「悪人正機」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 悪人正機とは

2024-02-20

anond:20240220081856

唯一神信仰(悪霊がいてもイエスが全ての罪を背負うしアラーの前では怨霊はあり得ない)

さらに言えば悪人正機だな。誰でも極楽だと怨霊意味がない。

2023-07-18

anond:20230717135216

わかる。主婦(cf看護婦)ってのは人間の弱いところ、キタナイところが最終的にすべてもちこまれゴミ捨て場みたいなんだよね。

から早めに悟りきってしまう。糞掃衣?ああ、たしかにそのほうが汚せていいじゃんみたいな考え方になる。

 

一番腹が立つの悪人正機といったはずの仏様が女性は悟れないといった、という話ね。

「これ以上」悟れないだけ。あと男性女性煩悩と見なしてるだけ。

一番強いのは悟りきった女や。

しかったら痛みや不便に耐えて子供産んで育ててみろっての。

なんで飯炊きオナホ発言者おまえらかあちゃん(妻はいないだろうから)にそれをまず言えとしか

2021-04-26

anond:20210425231507

同じことで私も昔悩んだことがあるよ。私の場合金銭価格ではなく、仕事への価値観とかそういうことだったけど。

数年ぶりにあった友人・・・仕事一生懸命にやりたい自分と、サラリーマンとして無難にやっていきたい友人との間で、学生ときとはぜんぜん価値観が合わなくなっていて話ができなくなった。

吉本隆明が『悪人正機』という本の中で、同じテーマについて語っていたよ。

彼もやっぱり、幼い頃の友達に、ある程度大きくなってから会ったら全然話が通じなくなっていたって。そういう昔の友だちというのは「離ればなれに、どうしようもないくらい別々になっちゃう」って。だからそいつがいい目にあってずっと生活できていればいい、以降会うことはないかもしれないけどそれでいいんじゃないか」と考えるようになったと書いてたかな。昔の友だちとの付き合いは、解決策がない。友だち関係は、友だち関係のあった自分記憶の中にのみ残るんだ・・・って。

私もいまはそういう風に考えることにしている。昔の友人と末永くずっとつきあっていくっていうのは、本来的に難しい。でもそれは友人を大切にしないということではなくて、いまこの瞬間を大切にして、ずっとこの関係が続くということには期待しないし、昔の友だちとも昔の関係のままでいられることも期待しない。どこかで別々の人生を歩みはじめたところから、その友だちとはまったく別の価値観を歩んでいくことになるんだって

少し寂しいけれど、こうやって考えるのが一番だって最近は思っているかな。

2021-01-16

続・浄土真宗僧侶です

今一度、お付き合いいただければと思います

まずは、今回の私の投稿をお読みいただき、重ね重ねありがとうございました。まさかここまでの反響をいただくとは夢にも思わずブックマークが1000を超えた辺りから身体が震え出し、喉はからから渇き、手の痺れが止まらない体たらくで、よくも悪くも注目を集めることの重圧を初めて味わいました。お恥ずかしい限りの有り様です。

きっかけをくれた(元)増田にもありがとう

「この説法を読んだみんな (元)増田のお祖父さんのリモート葬儀に参列したようなものだ」

「(元)増田さんが勇気を出して書かなければ現れなかったご縁」

コメントしてくださった方がおられましたが、正にその通りだと思います

祖父様の生前のご希望・ご親族わだかまり元増田さんの苦慮と懊悩・私が僧侶として学び感じてきたこと……様々な縁が積み重なって因となり、この果をもたらしました。

一連の記事を読まれた方はみな、会ったことも見たこともない元増田さんのお祖父様の死を受け止め、素性も分からぬ私の法話に心を傾けてくださり、それぞれがご自分の「今」、ご自分の「これまで」と向き合った。そのような瞬間に立ち会えたこともそうですが、私がそのささやかなお手伝いができたのだとするならば、返す返すもったいないことであります

たとえ学んだ経験を持たずとも、皆様は真宗の心をよくよくご承知なのだと、喜ばしく思いました。


しかし同時に、私が一方的にご親族非難するような語り口になったことで、一部の方にご不快な思いを抱かせてしまい、本当に申し訳ありません。

元増田さんの痛みが少しでも和らげばと思い、思い悩む側に立ってお伝えしたつもりでしたが、その主張に至る論拠も背景も提示せぬまま、語調への配慮もなく投稿してしまった浅はかさ。ひいては、浄土真宗教義宗旨のものに対する誤った印象を広めかねない軽率さを、深く悔いております

