はてなキーワード: 視力とは
妙に気分が落ち込んだ状態で書いているので、半分嘘くらいの感覚で読んでくれると嬉しい
30歳になって少し経った。Twitterで同年代の結婚出産報告を見かけることが増えた。特に絡みはないので「へぇ、そうなんだ」と思って終わりなんだけど、ふと自分はこの先どうなるんだろうと考えてみる時もある。
特に何も思いつかなかった。
強いて言うなら、親が動けなくなったら介護しなきゃいけないんだろうな~という程度。双方60過ぎで今は元気だけど、さすがに前と比べれば老いた印象を受けるし、本人たちから体調に関する愚痴を聞くようになった。あと10年は大丈夫かもしれないがその先は微妙だなぁ、という感じ。施設に入るとか言っていたがどのくらい本気かは分からない。
でまぁそれはともかく、それ以外に何もなかった。親を看取って、家とか家財とかお金とか墓とかをどうにかした後のことがさっぱり思いつかない。
結婚するつもりはない。こんな根暗ブスを好いてくれる人がいるとは思えない。いたとしても私が受け入れられない。根暗ブスを気に入る時点で人を見る目がないに決まっている。もしくは気の迷いだ。もっといい人がいるからその人と共に頑張ってほしい。
それでも一応、親孝行のつもりで1年くらい結婚相談所に登録したけれど、送られてきたメッセージを読んだだけだった。どうしたらいいか分からなかった。返事をして期待を持たせるのも失礼だし、かといって断るのも失礼な気がする。会ったこともないゴミクズに断られて凹んだり悩んだりする時間がもったいない。恐らく何通も送っているだろうから有象無象の中に埋もれて忘れていてほしいと願いつつ退会した。私が自腹でそこそこ払ってこの結果だったからか、親からは「結婚しないのか」とは言われなくなった。もしかしたら来年あたりにはまた言われるかもしれないが。
似たような理由で子供を産むつもりもない。自分が母親だと思うだけで子供がかわいそうになる。責任感もなければ甲斐性もなく根性もない。ついでに言えば視力も聴力も低い。頭も悪い。親は孫の顔が見たいのかもしれないし、それが親孝行になるなら見せたい気持ちも1mmくらいは存在するが、自分の欲求のために他人の命を左右する気持ち悪さの方が勝る。孫(子)は顔を見せて終わりじゃない。その後何年何十年にも渡ってたくさんの困難を乗り越えなきゃいけない。それをすべて投げ出さずにやり遂げられると思えるほど私は私を信用していない。こうやって愚痴を書き連ねて防衛線を張って行動しない理由を探してばかりいるクズが他人と共同生活を営んで、あまつさえ子供を産み育てる? 無理に決まっている。
というわけで、親を看取ってから自分が死ぬまでの人生が空白で、その空白が億劫だと感じている。幸いにも今は定職があって給料もそれなりにもらえているが、それだっていつまで続くか分からない。
とりあえず孤独死してドロドロになって親戚に迷惑をかけることだけは避けたいと思っている。しかしそれまでの空白をどう過ごせばいいんだろう?
個人の感性の話になるけど、こういう世界観ならこういう組織やキャラクター、シチュエーションが成立しそうだね、そういうキャラクターがこういうシチュエーションに放り込まれたならこういうドラマが発生しそうだね、というところが可能な限り破綻なく噛み合って、その上でキャラクターの行動・お話の展開に意外性がありつつも納得できる形で成立しているとすごく刺さるんだよね。そのとき設定やお話自体は作中で納得感がある形で描写されていれば現実離れしていても問題ない。
逆に世界観と展開が一致しないとか、キャラクターを無理に動かしてるとか話の都合が優先されると一気に萎えちゃうんだよな。だから松野泰己が作るお話はすごい好き。
その点リコリス・リコイルはもったいないなーという印象。世界観の骨格は重めに作ってるのに、設定に無理があったり細かなお話の展開・演出がご都合優先で整合性を欠いたりしている。たぶん実際にやっていることはヒロイン二人のお話だから、不必要な世界観が足を引っ張ってるんだと思う。ただ自分にとっては前述のように世界観・設定やキャラクターとの整合がとれたドラマを観られることが重要だから、そのあたりのチグハグさがとても気になる。
すごくいいところもあるし放送されてる間は話題になるけど、オールタイム・ベストになったり後世に名を残すでもなく、中途半端に消費されるだけになりそうというか。その点ガンスリンガー・ガールは確かに後世に名を残しているじゃんか。その違いだよね。作画は劇場版と言っても問題ないくらい高水準なのに。そういう意味ではワンダーエッグ・プライオリティに似たものを感じる。
後半でうまくお話転がしてDAという組織の成立やリコリスの出自に伴う因縁、敵対組織との相克を折れたタワーの由来と絡めながらダイナミックに風呂敷広げて、歪な社会構造の少なくとも一部を何らかの形で次のステージに進める感じで綺麗に畳んでくれるといいけど、千束とたきなのしょーもない心の葛藤を百合百合パワーで乗り越える!みたいなヒロイン二人の関係性で話が終わりそう。学園ドラマでやってくれ。
微妙だと感じた点を色々書いていくけど、制作陣はそんなこと言われなくても分かってると思うので最終的にこういう指摘を跳ね飛ばすくらい面白い、視聴してよかったと思える作品に仕上げてくれることを祈る。
とにかく突き抜けた作画クオリティとメインのふたりのキャラの魅力がアニメ作品として話題を引っ張ってる印象。
作画のよさとはアンバランスに、設定作りや脚本演出には力入れてないなという印象。
もっとコミカルだったりファンタジーに寄せてくれれば(ガルパンのように)そういう作品なんだと割り切ることもできたけど、なまじほぼ現代日本で一見リアルっぽい作りにしているから見せたいものと世界観・設定が一致してないように見える。
詳しくは下記の通り。
そもそものベースとなる世界観とお話の展開の間をつなぐ設定に納得感が無い箇所が多い。ファンタジーにするならもっとファンタジーに描く、リアルに寄せるなら設定も妥協しないという整理をしてほしかった。リアリティラインをどのあたりに置けば良いのか迷ってしまった。
その流れならその展開しないでしょとか、このキャラクターがこう動くのはおかしいとか脚本の都合優先で設定やキャラクターが置き去りになってる。
敵も味方もいちいち迂闊。治安維持組織と犯罪組織の攻防にリアリティも緊張感もあったもんじゃない。ツッコミどころに対して劇中でセルフツッコミもしてるけど、それがいちいち言い訳がましい。それなら最初から整合性のある設定や演出をしてくださいよ。
まあエンタメ作品だからね、ある程度の制作上の都合とか、あからさまにネタに寄せてる部分もあるよね。分かるよ。
