はてなキーワード: 錦鯉とは
先日「テレ東旅の日」で太川陽介のバス旅を見ていたら前編のゲストが村井美樹だった
もう一人のゲストはこの人アフガンハウンドにそっくりだなと常々思っている長髪の関西ジャニーズの人で、
その人の言葉につられたのか村井さんが普段の標準語とは違うばりばりの関西弁を話していて初めて村井さんが関西の出身だということを知った
太川さんには標準語で受け答えしていて、そういう使い分けのできる人でもつい顔を出してしまう生まれて育った場所の言葉の強さを感じた
私は北海道札幌市に生まれて今まで住んでいるが、錦鯉の長谷川雅紀が東京に長く住んだのちの今ですら朴訥な北海道弁のイントネーションで変わらず楽しそうに喋っていることへの好感がほのかにある
GERAなんかを聴いていても○○でないの、○○っしょー!って本当に自然に出るんだねあの人は
かなり年齢を重ねてから上京したからだろうか、方言があまりにも自然すぎてあたりまえすぎて標準語の上書きをされてもその下からくっきり浮かび上がって、結局それがそのまま表面になっているという感じだ
こういった場面を見るにつけヤーレンズ楢原の異質さが浮かび上がるような気がする
ネタや上京の理由に直結する部分だから、言葉に対しての覚悟や強固さがよりあるのかもしれない
コンビのインタビューでそのあたりについて語られたりはするけれど、ネタや動画の中ではそのあたりをあまり感じさせない飄々さとやのらりくらりとした感じもいいなと思う
別にバーチャルYouTuberに限らんけど、配信でコラボする者に対して言いたいことがあるんだよ。
嘘だよ本当は自己紹介してね。
配信を見る側として一番大事なのはここ! どう楽しめばいいかわかんなくなっちゃう。
「こーんにーちわー!」「こんばんはだよ(頭をはたく)」「 頭が良くなる本を買ったよ!」「早く読めよ(頭をはたく)」
たった10秒でおバカとそれにツッコム人、という状況が理解できたと思うの。これをやってほしい。
AはどんなキャラでBとどんな関係性があるのか、をマストでアピールしてほしい。
15分かけて全員の自己紹介やって息も絶え絶えにAmong usなんかしてるんじゃないの。
名前なんか概要欄に書いてあるしDiscordのアイコンに顔も出てるからね。
(話がそれるけどちゃんと読むリスナーを育てることで配信の質は上がるから習慣づけた方がいいよ)
「我にじさんじぞ」というのがあるよ。めっちゃ上から入るロールをしつつ所属を言う方式。印象にも残る。
みんなも真似してみてね!
なんでその面子でコラボしたの? は自己紹介よりも大事な情報だよ!
先述のキャラ紹介とも若干被るけど、そこがおざなりだと話が入ってこないよ。
ライブイベントで控室でちょっと話して~だとあまりにも弱いんで、しっかり膨らませてね。
「無邪気に次のコラボを期待するコメントを書いていいのかな?」
という考えは常にあって、温度感距離感をある程度出してもらった方が盛り上げやすいよ。
基本的にどこにでも定型コメントはあると思うけど、コラボ中に説明してね。
同じ釜の飯を食うならぬ同じコピペをポストすることで連帯感が生まれるよ。
個人的に一番上手いと思ったのは
ってやつ。別に誰も何もしてないのにチャンネルのホストも真似して書く方も嬉しいちょっとした上げ。盛り上がった。
ちなみに名物視聴者を取り上げるのは、個人的にはアリだと思う。
そういう人って迷惑者スレスレで何かしらヘイト買ってるんで、笑いとして処理しないと冷える場合があるよ。
とにかく説明は丁寧にしようってことね