身口意の三業(しんくいのさんごう:苦しみを生み出す元ともなる、身体言葉と心の在り方)を正さなければならないのは私こそだと、改めて皆様からお教えいただきました。


今回の投稿を機に、様々な声をお寄せいただきました。その中からいくつか、私が個人的にお伝えしたい、或いはどうしてもお答えしなければならないと感じた点について、一つ一つ書き綴っていきたいと考えました。

ところが、お答えしたいと感じたコメントも、それに対してお伝えしたいと考えているお話も、あまりに膨大な量になってきてしまったため、今ここでそのすべてを書き記すことはできません。

そこで、ある方からコメントでご希望をいただいたこともあって、note等の他媒体で一つずつ回答を掲載してゆく形を取れないか検討しております。今しばらくお時間とご猶予いただければ幸いです。

また、すでに書き終えた箇所については、以下に記しますので、暇つぶしがてらご一読いただきたく思います


お同行(どうぎょう:人生をよりよく生きたいと願い、共に歩む仲間たち)の皆様に、何か少しでも響けばと願って。

合掌


「本当に坊さんなのか」と仰った方に

釈迦さまがご存命の頃、覚者として名高いお釈迦さまの噂を耳にしていた方が、お釈迦さまの姿を見掛けるなり、突然敬いの態度を取られたそうです。その方に対してお釈迦さまは、

「この腐ってゆくだけの身体を見たからといって何になるでしょうか。“法”を見る者が私の姿を見るのです」

と仰せになりました。

釈迦さまという人間(物質)そのものは何も尊くなく、その姿をただ拝んだところで意味はない。仏を本当に敬う心というのは、仏からもたらされた法 (= 真実悟り・気付きへと至る教え) を深く信ぜられる心があって、初めて沸き起こるのだということです。

100人いれば100通りのもの見方が生まれます。なぜなら私たちはみな一様に、自分の都合のいいように物事ねじ曲げて捉える色眼鏡、「邪見(じゃけん)」の持ち主だからです。

信じる方もいれば、信じない方もおられるでしょう。私自身は信じられなくとも、一向に構いません。後はあなたのお好きなように受け取ってください。

信じてくださった方には、

「すなわち我が親友(しんぬ)ぞ」

とお伝えしたく思います


「彼に一時期話題になったAmazonお坊さん便についてや、オンラインお坊さん、などについても聞いてみたい」と仰った方に

法務が忙しく、自坊で取り入れることは現状難しいですが、私は賛成派です。

どんな形であっても、そこで出遇うのは人と人です。これまで仏縁をいただくはずもなかった方のお宅を訪ね、仏事作法・死生にまつわるお悩みに、私どもの信ずる教えをお伝えできる機会を賜われるとしたら、ありがたいことです。

中国善導大師も、

「もし行を学ばんと欲(おも)わば、必ず有縁(うえん)の法に藉(よ)れ」

という言葉を遺しておられます理想的はいかないまでも、それぞれに合った形で、仏法平等に一切に施されるべきなのです。


「襟を正すとは言わないのね。襟ないし」と仰った方に

これは浄土真宗の三大経典ひとつ、大無量寿経において、お釈迦さまが弟子阿難(あなん)に対して、

「汝、起(た)ちて更に衣服(えぶく)を整え、」

と、身も心も改めるよう告げられた場面に由来しております

我々僧侶は、法務に臨む上で、常にこの阿難に求められた姿勢を貫くことを責務としています


浄土真宗の寛容さは良い。そもそも修行しなくてもだれでも救われるって教えだし、坊さん自体も妻帯OK・肉食OK・髪剃らなくてOKだしな」と仰った方に

浄土真宗好意的に感じてくださって、ありがとうございます

さしたる戒律も持たない浄土真宗を“寛容”と捉えるのか、“険しい道”と捉えるのかが、俗世と求道者の大きな分かれ目となるのでしょう。

たとえば、もしもあなたが、

世間の人たちが当たり前にしてることをあなたもしていいよ、それであなたも仏になれるよ」

と言われたとして、あなたはその言葉をどれほど信じられますか?

