はてなキーワード: ながら見とは
たまに出てくる「雇用の流動化」とかいうやつ、要するに経営者がいう「正社員のクビを切りやすくなれば給料上がる説」、
まあ雇う側(とそれに味方する政治家)が言い続けるのはわかるよ。雇う側に都合のいい話だから。
ただ労働者の立場で「雇用が流動化すれば今の俺の給料が上がる!」って思ってるのがもしいたら、残念ながら見通しが甘いとしかいえない。
そもそもの話、「誰かのクビを切らないと昇給の原資がない」って状況で、クビ切って浮いた金を既存の従業員に回す? 従業員に払うお金が増えても目先の利益は上がらないのに? それより今までの赤を埋めるよ。
クビ切りたい状況ってのはつまりそのぶん事業をスケールダウンする必要があるから、給料上げるどころか下げるまである。
ちゃんと上手く行ってて給料上げていけるところはそんな主張する必要がないからね。
まあたぶんだけど、労働者側でこの主張に賛成してる人は職場にいる「窓際で高給な人」みたいなのを良く思ってないんじゃないかなあって気はする。
その気持ちは気持ちとしてわかるんだけど、じゃあその人がクビ切られた後を想像してみるといいんじゃない。
自分の給料上がってる? 「正社員のクビが切れないから給料上げられない」って言い訳してるような経営者が、売上変わらず人が減ったら給料上げてくれると思ってる?
その人のぶんの仕事が増えてるだけじゃない?
しかし従業員の給料が上がるパターンは存在する。「転職したとき」の提示額には影響するでしょうね。
逆にいえば転職しないとその恩恵はないよ。そしてそういう面で恩恵にあずかれる人はもうやってる。今できてないなら無理でしょ。
「従業員のクビが切れないから賃金上げられない」とは言ってるけど、「クビ切りやすくなったら賃金を上げる」とは言ってないからね。
それが適ったら次の「賃金上げない理由」になる言い訳を探すだけだよ。まあ「利益は新規事業に投資したから赤字」で終わりなんだけどね。
「簡単にクビにできたらそのぶん賃金上がる」っていうのが真なら、非正規が最高給になってないとおかしくない?
脳みそがチンパンジーなので、始終展開があり画面に飽きない映画が大好きだ。
これまで見た映画で特に楽しめた映画を頑張って挙げる、ぜひ同じような傾向のまだ見ぬ映画を教えてほしい。
グランド・イリュージョン - 始終退屈せずを体現した映画、華がありスタイリッシュな登場人物たちに魅了される
ドラゴン・タトゥーの女 - ダニエル・クレイグと影のある女と陰謀、カッケー、以上
女神の見えざる手 - "アメリカが彼女に振り回される" みたいなキャッチコピー、僕もぐるんぐるん振り回された
マージン・コール - 文化祭の前日に夜遅くまで準備しているときの雰囲気が好きだ、そんな記憶を呼び覚ましてくれた映画
エグザム - 閉鎖空間で初対面の人間が集まって何かするっていうよくある設定だけど最後まで飽きない
プレデターズ - 地球のいろんな軍隊の人が突然さらわれて宇宙人と戦う、この映画好きな人と会ったことないけど好きなんや…
オーシャンズ 11,12,13 - プロフェッショナルが集まって何か作戦するって映画は基本大好き、ブラピがかっこよすぎる
スティング - オーシャンズみたいな映画、ちょっと古いけどこれもすべての要素をきれいに配置した良い映画
CUBE - シリーズ全部みたけど初代だけ、余分な要素がない初代が一番好き、なぜ初代以外はだめだめなんだろう
インターステラー - これは本当に純粋な画面映えがよかった、内容も好き
ガタカ - 何かが足りないけれどもそれを乗り越えようと人事を尽くす姿には心をうたれる、派手な画面ではないが目が離せない
フォーカス - プロの詐欺師カッケー、あとこの映画の演技指導をした人の TED の動画も面白いから見てほしい(https://www.youtube.com/watch?v=EDkxFQExFec)
ウォンテッド - 中二病のために作られた映画、中二病なので超楽しかった
ソードフィッシュ - してやってやったという映画、してやられた
プレステージ - 長いけど途中で伏線が頭の中でつながったときは興奮した
真実の行方 - 最初マジで寝そうになったけど話が動き出してからは楽しめた
ものすごくうるさくて、ありえないほど近い - 子供の繊細な心の動きに揺さぶられた
1. はじめに
反出生主義は、昨今のインターネットにおいて注目を集めている思想の1つである。
この思想はしばしば誤解されがちで、「陰キャ非モテの妬み嫉みから産まれたルサンチマンの申し子」のごとく扱われる。しかし、大筋としては「現在生きている人が死ぬべきであるという主張」ではなく「産んでしまうこと自体が苦痛の押しつけである」という建付けのロジックとなっている。
その具体的な論法はそれなりに複雑で、論理展開自体も多くの批判を浴びてきた。それでも、未だにある種のバズワードとして、「反出生主義」はインターネットに巣食う若者の語彙に侵入している。
ただし、個人的な意見だが、思想というものはそれを実行する行動があってはじめて充足されるのだと思う。国会前で手作りのプラカードを抱えて珍走する路上の高齢者も、大人とつるんで政治的フレーズを口から出力する高校生大学生も、その点においては真摯な態度だ。TwitterでJAのイラストにケチをつける自称フェミニスト諸氏も、自らの思想との向き合いかたとしては評価できる部分もあるのだとは思う。少なくとも、2chやTwitterの匿名垢で独自理論を垂れ流しながら具体的には何の行動もしないオタクくんよりは遥かに好感を持てる。
では、反出生主義者を自負するインターネット戦士諸君に要求される「行動」とは何なのだろうか。
それは、ひとえに「女性の権利擁護」「性的マイノリティの権利擁護」「高齢者の権利擁護」の3本柱に集約される。
女性の権利擁護と表現すれば、一見するとTwitter-feministを想起させる危ないフレーズにうつる。しかし、女性の権利擁護、特に「産まない自由」や「独身を謳歌しバリバリ働く自由」を擁護することが肝心である。
これは、現代の価値観においては正しいとされる内容である。このことを口に出したところで、いわれなき批判を受ける機会はないと断言できる。だからこそ、反出生主義者にとっては格好の隠れ蓑かつ武器となる価値観であると確信している。
