はてなキーワード: 臨場感とは
それやるならやっぱり画面外の情報としての音は滅茶苦茶重要じゃん?
そこがすげー出来が悪いというか手抜きなので「これはいったいどれぐらいのリアリティラインのものとして観ればいいのだ?」って疑念が生じる。
まずしばらく聴いてると、
「教室の外の状況がどうなってるか」とか音から情報取ろうとか想像しようとかするだけ無駄なんだなってわかっちゃう。
そうするとこの後どういう展開が来てもそれはちゃんと情報提示してないズルだし
そもそも大した展開が来ないのではって嫌な予感がしてきちゃう。
次に、
一直線に外に逃げ延びた奴もいるはずなのに
モタモタと教室に逃げ込んでしばらくさまよってた主人公の通報が第一報ってありえないやん?
「ああそういうリアリティのレベルなのね、そこをちゃんと考えない作り手と受けての映画なのね、はいはい」ってなる。
で隠れ方も不真面目でさあ。
あの隠れ方でどういうチャンスを期待してるのかわからないけど
教室のドア開けてそこから一望して「いねーな」って帰ってくれる場合のみ助かるけど
それならあの目立つ色の頭を机の上に出すんじゃねえと。もっと身を低くするか寝ころべと。
そういうとこすらちゃんとやってくれないので
もしかしてこれはそういうリアリティは全然追求してないものなのかな?ってなってくる。
同じ状況に遭遇中の友人に電話してくるって意味ないしやたら余裕あるしマジで何?じゃん。
これは友達じゃなくて姉妹とかで、トビアスって言うのも兄弟だったりするのかって思うのは
そうじゃなかったらこの情報なんなんだよって言う悠長さだからなんだよね。
親との会話が始まるのも「お前が贔屓してた他の子はみんな死んだぞ!」みたいな話が始まる(それもだるいけど)のかと思ったら
特にそう言うのもなく、オーディション受けに来た?やつの話も何の関係もなく。
・見せたいのは何?
ってなってるうちに「ああこれマジでどんでん返しとかなくこれだけなんだ…」ってなって終わる。
見終わったら一応一番の焦点はこの親子の確執の話なんだね。
集中できないし情報薄いけど。
「これは何か主人公が気付いてない恐るべき状況なのか??」と最初は思ったけど特にそんなこともなく作りが雑なだけで。
警察が突入してきてるのに乱射魔があんな悠長なことやってるのもわからないし
乱射魔はでかい銃振り回して走り回ってるはずなので騙そうとしたって一目でわかるはずだし
それどころかあんな風に落ち着いた呼吸で現れられる人間があの学校にいるわけない(一般生徒でも乱射魔でも変)のでもう純粋に変だし
あの中途半端な犯人のだまし討ちと親子の会話とどっちを焦点にしたいのかまたわかんなくなるし
不自然な友人からの電話はこれをやりたかっただけかーいってますます萎えちゃうし
アイデアと試みは良かったけど最低限が出来てないし要素もとっちらかってるよね?
1.音をちゃんと作ってリアリティラインをガン上げして迫真の臨場感と恐怖を与える
2.リアリティラインをもっと下げて臨場感なくして抽象的&お芝居っぽくして親子の話にきちんと焦点を絞る
3.犯人は顔見知りのうちの誰なのかというサスペンスをきちんと作ってメインディッシュにする
どれかにしてくれと言いたい。
主人公あの隠れ方で後から来た女にも犯人にも見つかってないので
この映画はリアルなスタイルではなく実は能みたいに見てほしいものなのかな?って捉え方をするなら2にいったらいいしね。
そういうことをしたかったのかね?
ラストシーンとか凄い雑に見えるの、普通に作りが雑なだけなのか舞台から降りてるって意味なのか、悪い意味で判断つかない。
面白かった
巨大なロボットが市街地でドンパチやる怖さ、臨場感、ガンダムというつよつよロボットが登場してきた時の高揚感、
正直今見ると過去の宇宙世紀ガンダムシリーズが古めかしく迫力不足に感じてしまうのも否めないぐらい新世代感がある
メインキャラのデザインも、昔の野暮ったい感じがなくなり、今時のシュッとした美男美女にブラッシュアップされている
ストーリーは三部作の一作目ということを割り引いても、描写が不足気味で視聴者置いてけぼり感がある
誰々大佐とか誰々伯爵とか、メインキャラクターのバックグラウンドに深く関わっていても、
印象に残る回想シーンとかなく名前だけで把握しとけ。って感じなので、初見は一時記憶の負荷が高くてちょっと辛い
またガンダムの登場シーンがこの映画の山場と思われるが、そのガンダムに関するエピソードがないので、ぽっと出感は否めない
全般的に、一作目ということもあり思わせぶりなセリフで謎や伏線を積み上げて、それらが回収されることはないので、
これだけ見るとカタルシス不足感がある、もう30分とって新エヴァ1作目のラミエル撃破のような、カタルシスがある場面を作った方が良かったのでは?
電車のカーブが大きくなおかつ電車が高い位置を走ってると遠くまで見渡せるので手前のものと奥のものは逆方向に流れていき中間にあるものは動かない。それを見るのが好き。とてつもなく好き。頭がふあーーってなる。
京急だと上大岡-横浜間あたりで何回か見れる。丘がたくさんあって地形に起伏があるので臨場感マシマシ。
あと東京から京葉線に乗って地下を抜けると競技場がある島があってそこを旋回するのも好き。
今はもう10年くらい中央線沿線に住んでて中央線はずっと真っ直ぐなのでつまらない。
ノンアルコールビールがビールってことになってる
隠語での注文の仕方が常連さんの集うお店で流行ってるみたいです。
緊急事態宣言が延び延びでもうどうしようもないこのろくでもない世の中。
家のみでの発散さ加減は
お店で頼んで飲み食いするのは
いったい私はいつになったらああいった通常営業の焼き鳥屋さんとか町中華で
ビールを決めることが出来るのかしら?って思うのよね。
やっぱりライブ感というかそこでしか文字通り味わえないなにかがあるのよ!
