浄土真宗の開祖である親鸞の思想の根本に、悪人正機説というものがある。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
という言葉でそれは表されているが、この意味が、どうにもわかりにくい。
辞書的には、
他力をたのみとしない善人でさえ往生できる。ましてや、悪業に苦しみ、ひたすら他力をたのむ悪人が往生できないわけがない。
(デジタル大辞泉)
善人の何がいけないのか? 悪人がどうして往生できるのか? ひたすら他力をたのむというのはどういうことなのか?
……などなど。
最近、こういうことだというイメージがつかめたので、ここに紹介したい。
極楽浄土を、ゴールとする。
善人とは、自分の力を信じて、ゴールである極楽浄土へ向かおうとする人々だ。
道を地元の人に尋ね、一生懸命に走ってゴールへと向かう人々をイメージして欲しい。
ところが弥陀の本願は、この世のすべての衆生を救うことである。
涅槃の彼方に究極の慈悲の持ち主がいたとしたら、すべてを救いたいというのがその願いに違いない。
簡単な方法だ。
救われることを信じて、極楽浄土へ生まれ変わることを信じて、ただひたすら「南無阿弥陀仏(阿弥陀如来に帰依します)」と唱えればいい。
「さあ、これにお乗りなさい。之に乗れば、必ず極楽浄土へと連れて行ってあげますよ」
と呼びかけているようなものだ。
これが、親鸞の言う、
ところがこれが、難しい。
ただ楽浄土行きのバスに乗ること、乗り続けることがなぜ難しいのか?
それはなぜか?
ゴールが見えないからだ。先を見通すことがほとんどの人には出来ないのだ。
一寸先は闇ともいう。
バスから降りて、歩いている大勢の人に道を尋ねながら、ゴールと思われる方角へ向かう方が安心できるかもしれない。
それにバスに乗っていると、達成感が湧かない、苦しくない、だから自分で走って向かいたい、という人は案外多いのだ。
このような人々が「善人」と呼ばれる人々だ。
自分の努力で善行を積み、来世でより幸せになろうとする人々だ。
このような努力の結果、もちろん極楽浄土へ到達する人もいるだろう。
これが、
「善人尚もて往生をとぐ」
の意味だ。
しかし往生しない人もいるに違いない。
なぜなら、自分で極楽浄土へ向かおうとする人々の中には、途中で挫折する人々もいるし、道に迷う人々もいるからだ。
彼等は善人であろうとして、最後まで善人であり得なかった人々だ。
自分で歩こうとか、
道をよく知らないくせに道案内を買って出るような人に道を尋ねることは、愚かなことだ。
阿弥陀如来の救済を信じきり、バスに乗り続ける人間は救われる。
これが、
「況や悪人をや」
の意味ではないか。
ところが、悪人が往生するのならば、善行を積む必要はなく、罪を犯してもいいではないか。
このように考え違いをする人々がいる。
だが、それは違う。
もちろん、そのような人々も阿弥陀如来はお救いになる。
ところが、確信犯的に罪を犯す人々は、バスに乗らないどころか、ゴールへ向かおうとすらしない人々だ。
真宗の教えを知りながら悪行を重ねる人々は、言わばバスから降りた人。
彼らが極楽浄土へ向かうことはなかろう。
無論、自分の足でゴールに向かう人々にも劣るのであって、阿弥陀如来だって救いようがない。