はてなキーワード: 経済政策とは
「トランプ政策はマクロ的には米国内経済にマイナスの効果」であることに異論は無い。
言いたいのは「最適」=「効用の最大化」というミクロ的な観点に立てば、
例え成長率や雇用統計が一般的な経済政策をとった際(に想定される数値)より下がっても「最適化した」と
看做しうる場合があるし、アメリカの保護主義政策についてはその条件が揃っている可能性もある
(例えば、他国に比べた相対的な経済成長上の優位性の向上)のではないか、ということだ。
「マクロ経済学的に間違った経済政策が、政治的、社会的、市民一人ひとりひとりのミクロベースの効用的には正解であることもある」
という点を忘れた書きぶりをしていることが同学の士として非常に気になったというだけでもある。
ごく表面的な表向きの顔しか自分には知りえないトランプ氏について
ゆえに論理的な側面からのみの判断も捨て去るべきでは無いと思ってる。
もう一つ、例えトランプ氏の政策が「幼稚なジャイアニズム」と「経済はゼロサムゲームという誤った理解」に
基づいていたとしても、トランプ氏の経済政策自体は、上述のとおりその前提が誤っているがゆえに
「アメリカにとってのみなら、けっして悪くは無い政策」である可能性は十分にあるのだ。
一概に馬鹿にして済む話ではないと思っている。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20170125
内容は
「日本の自動車産業は大幅に輸出超過で、米国の自動車産業は大幅に輸入超過だ」 ……(*)
ということの指摘。それで「大変だあ」と騒いでいる。
(1) 既知
(*)の内容は、経済を知っている人なら、誰でもよく知っていることだ。今さら騒ぐようなことじゃない。
こんなことを今さら騒ぐなんて、どうかしている。単に自分の無知をさらしているだけだ。
日本の輸出構造がどうなっているかなんてことは、貿易を学べば最初に知ることだ。こんな初歩的な知識も知らないで、よくまあ、今まで偉そうに経済のことを書いていたもんだな。呆れる。
高校生だって、このくらいのことを知っている人は多い。大学入試のセンター試験でも初歩的なことだろう。こんな初歩的知識を知らなかったなんて、中学生か。厨二病?
(2) 貿易
そもそも、ちきりんは貿易というものの根源を理解できていない。
貿易とは、得意な産業では輸出して、不得意な産業では輸入することだ。これは「比較優位」という概念で説明される。この概念ぐらいは知っているよな?
日本で言えば、自動車や電子部品などを輸出して、農産物や石油や原料を輸入する。特にアメリカとの関係で言えば、自動車を輸出して、牛肉や戦闘機やオスプレイを輸入する。こうして、持ちつ持たれつの関係になる。
なのに、そのうち日本の輸出品目である自動車だけを取り上げて、「日本の方が一方的に輸出している。やばい」と指摘しても、何の意味もない。それだったら、「日本はアメリカから牛肉や兵器を一方的に輸入している。アメリカも日本の牛肉や兵器を同じぐらい購入するべきだ」となる。しかし、馬鹿げていますね。
貿易では、貿易品目ごとではバランスが取れなくていい。それが原則だ。そんな基本も理解できないのが、トランプと、ちきりんだ。
ついでに言えば、貿易は、二国間でもバランスを取れなくてもいい。全体でバランスを取れればいい。
日本はアメリカに自動車を輸出する。アメリカはアラブに兵器を輸出する。アラブは日本に石油を輸出する。こうして三角形の三つの頂点で貿易は循環する。それで全体としてバランスが取れている。
トランプやちきりんの理屈を取るなら、日本はアラブに石油をいっぱい輸出することで、貿易を均衡させる必要がある。しかし、そんなことは馬鹿げている。
トランプやちきりんは、「貿易とは何か」をまったく理解できていない。
※ 追記
【 参考情報1 】
一方で、現地生産の台数は、大幅に増えている。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017012500851&g=use
http://www.asahi.com/articles/DA3S12765436.html (図)
http://www.asahi.com/articles/ASK1S5GN1K1SUHBI01L.html
トヨタは、輸出比率が高かったが、近年は現地生産比率が高くなった。
なお、1番目の記事では、対米輸出台数は「175万台」と記してある。
ちきりんの記事では、「日本の生産超過台数が 423万台」とあるが、これは、全世界を対象とした数字だ。対米貿易とは関係ない。全然関係のない数字を持ち出して、これを対米輸出台数だと思わせている。数字の読み方を間違えている。ひどい。
【 参考情報2 】
米国の貿易収支において、日本が占める率は近年、大幅に低下した。
http://3rdworldman.jugem.jp/?eid=168
というのは、
「自動車産業のせい」というのも誤りだし、「日本のせいだ」というのも誤りだ。
誤認の根源は、彼が基本データを理解できていないことだ。まずは上のグラフを教えて上げるべき。
【 参考情報3 】
「貿易で正論を述べても、失業している白人困窮層の心には届かない」
http://www.asahi.com/articles/DA3S12744609.html (翻訳)
http://blog.livedoor.jp/koyamaiwao-0525/archives/68417516.html (転載)
要するに、こうだ。
アメリカでは毎日、大量(7万5千人)の失業者と雇用者が発生する。それは通常の出来事だ。そのなかで米国の自動車産業による雇用が数百人ぐらい増えたからといって、それはほとんど誤差程度の意味しか持たない。トランプが何かを言って、フォードやトヨタの雇用者が少し増えたからといって、何の意味も持たないのだ。
まったく、ごもっとも。米国が失業者を減らしたいと思うのであれば、日本の自動車産業をいくら攻撃しても意味がない。大切なのは、マクロ的な経済政策を妥当にやることだ。そして、そのために最も効果的な方法は、ピケティの方法だ。つまり、富裕層に増税して、中低所得者の所得を増大させることだ。こうして富の偏在を是正することで、GDP が拡大して、失業者は減少する。これが最も正しい政策だ。
ところがトランプや共和党は逆に、富裕層で減税しようとする。これではかえって失業者は増えてしまう。
クルーグマンや経済学者の話をきちんと理解すれば、トランプのやっていることが、狙いとは正反対の効果を持つばかりだとわかるだろう。ただし、それを理解するだけの知恵がないのが、トランプとその支持者だ。
※ 注記
