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はてなキーワード: 軍勢とは

2022-07-10

今回の暗殺は、陣形不備が招いた人災である

後詰の重要

戦国時代総大将がやられることは総崩れを意味したため、、

後詰(ごづめ・うしろづめ)という布陣が存在していた。

陣形の基本、八陣は諸葛孔明によって定義化されたといわれ、

武田家の山本勘助によって採用されたといわれる。

こちらのサイトを見てもわかるが、総大将の後ろを見張るようにして、後詰を配置している。

後詰は副将級の武将担当することが多く、2つ以上の軍勢で守ることもあるようだ。

https://www.touken-world.jp/tips/18700/

高さも重要

関ケ原では家康本陣は桃配山に陣取っており、万一に備えていたことがわかる。

演説では街宣車の上に乗る、というのがそれに該当するだろう。

http://tanaka-takasi.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/index.html

SAT伊藤氏のコメントで印象深かったのは、

犯人が立っていた場所左側には、本来警察車両が配置されているべきだったというものである

警察車両にはカメラも配置され、かなりの抑止効果があったはずである

一台で軍勢10名以上の威圧力はあると思う。

https://www.youtube.com/watch?v=HreN31RMoAY&ab_channel=%E6%97%A5%E3%83%86%E3%83%ACNEWS

また伊藤氏によると、本来立っているべき警察官の数が絶対的に少なく、

あのような交差点中央演説を行うのであれば、

交差点の四隅に警察官を配置するのが普通だということである

以上をふまえると

そもそもの布陣計画の失敗

・警備人数、警備車両の手薄さ

が9割の理由であると思う。

また、手薄であればそれなりの危機意識で防御態勢を築くことはできたと思う。

SP警官10人以上いたということだが、一人も後ろを配慮することなく、前方だけ見ていたのは本当に奇妙である

背後から車で近づいて銃撃されることもありえるのだから

交差点はよくない

ガードレールに囲まれ街宣車乗り入れることもできず、高さが利用できない。

見晴らしがよく、鉄砲からすれば「撃ってくれ」といわんばかりの場所である

また風水・方位学的にも、あのような踊り場はよくない場所といわれる。

クルマによる四方からエネルギー交錯する場所であるからである

日本最大級交差点・踊り場は東京赤坂見附なので、

興味がある人は実際に訪れたり、Googleマップで調べてみるといい。

いずれにしても、あの場所を選んだことが最大の失敗である

戦国時代勝敗が、布陣で決まるのと同じ結果となってしまった。

やはり今回の最大の犯人は、あの無防備な平地を指定した人間だと思う。

もし、ビルを背に向ける布陣や、階段車両の上に乗る高さのある布陣だったり、

SPが固まって大勢に見える布陣だったら、と思う。

そうした「ちょっとした」要素で、100%防げたかである

以下コラム

隣国である中国ロシアとの戦争が起きないとは限らない。

平和ボケした日本が招いた惨事である

いついかなる時でも、戦闘できる体制を作る必要があるのではないだろうか。

そのためには自衛隊の培った軍事知識を、警察庁・海上保安庁シェアし、高いレベルの調練を繰り返すことだと思う。

また、我々はそうした報道を通して、常に戦時状態認識し、危機感を持つことが必要である

多くの現場を見てきた伊藤からは、ある程度、疑いの目をもって不審者を見抜くことも重要だと分かった。

性善説日本人は素晴らしい民族だと思う。しかし、もはやそのフェーズではない。

中国ロシアは虎視眈々とこの国を狙っている。

サイバーセキュリティによる企業攻撃だけを見ても、ここ2年で数倍に増えているのである

もはや暴力に対して、きれいごとではこの国を守れない。

先日の駅員の大声で叱る動画は物議をかもしたが、

テロリストに対するあのような公然毅然とした態度が、日本人に求められている。

追記

こちら、岸田首相の警備であるが、ガラリと変わって、高いレベルのものになっている。

事件の翌日だというのに、その迅速さとレベルの高さに驚いた。

このレベルの緊張感さえあれば、日本を守り抜くことは絶対にできると思う。

自衛隊警察民間警備業、すべての関係者仕事をありがたく思う。

https://www.youtube.com/watch?v=8qVWxMYLVxg&ab_channel=ANNnewsCH

今後は、この事件きっかけにあらゆるセキュリティ国防体制が見直されるだろう。

安倍氏は、その命をもって、日本を守ってくれたのかもしれない。

2022-06-07

日本では、戦国時代において、徳川家康が窮地を逃れた際の事例がある。元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原の戦い徳川軍は武田信玄率いる武田軍に敗れて浜松城に逃げ帰った。武田軍はこれを追撃するが、家康は「あえて大手門を開き、内と外に大かがり火を焚かせた」[1]。敗走する徳川軍を追撃して、浜松城門近くまで押し寄せてきた山県昌景馬場信春の両隊は、大手門が大きく開かれ、かがり火が焚かれているのを見て、それに警戒して攻撃をためらっているところへ、三方ヶ原から引き揚げてきた徳川方の大久保康高らと遭遇し、慌てて引き返そうとしたしたところを城内から討って出た鳥居元忠渡辺守綱らの軍勢挟み撃ちになり、苦戦の末、ようやく名栗方面脱出することができた[2]。家康としては、なんの策もなかった。策のないまま、信玄が空城計と見破り、しかも、見破ったが故に、兵法家信玄が、却ってそこに策略の不審を抱いて手を出すのをためらうことに、一縷の望みを抱いたのである[3]。 つまり信玄思考の上を行ったわけで、信玄が並みの軍略家なら、むしろ空城計と見破って、直ちに城門へ突入させたはずである信玄非凡に過ぎて、却って手を出せなかったもので、結果的には、家康心理作戦勝ちであった[3]。