気にはなったけどまあ飲み込んでもいいかというポイントを書いていくよ。
個人の感性の話になるけど、こういう世界観ならこういう組織やキャラクター、シチュエーションが成立しそうだね、そういうキャラクターがこういうシチュエーションに放り込まれたならこういうドラマが発生しそうだね、というところが可能な限り破綻なく噛み合って、その上でキャラクターの行動・お話の展開に意外性がありつつも納得できる形で成立しているとすごく刺さるんだよね。そのとき設定やお話自体は作中で納得感がある形で描写されていれば現実離れしていても問題ない。
逆に世界観と展開が一致しないとか、キャラクターを無理に動かしてるとか話の都合が優先されると一気に萎えちゃうんだよな。だから松野泰己が作るお話はすごい好き。
その点リコリス・リコイルはもったいないなーという印象。世界観の骨格は重めに作ってるのに、設定に無理があったり細かなお話の展開・演出がご都合優先で整合性を欠いたりしている。たぶん実際にやっていることはヒロイン二人のお話だから、不必要な世界観が足を引っ張ってるんだと思う。ただ自分にとっては前述のように世界観・設定やキャラクターとの整合がとれたドラマを観られることが重要だから、そのあたりのチグハグさがとても気になる。
すごくいいところもあるし放送されてる間は話題になるけど、オールタイム・ベストになったり後世に名を残すでもなく、中途半端に消費されるだけになりそうというか。その点ガンスリンガー・ガールは確かに後世に名を残しているじゃんか。その違いだよね。作画は劇場版と言っても問題ないくらい高水準なのに。そういう意味ではワンダーエッグ・プライオリティに似たものを感じる。
後半でうまくお話転がしてDAという組織の成立やリコリスの出自に伴う因縁、敵対組織との相克を折れたタワーの由来と絡めながらダイナミックに風呂敷広げて、歪な社会構造の少なくとも一部を何らかの形で次のステージに進める感じで綺麗に畳んでくれるといいけど、千束とたきなのしょーもない心の葛藤を百合百合パワーで乗り越える!みたいなヒロイン二人の関係性で話が終わりそう。学園ドラマでやってくれ。
微妙だと感じた点を色々書いていくけど、制作陣はそんなこと言われなくても分かってると思うので最終的にこういう指摘を跳ね飛ばすくらい面白い、視聴してよかったと思える作品に仕上げてくれることを祈る。
とにかく突き抜けた作画クオリティとメインのふたりのキャラの魅力がアニメ作品として話題を引っ張ってる印象。
作画のよさとはアンバランスに、設定作りや脚本演出には力入れてないなという印象。
もっとコミカルだったりファンタジーに寄せてくれれば(ガルパンのように)そういう作品なんだと割り切ることもできたけど、なまじほぼ現代日本で一見リアルっぽい作りにしているから見せたいものと世界観・設定が一致してないように見える。
詳しくは下記の通り。
そもそものベースとなる世界観とお話の展開の間をつなぐ設定に納得感が無い箇所が多い。ファンタジーにするならもっとファンタジーに描く、リアルに寄せるなら設定も妥協しないという整理をしてほしかった。リアリティラインをどのあたりに置けば良いのか迷ってしまった。
その流れならその展開しないでしょとか、このキャラクターがこう動くのはおかしいとか脚本の都合優先で設定やキャラクターが置き去りになってる。
敵も味方もいちいち迂闊。治安維持組織と犯罪組織の攻防にリアリティも緊張感もあったもんじゃない。ツッコミどころに対して劇中でセルフツッコミもしてるけど、それがいちいち言い訳がましい。それなら最初から整合性のある設定や演出をしてくださいよ。
まあエンタメ作品だからね、ある程度の制作上の都合とか、あからさまにネタに寄せてる部分もあるよね。分かるよ。
気にはなったけどまあ飲み込んでもいいかというポイントを書いていくよ。
個人の感性の話になるけど、こういう世界観ならこういう組織やキャラクター、シチュエーションが成立しそうだね、そういうキャラクターがこういうシチュエーションに放り込まれたならこういうドラマが発生しそうだね、というところが可能な限り破綻なく噛み合って、その上でキャラクターの行動・お話の展開に意外性がありつつも納得できる形で成立しているとすごく刺さるんだよね。そのとき設定やお話自体は作中で納得感がある形で描写されていれば現実離れしていても問題ない。
逆に世界観と展開が一致しないとか、キャラクターを無理に動かしてるとか話の都合が優先されると一気に萎えちゃうんだよな。だから松野泰己が作るお話はすごい好き。
その点リコリス・リコイルはもったいないなーという印象。世界観の骨格は重めに作ってるのに、設定に無理があったり細かなお話の展開・演出がご都合優先で整合性を欠いたりしている。たぶん実際にやっていることはヒロイン二人のお話だから、不必要な世界観が足を引っ張ってるんだと思う。ただ自分にとっては前述のように世界観・設定やキャラクターとの整合がとれたドラマを観られることが重要だから、そのあたりのチグハグさがとても気になる。
すごくいいところもあるし放送されてる間は話題になるけど、オールタイム・ベストになったり後世に名を残すでもなく、中途半端に消費されるだけになりそうというか。その点ガンスリンガー・ガールは確かに後世に名を残しているじゃんか。その違いだよね。作画は劇場版と言っても問題ないくらい高水準なのに。そういう意味ではワンダーエッグ・プライオリティに似たものを感じる。
後半でうまくお話転がしてDAという組織の成立やリコリスの出自に伴う因縁、敵対組織との相克を折れたタワーの由来と絡めながらダイナミックに風呂敷広げて、歪な社会構造の少なくとも一部を何らかの形で次のステージに進める感じで綺麗に畳んでくれるといいけど、千束とたきなのしょーもない心の葛藤を百合百合パワーで乗り越える!みたいなヒロイン二人の関係性で話が終わりそう。学園ドラマでやってくれ。
微妙だと感じた点を色々書いていくけど、制作陣はそんなこと言われなくても分かってると思うので最終的にこういう指摘を跳ね飛ばすくらい面白い、視聴してよかったと思える作品に仕上げてくれることを祈る。
とにかく突き抜けた作画クオリティとメインのふたりのキャラの魅力がアニメ作品として話題を引っ張ってる印象。
作画のよさとはアンバランスに、設定作りや脚本演出には力入れてないなという印象。
もっとコミカルだったりファンタジーに寄せてくれれば(ガルパンのように)そういう作品なんだと割り切ることもできたけど、なまじほぼ現代日本で一見リアルっぽい作りにしているから見せたいものと世界観・設定が一致してないように見える。