産まない自由を謳歌していただくことは、女性にとってもキャリアの中断(産休育休であれ、中断には変わりない)や育児コストを削減するのみならず、固定のパートナーに拘束されないことで気軽な恋愛を楽しめる期間が継続するという確固たるメリットが存在する。そして、反出生主義者にとっては言うまでもなく、思想の方向と合致する結末に繋がるルートである。そして、この自由を長く謳歌することは、生物学的束縛によって「産めない状態」へと繋がる。そこで不妊治療等を頑張ったところで、多くの場合は1人程度の子供を持つのみであるから頭数としては減らすことができる。仮に、ひたむきな努力の末に2名の子を授かることができたとしても、頭数は決して増加しない。その点でも、女性にそのプライベートやキャリアを追求していただくことは、反出生主義者にとって好都合である。
性的マイノリティ。古典的な統計としては、全人口の1割程度を占めるとも主張される存在である。そのカテゴリの人々においては(彼らとも彼女とも表現しづらいので、少なくとも合意が形成できるだろう点として人という表現を採用している:これは、自らを人以外の生物や物質であると主張する方々の権利を侵害する意図をもって行われている表現ではないということを断らせていただく)、子を為すことが現行のバイオテクノロジーによっては不可能である場合が多い。私は任意の2名が結婚という契約を結べるように社会体制を再構築することが急務であると心底確信している。個人的な思想としては、他人のカップルがどれだけセックスしようがどうでもいいし、結婚しようがどうでもいいのだ。興味がない。だからこそ、勝手にしてくれればいい(それによって私は一切困らない)。
ただ、これを反出生主義のポジションから眺めると、所謂クィア思想が普及し、子を為さないパートナーシップがますます増加していくことは、積極的に歓迎すべき事態であるといえる。社会的にこれらの思想を擁護することは、従来であれば「社会義務的に」子を為すことを強いられていた人々が、その苦痛を受けることなく、過ごすことができる。望まれて産まれてきたわけでもない子供の数を減らせるなど、喜ばしいことでしかない。虹のふもとには黄金のつぼなど存在しない。
高齢者とは、日本社会における最多数派であり、常に最大派閥の世代として生き永らえてきた階層である。彼らの医療・福祉に多額の金が流れ込んでいることは明らかであり、一方で次世代の教育への国家的投資がないがしろにされてきたという指摘は昔からよく為されていた。
労働者から徴収される諸々の金額総計は近年著しく増大している。消費税増税でガタガタ騒ぐ世間は、この部分についてはあまり取り上げないという印象が強い。また、既存の控除等が廃止することも注目されず、こうして現役世代からの集金システムは年々強化されてきている。
全サラリーマンの平均年収が400万円前後である一方で、都市部なら家賃含む生活費、地方部なら車の維持コストなどがベースとして重くのしかかる。子供を作れば一層の負担が追加される。出生に対し、経済的に大きなアドバンテージを与えられることもない。
若者が子供を持たない理由として一番挙げられているのは、経済的不安である。これは統計的事実として存在しており、逆にいえばこの不安が解消されることがある程度出生率の改善に寄与するだろうことは推察されうるわけだが、そうした抜本的な変革は未だ行われない。それは社会全体として出生をサポートする気がないし、高齢者の延命や生活環境の方が大事であるという強烈なメッセージ以外の何物でもない。
この事実は、出生をしたくてたまらないが大して金のない若者にとっては悲惨な現実である。しかし、反出生主義者にとっては、自らの望む結末を実現する上でこの上ない支援である。国家が自分たちの思想(から望まれる結末)をバックアップしてくれるなんて、滅多にありえないことである。
まだ産まれてきていない人のことより、もう産まれた人の権利を優先するというのはある程度理解できる。また、すでに産まれてしまったのポジショントークとしても、自分が老人になったときに優先されるのだ(実際はどうなるか全くわからないが)から、比較的取りやすいポジションだと思われる。別に子供など産まなければいいのだから......
そうして、出生数は減少し、反出生主義者の望む結末が得られる。
5. おわりに
反出生主義者は、そのことを表明するたびに、様々な誹謗中傷を受け取ることとなる。
ときには単なる逆張りとして、ときには嫉妬の表現として、嘲笑の下に処理されることも多い。
しかし、時代の流れとしては、反出生主義者の望む結末へと漸近しつつある。
そんな中で、反出生主義者らが取るべき行動とは、この方向性を後押しすることである。女性の権利擁護につとめ、性的マイノリティの人々の自由を願い、高齢者の方々が充実された余生を過ごせるよう陰ながら見守ることが求められている。その先に、必ずや人口の致命的な減少という結末が訪れると信じて、日々の無味乾燥とした生き地獄を生き抜いてほしい。(別に生きることを推奨しているわけではないので、自由にすればいいが)
ごらんのように私はあまり映画に入れ込んでいない。詳しくない。ほとんど地上波でしか見ない。なのでカットシーンがあってもあまり気にしない(シャドウゲームは流石にダメだった)。
そんな私も見る前はちょっとわくわくしていた。面白いらしい映画だとふんわり耳に入ってきていたし、料理映画がいくつか好きだったからだ。
フードトラックのシェフも好きだしレストランのシェフも好きだし、まあレミーのおいしいレストランも嫌いじゃない。同じく南極観測所の料理人シーンがある大統領の料理人も面白かった。というかああいう雰囲気を期待していた。
閉じたシチュエーションのドラマというなら王様のレストランも好きなのさ。本気だぜ。
ところが、だ。
今私は悪態をつきたいががためにこうして筆を取っている。珍しいことだ。つまらない映画なら録画から消して終わりが常なのに、この映画は私の貶したい心をくすぐってきた。だから以後は批評でもなく単純な文句を書くのである。
なお原作があるらしいことは知っていた。しかしドキュメンタリーではなくしっかりとフィクションの映画として味付けしていることを期待していたので、原作がこうだったから。は考えない。
観測所に居る人物は計8人。男だけというのはヒロイン(恋愛要素)が好みではない私には好印象だった。
しかしいきなり全員の紹介をナレーションで済ますのにはガッカリきた。これだけで長い共同生活の中でキャラクターを深掘っていくという期待はもてなくなった。裏切られることも期待したのだが…。
彼らはほぼ所属も役割も異なるメンバーであり、その中の一人、調理担当の西村がこの映画の主人公だ。
そんな彼らが南極で何をするか。
…何をしてたんだろうな?