2022-05-29

anond:20220528184443

軍勢が200だと負けることもあるし、パラパラと投入して総勢が1000になっても負けるときは負ける。

数で攻めるにはタイミング大事

2022-05-17

anond:20220517233534

村上が抱えてる軍勢舐めないほうが良いと思うよ

2022-03-07

anond:20220307182819

ごめん渭水三国志だった。

睢水の戦いね

彭城の戦い(ほうじょうのたたかい)は、中国楚漢戦争期の紀元前205年に項羽楚軍劉邦の漢連合軍との間の彭城(現在江蘇省徐州市)で行われた戦い。「睢水(すいすい)の戦い」とも呼ばれる。

この戦いで56万の軍勢項羽が3万の軍勢勝利し、漢連合軍大敗解散へと追い込まれた。

2021-11-09

anond:20211108182014

押し寄せるおっさん軍勢にまさに世界が飲み込まれんとしていたその時、一人のおじさまが現れた……

2021-08-09

続:世界大戦争芸術

anond:20210809040759

続き

3.ガウガメラの戦い

 ガウガメラの戦いは、紀元前331年ヨーロッパ東方ペルシアにおいて、当時のアケメネス朝ペルシャの本軍と、アレクサンドロス率いるマケドニア軍が激突した戦いである。

 これまで取り上げている二つのいから分かるように、戦争芸術定義は「圧倒的な戦力差、戦略的不利を、指揮官の機転によって打破する」ことにある。このガウガメラの戦いはそのような意味合いで、戦争芸術極致と言える。


 当時ギリシャの一小国に過ぎなかったマケドニアは、アレクサンドロスの父であるフィリッポス二世の尽力によって急速な軍事政治改革を遂げ、瞬く間にギリシャ全土を手中に収めると、フィリッポス二世の死後マケドニアの実権を握ったアレクサンドロスの指揮下、紀元前334年ボスポラス海峡から小アジアへと渡り、東の大国アケメネス朝ペルシャに対し征服戦争を仕掛けた。これが世に名高い東方遠征である

 その後十年の長きに渡って続いた戦いは、アレクサンドロス企図した、アレクサンドロスによる、アレクサンドロスのための戦いであった。

 アレクサンドロスは紛れもない西方世界英雄であり、破壊者であった。当時アレクサンドロス破壊し、虐殺・略奪を行った都市は数多に渡って存在している。


 アレクサンドロスの猛進を前に、時のペルシア王ダレイオス三世ペルシア西岸イッソスにて、王自ら率いる五万以上の軍勢をもって決戦を挑み、敗北した。数的優勢に立ったペルシア軍は川を挟んでマケドニア軍に対峙し、防衛を試みるが、果敢にも渡河を遂げたアレクサンドロスを前に有効機動戦法が取れず、壊走したのである。ダレイオス三世自身が率いるペルシア本軍敗北の衝撃は余りあるものであり、敗戦の後、ダレイオス三世は堪らずアレクサンドロスへと講和を願い出ているものの、アレクサンドロスはこれを一蹴している。

 それから二年、ダレイオス三世アレクサンドロス本隊を壊滅させるべくイッソスの戦いを上回る規模の軍勢招集し、ガウガメラ荒野にてアレクサンドロス軍を迎え撃とうとしたのであった。これがガウガメラの戦いである。


 この一戦のためにダレイオス三世はありとあらゆる準備を重ねた。

 第一に、(当然のことながら)数的優位を築くこと。マケドニア軍五万弱に対して、この時ダレイオス三世招集した軍勢傭兵を含む十万以上であり、つまりアレクサンドロス軍の二倍以上に当たった。この規模の軍隊は当時の兵站で維持可能な最大レベル軍隊と言え、当時におけるペルシア軍の威信の程が推し量られる。

 また、彼らの戦いの数百年の後に行われたカンナエの戦いにおいて、勝敗を分けたのは騎兵戦力の優劣(とハンニバルの用兵)であったことは先述の通りであるが、マケドニア騎兵七千に対してペルシア騎兵の数は一万を超えており、質はともかくとして量においてはペルシア軍はマケドニア軍を圧倒していた。ここにおいても油断は無かった。

 更にダレイオス三世は当時最新鋭の兵器の一つであった戦車チャリオット)を陣中に大量に配置した。これは複数軍馬によって牽かれる戦闘用の馬車のようなもので、車輪の左右には鋭利刃物が取り付けられると共に、車上には弓兵が配置されており、通常の歩兵戦闘において絶大な威力を発揮する筈であった。ダレイオス三世はこのチャリオットの突進力によってマケドニア軍を圧倒しようとしたのである

 また、ペルシア軍は戦場の整備をも欠かさなかった。チャリオットの機動を阻害する石や木の根などの障害物を、決戦の事前に排除しておき、イッソスの戦い(ペルシア軍は閉所にて有効な機動ができず壊滅した)で舐めた辛酸を繰り返すまいとしたのである