お店に入ってどこ座るかってとことか
注文オーダーしたりそれが出てくるまでの提供時間でちょっとビール飲んだりとか
全てがライブなのよね。
やっぱり人はこういったライブ感を求めているとしかいいようがないのよね。
ただいいお店のリゾットで
とろけさせて器に盛ってくれるあの美味しいチーズリゾットは恥ずかしいから厨房で作って持ってきてよ!って思うわ。
あのパフォーマンスもいいんだけど、
ぱぱっとやってくれるならいいんだけど、
なんか他にもテーブルで給仕さんがそこで完成させる系のフードってちょっと面食らいそうなので、
テーブルで仕上げます!って注意書きをメニューに欲しいぐらいよ。
目の前でソースをかけてじゅうじゅう感マックスでお送りするじゃない、
鉄板の周りに立てる紙の筒ガードもあるけれど、
今思ったんだけど
テーブルで完成させる系のは
もう予め厨房でかけてきてよ!とも思うし、
あれはあれで厨房でやったら
あの筒紙ガードの防御に上にフタが出来るようにもう一枚紙をもらえたら、
あれはあれで私は完全防御ができていっかなーって思うのよ。
だから最終あの鉄板の周りの筒の紙ガードの上に紙を乗せたいわ。
今度はA4用紙でも持参しようかしら?
持ち込み禁止のお店じゃなかったらいいんだけどね!
いつもA4用紙を持ち歩いているのも変よね。
そう言うライブ感ある鉄板のお店に行こうよ!って言ってイマイチ嫌な顔をされたら原因はそれに尽きるから
ジェントルマンとしては
あなたをジェントルマンに仕立て仕上げる最後はA4ってワケなのよ。
おわかり?
シュウクリームは初めて発明されたとき未知の食べ物でまだそれに対するマナーもなかった頃、
ストローで中身だけを吸うのがただしい食べ方です!って間違ったマナーを開発して欲しかったわ。
ああいう苦戦しそうな食べ物のマナーの良く分からないものも結構辛みがあふれる
ライブ感どころではないわよね。
そう思ったし、
うふふ。
これ全部水分出るのスゴい!ってただそれだけなんだけど
そんなに汗出る?って思ったりしない?
歯止めのかからないうちにうんと生産しておかなくてはって思う季節、
うちも麦茶始めようかなーって
夏が来れば思い出す遙かな尾瀬遠い空!ってこのことね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
フランス人との会話
増「Allez opi omi!!クラッシュすごかったねー」
仏「お前で5人目だよ。何でじゃぽんではそんなにアレが話題になってんだ?」
仏「ツール・ド・フランスは120年の歴史があるんだぞ。その歴史からすればあんなもの珍しくもなんともないんだが」
仏「プロトンと呼べ。いや珍しくないのはchuteの方よ。自爆8割、観客2割ってとこかな。
ただ2割っつっても観客が写真を取ろうと近づきすぎて距離感見失って衝突、なんてのは珍しくはないわ」
増「2割ならまあすくないんだろうけど、何でアレを禁止しようとしないの?」
仏「いいか増田、世界のスポーツのTOP3は1位がオリンピック、2位がサッカーワールドカップ、
そして3位がツール・ド・フランスだ。(増(ホントかよ…))
https://www.youtube.com/watch?v=E2C0N7v1eP0」
増「Oh...」
仏「この臨場感が良くも悪くもツール・ド・フランスだ。
しかも1バルも払う必要がない。どこかの国でこれから始まる五輪と違ってな」
増「日本だったら考えられないね。ひとたび事故が起きたら徹底的に再発防止とか批判が殺到する」
あのな、スポーツってのは危険が伴うんだ。だからエキサイトするんだろ。
ツール・ド・フランスの山の下りなんか120km/hで走るんだぞ。
それでもやりたい、みたいって連中がいるからこその祭典なんだよ。
仏「お利口さんが言ってるだけだろ?」
増「まあそんなところかな」
仏「お利口さんはディヴェルシテがどうのこうのと散々言っておきながら、
多様な文化としてツール・ド・フランスを見るどころか規制の対象としか見えないんだろ?
