2024-03-19

ジョチの出生をめぐる問題

ジョチという名は、中世モンゴル語で「客」「旅人」を意味するが、この名前は出生の事情によっている。

ペルシア語歴史書『集史』によると、ジョチが母のボルテの腹の中にいたとき、まだ弱小勢力だった後のチンギス・カンことテムジン幕営が、モンゴル部と敵対するメルキト部族君主トクトア・ベキ率いる軍勢によって襲撃される事件があった。メルキト部族連行された時、ボルテは既にテムジンの子を身籠っていたという。テムジン同盟であるレイトのトオリル(後のオン・カン)がメルキト側と交渉してボルテを取り戻し、トオリルはテムジンを自らの「息子」と称して尊重していたため、彼女を鄭重に保護してテムジンのもとへ送り戻した。テムジンは側近のひとりだったジャライル部族に属すセベという人物派遣してボルテを護衛し、その旅中でボルテはにわかに産気づいて男児出産した。出産後、セベは揺かごの用意も出来なかったので少しばかりの穀粉で柔らかな練り物を作ってそれでジョチをつつみ、さらに、自らの衣服の袖に包んで手足が痛まないよう大事に運んだと言う。こうして、ケレイトからテムジンの居る幕営地までの旅中で生まれ男子だったので、「旅客」を意味するジョチという名を与えられたのだという[4]。

一方、モンゴル語で記された『元朝秘史』では、

もともとチンギス・カンの母のホエルンはメルキト部の者と結婚していたが、モンゴル部のイェスゲイによって略奪されてその妻となり、テムジン(後のチンギス・カン)を生んだ。のちにイェスゲイの遺児のテムジン結婚したことを知ったメルキトは、ホエルン略奪の復讐としてテムジンを襲撃してボルテを略奪し、ホエルンの元夫の弟にボルテ結婚させた。一方、逃げ延びたテムジンはトオリルとジャムカの助けを得てメルキトを討ち、ボルテを取り戻す。しかし、そのときボルテ妊娠して出産間近であり、まもなくジョチが生まれた。このため、ジョチはメルキトの子ではないかと疑われ、のちにジョチのすぐ下の弟のチャガタイは、父の面前でジョチをメルキトの子と罵ったが、チンギス・カンあくまでジョチを長男として扱った。

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