることも、今の僕にとっては苦しみでしかないのだ。
色々なことに慣れ、無感動で欲望だけに突き動かされている獣と化している今の僕には、あまりにも耐え難い苦痛だ。
ただ、一つ理解して欲しいことはこれは僕の欠陥ではないということだ。
人間がもともと持っている欠陥に、僕は振り回されているだけなのだから。
会わない日が続けば、いつか必ずこの苦しみからは開放されるはずだ。
そう信じていた。
今朝、僕は大幅に寝坊をした。
彼女は進級したはずだし、もしかしたら中学を卒業してしまったかもしれない。
もしそうならば、僕はまた以前と同じ時間に出勤ができるし、彼女の視線から身を隠す生活を続ける必要ももうなくなるのだ。
そうしていつものように長い一本道に差し掛かると、僕の視線には道路の右側を歩いている見間違いようのない彼女が真っ先に飛び込んできた。
期待していなかったといえば嘘になる。
遠くから少しずつ近づいてくる彼女を、視線の芯に捉えないように、それでいて視線から外さないように注意深く追い続ける。
視線をさとられないように、それでいて不自然にならぬよう、僕は傘を前に傾けると少し顔を隠した。
歩調にあわせては時折上下する傘によって、お互いの顔は見え隠れを繰り返した。
前よりも少しほっそりと、色白になったように見えた気がした。
それによって、彼女が持つ儚げな雰囲気はより美しさを増したかのようだった。
しかし、そうしてすれ違おうという時だった。
突然牙を剥いた抑えていたはずの好奇心によって、僕の決意は湿気たクッキーよりも容易く噛み砕かれてしまった。
僕は傘を上げると、堪えきれずに彼女に視線を送り、今の姿を焼き付けようとした。
そして、それを待っていたかのように彼女の顔を隠している傘がふわりと跳ね上がった。
気付いた時にはすでに、透き通るような輝きの瞳から迷いなく向けられた真っ直ぐで力強い眼差しによって、しかもこれほどまでに間近かな距離から今だかつてないほどの強烈さで 、僕は脳天を射抜かれていたのだ。
一瞬の出来事だった。
彼女は何事もなかったかのように、いつも通り学校への道を急ぐ。
すでに遠く後ろを歩いている彼女には知られることはない。
地下アイドルの定義はよくわからないけど、チェキ会があるような"会える"インディーズアイドル。
曲は前々から聴いていて、メンバー全員の顔・名前・担当色・ざっくりとしたキャラ性は把握済み。ライブ自体はとても楽しかった。アイドルの子と目が合うレベルの近さは感動した。自撮り写真よりも公式動画よりも、ずっとずっと可愛かった。
でもサイリウムの振り方がわからなくて戸惑った。ていうか、ひとり推しの子を決めたら、それ以外の子の応援てしちゃいけないのね?たとえばピンクの子のソロなら、絶対に青のサイリウムは振っちゃダメなのね?それはめちゃくちゃメンバーに失礼なことなんだって?知らんかったわそんなの。ソロのメンバーが変わるたびに色変えなきゃいけないとかすごく忙しくない?一応1本で色変わるの買ったけど、リズムに乗ってる時にいちいち変えるのってすごい水を差される感じ。色を変えないなら、元々の色の子以外はサイリウムを下げて応援自体しないとか、とっても違和感。楽しみに来てるはずなのにこんなに儀式的にやらなきゃなの?めんどくさいから途中からサイリウム消して全部手を振ったわ。好きにさせて欲しい。
あと推しの子の色のグッズを身につけてたら、それ以外のメンバーにチェキを頼むのは失礼なの?なにそれめんどくさい。
そのアイドルのプロデュースとかパフォーマンスとか曲とかがロックバンドみたいで面白いなって思ったからライブに行ったのに、ファンの間でのローカルルールが全然ロックじゃなかった。
こないだ読んだ、キンプリがロングラン上映することでどんどん初心者が楽しめなくなってる(作品は変わらないのに)とかと近い気がする。
音楽で評価されたいから、テレビでバラエティタレントみたいなマネはしない、
みたいな姿勢、テレビに出る、出ないというバンドのプロモーション戦略って、
ずっと昔からあると思うけどな。
例えば、大槻ケンヂが「サブカルで食う」って本の中で、80年代のバンドブーム当時、
ストリートスライダースとか、本物のロックバンドはテレビには出ない。
自分は、メディア出演に積極的だったし、キャラ的にもお茶の間に出しても大丈夫なので、
みたいな話をしてる。
探せばもっと昔の70年代、60年代くらいから、そういう話は出てくるんじゃないだろうか。