その通りにして生きていったとして、世間の人から口々に

あんたのところの宗派は楽でいいよなあ」

「他の宗派みたいに滝に打たれたりとか山籠りとかそれっぽい修行しないんですか?(笑)

「何なのその髪の毛? ありがたみが足りないね

「お寺の息子ってボンボンだよね。坊主丸儲けって言うし」

「お坊さんも肉食ったりセックスオナニーするんすかwww

と好き放題になじられ続けて、それでも自分は間違いなく仏になれるのだと、あなたは胸を張って言い切れますか?

我々の求道の在り方は、甘えでも寛容さでもなく、「覚悟」です。

世間は常に、自分たちで勝手に作り出した意味もない物差しに、自分たちで勝手に縛り付け合ってああでもないこうでもないと罵り合い、争い合っています。そんな人々の下世話な好奇の目や嘲りにも耐えて、たとえ自力聖道門尊いお坊様のような修行は積めずとも、ごく普通人間と変わらぬ平凡な生活を営みながら、それでも間違いなく仏になれるのだと、己が第一に身をもって証明していく勇気を見せなければならないのが浄土真宗僧侶なのです。

開祖である親鸞さまはそのご覚悟

「僧にあらず俗にあらず」

という言葉で表され、また

人倫(じんりん)の嘲(あざけ)りを恥じず」

と仰せになり、決して退くことのない浄土への道をひたすらに歩まれたお方でした。

であればこそ、親鸞さまに救われた私もまた、親鸞さまと同じ生き方を願い、その道を皆様と共に歩みたいと思うのです。

「徳の高い坊さんだ」、「ありがたい」と仰った方に

ありがとうございますしかし、現実の私はそのような人間ではありません。何しろ私は、この教えに出遇わなければ死を選ぶしかなかったほど、弱く、もろく、そして愚かなためです。

もしもあなたが私の書き込みに何らかの功徳を感じてくださったのだとして、ではその功徳をもたらしてくれたのは誰で、どこからきたものなのでしょうか。命を断つしか選択のなかった、世間人間社会を呪うしかなかった私のこの頭から、口から、心から、仏の教えがこぼれ出てくるという不可思議現象は、なぜ起きたのでしょうか。

今回の場合は、すでに冒頭で述べた通りです。私が言わんとするところはつまり私自身が尊いのではなく、私のような者に教えを語らせた諸々のはたらき、「わたし」と「あなた」の間に結び付きを与えてくださる種々のはたらきが尊いのです。

すべては響き合い作用し合い、そして悲しみやよろこびを生み出しています

私はできるだけ悲しみを減らすお手伝いをし、できるだけよろこびを増やすことを務めとして生きてゆきたい。そう願っています

「小慈小悲もなき身にて 有情利益(うじょうりやく)は思うまじ」

と、開祖である親鸞さまが仰せになったように、煩悩具足(ぼんのうぐそく:煩悩に満ちた状態)の凡夫(ぼんぶ:弱く無力で自力で悟れない愚かな存在)の身には出過ぎた願いではありますが、様々な縁によって助けられ支えられ励まされ慰められ育てられて生きてこられた、その力だけは、私には絶対事実です。私は私以外からもたらされた力を一心に信じさせていただき今日まで生かされております。この歓喜慚愧の念に頭が下がり手が合わさる心を、他力本願といいます

真に功徳に満ちているのは、真にありがたいのは、私たちに「あなたが救われて欲しい」と種々にはたらきかけてくださる、阿弥陀如来さまであります南無阿弥陀仏

「どこまで書いて消えてしまったのかを思うと心が痛むほど丁寧でわかりやす文章」と仰った方に

件の投稿よりももっと長く書き綴っていた文章が、残り数行というところでうっかりページバックボタンに触れてしまい、全消失しました。あまりのショックにじたばたと暴れ、ウワー!と叫びました。

「諸行は無常、こんな記事を書いたところで誰が読むでもなし、諦めて他のことをしよう」

と思って立ち上がった途端、リングコンを握り締めながら涙をこぼしている増田さんの姿が脳裏に浮かび、いやこれでは駄目だ、多少は簡素になってもいいからお伝えしよう、と踏みとどまりました。

結果、この拙文によって一部の方を戸惑わせたり憤らせもしてしまいましたが、多くの喜びの声を受けて、私が信じてきた教え、私に教えを授けてくださった諸仏と数多のご先達が、私に微笑みかけてくださるような感慨に胸が熱くなりました。本当にありがとうございます。至らぬところも多く、本当にごめんなさい。南無阿弥陀仏


