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2017-06-17

https://anond.hatelabo.jp/20170617130425

単にイスラームが今の日本人にとって縁薄いからそういう対応で済んでるだけで

受け入れにくさに関して言えば両方どっこいどっこいだと思います

申し訳ないけどこの辺はイスラーム創価(というか日蓮宗)で共通から

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

2017-05-14

[] 長生殿

長生殿(ちょうせいでん)は、石川県金沢市の森八で作られている和菓子である

金沢市名物であり、落雁の最高級品とされる。

新潟県長岡市の越乃雪、島根県松江市山川と共に、日本三名菓の一つにも数えられる。

  

紅白落雁一種であり、材料四国産の和三盆糖北陸産のもち米を用いる。

昔は落雁の中に胡麻も入れていたが、現在は入れていない。

出来上がった落雁は、小堀遠州の直筆の“長生殿”と彫り込まれた木型で打ち上げられている。

ちなみに、菓子名前は唐の白居易長恨歌」の末章:「七月七日長生殿、夜半無人私語時。」より、唐玄宗楊貴妃

七夕に愛を語りあった場所である長生殿から由来しているとされる。

  

長生殿は加賀藩3代藩主前田利常より七夕のための落雁を作ることを命ぜられた三代目森下屋八左衛門(森八の前身)によって

作られた。茶道遠州流開祖である小堀政一遠州)の助言により、菓子に篆書で「長生殿」の文字が彫り込まれている。

命名も小堀による。

後水尾天皇にも献上され、前田から徳川将軍家にもしばしば献上された。明治以降もしばしば宮内省に収めた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%9F%E6%AE%BF_(%E8%8F%93%E5%AD%90)

2017-05-09

[] 朝鮮飴

朝鮮飴(ちょうせんあめ)は、熊本県銘菓である。餅米と水飴と砂糖独自製法で捏ね合わせ、片栗粉を塗した求肥飴の一種である

食感は餅に近い。

  

16世紀園田屋の開祖園田武衛門により作られた当初は長生飴と呼ばれていたが、文禄・慶長の役での朝鮮への出兵の際、

当時の城主加藤清正の軍はこれを携行して篭城中の兵糧として役立てたことから朝鮮飴と呼ぶ様になった。

江戸時代中期までこれは藩の買い上げで、製法管理されて市販が許されていなかった。

代々の肥後藩主がこれを江戸幕府朝廷への献上品、諸大名への贈答品として用いた。

  

当初は黒砂糖と玄米使用した淡褐色の黒朝鮮飴しかなかったが、現在は白砂糖精白米を用いた白朝鮮飴が大半を占めている。

1970年代前半には30軒以上が手がけて売上高の総計が10億円に達したが、1990年代後半には2-3億円に減少し、業者園田屋など

数軒になっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%A3%B4

2017-04-27

弥勒 (僧)

曖昧さ回避 この項目では、宗教家について説明しています。その他の用法については「弥勒 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

弥勒 (マイトレーヤナータ、マイトレーヤ)[1]

270年頃-350年頃[2]または350年頃-430年頃[1]

Asanga.JPG

著作

瑜伽師地論』[1][2]

分別瑜伽論』[1][2]

大乗荘厳経論』[1][2]

『弁中辺論頌』(『中辺分別論』)[1][2]

金剛般若波羅蜜経論頌』(『金剛般若経論頌』)[1][2]

『法法性分別論』(『法法性弁別論頌』)[1][2]

『現観荘厳論』[1][2]

『究竟一乗宝性論』[1][2]

弥勒(みろく、マイトレーヤナータ〈梵: Maitreyanātha〉、またはマイトレーヤ〈梵: Maitreya〉[1]、慈氏[1]、270年頃-350年頃[2])は、インドの僧。大乗仏教の学派のひとつ瑜伽行唯識学派開祖[2]。

2017-04-22

http://anond.hatelabo.jp/20170421215211

新興宗教問題は、開祖(もしくはそれに近い人物)が「存命」であるということ。

まり、神ではなく神≒人を信仰しているのに近いことが問題である。もちろん、新興宗教といっても基本的に神仏を信仰しているわけだが、開祖(もしくは近い人物)が存命のため、信者に与える修行世俗的になりがちだ。

開祖1000年以上を経た宗教には「信者を増やせ」「お布施を集めろ」「新聞いかが?」「本買って」「壺はどう?」「ジハードせよ」といった世俗に近い「使命」を強要するところはあまりない。それをやれば新興宗教と変わらないからだ。

新興宗教と定着宗教の違いは、そういう意味では「布教活動が既にある程度完了しているか」「布教活動世俗と結びついてないか」「開祖(に近い人物)がまだ世間に存命か?」というのが一つの基準になる。

イエスにしても、ブッダにしても、マホメットにしてもやはり人間が神に近いところまで昇華するには1000年はかかる。池○大作や大○隆法あたりがそこに至るにはまだ900年ほど足りない。

2017-03-26

俺は外野人間が好き勝手言うとか権力持ったりしているのが許せねぇ

という訳で書き連ねる


公務員は国に仕えて国民奉仕するはず

団体を作って特定政党に肩入れしたり、政府方針に反発

国に仕える公務員が国に文句を言うとかおかしくね?

土日にデモとかしてんじゃねぇよお前らが休みなんだから国の機関休みだろ誰向けのデモだよ


会社社長、もしくは株主のものお客様から得た利益従業員株主に分配する組織

社内政治派閥闘争

会社利益を稼ぐところだろどうしてそんな暇があるんだよ

その暇は会社がでかくなったからできたんだしお前以外のだれかが数字を稼いだからだよ感謝しろボケ


テレビは(NHKを除き)スポンサーから予算制作、発信される

基本的には無料で見られるTV番組批判

テレビ報道被害受けたんならしゃあないし批判する権利はある

だがタダでテレビ見て勝手に傷ついただの偏向報道だの文句言うんなら見るなよ

ていうかわざわざ文句言うために見るなよちなみに俺はテレビ見ないけどな


仏教ゴータマ・シッダールタ開祖

→後世に創作された仏教経典をそれぞれ独自解釈して広めた人を個人崇拝する

仏教名乗るんじゃねぇよファンクラブだろそれ

シッダールタさん置いてけぼりだろ

経典の書き出しの「如是我聞」(かくの如く我聞けり)の意味ねぇ


…つまり俺は何が言いたいかって言うとだな

「始めた人間」や「それを支えている人間」が尊重されず

俺は外野人間が好き勝手言うとか権力持ったりしているのを許せねぇってことだ


当事者以外はすっこんでろ

2017-02-28

今は昔、エロゲ伝奇ジャンル流行りけり

伝奇』とは「普通には起きようもない話」が辞書的な定義みたい。

ただ、コレだと異様に範囲が広くなってしまう。


エロゲでいうとこのちょいファンタジー要素のある鍵作品伝奇に入るか? の回答は厳密にはYesなんだろうけど

世の人が伝奇と聞いて期待するタイプの話じゃないと思う。

奇の部分をメインに語ってる訳じゃないし。

要は「それまでの日常に、非現実的な非日常が持ち込まれる話」みたいな定義なのかもしれない。

たぶん夢枕貘とかの「伝奇バイオレンス小説」が流行ったあたりからイメージが変わってきたんだろうけど、「竹取物語」とか「日本霊異記」とか、そういうのが本来伝奇ですな。