こいつら、まあそろえば喋るし一緒に騒いだりもするのだが「一緒に何かしている」シーンか「一緒に居るがすごい無関心」なシーンばかりが記憶に残っているのだ。
「一緒に何かしているシーン」、野球や豆まきのの場面はそこだけを切り取られているから、誰と誰が仲がいいとか、趣味が合うとか関係性が見える会話がかなり少ない。ほぼ全員好き好んで南極に来たわけではないのでゼロフラットな関係から嫌い・好きに振れていくはずがそういう機微が無い。
じゃあ既に仲がいいのかと言われれば会話の節々で間があったりかみ合わなかったり意を汲まれなかったりととにかく思いやりが無い。
面会を拒否するが置かれた飯だけは直ぐに取る
盗み食いによる欠品を何とかするように夜に起こして懇願する(盗み食いが発覚してもまず食べ物の不味さを告げる)
などなど、見ていていじめとしか思えない気分が悪い展開が続く。これ、後々のための伏線などではないからね。
会話が空回る空虚な時間はわざと大量に作られていて誤用の共感性羞恥が襲ってくる。監督の頭がおかしい。
じゃあ逆に仲が悪いのかというと大して衝突や大きな騒動も描かれない。無関心か?後半、長期の閉鎖環境のストレスから数名が暴走するが、錯乱の範疇で人間関係が主要因ではない(要因ではあるが)。
そしてその騒動のとばっちりを受けるのは当然無実で何も悪くない西村君である。脚本によるいじめか。
閉鎖環境であるにも関わらずキャラクターに魅力がない。キャラ同士の相互作用が生まれない。絡んだと思ったらかみ合わなさを見せ付けられる。
中盤からはなんでこんな中年男性を見させられているんだろうと至極うんざりしていた…。
それぞれの職域のスペシャリスト性が出ていればまだ性格に難アリの低関心職人肌集団と見ることもできそうだがそれらのエピソードも取ってつけた薄っぺらいものだ。
(あと早く帰国したいとか来たくなかったとかもまあ分かるのだがそこはサバイバルや刑務所内のドラマと比べれば格段に自由なので分かるは分かるが刺さらないんですよね)
数少ない女性陣についても貴重な遠距離通話でとにかくギクシャクした会話が続き、ついに一人は好きな人ができたと捨てられる。
西村君の家族の妻と娘は大根役者とはとても言えない明らかに演技指導として不快な演出がなされている。単身赴任の打ち明けや任地をあざ笑うシーンなど、ここにも思いやりがなく自己中心的なキャラクターだ。
娘に対して元気が無い母親に料理を作ってあげたらと提案したシーンにはなぜこんなものを作ったのかとかなり泣きそうになった。ハートフルな部分を見せるのかと期待を持たせ一瞬で叩ききる名シーンだと思う氏ね。
エンディングは帰国した西村君一家のシーンだが、まったくもって意図がわからなかった。なぜ私をこんなにラストのラストまで不快にさせるのだ?混乱するほどわけがわからない。わかるのはラストのセリフぐらいだよ。
あと、先述した騒動のとばっちりを受ける無辜の西村君。そのショックで引きこもってしまいます。料理人が居ないからしかたなく残りのメンバーで作るしかないのだが…
って書くとドラマが生まれそうじゃん?揉めあって失敗するのか、西村君が手助けしてハッピーエンドなのか、西村君にはどう謝罪するのか…。罪悪感をどう表現するのだぁ。
ないからね。そんなの。
今までの描写を見るにコイツら、腹が減って料理人が居ないから自分でただ作ってるだけだからね。悪気も無いよ。当然謝罪も。調理現場見てあまり反応もない西村君含めてなんだよこいつら。西村君が風邪で寝込んでしまったから代わりに料理してますでも成立するからね。これ。風邪引かないんだけどさ。南極だからさ。
そんなわけで完成品のマズい(映画冒頭に妻が作ったのと同じ)から揚げを食って西村君が感極まるシーンも理解できなかったよ。
好意的に頑張って考えれば妻を思い出してホームシックな涙なのかなー。それとも自分の代わりに頑張って作ってくれた仲間への感情なのかなー。とは思うんだけどさ。
妻へも仲間へも視聴者の私の感情は冷え切っているから「被害を被ったうえに勝手に調理場を荒らされ謝罪もなくクソ不味い料理を食べさせられてそれが雑に扱ってくる妻を思い出させられて心が折れた」と受け取ったね。素直に。
もしこれが地上波放送によるカットの弊害であったとしたら編集人に拍手を送りたい。もし映画全体を見れば大いなる勘違いだったとしたら、まあ、その、すまん。
よい料理(と食べる)描写とは何かはわからない。孤独のグルメなどは独特に良いと思えるが、詳細な言語化・対比は難しい。
だがそれでも、観測所の最初の食事シーン。私はそこでかなり拒否反応がでた。
きたない。
ガツガツしたややオーバーな食べ方やすする音。それらは私には美味しそうに食べる場面には写らなかった。
しかしそれは我慢できるのである。なぜなら舞台は1997年。人は中年男性。汚らしさはそういうものと受け入れられるまだ。
ロクにうまいとも言わない無反応な男たちもそうそう居るよね。と受け入れられた。
ただ、続くエビフライのシーンで心は折れた。
伊勢海老をどう調理するかでなぜかエビフライが激推しされ、もったいないという西村君は自分を殺し創意工夫も施し伊勢海老をエビフライにしたて上げた。
先述したが、その自分たちが押し通したエビフライという調理法を現物を前にして違ったとぼやくほかのメンバー。ままま!それもすごく効果的に私にストレスを与えられている!と解消への前置きに受け取れたのだが…
いただきますのあと、(西村君を除く)全員が同時に皿に乗せられていた伊勢海老の頭をテーブル上に退けた。
はぁ?
はぁ?なにそれ?は?面白いと思ってやってんの?監督?他の自由に食べるシーンと比べて明らかにタイミングを合わせた演出としてのギャグシーンだよな?は?何も面白くないんですけど?
調理法に折れた西村君にさらに完成品に文句を言って追い討ちをかけた上でのギャグ?まじかよこれがうれしい観客がいるのかよ。
この登場人物たちには、否この監督には料理にも料理人にもリスペクトがない。この映画は「南極料理人」ではあるが、料理にも料理人にもスポットが当たってなどいない。
これは私が悪いのか?ちょうど今話題になっている「大怪獣のあとしまつ」。絶対見ないだろうが、これも私も「怪獣のあとしまつ」がテーマだと思っていたので感想を読むにもし映画を見ていたら同様の怒りを覚えていたこと必死だ。
これを予告や監督から予期できるのだから批判は的外れ(not for you)だとする向きもある。南極料理人というタイトルだけで見始めた私にも同様のことが適用されるのだろうか。
だとしてもこの怒りは収まらぬわ。せめてこんな映画の何を事前に期待して見ろというのか。原作未読者がよぉ!
盛り付けられた料理は美味そうだが作る経緯も食べるキャラも気にくわねぇぇぇ!
自分が夜な夜な勝手に食ったせいで切れたラーメンを懇願して作らせた手作りラーメンにも!
作る!過程に!食う!姿に!私の!心を!入れられ!ないんだよ!
どんなに美味そうに食おうが!お前の目の前の料理人が毎日頑張って作ってくれている料理を尻目にお前が勝手に作って切らしたラーメンの尻拭いを!料理人を差し置いて勝手に作って食っていたモンの尻拭いを!その料理人にさせてんだからな!
私は!情報を!食ってるんだ!
こんな!クソ胸糞悪い!情報を!食えるかっ!!!!!!!!!!!!