本項では「トランプに反論するにはどうすればいいか」という政治的手法については述べていません。
本項の目的は、「何が正しいか、何が間違っているか」という真相を明かすことです。どこがどうなっているかを理論で示すことが目的であり、あくまで学術的な話です。現実世界でどういう反論をするべきかというような政治手法は、話の対象となっていません。
沖縄が第二次世界大戦の呪縛やそこから続いてる基地の呪縛から解放されて平和な島になるには
沖縄独立した方がいいんじゃないか、といわゆる極左的な考え方していたんだけど、
まぁ8年くらい前にそれは不可能なんだな、と思うようになったというか気付きました。
国境地帯全てが軍の街になるかは海外の事例をよく知らないのでわからないけど、
少なくとも沖縄は、日本の領土だろうと、アメリカの領土になろうと、中国の領土になろうと、
戦闘に至らずとも、中国の支配下に置かれて、中国の属国になるだろう。
日本やアメリカの支配下(領土)から、中国の支配下に変わるだけ。
で、中国の支配下になっても基地は減るかどうかはわからない。維持されるかもしれないし、増えるかもしれない。
で、問題はその時に反対運動をしたいと思って戦う相手は日本政府やアメリカ政府ではなく中国政府ということだ。
日本政府やアメリカ政府はどんなに意見が合わなくても人権や表現の自由を守るけど、
中国政府はそうではない。
中国はほぼ資本主義国家だけど、土地に関しては社会主義って言われてるし、その辺りに自由はない。
政府に都合の悪いことは問答無用で叩き潰すし、基地反対運動したら、多分公安にしょっぴかれるだけでなく、死ぬ。
日本政府アメリカ政府は基地縮小の意見を聞いてくれるけど、中国がそうであるかはわからない。
高校世界史レベルの知識がなくても、ニュース見てればわかるけど、
カシミールはじめ、ルール地方とか、有名どころ見てもわかるように、国境地帯は歴史見るとあっち行ったりこっち行ったりしてるしね。
それは実現可能か、
何を妥協して、何を守るか、
そういうことを考えると、
沖縄独立は、沖縄県民にとって悪手だな、って思う。現時点では。
正直、100とか200年スパンで見ると、
沖縄だけでなく、日本も中国の支配というか属国化というか、圧力的なものは大きくなっていくと思ってる。
日本は財務省の経済的な失政で、経済的に中国にもっと依存することになるだろうから(ASEANとかはどうなるかわからないし)。
人口減るし。
ただ、100年あれば、中国民主化の可能性もあるし、中国の経済政策失敗するかもしれないし、日本も経済が上向いて、色々持ち直す可能性もある。
とにかく、言いたいのは、今中国に流れることは、沖縄県民にとって、多分損の方が大きいんだろうな、と思うこと。
それだけ。
カジノ法案が成立しそうです。
http://www.asahi.com/articles/ASJD252NPJD2UTFK00Q.html
この統合型リゾートの推進のための法案は、もとはといえば、日本維新の会(当時)と自民党と生活の党が共同で国会に議員提出した法律で、そのあたりにも橋下氏の影響を感じるとともに、もともとはこの3つの党は、そういう意味で経済政策的に共通の根っこを持っていることが、統合型リゾート法案のことを思い出してもわかるという、大変興味深いものとなっています。
では、カジノに前向きな経済政策の発想って、どんなものでしょうか。
カジノは、基本的に運営は企業に委託されます。政府は違法賭博の取り締まりと治安維持のみを主にその役割とします。国が認める賭博の中には、JRAのような特殊法人を設立する場合もありますが、日本の統合型リゾート法案では、カジノ施設の設置と運営は企業が行うことになります。そういう意味では、いわゆる「小さな政府」推奨の人たちの考えにきちんと沿った形になっています。
そして、カジノからの収益は政府が一定程度持っていきます。国が賭博を禁止する中で、例外的に許可する施設から運営企業が暴利をむさぼるというのはいかにも利権的で、世論から受け入れがたいものです。運営企業にも一定の利益は落ちますが、政府が特例的に認めているという性質上、国が相当の資金を吸い上げる仕組みに必然的になります。
いわば、カジノは、国の最小限の支出により、強力な税外収入を得られる仕組みです。
外国人観光客です。それも、小金を使う客ではありません。がっつりお金を使う太い客です。おぼえていますか、シンガポールとマカオのカジノで負けて、製紙会社一つを手放さざるをえなかったオーナー経営者を。あれくらいのお金をかけるお客を吸引したいわけです。そして、東京あたりに来るそういう太い客はどこの国にいるかというと、中東やアメリカやヨーロッパではありえません。モナコとかラスベガスとか、もっと面白いところがあるんだもん。であるならば、答えは一つ、中国です。より正確に言うと、東アジア各国の中国系富裕層です。
基本的に東アジアのカジノはどこもそうで、マカオだってシンガポールだってマニラだって中国系ターゲットです。ソウルだけは中国が貧しいころからありましたので、作られたころは中国人観光客ではなくおそらく米軍あたりをターゲットにしていたと思われますが、他はみな中国系富豪がターゲットです。まだ東南アジアにカジノが少なく、中国本土が今ほど経済力を持っていなかったころでも、マレーシアのカジノはシンガポールやマレーシアで富を事実上占めていた中国系富裕層が週末になると集まる場所でしたし、マカオは香港やインドネシア、フィリピンの経済を牛耳っていた中国系富裕層を吸引していました。そして1990年代後半からの中国本土の驚異的な成長とともに、大量の富裕層が本土からマカオや東南アジアの数少ないカジノを席巻し、それを見たシンガポールやマニラが中国本土の富裕層好みのカジノを2000年代に企画し、今になって結実しているわけです。中国系の人、どんなに金持ちになっても博打好きなんだよね。
中国人富裕層がターゲットとあらば、基本的にギャンブル中毒対策はさほど必要ありません。
カジノとか言うと、想像力が乏しい日本の有識者は、すぐパチンコとか思い出して、貧困層のギャンブル中毒対策が必要とかいうのですが、大丈夫、貧困層の中高年はすでにパチンコで、また若者はFXでギャンブル中毒になっていますから、いまさら対策は必要ない、というかもう打つ手はありません。対策経費は無駄です。貧困層は、カジノが想定していない客で、せいぜい入口のスロットマシンで有り金すっておしまいなのですが、スロットならすでに街場のパチンコ屋にあるでしょ。入場料を取られてまでカジノにくる必要はありません。
そして、大王製紙の元オーナー社長のような人がギャンブルでお金をすって会社を手放すようになるのは、これは自業自得で対策は不要ということで、大半の有権者は合意できるのではないでしょうか?