(以下、今後回答を予定しているコメントをお載せします)

「今のコロナの状況を浄土真宗的にどうお考えか、また、どう乗り越えていけばいいか
無関係な私まで救われた気がする」、「心が洗われた」
「妻の初めての命日は、2月2日です。その日のまえに、このようなものが読めるとは」
「去年亡くなった母の遺影写真なくて父のガラケーで撮った低画質のをスマホアプリで綺麗にして使ったの。ずっと申し訳なく思ってたけどコレ読んだらそう悪くも無いのかな。父は喜んだし、何より良い笑顔だったんよ」
「(まずは他者よりも、わたし自身が目を開き、耳を傾け、心を開かなければなりません)…刺さる言葉だけどなかなかこれが出来ない。モノサシが異なると心を開く事が譲歩に見られてしまう。それも飲み込むべきなのかな」
葬式の時にこういうありがたい話を聞いて身が引き締まるのだが、翌日にはもうおっぱいのこと考えてしま自分がいる」
「“そういう態度や振る舞いしかできないだけの縁”。興味深い価値観だ。こう言う時に遺言として望むべき振る舞いについて残してあげるのが去りゆくものの置き土産なのかもしれない。身近な人たちに優しくありたいな」
親族に対してどうしてそこまで偉そうに断罪できるのか分からない(大意)」
「死者の本当の想いとやらを都合良く説きすぎ」、「どうして祖父気持ちを代弁できるのか(大意)」
「“縁なき衆生”も救われるのが浄土真宗じゃないのか」、「凡夫の救済である悪人正機みたいのもあるけどどう折り合いつくんだろ」
自分葬式なんてどうでもいい」、「葬式要らない。やるだけ無駄
仏教においては死んで仏弟子となった者の魂は阿弥陀如来浄土へ既に導いたので、葬式というのはただ遺族を慰めるためにやるものなんだよな。だから遺族の気が済めばそれでよい」
檀家がお寺の建て替え費用負担する仏教の教えを教えてください」

現時点では、以上のコメントについて、今後時間をかけて回答したく思います

準備ができ次第、こちらの投稿言及する形で戻って参りますゆえ、今しばしお待ちください。


最後になりましたが、皆様とこのような法縁に恵まれきっかけを与えてくださった元増田さんを始め、すべての方のお命とお心に、敬い申し上げます

南無阿弥陀仏

2020-05-23

どうせ悪人なんだからかいって開き直る悪人正機の曲解を平然とかましていた頃から何も成長がないんだな人類

悪人正機

批判」と「罵詈雑言」と「誹謗中傷」、区分けできるかスペクトル

ワイドショーで私には罵詈雑言しか思えない発言批判としてメディアは書く

誹謗中傷はいけないという反差別人間モテない人間や賢くない人間気持ち悪いと感じた人間に平気で罵詈雑言を吐く

マイノリティを利用してSNS詭弁ダブスタを弄していく「正しくて意識が高い」リベラルな人たち

今日の亡くなった人とラブドールの話はつながってみえ

2019-01-23

anond:20190123165256

そろそろポリコレを遵守できない弱者こそ尊いのだというポリコレ悪人正機が出てきてほしい

2018-09-23

オウムのポア=悪人正機だろに何で発生源を叩かない

anond:20180714155958

弱小団体オウムを選んで叩くのがいやらしい

2017-10-06

anond:20171006121729

修行の段階が長くて大変だってことじゃない?

男性が捨てるもの女性が捨てるものだったら女性が捨てるもののほうがいっぱいある。

悪人正機みたいな話だな。

2008-10-01

http://anond.hatelabo.jp/20081001001643

キリスト教の救済
イエス・キリストアダム以来延々と続く人類の罪を一身に背負って十字架にかけられたことで、人類の罪は贖罪されたのだと考える。イエス・キリストを信じる、というのは、要するにイエス人類の罪を贖罪したのだということを信じるということ。イエスを信じることによって、その人の罪もイエスによって贖われることになるので、死して後、最後の審判のときが来ても、地獄に落とされずに済むかもしれない。
阿弥陀浄土教)の救済
昔現世にいた王様が誓願を立てて修行したのちにブッダ如来)となったのが阿弥陀如来。で、阿弥陀如来はその誓願において自分に帰依する者は残らず西方浄土に導いて成仏の道を歩ませよう、と誓った。この阿弥陀如来への帰依を表すのが「南無阿弥陀仏」という念仏で、法然の場合はとにかく念仏を唱えれば浄土へ行けるのだ、という手軽さが衆生にウケた。親鸞はそこからさらに先に進んで、阿弥陀仏による絶対他力への信仰という形をとる。いたずらな・中途半端な自力本願は阿弥陀仏への帰依の邪魔となるだけなので、戒律すらも構うことなく、阿弥陀仏へのひたすらの帰依を行うことこそが救いなのだとした。さかしらな善人面をした修行者よりも、自らの性根が悪であることを自覚した「悪人」のほうが、かえって浄土への道は近い、としたのが浄土真宗の「悪人正機」。