たぶん、彼らが許される世であって欲しいと思っているんだと思う。その願いと、そっちの世の中のほうがなんだか楽しそうだという希望を見出してんのかな。錦鯉が好きな理由を考える時、西成あいりん地区の三角公園を思い出す。どんなに治安が悪くて、どんな人相の人がいるんだろうとか思って行ったけど、公園で過ごしている人たちは朝っぱらから発泡酒を飲み、チューニングのあってないギターを弾き、踊り、その脇でボールもないのに全力でピッチング素振り(バッティングじゃない)をし、事情はあるにせよ彼らはかなり幸せそうにみえた。私にとって錦鯉は、三角公園でみたあの光景に近く、彼らが注目されている現状は三角公園に沢山の観光客が集まっている様子を想像する。あの空間はあのまま保たれていて欲しい。西成あいりん地区でおっさんが昼間っからピッチング素振りをしていることが許される世の中であって欲しい。
先日、空気階段もぐら、ニューヨーク嶋佐、トマホーク坂井が「ボクらの時代」に出演していて、坂井が「結局、何かで抑圧された人が自己解放のために芸人やってる人がほとんど。俺はおやじコンプレックスだと思う。おやじの人生みたいになりたくない」と言っていたんだけど、芸人に限らず人は自己実現とか自己解放とかなんやかんやできっかけや理由、目的を求めるもんだと思う。元々あるのではなく能動的に探す、見つかる。でも彼らはずっと受け身。野心や頑固さ、見栄、敵意などの突き動かすような大きな意思を感じない。そりゃM1の優勝を狙っているくらいだから無いわけではないと思うけど、熱すぎることもなくかといって冷めすぎてもいない。2人が出演したしくじり先生で、優勝を逃した2020年M-1を「僕たち2人に、人生で初めて悔しいという気持ちが芽生えた。しかもその悔しさはどんどん増した」と(主に渡辺が)振り返っていて徹底的に情けないと思いつつ、その情けなさを恥を忍んで言えるおじさんたちにちょっと胸を打たれた。
「誰も傷つけない笑いなんてものは本当に存在するのか」というテーマを一人遊びのおもちゃにしていた時期があったんだけど、表現をする人は常に誰かを傷つけるリスクがあり、たとえどんなに気をつけていても知らないところで見知らぬ誰かが傷つき不快な思いをしている可能性は捨てきれない。実際にミルクボーイのM1決勝ネタをみていた友人が「モナカってチョコモナカジャンボのこと?」と彼氏に聞いたところ「最中も知らねえのか」と随分バカにされ傷ついたみたいなことを言っていたし、さっきの三角公園の話も、きれいなところだけを観てわかったような態度でいるよなと自分自身で思う。
私は2020年M-1の錦鯉のネタ「パチンコ」でソファから落ちるほど笑ったんだけど、何が痛快だったかっていうと、パチンコに行ったことない人にとって、まさのりのあの顔が初めて見る「パチンコ台」になったこと。パチンコを知らなくても笑えるネタは、本当の意味で誰も傷つけてないし、置いてけぼりにもしてない。ネタを見ている人が例えパチンコを知らなかったとしても、誰からもバカにされないように、まさのり自身がパチンコ台になってくれる。錦鯉は、バカ担当まさのりさんがこの世の全ての"傷つき"を一身に背負ってくれてるんだと思う。「どうせみんなこうなるんだよ」「からっぽだよ」と冒頭から徹底的に自分を下げ、コンプレックスを持つ人たちに対して「俺のほうがもっと下だから安心しなよ」みたいな態度を取り続けてくれる。だから私は錦鯉のどんなネタも安心して観ることが出来る。一番好きなネタは「数え唄」です。