というわけで、この辺の政策もたいへん新自由主義的で、要は身を持ち崩す奴は自己責任ってわけです。小池知事や橋下氏が好きそうな発想ですね!
ちなみに、小池知事や橋下氏を支持しているとよく目されるネトウヨの人たちは、パチンコは半島系だから嫌いでカジノ反対というようなことをよく述べるのですが、小池知事や橋下氏は、このような意見は歯牙にもかけていないということも、このカジノ政策を見ればわかります。
もう一つ、ネトウヨの人たちは、中国人に頭を下げるのも大嫌いなはずですが、カジノを作るってことは、上記のとおり、中国系富裕層にかしずいてサービスするってことですので、これまた、このようなネトウヨの志向は完全無視されているということもよくわかります。
要は、小池知事や橋下氏に対するネトウヨのラブコールが仮にあるとしても、それは基本的に単なる片思いだってことです。
さて、こういう思考的背景を持つカジノ政策ですが、これから前進するのでしょうか。私はすると思います。上記のような事柄は、実は例えば民進党の政策形成のメインストリームである大企業ホワイトカラー勤労者から見ても別に違和感ない世界だからです。カジノに忌避感を感じているのは、むしろ貧困層に隣接している人たちの感覚、例えば最近話題の社会の底辺の人とは関わってはいけません|アッキーの雑談ブログあたりへの共感にみられるメンタリティであって、その辺は時間をかけて説得するとともに、カジノの収益を一定程度配分するようにすれば、最後は落ち着くものです。
何より、アベノミクスの基本的な発想は、上記に限りなく近いものです。金融緩和がその主力であるように思われていますし、実際経済的インパクトで目立つのは金融緩和だったわけですが、一方で緊縮財政と財政収支への配慮は言うまでもなく、規制緩和、自己責任というのもアベノミクスに通底するもう一方の考えです。
とすれば、もう統合リゾート法案自体、何年も待たされているわけですから、そろそろ、そして規制緩和(アベノミクスの三本目の矢)に向けての突破口として、カジノ、そろそろ実現に向けて大きく進むんじゃないかと思っているのですが、どうなることやら。
"21世紀における金融政策” (教科書、2062年出版)より
2012年の安倍自民党政権成立後、日本銀行は金融政策実施に当たって政府との連携を強め、年率2%のインフレ実現を目標に掲げて、「異次元緩和」と呼ばれる大胆な金融緩和策を実施した。
2013年以降、日銀は国債とETF(指数連動型上場投資信託)を最初毎年50兆円、そして80兆円づつ買い続けた。さらに2016年には「マイナス金利」政策を導入し、イールドカーブの人為的な操作にも手を染めた。
それらの結果、2018年4月時点で、日銀の国債保有割合は発行済総額の5割に達し、ETF総額に占める日銀の保有割合も8割に達していた。
にもかかわらず、日銀はまだ2%のインフレターゲットに達成することができなかった。2017年の物価上昇率はわずか0.3%であった。
「もう買うものがない。」というのが2018年度を迎えた日銀にとって最大の問題であった。
市場に流通している国債が極端に少なくなっていく中で、日銀による国債の買入れオペを拒否する金融機関が出始めていた。
2018年4月に黒田前総裁の後を承けて就任した石黒玄総裁への圧力が高まっていた。
そんな中、同年5月中旬、日本の基幹産業である自動車産業の雄トヨタ自動車が本社を置き、日本のみならず世界有数のものづくり拠点でもある愛知県において、マグニチュード8を超える巨大地震が発生した。
地震発生から24時間以内に、東京、ニューヨーク、ロンドンなど、世界の為替市場で、円が対ドルで110円から130円まで一気に下落した。それまで「安全逃避先資産」とされ、発生地が日本であろうが、世界のどこかで危機が起こったときに大量に買われていた円が、初めて売り浴びせられ、暴落したのである。
日本政府はすぐ復興債を財源とした大型補正予算を発表したが、それまで毎年のように編成されていた補正予算に景気浮揚効果はなく、補正以外にこれといった対策を講じることの出来ない政府の経済政策への期待はもはや皆無であった。日銀による緊急対応を求める強い声が経済界からが発せされた。
就任直後から厳しい立場に置かれていた石黒総裁は、この期を逃さずに早速手を打った。
日銀は5月26、27日に緊急の政策決定会合を開催し、政府が発行する復興債を直接全額購入することを発表した。同時に、それまで手を出さなかった「実物資産」についても買い始める、という新しい政策枠組みを発表した。
日銀による芸術作品買入れ(「芸術作品買い入れオペ」と呼ばれた)の枠組みは、以下の通りであった。
① 政策発表から2週間後、日本国籍を保有している者は誰でも、その保有する芸術作品・骨董品を日銀に売ることができる。日銀は適切な判断に基づいて値段を決めて現金で購入する。売却は一人一年に一回のみだが、複数のアイテムを同時に売却することは可能とする。
② 高齢世代(先の世代)が書画や陶器など多くの伝統的芸術資産を保有している一方、若い世代はそのような伝統的芸術資産を保有していない。そこで、芸術資産を持っていない個人・家庭からは、手作り芸術作品や新たなカテゴリーの芸術作品を購入することとする。
③ 日銀は、都道府県ごとに購入した芸術作品を展示するための「アートスペース」を設置し、購入した芸術作品を一般に公開展示する。入館料は大人500円。障害者・12才未満の子供は無料。展示会の収入は全額震災復興に寄付する。
④ 芸術作品買入れオペは、年度単位で行う。即ち、オペ開始から一年後、日銀は購入した芸術作品をすべて焼却する。焼却は一般市民の参加による「焼却式」によって行う。この式の参加費は500円。焼却式後、日銀は改めて次年度の「芸術作品買入れオペ」を開始する。