あとですね、付け加えるとですね。閉鎖環境での食事ってめちゃくちゃ大事だと思うんですよ。実体験はないですけども。
毎日何が出るかウキウキ。代わり映えしない毎日の唯一の楽しみ。刑務所の中の描写とかでもみる話です。
一年以上の長丁場で、料理のそういったありがたみが(受け入れらないラーメンのくだり以外)ぜんぜん感じられないのがなんかもう見事に物語に料理が関係してなさすぎてなんのドラマティックさもなかったですはい。
ふぅ。ここまで大体ひたすらないがしろにされる料理人の西村君の姿にヘイトをためてきたわけだが…。
中盤を過ぎたころから西村君もキャラが掴めなくなって気持ち悪くなってくる。
まずコイツ、怒らない。
家族に無碍に扱われても大事なものを失っても料理が冷めそうでも仮病で面会拒否されてさらっとメシだけ掻っ攫われてもラーメン盗み食いされてもバター丸かじりされても夜中に起こされても怒らない。大事なものは寝込んだけどさ。
会話がかみ合わなくて空虚な時間が流れる半分は彼のリアクションが無いせいでもある。
そんなこんなで彼のキャラクターが掴めない。
おさらいしておくと、彼は海上保安庁の所属で同僚のアクシデントで急遽望まぬ南極行きを無理やり承諾させられた人物だ。
南極では料理は丁寧に仕事をこなし、あまり我を出さずニコニコ。仕事の文句も言わない。
はて、彼のスタンスはなんだろうか。
料理人といってもいろいろあるだろう。
たくさん食べてもらいたい人。お残しは許しまへん人。自己満足できる料理を作りたい人。美味しい料理を美味しく食べて欲しい人。調理場に入ってほしくない人。材料にこだわりたい人。解説したい人。食事をコントロールしたい人。美味しいといわれたい人。
まだまだあるだろうがいろいろな属性を少しずつ持ってたりするものだ。
劇中の彼はどうか。料理は冷めて欲しくないし伊勢海老は刺身にしたい。うん。まぁ、それぐらい、かな。(後半につれながら見なのでかなり怪しいのだが)
あとおにぎりに当たりを入れるちゃめっけも見出せるかな。なんか普通の人の感性内じゃないですか。
料理人としての面がそんなに料理にも会話にも出ない。ま、まともな会話のキャッチボールができる人物も居ないのですが。
不本意な任地で作り甲斐の無さそうな人たちに料理を振舞っている彼の内心が見えてこないのだ。
では本国に居るときと南極に居るときの対比を見てみようとすれば…彼は南極以外で料理をするシーンがないのだ…。
あるのはただ妻のから揚げに文句をつけるシーンだけ。家族ゆえの気軽さを差っぴいても職業料理人の夫が妻に食事を作らせて事前にアドバイスもせずに文句をいうというのはあまり性格が良いとは言えない。
そして南極の食卓では黙ってニコニコ。彼がわからない。わかります?
普段の料理人の彼がわからないので南極の彼の心境が、あるいはあの打たれ強さや我慢強さがすとんと腹に落ちない。
私の怒りとシンクロしてくれない西村君。料理が好きなのか誇りを持っているのかもわからない西村君。あんな妻や娘が好きな理由がわからない西村君(嘘。家族だから好きなんでしょうね)。
そんな理解不能な彼も他の登場人物同様好きじゃないです。わけわからなくてキモい。
それと、わざと無言で間や動きで伝えようとする描写が好きそうな監督。
なんか、あなたが好きそうなもののことごとくが私は嫌いでした。
まあ、この作品は賞をとってますし聞こえも良い。次作のキツツキと雨も同様。
あとあれですね、半年以上一緒に暮らしているのに朝のおはように返事をしない奴に執拗に返事を要求する奴とか、子供二人居る家庭の妻のから揚げに文句をつける夫とか、いまさらかよって描写も鼻につきました。
あ、書いていて思ったけどから揚げは単身赴任するから妻が料理の勉強中だったのかな。見落としていたらすいません。
監督で傾向を判断するというのは監督にチャレンジがなく作風が固定されるきらいがありあまり好きではないのですが、まあそんな感じなので今後は避けようかと思います。
堺も生瀬も好きなのにこうなるのかぁ。という点は新鮮でした。
この個人的にエンターテインメント性も低い。コメディ・笑いも低い。ドラマティックさも低い。カタルシスも感動も低い。クライマックスの盛り上がりも低い。だけど評価が高い。そういった映画、いや邦画を私は知っています。
そもそも私は地上波オンリーでもさらに邦画はかなり見ない方なのでなにも語れないのですが…。
是枝作品は賞を取ったりでなんどか地上波で拝見したのですが、これのどこが面白いんだ?が続き、これのどこが賞を取ったんだ?(だけど心にちょっと残りごくごくたまーに見たくなる)で終わるものでした。
私自身エンタメ作品しか愛好していないことは重々承知しておりますが、まあ是枝作品が評価されるならこの作品も評価されるわな。とは思いました。是枝作品嫌いだし、ならこの作品も嫌いだわな。
それぐらい、上手く言葉にできませんが私が嫌いななにかしらの邦画要素がたっぷり詰まった作品なんだと思います。邦画らしい邦画を久々にうかつにも見てしまったと言う点はよくないけどよかったです。
ただ是枝作品ほど心には引っかかりませんでした。大統領の料理人もすっきりしない作品でしたが、あれは面白かったです。やはり料理人のこだわりの有無でしょうか?あれは面白かったけどこれはダメでした。あとチョコレートドーナツ(映画)も好きですしお辛い非エンタメ映画全般がダメというわけではないです。これはダメでしたけど。
あーだこーだ書きましたがもう二度と見ない映画にこれほどの時間を捧げさせたのですから、名作と言ってもいいんじゃないでしょうか。しらんけど。
2022年2月5日22時。某TOHOシネマズ第一スクリーン。
一際広い劇場内に敷き詰められたシートの中心の一席、J-22。
そこに一人の男性が呆けた顔で座っていた。
いや、特徴的なのはその顔だけではない。その両手両足を乱暴に投げ出し、尻は座面からこぼれ落ちそうなほどずり下がり、首は赤子のように垂れ落ちる。だがかろうじて眼球だけは、正面のスクリーンを向いていた。
何を隠そう、俺である。
炎上必至の数々のマナー違反は許して欲しい、レイトショーだからか左右どころかその列には誰もいなかったのだから、誰にも迷惑はかけていないもん、と駄々をこねることも許して欲しい。それになにより、彼は普段はこんなことはしない。映画に限らず定められたマナーを守る善良な一市民なのだから。原因はただ一つ、目の前のスクリーンに映る映像だった。
クソつまんなかった。
本当にクソつまんなかったなあ。
まず、俺は以前、こんな文章を書いた。
https://anond.hatelabo.jp/20220204190811
上の文章をまとめると「この作品はおちゃらけパロディ映画だと嘘をつかない広報をしているため、シンゴジラやパシリムを期待して見に行き、その尺度で批判しているのはおかしいぞ!」と言うものなのだ。別に「みんながクソ映画って言ってるけど、絶対違うよ!」と言ってるわけではない。
あえてハッキリ言うが、映画を観た後でもこの感想は変わらなかった。シンゴジラやパシフィック・リムとはそもそも土俵が違うので、その点で批判するのはやっぱりおかしい。
が。
それはそれとして、明らかにモチーフ、パロディにしている「特撮」と言うものについてのリスペクトが感じられないとは強く思う。
感じられないどころか、コケにしているのでは、とも。
そりゃあ、怒る人もいるだろうな、と。
パシリム二作とシンゴジラと、ゴジラが光線で空を飛ぶシーン、ラドンもそうだそうだと言うシーン、シェーをするシーンだけ知っています。この知識の質で比較して語るのは不可能どころか怒られかねないので、その視点では今回何も言えない。
あ、あとゼンカイジャーの2021年の放送分は見てました。今年に入ってから終わるのが寂しくて見れてない。おわんないでくれ……頼む……。
話を戻して、「そりゃあ不満が噴出するだろうな」と言うところ以外にも俺の目には悪い点がかなり写った。
ただ、俺はこの映画に対して怒りは抱いていない。
先程貼ったリンクからの文章に書いた通り、俺はクソ映画を見るのが好きなためだ。
なので、クソ映画を見るぞと思いながらお金を払ってクソ映画だなあと思いながら見てクソ映画を観たぞと今に至るため、何も裏切られていないからだ。
さて、これから感想の主題、いい点と悪い点に分けて感想を言っていきたいと思う。
・いい点
「倒された怪獣をどうするか?」という点は「なるほど!面白いところに気がついたなあ」と膝を打つものがあった。既出かもしれないがそれは知らん。
・悪い点
要は他全部。
いやー、酷かったな。
セリフで説明しすぎて不自然になってるし、ギャグは好みはあれど全体的に下ネタで塗れていて、しかも俺は下ネタが嫌いなので聞くたびに不愉快な気持ちになった。画面も凡庸すぎて目が滑る。演出に関しても、「映画を良くするため」のものはほぼないようなもの。
挑戦的なことをしろとまでは言わないが、映画として形を作る最低限のものすぎて、きつい。
「今何をしているのか」が全くわからない。
「今は作戦が始まっているのか?」「今ピンチなのか?ひと段落してるのか?」「あいつ結局どうなったんだ?」「今は結局誰が味方で誰が敵なのか?」が、観ていて全くわからない。
例を挙げる。
【怪獣の死体を水で流して海に捨てる】という作戦が始まり、死体は巨大な水流によって流され始める。
↓
しかし、口へと流れ込んだ水が何かがどうにかなって(不明)、なんと腐敗ガスが怪獣の尻から出てしまった!オナラみたいに!