詳しくは下記の通り。
そもそものベースとなる世界観とお話の展開の間をつなぐ設定に納得感が無い箇所が多い。ファンタジーにするならもっとファンタジーに描く、リアルに寄せるなら設定も妥協しないという整理をしてほしかった。リアリティラインをどのあたりに置けば良いのか迷ってしまった。
その流れならその展開しないでしょとか、このキャラクターがこう動くのはおかしいとか脚本の都合優先で設定やキャラクターが置き去りになってる。
敵も味方もいちいち迂闊。治安維持組織と犯罪組織の攻防にリアリティも緊張感もあったもんじゃない。ツッコミどころに対して劇中でセルフツッコミもしてるけど、それがいちいち言い訳がましい。それなら最初から整合性のある設定や演出をしてくださいよ。
まあエンタメ作品だからね、ある程度の制作上の都合とか、あからさまにネタに寄せてる部分もあるよね。分かるよ。
気にはなったけどまあ飲み込んでもいいかというポイントを書いていくよ。
あさめしぬいてけんこうしんだんいった
でかけようとしたらにわかあめっぽいのふっててまじかよーとなる
この1週間以上あめふってねーのによりによって久しぶりに外出するこの日、この時間にふるかー?って
あさだから出勤の人がおおくていくのじかんかかった
けんこーしんだん
しんちょう
1cmのびてたけどまあ朝はのびてるっていうし誤差だな
去年より2kg減ってた
なんでだろ
しりょく
ぼやぼやで答えてなんとなくであたった視力なのにこれでいいのかと不安になる
止血バンドじゃなくて自分で手をつかっておさえろって言われて、
え、去年までふつうにあったのになんでと思って聞いたらしぶしぶって感じでくれた
腹囲
3cmくらいちぢんでた 誤差
異常なかったらしい
さいしょにこなだけわたされて粉たんどくでくちにふくんだあとバリウムのまされてちょっと大変
あとおれだけなのかわからんけどバリウムを胃に塗るために台の上で回転するのがすげー大変
いつも4、5回転させられる
問診
炭水化物をへらすのが大事っていわれてホエイプロテインになった
コレステロールって玉子におおくふくまれてるからたまごひかえればいいかとおもったら
油ものとらずに魚にすりゃいいってもんでもないんか
糖分摂取なのかーふむー
かえりにキウイもらった
何も指定しなかったから可食部すくないのくるかなってどきどきしたけど、
逆に可食部おおくてうれしかった!
まえはドラムがいいと思ってドラムにしたら可食部すくなくて損した気になったけど
骨ほぼなくて9割可食部だったから満足した
そのあと駿河屋
通販のイメージしかなかったからどんなもんかと思ったけど楽しかった!
鉄機武者爆進丸6kもして高すぎわろたwwww
鋼丸の親戚みたいなやついたんだな
鋼丸が人気あるのは知ってたけど
テックウィンの付録ディスクが裸で売っててどんなもんか知りたかったけどネットで調べるには限界あったからあきらめた
博多ブックオフもわりとがんばってるけどやっぱマニアックなのは駿河屋あるといいなー
でも立地よすぎて面積も広いから、よほどペイしない限りさっさと撤退してしまいそうなのだけが不安かなー
アザゼルさんのCDつきマンガが安くて買おうか迷ったけどやすさを理由にかうのはダメだと思いとどまった
クーポン消費目的としては、はぐちさんの1、2巻が100えんだったから買った
フィールヤングを女の園の星目当てで読んでるけど、その中で出会った、地味に好きなマンガ
ブコフにある事自体が珍しい上に100円だったらもうかうしかないよね
んでふらふらになりながらスーパーで豆腐かって食って今に至ると
は~疲れたー
きょうめちゃあついわ
海外だと目からビームが一般的だけど、目からビームって合理的なんかな?
目ってめちゃくちゃ小刻みに動くから実際は命中精度もあんまり高くないように感じる
視線と標的が直線上だから当たってるところを確認するのがなんか想像しにくいんだよね
視線の先に対象物があるより、視覚で対象物を認識してあとはホーミングで追跡、当たり判定もゲームの自分視点みたいで見やすそうだし
どうなんだろう
新海誠は2004年に「雲のむこう、約束の場所」という映画を製作している。
本論では、この映画から政治性が巧みに隠蔽され、特にアイヌ民族が消えてしまっていることを論じる。
北海道をソ連(作中ではユニオン)に占領された世界。藤沢浩紀と白川拓也はそこに建造された不思議な塔まで、自作の飛行機で密航することを夢見ていた。その秘密がふとしたことで同級生の沢渡佐由理に露見してしまうが、彼女は二人の共犯者となり、いつか彼女も塔まで連れて行ってもらうことを約束する。しかし、彼女は突如姿を消し、飛行機の話もそれっきりになってしまう。
三年後、拓也は塔の破壊を企てる反ユニオン組織ウィルタ解放戦線に内通しつつ軍属で研究し、塔の秘密を探っていた。塔の目的は並行世界の観測による高度な未来予測であった。そして、塔の設計者であるエクスン・ツキノエには孫娘がおり、その孫娘たる沢渡佐由理が原因不明の奇病で三年間眠り続けていると知る。
一方、東京に出た浩紀は、佐由理の夢に悩まされていた。そんななかで彼女の痕跡を追い、かつて入院していた病院にたどり着くと、突如佐由理と浩紀は夢の世界で心を通い合わせる。浩紀は佐由理を救うには三年前の約束を果たさねばならないと悟る。
だが、拓也側の研究の成果により、佐由理は眠り続けていることで塔からの並行宇宙の浸食を防いでいると明らかになる。彼女が目覚めれば、この世界はあっという間に浸食されるだろう。
浩紀は青森に戻り、拓也と再会する。浩紀は拓也に「ヴェラシーラに佐由理を乗せ、塔に連れていくことで佐由理は目覚める」と伝え、協力を求める。佐由理の目覚めによりこの宇宙の消失を恐れる拓也は、一度は協力を拒絶する。しかし葛藤の末、佐由理を軍の病院から連れ出してきた。浩紀は佐由理を後部座席に乗せ、米ソ開戦直前でヴェラシーラを発進させる。
緊張が極限に達した米ソは開戦し、その混乱の中で浩紀はヴェラシーラを飛ばす。塔の傍で目を覚まし、涙を流す佐由理。浩紀はウィルタ解放戦線に託された爆弾を投下し、塔を壊して宇宙の消失を食い止める。
佐由理は目を覚ました。しかし、目覚めと共に浩紀に対する思いは消えてしまっていた。
さて、先ほど述べたように、作中では日本がソ連の侵攻によって南北に分断されている。そして作中のテロ組織は(南北統一のため?)北海道の塔を破壊することを目的としている。
そこで、「ウィルタ解放戦線」という名称が問題になる。ウィルタというのは北海道ではなく、サハリン(樺太)の先住民族の名前なのだ。確かにウィルタは北海道に数名居住していたが、北海道の解放を願うなら、「アイヌ解放戦線」とならなければ筋が通らない。