何でこんな事故が起きるのかって?ツール・ド・フランスの歴史を繙けばすぐに分かることじゃないか。
分かりもしないし調べもしないのに知ったかぶって再発防止がブラブラブラだのと笑わせるぜ、
そもそもツール・ド・フランスは昔はクラッシュしても修理は自分でやるのに今は後ろにメカニックが追随してすぐに直してもらえるし、
走る距離も短くなっていってるし、昔に比べて守られてばっかでどんどんぬるくなっていってblablabla...」
増「と、ところで文化クーポン券みたいなのがフランスで配られてるんだって?」
仏「よく知ってるな。マクロン共和国大統領閣下のステキなバラマキ策だ」
増「日本の漫画が買われているってことでこっちでもニュースになってるんだよ。
文化にお金を配るなんてさすがアートのフランスだってみんな言ってるよ」
pass cultureをヤングに配ったところで美術館だグランドミュジックだに行くわけねーだろ。
フランスは日本についで世界で2番めにオタク文化を消費する国だぞ。
クーポンがボザールへのカネだと思ってんなら日本のキューフキンはゼンにでも使うのか?」
増「(ちょっと違うと思うけど)」
peloton:走者の一団。troupeauって言ったら笑われた
寝ている時、夢をいくつか見た。
それらの夢は、一人称のものや映画のようなカメラ目線のものなど様々だった。
現実的じゃなく実際に起きたら到底、信じられないことばかりなのだが、夢の中だとそれを受け入れることができる。
急な場面転換などもあったが、当然のようにそれも受け入れ、夢の世界を楽しんだ。
そして唐突に目が覚める。
起きた時には、小説を読み終わったような浮遊感が自分にあった。
さっきまで起きていた出来事を、夢だと自覚し現実に戻った感覚がある。
しかし急に戻ったので、体がまだ現実に慣れきっていないのを感じた。
実際、起きた時にはどのくらいの間、眠っていたのか分からなかった。
目覚めは良く調子も良い。
一晩眠ったような感覚に加え、いつもよりも熟睡した感覚もある。
まずは下の名前をしっかり聞き出す。偽名だと心がリンクしづらい。
基本として()を使って自身のアクションを示す。性癖を把握するためにはじめは刺激的な行動がベター。(乳首を強くちねる)など。反応によって言葉を換える。
フェラチオの展開は淡泊になりやすく、自分で実況する羽目になることが多い。やるならシックスナイン。
「気持ちいい?」と聞いても「うん」で終わるため、「今どういう状況?」となるべくオープンな質問をして"女に答えさせる"。これが重要。
パンパンパンパン!やペロペロペロペロ…などの擬音は臨場感に欠ける。「ドピュッ」ではなく「マジでいく」。
終わったあとは必ず「こんなに気持ちよかったのははじめて。またよろしくお願いします」と言う。礼に始まり礼に終わる。女がマグロでも、回を重ねるごとに乱れることがある。
例えば特撮は自分にとってはありえない映像、どうやって作ったの?!と思ってしまう映像であって、
例えばウルトラマンだって、今から見れば稚拙に見えるところが増えてるかもしれないけれど、
虚構が現実に見えるようなシーンが一瞬だけあるだけでもワクワクしたのが自分の子供時代だったと思う
だから、「八岐之大蛇の逆襲」はやっぱり当時としては凄かったわけで、
庵野氏や樋口氏のような大阪芸大の学生が作った映像でありながら、
少なくとも瞬間瞬間では円谷どころか当時のレベルでの下手なハリウッドは超えてたと思うわけで、
自主制作による特撮やアニメのブームを起こしたといっても過言ではないと思う
といっても、当時の自分は小学生とかなのでリアルタイムでどうだったかはよく知らない
知らないけど、田舎で特撮の雑誌とかファンゴリアの日本語版とかそんなのばかり読んでたのでな、
ところで、現実ってのは本当にクソだと思うのだけど、何がクソかって色々あるのだけど、
現実というのはクソだとしても自分の思い通りに変えづらいというのもクソであって、
社会とか他人とか、自分がクソだと思ってもそれは変えられない、簡単には変えられない
だから、小説とか漫画とか映画とか、そういうフィクションなら当たり前だけどいくらでも変えられるわけで、
現実の世界で何かをなし得る、マザーテレサじゃないが、そういうのは難しいわけだけど、
フィクションはいくらでも変えられるわけだから、どんどん手が込んでくるというのがある
要は努力と結果が比例しやすいわけで、フィクションを作り込むことにのめり込んでいく
でも、それがモーションコントロールカメラみたいな時代だったらまだ牧歌的というか、
特撮に関しては特に技術自体で差別化ができてたりもしたわけだけど、
今の時代はCGがもうメインであって、パッと見では実写かCGかは区別がつかないぐらいで、
ディープフェイクみたいなのだって眼球の光の反射がどうこう言われてるみたいだけど、
というか、自分的にはCGを全面に押し出した作品に飽きていて、
まあ、初代ジュラシック・パークも途中で寝てたんだけど…
でも、物語の内容がまったくない、それこそ「八岐之大蛇の逆襲」みたいな作品が面白く思えるのは、
やっぱり技術というか、当時の若者たちの執念が込められているからだと思う
かといって、自分はトランスフォーマーやパシフィック・リムみたいなのに飽きてる
シン・ゴジラも特に後半はそういう感じがして食傷気味とでもいうかつまらなさを感じた
といっても、後半に庵野氏が試みてたiPhoneによる撮影のようなカメラワークや臨場感が活躍する場はなかっただろうし、
やったらやったで完全にクローバーフィールドみたいになってしまうだろうし、
自分としてはそっちの方が面白いとさえ思うのだけど、それをやるとゴジラではなくなってしまう
そうするとストーリーはともかく、打算としてもああいう映像になるのは仕方がないのだと思う
話が脱線したが、今日に至るまでフィクションを作り込むことに精力を注いできた面があったわけで、
そのためにモーションコントロールカメラもそうだがコンピュータは非常に活躍してきた
そして、今はコンピュータで映像を作り出し、コンピュータ「が」勝手に映像を作るところまで来てるとも言える
一方、商売として考えるときに差別化は必須なわけで、その差別化が特撮技術だったりした時代があったと思うのだけど、
最近は比較的安価にCGによる特撮が可能になってきていることもあり、それがYouTubeを賑わせたりしてる
こうなるとフィクションだのCGだのは完全なレッドオーシャンとも言える
仮にその辺を歩いているオバサンや子供でさえ簡単に無償で高度な特撮映像が作れるような時代になったとしたら、
となると、技術でないところで勝負しなければならないわけだが、
それは物語とか内容とかレイアウトやカメラワークだとかになるわけだけど、
それはそれでまた溢れてるように思う
その上、震災や津波のようなリアルの映像にとても特撮は勝てない
リアルの映像の圧倒的なリアルさに、当たり前だが、圧倒されるだけで、破壊されるビルの模型をちまちま作ったり、
CGでシミュレーションしたりすることさえ、リアルで人が死ぬという現実には敵わない
そうすると、最後のフロンティアとして残るのが現実と考えるのも変ではないのかもしれない
フィクションを突き詰めて虚構を現実に極限まで近付ける努力をしてきたが、結局はリアルには勝てなかった
その虚構を現実に近付ける技術も高度に発達はしたものの陳腐化し一般化してしまった
となると、最後にクリエイティブな領域として残るのはリアルしかない
ある日のこと、俺はいつものようにポリコレお気持ち長文を増田に書き込んでいた。
トラバもブクマもゼロ、「クンニしろ」とすらコメントの無い中仕方なく俺は自演レスバをはじめた。
自演でレスバをするのは楽しかった。一種自分との対話だった。たまに「横だが」とか入れて人数が増えているように見せた。
男性の自殺率まで話題が差し掛かりパンティーもヒートアップ!という頃、「元増ですけど」とトラバがついた。
俺では無い。昔からよくある元増田乗っ取りだ。誰やねんお前は、と俺は怒りその元増とレスバを始めた。
元増を名乗る増田の理論はめちゃくちゃで、面倒になった俺は元のエントリに追記することにした。
「元増と名乗るトラバがついているがそれは俺ではない。」増田でなんの意味があるのかわからない自己主張だが、そう書いてもう放置しよう。
そう思って元のエントリを見ると、えんぴつマークがなかった。おかしい。確実に俺の書いたエントリだ。
嘘増ではあるが臨場感を持たせるために俺の中学生時の非モテエピソードを盛り込んだ。確実に俺だ。
エラーか?いつのまにかログアウトしたのか?これだからはてなは………なんてエントリでも立てるか?