ホラー的なものもあるけど、もっと広い意味での「空想物語」っつうか。

全然違うとか言い切られると、ちょっと悲しい感じ。

ついでに英語でいうとromanceなんだけど、こっちはこっちでまた意味が変っちゃってる。

【1】伝説伝承神話など)あるいは、伝説上の存在魑魅魍魎の類、鬼とか)をストーリーに絡める

【2】非日常日常への侵蝕

というのがおおざっぱな伝奇物の定義かなあ?

2.が分かりづらいかもしれないけど。なんていうか、気がついたら異世界に 片足突っ込んでいたという感覚自分が正しいと信じていたものが実はそうではないかもしれないという感じを登場人物が抱くといったら少しはわかりやすいかな。

伝奇エロゲーには人ならざる者が出てくるゲーム結構あるけど、 周りの人間があっさりとそれを受け入れていて、2.の感じが出てないのは伝奇とは違うかもしれない


■『伝奇

gooネット辞書あたりで引くと「怪奇幻想的な物語」とかナメた反応が出る。

これを言葉通り捉えてしまっては頭に述べたように本当に何でもアリになってしまうので少し、伝奇モノの歴史

語っちゃおう。


そも、伝奇というジャンル開祖としてよく挙げられるのは半村良です。

70年代のことですね。

無論、国枝史郎等の先達があってはじめて彼が浮かび上がるわけですが、

それまで単に荒唐無稽物語として埋もれていた伝奇というジャンル復興し、

現在地位にまで導いたのは間違いなく彼でしょう。

HMにおけるブラックサバスみたいな存在なのです。(ちょっと違うか)

半村の作品神話伝説伝承等をベースにして、

そこに科学的な(というよりSF的な)メスを入れることをその切り口としています

石の血脈」等の作品が持つ一連の流れ、

現代に起こる怪事件を、神話伝説にその因を求め、解決していく」というものが、

現代伝奇作品ベーシックスタイルであるといえるでしょう。

YU-NOなんかにも通じるスタイルです。

もっともあれはワイドスクリーンバロック的な造りをしているので、伝奇の枠に入るとは思っていませんが)

その、半村の引いたレールの上に乗ってきた後続者たちが荒巻義雄、志望田景樹、谷恒生といった人々です。

彼らはそれまで活躍していたそれぞれのジャンル

推理小説であったり、冒険小説であったりする色を添えて、独自作品作りました

伝奇が半村一人のものではなく、一つのジャンルとして成長を遂げた瞬間です。

80年代に入って、伝奇は大きな変革の時を迎えます

二人の偉大な作家が流れを大河に変えてしまったのです。

それこそが、夢枕獏菊地秀行です。

前者が格闘技の要素を、後者がスプラッタホラーの要素をぶちこむことで生まれ

伝奇バイオレンス」というジャンルは凄まじいまでの人気を誇りました。

おどろおどろしくも官能的な美女の絵で彩られたノベルズの表紙に、まだ小学生だった私は、

バンパイアハンターDの人の本だけどエッチな表紙すぎて買えないよぅ」とか思ったものでした。

数多くのフォロワーを生み、まさしく時代の寵児となった伝奇バイオレンスですが、

蜜月は駆け足で過ぎてゆくこととなります

80年代後半の黄金期を最後に、ノベルス界王者椅子ミステリ仮想戦記ものに譲ったばかりでなく、

小説ジャンルとしても大きく衰退していきます

幾つか理由はありますが、一つには伝奇バイオレンスだった筈の作風

バイオレンスの側に大きく傾倒してしまったことが言えるでしょう。

殊にセックス描写等に関しては、ポルノ同然の有様であったといえます

伝奇的な設定の妙にしたところでオカルティックな、とってつけたような設定をもってこなされ、

粗製乱造がなされていったのです。

まあジャンル全体の質が低下してしまったことで、ブーム終焉が訪れるのはやむをえなかったのでしょう。

さて、こうして伝奇モノは数ある中の一ジャンルに帰ってゆくのですが、

多くの人々にその遺伝子を残すことには成功しました。

エロゲーライターにおいてもそれは同様で、「痕」の高橋龍也なんかの(エロゲーにおける)先達は、

間違いなく彼らの血を引いていると言えるのではないでしょうか。

その後については別に私が筆を費やす必要はないでしょう。

これを読んでくれている皆さんの方が詳しいだろうと思います

ここまで言って結局私が何を言いたいのかというと、一つには伝奇歴史を紐解いて分かるように、

このジャンルはあらゆる別ジャンルのもの化学変化を簡単に起こすということです。

名称統一されていなかったの自体その顕著な例でしょう。

伝奇バイオレンス」「伝奇ホラー」、「伝奇推理」などなど。

エロゲーにおいてもやはりそうで、因をクトゥルフ等に求めるものは「伝奇ホラー」、

さっきから板違いっちゃ板違いで扱いにくい痕なんかは「伝奇SF」に本来ならカテゴライズされるものでしょう。

まり定義づけを行うのが本当に難しい。

そういう意味では寧ろ物語構造の方にその特色が強いジャンルだとも言えます

ま、個人としては「伝奇バイオレンス」だとか「伝奇SF」だとかいった「伝奇○○」と続くかどうかで

ある程度は判別可能かもなぁと思ったりもします。

竹取物語」とか「日本霊異記」のような太古の伝奇現代伝奇とは別物として考えた方がいいのかもしれないと思いつつおわり。

2016-11-11

ポリコレ教の信者的にはどれがより正しいのだろうか




ついでに新年も、ケルトならハロウィン一年区切りだし中国春節みたいに旧暦を重視しているひとたちもいる。ハッピーニューイヤーも辞めるべきでは?