⑤ インフレが安定的に2%を超える状態が達成されるまで日銀は芸術作品買入れオペを続ける。
この日銀の新しい枠組みは、2000年代後半の世界金融危機後に欧米中央銀行に採用された金融政策とは根本的な断絶を表すものであった。
伝統的な金融緩和の波及経路は主に金利だと思われていた。即ち、中央銀行が金融機関から国債などを買うことによって、銀行は貸出金利を下げることができ、その結果、個人や法人への貸し出しが容易となり、市中に資金が提供される。
他方、日銀の新しい政策枠組みは、金融機関を通さずに直接個人から資産を買うことによって市中に資金を提供する、というものであり、かつ、購入した資産は定期的に廃棄、拙い手作り芸術作品には事実上セカンダリー市場が皆無であったから、定期的に保有資産が消滅していくこの新しい政策には出口がないと日銀が暗黙に宣言したも同然であった。 実際日銀は、新しい枠組みによって増えたマネタリーベースはそのまま放置するつもりであった。
日銀がなぜ国民に直接現金を配らず、敢えて「資産」を買ったのが当時批判されたが、数年後に発表された決定会合の議事録によると政策委員は現金配布という手法に対して懐疑的だったことが明らかになった。
景気が改善しても現金配布ー現金のばらまきーをやめることは政治的に極めて困難、事実上やめられないのではないか、と過半数の政策委員が懸念を示した。資産を買って現金を渡すという仕組みにすれば、国民の芸術的衝動や芸術資産がいつか枯渇されるため日銀はスムーズにテーパーリングできる、と多くの政策委員が考えたのである。
発表から2週間後、全国日銀支店や郵便局でこの「芸術作品買入れオペ」が始まった。当時の記事と日銀の統計によると、最初は書画や陶器など骨董品の買入れが多かった。遊び心のある作品も少なくなかった。毎日新聞の記事によると、男性がお尻と手を会社のコピー機でコピーをとって印刷したものを、日銀が20万円で買い取った。鴻海シャープ株式会社の社員が割り箸で作った家電が1億円で買い入れられ、日本経済新聞の一面に載った。
しかし、買入れオペが始まってすぐ深刻な問題が起こった。日銀の「芸術」の定義があいまいすぎていた。メディアによると、砲身に「金融政策」と大書した張り子のバズーカ砲が日銀に買い取りを拒否された。女性器の形をしたティッシュ箱も断られた。
芸術の知識を持っていない中央銀行が芸術の価値を判断するのはどうか、とアーティストや学者からの批判が強まった。村上春樹が特別記者会見を開き、中央銀行に芸術を売るな、と国民に強く促した。
買入れオペへの参加が低迷した。日銀がオペ開始から半年の時点で行った全国調査によると、日本人のたった1割がしかこのオペに参加していないことがわかった。同調査によると、60歳以上の世代は代々家に受け継がれてきた「家宝」を売ることを躊躇し、若い世代は仕事や育児で忙しく芸術を作る暇がなかった。さらに総じて見れば、日本人はあまり芸術作品を売ったり買ったりすることに興味がなかった。芸術を実物資産として考える人たちはそれほど多くはなかったのである。
市場では、震災直後の暴落から回復した円がドルに対して日々高くなっていた。景気は引き続き低迷し、むしろ後退に直面していた。行き場のない資金が市場を彷徨する一方で、日銀は微妙に価値のある大量の芸術作品を保有していた。
もはや日銀は政策の失敗から自力で立ち直れないと判断した石黒総裁は、善後策を安倍総理に相談した。
しかしながら、政府もまた、残された対策は補正予算の早期執行と復興債の日銀直接引き受け位しかなく、為替市場に対しても株式市場に対してもコントロール能力を失っていた。
これをなんとかしようとしてるのがリフレ派なんすよ。
景気を良くして中小企業の収益を回復させてブラック化せずともよいようにする。
または、景気の回復によって雇用を増やすことによって、ブラック企業従事者が他のまともな会社へ転職できるようにする。
と、いうことを狙ってやっているわけ。
改心して労働者を大事にするか、あるいは労働者に見捨てられて倒産するか。
ただこの場合の倒産は、借金で首が回らなくなって終了、後は地獄がまっている、という悲しい倒産ではなく黒字倒産というやつ。
景気がよくて企業は儲かっているけど、労働者が集まってきてくれないので解散という状態。
ここからならブラック企業経営者ももう一度やり直すチャンスを得ることができる。
リフレ派は法律で一発規制!みたいな派手なこと(経済政策を伴わない法規制だけの策とか上手くいくわけないけど)をやってるわけじゃないし、効果はじわじわ進んでるから何やってるのか理解されにくいけど、だいたいこんな感じのことをやってる。
なぜ現代の日本ではポピュリズムがかつてのナチや今の米国のトランプ現象のような(国家社会主義的な)形を取らないで経済政策的に逆の(新自由主義的な)現れ方をするのか? についてはどう解釈したらいいんだろうな。
というTweetを見たので思うところを書く。
それは「なぜ私たちは困窮しているのか?」という問いの答えが、そのまま表れているのだと思う。
この問の答えとなりうるものはいくつか有る。この場合、その答えが本当に正解かどうかは問題ではない。その人(国民が)がどんな答えを想起して、望むのか? というのが要件になるからだ。
ひとつには「富裕層が搾取しているから、私たちは困窮しているのだ」というものだ。ある意味左翼的な発想だといえる。この答えのパターンは国内でも国外でも見られる。日本の場合この「富裕層」というのが実にふわふわしてるので「企業が搾取している」みたいな形で表出しているように思える。「内部留保している企業が悪だ」という論説だ。