↓
↓
場面転換、主役たちは別の場所にて沈鬱な顔で別のことを話し出す。ここからさらに数分後、次の作戦の話し合いが始まっているのでどうやらアレは失敗扱いらしいとここでようやくわかる。
……ん?え?は?
作戦はどうなったの?成功したの?失敗したの?失敗したなら、なんで失敗したの?
水流によって死体は「動いた」のであれば成功であり、「死体がオナラした」からって失敗にはつながらない。しかもそれをギャグで茶化しているのでシリアスなシーンなのかもわからない。「少し流れたけどオナラが押し戻しちゃった」とかでもない。なにこれ?
これはこのシーンだけではなく、ずーっとこんな感じなのである。
シナリオの整合性が取れていないため理解できない上に、演出も最低限で目を引くところがない。セリフも説明ばっかりでつまらない。ギャグに関してもクドくて下品で不愉快。うんこチンコゲロチンゲセックス……それが一瞬出てきてクスッと笑わせてとっとと引っ込めてくれるならともかく、つまんないくせに場面が変わってもまだ言ってる。
――この映画に「飽きた」。
脳の処理が虚へ向かい、耳は音を聞き流す。
目の役割は「スクリーンを見る」から「光を見つめる」とタスクがぼんやりし始める。
飽きた。
飽きちゃった。
飽きちゃったでヤンス。
これはとんでもないことである。
信じられない。
今でも衝撃を受けている。
少なくとも楽しいエンタメ作品のテイで作られた映画を観ている俺の心境は、「三回サボった大学の講義に参加している時」と全く同じなのだ。講義ならスマホをいじれるだけまだマシだ。スマホいじるなカス学徒!
同じ映画で例えるならば「2001年宇宙の旅」を観てる時とおんなじなのだ。音も場面も数倍賑やかなのに、おんなじぐらい退屈になっちゃった。
画面を見る気が失せ、後どのくらいで終わるのかを気にし始め、普段なら絶対興味ない窓枠の掃除の手順を思い返していた。
そしてやがて、俺が「捕まえたアルセウス、畑作業させたらギャップで可愛い気もするなあ。農作業に従事してたまに顔を見せるとこっちを観てニコッと一鳴きして挨拶するアルセウス……うーん、可愛いかも」とおおよそ1400円払って映画を観ている最中とは思えない、毒にも薬にもならなければ益体もないことを考えていると、ヒロインが叫んだ。ヒロインが叫んだらクライマックスの合図だ。意識が久しぶりに作品に向かう。
山田涼介が光の巨人になって怪獣の死体を抱えて飛んでいき、エンドロール。
俺の意識は再び虚に沈む。「いや、畑仕事はパルキアもいいかもしれない。水タイプだし」
俺はふと、なんで反響に対する文章を書いて、「三木聡が映画作ったんだぞ!」って言ったんだっけなどと考える。
「あ、そうだ。俺俺だ」
かつて「俺俺」と言う映画があった。星野智幸の同タイトルの小説を原作にしたそれを、俺は原作をいたく気に入り、映画の存在を知って借りたのだ。観た記憶はあるけれど、内容が思い出せない。ただ、ハッキリと思い出せるのは「この映画、何やってるのかわかんないし退屈でつまんない」と言う感想のみ。おんなじじゃねえか、なつかしいな、俺はクスリと笑う。この時映画が始まってから初めて笑った。
劇場が、明るくなった。
いやー、クソつまんなかったな。
ただ、多くの人からの批判を見る、「山田涼介が光の巨人になる」については反感はない。
序盤から「デウスエクスマキナ」と言うワードと「主人公の謎」はちゃんと敷かれていたので違和感はないし、過去の特撮物のヒーローを「デウスエクスマキナ」というものと定義した点はなるほどと思った。「最初からそれをやれ」とも実は思わない。「デウスエクスマキナ」は物語が収集つかなくなって初めて登場する物だから。
だけど、俺がこの映画について興味を惹かれた「この死体、どうする?」というテーマにおいて、やれることをやらずに終わらせた。というのはハッキリマイナスだ。
仮にこの映画がシンゴジラだったなら、「ゴジラを倒したけど、行き場を失ったゴジラの内部のエネルギーが爆発するーっ!」というところでデウスエクスマキナが登場するなら、それは好意的に観れる。
けどこの作品は死体のガス抜きをしただけで発動している。死体の処理の完了まではほど遠い。やれることはまだある、もっと散らかせる。ゴジラの例えを使えば在来線爆弾が当たったくらいのところだ。
これは擁護もできないマイナスだ。作り手側の事情を見せられることほど白けることはない。
総評としては、「映画を構成するすべてが下手くそであり、シナリオのテーマを書き切ることもなければ、そもそも意識や目を引くものが出されることなく、途中で飽きた」となる。
ギャグに関してはかなり個人的なものなので分けるが、「面白くないどころか不愉快だった」となる。
これにて、俺の感想は終わりだ。
俺はネットにおける「叩いていいものだから叩く」みたいな風潮が大嫌いなので、今後この映画についてどうこういうことはないと思う。別に怒りを抱いたわけでもないので。
それに関して、少し思うところがある。
実写版デビルマンが現れてから十数年、この作品のタイトルを出して何かを表現することがとても多くなった。
俺としては、それに強い反感を抱いている。
もし、まだお時間があるとするならば、別に投稿したものも読んでほしい。
では。
バイビ〜。
【余談】
なんて可愛いんだガハハと思っていたら、全く同じことをしている人がバズっていた。
クソが……!