 相手に倍する軍隊、奥の手としての秘密兵器駄目押しにその秘密兵器の機動を有利にする戦場整備、限りなく万端に近い準備の上で、ダレイオス三世は決戦の時を待った。


 紀元前331年10月1日ペルシア軍とマケドニア軍の双方はガウガメラの地にて対峙し、戦闘を開始する。

 この時、マケドニア軍の司令官であるアレクサンドロスの立てた作戦シンプルものだった。それは、緒戦から防衛に徹し、敵の隙を見て騎兵突撃させ、敵の本陣を陥れるというものであった。

 言うは易しだが、何しろマケドニア軍とペルシア軍の数的差は一対二であり、言い換えれば、敵軍には五万以上の余力があった。そんな状況で、本来であれば隙など生まれる筈はなかったのである

 開戦直後、アレクサンドロスは全軍を緩やかに右斜め前方へと斜行させる。本来であれば軍隊の斜行は自陣に綻びを生む可能性の多い行動であり、採用されることはまず無かったものの、アレクサンドロス自軍の機動に合わせてペルシア軍の不用意な機動を誘った。案の定、折角整備した戦場から離脱されることを恐れたダレイオスは、三方(正面、右左翼から雲霞のごとき兵数を動員し、マケドニア軍を包囲しに掛かった。


 その大軍王道とも言うべき用兵に対抗するべく、アレクサンドロス自軍純粋な横列ではなく、左翼右翼を折り曲げた弓状に変形させており、この鉤状になった右翼左翼を持ってペルシア軍の猛攻を受け止めようとした。

 しかし兵数の差が決定的であったこから、持久戦となればマケドニア軍の敗北は自明であった。左右のいずれかを突破され、後方にペルシア軍の進撃を許した時点で、マケドニア軍の崩壊は決定づけられる。更には、マケドニア軍正面にはペルシア軍の虎の子であるチャリオット隊の猛攻が迫っていた。


 とは言え結論から言えば、このチャリオット隊の猛攻をマケドニア軍は退ける。

 曰く、マケドニア軍は軍馬というものの持つ本能――顔面鋭利物体(槍など)を突き付けられると足を停めてしま本能や、チャリオット特有の旋回能力の低さを突いたと言われている。つまりチャリオット突撃部隊の散開によって躱し、その後方から弓などの武装によって攻撃を仕掛けたのである。恐らくは事前の情報やこれまでの戦闘からマケドニア軍は対チャリオット戦術を磨き上げており、どのような場面においても遅れを取ることはなかったのであろう。

 これらの柔軟な対応によって、マケドニア軍に対する有効戦果を挙げることのできないままチャリオット隊は壊滅することとなる。


 さらには、マケドニア軍両翼はその圧倒的な数差にも関わらず極めて堅陣であり、容易に抜かれることは無かった。強いて言うならば、アレクサンドロス本人が率いる右翼騎兵に比べ、左翼を指揮するパルメニオン将軍は劣勢を訴えていたものの、それでもペルシア軍の猛攻をひたすら受け止め続けていた。

 ダレイオス三世の予想に反し、戦況は膠着状態に陥る。ダレイオス三世本来であれば本陣防衛に充てるはずであった予備兵力騎兵を動員し、マケドニア軍両翼の騎兵に対する圧迫を増大させようとした。短期決戦によってマケドニア軍を壊滅させようとしたのである


 この決戦から二千年以上もの時が流れた後では詮無い事だが、この時ペルシア軍が持久戦に徹し、その両翼での戦闘を維持し続けていれば、ガウガメラの戦いにおける帰趨は逆になっていたかもしれない。

 しかし、ダレイオス三世はその判断を逸した。

 アレクサンドロス超人的な直感によりペルシア軍の崩壊予知した。右翼防衛に当たっていた自ら率いる騎馬隊を突如ペルシア軍正面へと転換させ、両翼へと予備兵力を割いたために手薄になっている、ペルシア本陣のダレイオス三世を狙ったのである。当時、マケドニアの率いる騎兵部隊、いわゆるヘタイロイ騎兵世界においても有数の練度を誇っており、その突進力は歩兵にとって純粋な脅威であった。ヘタイロイ騎兵の突進により、ペルシア本陣のダレイオス三世位置を告げる軍旗が大きく揺れる。ペルシア軍を支える精鋭である親衛隊は敢然とその侵攻を阻もうとするが、アレクサンドロスの猛進は止まることはなかった。

 やがて、ダレイオス三世本陣の上に翻る軍旗は逃走を始め、アレクサンドロスはその追撃へと移った。ガウガメラの戦いの勝敗はここに決したのである


まとめ

 諸君、私は戦争が好きだ。

 この地上で行われるありとあらゆる戦争行動が大(ry

 参考文献:ttps://www.youtube.com/channel/UC5dzkTCM0Jxnc5widb8arDw

2021-07-15

anond:20210715150820

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆武田二十四将の一人に数えられる。

信茂の勝頼離反から滅亡

岩殿城

天正9年12月織田信長徳川家康武田領攻めを開始し(甲州征伐総大将織田信忠副将滝川一益)、信濃木曽郡国衆木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模後北条氏武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日織田信忠伊那郡高遠城仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。