こうやってまとめてみると、キリスト教=罪と贖罪思想仏教=苦(一切皆苦)と涅槃思想、というように分けられるかもしれない。

付記:

 悪いことをする→「それはあなたの罪になるよ」というのがキリスト教

 悪いことをする→「だからあなたは苦しい(苦しむ)んだよ」というのが仏教

 良いことをする→「神の意志に沿った行いをしているよ」というのがキリスト教

 良いことをする→「だからあなたは嬉しい(楽しい)気持ちなんだよ」というのが仏教

http://anond.hatelabo.jp/20080930051743

解説ありがとう

なんとなく前の日記書いててそんな感じしたんだけど「悪人正機」のところがよくわからないんですよね〜

最終弁当さんなら・・・

2008-09-30

キリスト教浄土真宗

アルファルファモザイクにあったんだけど

755 おさかなくわえた名無しさん :2008/09/08(月) 11:42:35 ID:r1uAsXLp

221 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:2008/09/07(日) 01:11:17 ID:Oy8wBgQj

浄土真宗系のできかたって、いかにも日本的だと思うんだよなー。

仏教開祖のお釈迦様が、当時の日本思想エリートが導き出したこの結論を見たら

モニタに茶を噴くのは間違いないと思う。w

比叡山修行した法然。→浄土宗

ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人的謙遜)

働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちにしか役立つ可能性がない。

でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたら

おまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。

はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう」

親鸞浄土真宗

法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。

念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)

心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。

だから俺なんか結婚だってしちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ」

おまけ 一遍→時宗

「おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。

つまり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人的暴走)

だから感謝の踊りを踊ろうぜ、let's dance!」

こういうのみると、いつも思い出せなくてイライラするんだけど

ーーーーー

キリスト教の教えとと浄土真宗の「悪人正機」は通じるところがある。

キリスト教も伝来していない文明日本でこのような教えをしていたなんてありえなーい

外人がびっくりしてたよ。

ーーーーー

って書いてあった本を読んだことがあるんだよね。

キリスト教浄土真宗って通じる所あるの?

id:finalventなら教えてくれるのかしら?

2008-08-22

http://anond.hatelabo.jp/20080822072642

エホバの証人には「悪人正機」みたいな考えってないの?

あるっちゃあるし、ないっちゃない、のかな。

参考リンク張っておく。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1505325.html

http://anond.hatelabo.jp/20080724144120

どちらも悪や罪があって、それを神や仏が救ってくださる、という大枠では近い。

ただ、エホバの証人では救われない自由もあるよ、と。

この背景にあるのは、神と言うのが全知全能で、救うも救わないも意のままだけれど、個人の意思を尊重するよ、といったところか。

対して、浄土真宗では、あまねく人々は阿弥陀仏他力本願で救われるわけだけど、そこには「救われたくない」という発想自体がない。

いや、発想がないというより、「救われたい」などと真に思わないのは悟りを開いた状態であり、そうでない人々を救うのが「いはんや悪人をや」であり悪人正機なわけで。

そういう意味では、エホバの証人の言うところも、原罪を持つ全人類が救いの対象なので、そういう意味では悪人正機的だけれど、しかし、聖書的な真実を知った上で、悪魔の誘惑による原罪を悔い改める、すなわち「汝姦淫を犯すなかれ」といった教えに従わず、悪魔の誘惑に乗る事が、個人の選択として尊重されてしまう。

これは、元々なかった原罪を、悪魔の誘惑に乗るという選択により発生させたという考えからくるのだろう。しかし、悪人正機は、元々人々は煩悩を持ち悪人であるがゆえに救われたいと思う人々は他力本願に報恩謝徳し救われる、という選択などない前提の下にある。

つまり、他力本願がないゆえに、であろうと思う。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん