はてなキーワード: 喜劇とは
教えてください!
アニメの『茄子 アンダルシアの夏』を観て、その後原作を読みました。
なんとも言えない哀愁というか、不条理感が凄くグッときました。
黒田硫黄さんははじめて読みましたが、
おすすめがあれば知りたいです。
追記
トラバ&ブコメくださった皆様ありがとうございます!
どれも読みたい!必ずチェックしますね!
どこが良いと思ったのか・・言葉にするのが難しいのですが、
ペーソスっていうんでしょうか?そういう感じが漂っていて好きです。
あとは、たぶんこのまんがの特色だと思うんですが、
ごはんを作ったり食べたりする様子とか、
こういう作品を好んでいる人は、他にどんなまんがを読んでいるんだろう?と気になったので、
質問させてもらいました!
優秀な女性が社会進出すればするほど男の市場的価値は相対的かつ全体的に下がる。
底辺層はもちろん結婚できないしできたとしても頭の悪い女としか一緒になれない。
普通以下の男性は結婚後に要求される経済力を満たせない&同じクラスの女性には見向きもされない。
なぜなら普通以下の女性にとって同ランクの男性はゴール対象にならないからである。
優秀な女性は優秀な女性で、同レベル以上の年収と性格の良い男性を求めるが、そんなものは存在しない。
(高年収で仕事できるのに自分より年収低い女性が主導権を握っても平気な男性?そんなものは存在しない。恋愛のタイミングも逃してるでしょ。)
そもそも優秀な男性にとって必要な女性は年収の高い女性ではない。
優秀な女性は優秀な男性を求めるが、優秀な男性は優秀な女性を求めていないから結婚できない。
普通以下の女性は優秀な男性を求めるが、優秀な男性は数が少ない。この層が一番婚活が盛んなシンデレラ。
それは、昔ならば女性を年収で選ぶような真似をしなかったから経済力がなくても
普通以下女性の層が婚活で頑張りオゾン層を形成してしまったために、
その結果、結婚後の家庭の経済能力は普通以下×2の値が必要に迫られる時代になった。
そのため女性が普通以下の男性をゴール設定することができなくなってしまったのだ。
その結果、女性にとって自分の現在の生活水準を維持してくれる男性は、
高年収の男性というごく僅かな人間に限られてしまったというわけだ。
自分自身たちの運動で極度なアッパー調整をくらい、結局そこに多くの者たちが無事にたどり着けず、
あげくは全て男のせいにしていく様は何と悲劇的、いや喜劇なのだろうか!
つまりは男しか社会進出も企業戦士も許されなかった時代というのは、
常に女性にとって男性が永久就職というゴール対象として穏やかにかつ平等に設定されていたということだ。
勿論DVされても離婚できないなどの問題もあったかもしれないが、
それは現代でもよくあることだしそのおかげでDVが減ったという報告もない。
DVはする男性の素質のようなものなのだからDVの発生自体は止めようがない。結婚する前に気づけ。
とにかくDVと引き換えに平等なゴールを捨てたのだ。なんという男気溢れる開放戦士たち。
このような状況をみてもまだまだ衰えることを知らないフェミニストという皮を被った反知性主義たちは
これからも女性を真の不幸に陥れるために日夜問わず戦い続けるであろう。
戦え!開放戦士たち!
1人でも多くの女性を
貧困に落とすために…!
~Fin~
告白を受け入れてくれた=自分を好きになってくれたっていう勘違いからくる悲劇。いや喜劇。
今回のケースだと、告白した側、つまりお前がそうやっていろいろ努力するのは当たり前。
で、その努力に、多忙な彼女をそれでも受け入れるという努力があることに気づけ。
そもそもそんな彼女もひっくるめて好きだから告白したんじゃねーのかよ?