勝頼は天正9年に新府城山梨県韮崎市)を新たに築城甲府から本拠移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃国衆真田昌幸上野岩櫃城群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅小山田を頼り郡内の岩殿城大月市岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。

なお、岩殿城小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)から距離があることから岩殿城小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日岩殿城武田勝頼が在番衆派遣している事実も注目されている[17]。

武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。

信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟小山田左衛門と勝頼の従兄弟武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠大月市甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。

甲斐善光寺

一方、織田徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。

織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男人質として差し出すために信長拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。

信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

人物

武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場重臣と共に名を列ねている。

武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。

設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

鉄道唱歌(作詞福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。

2021-07-08

anond:20210707223409

素人目線の疑問なんだけど、117万の軍勢って言うけど、西暦数百年程度の文明が117万の組織を三日と維持できるのかどうか信じられないんだけど、どうなの?三人でキャンプするのも大変なおっさんの疑問です

2021-06-29

anond:20210629111110

大学生かな?w

この話をつきつめるとバベルの塔みたいな話になってくるからやめるけど、個人とか自宅とかに置き換えてみればいい。

自分の庭に隣人の柿の木の枝がのびてきたり、熟した柿が落ちてきたら抗議する、それがまあ「利害」という概念のプリミティブな例である

簡単にいうと「争いの火種」ってことかな。

企業活動通貨金融経済活動というルール指定されているのでそのルールを逸脱した利害行動はできない。

たとえば暴力だとか、不法占拠だとか。そのかわりに法律と金が動く。

いっぽう国家民族においては、その国家民族を「定義」した時点で利害が発生する、と考えている。

たとえばウイグル人東トルキスタンという国がもともとあったから、中国侵略されても、中の人間が「我々は東トルキスタン人だ」といえば、

その「利害」を消すことができない。だからそれを完全に消そうとして、100万人以上を奴隷労働させて臓器を抜いたりしている。

基本的人間である以上は利害が必ず発生するわけだが、それを国家レベルでやると、間違えた人間が王になると「暴力」「不法占拠」「弾圧」「虐殺」が発生する。

それがエスカレートした有名な例は、呉越戦争きっかけがわかりやすい。

けっきょく、サイズの違いはあれど「人間の争い」が利害であり、国家建国した人間や、その時点でのトップの「人間性」が利害の拡大縮小を左右させるのだと思う。

紀元前519年のあるとき、呉楚国境の村で小さないから国の運命をかけた戦争へと発展する事件が起きた。その村では養蚕(ようさん)が盛んであったため、蚕の餌となる桑の葉を大量に必要としていた。そのため、辺りには桑の木がたくさん生えていたが、呉の村の子供と楚の村の子供がこの桑の葉を争って喧嘩を始めた。それが子供の親同士の喧嘩に発展し、呉の村の親が負けて家を焼かれた。これに村を統治している郡主は警備兵を出して村を攻め立てた。この報を受けた平王は怒り、国軍を出して村を全滅させた。呉の村が滅ぼされたのを聞いた僚は激怒して国境の居巣と鍾離を攻め落とした。さらに州来まで進撃したため、楚も武将の蔿越を派遣してこれを迎え撃った。だが、公子光が「楚に属国はいずれも小国で楚をおそれて従っているだけです。「戦は情けよりも武で、無勢でも勝てる」と聞きます。まずは属国の胡と沈は君主が年若く、陳の大夫の夏齧は年老いて頑固で国政は停滞し、また頓と許と蔡は楚の振る舞いに不満を持っております。同時に楚も統率力がある令尹が亡くなったため、混乱しております。まずは軍を手分けして、胡と沈と陳の軍勢突入すれば、楚はますます混乱に陥り、他の属国軍勢も崩れるでしょう。まず先鋒隊は隙を多くし、敵をおびき寄せて、後詰の本隊で撃ち破ることをお勧めします」と進言した。僚はこの進言を採り上げて、秋7月に鶏父で呉王僚自らが囚人3千人を胡と沈と陳の軍勢攻撃させ、右軍は公子光、左軍は公子掩余が指揮し、胡と沈の若い君主捕虜し、陳の大夫の夏齧も捕らえた。こうして呉は勢いに乗じて楚を撃破した[1]。

2021-06-09

続・夏がくる

里芋ネギは近い区画に植えられたことで、どちらが家族の寵愛を受けるのかで度々論争になった。

里芋は甘く煮付け、すりおろしても美味しく、ふかしても美味しいわれこそ食卓を飾るべきだとまくし立てた。

ネギも負けてはいなかった。薬膳にもなり、薬味にもなり、夏にも活躍し、冬に煮付けてもうまく、漬物の友にもなるわれこそが食卓にふさわしいと里芋を攻め立てた。

畑の主人が寝入ってから議論は続き、ついに朝日が出る頃にはトマトも参加して一発触発の事態となった。

引くに引けなくなった三者軍勢朝日と同時にトランペットをかき鳴らし、それぞれの土地食卓を守るべく進軍を開始した。アリシンを含むネギは強かった。その殺菌効果により里芋土地荒らしてゆく。トマトの根が持つ毒素も強かった。しか里芋にはしぶしかなかった。しかしぬめり成分ムチンはしばしばネギを足止めした。これもネギには有効であったが、トマトにはさほど効かなかった。トマトの実はもともと完熟状態であった。かくしてネギ土地トマトの実でグジュグジュになり、トマト土地はアリシンで辛味あふれる地と化した。里芋の地もアリシントマトの毒素で荒れ果て、遠征に出たそれぞれの根や実はその無残な死体晒すことになった。