娘の彼氏が芸人なのは知っていたが、先日とうとう結婚相手として紹介された。きっつい。将来有望な若手とかならともかく、それなりの芸歴で売れていない。
俺と妻はお笑いが共通の趣味で付き合って結婚した。今でも一緒にライブや賞レースの予選を観に行くくらいには夫婦揃ってお笑いが好きだ。だからか娘は「お母さんもお父さんも応援してくれる」と信じてやまない。
錦鯉がM-1優勝なんてするから、フジテレビがTHE SECONDなんて始めるから、才能の片鱗すらない人間たちが努力を先延ばしにして一生夢を追い続けてしまう。
俺は娘の彼氏だと知るよりも前から彼が出演しているライブを何度か観たことがあるが、若手の頃から今まで、変わり映えしないネタをずっとやっている。あれじゃ一生売れない。
「今は賞レースに本気で取り組みたいと思っていて、今はバイトとか減らして、恥ずかしいんですが娘さんのお世話になってます」なんて言っていた。よく娘の親の前でそんなことが言えるな。ネタ合わせもせずパチスロ行ってるの知ってるぞ。お前のTwitter見てるぞ。
娘は彼を本気で養う気もなさそうだ。「いざとなったらお父さんに頼ろう」きっとそう考えている。昔からそういう子だった。
二人で協力して幸せになってほしいと伝えた。同時に、どんなことがあっても一銭の援助もすることはできないとも伝えた。実感なさげに頷く娘の隣で「どうしてもの時はお願いしまっす」と苦笑いする男の姿は頼りないの一言でしか表現できない。
彼の実家が貧乏だということは知っている。万が一にも食いっぱぐれた娘を養うならともかく、娘の夫を養う気はさらさらない。
だが俺に娘の結婚を反対する権利はない。婚姻は、両性の合意のみに基いて成立するからだ。俺がどれだけ「認めない」と言ったとしても、婚姻届さえ出せば二人は夫婦になれる。
そもそも娘がお笑い芸人と付き合ったのは、俺と妻の影響が大きいのだろう。今更考えてももうどうしようもないが、もし過去に戻れるなら、初めて家族三人で吉本新喜劇を観に行ってしまった日を選ぶだろう。
アホの娘がアホの男に引っかかり、アホな考えのまま結婚する。
そしてもちろん、それに苛つきこんなところに吐き出す俺もアホだ。
情けない限り。いい歳して、涙が出る。
そしてファンの年齢層もすごい
まさに老若男女がポケモンを愛し、好み、様々なグッズ、ゲーム、アニメなどと親しんでいる
ポケモンsleepも登場し、ポケモンはもはや生活に溶け込んでいる、という人も多いだろう
我が家も例に漏れず、ポケモン第一世代の俺自身は相変わらずポケモンをやっており、小2の娘は最近ポケモンにドはまりしている
そうだよね、それみんな思っているよ
でも、ポケモンじゃなくとも、様々な魅力的な生物がこの世には存在しているし、ポケモンと同じく、トレーナーと心を通わせて、技を磨いて、勝負で戦う生き物もいる
枝に捕まえたカブトムシを歩かせ、友達のカブトムシとどちらが枝に残れるか戦わせるような遊びはシンプルだし、そこまでしなくともどちらが大きいか大きさを比べる勝負もしたことがあるだろう
もっと本格的になると、闘牛、闘犬、闘鶏などもあるし、タイではベタを使った闘魚もある
バトルをしなくとも、美しさを競う錦鯉や金魚の品評会もあるし、盆栽や菊、バラなどの品評会もある
このような、実在の生き物を一所懸命育て、競わせる遊びは、ポケモンゲームに負けず楽しいし、のめり込む価値はあると思う
では、最近のポケモンバトルと同じように、興行として他者の育てた生物を競わせる大きな大会があれば、ファンとして観戦し、それをもっと手軽に楽しめるのではないか?