そんなことを考えながら画面を更新すると、俺のお気持ち長文は「おつかれさま」という6文字のひらがなに書きかわっていた。
驚いてもう一度F5を押すとそのエントリは削除されていた。
お気持ち長文どころか自演レスバも、嘘増非モテエピソードも無くなっていた。
流行ってるからという理由だけではとても手を出せなかったが、少し気になっている子と一緒に映画館へ行けるかもしれないという不純な理由によって俺は鬼滅に手を出した。
2週間くらいかけてTV放映版をアマプラでてきとーに見て、ふーんと思った。面白いけど魂持ってかれるくらいの情熱は感じなかったし、もういい年した大人になってしまったので子供がひたすら可哀想な目に遭いつづけるというのはちょっとしんどかったのだ。それはそれとして炭治郎少年は近年稀に見る立派な主人公ではないか。色々あって気になる子と一緒に行く計画は潰えたが俺はそれでも一人で鬼滅の映画を見に行くことにした。
結果、魂持ってかれた。泣きすぎて俺はエンドロールで歯を食いしばり拳を全力で握りしめなくてはならなかった。でも映画館にいたみんなが恐らくそういう顔をしていたのではないだろうか。暗闇に隠れてみんなが泣いて心を奪われていた。恐ろしい光景じゃないだろうか。日本全国で、いや世界のどこかしらで、この映画が公開されてからかなりの量の人間が…しかも結構いい大人が号泣してきたのだ。怖。
とにかく俺は…。俺は…。言わずもがなだと思うが煉獄さんのあまりの志の崇高さに胸を打たれて泣いていたのである。
まずこの人は登場シーンからすごい。お弁当をうまい!うまい!と言いながら食べる。普通あんなに食べたらうまいと口にするほどの新鮮な感動なんかなくなってしまうはずだ。それでも毎回一口食べるごとにうまい!とのたまい、とんでもない量の食事をきれいに食べきってしまう圧倒的な健全さに俺はまず驚いた。すごい人だ!弁当を作った人がいたら泣くと思う。俺は昔親含め家族全員の弁当を用意していたことがあったが、ここまで喜んでもらったことは当然ない。別に煉獄さんは弁当を作った人のためにうまい!と言ってるわけではないだろう。それでも毎回感じた感動をアウトプットしてくれる人が一体どれだけいるんだろうか。弁当作りについてもそうだが、仕事でも学校でもそうだった。
もちろん煉獄さんは非実在の人物だ。ただの絵と文字でできている。本物の人間がこの人のようになるには恐ろしい努力と恐ろしい無理を重ねなければならない。
そんなことはわかっているのだが、煉獄さんはそういう建前を全部ぶっこわしてしまうくらいもっともっと素晴らしかった。
終盤に突然上弦の鬼とかいうのが襲来する。映画館で俺は震え上がった。ずっと仄かに感じてきた煉獄さんの死の匂いがここで耐え切れないほど強くなったからだ。
こんなに素晴らしい人が長生きするわけないじゃないかよぉ〜!!と発狂しそうになった。
心を燃やせとかいう煉獄さんの名台詞は俺もなんとなく聞いたことがある。燃やしたものは灰になる。強く燃えれば燃えるほど早く尽きるだろう。煉獄さんの炎は力強く消えることがないように思えるが、そもそもこんな役に立ちそうな人が最後まで残っていたら絶対展開が難しくなる気がする。俺が作者なら早めに感動的に退場してもらい、後々主人公の成長に影響を与える存在になってもらうだろう。
みたいなメタなことを考えながら震え上がっていると煉獄さんは鬼の誘いを断った。
お前も鬼になれ。鬼になればもっと強くなれる、怪我も治るし老化もしないし長生きするし更に強くなれる見込みありありだぞ。という感じの話を何回されてもきっぱり断った。
「断る!」
「君と俺では価値観が違う!」
みたいなことをひたすら言い続けた。
俺はその後に来るであろうお決まりの台詞がないことに違和感を覚えたが、
結局そのお決まりの台詞を煉獄さんは退場するまで一度たりとも発さなかったのだ。
何かというと、卑劣な誘いに対して「そんなことをするくらいなら死んだほうがマシだ」みたいなあれだ。バトルものなら絶対誰かが一回くらいは言うあれ。これを口にすることにより、敵の誘いに対する絶対的な拒否、拒否のレベルの高さ、正義のために自分の命すら捨てることを厭わない高潔さ、また死を選ぶほどの勇気など色々なことが表現できるので、主人公とかがよく口にする。侍の時代から潔く死ぬことは美しいことだ。その価値観は今の今までなんとなく続いているが、煉獄さんという誇り高い剣士は今こそそれを口にするべきタイミングで愚直とも言えるほど真っ直ぐなお断りをするだけなのだ。時代的にもまったくおかしくない上、たぶんジャンプ誌上ではあらゆるタイミングで「死んだ方がマシ」と死を恐れぬ猛者どもが口にしてきたはずなのに。
煉獄さんは命を大切にする人なのだ。というか、命を無駄にしない決意を持った人なのだろう。俺がそう決定的に思ったのは煉獄さん自身の吠えるような強い台詞によってだ。
「俺は俺の任務をちゃんとやりぬくぞ!(意訳、泣きすぎてあんま覚えてない)」
「ここにいる者は誰も死なせない!!」
「若い芽は摘ませない!」
煉獄さんは死んだ方がマシなんて絶対に言わなかった。炭治郎が言ったように、ここで煉獄さんが倒れると他の全員が死んでしまうかもしれないのだ。煉獄さんは生きている間、ベクトルが常に他人に向いている。炎柱になったことを父褒めてもらえなくとも、その辛さより弟への気遣いを優先した。人のためになるべく生きてきた人だ。死ぬほど苦しくても怖かったとしても少しでも長く生きなくてはならない。人よりも力ある人間は人を助けなくては。みんなのための命だから、粗末にしてはならないということなのか。そんな自己犠牲は狂気ではないか。煉獄さんの考え方はやばい、それは俺にもわかる。しかしこれを美しいと感じてしまう俺自身のやばさも分かる。怖い。煉獄さん怖い。立派すぎて怖い。でも立派な人だ…。
