はてなキーワード: モントリオールオリンピックとは
いい悪いは別として、世界的に見て日本人は、文化的、社会的、そして言語においても極めて特殊だが、異常にオリンピックが好きな事も特殊。
そんなに努力したら報われる瞬間に飢えているのだとしたら、未だ社会生活、仕事で、健全で公正な環境に置かれていないということか?
実際問題どうなのだろう?
純粋に考えるとオリンピックが好きということはスポーツが好きということになる。ところがどうだ、サラリーマンの大半が休日又は
仕事の後に、スポーツに興じ汗を流しているという話は聞かない。そのような光景はあまり目にすることはない。
その代わりに目にするのは、抱えきれない日々の不満を、アルコールで解消しようとする、お腹の出た酔っ払い達だ。
その横を流行りのジョギングシューズ、ジョギングウェアーに身を包んだ健康志向の誰かが、お気に入りの曲をipodで聞きながらすり抜けていく。
俺は夢でも見てるのか?
マラソン中継を放映している国、それを飽きもせず見続ける国民。私はそんな国は日本以外知らない。世界を知らないだけなのか?
この状況を客観的に見れば、日本人はスポーツを観るのは好きだといえるが、自ら進んでスポーツをする事はあまり好きではないということになる。
中学、高校と部活等を通じてスポーツで汗を流す少年少女は多い。それが例え決められた制度であったとしても、スポーツに興じてることに変わりはない。
この期間で自らが興じるスポーツが好きになる人も多いだろう。
そして、そのスポーツに対するアクションは、”観ること” よりも "する事" の方が大きなウエイトを占めている。
それがいつの間にか逆転するのだ。
スポーツの価値観が、健康的な価値観から余暇的な価値観に置き換えられると言ってもいいだろう。
その背景に見え隠れするのは、 仕事が一番でなければいけない という強迫的なあれだ。こう感じるのは考えが飛躍し過ぎだろうか?
かくして、仕事に疲れ果て、体を動かくこともままならない日本人の、スポーツをしたい欲求を満たす為に、代わりに、スポーツ映像をメディアは垂れ流す。
自分の満たされない欲求を、映像の中の選手に投影する。選手たちは、希望どおりの働きをしたり、逆に残念な結果を出したり、ときに想像を超えた活躍し視聴者を刺激する。
そう、視聴者にはスポーツをする時間も、余力も持ち合わせていないのだ。
「もっとくれ!、もっとくれ!もっと!」「視聴者は欲しがってる、こいつはヤツらの希望を満たすドル箱だ!どんどん垂れ流せ!」そんな幻聴が聞こえてきた。
こんな話がある。
オリンピックの放映権はドル箱ビジネスで、年々高騰している。その対策としてNHKを含む民放6社がお金を出し合い、放送権を獲得することにした。
1976年のモントリオールオリンピックから今にまで続いている。オリンピック期間中、ほぼどのチャンネルを回してもオリンピック放映となるのはその為だ。
各社は特色を出すためにタレントや芸人を起用した演出を模索する。芸能人にとってもオリンピックは稼ぎどきなわけだ。
話を戻そう。映像というのは優れた面も沢山あるが、使い方次第では非常に危険な装置に成り代わる。
昔から洗脳に使われたように、無意識化の脳に直接働きかけるため、思考や行動をコントロールすることに威力を発揮し、中毒性も高い。
これは少なくてもメディアの中枢に関わる人達には常識と言えるものだろう。
だとしたら、結果的にメディアは、 仕事が一番でなくてはならない という強迫的なあれに協力、貢献し、スポーツをすることもできないぐらい疲弊し、時間もゆとりもない国民を作り出してしまった。と言い切るのは歪んだ視点なのだろうか?
しかし、そんな惨めな自分たちに気づき、これではダメだとゆとり教育を推進し、彼らが社会に出ると、ゆとり教育は失敗だった。ゆとりは使えないと大合唱し、元の詰め込み減点方式の教育に戻すのは、なんの三流喜劇なんだか。