翌朝、寝ぼけながら出てきた主人は荒れ果てた農作物を見て、ああ、イノシシが来たな、と思っただけだった。

しかし、その日も暮れて主人が寝静まると、農作物たちはそれぞれの土地の縮小を理由聖地奪還と称して争いを繰り広げた。栄養栄養で洗う戦いは続いてゆくのだ。

anond:20210609144532

2021-06-08

anond:20210607234817

満寵

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

満 寵(まん ちょう、? - 242年3月)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武・満奮。『三国志魏志「満田牽郭伝」に伝がある。

目次

1 生涯

1.1 酷吏として出世

1.2 軍人として活躍

1.3 呉との攻防

2 三国志演義

3 脚注

生涯

酷吏として出世

身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。

その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為曹操に大いに賞賛された。

楊彪逮捕された際、荀彧孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操楊彪赦免した。

これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人からまれることはなかった。

軍人として活躍

官渡の戦いの時期には、袁紹郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。

曹操荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍兼務し当陽県に駐屯した。

孫権国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。

後に、曹仁参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。

呉との攻防

曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、三方から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。半年曹真・夏侯尚・徐晃張郃・文聘らとともに朱然交戦したが、戦死者も数多となり、江陵を攻められなかったので撤退した。また、曹丕の南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた。224年には前将軍に昇進した。

曹叡(明帝)が即位すると昌邑侯に進封された。

228年、曹休司馬懿・賈逵が揚州荊州豫州雍州涼州の五軍の指揮を執り、石亭・江陵・濡須東関三方から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休孫権の計略にかかり大敗したため、犠牲者も数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。また、司馬懿張郃らも江陵を攻め落れずに退却した。

同年、曹叡は濡須東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた[2]。

曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛に行い、賈逵の死後に豫州刺史兼任し、曹休の死後に都督揚州軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。

230年には征東将軍となった。冬に再び孫権合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権撤退偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権10日ほどしてから再び来襲したが、合肥を攻められなかったので無事に撤退した。

231年、呉の孫布という武将投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。

満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言たからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[3]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援・廉頗に準え鼓舞した。

232年、呉の陸遜が廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した。

233年、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法道理を引きながら築城長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。建設に莫大な費用がかかることもあって、合肥城ともども廃れていった。

同年、孫権合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権武威を振るっているので、必ず陸に上がることに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。

234年、孫権は十万の軍勢である呼称合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は孫権呼応して(「満寵伝」)、二十万の軍勢である呼称し祁山に攻め寄せてきた。合肥魏軍が苦戦に陥り、これを恐れていた満寵は合肥新城放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さら曹操孫権の甥孫泰を射殺した。張穎達とともに力を尽くして戦ったが、呉軍は依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。

235年春、孫権江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払った。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵恩賞とされた。

曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[4]、老年のため中央召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。

242年3月[5]死去した。景侯の諡号を贈られた。

子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれ殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋時代尚書司隷校尉となった。