結局、やり抜けない人が自己犠牲に走るのは危ういということなのか。俺にはできない。仕事でも自分の親の世話でも滅私奉公をやり抜くのは不可能だった。多分俺には人より力がないからだ。でも煉獄さんにはできた。それだけ人を助ける力を維持し続けたから誰も不幸にせずにやり抜けたのだ。
朝日と共に映画は終わり、烏が煉獄さんの死を告げた。その後のエンドロールですら俺は目茶苦茶泣いた。煉獄さんの死を烏が告げ回った後に、その烏を腕に止める煉獄さんの絵を見せるなよ。煉獄さん自身もこうして訃報を受け取っていたのかなとか思ってしまうだろうが。煉獄さんはいつも表情が変わらないからこのタイミングでその絵を見せられると変な勘ぐりをしてしまう。
そもそも映画でこの話をやるなよと思った。たとえらこの後泣いた顔で映画館を出る勇気は俺にはない。だからしばらくトイレに篭ったりした。
煉獄さんが口にした命の美しさとは、不可逆的に前に進み続けることだ。常に進み続ける。どんなに辛いことがあっても。漫画やアニメやDVDではともかく、映画館で観る映画は俺の力では止められないし変えられない。もう少しこの素晴らしい映画を見続けていたい、煉獄さんがいる時間の中にまだ居続けたいと思ったところで1分たりとも時は戻らず進み続けるだけなのだ。そんな構造で煉獄さんの物語を見せようとした嫌らしさと巧妙さがしんどい。いや、素直に言うとすごいと思います。
多分、映画を見にきた人々は炭治郎たちと一緒に無限列車に乗せられてしまうのだと思う。共に切符を買い、係員に鋏を入れてもらい、わくわくしながら決められた席に座る。この装置が自分をどこに連れて行ってくれるのか胸を高鳴らせながら。きっと素晴らしい旅になると夜汽車の窓を(俺たちは暗闇に浮かぶスクリーンを)ただ見つめる。彼らがお弁当を食べるようにたまにはジュースを飲んだりポップコーンを食べる。これは楽しい旅だから。
無限列車を作り出した鬼は炭治郎ではなく、自分自身でもなく、スクリーンに向かってこう言うのだ。
「人間の幸せな夢を見たいって言う欲望は本当に強いものなんだからね」
みたいなことを。
楽しい夢を見にきた俺たちは地獄を見せつけられる。多分漫画で予習してきた層にとってもそのはずだ。心躍る旅だと思ったのに、恐ろしいクオリティで畳みかけられる情感と精緻な臨場感で一刻一刻がつらくなる。どちらが素晴らしいと言う話ではなく、漫画の中の煉獄さんの存在感と、この映画の中の煉獄さんの存在感はまた別物だ。どんなに漫画を読んでいても映画を初めて観る人は映画の中の煉獄さんには初めて会うはずなのだ。映画の煉獄さんはすばらしい。絶対に予想を裏切ってくるほどすばらしい(重ねて言いたいのだが決して漫画より優れていると言う意味ではない。自分の頭の中にあった程度の予想など軽く振り切ってしまうほどの出来というほどの意味だ)。映画の煉獄さんは俺たちが頭の中に描いていた予想よりずっと優しく、強く、魅力的だ。だからこそこの人をずっと見ていたいと強く願わされ、その願いを留めておく方法がないことに涙する。映画は止まらない。走り出した汽車も止まらない。列車は時と同じく常に走り去りゆくものだ。また同じ場所を走る時にはまったく違う乗客で満たされているだろう。
不可逆的に前に進み続けること。残されたものは生きていくしかない。それを突きつけられた炭治郎たちの夜は明け、俺たちのスクリーンの夜すらも空けてしまい、俺たちは煉獄さんのいない平凡で平穏な日常に取り残される。それでも進まなくてはならない。だから俺はアホみたいに泣いた顔をマスクで隠してちゃんと歩いた。煉獄さんのいない日常を生きなくてはならない。
でもエンドロールの最後の最後で煉獄さんの折れた刀を見せつけてきたのは誰なのかマジで知りたい。お前のせいで俺はあの瞬間更に涙が決壊した。お前だけはマジで許さん。
その時の所感を思い出話も兼ね、ここにエントリーを残そうと思う。
拙い文章だしまとまりの無い雑記で恐縮だが、もし興味があれば最後まで付き合っていただけると幸いだ。
そこまで興味ねえよ、って方は『デルタの羊』(著:塩田武士)を読むか、
『アニメーション制作進行くろみちゃん』(制作:ゆめ太カンパニー)を観れば良いと思う。
大分アニメ業界をマイルドに表現しているが、ある程度リアルな現状が分かるだろう。
大学を卒業後、国家資格が必要な仕事でそれなりに安定した生活を続けていた。
そのうち、毎日の仕事に退屈さを覚え、自分の好きなことに関われる仕事をしたいと考えるようになった。
そう決心してから実行に移すまではそう遅くなかった。
一度だけの人生、自分の想いには素直になりたいと思って転職をした。
中途採用の面接は驚くほどアッサリとうまくいき、無事志望していた制作会社に入社することができた。
他にも経験したポジションはあるのだが、書きすぎると特定されかねないのでここで留めておく。
そうして入社したアニメ制作会社に、新卒時代の仕事よりも長い年数身を置くことになる。
一般企業からすれば規模は小さいように見えるが、業界内からすれば大手制作会社といえる。