アイヌ民族に言及することによる政治的問題を避けるために事実を歪曲させたのではないかと疑われる。樺太開放も目標としていたと仮定すれば、考えられなくもないが……。
祖父の名前、エクスン・ツキノエは、日本語話者にとっては異質な響きを持つ。また、ロシア語風でもない。元々新海誠は多少いい加減なネーミングを行うことがあるので、深い意味はないだろうと思って数年間はこの名前に注目してこなかった。しかし、私がたまたまアイヌ民族に関する書籍を読んでいたとき、ツキノエは国後島アイヌの首長の名であると知った。同様のことを述べたツイートがあったが、現在は消えてしまっている。
そこでエクスンとはどういう意味かというと、ここによれば「向こうへ」という意味らしい。「沢渡」という姓はここに由来している可能性がある。
http://tommy1949.world.coocan.jp/aynudictionary.htm
浩紀はラストで単身ヴェラシーラに乗り、北海道中央部にそびえる塔を破壊する。すべては佐由理の目を覚ますためであり、並行世界が流れ込んでくるリスクを引き受けてのことだった。
しかし、実はまことに政治性の強い作品である。SFっぽさと感傷的な恋愛描写がまぶされているが、描かれているのは間違いなく世界を変える(少なくとも一国の軍事施設を破壊し、地域のパワーバランスを崩壊させる)テロリズムである。米ソ開戦中の混乱に乗じてのことであり、もしも両国が責任のなすりあいを始めたらと考えると恐ろしい。
新海誠がこの件についてどの程度自覚的であったかは疑問である。どちらかといえば気分的なものでプロットを作っており、作品の政治性についてはあまり深く考えていなかったのではないか。
実際、朝鮮半島やドイツの分断に伴う深刻さは、出会えなくなった家族に言及されることもあるが目立った悲痛さはなく、この作品では過去の背景に退いている。
米ソ戦のなかで時に死体が降ってくる場面はあるけれども……?
作中では「ヴェラシーラ」とは「白い翼」の意味だと説明されていた。
はじめ、自分はこの言葉をスペイン語だと思っていた。つまり、Bella Cielaだ。アルゼンチン方言ではbをvで発音することがあるらしいし。しかしよく調べてみると、スペイン語の語順や活用の形としてはおかしい(当時のウェブ翻訳は今と比べてずっと貧弱だったし、単語の原形で検索するしかなかった)。
そこで、ロシア語ではないかと思い、いろいろなつづりを試みた。すると、「白い」は「белый」ベリイ、「力」で「сила」シラとなり、それっぽい。ソ連にいる祖父がいるのだから、彼女にロシア語の知識があったとしてもおかしくはない。意味は「白い力」になるが、「白い翼」には十分近い。ベラルーシの「ベラ」が白なので、そこから取った可能性もある(同じことを言っているページを見つけた)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1216740382。
ただし、これもまた活用の問題がある。「白い力」はロシア語では「белая сила」ベラヤ・シラとなる。それに、よく考えればbとvの音の混同が起こっている。
もっとも、「星を追う子ども」では潜っても呼吸できる水を「ヴィータクア」、世界の果てを「フィニステラ」とラテン語としては語順が逆の形で名づけているので、そのあたりはいい加減なようだ(それぞれアクア・ヴィタエ、テラ・フィニスが標準的なラテン語の形である)。
また、同作の中では深い意味もなくセフィロトの樹が引用され、シャクナ・ヴィマーナやケツァルコアトルなど無関係な神話がコラージュ的に用いられている。その背景には明確な思想を読み取ることはできなかった。
「雲のむこう、約束の場所」では感傷的なまでに甘い思春期の心情を描いてみせた。一方で、この作品はかなり政治的な危うさをはらんでもいた。危うさの一つはテロリズムの肯定であり、もう一つはプロットに入り込んでいるはずのアイヌ民族の存在を背景に退かせたことであった。後者に関しては少なくとも筆者の知る範囲について、ヒロインがアイヌ民族のクォーターであることに言及した資料は見当たらなかった(註:とあるウェブサイトで、佐由理は恐山かどこかの巫女の家系だという初期設定に言及したところがあった。興味深いのでここにリンクを貼るhttp://www.green.dti.ne.jp/microkosmos/anime/promisedplace2.html)。
しかし、2004年には許された描写だったが、ゴールデンカムイなどで正確なアイヌの描写が出てきた2020年代にあってはどうだろうか?
最近筆者は新海作品からは遠ざかっている。映像が十分雄弁なのに、台詞で説明しすぎてしまうからだ。あるいは加齢による感受性の変化かもしれない。あるいは、この感傷マゾから「卒業」しようと自分を鼓舞したからかもしれない。本稿を書いているうちに、少し懐かしいような苦しいような気分を思い出しかけた。
作中では、北海道に建設された塔が東京からも(かなりの高さで)見える描写がある。しかし、それにしては塔が細すぎやしないだろうか? 以下、視聴当時にした計算を抜粋する。
塔が経っていたのが北海道の中央部、都心から道央まで凡そ1000kmはある。
かなりいい加減な推定だが、視力1.0を有するとは視角60秒の二点を見分ける能力があるということだ。つまり空気による散乱だの屈折だのを度外視すれば、主人公がそれだけの視力があると仮定することで塔の直径を算出できる。それにウィキペディアによれば大きく見えるときの金星がこれくらいの視角だそうだ。塔が自ら光っているわけではないだろうし、このくらいの値でいいだろう。映像を見てもそのくらいだったし。
sinθ=tanθ=θ(ラジアン)の近似を用いると、都心から道央まで凡そ1000kmはあるので1000km×(2π)×(1°/360°)×(1′/60′)= 290.8m程の直径が必要になる。荒っぽい計算だが、作中のヴェラシーラとの比較から見てもそこまでずれていない。ただ、空気があることからはるかに太いと考えたほうがいい。北海道全体が映るシーンでも塔はしっかりと見えていたし、直感的にも300m程度の太さの道央の物体が都心から見えるとは考えにくい。
なお、仰角は30°はあろうかという様子であった。三角関数で考えれば577.3km以上の高さだ。地球の自転の影響でこれだけの構造物は大きくたわむことであろう。ソビエト連邦にそれだけの物資があったかどうか。一応ユニオンは全共産圏を統合した国家だそうだし、この世界では宇宙開発の代わりに並行宇宙が研究されているとすれば、なんとかなる……かな?