また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[6]。

三国志演義

小説三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。

2021-06-07

その夜は眠れなかった。

四方から軍勢の鳴き声が聞こえてくるのだ。

グンゼッ」

グンゼッ」

グンゼッ」

恐ろしい。

夜に攻撃を仕掛けてくることはないだろうが、逆に言えば明日の朝には一方的蹂躙が始まるのだ。

グンゼッ」

グンゼッ」

グンゼッ」

真夏の夜だというのに冷や汗が伝う。

グンゼッ」

グンゼッ」

グンゼッ」


夜が明けて、我々は拍子抜けした。

軍勢の鳴き声だと思っていたのはグンゼ下着だったのだ。

これ幸いとばかりに冷や汗で塗れた下着を取り換えようと全裸になったのだが……。


グンゼ下着が一気に襲ってきた。

我々は忘れていたのだ。

グンゼ下着の恐ろしさを。

軍勢でなかったことに安心して警戒を怠ってしまった。

死の間際に恋人のことを思い出して、全裸であることの興奮も手伝って全力で勃起したまま二度と目覚めることのない眠りにつくのだった。

2021-05-25

anond:20180309211729

Hearoes of Might and Magicシリーズ

ターン制のストラテジーゲームで、資源を集めて軍勢を編成して戦うながれ。

種族人間なら弓兵やら騎士天使ウィザードならゴーレムやらアーチメイジやらのユニットを使う。

遠距離、近距離、飛行、反撃無効などユニット個性を活かして戦うあたりは今どきのカードゲームと同じ。

Windows98時代バージョンⅡの音楽、素晴らしく美しくて未だによく聴いている。

https://youtu.be/xRHor2L_NQE

2021-04-02

その夜は眠れなかった。

四方から軍勢の鳴き声が聞こえてくるのだ。

グンゼッ」

グンゼッ」

グンゼッ」

恐ろしい。

夜に攻撃を仕掛けてくることはないだろうが、逆に言えば明日の朝には一方的蹂躙が始まるのだ。

グンゼッ」

グンゼッ」

グンゼッ」

真夏の夜だというのに冷や汗が伝う。

グンゼッ」

グンゼッ」

グンゼッ」


夜が明けて、我々は拍子抜けした。

軍勢の鳴き声だと思っていたのはグンゼ下着だったのだ。

これ幸いとばかりに冷や汗で塗れた下着を取り換えようと全裸になったのだが……。


グンゼ下着が一気に襲ってきた。

我々は忘れていたのだ。

グンゼ下着の恐ろしさを。

軍勢でなかったことに安心して警戒を怠ってしまった。

死の間際に恋人のことを思い出して、全裸であることの興奮も手伝って全力で勃起したまま二度と目覚めることのない眠りにつくのだった。

2021-02-27

anond:20210227134325

おもいおもいの、おかし武器を装備した、屈強な男たちの軍勢

最強の武器かはしらんおかし武器を持っている。

思い思いの武器をもってきたのだろうさ。無限はいない だが軍勢と呼ばれる程度の人数はいる。

横浜がそうであれば、長崎もそうだろう。大阪は知らん。寝てんじゃね?

2021-01-03

ソロモン72柱とかいう鬼滅のパクリ

しかも設定を広げすぎて地獄軍勢の数が意味不明になってる。

とりあえず階級つけておけばいいとかい小学生レベルの発想。

公爵男爵のどっちが偉くてどう違うかとかもきっと分かってない。

2020-12-28

Age of Empires II のDefinitive Editionがあったので久しぶりにインストール

チュートリアルをやり直して木の伐採と畑の収穫をやっていたところ敵の軍勢蹂躙され

このゲームが大っ嫌いだったことを思い出した

奈須きのこはいった

こんな弱い武器だって きっと いいところはあるの

王の軍勢がつかえば こんな武器だって きっと 宝具の端くれになまえを つらねられるよ

イオニオン・ヘタイロイ

 

タイマン ってことでいいのか?

相手軍勢と 同じ数以上の軍勢 だが それはひきようだろ イスカンダル

こちらのほうが多いなら 同じ数で戦おうじゃないか

 

無限タイマンをはろう

 

軍勢 最弱宝具

2020-08-30

[]赤備えロンダリングゆめうつつ

 武威ノ本の戦において軍勢の姿、備えは大事だ。最も大事と主張する者さえいる。

 ゆえに同じ備えを用いることで軍勢の強さすら引き継げると考える家が出てくる。これは近年の幌生家四天王や為力家の稲ヶ嶺五行衆のようなユニット化によって、個々の評価底上げする手法の延長線と言えなくもない。

 一方、最初に備えを用いた元祖こそが本物であり、それ以外は評価に値しないとする日ノ本戦甲斐国民のような原理主義者もいた。

 備えを受け継ぐ人物がその備えにふさわしい器量をもっていれば、しっかと強い軍勢を育てられるはずという意見もある。だが、それほどの人物ならば最初から新しい備えで軍勢を育てても成果を挙げられるのではないか

 もちろん、備えを整えるための賄いは莫大なものであり、善し悪しの議論一筋縄ではない。

 実例では、かつて家臣の国士無双により強盛を誇ったM家にて、お家騒動により家臣全員が出奔、その備えを新参の家臣が受け継いだものの精細を欠いた事例がある。

 あるいは最初戦国大名と言われる愛宕縁の備えを同時に四人が用いることで戦力を高い方に引っ張ろうとして逆さまの結果に陥ったこともあった。

 また、宝槍家が備えの正統使用者の座を数十人に競わせた催しは、分散して育んだ力を一点に集めていこうとした逆方向の試みと言える。

 かように備えの継承は難しいのだが、戦術レベル一時的に備えを交換する作戦は概して効果的であり、討ち取られる兵も多い。

 特に為力家の蟐娥光圀が行った備え替えは大規模なものとして音に聞こえている。

 備えは引き継いでいないながら、小鯨白姫の流れを汲みつつユニットの力も発揮した居戸家の十二星将こそが、この手で一番の成功例だったのかもしれない。


 なお、血縁者が備えを引き継げば話が変わってくるとも考えられるが、そこまで月日を経ると軍事技術更新されて備えを引き継ぐ意味も失われる可能性がある。

楠永玉秀の謀略

https://anond.hatelabo.jp/20200823175138

株兎の屈辱

https://anond.hatelabo.jp/20200825185224

この増田フィクションです。実在仮想人物団体などとは一切関係ありません。

2020-08-26

ブロガーとしての回答は、YES 理屈が違うので注意

Q.肺炎球菌ワクチンを接種していれば感染リスクは低くなりますか?