同棲なり結婚した後でも自分の思い通りにならなかったからといって相手を責めるタイプだろお前。
恋愛でもなんでもそうだけど、相手を変えようとすんな。
相手をそのまま受け入れろ。
それができないなら付き合うな。
合わなかったってことだ。
自分の思い通りにしたいとかはお前の思い上がりも甚だしい。
一個の人間を何だと思ってやがる。
お前みたいなのをモラハラ予備軍って言うんだよ。
欧米の古典を読んでいると、ギリシャ・ローマ時代の偉人の格言の引用に頻繁に出会う。
先日読んでいた本で引用されていたのが、
"et nihil humanum"
という言葉で、紀元前2世紀のローマのテレンティウスが書いた喜劇の冒頭の一節だそうだ。
「エット・ニヒル・フムマム……人間的なことはどんなことでも自分とは無縁ではない」
という意味だという。
つまり、酒を呑むことも恋をすることも、他人を羨ましく思うことも誰かを助けてやりたいと思うことも、
すべてひっくるめて人間の行為であり、それは自分とは無縁のことだとは思ってはならないという、
この言葉は、ヒューマニズム=人間主義のモットーとして欧米でよく知られているという。
「つまづいたって
いいじゃ
ないか
にんげんだ
もの」
相田みつをのこの言葉も、近年よく日本人が引用するようになった。
そこに、一時期もてはやされた相田みつをのこの詩が日本流のヒューマニズムのモットーとして
利用されるようになった機縁がある。
西洋から移植されたヒューマニズムが日本人の中に根付き、そこに相田みつをの言葉がピッタリとはまるようになったのだろう。
彼等の根っこには、ギリシャとローマという、合理主義的で民主主義的な、今の時代を覆う思想の花開いた文明がある。
だから深みがあり、強い。
それに対して、日本人、いや、韓国人も中国人もベトナム人も、王による独裁的な支配を当然とする思想を
二千年間信奉してきたために、近代までの思想に、現代の思想に利用できるものが少ない。
よって深みがなく皮相的だ。
もちろん今でも良く腹を壊す。深夜に泥酔してラーメンを食した翌朝など酷いものである。どのぐらい酷いかと言えば、ここに書けないほど酷い。
小学生の時分は、なぜか「大の方のトイレに入ると自動的にコミュニティの晒し者にされる」という厳格なしきたりがあり、大きな方をぶりぶりっと出していると、トイレの壁をよじ上って誰かしらが覗いて来たり、偉大なるウンコマンの誕生、登場を大勢で迎える。というのが流行していた。
もちろん、俺もその偉大なるウンコマンとして降臨したこともあれば、尊大なるウンコマンを迎えたこともある。
やがて中学生になり、異性への興味が花開く年頃になると、さすがに男子のウンコマンへ対する興味、情熱も薄れていくのだが、今度は授業中に腹が痛くなってしまった場合、好きな異性の目の前で「ちょっとトイレに……」と手を挙げて行くのが恥ずかしいという、なんだか今の日本人が忘れてしまった、恥じらいにも似た初々しい事態に直面するのであった。
そう言えば、中学の教師に「ウンコに行きたい」というと「あと10分で終わるから待てないのか」と言われた記憶があるが、そもそもウンコを我慢出来ないからわざわざ手を挙げているわけで、終業まで待てる奴が「ウンコしまーす!」と手を挙げるわけが無いのである。思い出したら腹が痛くなって来た。
そうした甘酸っぱい春色の青春も終わりを迎え、受験の後、俺は男子校に入学するわけであるが、男子校と言えばもともと肥溜めみたいな場所であるので、つまりはウンコみたいなものである。
休み時間、授業中に関わらず、勝ってくるぞと勇ましく、大手を振りながらウンコをできる環境に「これが大人ってやつか」としみじみ感じ入ったものである。
そんな糞まみれのうんこく時代を過ごした高校生活であるが、友達も居たし、彼女も居たし、いつでも気兼ねなく脱糞出来る余裕からか、胃腸の様子も少しは良かったように思える。
そして高校を無事にノー漏れで卒業し、死にたいくらいに憧れた華の都大東京に上京することとなる。
3年ぶりに女性と同じ屋根の下で学ぶことになった専門学校であるが、もはや18年毎日行われた胃腸との対峙、対決の結果により向かうところ敵なしとなっていた俺に死角は無かった。
ただ、死角は無かったと言っても、腹は痛くなるので、この頃より将来の夢は「家で出来る仕事」となる。
