ちょいと横(さっきの横とは別人物)そもそも起源のことを言えば釈迦は苦行僧の時に「別宗教の開祖に師事して」修行してるわけです。
ちょいと横(さっきの横とは別人物)
そもそも起源のことを言えば釈迦は苦行僧の時に「別宗教の開祖に師事して」修行してるわけです。
その苦行の結果、「これでは駄目なんだ」という結論になって、
別のやり方を自ら編み出したのが仏教の修行の起こりです。
とあるインドの有名な某仕事をする方がいます(あえてぼかします)。
ぼかされなくても興味がありません。
世間的に重要な仕事をする人なんだぞ、という情報はこの際には価値が無いはずです。
あなたの見方(ヨーガ?)ではそこは重要なんでしょうか。
彼は日本に訪れた際「仏閣」に訪れて一緒に三昧に入り、日本に来て一番よい日だったと語りました。彼はヒンドゥでした。しかしその後も彼は別段仏教徒に改宗したわけではありません。
彼は日本に訪れた際「仏閣」に訪れて一緒に三昧に入り、日本に来て一番よい日だったと語りました。
彼はヒンドゥでした。しかしその後も彼は別段仏教徒に改宗したわけではありません。
全てについて、彼の勝手だと思います。否定しません。
その後は周知なので別に解説しませんが、ほかの宗教の瞑想を「そこそこ」とするその意識そのものがヴィシュッダの誤った発達にあるように思われますね。
そしてもう一つ、先だって述べましたが、正しい瞑想を修したあなたのプライドはどの箇所から発されるのでしょうか?
プライドの問題ではありません。
理論が正しいか否か、効果があるかないかの話です。
より効果のある瞑想が実証されれば何のこだわりもなくそちらへ移ってみせます。
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