近藤誠の「健康診断は受けてはいけない」って本、全てに賛同出来る訳ではないし、がん検診に関しては受けた方がいいと思っているけれど
少なくともいわゆる生活習慣病に関しては健康診断は有害無実で逆効果だろって思っている。
だってある程度年を取れば全ての数値が正常な人なんてかなり少なくなるらしいし
この数値は異常だ異常だ改善しろって突き付けられるのってそれだけでめちゃくちゃストレスになって健康には悪影響では?
仮にやるとしてもせいぜい身長体重視力聴力程度でいいと思うんだよね…血液検査や尿検査って本当にいちいち必要か?
それに医師の指導を義務付けて生活習慣を変えさせようとしたところで、根本的な労働環境が変わらないのに無理に決まっているのでは?
何かあった時には気軽に医者に行けるようにした方がよくない?
なのに労働基準法には一日からの有給の傷病休暇すら規定されておらず、気軽に休めるようになってない。
どう考えても健康診断よりも先に整備すべきなのに。
望ましい健康政策…自然に健康な生活が出来るよう、自炊や運動に時間とお金が使えるような少ない労働時間、高い賃金。良好な職場環境、将来の心配がなくストレスを与えない雇用の保障。体調が悪い時には気軽に休めて異常だと思ったらすぐ病院に行けるような休暇制度。
現実の日本の健康政策…自炊や運動の時間とお金を与えない長時間低賃金労働で自然と不健康になるように仕向ける。劣悪な職場環境や不安定雇用によるストレスを与えて精神の健康を害する。一応は健康体である人間に対して異様に細かい健康診断を行って数値で脅してストレスを与える。一方で体調が悪くなっても簡単には休めず医者にも行けない。
4回って言い方でわかる人もいるかもしれない。私は関西の大学生だ。頭は良くないけど、そんなに後悔しない大学生活だった気がする。まだまだやりたいことあるしね。
本来なら舌ピなんて1回で開けて楽しんで就活を前に閉じるものかもしれないけど、私はやっと内定が出た直後に開けた。そこの会社に行くかはまだ迷っているけど、我慢できなかったので。
ピアスは病院で開けた。ニードルかなと思ったらピアッサーで、少しずれてしまったけどまぁ満足してる。開けたのは先週土曜だから、そろそろ3日くらい。まだじんわり痛いし、違和感もある。舌を火傷した時や、口内炎が出来たような痛み。咀嚼すると痛みが強くなる。熱いものは駄目。辛いのとアルコールと煙草は控えている。奥歯の方に押し込めるものは割と食べれる。スープや飲み物や豆腐とかプリンは全く問題なし。茶碗蒸しが大活躍している。
両耳たぶは開いてるけど、他は開けてなかった。
耳は高校の卒業式のその日に開けた。アマゾンで買った一番安いピアッサーで、その日に。高校は校則が厳しくて、携帯持ち込み禁止、寄り道禁止、髪染めピアス禁止、アルバイト禁止、SNSのアカウント作るの禁止、他にも色々禁止だった。校則に書いてあるだけとかじゃなくてほんとに先生に見つかったら指導されるレベルの厳しさだった。有名ではないけど幼稚園からある女子校だからそんなものかもしれない。今となっては懐かしいけど、それは私が隠れてバイトもSNSも寄り道もしていたからで、真面目に守っていたならきっと後悔していただろう。
一度無断で休んだ時は反省文を書かされた。学校へ行くくらいなら死のうと思ってホームドアのない電車を探していた時、行かなくてもいいんじゃないかと思った。先生や親も死ぬよりサボる方が嬉しいんじゃないかなんてやたら冷静に客観視してた。反省文を書きながらこれは何の反省なんだろうと思った、だって死ぬか行かないかの二択だったのに。
両耳のピアスは私としては早かったが世間的には遅いだろう。私はいつもそうだった。みんなより全部遅い。化粧を覚えたのも高校3年だった。
前髪を初めて作ったのもはたちになる少し前だ。高校生の時から散々ある方が可愛いだろうと言われていたし思っていたのに。
髪を初めて染めたのもはたちすぎてから。しかもインナーの一部で殆ど分からないくらい暗い青だった。でもそれがきっかけで色んな色をやった、インナーだけど。大学入って直ぐに染めてたらもっと色んな色が出来たのにとも思う。
次は全頭してみたいと思っている。遅いかもしれないけど、遅すぎはしないだろう。だって大学生だし。ぎりぎり。
いつも遅い。みんながやり始める頃にはそんなの興味無いとばかりに見ていて、後からやりたくなってもっと早くても良かったなと後悔する。そしたらもっと楽しめたのに。
成人した直後からワインを飲んでいる。家にカクテルセットがあるというと驚かれる、大学生では珍しいかもしれない。日本酒もすき、ジントニックもすき。クラフトビールもすき。そんな感じ。
幼少期に読んでた本は大抵大人びていた、気がする。少しだけ。英才のように文豪たちを読破したとかカントを読んだとかはない。今はキルケゴールの死に至る病を買って、大学生だと言うのに意味が分からなくて呻いている。もしこれを読んだ方の中に哲学好きな方がいたら、あれを上手く読み解く為のコツとか解説書なんかを教えて欲しい。
閑話休題。
遅いとか早いとか、そういうことは無意識に思ってしまう。早いうちに触れるのはいいことだ、何歳になっても遅いなんてことは無い。そうは言っても現実はその通りでは無い。
小説家やイラストレーターになりたかった。学生のうちに仕事を受けられるようになっていなければそれで生計を立てるのは難しい。そもそもいちばん暇な大学生でプロのレベルまで出来なかったのは才能がないのだろう。能力ではない、やり続けるという才能が。
研究者になりたかった。小学生の頃の行きたい大学はマサチューセッツだった。ちなみに今も昔も英語ができたことは無い。向き合う度に外国語は向いていないことをひしひしと感じる。
研究者に憧れがある、科学者、数学者、天文学者、宇宙の真理やこの世の理、最先端の技術、未知の可能性、人類の進化、魔法と区別がつかなくなるまで発展する科学技術。無闇な憧れだ。論文も本も何も理解出来ず、どういうふうに系統だっているのかも分からない。でも憧れている。でももう遅い。私はサインコサインすら分からない。
頭がいい、と思っていた。昔は。人と会話することもある程度得意だ。
国語は勉強しなくても偏差値が取れた。小学生で漢検2級を取った(これは母の全力の献身によるものだ、私の努力ではない)。他の教科も聞いてたら何とかなった。でも中学2年くらいから授業を聞かなくなって、数学や理科ががくんと落ちた。相変わらず国語はトップ近くで、社会は本から得た知識でなんとかなって、英語は長文とリスニングで何とかした。文法はからきしだった。
高校ではやれば出来るのにと言われ続けた。地頭は良いのにと。そうかもしれないと思っていた。そう思いたかった。