また、このぐらいの年になると、車に乗って何処かへ行ったりと、遠出をすることが多くなるが、その時は、さすがの玄人である俺もかなり困った。電車のようにその駅ごとにトイレがあるわけでは無い。
冷静に自分の腹具合と相談しなければ、腹腹時計が爆発し、車中脱糞という壮大な悲劇と、ちょっとした喜劇が待ち構えている。
そんな時には、気管支炎喘息の症状を活かして多目にもらっておいた、リン酸コデインが役に立った。
この鎮咳剤は、基本的には咳を鎮めるためのものであるが、もうひとつの作用として、下痢止めがある。医者に処方される際に「便秘になる作用もあります」と言って処方されることの多いこのリン酸コデインであるが、正露丸も効かないロシア以上の胃腸を所持する俺に効く唯一の下痢止めと言っても過言ではない。
正確には、万年下痢なので、コデインを飲むと、その便秘の作用と相まってなぜか丁度良い状態になる。という素晴らしい効果なのである。ウィリアム・バロウズの小説に出てくることもポイントが高い。
閑話休題。
そうこうするうちに、あっという間に30歳を過ぎた。
ということは、もうこの胃腸との付き合いは30年を超えるわけであり、30年も毎日己の胃腸と向き合っていれば、それはもう健康問題どうこうというよりはもう「道」すなわち「タオ」である。
脂っこいものを食せば下痢になる。これはもう宇宙自然の普遍的法則、そして根源的実在であり、衆目の前で漏らして迷惑をかけないというのは、道徳的な規範はもとより、美や真実の根源なのである。
30を過ぎた頃から「屁だと思ったら実だった」というちょっとした逆転現象が起きることが多くなって来たように思える。
ベテランだと思っていたウンコ我慢道も、まだまだ知らないことばかりである。
頑張って生きていこうと思う。
もちろんフェミニズムと新自由主義という思想は非常に親和性が高く、互いが互いの考えに片足ずつ突っ込んでるという感じで切っても切り離せないのは周知の事実ではある。
しかし、決定的に相容れない部分があるのもまた事実。新自由主義というのを単純化して少々乱暴にいえば弱肉強食の理論なわけで、性差別の撤廃や男女同権をかかげるフェミニズムとは目指すべき世界観が理想郷が根本で違っている。
新自由主義者たちが推し進めた既得権益の打破、抜本的改革、岩盤規制の破壊、構造改革、民営化、規制緩和、国家戦略特区、道州制、小泉フィーバー、自民党をぶっ壊す、これらの政策にフェミニズムは利用された。女性の社会進出、男性社会の破壊。確かにフェミニストの掲げる目標の一部分は達成したのかもしれない。
みんなで貧乏になれば平等という話だ。世の中のイケメンを全員抹殺すれば相対的に顔面偏差値が上がってハーレムなのにと、妄言を吐くもてない男の与太話と大差ないが、それがまかり通るのが平成である。
あの竹中先生もおっしゃっていた。日本の最大の既得権益は正規労働者だと。彼ら正社員は非正規から搾取している悪人だと、だから全員非正規にすればみんなハッピーで世の中うまくいくとかなんとか。
真の狙いは不明だが、もしかしたら1%の金持ちに批判がいかないように正社員と非正規の対立を煽っているのかもしれない? もしそうだとしたらとんでもない策士であり。陰謀である。パソナの陰謀でしかない。
そんな巨悪があるかないか知ったことではないが、俺としては日本中の俺より幸せな人間が不幸になることを止める理由がないので、構造改革も規制緩和もどんどんすすめてくれてかまわない。みんなで不幸になろう。この日本という泥舟にのって、夜の国道を無灯火で爆走し、赤信号をわたりまくるのだ。
しかし、弱者男性とか言うゾンビよりも厄介で醜い死んでるのか生きてるのかわからない、燃えるゴミと燃えないゴミの間に生まれたような人間たちがフェミニスト連中を攻撃しているのは喜劇としかいえない。
たしかにフェミニストと聞くと三角めがねをかけて語尾がざますで田島なんたらみたいなのを想像しまいがちではあり、あのような人間なら傷口に塩を練りこんで、永眠する呪いのをかけたくなる気持ちが理解できなくもない。
が、それは罠だ。だれが仕掛けたかはしらん。しかし間違いなく弱者男性とフェミニストが対立しているのを見て爆笑しているやつがいる。弱者を生み出した黒幕が囁いているのだ。女を叩けと公務員を叩けと正社員を叩けと若者を年寄りを、地方を叩けと。