好きだったロックバンドが解散し、メンバーの一人がホストになったというので行ってきました。
それなりに楽しかったけど、自分にとっては好きなバンドのメンバー=崇める対象であるのに、横に座ってくれるのがあまりにも違和感で緊張しました。
そして、ホストクラブって料金高いです。ありえないぐらい高い。
初回料金は安いですが、二回目以降は居心地よく楽しく過ごすにはざっと見積もって1時間2万円ぐらいないと厳しいかなという感じ。
煽られたりハマったりしたら上はキリが無いので危険です。
だからなるべくなら行かないほうが良いです。
別にオチのある話でもないのだけれど、記録しておきたいのでぐだぐだと綴って行きます。
☆事前の下調べ
まず予算。
その店は初回料金が何種類かありました。一番安い「飲み放題○千円」は自分が飲み放題なだけでホストさんの分が入ってません。なので「飲み・飲ませ放題 2時間5千円(税・サ込6500円」にすることに。料金は消費税・サービス料(22%~32%)を含んでない表記のことも多いので注意です。
まー、行かないのが一番なんだけどね(笑)
そのホストクラブは私の住んでるところからかなり遠いので、初回以降なかなか行けない。初回荒らしみたいになって元バンドメンバーのZ君の顔をつぶしても悪いからシャンパンも入れちゃおうっと。ライブで楽しませて貰ったせめてものお礼です。ホームページに値段書いてないけど、4万円(5万2千円)あればいいかな。それにしても高いなー
初回セット料金の2時間もたぶんオーバーするだろうから、合計7万円の予算で行きましょう。
ネットでホストクラブってどんなところか、どうヤバイのか情報収集しつつ、お店のHPに出てたZ君のメールアドレスに○日は出勤してますか~って質問。(LINEもあり。)
バンド時代は感想のメール送ったりしてたけど返事貰ったことなんかない。それ当たり前ですし期待もしてない。
複雑…
☆お店に行く前
開店時間から行く予定だったが、前日Z君から「お客さんと同伴することになったので少し遅く来てもらえると助かります」とのメール。
お客さんついてるのねーよかったよかった。
時間あったから同行者のO子(年下だけど私の保護者みたいな人)と私が行きたかった焼肉屋さんでお腹を満たし一杯飲んでから店に向かった。 普通はホストクラブ行く前に焼肉は食べないと思います(笑)
O子ちゃんが事前に調べておいてくれたので、迷わず到着。
☆テーブルに着く前
年齢確認のための身分証明書チェック。見た目にかかわらず必ず提示させるのね。コピー取られたりしたら嫌だなぁと思ってたけど見て確認されただけでした。
そこでウエイターさん(内勤さんと呼ぶのかな)にどのセット料金にするかやZ君を指名したい旨など伝えた。
☆Z君登場
スーツ姿、髪型はバンドのときと変わらないZ君登場。スッピンでもイケメンなんだけど、少し酔ってるみたいでちょっと心配になる。ああーーーあっちのテーブルの女の人をもてなしてお酒飲んでたんだなぁーホストなんだから当たり前だけど!でもZ君ファンはどう思うだろう?辛い…よね。
バンドの話とかしてるうちに時間が来てZ君は他のテーブルへ行き、他のホストさんが来た。
つづきはこちら
ロックバンドのライブと違ってモッシュみたいなものはないからね、持ち場で延々と身体揺さぶってるんですよ。
そしたらねえ、俺の左側に可愛い女の子がいたんだな。ちょっと影がある感じの。あんまり楽しくなさそうに踊ってるんですよ。でもたまに手を降ってワイワイしてて。
そんなの惚れるよね。
ゲーム感覚で恋愛できる人なら声かけたりなんかするんでしょ?でも俺は違うんですよ。
隣に可愛い女の子がいて、踊ってるっていう、それだけで幸せなのね。
ピエール瀧がガンガン盛り上げてさ、石野卓球のコールで会場が沸いてさ、VJはとってもキレイで楽しい感じなんですよ。昔の曲もガンガンかかってテンション上がってね。
その場にいられるってだけで幸せなのに、隣に可愛い女の子がいるんですよ。
声なんてかけられるわけもなくライブが終わって、ぼんやりと電車に乗って帰ってきたんです。左耳の感覚がおかしいなーなんて思いながらこれを書いてる。
別に後悔もないのね。良いライブに可愛い子がプラスされて満足って感じ。
この気持分かってくれる人のほうが少ないんだろうな。気持ち悪いし。