肺炎確率が下がる。

結果論として肺炎になる確率が下がる

結果論として、肺炎になった結果、病院に行くことに成る

病院に行った場合ゼントラーディ軍勢が、マクロス空間を展開している。

よって、肺炎球菌ワクチンを接種していれば感染リスクは低くなることもある。

2020-08-25

[]株兎の屈辱

 六月朔日

 武威ノ本最大規模の宗教団体である梵天堂が出した制札が世間を騒がせた。いわく、

一.浪人以外の荘園での刈田狼藉を禁ず

一.浪人へは炊き出しを施す

一.西サンジバル藩王国とは談合の上、荘園での兵糧調達を許す

 武威ノ本で最大の家臣団を抱える西サンジバル藩王国は、対価が必要になるもの梵天堂の荘園兵站線に組み込むことが可能になった。他の勢力を大きく引き離した形である。だが、それよりもすでに梵天荘園から日常的に徴発を行っていたヒポポタマス帝国行為問題となった。

 帝国幌生家の言い分は「我が家足軽大将たちは浪人一時的に雇った傭兵であり、浪人範疇に含まれる」との無茶なものであったが、押領ではないかとの厳しい批判を浴び、梵天堂に詫びて禁制を出してもらう道を模索することとなった。

 武威ノ本では日ノ本の戦国時代とは逆に寺社仏閣の方から勢力に禁制を出すのである

 騒動はこれで終わらなかった。

 問題発生後、ピポポタマス帝国足軽大将たちは制札を出すようになったのであるが、その書式や署名が怪しいとの指摘が相次いだのである。この手の文章武威家諸法度で用語などが定められている。

 逸脱は民衆の不信を呼び込むこととなった。

 ついにあるとき、地弥呼と呼ばれる足軽大将南蛮寺院 兎社から物資調達に際して、「須田教団からの承諾を得ている」と出した制札が大問題となった。実は須田教団は武威ノ本における代理布教団体立場にあり、兎社自体は六星教団の持ち物だったのである。兎社から徴発に際しては六星教団の許可必要なはずであった。

 このような権利確認の疎漏から制札の正当性が疑われ、徴発を行った地弥呼の軍団解体された。地弥呼は経緯の説明がないまま蟄居となった。しかし、すでに兵の腹に収まった兵糧が返還されたか不明である

 続いて足軽大将、澪生狼の兵がかつて株魂大社神社から刈田を行ったことが問題となった。事態が発覚すると、その兵2名は破門を宣告され、責任者である澪生狼自身永久破門危機に晒された。軍団物資調達能力をまったく失った彼女は、蟄居という名の隠居道楽に興ずることとなった。この時の絵日記が後世に残されている。

 あわてたヒポポタマス帝国の幌生家は大半の部隊を一時解散する暴挙に出た。頭を低くし震えて各宗派の慈悲を請うたのである。そのため、帝国の抱える問題は衆人に広く知れ渡ることとなった。

 破門に端を発するこの歴史的事件を株兎の屈辱という。

 ちなみに幌生家には兎耳形兜を着用した凹田という武将がいたが、2つの事件に直接の関係はない。彼が野良制札を出していないとは言っていない。

 ところで、西サンジバル藩王国にも浪人上がりの武将は多くいた。しかし、彼・彼女らは主たる為力家に規律を叩き込まれ、常雇いによって刈田狼藉の悪習からは離れていった。兵農分離が成し遂げられない武将は一部にいたが・・・・・・

 また、先に出てきた昇国の居戸家は荘園から物資調達に慎重で、基本的には道を借りるに留めていた。そのことについて家臣や領民の一部に不満は出たが、他にも財源があるため、これが可能だった。どの家にもできる芸当ではないため、居戸家のようにしろと求めることはロジハラロジスティックハラスメント)と呼ばれている。

 一方、勢力拡大を最優先するヒポポタマス帝国武将浪人時代の習慣が矯正できないまま、軍勢の規模を大きくしてしまった。当然、規模が大きくなれば刈田狼藉被害も大きくなり、宗教団体の厳しい目に晒されることとなる。

 勢力図上は順風満帆みえ帝国であったが、その前途は多難といえる。

楠永玉秀の謀略

https://anond.hatelabo.jp/20200823175138

この増田フィクションです。実在仮想人物団体などとは一切関係ありません。

2020-08-10

anond:20200810210552

戦力は多いほうが勝つので、少ないから負けただけ

防衛能力がなかったら輸入品が何も買えなくなって交渉国の面倒な仕事を全部させられるだけになるから最低限国際間で死ぬ人の準備が必要

殺されたら被害を届けて国の集まりで多いほうが交渉を有利に進めようと判断してもらえるので軍隊必要

永世中立国銀行国益賄うのは保護国連携をふやすため

日本独自文化日本人の安全を願うのだったら団結して国防を含めた国益に貢献すべき

外国ではみんなやってる自民族確立のための努力をしてないのは南国パラダイスの古民族日本人くらいなもの

日本は何度か受けた空襲民間人の死者被害戦争法違反で訴えるべきだったが戦争で勝とうとして被害届をださずに腕に覚えのある知人をたよってみんな負けたので結果負けた

第二次世界大戦アメリカ警察を押さえてた 日本降伏させたのは「UNアメリカではなく国際連合 国際間組織が実質降伏させたので悪いのは日本という事

(いまは国際連合中国が抑えているので数年来抑圧してるチベットとかウイグルとか最近香港などは中国正義がまかり通ってる)

戦争死ぬ役割がでると意見として死なせるなという風潮がおきて国民の何割くらいまで被害がでると戦意喪失されるという結果に至るのであらかじめ死んでもよいまたは死ぬため死なないようにする訓練を受けたもの必要になるので死なない国民をつくるために兵隊組織する