金魚の品評会と異なり、できればトレーナーとの絆を感じる意思疎通があり、継続的にテレビで見れるような競技があるといいな
…あるんですよ、競馬って言うんですけどね
色も茶色から栗色、真っ黒、グレー、白もあるし、脚の色や額の模様なども馬ごとに随分違う
個人的には明るい栗毛がかわいいと思うし、美しさで言えばソダシに代表されるような白毛馬も最近は存在している
馬1頭1頭に持ち前のスピードやパワー、スタミナ、気性や性格のような、ポケモンで言う種族値のようなものが刻まれている
ポケモンの種族値というよりは、人間と同じ個性、特性かもしれないね
大回りコース向き、小回りコース向き、短距離向き、長距離向き、のような適性が馬ごとにあり、これはポケモンでいうタイプにあたる
さらにポケモントレーナーが頑張ってポケモンを育てるように、調教師がポケモンを育て、レベルを上げて、努力値も振ってくれる
そもそも、ポケモンでいう孵化厳選のような、出生ガチャも、牧場の人が頭をひねって最強の馬が生まれるように血統表を見て考えている
レースでは騎手と馬のコミュニケーションが大事で、これは本当に人馬一体となる勝負だ
馬は、ポケモンの技と同じように、スタートダッシュ、いい位置で折り合う、馬群をこじ開ける抜け出し、最後の末脚、並ばれても抜かせない根性、など、様々な特性や技を使って勝負をする
こうやって考えると、孵化厳選から育成し、実際のバトルまでするポケモントレーナーはマジで化け物だ
競馬で言えば牧場、育成、馴致、調教、騎乗まで全て1人でやるってことだし、オーナーブリーダートレーナージョッキーだな
競馬はギャンブル、のイメージがある人も多いと思うけど、別にギャンブル要素が100%ではない
賭けなくともスポーツ観戦として見ていれば楽しめる
スポーツ観戦、ポケモンバトル観戦的な楽しみがめちゃくちゃあることは知って欲しいなと思う
でも、見るだけじゃ足りないのよ、やりたいのよって思うかもしれない
そういう人は金魚のブリーディングとか菊の交配とかが競馬よりいいかもしれない
実際の馬の育成やレースに自分が関わることはお金的な意味で困難だけど、応援したい馬の馬券を買えば、本当に勝ってくれた時に自分にも賞金が出るようなもんで、喜びは何倍にもある
それじゃなんか違うと思う人は、一口馬主と言う手がある
1頭数千万円する馬を個人で持つことは難しいけど、それを数十人から数千人で分割して所有できるシステムが一口馬主だ
自分の出資馬が入賞すれば賞金は本当に自分にも分配されるし、馬券だとリターンがない4着以下でも、一口馬主なら賞金が配分される
応援する馬を見つけ、継続して見ていくことで本当に競馬は面白くなるよ
ポケモン好きな人は、わかってしまえば本当に競馬楽しいと思うんだ
ポケモン好きな人に競馬を浸透させていきたいなと本気で思っていて、ポケモン好きに競馬の普及活動をしている
「石の卵」という本を見た子供が、内部に宝石の入った石を探したいと騒ぐので、家族で川原に行くことになった。
ところが、川辺のキャンプ場の駐車場に車を停めて川原を目指して歩いたところ、川原へ通じる小道の全てが封鎖され、「立ち入り禁止」の立札が立てられていた。
車へ戻り、堤防沿いや川にかかる橋を通過してみたりして気づいたが、連休中でしかもいい天気なのに、川原には川遊びをする人々どころか釣り人さえ一人としていない。いつの間にか、川原全体が立ち入り禁止区域になっていたようだ。
そんな訳で石拾いは諦め、翌日、市営のちょっと大きな公園に行った。お目当ては、公園の中心にある池だ。そこではザリガニ釣りと鯉に餌やりをすることが出来るのだ。
公園に着くと、まずは散歩がてらぐるりと一回り。ここに来たのは数年ぶりだが、昔とほとんど変わっていない。芝生や樹木は手入れがなされてさっぱりとした様子。遊具では沢山の子供達が遊んでいる。噴水は十分おきに水を吹き上げる。そこに水着姿の幼児達が水浴びに興じている。
変わった点はというと、芝生の半分くらいは沢山のポップアップテントに占拠されていて、子供達が走り回る場所ではなくなっていたことくらいか。
