はてなキーワード: 習い事とは
子供のころの習い事は強制的に通わされることもあり、大抵の場合それをしなかった他人と比べて抜きん出た能力を得ることができる。
そうして得られた能力は後の人生において、自己肯定感の根源であったり、趣味の分野でいかんなく発揮されたりする。
そんなメリットの多い習い事だが、僕に与えられたのは後の人生から見たら「ハズレ枠」に含まれる習い事だった。
小学生のころ僕は「硬筆・習字」と「水泳」の2つの習い事に通っていた。
まず「硬筆・習字」に関してはなぜ左利きの僕を通わせたのかまったく理解できない。
ご存知の通りすべてのひらがな・漢字は右利きを前提とした設計をされており、左利きではどうあがいてもお手本通りの作品など仕上がりっこないのだ。
当時の僕はその事実を知らないまま、ただ漫然と言われるがままに駄作を作り続けていた。
学校の習字の授業では、なぜ習い事をしている僕のほうが隣の女子より下手なんだ?と本気で疑問に思っていた。
習い事ってのは隣近所のご学友にマウント取って自己肯定感高めるためのものじゃないのかよ。なんで逆にマウント取られてんだよクソ。
っていうか「硬筆・習字」って趣味にもならないし、ペン字と比べて実務的でもないしいらんやろこれ。
「硬筆・習字」と比べて「水泳」については完全に自分の性格のせいで無駄になってしまった。
一通りの泳法が学べたのはいいと思う。でも陰キャにはそれを披露する場は与えられていない。
体育のプールで注目されるのは、体力オバケの野球少年やヤンチャしてる陽キャたちなのだ。
水泳を習ってはいても僕は普段から運動するほうではなかったので、平泳ぎでも50mも泳げなかった。
のちに大学生になり友人らと海に行っても、沖の方までついていくことはできず浅瀬でチャプチャプするのが精一杯。
(ていうか途中で体力尽きたら終わりじゃん?よく怖くないよな・・・)
結局習った水泳スキルを活かせる場は今までの人生で一度もなく、これからもきっと来ない。
ピアノとか絵とかだったら習い事をやめても、そこで培ったスキルを活かせる場はいくらでもあるしなんならお金を稼ぐ手段にすらなる。
生活リズムが変わります。フィジカル的にもメンタル的にも順応するには時間がかかります。
やることが変わります。新しいことは楽しいですが、覚えるのは難しいです。
さんるい?瑠衣くんが三人いるの?分かりません。失敗すると恥ずかしいです。
今まで通りのことをして安心したくなります。今までできたことを今もできると確認したいです。
できるようになったことは褒めてもらいたいです。
褒めてもらえなかったり恥ずかしいときは、成長を自慢したくなります。
は?おまえ××なんかしてんの?だっさ!ふつうしょうがくせいなら〇〇するだろ!
友達が変わります。仲の良い人が他の人と楽しそうにします。さみしいです。
さみしい時にうるさい人が近くにいると、怖くなります。
さみしい時にふざけて大きな声を出してないと、さみしくなります。
さみしくなると、慰めてほしくなります。
小学生という肩書の重さは誇らしくもありますが重たく感じるときもあります。
それなりの筋力が付くには個人差があります。比較は不公平に感じます。
年上の人が意地悪をしてきます。
大きい声を出したり、たたいたり、好きなものをバカにしたりしてきます。
ゴールデンウイークが明けて2週間くらいで年上の人から順に落ち着いてきます。
このあたりから周りの人たちと話をするのが楽しくなってきます。
家族に言えない時は学校の先生でもいいし公文の先生でもいいし習い事の先生でもいいです。
話を聞いてくれない大人より、話を聞いてくれる大人の方が多いです。
あとは適当に楽しんでください。
通っていた教室では年に1度発表会があって、多分強制じゃ無かったんだろうけど、当時はお月謝とか教室のシステムとか何も知らずに、ただなんとな〜〜く通っていたので、なんとな〜〜く発表会にも出席していた。
正直、ピアノの練習は好きじゃない。先生が発表会のために選んでくる曲は毎年複雑な曲になっていくし、やんちゃだったので、ピアノのために学校の体育なんかで指を怪我しないように気をつけるのもめんどくさかった。というか指をほぐす運動?運しの練習?のただ単調なアレ(名前忘れた)が最大級にウザかった。最高に楽しくないと思う。そんなのよりもう弾ける好きな曲弾いてた方が楽しくない?って感じだった。もっと言うと、音楽のセンスが無かったし、ピアノに没頭できるほどの興味も多分なかった。いつだかにのだめカンタービレのドラマとか映画とかを見て「ふーん、音楽が好きな人はこんな考え方をするのか」なんて思った記憶がある。