人間人間を殺すという行為自体効率が非常に悪く一人が一人ないしは三人程度を相手にすることくらいが限度 そのため数千の大軍に数百の軍勢勝利したり中央突破できたりする

これを全否定するのが核兵器 つづいて大量殺りく兵器 人を殺すのが戦争なのになぜ効率化がよくないのか 暴力の勝ち負けが戦力の維持が不能になることだから 第二次大戦では戦力自体日本底なしだった(一億総何々)

日本は何割まで死ね戦意喪失するかという基準アメリカの想定をはるかに超えていたため脅威とされそれを人道的と称して講和にもちこんだ(原子爆弾による民間人の大量殺戮上層部の情に訴えた)

戦争ルールを覆すので日本降伏後そういうのはダメ教育に盛り込まされた ベトナムでは軍備量だけでは勝ててない ベトナム民間人を含めてやたらと殺しても許されない程度に世情がうご情報網の発達があった 中国情報統制がうまくいってる(と思ってる)のでこそっと民族殲滅をしてる(ばれても国連に食い込んでるので黙殺

軍備合戦になると天井知らずになるという危惧について、軍備合戦天井相手が戦力の維持が難しいと思わせるところまででよい

国際協力や単体の戦力などで、もし状況が悪化した場合安全維持の名目他国が護衛に入ってくるとそれに見合った戦力を維持することが難しいとなるところで十分

また軍事目的産業国内生産があがる 国力の増加で内需を軍需にまわせる この循環のための一次産業金属と油でよいため生産性が高い

生産性の低い弱小食物輸出国植民地支配を免れているのは国際的連携において面倒な生産部分を担っているため 近代化するといやがらせをうける

軍備の生産をつづけると償却材がでてくるので紛争地帯必要になる 金属と油のあるところには軍事介入が容赦なくされる

日本語がわからない人に簡単説明すると、防衛目的で人の壁を築ける人がいないと被害届を出せる状況にもっていけないので、敵がきたら前にたって死なないように抗う人が必要なだけ それが防衛の人の仕事

境界線に敵が軍事力をもってきたときアルバイト募集で「最前線生活する人募集」でも軍隊と同じ役割ができる(国際組織が正常に機能していたら、国際法違反とかで訴える)がそんなのだもこないのであらかじめ死ぬように(死なないように)訓練されて、死んでほしくない人のかわりになる仕事がいる(兵力

毎回殺されてから被害届をだすのもなんなのであきらかに国際的に定められてる蛮族がくると攻撃してもよいため攻撃手段はほしいところ

人が人をころさないという事が絶対的保障されたら、被害が発生しないので、補償必要はないので、補償を履行させるための力が必要なくなる 人が人をころさなとはいえいから力が必要でそれが殺される局面において抵抗するだけの軍備

欧州の国みたいに国単体では軍事力はないがほかの国から出してもらってるところもある

永久戦争しないって宣言してる国が軍隊をもっているのは攻め込んで戦争する、悪い奴は積極的にやるとかのためにあるわけではなく、攻撃されてもみんなの役に立っている事は自力防衛するのでわたしの国をいろんな国むけに使ってほしいという事のため

永久戦争しない宣言の国の銀行員が不正な行動をしたとき軍隊がないので国際的な介入がされたとき実質支配権安全確保のためという名目の上でその軍事力の国がもつことになる(その時々の違反を正しい「保安部隊」が維持するため)

巨大な兵器や新しい武装や洗練された技術者兵員)が必要なのは その場所まで移動する手段必要なため巨大な引っ越し業者生活もできる)という隊が必要なだけ(兵隊

最新設備や強い武力相手攻撃してきた場合それに耐えかつ攻撃者を撃退することが可能であるようにするため(できるだけ自軍は死んでほしくない相手正当防衛で事の次第による)

海や陸や空においてそこで人が活動しなおかつ問題対処する能力必要な人にそこにいてもらうための能力軍事

日本はそんなに気にしなくていいよアメリカがそれ出してあげるから問題があった場合正義平和のために「アメリカルールアメリカ軍)が動くけどね)というのを国際間協力という名目沖縄とか全国に基地被害者となってくれる率先して前線引っ越してくれる役の拠点)を設けてる

もちろん日本問題があった場合は、国際協力として「アメリカ軍が日本拠点制圧する」ってことがあってもしょうがないよね(しょうがなくないので自衛必要だと思われる)

巨大な軍備があれば国は守れる それはたしかに守れる それは人が人を殺すのは効率が非常に悪いという点から人が多く兵器の数があれば強いわけではない

現に核兵器がそれを示して結果を出している しかたなく民間人を殺すけどというのを武力というなら兵力としてそれを備えないのが核非武装 防衛あくま自衛手段攻撃をしてくる民間人ではない敵対者(時に人間という前提でほぼ人間

どの戦争でも核保有すればいいだけ ただ核兵器使用目的破壊殺戮のみなのでこれほど純粋目的を完遂するものはないので保有国はほかに保有国がふえることを厳しく制限している

内戦移民のつづく国は軍備を高めて核を保有すれば近隣国との交渉もしやすく豊かになっていくが一般的兵器が余る国はそれを消化したいしその的を国際協力という名の元に他国から募りたい

中国国連アメリカソ連兵器の消化を紛争地帯でしないよう根本的な解決を試みたら具体的な中国問題に実力を行使するかもしれないが国防費の循環とGDP成長を握られているのでおおよそ悪いとは言えない

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