2016-02-22

http://anond.hatelabo.jp/20160222165831

ちょいと横(さっきの横とは別人物)

そもそも起源のことを言えば釈迦は苦行僧の時に「別宗教開祖師事して」修行してるわけです。

その苦行の結果、「これでは駄目なんだ」という結論になって、

別のやり方を自ら編み出したのが仏教修行の起こりです。

とあるインドの有名な某仕事をする方がいます(あえてぼかします)。

ぼかされなくても興味がありません。

世間的に重要仕事をする人なんだぞ、という情報はこの際には価値が無いはずです。

あなた見方ヨーガ?)ではそこは重要なんでしょうか。

彼は日本に訪れた際「仏閣」に訪れて一緒に三昧に入り、日本に来て一番よい日だったと語りました。

彼はヒンドゥでした。しかしその後も彼は別段仏教徒改宗したわけではありません。

全てについて、彼の勝手だと思います否定しません。

その後は周知なので別に解説しませんが、ほかの宗教瞑想を「そこそこ」とするその意識のものがヴィシュッダの誤った発達にあるように思われますね。

そしてもう一つ、先だって述べましたが、正しい瞑想を修したあなたプライドはどの箇所から発されるのでしょうか?

プライド問題ではありません。

理論が正しいか否か、効果あるかないかの話です。

より効果のある瞑想実証されれば何のこだわりもなくそちらへ移ってみせます

2015-12-08

http://anond.hatelabo.jp/20151208080238

オリジナリティを追及したらいいんじゃね?

自分以外誰もやってない分野でなら、トップになるのも先駆者になるのも簡単だし。

しかも、最初に始めた人 という位置づけであれば、その後皆に追い抜かれても 開祖という名誉はついて回る。

2015-12-07

http://anond.hatelabo.jp/20151206193422

千葉県だろ?

どんなもんかと思って見たら、

Category:上総国の人物 - Wikipedia

Category:安房国の人物 - Wikipedia

日蓮小野忠明と菱川師宣がいるじゃん!

日蓮仏教日蓮宗開祖法然親鸞と並んで鎌倉仏教代表する高僧だ。

小野忠明はこちらは剣術小野派一刀流の開祖で同時代では最強とも言われる剣豪

菱川師宣浮世絵の創始者で「見返り美人図」などが有名。

うーむ、千葉県文化の始まりを生む土地柄なのかもしれんな。

そもそも千葉県のあたりは桓武平氏本拠地みたいなところで、

いにしえの平将門はもちろん上総広常や千葉常胤など有力豪族ごろごろしてたんだぜ。

源義朝とも縁が深いし、関東においては江戸なんかよりよっぽど重要土地だったんだよ。

もっと自信持てよ。

2015-11-21

親鸞悪人正機説イメージがつかめ

浄土真宗開祖である親鸞思想根本に、悪人正機説というものがある。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

という言葉でそれは表されているが、この意味が、どうにもわかりにくい。

辞書的には、

他力をたのみとしない善人でさえ往生できる。ましてや、悪業に苦しみ、ひたすら他力をたのむ悪人が往生できないわけがない。

デジタル大辞泉

という意味だろうが、これでイメージがつかめるだろうか?

善人の何がいけないのか? 悪人がどうして往生できるのか? ひたすら他力をたのむというのはどういうことなのか?

……などなど。

最近、こういうことだというイメージがつかめたので、ここに紹介したい。


善人であろうとすることは非効率努力悪人自覚効率的方法への乗り換え

極楽浄土を、ゴールとする。

善人とは、自分の力を信じて、ゴールである極楽浄土へ向かおうとする人々だ。

道を地元の人に尋ね、一生懸命に走ってゴールへと向かう人々をイメージして欲しい。


ところが弥陀の本願は、この世のすべての衆生を救うことである

涅槃の彼方に究極の慈悲の持ち主がいたとしたら、すべてを救いたいというのがその願いに違いない。


から阿弥陀如来は、救いの手を差し伸べる。

簡単な方法だ。

救われることを信じて、極楽浄土へ生まれ変わることを信じて、ただひたすら「南無阿弥陀仏阿弥陀如来帰依します)」と唱えればいい。

これはつまり極楽浄土行きのバスを走らせていて、

「さあ、これにお乗りなさい。之に乗れば、必ず極楽浄土へと連れて行ってあげますよ」

と呼びかけているようなものだ。

これが、親鸞の言う、

「ひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」

という意味なのだろう。


ところがこれが、難しい。

ただ楽浄土行きのバスに乗ること、乗り続けることがなぜ難しいのか?

それはなぜか? 

ゴールが見えないからだ。先を見通すことがほとんどの人には出来ないのだ。


一寸先は闇ともいう。

人々は、バスにそのまま乗り続けることに大変な不安を感じる。


バスから降りて、歩いている大勢の人に道を尋ねながら、ゴールと思われる方角へ向かう方が安心できるかもしれない。

それにバスに乗っていると、達成感が湧かない、苦しくない、だから自分で走って向かいたい、という人は案外多いのだ。

このような人々が「善人」と呼ばれる人々だ。

自分努力善行を積み、来世でより幸せになろうとする人々だ。


このような努力の結果、もちろん極楽浄土へ到達する人もいるだろう。

これが、

「善人尚もて往生をとぐ」

意味だ。

しかし往生しない人もいるに違いない。

なぜなら、自分極楽浄土へ向かおうとする人々の中には、途中で挫折する人々もいるし、道に迷う人々もいるからだ。

彼等は善人であろうとして、最後まで善人であり得なかった人々だ。


ところが、本来無駄なことをする意味はない。

自分で歩こうとか、

道をよく知らないくせに道案内を買って出るような人に道を尋ねることは、愚かなことだ。

阿弥陀仏がせっかく極楽浄土行きのバスを走らせているのだ。

ひたすら阿弥陀仏を信じて、バスに乗ればいい。

阿弥陀如来の救済を信じきり、バスに乗り続ける人間は救われる。

これが、

「況や悪人をや」

意味ではないか。


ところが、悪人が往生するのならば、善行を積む必要はなく、罪を犯してもいいではないか。

このように考え違いをする人々がいる。

だが、それは違う。


もちろん、そのような人々も阿弥陀如来はお救いになる。

極楽浄土行きのバスに乗れば救いの手を差し伸べる。

極楽浄土行きのバス乗車を断られることは決して無い。

ところが、確信犯的に罪を犯す人々は、バスに乗らないどころか、ゴールへ向かおうとすらしない人々だ。

真宗の教えを知りながら悪行を重ねる人々は、言わばバスから降りた人。

彼らが極楽浄土へ向かうことはなかろう。

無論、自分の足でゴールに向かう人々にも劣るのであって、阿弥陀如来だって救いようがない。


以上のようなイメージを持つことで、悪人正機説全体像をつかめるのではないかと思う。

2015-09-01

http://anond.hatelabo.jp/20150901133659

家系ラーメン開祖として、吉村家 の名を挙げるのが良いが、現実的家系流行らせたのは

吉村家喧嘩別れした、六角家と、近藤家こそが、現在家系ラーメンの筆頭であり、

ここから暖簾分けした店の方が多い。

2015-08-30

http://anond.hatelabo.jp/20150829231502

エロゲが当時最先端だったかどうかは個人的には判断つきませんが、テキスト文学的とかそういう意味で目新しいことをやってる作品には出会った記憶はないかなぁ。

その媒体しかできない表現をするという意味においては、ゲーム特有の「ゲームオーバーになれば繰り返しプレイする」という特性から映画小説ではやりにくいであろう「繰り返しプレイすることで、プレイヤー視点で積み上がる記憶」というのを利用した作品は数多くあるので、そういうことを捉えて最先端と言っている方がいるのではないかと予想してみる(とくに10年前らへんはそういうのが流行ったように思う)