今の職場で、制作に携わったアニメをオタクじゃない先輩に話したら「あー、あのアニメ作ってたの?」って
言われるほどには結構作品自体の認知度は高いし、結構覇権認定された作品も制作していた。
会社についても、そこそこアニメオタクからは話題に上がるほどだ。
毎年新卒の制作進行が複数人入社するし、抜けた数だけ中途採用ですぐに補填できるほど、
ひとことで言えば「縁の下の奴隷」と称すのが正しい。
制作進行という仕事について、「立派な名前は付けられているが、テレビ番組のADと変わらない」という認識かもしれない。
概ね合っている。
付け加えるとすれば、漫画の編集者の仕事の一端も担っていると言って良い。
漫画の編集者は、大体一人の編集者が一人の作家を面倒見るものだと思う。
アニメの制作進行は一話につき約10~30人の原画担当、そして数人程度の作画監督、
監督の追っかけまでするのはスタジオによってまちまちだろうが、概ね他社も似たような状況だ。
クリエイターからすれば、アニメ自体に何の付加価値も与えていない使い捨ての道具程度にしか見られていないが、
実際のところ制作進行が居なければどんな作品が作られるだろうか。
高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』のように、制作期間と制作費をドブに捨てた「儲からない作品」のできあがりだ。
制作進行、制作デスク、ラインプロデューサー、こういった旗振り役が存在するからこそオンエアのスケジュールに沿ってアニメ作品は作られる。
全く軽んじられている仕事に見えて、実はアニメ制作の仕事においては重要な役割だ。
給料は中堅拘束アニメーターや演出の拘束費よりも、自分の新卒時代の月給よりも少ないのに。
また、大手のアニメ会社といえど、社内の作画スタッフだけで作品を作れるかと言ったらそういうわけでもない。
フリーや他社のアニメーターに声をかけて「うちの仕事しませんか?」と営業するのも制作進行の仕事だ。
これについては、大変なおもいをしてアニメーターに罵倒されつつも満身創痍で人集めしていたかと思うと
実はそこまで酷い目に遭ったことは少なかった。(全く無いわけではない)
結構ウチの社名と参加タイトル出しておくと集めやすかったというのが他社スタジオに籍を置いていた先輩の感想だ。
他にも、「外回り」といって作画担当の上がりをアニメーター宅やスタジオまで回収しに行く仕事もほとんど無かった。
会社のブランドによるアニメーターの集めやすさ、物理的にしんどい外回りが不要であること、これらは大手ならではの強みだろう。
アニメ業界にいる人間は大体低賃金で働かされるという問題が取り沙汰されるのは、業界の外の人間にとっても聞かない話題では無いと思う。
年齢が50代後半を迎えたベテランにも関わらず、相変わらずボロアパートに暮らしている人間は少なくないし、
税金を未納しているほど経済状況に困窮しているアニメーターも知っている中で若干名存在する。
キレイな上がりを出して作品に多大な貢献している人は月に50~100万、中堅でも安定している上がりを出せれば20~30万と、
作品に対して一定以上のクオリティを保っていれば普通に生活できているのが実情だ。
そんな実情なのに生活に困っているアニメーターは、新人である以外に思い当たる大きな要因としては以下の三つだと考えられる。
①病気のためしばらく仕事ができていない(激務だし生活サイクルが安定しないので、結構体を壊しやすい)。
②上がりは平均程度なのに性格に難があるから、次の仕事に繋がりにくい(この手の人は作品の納期がヤバいと起用される傾向にはある)。
③そもそも上がりのレベルが落書きだから仕事を干されている(なおかつスケジュールも守れないパターンも割とあるのでかなりタチが悪い)。
性格に難があったり、上がりを出すまでが遅くても使われ続けるアニメーターって、結局押さえるべきクオリティを押さえられている。
にも関わらず「アニメーターは低賃金だ! 彼らの生活を安定させろ!」と騒ぐのは業界をよく分かっていないモグリの発言だ。
新人アニメーターの生活を安定させろという話もあるが、これについても新人なら新人なりにキャリアの無いうちにフリーにならず、
どこかのスタジオに籍を置けば実はある程度解決できる話に過ぎない。
じゃあ稼いでいるアニメーターって具体的にどんなアニメーターだろう、と聞かれたら真っ先に以下の三点が挙げられる。
①納期厳守
②安定したクオリティの上がり
①さえ守っておけば仕事は来るし、②だけが強みな人も生活できるレベルで稼げる、③については納期を平気で破ろうが高い拘束費を貰って仕事ができる。
③をできる人が居なくても①と②を心がけられる人が居さえすれば生活なんてできるし、一ヶ月程度の休暇を取ったとしても生活している人だって居る。
制作の人間からすれば、あまりクオリティ追求しすぎず納期を守ってくれさえすれば文句は無い。
その理由は次項で話そう。
原画担当が演出指示に従って構図とキャラ等の位置関係等を下描きする工程。
最近では3Dモデルを使ったレイアウトを制作会社が用意して、その上に作画担当が描くパターンもある。
出来上がったレイアウトを演出担当が指示通りに描いてくれているか、
もしくは気が変わったからこういう風に直してくれという指示を挟む。
あまりに酷い上がりだったらこの時点でリテイク指示して作画に差し戻し、もしくは制作進行にブチ切れる。