でもそうでは無いのだろう。
本を読んでも理解できないことが増えた。読み終わっても中身を忘れることが増えた。あんなに無限に読めると思っていた本を、もうしばらく最後まで読めたことは無い。難しくなったら駄目だった、ライトノベルは多分いまでもサクサク読める。
私は天才でも秀才でもなくて、やる気とかいう最大の生まれ持つ才能も持っていなくて、やる気がなくてもなんとかなる能力もなくて、全く興味の湧かない仕事内容の会社に就職しようとしている。
昔はゲームなんて時間の無駄だと本気で思っていた。それなら勉強した方が世界も広がって能力も高まって良いと。
勉強なんてもう何年もしていない。ソシャゲに毎日数時間と毎月数万を使う立派なソシャカスだ。
ピアスやタトゥーには憧れていた気がする。酒や煙草にも。アウトロー感のあるものには憧れがあって、でもテンプレートな安い人間にはなりたくなかった。でもなってしまった。
白衣を着て、日本でも有数の大学院で試験管を持ったり数式を書き散らしたり、ドイツ文学やフランス文学を原文で読んで純粋理性批判について論文を書くような学生だったら、髪がペールブルーとターコイズの二色で舌や唇にピアスが開いてて身体にタトゥーが入ってたら最高にかっこよかったかもしれない。
そんな格好をしている美大生なんて山ほどいる。
そんな格好をしている鬱の社会不適合者なんて山ほどいる。
私がなりたかったものにはもう一生なれなくて、それでも表面だけで真似できるものだけ、努力しなくてもできるものだけ、真似している。
大学は楽しかった。散々文句を言ってやる気がなくてチャイムがなって数十分後に来てチャイムと同時に帰っていたけど、物を作るのは楽しかった気がする。ともだちもいる。そうそう人を友人と口に出せない私が友達だと確信を流石に持てるくらいには仲がいい、はず。
桜の咲く公園で夜にビールを飲んだり、宅飲みでマリカしたり、自主休講して展示を見てパフェを食べたり、ナイトプールにいったり、ディズニーとユニバにいったり、覚えてもいないくらいたくさん話して笑ってた。最近は知り合いの家に酔った勢いで雀卓をアマゾンで買って送り付けてルールを説明した。自分も分かってないのに。
彼らにとって大した思い出でもないかもしれないが、私にとっては一人では死んでも得られないそれらをくれた事に死ぬほど感謝している。
ずっと死にたいという思いはあって、でもその中にもう死んでも構わないというポジティブな希死念慮があることは間違いなく楽しかった大学生活のお陰だろう。いやなこともたくさんあった、アルバイトも大変だった。バイト先に警察が来たこともあった、これはいい経験だけど。人生で経験できることはできるだけしておきたいので普通にその時も良かったなと思っていた、店からはたまったものじゃないだろうが。
そんな気持ちだからバンジージャンプも行ったりした。単に絶叫好きなだけかもしれないが。ピアスもその一環かもしれない。開けなければどんな痛みかなんて知らない。舌ピ開いてるあのキャラクターとかも、開けた直後はポタージュとか豆腐とか食べてたのかな、と思うとちょっと面白い。
シーシャも行った。今度葉巻もいく。
努力の要らないものばかり。ボランティアでもしてみれば良かったな。したい気持ちはあるけれど時間とか労力とかいきなりその日鬱になったらとか思うとなかなか出来ない。
習い事もしてみたかった。音楽がからっきしだから何か楽器とか。バレエとかダンスとかにも興味がある。踊るのはすきだ、振り付けは真似するのが苦手だから即興ばかり。音楽を流して踊り続けるのだけは得意だ、人に見せたことは一度もないけど。あとボルダリングとか、薙刀とか、色々やってみたかった。
そういう系だとサバゲーもある。これはサークルに思い切って入った。楽しかった。銃を買ったけれどコロナでサークルが停止してそのままなくなってしまったので一度もフィールドで撃てなかった。いつか思いっきり撃ちたい。
スキーやスケートは好きだから、フィギュアスケートもやってみたかった。ずっと憧れはあるけどスケートリンクが近くにあったことがないのでこれはしょうがない。
バイクにも乗ってみたい。一度後ろに乗せてもらって、免許取りたいといったけれど、結局バイクを持つのが大変なことやお金を考えて取っていない。
美容にはすぐお金を使ってしまう。というか費用対効果だ、時短になるならやっておきたい。二重はやった。脱毛はもうすぐ一回目がある。まつパもやりたい。レーシックもやりたいけどカラコンを入れなくなりそうだと思うとちょっと躊躇する、眼鏡も少し気に入っているので。外した方が可愛いけど。
少しでもかわいくなりたい。自分が死ぬほどかわいくなくて、死ぬほど魅力がないのを知っているから、少しでもってなってしまう。
アイドルになりたかった。歌手でも俳優でもいい。最近はミュージカルがすきだからミュージカルにも憧れる。服のモデルもいい、写真撮られるのも色んな服を着るのもだいすきだ。
でも私は人前が苦手だ。頭で苦手だと思ったことはない、好きなアーティストのライブにいっても、こんなにたくさんの人の前で歌ってこんなにたくさんの人に愛されるのはどれだけ快感だろうということを考えてしまう。
でも人前に出ると勝手に身体が震えて、平衡感覚がおかしくなって、喋れなくなる。大学の発表でもそうだ。上手く話せなくなる。頭は冷静だから対処はできるけど、身体は勝手に震える。
人前というか知らない人と歌う機会があったことも少しあって、褒められたら嬉しかった。けど歌手やアイドルになれるほどじゃない。顔も可愛くないし、ダンスも下手だ。自分では出来てるつもりでいても動画を見るとキレのなさに絶望する。これは本当に才能だと思う。
女の子のアイドルゲームが出来ない。羨ましくなってしまうから。男の子なら普通に推せてたまに羨ましくなるくらいだけど、同性だと近いから難しい。でもなりたいのは男の子のアイドルだ、イケメンと一緒に可愛い女の子にキャーキャー言われるなんて最高じゃん、と思う。
先生になりたかった。人に物を教えるのはすきだ。上手い方だと思う、友人に教える時も。相手の知識量や理解力に合わせて単語に解説をいれ、分量を変え、分かりやすそうな例えを使う。フラットな目線を持っているとも自負しているし、向いている気もしてる。先生と言うよりかはマンツーマンで指導する方が向いているかもしれない。
でも一度家庭教師に登録していて、仕事の話もあったけど、大学名で難色を示された。多分向こうの親御さんが文系か理系の学生がいいと言ったんだろうな、とぼんやり思った。同じ大学でも塾講師をしている子はいるので普通に学力があれば大丈夫なんだろう。私には教える力はあっても学力はない。でもやる気がなかったからこそやる気を出させたり、本を解説するのだけは本当に上手いと思うのだけど……まぁ、仕方ない。