この手法開祖的なものはおそらく「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO(1996)」らへんになってくるのかな(1997-2007位が守備範囲なので間違ってるかも)

葉鍵や型月が槍玉に上がりそうな話題時代だけど、実際のところ売り上げと最先端だったかどうかとは関係ないと思うので。

Leafに関しては「痕(1996)」なんかで上記のゲーム特有プレイヤー視点による演出をやってるので、そういう意味では新しかったのだけれど(でもそれってそれ以前に弟切草(1992)があるしなぁ)

その他にエロゲ特有の目新しい手法というと、あと記憶にあるのはLiarsoftのForest(2006)くらいのものかなぁ。

これはエロゲ特有フォーマットである下部ウィンドウに表示される文章と、それに合わせて実際に再生される音声を異なるものにする事で、ある人物が実際にしゃべっている事と内心考えている事を同時に表現するというような手法だったり、ウィンドウ幅を意識して単語の途中で改行がかからないようにするといった手法だったり、エロゲフォーマットを最大限使った表現を試みたものかと。

エロゲ(ビジュアルノベル)の枠というのは特殊フォーマットで、映像文章と音が存在していて、しかしながら字幕映画とも小説とも異なる(字幕映画にはない地の文があり、小説にない絵と音がある)という事を最大限に活かそうという、表現手法発明への挑戦みたいな事じゃないかと。(あまり文章上手くないので僕の説明だといまいち伝わらないかも/だれかこの辺綺麗に説明できる人おらんか・・・)

一部では評価されたものの、それがメインストリームであったわけでもないし、また、エロゲ支持層がこのへんの作品を取り上げて「エロゲオタク最先端だった!」と言ってるわけでも無いと思うので、本論にはそぐわない話になってしまたかも。

テキストエクストリーム試みたというよりは、エロゲ界隈のクリエイターの先鋭はエロゲフォーマット自体研究していたように思う。

欲してる内容と違ってたらゴメンとしか言いようがない(トラバミスるし)

2015-06-08

http://anond.hatelabo.jp/20150607042

前提として、衆生馬鹿なんです。なので、深い教義レベルでその時点での一般常識からエキセントリック思考の転換を論理として理解はできない。だからね、布教するときに、布教師は考えるわけです。あ、布教師っていうのは造語ですけど、要するに信者数を極大化することをミッションとしてしまった人です。で、布教師は考えるわけです。馬鹿には理屈は通らない。馬鹿にもわかる教えの偉大さってなんだ?と。そうすると、開祖教義によってもたらされる利益を説こうということになるわけです。要するに、ユーザーメリットの訴求です。あるいはインサイトへの訴求。ですが、考え方を変えることで毎日暮らしの中でやんわり心が軽くなる、程度では、競合の神様と大差ないわけですよ。従来通り古式ゆかしい神殿で古来信仰を集める神様にかしづいておけば、似たような体験はできるわけですから。そこで必要なのがインパクトです。マジそんなことありえんの?!みたいな逸話です。そやったら今年からうちの麦はそっちの神殿に納めますわと言わしめるようなのです。つまり奇跡です。そこで、今やこの世にいない教祖ですよ。なにせ布教師自身奇跡を起こせないわけですからだって人間なんだもの。そういうわけで開祖神格化が始まります。そもそもの開祖の行いに尾ひれが付き、付きまくり、えらいことになって、なり続けて、そのあげくにまとめられたら、教祖が触れたおかげで歩けなかったおっさんが歩けるようになったとか、教祖自身が死んだはずなのに数日後に生き返ってたとか、いやもうそれ神だろみたいなことになっていくわけです。そんで、衆生馬鹿から、マジかよすげーな!と、その年以降の麦をその教団に納めるようになるわけです。


要約…色々苦しんでる馬鹿衆生が、「苦しくなくなるよ、だって奇跡が起こるんだもの」と口八丁で訴求されて、それに乗っかったから。

2015-05-11

ゴールデンウィーク最後エロゲ史におけるクトゥルフ神話を語る

クトゥルフ神話に特化する形でエロゲの歴史をまとめたWebサイト存在するし、一般書籍で言えば『エロゲー文化研究概論』(宮本直毅, 2013)では一つのコラムとしてこれを取り扱っていたりする。

ただ、それらで話の主たる軸にクトゥルフ神話が用いられているか否か、という点での検討はされていても、クトゥルフ神話がそれぞれのエロゲにおいて一体どう扱われてきたのか、という点には触れられていなかったりする。

ゴールデンウィーク有意義に過ごすべく、エロゲ史においてクトゥルフ神話がどのように用いられてきたのかをちょっとまとめてみたので(そのためにちゃんと全部プレイしなおしました。実に有意義ゴールデンウィークだったと思う)、増田に垂れ流しておく。

1991年~93年

まずエロゲ史にクトゥルフ神話が登場する直前の状況から少し整理しよう。

1991年末、かの有名な「沙織事件」が発生する。ソフ倫設立される切掛として有名だけれど、同時にこれは内容に対する制約としても一時的に強い影響を及ぼした。

特に社長が逮捕されたフェアリーテールとしては一際慎重な態度にならざるを得ず、単純で直接的なエロというより、エロ以外の何らかの要素を前提とした上でエロ「も」取り入れる、というアプローチが取られることとなった。

そして『狂った果実』(フェアリーテール, 1992/5/1)が発売される。

エロより視覚的、精神的グロさを全面に押し出した傑作であり、エロゲにおける「ヤンデレ」(昨今のステレオタイプとは少し異なりサイコパス色が強いが)の開祖と言っていいものだろう。主人公精神的、社会的に追い詰め、最終的に狂気に陥れるそのシナリオ展開は多くのプレイヤーに衝撃を与え、同時にエロゲが「エロ以外の18禁的要素を主軸に据え、その過程にエロを取り込んだゲーム」としてもありうるのだ、ということを強烈に知らしめたものでもあった。