「国内の異分子(この場合、移民)が存在するから、私たちは困窮しているのだ」という答えもある。Brexitとかトランプの言説の中心的なもののひとつがこれだ。国内の職や富を、本来分け与えなくてもいい外部的な異分子(本当に分け与えなくていいのかどうかは、今回は問わない。そう答える人の中では「分け与えるべきではない」という感情があるというのが今回は重要なので)に分け与えてしまったが故に、私たちは困窮しているのだ! という主張である。結論としては、そのまま「奴らを追い出せ!」となる。日本では、在日韓国・朝鮮人への風当たりとして見ることが出来る。だから、Tweetのように国家主義的なそういう排斥がまったくないわけじゃない。もっとも、日本では在日韓国・朝鮮人を移民だとみなしたところで割合は非常に少ないので、彼らがいるからこそ日本が困窮しているというのは説得力に欠けるためか、一般的な人はこのタイプの主張を強くはしない。
最後のひとつは「私たちの中に怠け者がいるために、私たちは困窮している」というものだ。「同じ庶民の中に怠けている人間がいて、彼らはより少ない労働で社会の富を多く得ている(=不当である)」、「だから私たちが困窮している」という主張だ。これがおそらくTweetでいう「新自由主義的な表れ方」につながっていて、結果として「怠け者は見捨てろ、自己責任だ!」という結論になって現れる。このタイプの主張は、たしかに日本独特のものであるようにみえる。
なんでそんな主張が表れてくるのかだが、マクロはともかくとして、ミクロ的な、つまり職場や学校や地域社会において、「怠けた人は得をする」というのが日本においては真実だからだ。
例えば伝統的な日本の職場において、その部署のエースが成績最下位の3倍の成績を上げたとしても、3倍の給与はもらえない。むしろ仕事ができるということで面倒だったり厄介だったりする仕事を回されたり、要領の良くない人の面倒を見なければならなかったりする。そして給与に関しては色を付けた程度で、どんな成果を上げても横並びが普通だ。能力が高く頑張っても得をしないということは、つまり、ある一定額の給与をもらうという視点にたてば、手を抜いたほうが得であるということになる。
これは学校や地域社会でも一緒で、起業が少ない理由にも通じている。企業では出世を望まないということになるし、学校や自治体では責任者になるのを回避すると言うかたちで現れる。努力して成果を上げたとしても組織の中では評価されないし、仮に評価されたとしても、今度は周囲の妬みや僻みが待っていて、結局は損をする。……そういう実感を日本人はもう肌感覚として持っている。
マクロ的にみれば「全員がそうやってより低い努力しかしないと、全体の成果がどんどん沈下するだけで、結局は自分もジリ貧だぞ」「乗ってる船が沈んで後悔することになるぞ」となるのだけれど、普通の人間はそこまでマクロ感覚で生きてはいない。国民全員が貯蓄を開放すれば景気は上向くと理論としてははっきりわかっていても、「このままじゃデフレになっちゃうから貯金は全部やめて暮らそう!」という生き方がなかなか出来ないのといっしょだ。
だから、ミクロ的な「怠けた人は得をする」という実感を頼りにマクロを類推して、「私たち同じ庶民の中に怠けている人間がいて、彼らはより少ない労働で社会の富を多く得ている」という結論が合成される。その結果出てくるのは「生活保護を打ち切れ!」とか「奨学金を返すのなんて当たり前だ!」とか「就職活動をサボってフリーターになったんだから低所得なのは当たり前だ!」とかいう自己責任をキーワードにした新自由主義的な責任追及だ。
そんなわけで、なんで日本においては下流叩きじみた新自由主義信仰があるのか? については「怠けたほうが得な社会を私たちが作ってきたから」だ。能力がある人や成果を正当に評価しないで、ムラ社会的な横並びで生きてきたので、社会が苦しくなるのは身内に裏切り者がいるに違いないという発想になるのだ。
Tweetでは「新自由主義的な表れ方」といっているけれど、日本はアンバランスで片手落ちだ。本来の新自由主義であるならば(市場原理を最大評価するんだから)能力が3倍ある人には3倍給与を与えるはずだからだ。
再分配を考えるのなら、そしてそうやって高額所得を得た人を大いに賞賛して、褒めて、よーし俺も大儲けしちゃうぞー! と皆で乾杯でもした後に、その上で気持ちよくがっぽり税金を払ってもらって、それを分けたほうが効率がいいし、筋というものだ。結局国のGDPは個人の生み出した付加価値の総和なわけだし、ひとりひとりが頑張るっていうのは、がんばって成果を出すのが嬉しい環境を作らないと実現できない。つまり、自分が頑張るってのは、頑張って成果を出した人間を大いに褒めて評価するってのとセットでしかありえないはずだ。日本の場合はそういうアメリカンドリーム礼賛みたいな態度は殆どゼロで、高額所得者を褒めない上で、「目立たず最小限の労力で、しかし周囲に激怒されて村八分にならない程度に稼ぐ」という「出る杭にならないチキンレース」みたいな社会状況を自分たちで作り出し、なおかつ「自分の負担になっていそうな、自分より少し下の人間を叩く」ので、本当にたちが悪いと思う。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/10/post-6110.php
によせて。
日本のマスコミや論者は二大政党制度を何か良い思想のように扱うけれど、AorBではどちらの選択肢も選びたくない場合やそういう層がいるというのが、今回のサンダース&トランプ現象の本質だったのでは?