そんな黒幕が本当にいるのかは知らん。しかし弱者を生み出したのはフェミニズムなんていう軟弱で被害者面した奴らの思想ではない。弱者を追い詰めるのはいつだって強者の理論に決まっている。
そもそもこの新自由主義的政策を行ってきた政党が保守政党を名乗る自民党だということを考えてくれ。
ネオリベは保守と手を組みフェミニズムとも手を組み、巧みに姿かたちを変え、鵺のような立ち振る舞いであらゆる人間あらゆるす思想を取り込み吸収していく、よく乾いたスポンジのように。どんな考えを取り入れても新自由主義は歪まない、曲がらない、へこまない。矛盾を起こさない。きっちり辻褄を合わせてみせる、合わせたように振舞える。どんな角度から批判されても、するりとかわしてみせる、それはしなやかな柳をを連想させる。柔軟である。どんな相容れない存在も許容し、あるいはこちら側の色に染めるのだ。
そんな詐欺師のような理論は世界中であらゆる政治的な場面で大活躍だ。八面六臂とはこのことか。
まさに最強の理論。弱肉強食の理論こそが、この複雑な世界をもっともシンプルで、なんの矛盾も間違いもなく見渡せるのだ。誰だって弱肉強食を否定できない。
多面的なあらゆる関係性のなかに生きている俺らが一番最初に気づく真理がこれだ。
これに一枚かまない理由はない。俺もこの理不尽なゼロサムゲームに勝ちのころるために、弱者どもを言葉巧みに操り、被害者のふりをしながら一人ひとり地獄へ突き落としてやろう、そうしよう。
強者に媚びへつらい寄生し弱者からは搾取する。現実をとことんネガティブに捉えれば所詮こんなもんなのだ。開き直って詐欺師にでもなったほうが美味しい飯を食いながら人の不幸でおかわり三杯はいけるだろう。
右翼も左翼も利用して、男と女を対立させ、若者と年寄りを対立させ、日本人と外国人を対立させ、不毛な殴り合いを遥か高みから見下ろすのだ。膝に猫を抱えながら。
そしてどの勢力にも関わり、裏から扇動し、洗脳する。しかしどいつも俺らを批判できない。なぜならどいつもこいつも新自由主義に片足、いや両足つっこんでいるのだから。
フェミニストと新自由主義者が目指す理想郷はまったくの別世界であるが、これからもフェミニズムは利用され。新自由主義のピエロ、もしくはパンダとして消費されるだろう。
安部首相のいう女性の活用とかいう政策はまさにフェミニストと新自由主義者のねじれが引き起こした暗黒面だ。女も男も幸せにならないのだろう。いい気味である。
うんこを漏らした話ではない。うんこした話だ。より詳しく言えば、空港でうんこして、飛行機に乗りそびれた話である。
私は単身赴任しているおっさんである。この週末は自宅に戻り、愛する妻子と過ごした。
月曜日から憂鬱な仕事に戻るべく、空港に着いた。勤務地への最終便に間に合う時間ではあった。トランクを預け、搭乗手続きも済ませ、搭乗ゲートへと向かった。
国内便であり、搭乗ゲートには十分前につけばいい。まだ二十分の余裕がある。
ふと、うんこをしたくなった。我慢しようと思えばできなくはない。しかし、機内で激しく便意をもよおす可能性がないとはいえない、そんな感じの腹の具合だ。
私はうんこをしようと決意した。機内の狭いトイレで大きい用事をすませたくないという気持ちがそうさせた。
もちろん、機内でうんこは可能だ。しかし、考えてもみたまえ。乱気流に巻き込まれたらどうするのだ。糞尿まみれになるかもしれない。それならまだいい。頭のうちどころが悪ければ、ズボンを下げ、局部をさらした、糞尿にまみれたおっさんの死体のできあがりである。
ピカソのゲルニカには、両手をあげて死んでいく男が描かれている。私の記憶が正しければ、彼は便所で焼け死んだのだとピカソは説明していたはずだ。便所の火事すなわちヤケクソなどとくだらない冗談を思い起こすまでもなく、本人にとっての悲劇は他人にとっての喜劇でしかない。私は上空一万フィートで喜劇の主人公になりたくはなかった。
搭乗ゲート近くのトイレで、私は個室にこもった。思ったより順調にうんこは出てくる。しかし、うんこの排出はなかなか止まない。スマホの時計を見ると、搭乗ゲート十分前のタイムリミットが迫ってくる。
トイレを飛び出し、ゲートへと向かうところで、航空会社のスタッフに呼び止められた。私の名前を確認している。
お客様、まことに申し訳ありませんが、搭乗ゲートは先ほど締め切りました。
出発まであと七分。ああ、あと三分早ければ、私は飛行機に乗れたのだろうか。