1994年

こうした中、フェアリーテールブランドを分ける形でフェアリーテールHARDCOVERを新設し、クトゥルフ神話要素を持つ世界最初エロゲであるネクロノミコン』(フェアリーテールHARDCOVER, 1994/6/24)がリリースされることになる。

物語は新聞記者である主人公が自分の先祖の秘密を探るべくインスマスへ向かい、そこで邪神復活の儀式に巻き込まれる、というもの。『インスマスの影』(H.P.Lovecraft, "The Shadow over Innsmouth", 1936)をそのまま使った内容となっている。

原作に足りない女っ気を確保するため、バーの店員や宿屋の女主人、娼館などが配されているけれど、モンスターホラーとしての側面が強く、狂気への言及は殆ど無い。

作品としては丁寧で、よくまとまっていて、つまらなくはない。ただし原作色が強いせいで原作既読者には先の展開がすべて分かってしまい、無難な内容という印象が拭いづらい。しか現実には当時のプレイヤーのほとんどは原作未読者であり、そういう点ではむしろクトゥルフ神話へ興味を持つ最初の一歩としてよく出来たアレンジだったのではないか、とも思う。

ともあれエロゲ史における最初の使われ方は、このようにモンスターホラーとしてであった。

1995年

ネクロノミコンから1年が経過し、95年に入ってから2つの作品が発売されることとなる。一つは『YES! HG』(姫屋ソフト, 1995/6/30)、そしてもう一つがかの有名な『黒の断章』(アボガドパワーズ, 1995/7/14)である

『YES! HG』はオムニバス形式となっており、その中の一編である『豪州怪奇紀行』がクトゥルフ神話要素を持つエロゲとなっている。

物語の内容は応募した覚えのないオーストラリア旅行の懸賞に当たり、彼女と一緒に参加したところ邪神の生贄にされかける、というもの

クトゥルフ神話の扱い方という点では、『ネクロノミコン』に輪をかけてモンスター色を強めたものであるディープワンやティンダロスの猟犬といった神話生物が登場するものの、一般人に化けられる、死ぬと水に溶ける、水をかけられると死ぬ、と原作設定とはかけ離れており、どちらかというとモンスター映画的な怪物を取り扱った物語であり、その怪物の名前クトゥルフから借用した、といった感もある。逆に言えば、クトゥルフ神話に関して一切知識がなくとも既存のモンスターホラーものとして理解ができる内容であり、『ネクロノミコン』では若干あったグロテスクさもない。そのためより取っ付き易い感があり、短編ながらよくまとまっていることからもっと一般ウケしていい作品と思うが……知名度は今回紹介する中ではおそらく最も低いと言えるだろう。

そして『YES! HG』に遅れること1ヶ月、自転車操業の零細新興メーカーから『黒の断章』が発売される。

あるマンションの一室で一家皆殺しの猟奇殺人事件が発生したことを端緒に、同マンションに入居していた探偵がこれを解決しようと首を突っ込み連続殺人事件に巻き込まれ、その謎を解く鍵を自分の失った記憶に見出していく、という内容である

前半は猟奇殺人事件を巡るミステリとして、そして後半に入るとラヴクラフト色が全面に現れたものとなる。下敷きにしているのは『死体蘇生ハーバートウェスト』(H.P.Lovecraft,"Herbert West-Reanimator", 1922)、そして『壁のなかの鼠』(H.P.Lovecraft,"The Rats in the Walls", 1924)である

クトゥルフ神話モノとして知らない奴はいないといえるほど有名な本作であるが、実のところモンスター要素はほとんど無い(そもそも『死体蘇生ハーバートウェスト』は邪神も神話生物も登場しない内容であるが)。しかし「黒人の神父」の熱弁の中でのさりげない「神々」という複数形、「呪い」への「ギアス」(C.A.Smith,"The Seven Geases",1934)というルビなど、作中の随所に仕込まれたこうした細かいネタは一切作中で説明されることはなく、それがわからなくて物語が理解できないようなことはないが、プレイヤーの知識へのくすぐりが実にうまい作品である

一方で、本作のシナリオの核はあくまで「家族愛である、という点への言及も必要だろう。原作へのオマージュを込めつつ独自要素を持ち込み、後日談めいた二次創作的なその内容は、単にその用語や設定を流用したものとは明らかに一線を画したクオリティを持っている(例えば不老不死にさせられた女性については、お腹にいる殺すことも生まれることもできない胎児を家族と呼びうるのか、といった辺りはSF的、倫理的に今なお考えさせられるものがある)。

ネクロノミコン』、『豪州怪奇紀行』とは異なり、本作はモンスターホラーとしてではなくクトゥルフ神話を扱った最初エロゲであると言え、また原作二次創作的側面を持たせた物語は(多少粗はあるものの)有名作の名に恥じない出来栄えである

1996年

一方で『黒の断章』においてもやはり、狂気の描写はほとんど無いに等しいものであった。

クトゥルフ神話における狂気とは、異端の知識を人間の脆弱な脳が処理しきれなくなり、破壊された状態であるクトゥルフTRPGにおけるSAN値の取り扱いもこれを示したものと言っていいだろう。

他方、92年の『狂った果実』を筆頭に狂気についてはエロゲにおいて断続的ながら取り扱われ続けていた。この時代で言えば『サークルメイト』(ボンびいボンボン!, 1994/5/13)、そしてエロゲ史上初のビジュアルノベルである『雫~しずく~』(Leaf, 1996/1/26)があげられるだろう(『for Eliseエリーゼのために~』(CRAFTWORK, 1996/12/6)もこの線では秀逸である)。

こうした作品において、狂気とはこれまであったものが破壊されるというより、境界線を踏み越えてしまった状態として扱われる。怪物の血を引いた「選ばれし者」ではない一般人である私たちも、一歩踏み出すことによって「向こう側」へと至りうるのだ、という見方でのこうした「狂気」を、ここでクトゥルフ神話における「狂気」へと接続した作品が登場することになる――『Esの方程式』(アボガドパワーズ, 1996/9/13)である

物語は蔭洲升という漁村で起きた陰惨な殺人事件の犯人が精神病院から退院したことを端緒として、その元担当医を勤めた探偵助手たる主人公が異常な自殺事件に巻き込まれていく、という物語である。『黒の断章』の続編ではあるが、前作とは独立した事件となっている。

前作同様、前半は東京での猟奇事件をめぐるミステリ、そして後半は蔭洲升が舞台となり、ラヴクラフト色が全面に押し出される。原作は『ネクロノミコン』と同じ『インスマスの影』である

これまでのクトゥルフ神話要素をもつエロゲにおいて、その猟奇殺人表現されたものや「向こう側」はグロテスクものであったし、これ以降もほとんどがそのように表現する。しかし、本作は死に至る状態/死体を「美しく」描く点で明確に異彩を放っている。

SAN値が下がる」のではなく「啓蒙が上がる」ことで見える世界が変わる(『Bloodborne』FROM SOFTWARE, 2015/3/26)ように、本作は私たちの「啓蒙を上げる」ことを目的とした作品めいた印象を受ける。もちろん四肢切断された「苦痛を伴わない」少女の視覚的な美しさであれば会田誠の『犬』があるし、特に『魍魎の匣』(京極夏彦, 1995/1/5)の影響が本作へ露骨にあることは否定しがたい。

しか踏切の赤信号アニメーション演出に始まる本作は、これをプレイすることで一歩「向こう側」へと足を踏み出しかねないことへの警告めいた不穏さを孕んだ見事なものであると私は思う。

のちの『沙耶の唄』(NitroPlus, 2003/12/26)も同様だが、美しい「向こう側」を描いた作品エロゲ史において稀なものである。ほとんど無意味登場人物など色々と欠点も多い作品ではあるが、加点法で見るなら間違いなく名作として語られる作品だろう。

1997年

さて、ここで少し時代におけるクトゥルフ神話の状況を整理しよう。

創元推理文庫の『ラヴクラフト全集』は1974年12月13日発売、クトゥルフ神話モノのパロディとしての必読書と言っていいだろう『妖神グルメ』が1984年6月30日発売であるタイタス・クロウサーガはまだ日本語訳が出版されていないが、『アーカム計画』はすでに出ている。ということで、クトゥルフ神話に関する基礎教養としての文献はすでに大体揃っていたと言っていいだろう。

だが、それを調べるためのツールはどうだろうか。

1997年とはYahooが日本で検索エンジンサービスを開始した翌年であり、Googleはまだ会社すら存在しておらず、2chもWikiepdiaも影も形もない時代である(ちなみにWikipedia日本語版の「クトゥルフ神話」の記事最初に出来たのは2003年8月)。

現在のように玉石混交とはいえググれば腐るほど情報が出てくる時代とは程遠く、なるほど情報はあるところにはあるが、そこにたどり着くことは容易なことではなかった。

そうした状況下において『マジカディープ☆ワン』(Vanilla, 1997/4/18)が発売される。様々なクトゥルフ神話上の邪神や神話生物を美少女化した初のエロゲであり(クトゥルフ女体化については80年代に先例があるとの報告がある)、モンスターも狂気もホラーも完全にオミットし、その用語や設定に対するパロディ作となっている。

問題パロディである以上、クトゥルフ神話に関する広範な教養をプレイヤーが持っていることを前提しなければならない、という点である――正直、時代を考えると無謀としかいいようがない。文字通り10年早すぎた作品であるが、のちに『斬魔大聖デモンベイン』(NitroPlus, 2003/4/25)やラノベ這いよれ!ニャル子さん』が当たったことを考えれば、その先見性はもう少し評価されてしかるべきかもしれない。

一方で同年末、邪神の名前だけを借りた作品が発売される。ALICESOFTの『アリスの館4・5・6』に収録された『アトラク=ナクア』(ALICESOFT, 1997/12/18)である

シナリオライター自身が言う通り、本作の中身は一切原作とは関係がない。ゆえに本作をクトゥルフ神話要素を持つエロゲ史の上で語るべきではないが、名作として名高い本作がクトゥルフ神話における邪神の神の名前であることもよく知られたものであることからエロゲ史上にクトゥルフ神話に対する興味を惹起する効果はそれなりにあったのではないかと思っている。無関係とはいえよく出来た作品であり、返り血を浴びた黒髪美少女に対する審美眼を――「瞳」を多くのプレイヤーに植え付けた、という意味では、これもなかなかに罪深い作品と思う。

1998年

さて、3年前に発売された史上2番目のクトゥルフ神話を用いたエロゲを発売したメーカー「姫屋ソフト」について、ここで少しまとめよう。PC-98時代のエロゲに詳しい初老のオッサンでもなければまず知らないメーカーであるが、その有するブランド名「C's ware」といえばWindows95時代のエロゲに詳しい中年のオッサンなら反応することだろう。『DESIRE』そして『EVE burst error』とエロゲ史に残る名作を有し、たまにバグまみれで起動すらしない製品をリリースすることで有名な、そんな泣く子も黙る一大メーカーであった。

そのC's wareから、『アトラク=ナクア』の一カ月後に『DIVI-DEAD』(C's ware, 1998/1/23)がリリースされる。

物語は山奥の学園に転入することになった主人公が、学園内で麻薬のように蔓延する香、見え隠れする異常行為、学園創設者一族の陰惨な過去などに触れていくうち、自分がこの学園に転入させられた目的や持病の発作の原因などが明らかになっていく、というものである

この作品は、直接的にはクトゥルフ神話要素への言及が一切無い。シナリオファイルを無理やり抽出して全テキスト確認した私は自信を持って断言できる。本当に、ない。

しかしそこで描かれる物語の設定は、ラヴクラフト小説のファンならおそらく確実にニヤつけるものである。「古い穴の底から神を呼び出す」「この地の神と契約を交わし、その血を一族の中に入れた」、そして穴が開きすぎて周辺一帯の人間が狂死したこと。

こうした神と人との関係はまさしくクトゥルフ神話――もっと言えばラヴクラフト神話における典型的なそれである

また話の筋にはほとんど関係ないにもかかわらず、焼身自殺した建築家が書いた唯一の幻想小説「はての国」への執拗ですらある言及は、作中で関わった人間がほとんど惨たらしく死んでいるという状況も併せてラヴクラフト愛読者に魔術書めいた印象を与えている。

本作に人外は登場するが、クトゥルフ的なモンスターは登場しない。しか抑制的ながらも明白な狂気、グロテスク死体などはある意味で『ネクロノミコン』時代におけるクトゥルフ神話の扱い方に忠実と言っていいものであり、具体的に名前こそ触れないものの、その確かなオマージュを感じる内容は良作と呼ぶにふさわしいものであり、その意味では『アトラク=ナクア』の対と言っていいだろう(ちなみにのちの『果てしなく青い、この空の下で…。』(TOPCAT, 2000/06/30)も同様のアプローチを採った良作である)。

1999年

そしていよいよ世紀末電波系エロゲといえば必ず名前の上がる有名作『終の空』(ケロQ, 1999/8/27)が発売される。

ある学校で一人の不良学生が屋上から転落死した三日後、いじめられていた女生徒が同じ場所から飛び降り自殺、同じくいじめられていた男子生徒の妄想が周囲の学生を巻き込み拡散し、一週間後に同じ場所から集団で飛び降り自殺に至る、という事件を何人かの視点で繰り返し読ませる物語である

正体不明の少女の口から出るナイアルラトホテプという単語、「テケリ・リ」という声など、確かにクトゥルフ神話要素における単語は使われている。

……が、本作はむしろ終末論を用いて『雫~しずく~』を正統に発展させた延長上の作品として語られるべきであり、本作をクトゥルフ神話を軸にしたものというにはちょっと無理があると考えている。

というのも、本作のシナリオにおける終盤は統合失調症の患者を模したそれとなっており、またその視界はシュルレアリスム的な絵で表現される。シュルレアリストの一部が統合失調症の患者の描く絵に魅せられたことも併せて考えれば、そこで語られる内容は言葉遊びめいた意味が通るようで通っていない単語の連結であり、その一部にクトゥルフ神話用語が用いられた、というように私は思っている。

本作はよく出来た作品であり、衒学趣味の上で意味が通りそうで通っていない文を普通に会話が成立しているかのような羅列には思わずニヤリとさせられ、その「向こう側」の表現としては明らかに過去エロゲとは一線を画したものである。が、クトゥルフ神話の扱い方という点で言うのであれば、『アトラク=ナクア』と同じくらい関係性は無い、というのが妥当なところだろう。

まとめ

正直、1994年から99年というわずか5年ですでに結構な文章量になってマジかよと。ただこうして見ると、クトゥルフ神話は結構多様な使われ方をしてきた、というのが見て取れるかと思う。モンスターホラーとしての印象が一般には強いのではないかと思うけれど、狂気の表現形態であったり、物語構造としてのそれであったりといろいろ工夫がされている。

2000年以降については余白もないのでこの記事でこれ以上深く言及する気はないけれど、『朝の来ない夜に抱かれて -ETERNAL NIGHT-』(DreamSoft, 2002/06/28)、『斬魔大聖デモンベイン』(NitroPlus, 2003/04/25)、『終末少女幻想アリスマチック』(キャラメルBOX, 2006/10/27)というのが従来に無いひとつ特徴的な筋と思う。いずれもクトゥルフ神話と熱血という組み合わせであり、好き嫌いはあろうがモンスター設定資料集としてのクトゥルフ神話がこれで普及していくように思う。ちなみにこのあたりはDreamSoftがフェアリーテールブランドキャラメルBOXが姫屋ソフトブランドであることを考えると、少し面白いものがある。

なお、この記事については間違った内容が記載されている可能性が十分にある。発売年度は一応いくつか調べた上でおそらく正しいと思われるものを記載したけれど、これももし誤りがあれば申し訳ない。

さて、最後にここまで読んだ奇特な人のために、ぜひプレイ頂きたい史上最高のクトゥルフ神話エロゲを紹介したいと思う。『人工失楽園』という(文章はここで途切れている)

2015-04-17

世界史人物概覧

世紀
前6孔子(前551儒教の祖)
孫子(前544・『孫子』著者)
前5釈迦(?・仏教開祖
ヘロドトス(前484・歴史の父)
ヒポクラテス(前460・西洋医学の父)
プラトン(前427・哲学者
前4アリストテレス(前384・万学の祖)
アレクサンドロス大王(前356・マケドニア王)
前3アルキメデス(前287・古代最大の数学者
始皇帝(前259・最初中華皇帝
劉邦(前256・漢の高祖)
ハンニバル(前247・包囲殲滅戦術確立
前2司馬遷(前139・『史記』著者)
前1カエサル(前100・ローマの終身独裁官
ウェルギリウス(前70・ローマ最大の詩人
オクタウィアヌス(前63・ローマ帝国の初代皇帝
イエス(前4・キリスト教開祖
1プトレマイオス(83・天文学者
2ガレノス(130・古代医学確立
張仲景(150・医聖)
曹操(155・三曹の一人)
3
4王羲之(303・書聖)
アウグスティヌス(354・古代最大の神学者
5アッティラ406・フン帝国の王)
6ムハンマド(570・イスラム教開祖
李靖(571・『李衛公問対』)
李世民(598・唐の第2代皇帝
7
8アブー・ムスリム(700・アッバース革命立役者
李白(701・詩仙)
杜甫(712・詩聖)
カール大帝(742・フランク王国
9
10フェルドウスィー(934・『シャー・ナーメ』著者)
イブン・ハイサム(965・光学の父)
イブン・スィーナー(980・アラビア医学を体系化)
11
12朱子1130・儒教の中興者)
サラディン1137・アイユーブ朝開祖
インノケンティウス3世1161・教皇権最盛期のローマ教皇
チンギス・ハン(1162・モンゴル帝国の初代皇帝
13トマス・アクィナス1225・『神学大全』著者)
ダンテ1265・イタリア最大の詩人
ジョット(1267・西洋絵画の父)
14羅貫中(?・『三国志演義』『水滸伝』編者』)
イブン・ハルドゥーン(1332・『歴史序説』著者)
ティムール(1336・ティムール朝建国者
ヤン・ジシュカ(1374・マスケット銃を使用)
グーテンベルク(1398・活版印刷発明者)
15ジャンヌ・ダルク(1412百年戦争聖女
コロンブス(1451・アメリカの再発見者)
ダ・ヴィンチ(1452・万能の天才
ヴァスコ・ダ・ガマ(1460・インド航路開拓者
マキャヴェッリ(1469・『君主論』著者)
ミケランジェロ(1475・芸術家
マルティン・ルター(1483・宗教改革
スレイマン1世(1494・オスマン帝国最盛期の皇帝
16エリザベス1世(1533・アルマダ海戦に勝利)
セルバンテス(1547・『ドン・キホーテ』著者)
ガリレオ(1564・科学革命の中心人物)
シェイクスピア(1564・イギリス最高の詩人劇作家
グスタフ・アドルフ(1594・三兵戦術確立
デカルト(1596・合理主義哲学の父)
17ルイ14世(1638・絶対王政最盛期の王)
ジョン・ロック(1632・イギリス経験論の父)
ニュートン(1642・科学革命の中心人物)
康熙帝(1654・清の第4代皇帝
バッハ(1685・音楽の父)
18オイラー1707・数学者
曹雪芹(1715・『紅楼夢』著者)
アダム・スミス1723・経済学の父)
カント1724・哲学者
ワシントン1732・アメリカ初代大統領
ワット1736・蒸気機関の改良)
ラボアジェ1743・近代化学の父)
モーツァルト1756・音楽家
ナポレオン1769・初代フランス皇帝
ベートーヴェン1770・音楽家
ガウス1777・数学者
クラウゼヴィッツ1780・『戦争論』著者)
スチーブンソン(1781・鉄道の父)
ファラデー(1791・電磁気学の父)
バベッジ1791・コンピュータの父)
19ダーウィン(1809・進化論提唱
ポー(1809・ミステリの父)
マルクス(1818・共産主義提唱
ヴィクトリア女王(1819・帝国主義最盛期の女王
パスツール(1822・近代細菌学の父)
ヴェルヌ(1828・SFの父)
モネ(1840・印象派の祖)
ロダン(1840・近代彫刻の父)
エジソン(1847・発明王
フォード(1863・自動車大量生産
ライト兄弟(1867・飛行機発明
アインシュタイン(1879・相対性理論を発表)
ピカソ(1881・画家
ケインズ(1883・マクロ経済学確立
グデーリアン(1888・電撃戦確立
ヒトラー(1889・ナチス指導者

2014-08-29

http://anond.hatelabo.jp/20140829093830

どういうことかというと

 

通常 天翔龍閃は 九頭龍閃を食らって初めて奥義伝承

 

最初開祖を考えてみろ、最初に天翔龍閃を思いついた人間に九頭龍閃を放った奴はいない。(なぜなら師匠がいないから

 

まり、九頭龍閃なしで天翔龍閃を思いつく奴が世の中にはいて、そいつ緋村剣心も比古清十郎も超える天才

 

そういう人間は、さっさと優秀な師匠庇護下においた方がいい。まだこどもだから簡単に潰される。

 

そいつは、古流剣術飛天御剣流を一切使えないが、 天翔龍閃だけは使えて しかも息を吸って吐くように使ってくる。

2014-08-18

http://anond.hatelabo.jp/20140818195651

ジハード - Wikipedia

必要とあらば戦わねばならない義務がある」くらいのことは言えるんじゃないの知らんけど。

まあ開祖自身歴史上でも指折りの戦術家であり征服者だしね。

はいえ、現代中東に限っては、戦争の火を付けたのは欧米でしょ。

2008-09-30

キリスト教浄土真宗

アルファルファモザイクにあったんだけど

755 おさかなくわえた名無しさん :2008/09/08(月) 11:42:35 ID:r1uAsXLp

221 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:2008/09/07(日) 01:11:17 ID:Oy8wBgQj

浄土真宗系のできかたって、いかにも日本的だと思うんだよなー。

仏教開祖のお釈迦様が、当時の日本思想エリートが導き出したこの結論を見たら

モニタに茶を噴くのは間違いないと思う。w

比叡山修行した法然。→浄土宗

ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人的謙遜)

働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちにしか役立つ可能性がない。

でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたら

おまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。

はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう」

親鸞浄土真宗

法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。

念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)

心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。

だから俺なんか結婚だってしちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ」

おまけ 一遍→時宗

「おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。

つまり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人的暴走)

だから感謝の踊りを踊ろうぜ、let's dance!」

こういうのみると、いつも思い出せなくてイライラするんだけど

ーーーーー

キリスト教の教えとと浄土真宗の「悪人正機」は通じるところがある。

キリスト教も伝来していない文明日本でこのような教えをしていたなんてありえなーい

外人がびっくりしてたよ。

ーーーーー

って書いてあった本を読んだことがあるんだよね。

キリスト教浄土真宗って通じる所あるの?

id:finalventなら教えてくれるのかしら?

2008-09-02

公明党創価学会基礎知識2008

日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。

1ページ目 【創価学会の成立と発展】

創価学会の成立と迫害

創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。

しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在日蓮正宗創価学会関係はありません)。

そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。

戦時中宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神指導者として処刑されてしまうわけです。

いずれにせよ、政治実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。

このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。

創価学会の発展

戦後民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会ナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。

戸田は敗戦後学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。

折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世折伏」を実行するよう呼び掛けます。

とほうもないように見えた計画でしたが、戸田1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。

強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本人口構造の転換に求めることができます。

農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。

そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。

学会の国政進出はじまる

こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長戸田はまず1955年統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。

これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。

2ページ目 【公明党の結党と田中派への接近】

社会的地位向上を狙った国政進出?

1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。

折しも創価学会は特に左翼革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会学会員社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。

いろいろ言われているように、戸田国立戒壇、要するに僧侶日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。

公明党誕生池田会長の就任

しかし戸田学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。

この間、会長池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。

この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さ頭角を現わすことになったのです。池田会長就任は実に32歳の時です。

そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。

こうして創価学会公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。

言論弾圧事件」と自民への接近

公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。

しかし1969年公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。

このとき活躍したのが、当時自民党幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。

自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。

さて、田中角栄は地方への「利益誘導政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。

もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派公明党学会関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。

また1972年には、竹入義勝・公明党委員長首相となった田中の依頼を受けて訪中田中訪中日中国交正常化の地ならしを行っています。

学会公明党の「政教分離

さて、「事件」でバッシングされた公明党創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙議席を半数近くまで落とします。

もちろん公明党創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。

また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。

学会共産党支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中ファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家松本清張で、彼は池田宮本顕治共産党委員長を引き合わせ、この学会共産党の「同盟」を実現させたのでした。

もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党学会なしには存在し得なかったからかもしれません。

また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。

結局、これで公明党イメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。

結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党顧問弁護士宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。

3ページ目 【自公連立への道と創価学会

公明党与党

新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。

1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。

1992 年、公明党民社党社会党議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。

また1980年代から地方議会でも公明党都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。

公明党与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄逮捕される国会議員も出てしまったといえます。

もっともこの不祥事には創価学会学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党国会勢力は1989年参院選では前回比1議席減、1990年衆院選では11議席減となっています。

公明党の連立参加と「新進党参加」

1993 年、総選挙自民党過半数割れすると、公明党は非自民・非共産連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。

その後、公明党小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員参議院議員1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。

結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。

その後、旧公明党衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在公明党誕生することになります。

公明党誕生自公連立

新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。

こうして小渕内閣(小渕首相田中派を源流)のとき、公明党自民党と本格的に連携地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上自公連立政権スタートすることになります。

そんななかで小泉政権が発足。公明党小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。

しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。

また先のページで述べた「地方:自民都心公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。

これからの創価学会公明党

微妙になりはじめた自公連立公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。

この間、創価学会会長だった池田1979年日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在会長原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌新聞などをみても明らかです。

政教分離」をした今、創価学会公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員公明党公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。

ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会壮年部長読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。

公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会公明党なしでもやっていけるが、公明党創価学会なしにはやっていけないわけですから。

さて2008年池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。

いずれにせよ現在創価学会組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。

人名について一部敬称略とさせていただきました。

参考書籍サイト

SOKAnet:創価学会公式ホームページ http://www.sokanet.jp/sg/sn/index.html

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