演出の指示がしっかり作品の雰囲気や世界観に沿っているか確認する工程。
監督が演出を兼任している、監督の業務負担が重すぎる、演出の力量が高い、などの時には
作画監督(作監)が②③の工程で出た修正に加え、絵柄の統一を図る。
基本的に①で出てくる上がりは作監以上のクラスの人間が描かない限り、全く絵柄が作品に合っていないパターンが圧倒的に多い。
というか原画担当にキャラクターデザインの通り描かせたら時間がかかってしょうがないので、
総作画監督(総作監)がキャラを大写しにしていたり、動き方が大事なカットを修正する。
これに関しては、必要最低限なカットだけを修正させることで、総作監の業務負担を減らすことになっている。
④もしくは⑤の工程が終わった戻しのカットを、基本的には①の作業者が清書する。
演出、監督、作監などのメインスタッフが起用NG出したり、作業者のスケジュールが合わないなどの場合は、
別の作業者を制作進行が第二原画担当を探してお願いすることになる。
エンドクレジットに出てくる第二原画はそういった「レイアウト作業者の尻拭いをしている人」という認識でいると良い。
上がった原画がしっかりレイアウト修正を反映しているか演出がチェックする。
問題なければ、動画検査に回して動画会社や社内動画に描いてもらう。
これでも直っていなかったら作監にまた修正をお願いすることになる。
細かい工程は少し省いたが、一覧で見てみてもご推察いただけると思う。
上がりが上手ければ上手いほど、③~⑦の工程で省ける箇所が増えるのだ。
その省ける工程のおかげでアニメ制作がスムーズに動き、それができる作画担当はアニメ業界において重宝され、
貢献度に応じて対価が支払われるようになる。
作画担当のそうした活躍は拘束費の引き上げ、作監以上への格上げ、更には演出や監督デビューにも繋がる。
中にはずっと絵を描いていたいということで、生活が少しくらい苦しくても作画のままでいるアニメーターもいたりはする。
ここが前項で述べた「クオリティを重視し過ぎなくても良い」と言った理由だ。
昔のアニメに比べて、今の時代のアニメだからこその進化がある。
出来上がった作画に光の陰影だとか、無機物ののっぺり感を抑える処理。
これを撮影班や美術担当が加工することで立体的でリアリティや臨場感を与えてくれる。
『鬼滅の刃』を制作したufotableが、自分が思うにこの技術力は随一だと思っている。
あそこは動画については、海外の動画会社に撒いているので動画枚数にこだわりがあるというわけではない。
その分、撮影や特効によってリアリティのあるごまかしで、キレイな上がりになっているように見せている。
少し話題は変わるがtwitterのTLを巡回していたときに「あの作画やべえええええええ」って3Dモデルが動いているだけのカットを
絶賛していて、アニメ観ている人ってその程度の認識でしかないよなあって少し落胆してしまった。
演出助手になっても、制作デスクを担当しても、上がる給料は少ない。
それでも嫁と二人暮らしで、嫁の方もフルタイムで働いていたのでこれまでは問題無かった。
先立つものがなくなる不安で仕事にも集中できなくなり、再度新卒時代に携わっていた国家資格が必要な仕事に戻ることにした。
アニメ業界は、左うちわで稼げるようになるまでの時間が途轍もなくかかる。
特に制作側で入った人間は一層そこに至るまでに苦労を強いられる。
これを詳細に語ると当時を思い出して気が滅入るので、箇条書きで記載する。
・上がりの納期を守ってくれる作画が知り合ったアニメーター数百人中両手で数える程度しかいない。
・今でも当時の罵詈雑言の日々が夢に出てきて真夜中に起きる。
同年代の新卒社員と中途で入った自分とで、自分の方が給料が高い、なんてこともあって
大手の制作会社でも決まった給与テーブルが存在しないパターンがある。
あと、規模さえ考慮しなければアニメ制作会社の面接は驚くほど簡単に通りやすい。
簡単なコミュニケーションや、自分がこれまで経験したことをありのまま受け答えして、
最後の質疑応答でアニメ業界に興味ありげな質問さえしておけば大体通る。
落ちたらよっぽどのコミュ障か、社会不適合者レベルだとも言えるのではないだろうか。
そんな割と適当な業界でもあるので、ある程度新卒で働いてから考え直しても良いと思う。
10社転職してから入った人も居るような業界だし、思った以上に門戸は広い。
それでもアニメ制作会社に入りたいのであれば「アニメが好きなこと」と「アニメを作るのが好きなこと」は違う、
これは肝に銘じておいたほうが良い。
入りたての頃、自分が制作に関わったアニメのオンエアが観れなかったほど、アニメが嫌いになりかけたことがある。
そこを経て色んな感覚が麻痺し始めてから、真のアニメ業界人の一歩だろう。
道のりは前途多難だが、アニメで成し遂げたいことがあるならば健闘を祈る。
増田で反応がこない!ブクマほしい!みたいなヤツを見るとまず増田はそういう場じゃねーだろという気持ちが沸き上がるが
それは置いといても自分は増田で反応貰えないなぁなんて全然思わないので何が違うのか考えてみた
今日はこのお気持ち長文を書くぞ!とか意気込んで1日1増田に留まっているのではないだろうか。
増田なんてうんちを出したときに「うんちでた」と書き込めばいいんだ。トラバも含めて1日10増田ぐらいは書いたらどうか。無駄だが。
ここには増田しかいないので増田が共感できる文章にしか反応がこないだろう。インスタでバズるような事増田に書いても無に決まってる。