何度かアナウンスでお呼びしたのですが。
残念ながら、そのアナウンスは個室では聞こえなかった。あるいは、私がうんこに集中するあまり、聞き逃したのかもしれない。いずれにせよ、スタッフのせいではない。うんこのせいだ。
翌朝の始発に振り替えてもらい、妻に電話した。彼女の反応は「はあ?」というものだった。当然だ。私はトイレにこもっていた旨を説明した。「下痢したの?」と妻。「うん、まあ」と私は答えた。本当は喜劇の可能性を避けたかっただけなのだが、説明のしようがない。
上司にも電話した。社畜しかいない会社だと、たとえ日曜日でもスムーズに連絡がつく。事情を説明すると、失笑していた。当然だ。私は明朝一番の便で戻り、朝の九時には着座する旨を説明した。上司は、いくらか憐れみを帯びた、しかしどこか朗らかな口調で了承した(それは、カフカ「変身」の最後のパラグラフに似た明るさだった)。
私は今、自宅へと戻るバスの中にいる。この話が悲劇なのか、喜劇なのか、よくわからない。おそらくは、喜劇的色彩をまとっていることだろう。それもどうでもいいことだ。
私が伝えたいのは次の事実だ。搭乗時間二十分前にトイレに行くと、飛行機に乗れなくなることもある、ということだ。もちろん、うんこの出る具合(速度、量など)や機内の個室を忌避する精神的傾向など様々な要素もからんでくるのだが。あなたがこれを教訓とするも、暇つぶしの笑い話とするも、どうぞご自由に。
東大生協やその他旧帝の生協でラノベが売れまくってることを知らないんだろうか。ラノベはいまや高学歴のたしなみなんだよ。というのもラノベはおもしろくて多読ができるため、ラノベを大量に読むひとは必然的に速読ができるようになって、そして国語の成績があがるわけ。
ラノベだからといって内容が極端に簡単で幼稚だというわけではなく、ちょっとキャラがアニメちっくなだけでストーリーはそこらの大衆文学と全然変わらない。むしろそこらへんのくだらない一般向けの大衆文学よりも上を行ってるものもたくさんある。アイディアとしてはラノベのネタは結構おもしろいことが多い。
もちろん『重力の虹』とか『失われた時を求めて』とか『アーダ』とか『特性のない男』を原書で楽しむような層から見ればラノベは簡単すぎてつまらないのだろうけれど、それをいってしまえばラノベだけじゃなくそのへんの小説すべてがくだらないわけでね。
ラノベを馬鹿にしてるやつらは自爆してると思うよ。ラノベ馬鹿にしてて東野圭吾が好きだとか、百田尚樹が好きだとか、辻村深月が好きだとか米澤穂信が好きだとか……。いや、そこでさ、クロード・シモンが好きですとか、サミュエル・ベケットが好きですとか、カフカが好きですとか、ブッツァーティが好きですとか、人間喜劇読みまくりましたとか、ヨクナパトーファ・サーガにはまりました、とかそういうのならまあわかるんだけどね、そういうひとは見たことがない。要するにラノベ馬鹿にしてるやつらというのは世界のレベルを知らないんじゃないかなと思う。だからくだらない大衆文学がすばらしい文学のように見えてしまっている。もちろん彼らは日本が誇る天才・大江健三郎だって読んだことがない。読んでほしい。でも受け入れられないかもね。いままでの自分を否定することになるから。やれやれ。
こういうネットの内輪ノリのネタを消費する際の鉄板ルールは「金を稼がない」ことです。
淫夢系のネタを使った同人活動はグレーゾーンですが、企業として大々的に商売するとか論外です。
運営のみならず、雇われた絵師の方々にも責任があります。仕事内容を「あっ これあかんやつや」と察することのできるセンスと嗅覚は仕事をする上ですごく大事です。長期に渡る社会的信用を失い、今後健全な会社さんから仕事をもらえなくなる可能性があります。また、これから先のイラストレーターとしてのキャリアにもペケがつきます。恨むなら自分の不見識と非常識を恨みましょう。
ちなみに僕は騒動を面白がって遠巻きにヲチってるだけの就活生です。ゲラゲラ。
それでは。
http://anond.hatelabo.jp/20140421200127
なんか分かってない人が多い気がする。
小保方さんなんてのは、駄目な教育しか受けられなかったかわいそうな学生。
Nature に「記念投稿」したけど速攻で蹴られたという、よくいる亜流研究者。
それを叩くのは面白いだろうけれど、そのせいで本丸から目をそらされてないか?