まず10年の販売実績があるなら日本でもとっくに引き合いがあるだろうし、
今更わざわざクラウドファンディングする必要もない。
「うっさんくせぇ・・・」と思いながら見てみたら、やっぱりメーカーは中国だったw
おおかたツイッターとか匿名ダイアリの「超音波洗浄機いいよね」とかいってる誰かのネタをぱくったんだろ。
盗っ人乙としか。
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2202/03/news015.html
犬猫の方が育てられる経済力があるか、しつけられるか、あらゆる制約(気軽に家に置いてでかけられない、病気したとき、けがしたとき、させたとき…)とかをすごく考えて飼う人も多いのに人間の子どもとなると
「でも赤ちゃん欲しい🥺」
「しんどくても愛があればなんとかなる」
とかで現実にある問題を有耶無耶にしてそのツケがすべて生まれてきた子どもにふっかけられる。
育てにくい社会になってるのが悪いしそれは政策の問題だけど、それが分かっていながら見てみぬふりして自分が子ども欲しいって気持ちを優先させるのはもういい加減やめたほうが良いし、それなら「こんな社会のせいで子どもは産めない、なんとかしろ」って声上げる人の方がよほど子供のことも未来のことも考えてるわ。
「なぜ君は総理大臣になれないのか」って映画がNetflixに来てて、前に町山さんっていう本当に知らない人が評論みたいなのしててブクマに上がってて題名覚えてたから観て面白かった
まずこの映画、ドキュメンタリーだから一人の人生を見ているという視点だととても面白い
目標が総理大臣、というか全うな政治家で全うな日本を目指しているが不信感が増えるやり方が多い
今でも話題になる統計不正が長期政権は起こり得るということをその取材され中に言ってたり、先見の明はありそうなのにくすぶっている
既存の政党なんか腐ってるんだから新しく政党作ってやれや、と思うのだがどうしても既存の政党の枠組で成り上がろうとする
近道に見えるけど最終的にはそれ人離れるやつって思いながら見てた
持続可能な日本を、みたいなの言ってるから、老人は切り捨てて若者を優遇、というか対等くらいまで是正しよう、みたいなことになるはずなのに、
支援者が歳の召された方で草だし、どぶ板選挙みたいな古臭い選挙運動しかなくて若者にリーチする気なさすぎて草だし
途中、大声張り上げる選挙運動おかしいって思うって言っておきながらそれはでも続けるし
しかし老人は選挙行くしって思うと難しいよねって思ったり、、、(きっと20年後くらいには選挙カー無くなってると思うけど)
その人確か取材当初は結構若い32歳から政治家やってて、報われてて欲しいが、まだくすぶっている現状
合理的で少数派にも目を向けれるような人だと感じた
(実際会って討論したら面白いなあと思いつつ)
20年遅いとデジタルネイティブ世代が合理的に判断して選挙も変わっているはず、と思うだけに可哀相だった
日本の捻じれ、というか糞さを感じれる良質のドキュメンタリーでした
酒ガブガブ飲みながら観てこれ書いて乱文だろうが書きたくなったから書きました
「夏目漱石は「月が綺麗ですね」となんか訳していない」という話から、「初出であるとされる70年代以前がどうだったのか知りたい」という話が出ていたので、Googleブックスを検索していたのだが、1962年刊行の『日本人の知恵』にこのような話があるらしい。
「私はあなたを愛しています(I love you)」
などとはけっしていわない。
「いいお月さんですね」
そして、二人でじっと空を見上げるだけで、意思は十分通じるのだ。
この『日本人の知恵』という本は、
ということらしいので、つまり1961年に朝日新聞に掲載されたのだろう。
それならば世間に広く知られたとしてもおかしくないと思われる。
もうひとつ、さらに遡って戦前の1935年刊行、笠間杲雄『沙漠の国 ペルシア アラビア トルコ遍歴』にもよく似た表現があるようだ。
第一、欧米人にとつては一生の浮沈を定める宿命的な宣言『アイ・ラヴ・ユウ』の同意語すら、日本語には無い。(中略)斯ういう意味を外国人に答へると、然らばあなた方日本人は、初めて男なり女なりを愛する場合に、どんな言葉で意志を通ずるのかと、必ず二の矢の質問が飛ぶ。私は答へる。我々は「いい月ですね」と言つても、「海が静かね」といつても、時としては「アイ・ラブ・ユウ」の翻訳になるのだと。
こちらは「いい月ですね」と「海が静かですね」が並列されており、あくまで「無数の表現のうちの2例」といった趣きではある。
さらに「I love youは日本語にうまく訳せない」という話に限っては、
「漱石文庫」に残された漱石のメモ書きの中に、ジョージ・メレディスというイギリスの小説家の作品を取り上げて、
"I love you,Signora Laura."―Vittoria p.113.
此 I love you ハ日本ニナキformulaナリ
と記した一節がある
これは漱石の英国留学時代のメモ書きだそうなので、1901〜1902年ごろに書かれたものか。
同様の主張が1922年に刊行されて当時のベストセラーになったという厨川白村『近代の恋愛観』に書かれている。
日本語には英語の『ラヴ』に相當する言葉が全く無い。『戀』とか『愛』とか云ふ字では感じがひどくちがう。" I love you "や" Je t'aime "に至つては、何としても之を日本語に譯すことが出來ない。
この厨川白村は夏目漱石の教え子で、漱石とは恋愛観について議論を交わしていたというから、これは夏目漱石の受け売りだった可能性が高い。
というわけでグルグルまわっているうちに夏目漱石に戻ってきてしまった。
夏目漱石が「I love youは日本語に訳せない」と言う
→その話が厨川白村を通じてよく知られるようになる
→「いい月ですね」とか「海が静かですね」とかそういうことを言うんじゃね?
→日本人は「愛しています」とは言わず「いい月ですね」と言うんだ!