経済や世界情勢が複雑化する中で、様々な論点があって、その多種の論点をAorBの2つの選択肢に集約するっていうのは無理がある状況って有るんじゃないのかな。日本だって同じで、例えば憲法問題において自民党はイマイチだよなあと思っている有権者がいたとしても、経済政策なんかを考えれば民進党に票を入れるのはそれはそれでダメぽよという気持ちになることも有るでしょう? 幾つもの制作方向性を強引に2種パッケージにまとめれば、それぞれの整合性が失われて自縄自縛になることは想像に難くない訳で。
そりゃまあ、大半の有権者にとっては選択肢が多くても、敷居が高くなって難しくなるだけかもしれないけれど、しかしそれでは選択肢そのものが陳腐化してしまうっていうのが、現在の世界状況なのではないかな。
日本のマスコミや論者は二大政党制度を何か良い思想のように扱うけれど、それはただ単に主に新聞系メディアが、反与党的なキャンペーンをするために持ち出した、日本特有の幻想なのではないかと思える。あるいは、選択肢が一つしかない状況よりはふたつのほうがまだマシというだけのはなしであって、政治において二大政党というのが何か堅持すべき神聖なナニカであるかのような考え(つまり冒頭の記事に透けて見えるそれ)って、欧米崇拝以上のものを感じない。
旧民主党のとき「これからは二大政党時代」「日本にもやっと政治の夜明けが!」みたいな煽りをマスコミはさんざんしていて、実はその予熱みたいなものを時たま見かけるわけだけど「二大政党」になったからといって、それらの政党の出す政策がましになるという保障はどこにもない。うんこ味カレーvsカレー味うんこみたいな結末は、十分にありえるわけだ。
むしろ二大政党(あるいは大統領予備選のような二大候補)になった時点で、「国民の多くが抱えている問題意識とどう向き合うか?」という政治的誠実を武器にするよりも、相手のスキャンダルを叫び立てるdis合戦をしたほうが「勝負」としては合理的になるのではないかな。戦略としてはそのほうが有効で、それを愚直にやるほうが勝つ――そういう現実が今回の教訓なのでは? (決して好きではなかったけれど)舛添旧都知事を都民が事実上更迭したのも結局はそれで、政策というよりはスキャンダルだった。「選択肢をしぼってわかりやすくする」という発想は、政策論争や選挙から、国益の判断を奪ってスキャンダル合戦だけを肥大化させてしまうんじゃなかろうか?
http://anond.hatelabo.jp/20161003130854
80年代から90年代にかけて、日本は経済的に豊かになった。生活が大雑把に言って誰にとってもよくなったし、多くの人が下層から中流へと引き上げられていったのだと思う。増田自身がそうだというのではなくて、この考え方がどこかにわだかまっているのを感じ取って書いているのだと思うけど、この「『景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい』ってのは非常に傲慢で気が狂った意見に思えるんだけど、どうだろう?」という発想は、そうやって引き上げられて適応できなかった人たちの言葉なんじゃないだろうか。
人類の歴史のうち、記録に残っているのは紀元前精々数千年だけれど、その間でテクノロジーの進歩が止まったことはなかったはずだ。ヒトは消費を拡大し、経済を拡張し、産業を発展させて、生存をより確かなものにし続けてきた。文明、経済や文化の発展とはエネルギー消費の拡大でもあるけれど、生存をより確かなものにするためのものでもあった。
「景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい」というのは、この認識に対する挑戦だと思う。つまり景気は「上昇しすぎた」ので、「おかしい」が、「おかしくなかった」水準があり、そこまで下降することが現状よりも良い、という意見だ。おそらく経済学を学んだ人なら教科書の最初の章で学びでもすることなんだろう ―― そこにはもっと簡潔で示唆に富んだ言い方で書いてあるのだろうけれど、景気は上昇しなければおかしいし、景気を支えるのは景気だ。経済は静的な系ではない。常に動的で、一時的な、その裏にある人間の日常生活を調停するメカニズムに過ぎない。
彼らの語る"適切な規模の経済"には、いつもどこかから富が湧き出てくることになっている。財やサービスが社会システムによって無から自動的に生み出され、それを絞ることで持続性を確保することになっている。そこに規模の経済などもちろんないし、需要と供給の関係もない。代わりにあるのは、供給と受け入れ可能量だ。大衆は受け入れ可能量をもち、与えられた賃金の中で供給を仕方なく消化するが、受け入れ可能量の伸びには限度がある。だから供給は低く押さえることが望ましい、というモデルだ。
景気の爆発によって、多くの人が経済や社会を自分の認識する世界と切り離して考えるようになってしまった。あるいはそういう人が新たにたくさん発言力を得た。株式市場というのは一部の人が遊ぶゲームで、経済政策は美麗字句を書いた文書に過ぎない。小さな好景気や不景気は《降って》くるもので、仕事場と帰りに寄るスーパーと自宅の外のことは、そういった仮想世界での事件とは何ら関係なく、「おかしくなかった」水準で永遠に続いていく。これらの人々は胡蝶の夢のごとくそう思い込んで、「仮想世界にのめり込むのはやめよう」と言っているようにも聞こえる。増田の意見、そしてそれに類する意見を見るたび、そういう違和感を覚える。"現実世界"から"仮想世界"のものを排除して、きれいで質素で、自分が必要だと思ったものは無から湧き出ることで変わらず存在していて、必要がないと思ったものはきちんと栓を閉めたのでどこを探しても残っていない、そういう過不足のない世界を作るんだという幻想がそこに見える。