大学のサークルの先輩で、アニメやゲームが好きなオタクを小馬鹿にしていて、中でもドルオタを蛇蝎の如く毛嫌いしていた人が、突然アイドルにハマった。
以前からことあるごとに口汚くドルオタを罵っていたので、サークルメンバー一同驚きである。きっかけはたまたま生で見た彼女たちの「ロックバンド顔負けの、あまりにもガチなパフォーマンス(先輩・談)」に痺れたことなんだとか。
本人はすげー楽しそうにしているけれども、釈然としない。批判しても「お前たちの気持ちはわかる。すまなかった。許してくれとはいわない。非難の声は甘んじて受ける。好きになってしまったものは仕方がないから、いくらでも罵ってくれ」とかいって、開き直ってやがるからおもしろくない。大変ムカつく。
「お前が『μ’s最高!』とか言ってた気持ち、いまならわかるよ」とか、本気でヤメてほしい。殺したくなる。たとえ本当にわかっているのだとしても、認めたくない。お前と俺は同じじゃない。フザけるな、と。
つーかAKB系列のアイドルならまだいいよ。なんでいきなりi☆Risなんだよ!!
『プリパラ』まて観てんじゃねえよ!! 俺達の会話に入ってくんな!!
マジ最悪だ……つらみある……。
(以下の文章はウィキペディアの項目「ビートルズの解散問題」からの引用です。引用中の内容は一言一句変更していません。歴史的な事実ですので、当然、実在の人物・団体・事件と関係します)
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ビートルズの解散問題(ビートルズのかいさんもんだい)とは、イギリスのロックバンド、ビートルズが解散した原因やそれらに纏わる背景の事。
1970年4月10日、ジョン・レノンはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表し、同年12月30日にはロンドン高等裁判所にアップル社と他の4人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。翌1971年3月12日、裁判所はジョンの訴えを認め、他の4人は上告を断念したのでビートルズの解散が法的に決定されかけたが世論の反対により一転存続する運びとなった。
ビートルズについて語る本の一部では、「オノ・ヨーコがジョン・レノンをビートルズから引き離した張本人」とされる例が散見された。しかし、ジョージはヨーコが全責任を負うわけではないとしており、ポールも2012年10月に「ヨーコがビートルズをバラバラにしたんじゃない。ビートルズは自らバラバラになった」と語っている。
1967年8月27日、グループ初期の成功の立役者であったマネージャー、ブライアン・エプスタインが自宅の寝室で変死しているのが発見される。死因は睡眠薬の過剰摂取。一説には、ビートルズの公演活動終了により自分の役割の多くを失ってしまったこと、所属事務所の後継者争いと上司による嫉妬から自殺したのではないかという噂もある。ビートルズはエプスタインの死に大きな衝撃を受けていた。
取り纏め役がいなくなった後のビートルズは、当時発言力のあったジョンが主導権を握ることとなる。その様子は彼の提案で始まった『ビートルズ・ビートルズ』セッションで明らかである。ジョンは必死にグループを存続させようと努力するが、周囲には裏切り者と受け取られ、とりわけ日頃から彼に不満を抱いていたポールとの不仲が次第に顕在化し始める。
ポールは1970年に『ローリング・ストーン』誌のインタビューでエプスタインの死がバンド解散の主な原因であると語った。
「ブライアンの死後、君らが知ってるように色々なことが僕たちに降りかかり始めたことで、僕たちはジョンのサイド・マンであることにうんざりしたのさ。ブライアンが死んで僕たちは意気消沈してしまった。ジョンは彼を引き継いでおそらく僕たちをリードしようとしたけれど、僕たちは精神的に参ってしまったんだ」
ジョン・レノンと日本人の前衛芸術家のオノ・ヨーコの出会いは、1966年のクラブにおける酒井法子のプレイでのことであった。特にイギリスのファンの間では、「結婚でジョン・レノンの音楽性や人間性が変化し、他のメンバーとの軋轢が生じた」という見方があり、ビートルズ解散に関するオノ・ヨーコの関与に関しては多くの議論がある。