他にもいろいろ夢はある。理想の生活もたくさんある。でももう叶わない。分岐点はとっくの昔にある。
今できる楽しそうなことだけを積み重ねて、本は難しくて気力がない時には読めないからソシャゲの周回とTikTokをして、少しずつあの日の高潔な私が死んでゆく。取り返しはもうつかない。じきに働かなきゃいけなくなる、働けるかは分からないけど。
せめてできる新しいことをしようと思って日記を書いた、ちょっと憧れていたから。ツイッターでフォローしてる文章の上手い人のnoteが良かったから、ああいうものを書きたいと思った。
私は承認欲求が強い。物凄く。いいねひとつに一喜一憂して、私より評価されている人全員が羨ましくて、なんとかいいねをしてくれそうな人に届いて欲しいけどそれを表に出せない。せめてタグをつけてRTをするくらいだ。
私は私の作品が好きでも、クオリティが低いことは知っていて、それでも好きだと言って欲しくて、でも他の有象無象の、私から見てあまりにも稚拙で低俗な作品といっしょくたにいいねされてると悲しくなる。こういうところが本当に性格が悪いと思う。けれど好悪はもう変えられないし、今更承認欲求も手放せない。昔は承認欲求なんてないと、どうでもいいと、むしろそれを持っている人になんでそんな感情を持つんだろうと疑問にすら思っていたのに、自分に承認欲求があるとしたら全てが腑に落ちた。無いと思い込んでいても消せなかったものは、多分もう消えてはくれない。
私は自分が底辺であることを知っていて、それでも結局どこかによく見られたいという願望が残っていて、ナルシストなところもあって、性格の悪さもあって、それがこの文章からも滲み出ていることが本当にいやで、でも取り繕うことすらしないのも嫌だからどうしようもない。
理想の自分になりたかったと思いながら、今日も自分をひとつ成長させてくれるはずの買い込んだ本をめくることすらできず、朝になった。
この文章は最初からひたすら思いついたことを脱線するまま書いて、読み返しや修正もしていない。
どうせ誰にも刺さらないことを知っている。私の作品が好きですという感想を匿名で貰ったことは一度もない。一度も。本の感想も。
最後まで読んでくれた人が数人でもいたら御の字だろう。
それでも誰かが読んでくれて、コメントをしてくれることを夢見ている。認めたくないけど、心のどこかであわよくばインフルエンサーとかがTwitterに投稿したりして、バズって、はてな文学みたいな扱いを受けたりしないかななんて期待している。醜い。でもこの醜い感情を抱えていたくないから書いてしまおう。心に秘めていたりツイッターでぼかしながら細切れに話してることを、全部思いのまま書きたくてこの文章を書いた。
何が刺さるんだと言われたら自分でも分からない。実力以上の評価が欲しい訳でもない。努力もしないくせに数字だけ貰えるなんてことはないと分かっていて、それでも楽なことの方がすきでそちらを選ぶ。趣味だからなんて言い訳せずに絵の練習でもしていたら今頃もう少しましだっただろうか。漫画も描きたかった、漫画の方がバズるから。表現媒体としても面白い、ネタを思いついても小説では書けないこともある。でも描こうとしても絵が下手すぎて結局再現は出来ない。
楽な方に楽な方に流れている。
ひとつ開けたら憧れの気持ちが止まらなくなってしまった。人生で一回は開けておきたい、テンプレートに近づくとしても。死にたいとか鬱だ何だとかいっている言葉が、昔より軽くなりそうだ。ファッションが変わっても私の中身は何も変わらないのに。
楽な娯楽だ。努力しなくてできる変化、合法的な自傷。腕を切ったことはない、痛いから。でも首を絞めることはある。いつか首を吊るためのシミュレーションのように。一度失敗したきりだけど、いつかはきっと死ぬだろう。寿命まで耐えられるとは思えない。
本当は耐えて欲しい。耐えられるくらいでいい、その程度でいいから、幸せになりたい。
普通の人になりたい。創作をする、私は天才だと思っている友人は、死にたいけれどその死にたさも自分だから治らなくていいと言っていた。
私は幸せになりたいから心療内科に通った。意味はあんまりないけれど。
これを書いている間もずっと舌が痛い。これが収まる頃にスクランパーとインダストリアルを開ける。思い切り食事ができるのはまだ先になりそうだ。
何度も終わらせようといい感じに結べそうな文を書いているのに書きたいことが溢れてしまう。
私は人に知って欲しいたちだ。なんでも、やったことや見たもの、感じたことや思想、なんでもすぐツイートしてしまう。勿論セーブはかなりしているけれど。そしてそのツイートを全部見て欲しいと思ってしまう。何故なら私は好きな人のツイートを全部見たいタイプだから。ある程度好意を持っていたら何を喋っていたか知りたいかなんて当たり前だと思うけど、世の中では意外と少数派らしい。でも私の中ではそれが当たり前だから、ツイートを見ていないと言われる度にそんなに私に興味がないのかと傷つく。表には出さないようにしている、めんどくさいと思われるから。でもあえて出す時もある、相手が平気そうだったり、そういうキャラで私がやっていけそうなら。メンヘラちゃんのキャラでいたら、少しだけ私の本音を言うことができる。
だからひたすら書き連ねるのは楽で楽しくて、でと整理されてない文章なんて誰も読みたくないだろう。でも日記というか、書き散らしというか、日々の所感としてはこんなものかもしれない。
舌が痛いし眠くなってきた。多分何も無ければ無限に喋り続けられるだろう。自分の話をするのが好きだ、相手に知ってもらいたいから。好きな人のことはなんでも知りたい、血液型とか、健康診断の話になった時の視力とか、すぐメモってしまう。私の記憶力が悪すぎてメモっているだけで、覚えておきたいというだけなんだけど。締めに頭の中で用意しておいた文章のストックがもうない。前のを引っ張ってこよう。ちょっと書き換えて。
そうやって楽な方に楽な方に流れている。
今度はスクランパーとインダストリアルを開ける。お手軽な変化を得て、なんとかぎりぎり生きている。バイトの当欠も、説明会のキャンセルも、自主休講にしすぎな大学も、なんとかなってるとは言えないけど、取り敢えずまだ致命傷ではない。致命傷ではないけど、ゆるやかに死んでいくのだ。
きっと今の私は、昔の私が一番なりたくなかった姿だろう。働きたくないとか甘えるやつ、努力しないやつ、後回しにするやつ、遅刻するやつ、頭の悪いやつ、死にたいと
「アクションゲームはちゃんと難易度調整ができている」という意見に対して増田は「アクションゲームはユーザー層が狭い」と返したがそれはズレてないか?