早稲田や女子医のずさんな教育指導体制や、ハーバード附属病院のおもしろ医
師はそれなりに問題だが、それだけじゃ「ノーベル賞級の発見→根幹部分がコ
ピペ」の喜劇は生まれない。生物学の歴史をまさに愚弄し、世界中の研究者を
困惑させ、日本の恥を世界にさらし、青少年の科学への夢をぶちこわした主犯
は誰か?
自分のD論すらまともに書けない人間が、どうして Nature 論文の本文に見ら
れるような、それなりに格調と説得力のある英文を書けた?何回にも渡ったと
いうエディターとの丁々発止のリバイス交渉を、いったい誰がやった?原稿を
書くためにデータの真偽や整合性をチェックするという当然の仕事すら怠る一
方で、論文をねじ込むためだけに自分の知識、筆力、評判を悪用した誰かが、
いたんじゃないのか?ほとんど論文実績のない彼女を、誰がユニットリーダー
に据えた?彼女1人でできるわけが無いあんなに異例な広報を、誰がオーガナ
イズした?学術会議や首相との面談を、小保方が自分でアレンジできるか?要
するに、「野ブタをプロデュース」した人物がいる。
つづきは
例えばタイで国王の誕生日になるとデモ活動が休止したりするのを見て「なにこれキモい」と思っても、普通は「まあ所詮は他国のことだし」と考える。
民主主義として未成熟な国だな、と内心思っていても、当然ながら他国も介入したりはしない。
コーランをわざわざ破って暗殺に怯える暮らしをするのもアホらしい。
他の国の人が犬を食おうがネコを煮ようが、その国の食文化であれば普通はあまりとやかく言わない。礼を失してまで言うようなことではない。
ただし、自分の飼ってる犬が食われようとしているのであれば、そりゃあ全力で抵抗するし、批難する。
つまり、自分に害が及ばない限りは、もし内心で「こいつら気違い集団だろ」と思ってても、相手には言わないもんだ。
今回は世界中からもともと「こいつら気違いだけどこっちに害が及ぶわけではないからまあ放っておくか」と思っていたら何やら自国にも実害が出てきそうな空気になってきたので、一斉に叩かれてる。
愛の国では30歳になっても異性から愛されていない人間は殺される。
発展
就職活動で恋人の有無は聞かれる。将来殺されるかもしれない人間は採りたくないので。
誕生日前になった候補者はどうするのか。国外に逃げる? 手当たり次第アタックする? 性犯罪に走るかも?
30歳の直前に振る性悪女とか。
そもそも29歳も半分アウトだろう。通常は28までに結婚して身の安全を確保する。
結婚産業とか盛んになるだろうか? 逆に許嫁とかが一般化するかも。
国内は美男美女が多くなるか? 命ほしさに妥協するやつが多ければ、そんなこともないか。
どうやったら効率的に殺せるだろう?
どんな話が考えられる?
逃亡劇→ゴールデンスランバー
喜劇→世にも奇妙な
いい悪いは別として、世界的に見て日本人は、文化的、社会的、そして言語においても極めて特殊だが、異常にオリンピックが好きな事も特殊。
そんなに努力したら報われる瞬間に飢えているのだとしたら、未だ社会生活、仕事で、健全で公正な環境に置かれていないということか?
実際問題どうなのだろう?
純粋に考えるとオリンピックが好きということはスポーツが好きということになる。ところがどうだ、サラリーマンの大半が休日又は
仕事の後に、スポーツに興じ汗を流しているという話は聞かない。そのような光景はあまり目にすることはない。
その代わりに目にするのは、抱えきれない日々の不満を、アルコールで解消しようとする、お腹の出た酔っ払い達だ。
その横を流行りのジョギングシューズ、ジョギングウェアーに身を包んだ健康志向の誰かが、お気に入りの曲をipodで聞きながらすり抜けていく。
俺は夢でも見てるのか?
マラソン中継を放映している国、それを飽きもせず見続ける国民。私はそんな国は日本以外知らない。世界を知らないだけなのか?