だが、ふと気がついたが、うちの子供達は既にこういう公園で遊ぶような年齢ではなくなりつつあるのかもしれない。テントの合間をぬうように走り回る子供達より、我が子らはだいぶ大きい。うちの上の子は小学五年生だ。下の子は二年生で小柄な方だが、それでもこの場所では少し浮いているかもしれない。
池に行ってみると、昔のように畔には燕子花が葉を伸ばし、浅瀬は蓮の葉に覆われている。そして、池の中央にかかる橋から池に餌を投げ込んでいる人々がいた。どうやら今も池の鯉用の餌が売られているようだ。
そこで、子供達を連れて公園の入り口まで戻り、管理事務所に入った。昔は事務所の窓口で鯉の餌が売られていたはずだ。ところが、今は販売システムが変わっていた。事務所の裏口で「鯉・カモの餌」と「ザリガニ釣りキット」がそれぞれカプセルに入れられた状態で販売されているのだ。1個100円なり。
昔、子供達がまだ幼児だった頃は、どんなにせがまれても鯉の餌やりやザリガニ釣りはさせなかった。池の深さはそれなりにあるのに、周囲に柵などが全く設置されていないからだ。子供達が池に落ちるのを畏れた。だが、今では子供達も大きくなったことだし、これからはこちらがここへ遊びに来ようと誘っても子供達の方が億劫がるかもしれない。もしかしたら、これが最初で最後の機会になるかもしれないと思った。
子供達は大喜びだ。上の子は鯉とカモの餌がいいと言い、下の子はザリガニ釣りキットを選んだ。鯉とカモの餌は思ったより多く入っていた。ザリガニ釣りキットは、タコ糸の先に小さな鉛の玉とスルメの切れっぱしをくくりつけたものだった。それを園内で適当な木の枝を拾って結び着けて使うのだ。
上の子に私がつき、下の子には夫がついた。私と上の子は池に餌を投げ込み易い、開けた場所に移動し、夫と下の子はザリガニがいそうな、浅瀬で草の陰になっている場所へと移動した。
池の中を泳ぐ魚影は、昔に比べてだいぶ少ないように見えた。だが、一匹一匹がとても大きい。昔見たのよりも全長が倍くらいありそうな錦鯉が、泥水の中を悠々と泳いで行く。上の子はただの黒い鯉よりも錦鯉に餌を食べて欲しいらしく、餌を一粒ずつ、腕を振りかぶって遠投するが、まったくのなしのつぶて。どうやら、鯉達は全く腹を空かせていないらしい。風上の方から、ふやけた餌粒がいくつも漂ってくる。
黙々と餌を投げ続ける上の子の横で、私はしゃがみ込み、時々水底に光る小魚の影や水面を漂う餌粒の合間をすいすいと泳ぐアメンボを眺めた。
「あーあ、全然食べてくれない」
と、上の子が嘆いた時だった。燕子花の葉陰から、カルガモが二羽、クワックワッと鳴きながら泳ぎ出て来、水面に浮かぶ餌粒を食べ始めた。ただ水の流れ任せにたゆたっていく餌粒を、カモはまるで生きている虫を捕まえるかのように、律儀に大げさに嘴を左右に振って、食んだ。そして、クワックワックワッと、まるで我々のことを「餌くれる人」と理解しているかのように見上げて鳴くのだ。時々田んぼの近くを散歩中に見かける彼らとは、ずいぶん態度が違う。用水路に浮かんでいる時の彼らは、人の気配がするやいなや、バタバタと飛び立ち、逃げてゆくというのに。人を見分けているというより、場所を見分けているのだろうという気がする。
間近で見るカルガモは、思ったよりも目が顔の中心よりも上にあって、しかも目付きが鋭い。剣呑な目の真ん中の瞳孔は、鳩のそれと同様に虚ろだ。確か、渡辺崋山だったか……、江戸時代の終わりごろに、師匠の絵を手習いにするのではなく、自然の花鳥風月を直接手本にして描く絵師がいたけれども、彼らの観察眼はかなり自然に忠実だったのだなあと、しみじみ思う。今目の前にいるカルガモは、私の子供時代にワイドショーで持て囃されていた、雛を沢山連れて道路を横断するカルガモの親よりも、江戸時代の写実画によく似ている。
上の子は、鯉を狙って餌を投げつけている間に投球のコントロールがよくなり、高確率でカモの真正面に餌を投げ込んだ。ところが、そういう時に限って、カモ達の食い付きは悪い。上の子の贔屓は、二羽のうちの後方にいる方で、これは前方に出て盛んにクワックワッ鳴いて餌を強請る奴よりも小柄で控えめに見えた。上の子は手前のカモに一粒投げたら、後ろのカモに二粒連続で投げた。だが、後ろのカモがきょとんとしている隙に手前のカモが自分に投げられた餌そっちのけで後ろのカモの分を横取りしてしまう。