つまり増田は「ユーザー層が狭いアクションゲームは難易度調整ができているとは言い難い」と言っているに等しいが…これは間違っているだろ
反射速度や動体視力の問題でリアルタイムゲームができないユーザーがいるのはわかるが
幅広い層を取り込もうとしたマリオやカービィは5歳児でもできる
アクションゲームだからというだけでユーザーを削ぎ落としているとは到底思えない
これを言うと「大人になってもアクションゲームに慣れない人も多い」と反論が来そうだがこれもおかしい
そういった人間がある程度いるのはどのゲームジャンルでも同じだからだ
ゲーム中に文章を読み飛ばしてしまうからRPGやノベルゲームができない奴もいるし、画面に動きがないと集中できない故にシミュレーションゲームができない奴とかもいるだろう
そんな中アクションゲームが突出してユーザー層が限定されているとは思えない
それと「マリオが簡単すぎorリニアでかったるいからやってられない」とかいう付け足し いらんだろ
俺が「ポケモンは簡単すぎてユーザー層を削ってる 故にRPGは難易度調整ができてない」みたいなこと言ってたらおかしいだろ
同じような事言ってるからな
ビゴーの身長は160cmと欧米人としては低く、当時の日本人成人男性の平均とほぼ同じであった。清水勲は、このことで威圧感を与えずに日本人の中に入り込むことができたこと、また日本人の目線と変わらない絵の構図を獲得できたことを推定している[48]。
ビゴーの描いた風刺画のうち、鹿鳴館や日清戦争を扱ったものは小学校や中学校、高校などの社会科(歴史)教科書にしばしば教材として掲載されてなじみが深い。これらの絵では日本に対して辛辣な描き方がされている。これについて清水勲は、ビゴーは条約改正を尚早と考える点では居留地の外国人と同じスタンスに立っており、日本人の非近代的な側面を強調することでそれをアピールしようとした際に、貧相な容姿と非近代性をこじつけることが読者の理解を得やすいと考えたからだとしている[49][注釈 7]。
ただし、ビゴーが批判したのは日本国家の皮相的な欧化主義であり、日本の伝統的な文化や庶民の営みには敬意と共感を抱いていた。子守の少女が鉢巻きを巻いた姿で遊ぶのを目にして「鉢巻きは赤ん坊の顔に髪が触れないための工夫で、少女が遊ぶことで赤ん坊も楽しめるという点で日本の子守は悧巧である」と感服したという日本人の証言が残されている[注釈 8]。女性については『トバエ』の中で「日本で一番いいもの、それは女性だ。(中略)日本の女性に生まれたのだから、どうぞ日本の女性のままでいてもらいたい」と記し[52]、絵においても上流階級の人々は別として、風刺の少ない絵を描いた。後には日本人女性と結婚している。この背景として、日本の女性がビゴーの求める日本的なものや江戸情緒を伝える存在だったからだと清水勲は記している[53]。
1898年頃と推定される詩画集『横浜バラード』には、日本への幻滅(糞尿を運ぶ荷車の悪臭や、外国人には高額をふっかける日本の商売人)が歌われ[54]、離日直前に刊行した画集『1899年5月』では条約改正後の日本に対する外国人の不安がストレートに表現されていた。しかし、フランス帰国後も亡くなるまで日本に対して愛着を抱き続けた。また、日本軍をよく知っていたビゴーは、日露戦争当時のフランスで「ロシア圧勝」という世論に同調しない数少ないフランス人でもあった[55]。
欧米における日本人描写のステレオタイプとなった「つり目で出っ歯」という姿はビゴーの風刺画にも登場するが、その点について清水勲は「当時の日本人は現在に比べて国民全体の栄養状態が悪く、小柄で出っ歯の人が多かった。そうした日本人の姿が1867年のパリ万博で直に欧米人の目に触れたことと、ワーグマン、ビゴーなどの来日外国人の絵や当時の写真などの影響とによって広まり、欧米人の日本人観の一要因となったのではないか」といった意見を述べている[56]。
一方、同じくステレオタイプとしてよく登場する眼鏡については、ビゴーは「一般的に言って、日本人の視力はたいへん悪い。日本では様々な形をした、また様々な色をした眼鏡をかけている人に出会う」と記している[57]。清水勲は当時の日本人が「栄養状態が悪かったせいか、また家屋の作りから来る照明状態の悪さからか視力がよくなかった」ことと明治以降印刷物を読む機会が増えたことで、眼鏡を多くの人が使うようになったのではないかと推定している[57]。ただし、ビゴーの絵に眼鏡をかけた人物は必ずしも多くない。清水も、昭和期以降の欧米での日本人像に眼鏡が多く出る理由には昭和天皇や東条英機といった眼鏡をかけた要人がいた影響を指摘している[58]。ビゴーが庶民をスケッチした絵では男女を問わず様々な人相・年齢・職業の人物を描き分けている。
清水勲は「ビゴーは反日家なのか親日家かと聞かれることがあるが、答えはもちろん親日家である」と述べている[59]。
及川茂は、帰国後のビゴーは、当時フランスで見られたインドシナなど他の風俗と混交したようなでたらめな日本描写を快くは思わなかったが、それに立ち上がって抗議するような形での感情は日本に抱いていなかったとしている[39]。及川はビゴーが「日本をエキゾチストではなく、生活の一部として生きてきた人間」であり、「日本と対決したり競い合ったり摩擦を感じたりするのではなく、あればあるがままに、なければなしでもやっていけた」という[39]。滞日当時の日本は「そこで生活していれば批判の対象であり、揶揄の種であった」が、それはビゴーが初めて知った日本とは別物であったとする[39]。帰国後のビゴーにとって日本は「いつも優しくそこにある国」で、素朴で自然で暖かい日本を自分の心の中にしまっておきたいという感情故に、ジャーナリズムの挿絵画家という職を捨てざるを得なかったと指摘している[39]。