この状況を客観的に見れば、日本人はスポーツを観るのは好きだといえるが、自ら進んでスポーツをする事はあまり好きではないということになる。
中学、高校と部活等を通じてスポーツで汗を流す少年少女は多い。それが例え決められた制度であったとしても、スポーツに興じてることに変わりはない。
この期間で自らが興じるスポーツが好きになる人も多いだろう。
そして、そのスポーツに対するアクションは、”観ること” よりも "する事" の方が大きなウエイトを占めている。
それがいつの間にか逆転するのだ。
スポーツの価値観が、健康的な価値観から余暇的な価値観に置き換えられると言ってもいいだろう。
その背景に見え隠れするのは、 仕事が一番でなければいけない という強迫的なあれだ。こう感じるのは考えが飛躍し過ぎだろうか?
かくして、仕事に疲れ果て、体を動かくこともままならない日本人の、スポーツをしたい欲求を満たす為に、代わりに、スポーツ映像をメディアは垂れ流す。
自分の満たされない欲求を、映像の中の選手に投影する。選手たちは、希望どおりの働きをしたり、逆に残念な結果を出したり、ときに想像を超えた活躍し視聴者を刺激する。
そう、視聴者にはスポーツをする時間も、余力も持ち合わせていないのだ。
「もっとくれ!、もっとくれ!もっと!」「視聴者は欲しがってる、こいつはヤツらの希望を満たすドル箱だ!どんどん垂れ流せ!」そんな幻聴が聞こえてきた。
こんな話がある。
オリンピックの放映権はドル箱ビジネスで、年々高騰している。その対策としてNHKを含む民放6社がお金を出し合い、放送権を獲得することにした。
1976年のモントリオールオリンピックから今にまで続いている。オリンピック期間中、ほぼどのチャンネルを回してもオリンピック放映となるのはその為だ。
各社は特色を出すためにタレントや芸人を起用した演出を模索する。芸能人にとってもオリンピックは稼ぎどきなわけだ。
話を戻そう。映像というのは優れた面も沢山あるが、使い方次第では非常に危険な装置に成り代わる。
昔から洗脳に使われたように、無意識化の脳に直接働きかけるため、思考や行動をコントロールすることに威力を発揮し、中毒性も高い。
これは少なくてもメディアの中枢に関わる人達には常識と言えるものだろう。
だとしたら、結果的にメディアは、 仕事が一番でなくてはならない という強迫的なあれに協力、貢献し、スポーツをすることもできないぐらい疲弊し、時間もゆとりもない国民を作り出してしまった。と言い切るのは歪んだ視点なのだろうか?
しかし、そんな惨めな自分たちに気づき、これではダメだとゆとり教育を推進し、彼らが社会に出ると、ゆとり教育は失敗だった。ゆとりは使えないと大合唱し、元の詰め込み減点方式の教育に戻すのは、なんの三流喜劇なんだか。
バルザックの小説「人間喜劇」シリーズに嵌っていて、作者の時代背景や衣装、世相、生い立ち、思想
深く文章を味わいたい為に今仕事の合間を縫って色々調べている
「実名」でネットすることが危ないのは生身の人間の「魂」が無料ネットコンテンツ化して大衆に消費され尽くされそうになった時
生きている一人の人間の文章に大衆が興味を示し、無料のネットメディア、無料の報道、大勢のイナゴが興味を向けて
一人の人間が「魂の情報」を吸い尽くされ抜け殻になっても、才能の枯れ尽くした音楽家が奇行に走っても
「ははは、このオモチャ壊れちゃったよ^ ^(汗)」とばかりにマスコミと大衆はちょっとだけ外面を取り繕ってから
その人をすぐに忘れ、次の「魂」を探す それが「SNSを取り巻くネットメディアの本質」
他の人の文章に目を通すという事は多少の差はあっても「魂の情報を吸う」ということなのさ 情報を錬金して金に換える人もいる
「はてな匿名ダイアリー」こそ魂を吸い尽くされた(吸い尽くされそうになってる)人々にネットでの最後の居場所を奪わない鯵ーる
「正義」「善意」ではなく、多くの人々は与えられた情報の範囲内で物事を判断するし、大衆に与えられる情報の大元の流れの人脈とか金脈とか各クラスタ間の
ネットワークがどういう流れを作ろうとしていて、勢力や対立クラスタ、情報攻撃力、防御力、知性の浅さ深さ、物語を作って大衆を誘導する能力、拡散力、共感力
など一つ一つの要素が情報ゲームの趨勢を左右すると知っておくと何かと捗る
情報におけるゲーム性については、とある市立大学の某先生が良いコラムを書かれていたので休日の趣味のバルザック『人間喜劇』シリーズ読書を中断してでも