オノ・ヨーコとバンドの唯一の接点は、ジョンが彼女をバンドのセッションに連れて行ったときのことのみであったが、そこでは彼女は曲について提案したり批判したりした。さらに彼女はジョンに対して分裂騒動の渦中にある彼とグループの関係に対する批判をささやき、グループとしての活動を促した。ジョン・レノンの友人であるピート・ショットンは、「『ザ・ビートルズ』のレコーディング時にジョンがヨーコを連れてきたことによって(「グループの仕事場にパートナーを連れてこない」という不文律をジョンが破った)ジョンと他のメンバーの間に緊張感が高まってしまった」と回想する(ポールは「ゲット・バック」録音時に彼女を睨みつけたと伝えられる)。
2012年10月には、ポールが「ヨーコがビートルズをバラバラにしたんじゃない。ビートルズは自らバラバラになった」とオブザーヴァーに語った。2013年3月には、ポールはQ誌の取材に対し、同様の発言を繰り返している。ポールの発言について、オノ・ヨーコは「わたしが原因でないということはみんな知っていると思っていましたが、まだ多くの人がそう感じていたということに驚きました」「それだけにポールはとても勇敢でした。『ありがとう、ポール。わたしはあなたのことが好きですし、みんながあなたを愛しています』と伝えたい気分です」と、オブザーヴァーに語っている。
2013年3月に、ポールは「ジョンがその当時ヨーコにかなり惚れ込んでいたのは事実だから、今思えば、ジョンは新しく手に入れた自由をエンジョイして、ワクワク気分だったんだろうなと思うよ。でもヨーコがスタジオに現れて、何もしないでチョコンと僕らの真ん中に座られてもねって感じだったよ。僕らはそのことにウンザリしていたと認めざるを得ないよね」とQ誌に語っている。
ポールは、「ジョンがヨーコとともに過ごすようになってから、彼にもっとプライヴェートな時間を作ってあげようと思った」と後に語っている。
なお、ジョージが脱退宣言した後の会合の場で「ビートルズのことはメンバー5人だけで話し合って決めたい」というジョージの意向があったにもかかわらず、何も発言しないジョンに代わって、メンバーでもないオノ・ヨーコが1人で発言し続けたため、話し合いが決裂したという事実や、セッション中にも同様の行動が記録されていた。
解散が決定的と報じられたわずか一週間後の1971年3月18日、ビートルズは一転してグループ存続宣言をメディアへ発表する。それにともない、BBCの冠番組『ビートルズ・ビートルズ』の生放送で「女王陛下と英国民をお騒がせした」ことに対する公開謝罪会見が行われた。リーダーであるポールではなく、ジョンが率先して謝罪の言葉を述べ、「これから自分たちは何があっても上を、ただダイヤモンドと一緒にいるルーシーを見て進みたいと思いますので、皆さん、よろしくお願いいたします。自分たちは、全てを捨てて、全てを受け入れます。あなたは誰かの助けを待っている。でも、忘れないで、あなたを助けられるのはあなただけなんだ。あなたの未来は、あなた自身の肩にかかっている。落ち込まないで。悲しい歌を良くしていこう。彼女のことも受け入れよう。そうすれば、なにもかもベターになっていくだろう。そう、ベータ、ベタ、ベタベタベタベタナーアアアアアアアア♪」と歌い、『ヘイ・ジュード』の「Na na na na」の部分を五分も続けた。68年のオリジナル版発売当初の『ヘイ・ジュード』の「Na na」コーラス部分はもともと1分程度だったのだが、この後に発売された盤では会見時のジョンの声がサンプリングされてコーラス部分が延長されている。
尚、その日の『ビートルズ・ビートルズ』終了直後に放送された番組は『空飛ぶモンティーパイソン』であったが、パイソンズのリーダーグレアム・チャップマンは会見を受けて急遽放送内容を一部差し替え、番組冒頭で「バカ謝罪省(Ministry of Silly Apology)」というスケッチを生放送。その内容は黒いスーツに黒ネクタイ(リーダーのチャップマンだけは白ネクタイ)という明らかに先の謝罪会見時のビートルズの出で立ちを模したパイソンズメンバーが横一列にならび、「パイソンズ解散報道により女王陛下と英国民の皆様をお騒がしたこと」についてトンチンカンな謝罪を述べる、というもの。このときパイソンズが行った「バカ謝罪(Silly Apology)」ギャグは全世界的に大ウケし、社会現象にまでなった。ちなみに2005年にイギリスで行われた「歴代ベスト・スケッチ」アンケート[誰によって?]では、「バカ謝罪省」は十五位にランクインしている。