ここまで書いたけど、教室に通うのはそんなに嫌いじゃなかったと思う。教室ではでっかいグランドピアノが弾けるし、きちんと調律されてる綺麗なピアノだし、友達もいたし。
発表会だからって練習する曲は増やされるし、難しいし、怪我しそうなドッジボールとか避けなきゃいけないし、レッスンの時に先週より上手くなってなかったらいつも以上に怒られる。
ここまではまだいい。
発表会当日には、無駄に着飾らされて、母に連れられて遠い会場に来て、順番待たされて待たされて、そんでめちゃめちゃ大勢の前で震えながらなんとか1曲弾いて、それで終わったと思えば写真をしこたま撮られ、先生や友達の家族に挨拶をさせられ、そうすると母親たちの世間話が始まって、子供の私はまた長時間待たされるのである。クソ楽しくねえ
さらに言うならば記念写真の時間が世界で一番大大大大大大嫌いすぎる。大多数の人類には分かんないだろうけど、私は写真に私が写ることが、台所に出てくるGくらい嫌いなんだ。理由を考えたこともあったけど、嫌いなもんは嫌いなんだよバーローとしか思い至らない。というか変に着飾らされた小学生のブスが写真写り良くなるわけがないだろ。
あと、発表会が終わったあと、会場の至る所で花束を抱えている生徒がいたのも、両親のみならず祖父母叔父叔母あたりが駆けつけてくれてる生徒も羨ましすぎた。父親は子供に無関心だったから仕事が休みでも来てくれなかったし、家族や親戚にも来てくれる誰かや花束をくれるような誰かはいなかった。
変に着飾らされて、上手くもないピアノを大勢の前で弾かされて、死ぬほど嫌いな写真に撮られて、隣には母親ひとりだけで、花なんて持ってなくて、ひとりで帰ることも出来ずにただ母親たちの世間話が終わるのを待ってるブス(私)。最ッ高に最低な日でしょ。初めて働いた居酒屋で「掃除してきて」って言われて座敷で仕切り板ずらしたら大量のGが出てきた日くらい最低だと思う。今思えばそんくらい嫌だった。ちなみにGは泣きながら雑巾で潰したし、その後バイトは辞めたし店は潰れた。
結婚したくないし、できる気もしないけど、もし将来子供が出来てピアノを習わせることがあったとしても、子供が発表会出たい!やりたい!って言わない限りは発表会させたくない。だって私の子供だし、未来の旦那が相当な陽キャじゃない限り、きっと私と似たような趣味嗜好・思考回路になる。子供に習い事させるのがステータスみたいな風潮あっても、やりたい/やりたくないをはっきり言える歳になるまでは習い事極力させない。絶対させない。させたくない。
私ならよくわかんない年齢の時に「ピアノやりたい?」ってしつこく聞かれて「(よくわかんないけど)やる〜」って答えさせられてなあなあでピアノやらされ続けるの絶対やだ。実際よくわかってない年長さんのころから始めて、なあなあで中2くらいまで続けてしまった。こんなこと次世代にまでさせていいわけがない。断固拒否する。
いや恋人すらいないんですけどね
http://b.hatena.ne.jp/entry/bunshun.jp/articles/-/10547
こんなん野球に限った事でもなく、「子供にトップレベルの事をさせようと思うなら多額の金と親の尽力が必須」ってだけじゃね。
ただの趣味・お遊びレベルなら親負担がない習い事的な野球教室もあるけど
プロ目指すならその程度じゃ無理で、親も子も他の人生全部犠牲にして野球に尽力するのが最低条件ってだけ。
そんなの他のスポーツも一緒だろ。フィギュアなんかもっと金かかるし皆親がかりで必死だし。音楽なんかも同じ。
中学校でもトップ校受験するなら幼い頃から専業か精々パートの母親につきっきりで勉強見て貰えて塾の送り迎えもして貰えるような子が有利で
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190120-00010000-yomidr-sctch
地獄への道を善意で敷き詰めるナチが集っており、酷く嫌悪感を覚えたため当事者として筆を取りました。
先に結論だけ書くとダウン症を理由に中絶しなければならない世間を産んでいるのは
「一生支援できない人は、他人のこの種の決断に口出ししないでほしい。」
などとのたまう人達、君らだよ
おわり
さて、この問題の当事者として言わせてもらうが「障害者は殺せ!」と声高に叫ぶ人の方がまだマシです。
今の時代はこの手の手合いはなぐり返しやすい、そりゃ理想を言えば0人になってほしいけどさ、そういう人いなくならないでしょ。
無視するなり、黙らせるなり、距離を置くなり、説得するなりできる。