→その話が朝日新聞を通じてよく知られるようになる
→なんかいろいろ混線して「夏目漱石がI love youを月が綺麗ですねと訳した」という話になる
みたいな流れが朧気ながら見えてくるような見えてこないような。
追記。
国立国会図書館デジタルコレクションで調べてみたところ、1908年の『明治学報』に掲載された上田敏「予の観たる欧米各国」という講演の書き起こしにこういう記述があった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1890371/1/24
日本では「我汝を愛す」と云ふことは言へない、日本では何と云ふかと云ふと、「私アナタに惣れました」と云ふ、それでは「アイ、ラブ、ユー」と云ふことに当らない、「我汝を愛する俯仰天地に愧ず」それはどう云ふたら宜いか、(笑声起る)、所が「私はアナタに惣れました」といふことは日本語ではない、さういふ日本語は昔からないです、だから日本ではそれをパラフレーズするか、或はペリプラスチック、言廻はして、「誠にアナタはよい人だ」とか何とか云ふ工合に云ふより外言ひ方はない、「私はアナタが好です」と云ふと何だか芝居が好きだとか、御鮨が好だとか云ふやうになつて悪いです、
上田敏は高名な英文学者で「山のあなたの空遠く幸住むと人のいふ」や「秋の日のヴィオロンのためいきの」などの詩訳で知られる。夏目漱石よりは年下だが、同時期に東京帝国大学で教鞭をとっていたこともあり、文学論を語り合う仲だったという。夏目漱石か上田敏かいずれが先なのかはさておき、どうも「I love youは日本語に訳せない」というようなことは当時の教養人のあいだで盛んに言われていたようだ。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2348792/1/6
西洋デハ人ノ表情ガ露骨デアツテ 例ヘバ恋ヲ囁クニモ 真正面カラ アイラヴユー ト斬込ムガ 日本デハ 良イお月デスネー ト言フ調子デ 後ハ眼ト素振リニ物ヲ言ハス
「ドライブ・マイ・カー」を見に行きました。広島ロケということと、何か凄い賞をとったということで、広島在住でミーハーの私は遅ればせながら見に行ったのでした。
原作が村上春樹ということは分かっていたのですが、序盤から村上春樹感が強すぎて笑ってしまいました。
決して村上春樹が嫌いな訳ではないのだけど、私の乏しいイメージ通りの村上春樹すぎたので。村上春樹の誇張したモノマネだと思っていたものが、割と本人のまんまだったというか。
ピロートークが詩的すぎて何言ってるか分からないが、相手もそれを理解して詩的に返す
ピロートークだけではなく、二人で話す場面は基本的に詩的なことばっか言う
ということなんですが。別に馬鹿にしてる訳ではなく、私の教養とか感受性とか経験の乏しさ故に、表面的な部分しか拾えていないんだと思う。
大して村上春樹を読んできた訳ではないけれど、私自身に性的な経験が無さすぎて、村上春樹に触れるとどうしても、「すぐセックスするじゃん!隙あらばセックスじゃん!」って心の中で照れながらツッコミを入れてしまい、集中できなくなってしまう。
ドライブシーンなんかとても良かった。
運転手役の女優さんが格好良くて、色気があって最高だった。ドライブシーンに関しては、詩的なやり取りとか、ちょっと儀式的な言動も自然に受け入れられたし。まあそれは主人公と運転手がセックスしなかったからなのかもしれないけど。
あとユナさんもソーキュートだったし。稚拙な表現だけど、ユナさんの手話はおまじないみたいで、表情と手だけで声を出すよりも感情を伝えていて、ユナさんが話してるときには相手に魔法をかけてるように感じて、とても良かった。もちろんセックスもしなかったし。
村上春樹に触れると、すぐセックスを連呼したくなってしまう自分がいる。もし私に少しでも経験があったならば、セックスの呪縛に縛られずにこの映画を見ることが出来たのだろうか、悔しい。
すごくあっけなかった
これを男女逆転した性的なキャラクターってこうだぞってフェミニスト絵師から出されたのが
金玉が妙にデカい男の娘っぽいキャラクター「玉袋ゆたか」だった
で、その玉袋ゆたかは皮肉と反論のミラーリングのために生み出されたはずなんだけど
妙に丁寧に作られていて「このフェミ本当はこういう趣味なんじゃない?」って騒がれて
紆余曲折あってフェミ絵師がアカウントを別に作って「玉袋神社」アカウントができて
投げ銭サイトも立てて瞬間最大風速ながらも収益化して一旦いい話で終わったんだよ
それなりに更新も続いて騒動落ち着いたしまだ作品の広がりもありそうだなってときにそれは起きた
年明けのある日に面識のない男の娘Vtuberが気になったのかなんなのかしらないけど
玉袋神社のアカウントから引用RTでチンとタマを見せろと迫った
それでその謝ったツイートの最後に今月以内に玉袋アカウント消すねって
わけのわからないケジメの付け方をしようとしてたんだけど
今月以内どころかその日のうちに再削除
そこで男とオタクは寄るな、性暴力ポルノ表現は根絶して欲しいと呟く
いままでそういう絵を描いてただろうに失敗したら他人事
作品の人気衰退とは全く関係ない理由から自分で壊してしまってた
もうフェミアカウントの方も鍵かけてなんにもみれなくなっちゃったけど
そうやって自分で自分を不幸にしていくんだなあという一件だった
今回きっかけは「男の娘Vtuberにチンとタマを見せろ」って引用RTしたことだけど
元から玉袋神社のアカウントはそういうネタ的な言動もあったし。
でも、相互とかフォロワーとの「わかってる」間柄でのやりとりではなかったから諌められるのも無理はないかなと思う。
後、元々フェミニストとして活動していて、性的客体化とか性的消費とか男性を揶揄する立場だったのにもかかわらず、
セクハラをした男性が言う「そんなつもりじゃなかった」をそのままなぞってしまったように見える。
もう一つ、この出来事で叱られたとしてもごめんなさいの一言が言えればそれで終わるような些事だったのに、
素直に受け入れられずキレ散らかした挙げ句、謝ったのは「叱ったのが女性だとわかったから」だったのは
何が悪かったのか全く理解できていないし、玉袋神社のアカウントを消すのはあてつけでしかなかった。
実は玉袋神社のアカウントを消すというのは今回が初めてではなく、何度か起きたことだった。
全部がくだらない理由で、周囲の反応がアカウント本人の気に障ったという理由だけで、すぐに消して、すぐに復活させる、そういったことを繰り返してた。
玉袋を見守っていた人たちは、もったいないという気持ちと、これまでフェミニストをやってきて男性憎悪が強い分
ちょっとしたことにも気が立ってしまうなら余計なことを言わないようにしよう、といちいち気を配って距離を取りながら見守っていた。
その積み重ねがあっての今回だ。完全な自爆。誰も悪くない。悪いのは本人。本当に誰も庇わなくなった。
誰もアカウントを消せと言ってないのに本人が消した。その後にフェミアカウントの方でグッズとか考えてた、と未練たらたらだった。
誰も消せと言っていないのに。
気を引くためやっただけ。誰かが惜しむから仕方なく戻る、という流れにしたかったのかもしれない。
何もかもが独りよがりだった。
なんで素直になれないのだろう。なんで受け入れることができないのだろう。
たったそれだけで、どこまでも不幸になってしまっていく。そんな人間のようだった。
そういう考え方こそ人のせいにする悪癖なんだって。
ぶっちゃけるとここから再度復活したとしても、ついていくファンはいるだろう。
今回の件で大分減っただろうけど、それでもゼロになったわけじゃない。
本人にとって今後気をつけるべきなのは、こういった失敗をしないことじゃない。
失敗してもそれを受け入れて一言謝ったり、腹を割って話して納得行くまで会話したり、