上の子が文句言い言い餌を投げる。ぼんやりと浮かぶだけの後ろのカモと、その周りを忙しなく動き回って餌を独占する、手前のカモ。後ろのカモがこちらに真っ直ぐ顔を向けたままほぼ動かないので、真正面から見たカモの顔つきの不気味さがよく見える。ウサギなんかと同じで、目が顔の左右に着いているので、真向かいに向き合っても視線が合うことはない。カモのような鳥が真正面から絵に描かれることが少ないのは、我々人間の顔とは違う顔をしているからであり……はっきりいって、正面から見ると別に可愛くないからでもあるんだろうな。
と、考えていてふと気づいた。単に視野の問題なのだ。私は上の子に餌を一粒貰い、後ろのカモの左脇を狙って投げた。すると、すかさず手前のカモも反応したが、後ろカモは横取りされる前に餌を食べた。やっぱり、目の前に落ちた餌は、見えないので気付き難いようだ。後ろのカモに与えようとして投げた餌はちょうど、手前のカモの視界をよぎって飛んでゆく。
そのことを上の子に伝えたところ、上の子は二匹のカモに代わる代わるに餌を食べさせることに成功した。
カモ達の食欲は底なしに見えたが、少しすると食べ飽きた様子で、餌を拾うのを止めてただ水を嘴で掬って飲んだ。水を飲むときは首を真上に長々と伸ばして、軽く嘴を左右に振りながら嚥下する。
ふと、後方のカモがブルッと尻を振った。茶色い水中にあってもオレンジ色の鮮やかな、しんなりとした脚の周りを白いもやが漂っていく。
「すごい、うんちしたー!」
なるほど、カモは水面に浮かんだままで排泄をするのか。野鳥の排泄なんて、カラスが電線から飛び立ちざまに排泄をしてゆくところくらいしか見る機会がないので、いいものを見た気がする。Eテレの動物番組でも、なかなか映さないのではないか。せいぜい、ツバメの雛が親の顔に尻を向けて、ゼリー状に固まった糞を排泄して、親に糞を巣の外に捨てて貰う場面くらい。
そういえば、冬に下の子を連れて散歩をしていたら、田んぼの真ん中でアオサギが糞をしているのを見かけた。まるで水道の蛇口のように、長々と糞を噴き出し続けていた。食ったらすぐ全部排泄する。それが空を飛ぶ鳥の習性だ。
餌を全て投げ終わったので、夫と下の子の所へ行ってみると、下の子はザリガニが全然釣れないと愚図っていた。下の子はすぐに癇癪を起こすが、案外粘り強い性格なので、取れないが食い付きはするからと、釣り上げるまで諦めないと言った。だが、夫の方が気短なので、早く帰ろうと言い出した。
夫は、釣り場選びから釣糸の垂れ方まで下の子に口出しをしただけでもう疲れたらしい。池の周りには、夫と同じように子供以上にマジになってしまった父親達と、うんざりして別のことをやり始めた幼児があちこちにいる。
どうしてもザリガニが釣れないので、鯉とカモの餌をもう一つ買って下の子に与えた。カモは目が左右に着いているため、真横はよく見えるが真正面はよく見えないようだ、と教えると、下の子はカモの体側にぶつけるように餌を投げた。カモは即座に反応してくるくる回りながら餌を取った。下の子がそうして黙々と餌を投げてると、やはりザリガニ取りに飽きたらしい幼児が我々の横にとことこ歩いて来て、ハルジオンの花をカモに向かってぽいぽい投げた。数メートル先の池畔では、その子の父親が虫捕り網を手に持って、
と怒鳴っていた。
帰宅後、釣果が何もなかったので、日記が書けないと下の子が愚図った。でもカモに餌をやったじゃないかと宥めすかせ、日記を仕上げさせた。絵は下の子が自分で描いたが、文章はほとんど私が書いたようなものだ。カモは横から餌を投げられるとよく食べる、と。カモの様子ばかりで「楽しかったです」や「面白かったです」などの自分自身の気持ちが一言も書かれていない絵日記。そういうタイプの絵日記を、学校の宿題として提出するなんて、子供時代には思いもしなかったなあ。