自分の生活や思想をつらつら書いても何も反応がないってことは多分人生が増田と一致してない。増田に合致するなら増田らしい人生を送れ。まぁ嘘増を書き連ねてもいいけど。無駄だが。
増田が好きそうな人生を送り、増田に書き込み続ければいいわけだ。
うんち漏らしは増田の大好物である事は周知の事実である。嘘増を書いてもいいが、それも技術がいる。やはり実体験の方が臨場感も出る。
初めてという訳ではないんだけど、久しぶりに見て、その完成度の高さに、今さらながら、驚愕。
人間界と魔界から派遣された「闇ガード(ボディガードみたいな?)」ていう戦士が人間界と魔界の間に暗躍する陰謀の謎に挑んでゆく、その展開がストーリーとして面白くて、そして、敵と戦ったり、濡れ場あり、とエロとバイオレンス入り交じる作品で、まるでハリウッドさながらのアクションシーンと映像美に溢れた、いい刺激が効いてる、日本が世界に誇る名作だと感じた。これハリウッドで実写映画化しないかなーと思った。
80年代アングラOVAの雰囲気を踏襲しながらも、ハリウッド映画さながらの臨場感のある戦闘シーンなど、何故アニメ大国の日本でこの作品がそこまで取り上げられないのか不思議に思う。
「君の名は。」とか「進撃の巨人」とか、後、「AKIRA(あまりストーリーが好きになれない)」とかハリウッド映画化される予定だけど、まずこれをハリウッド映画化しろよ、と思う。
後、「銃夢」がハリウッド映画化されて、好きになれなかった人も少なからずいただろうけど、自分は個人的には好き(話は飛ぶけど)。
まあ、どちらにしろやって欲しい。切に願う。
そんな野田に国民最高ー!で(多分)アシストする形になったインディアンスが本戦のネタ以外のMVP。田渕の明るさが素なのが浸透してきて、いつどこで見ても機嫌よく周囲に分け隔てなく接する人の良さが大会を明るくしたと思う。事前PVでハハハと笑った直後に「敗者復活見てろよクソッ」と涙声で建物を出る姿も印象深かった。今回の敗者復活、そしてトップバッターはインディアンスが間違いなく適任だった。
正直この反省会、来年から後回しにしようかなと思ってる。笑い飯や川島、土屋に一人ずつ小藪が振っていく構成なのでディスカッションにはならず広がらない。講評の内容も正直そこまで深くないし。ファイナリストのインタビューも小藪じゃなくてミルクボーイと話してるほうが見たいし、中継のラグもないのに。各組の時間も短すぎて内容薄い。福徳が泣いたり川瀬が死にそうになってた時はめちゃくちゃ面白かったが、今の形式ならもういいや。MVPもなし。
今年はソーシャルディスタンスのためにスタジオなのもあってワイワイ感が少なく、そのぶんガッツリ掘り下げるようなトークが多かったかも。
みんな良かったけど本戦だけでなくその後に漫才の定義いるのかいらんのか問題に巻き込まれてアホの攻撃道具にされた見取り図にお疲れ様の意味でMVPをあげたい。全組漫才ですといち早く宣言したのカッコよかった。
M-1が「4分の中にできるだけ多くのボケを詰め込み終盤に伏線回収とかして盛り上げる漫才」だけを漫才だと定義するような大会だったらここまで人気は出てない。邪道と呼ばれるものを堂々と評価してきたからこそM-1は面白いのだ。そんな妖怪大戦争だった今回のメンツで冷静に戦略を練り淡々とコマを進めたマヂラブが最終的に披露したネタが床を転がり回るっていうカオスなのが最高すぎた。今年は野田脚本による壮大なミュージカルに知らぬ間に全員が巻き込まれてたんだろうな。運命を味方につけるってのは実はこういうことなのかもしれない。本当に凄いものを見せてもらった。
MVPとか偉そうでごめんね。マヂラブおめでとう!
その友達もセックス経験したぐらいで増田にそんなこと言っちゃうくらいイキリちらかしてて笑う
AV観て勉強したら…ていうかBLだったら臨場感のあるセックスよりも声かけとか受け攻めの心情的なやりとりのほうが重きを置かれそうだけどな
で、タイトルの通りなんですけど。
何でこんなことを考えているかと言うと、今年の初め?くらいに友人が恋人と初めてセックスしたらしく、
「経験のない人の書く話見たら「あ、この人ヤッた事無いんだ」って分かるようになった」
と言っておりまして。
まあそりゃ経験がある方が臨場感(?)のある話が書けるよなーって。
まあ異性間でやるのと同性同士でやるのではまた勝手が違うのかもしれないけど。
体の動き?とかはそこまで大差はないだろうし。
今のところ一生独身でもいいかと思ってるので自分から動いて恋人を作るつもりはない(典型的なオタクの姿をしているので作れるとも思ってない)んだけど、一回くらいどんなもんか体験してみたいなあという好奇心はある。
ただその為にお金払うのもなあ……ということで特に何もなく日々は過ぎていく。
色んなコメントありがとう。同じような考えの人もいるって分かって嬉しかったです。
あと友人も文字書きなので、友人の言ってた「経験ない奴が書いてるって分かる」のは多分小説に出てくる感覚的な描写の事を指してるんじゃないかと思う。肌が打ち合う感触とかゴム越しに出されてる感触とか。知らんけど。
勿論これもインプットを増やす事で補える事に変わりはないだろうから、経験ある=描写が上手いとは限らない話だろうけども。
後腐れなくそういう事するのって難しいねえ。ハプニングバーとか(創作のネタとして)興味があるけど勿論そんなとこに行けるわけもなく。