でも、うまく言えないけど、そんな"仮想世界"はないんだ。全国で毎年数百人しか使っていない制度を廃止すると、増田の5親等先から悲鳴が聞こえてくる。平均株価が何ポイント落ちると、コンビニのジュースが何円上がる。コンビニは贅沢か。それなら上水道でもいいかもしれない。飲み水に上水道は贅沢だろうか。
経済は永遠に拡大していくという言い回し、永遠に消費は増え物価は下がっていくというモデルが今一つ心に響かないよ、という気持ちはわかる。しかしそれを理解してほしい。経済は褒めれば伸びる。ときどき発振する。抑えれば、フィードバックがかかってどんどんと落ち込んでいく。スタグフレーションは実在するんだ。支出を抑えて賃金を下げても、誰かの所得が増えるわけじゃない。金の額面は貯めこめても価値は貯め込めない。それは増田も貯金の価値が不変ではないと認めている通りだ。価値は、作らなければ、自然に風化して消えて行ってしまうんだ。
コントロールされた縮小をすれば一定量の幸福を長く保てるなんていうのは幻想なんだ。自分が理解できない経済のメカニズムをぶち壊しても、美徳や気持ちで金銭を置き換えても、その実態は通貨の名前を変えた貨幣経済だ。どうかそれに気付いてほしい。
須田慎一郎氏の講演会があって聞いてきたんだけど、いやあすごかったわ。プロはやっぱりすごい。
ツイートはするな言われたけど(もちろん冗談だと思うが)増田ならいいよね?国会にも出てるし。そこでプロはすごいと思った2点を話す。
自分も政治経済にはそれなりに興味をもって接しているから、いろいろな経済の動向を知っているつもりでキーワードは抑えていたんだけど、ぼんやり認識していた部分をここまで分かりやすく端的に表すのは流石プロだわ。年間100本こなすらしいから、当然といえば当然だが。
納得したところ
と言うことであった。
正直、アベノミクスが第二弾になって、そういえば失敗失敗と言われている「トリクルダウン」が確かになくなった。その後、経済対策はばらまき系になった、と認識していたのだが、須田氏の見立てでは、新しいアベノミクスの本質は、一般に、と言うか、少なくとも自分がは福祉政策だと考えていた一億総活躍社会の方にあると言う。
一人当たりの給与は伸びない。トリクルダウンが起きないのなら、そういった「質」の向上よりも「量」として、世帯収入を伸ばそうとしていると言う。
なるほどな、と思った。これは安倍首相が再三唱えてきた「イエ」を重視する姿勢にも沿っているし、なるほど分かりやすく腑に落ちる分析に思う。
今までぼんやりと考えていたことが、ひとまとめに繋がって腑に落ちた感じで、流石政経の専門家だと思った。
これが政策として良いかというと色々と議論は有り、突っ込みどころとしては
などがあるが、これはこの日記の本質じゃないのでとりあえず置いておきます。
ヤクザの専門家じゃないんですね(途中でご本人もネタにしてたので)
年間100件以上の後援会をこなすという須田氏なのだが、一番最初に掴みからはいって、枕の「やわらかい」話から始まる。
そこで、楽屋裏のような話や、親友と言う他のジャーナリストの方、さらにはこの金がなさそうな講演会のギャラまでネタにして、上手いこと話を混ぜていく。さらに受講者の年齢層や、反応などを見ながら話を組み立てて言っているらしい。
落語のつかみみたいな。
一応原稿っぽい話が入ったクリアファイルを持っているのだが、それを広げた形跡がない。パワーポイントなども使わない。ただ、前に立って喋るだけ。これは講談師や落語家に通じるモノがある。トリクルダウンの説明をするときにちょっとだけ水を飲んで見せた以外、途中で水分の補給もせず、90分喋りっぱなし。
眠くなって眠っちゃうひとがでる、と言う講演会あるあるや、会場の人たちをちょっとずついじる姿なども、漫談家というか私はちょっと綾小路きみまろ氏みたいなプロ司会を思い浮かべた。
もちろん、内容は先ほど書き出してみて気づいたのだが、結構堅い話なのだ。きちんとガチの経済の話。それを引き込ませて、満足度の高い内容をやるというのは流石プロという感じである。
また立ち振る舞いもなれたもの。100件もやってりゃそりゃもう、と言えばその通りなのだが、実った稲穂ほど頭を垂れるとはよくいったっもので、きちんと周りに配慮をしており、いすを引いてくれた係の一にちょっと挨拶をしたり、公演の最後には深々と頭を下げて回る様子なども、印象に残る。
そして講演が終わったら、のこって妙なことにならないようにさっと退くなども見事だった。
また、正直それほど大きな影響力のある寄り合いでは無かったし、おそらくギャラなどはネタになるぐらい安い(と言うか、半公的機関みたいな団体なのでめっちゃ安いはず。はてなで話題になったら総叩きになるぐらい安いはず)のに、きちんと最後の交流会まで出席していくのである。
いやあ、そもそも顔が怖いひとだから、ひとよりきちんと丁寧に礼節を尽くしてこないと誤解される感じだったのかなとか余計な事まで思った。俺もそう言う感じなので見習いたいと思う。
プロってしゅごい。