むしろね、最高に悪辣なのって、私は理解者ですよ、といった顔で障害者の淘汰に加担してる偽善者
あのなあ、一生支援できる人なんていねえよバーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーカ
もう本当にバカすぎる、バカ選手権があったら、優勝候補だよ、それは寿命のある個人でやることではなく、寿命のない国や行政、法人しかできない事だよ。
そして国や自治体、法人でやるためには、数が必要なんだよ、障害者の数が。
それなのに、障害を抱えているから〜、そんな理由で堕してりゃそりゃ障害児減るわ、あったりまえじゃん、理解者の顔で親を追い詰めてるのは、そこのスターつけてるお前らだよ
国の支援を先細らせ、
障害児の親の数を減らし
情報を先細らせ
そうして障害児を授かった親が将来に悲観して、堕胎を選びやすくなる、障害児への淘汰圧を産んでいるのは、偽善者の皮を被ったおまえらだよ。
一応確認だけど「誰もが安心して子供を産み育てられる環境があるべき」
とおもっていないってこと?それなら仕方ない、きちんと悪意で地獄への道を舗装していたなら、
けど、もし違うなら「誰もが安心して子供を産み育てられる環境があるべき」
と思っているなら、一応言っといてやる、健常児を安心して産み育てられる環境ってのは
いわんや障害児をや で考えなきゃ本当に一握りの特殊な人しか子供産めなくなるだけだぞ
そんな世界へ加速させる言説はお控えなすってお控えなすって、私はおまえらの善意で地獄に行きたくない
さて、ついでなのでダウン症児を持つ先達として、役に立つ情報もついでに書いておきますね
ダウン症に限らず障害のある子を産んだら速攻でコープ共済の告知不要コースに入りましょう、入院予定が無ければ入れます。
ほけんの窓口的なところを数件回って調べてみましたが、コープ共済以外で障害児が0歳から入れる医療保険はありません。
うちの子は年に3、4回入院するので現時点でも100万円くらい帰ってきてます。
子供の医療費は無料ですが、子供は付き添い入院が必要になるため、どちらかが仕事を休む事になり、大抵の場合収入が減ります
あと無料と言いつつ、なんだかんだで数万とかとられます(期間によりますが)子供の付き添い入院は親の収入保障保険なんて使えないので入院指示がでるまえに、なる早で入りましょう。
すでに入院指示が出ている人も、退院後一定期間たてば入れますので検討にはずっといれておいてください、障害児は5歳までコープ以外の保険無いです。
ちないに付き添いといってもやることはありません
しょせん点滴のチューブが首に絡まって死なないように見てるだけのお仕事なのでたんぽぽ置くより簡単です
次に訪問介護をしてもらえないか主治医に相談しましょううちの子は0歳からきてもらってますが週に数時間でも時間が開くのは助かりますし緊急時はお金積めば日中みてもらえます、身内の葬式とかあると非常に助かりますね
ちなみにうちがお世話になっているところは赤ちゃんの介護は我が家だけなので誰が行くか取り合いだそうです。赤ちゃん可愛いからね、そりゃそうだ。
次に療育手帳を早めに取る計画を立てましょう港区で話題の児童相談所で取ります。
おまえらー、ここメモしとけー、療育手帳とかとるとこなんだぞー
度合いによって療育手帳は、将来二十歳前の福祉年金になります。二十歳前障害年金は、子供自身は年金保険を「一度も納めたことない」のに降りる給付なので普通の老齢年金より要件が厳しくなっており海外に居住すると出なくなったりします、まあそこは20歳以降なのでおいおい調べよう
まずは市役所にいって療育手帳はどこで申請すればよいですかー?と聞きましょう、多分最寄りの児相に電話してねとか言われます。
児相がごにょごにょ言ってきたら嘘でもいいので保育園に早く入れたくてーなどと言えば、何歳くらいから来ていいか教えてくれます(手帳あると保育園も点数アップするよ)
他の障害は知りませんがダウン症だったうちの子を診てもらっている病院では、3歳まで取らないスケジュールで当初は説明されました
が、別に病院は市役所と連携しているわけでは無いので、さっさと市役所いきましょう。うちは満一歳で速攻予約して取りました
療育手帳を取ると、特別児童扶養手当がでます、なお、手帳なしでも特児は申請可能ですが、あった方が出やすいので取れるならさっさと取るべきです。
なんと月に3万〜5万。子供手当てとは別に出ます。おっと収入が800万超えると出なくなるので、自営業の人はちゃんと調整しましょう