とにかく人とコミュニケーションを取ることだよ。
失敗はする。誰でもする。大小の度合いはあるけどする。
ほんの少し噛み合わなかったからって逆上してたらどうにもならないよ。
フェミニストだからとか、絵描きだからとか、ちんちんの話だからとか
相手が男なら女ならとかじゃないよ。
辛くても泣きたくなってもそのたびに閉じこもってたらうまくいくわけないよ。
そのとき失敗して恥かいても素直に受け止めればなんとかなるって。
もし少しでもやり直したいと思うなら、素直になるべきだと思うし、
やらないなら、なら終わりだねってだけ。
街中で、ふと目に入ってくる車。トヨタのエスティマという大型のミニバン。
教師として生徒を県外への遠征に引率することが多かった親父は、生徒がたくさん入るミニバンサイズが丁度良かったんだろう。
俺の成長と共に、親父は初代のエスティマ、そしてハイブリットのエスティマの二台に乗り継いだ。
俺が産まれるより前から乗ってると言っていたから、もう同じ車種に乗り続けて30年以上になると思う。
親父がエスティマを運転する姿を、そして運転する大きな背中を、後部座席からずっとずっと見てきた。
そのせいか、街中で同じ車種を見ると「親父が運転してるんじゃないか?」とごく自然に思うようになっていた。
小さな街だからか、事実3回に1回くらいの割合で、親父がハンドルを握っていた。
大学進学のために上京しても、エスティマを見ると親父と見紛う癖が続いた。
やはり都会は地元と比べて道が狭く、そもそもミニバンに乗る人が少ない。
だからこそ珍しくエスティマを見かけると、なんだか妙に胸が高まり、絶対にいるはずもないのに、「親父が横浜に来てるんだろうか」とついつい考えてしまった。
そしてすぐ、「そんなわけないか」と一人で笑った。
二年くらい前だろうか、親父は還暦を迎えた。
しかし退職をすることはなく、決められた時間だけ生徒たちに授業を教えるような、いわば時間講師の道を選んだ。
今まで土日祝日はあってないようなもので、常にどこかしらの遠征に出かけていた親父も、今や授業が無い日は庭の手入れをしたり、家の掃除なんかに精を出している。
親父は「退職金を使ってやりたいことがある」と言って、まず初めに家の浴室を改築し、風呂の浴槽を大きくした。
今までの浴槽はだいぶ狭く、基本体育座りでないと入れない程の狭さ。
お風呂に入ることが大好きな親父は、「とにかく足を伸ばしてお風呂に入りたい!」とのことで、以前の二倍くらいの広さにした。体の大きな俺でも悠々と入れるほどだ。
そしてもう一つ、親父は退職金を使って車を買い替えた。
ミニバンのエスティマから、同じくトヨタのセダン、クラウンという車種にした。
ミニバンからセダンになったことで、車の大きさはだいぶ小さくなり、同乗できる人数も減った。
子どもが大きくなり、家族でどこかに出かける数も減ったことも理由にあるだろう。
「ハーレーってあのバイクの?」と聞くと母は頷いた。独身時代からハーレーに乗りたいと思っていたらしい。
俺は驚いた。親父の口からバイクが好きだと一度も聞いたことが無い。しかもハーレー。なんてアメリカンなバイクを。
でもその話を聞いて、親父が教師として生きていくために、父親として生きていくために、犠牲にしてきたことの1つなんだろうなと思った。
飲み会に迎えに来て欲しいと連絡があり、十数キロ、30分程度の道のりを運転して、親父を助手席に乗せた。
親父はべろんべろんに酔っぱらっていて、何回も同じ話をループし、黙ったかと思うと、「どうだ?クラウンの運転は」としきり尋ねてきた。
俺は親父の車をぶつけたりしたらシャレにならないと、内心びくびくしながら運転していたから、しきりに「どうだ?」と助手席から訪ねてくる親父に若干イラつきつつ、「運転しやすいね」と愛想を述べた。
本当は緊張のせいで運転のしやすさなんて全く分かっていなかった。
親父は満足そうに頷いて、数分してから「どうだ?」とまた聞いてきた。
面倒くさくて「いい車だね」ともう一度愛想を言う。
「いい車だろ?」と親父は繰り返し、満足そうに頷いた。
後部座席から見る父親の背中はあんなに大きかったのに、助手席に座って目をつむる親父は姿はどことなく小さく見える。
大きく見えていたのは、決して俺が小さかったからじゃなくて、生徒たちを、そして家族の命を預かる親父の「責任」だったんだろうな、なんて思いながら運転した。
無事に家まで送り届けた翌朝、昨夜あんなに聞いてきたのにもかかわらず、親父は「クラウンの運転はどうだった?」と聞いてきて、流石にしつこくて笑った。
笑いながら「良かったよ」と親父に言うと、親父は満足そうに、また大きく頷いた。
親父が「じゃあ行ってくる」と言い、クラウンに乗り込む。
たかがそこのコンビニに行くのにわざわざ車に乗らなくても、そう思いながら見送った。
でもクラウンに乗り込む親父の姿がどことなく嬉しそうで、俺もなんだか嬉しい。
教師として駆け抜けてきた四十年間、父親として生きてきた30年間。
共に走り続けてきたエスティマ、お疲れ様。大きな事故なく走り続けてきてくれて本当にありがとう。
車間距離が近い節がある親父の運転を諫めつつ、走る喜びを感じさせてあげてほしい。安全運転でいつまでもいつまでも傍にいてあげてほしい。
万年セルラン圏外のどマイナーなソシャゲを最近始めたのだが、意外とポチポチやるのが楽しい。
ドラマチックなメインシナリオとかリッチな3Dとか動く2Dとか一切なくて(カードイラストがそのまま立ち絵になる仕様)、
ゲーム部分はほぼポチポチしながら見守るだけな虚無、キャラボイスも戦闘やホーム台詞の一部にちょろっと入っているぐらいのあまりのやる気の無さで、
ついでにどうもリリースしばらく経ってから運営がやらかして炎上したようで、そこからずっと低空飛行を続けているようなゲームだ。
それでも大したテキストがないからこその描写のあっさりさや、ポチポチで済む操作の手軽さが妙にしっくり来てしまい、だらだら続けている。
セルラン上位に来るようながっつり時間を喰うゲームも並行してやっているので、それらに疲れた時に丁度いい立ち位置なのだ。
季節イベントで提供されるキャラの会話もひたすら無難で他愛のないものなのだが、だからこそ変に感情を揺さぶられることもなく、キャラクターに素直に好感を抱くことができる。ゲーム外展開もほぼゼロなので、ひたすらゲーム内のコンテンツだけに集中できるのも良い。
問題は、そういうゲーム故にいつサ終してもおかしくないことである。
サ終のお知らせがいつ来てもおかしくないゲームと認識して始めたのだが、愛着が湧くと意外に終わってほしくないものだと思えてしまうから不思議だ(微々たる額だが好みのキャラのピックアップが来た際には若干の課金もしてしまった)。
スーパーのはしごで体動かしてたのが、出産で骨盤臓器が下垂して長時間歩けなくなり、数年経ったのに円座クッションがないと尾てい骨も痛むようになった。
室内で意図的に運動しなきゃいけないけど私は物凄く運動が嫌いだ。学校でいじめにあった記憶でやってても不快感が強い。女性に虐められたから女性が怖くて嫌いで、そういう人たちがやってそうな運動という行為にも嫌悪感が激しく湧く。運動しながら運動できるあいつらが正しくて私はいじめられて当然だったのって怒りや自己嫌悪でぐちゃぐちゃになる。全然運動しても自己肯定感なんて湧かない。拒絶反応と言わんばかりに運動が嫌だ。学校行かなきゃよかったな。
マウンテンバイクのようなものも考えたけどマウンテンバイクしながら見たい映像作品もやりたいゲームもない。フィットボクシングは体験版一日だけで腹圧が掛かって痛むので続きそうになく挫折。リングフィットもだんだんミニゲームのハードルが上がってから心が折れた。ストーリーがないモードもじわじわ負荷が蓄積されるし本当に運動だけだからどんどん辛くなってくる。