実は予習で須田氏の本を買って読んだのだが、おそらく客層で変えてきたのでずいぶん印象が違い、「需要に応える講演」って自称されていたけど流石だと思った。
惜しむべくは、自分はすでに電子書籍派であったため、買った本は裁断して自炊してリサイクルしてしまっており、サインをもらい損ねたことだ。つうか交流会出るとか思わなかった。こういうひとさっさと帰るイメージがあったのに。こんなことなら2冊買ってサインもらえばよかった。
『経済政策で人は死ぬか?: 公衆衛生学から見た不況対策』https://www.amazon.co.jp/dp/4794220863
ぜひ増田にはこの本を読んでもらいたい。
この本には、財政再建をするという名目で医療費等の社会保障費を削る緊縮財政を行ったことろ、当然のように多くの人命が失われた上に、その惨劇が財政再建に資するどころか逆効果をもたらした(つまり悪化した)という悲惨な事実が書かれている。
著者の一人は医師で、医療現場の描写も多い。ギリシャにおける財政再建のための"医療改革"の犠牲者として、ある癌患者の事例が紹介されている。肥大化した腫瘍が皮膚を突き破り、体液が染み出すところまで癌が進行したところでやっと治療を受けることができたそうだ。担当医は「その場の誰もが涙を流しました。癌が進行するとこのような状態になることは皆知っていましたが、実際に目にするのは初めてでした。それまでは、ギリシャ国民なら誰もがもっと早い段階で治療を受けていましたから」と語っている。
そして問題は、こうした犠牲者を出した経済政策が、財政再建になんら役立たなかったどころか状況を悪化させたということだ。この癌患者はなんの意味もなく苦しみを味わったということだ。
この本を読めば、社会保障を削れば財政再建ができるという単純な理屈はただの思い込みに過ぎないこと、そして、人間の健康な生活を蔑ろにした緊縮財政が如何に愚かであるか理解できると思う。
「アベノミクスは失敗で、だから駄目だって言うけど、じゃあオマエラはどうしたいんだよ?」
( http://anond.hatelabo.jp/20160720093730 )
ってのは、聞きたくなるだろうけど、それね「政治」として見ると、意味ないよ。
まあ、論点は多々あるけど、おおよそコレ。
「お前のかかってる医者ヤブだから!その治療方針は間違ってる!」
ほとんどアベノミクスと同じで、まともな反論としては「アベノミクスではまだヌルイ」
消費税を増税せよ!という政策がマトモじゃないのは、みんな理解してるだろ。
(というか、そういう空気感に強引に政権が持ってって、誰も反対できなくなった)
経済政策ってね、正解が無いのよ。
基本的には、徴税(カネを持ってく)と再分配(バラマキ)の綱引き。
なので人口構成、産業、地場、国策で大きく違う。(餓死者が出ても宇宙開発に突っ込むとかな)
で、「アベノミクスのやり方は正攻法だけど、まだ足りない」というのは反論にならないので害悪なの。
「アベノミクスは正攻法だけど、このへんが不足してるんで足してください」ってのは、追認になるの。
「自民党には政権を任せられない」というのが野党のスタンスだから、追認はできない。
よって、自民党に反対するには「アベノミクスが正攻法では無い」というスタンスが必要。
で、アベノミクスって要は日本円ガンガン刷って、投資にカネ突っ込んでもらって、企業に潤ってもらうのが基本。
それ以外の余録の部分が足りないって主張はいいんだけど、骨子のところを反対すると、
「市中に流れる金を増やすのを止める」「投資にカネ突っ込ませるの止める」「企業を締め付ける」のどれかになっちゃう。
だから、ぼんやりと「アベノミクスは失敗!反対!」ってシュプレヒコール上げるのが良いの。
で、「こういうところが足りないから失敗だ!」「こういうところのフォローがなってない!」っていうのが良いの。
アベノミクス路線+αを主張できないのは、「自民党に協力して行く」スタンスじゃなくて、「自民党に反対する」スタンスだから。
そりゃ超えられない一線があるからだろ。
でも、経済政策について自民党よりも効果のある政策は常に「自民党+α」になるから明確に出す意味が無い。
明確な経済政策スタンスを打ち出すと「自民党+α」になっちゃうので、
「じゃあ自民党で良いじゃん」みたいになると困る。
(というか、そういうの裏切りだと捉える支持者が多い)
そもそも、投票に行くのも陳情するのも積極的にロビー活動するのも
圧倒的多数が全共闘世代を経験してる連中なので、年齢的に「自営業」もしくは「経営層」が多数。
そういう連中は「理念」で動くので、「経済政策がマトモだから自民党から共産党に鞍替え」とか絶対にしない。
また逆に「弱者救済に注力しだしたから共産党から自民党に鞍替え」とかもアリエナイ。
よって、経済政策スタンスは、明確にしようが明確にしなかろうがあんまり大勢に影響なくて、
変に自民党追認じゃんみたいな雰囲気になって浮動票流れちゃうと困るので、明確にする方が害悪。
所得税の累進性強化、法人増税。法人税は社員あたり現金及び同等物額で税率に傾斜を掛けても良い。
金融緩和?消費増税で、金融緩和 <<<< 財政ということが証明されたので、「金融か財政か」の2択(理不尽だ)なら財政だし、続けても続けなくても。
法人増税は、景気のビルトインスタビライザーの強化だったり、どうせ課税されるならで社員に回ったりと、実際に増徴できなくとも再分配効果高い。