振込先は、親名義の口座なので、メイン口座とは別の口座に振込ませて貯めておきましょう、振込手数料は自治体もちです。毎年一月になったらお年玉という事で、たまってる分を子供の口座へ移動してから子供NISAへ入れましょう。特児は20歳までずっと出るので全部投資に回せばうちらが欲しかった不労所得を子供に以下略
療育では子供の成長度合いもちゃんと定量化して教えてくれます。この定量化がすごく良い。この成長率をベースに保育園では、現在3歳なのに1歳児クラスで見てもらってます。
ダウン症児の話をしますがダウン症は成長が遅いです。生まれる前は知能発達だけが遅くて、体は成長していくから
力はあるのに心の成長が遅くて他害とかこまるんだろなーなんて思っていましたが、全然違いました、なんと体の発達も遅いです。といってもうちの子はダウン症用の成長曲線すら割り込むくらいなのでダウン症の中でも悪い方だけどね、三歳の現在で一歳半程度の成長率。
身体的には少し歩く程度、身長体重も一歳半程度、言葉はママ、パパ、マンマ、バイバイあとはダーダーとかぱっぱっぱっぱぱーみたいな破裂音やほぼ喃語みたいなものしか言えず、やっぱり一歳半程度。
ちなみに、歯が生えるのも遅くて一歳なっても生えませんでした。一歳半年でやっと1本という状態、歯くらいふつうに生えてくるんだろうと思っていたので、以外でしたね。
お金に関しては正直かからないどころか増える一方で、むしろ悩みは教育に関して
上の子は両方とも大学附属の私立に入れたのでしばらく悩まないで済むのが救い(地方都市は受験倍率も低く、習い事も都内より安いから教育的に楽です)
ダウン症の末っ子は成長段階が遅いだけで順次進んでいるから成長段階にあわせた学年で学べれば何も悩むことはないし
本来的には健常児であれ障害児であれ発達障害児であれ子供の成長にあわせて学年は選んであげるべきなんですけどそんな柔軟性は行政にありません
単純化した二元論でしか見れていないもんね物事には濃淡があるのにさ
こんな文章を最後まで読んでくれたはてな村のみんなには、くっだらない二元論の世間に加担していないか、今一度自己を振り返って見てもらえれば幸いですよ
そして、腐敗臭漂う二元論は、今年度に置き去りにして新しい元号をお迎えしてもらえればなーと思うわけです。
質問は歓迎しますが、特定に繋がる内容は無視しますのがご容赦を
前述の記事のような状況なので、県×年齢だけでも一桁に絞られ、市内x年齢だけで一人に絞れてしまうので、あしからず
Q タイトル何?
A タイトルはコピーメカさんで作成しました (http://www.copymecha.com)
Q 出生前診断したの?
A しました、何かしらの障害があった場合、情報を集めて準備するためです
という言及をもらったのですが、消されてしまったのでこちらに、追記
生存者バイアスっていうなら、子供がいること自体がもう生存者バイアスだよね
でも、なぜ健常児なら、まだなんとか育てられると思える人がいるか?
みたいなこと書いてあったよね
健常児にはね、情報があるから判断することができる、コントロールすることができると思えるからじゃないかな?と私は思っている
足りない足りないとは思ってるけど、どんな支援があり、どんな保険があり、どんな教育を選べるか
なぜ健常児には情報が取捨選択できるほどあり、障害児にはないか?
結局数だよ、国の支援も、法人からの支援も、NPOからの支援もすべて、支援されるべき人の数がポイント
例えばね、うちではダウン症などの知的な子への早期教育としての歴史を持つモンテッソーリを受けさせたかったから、近所調べたけど健常児でうまってるわけだ。
そこで、親である私達がモンテッソーリの教師になればいいんでね?と思い、先生になるためのスクール通うことも検討したんだよね
でも嫁さんから、親が教師だとどうしても子供にとっても難しいとの懸念が示され、それならば先生になりたい人を集めて、団体作れば?まで検討はしたんだ
から断念した。多少のサイズがあれば、助成金もだせるって市役所と話し合いまでしたんだけどね。
人は集団で生活する社会性の生き物でさ、社会を形成できる数がいないと、支援すらろくに行き渡せることができないんだよね
そう思わない?
※から、はてな記法よくわかんないんだけど、Markdownでいう > ってどーやんの?
障害児が減ったら障害児へのケアが先細るって、増えてる高齢者のケアは先細ってるんだけど。。。
ただこれも実はわかりきってる問題があって
最盛期がわかっていて、その後減ることが明確にわかってるからだよ
今の数に合わせて箱作っても維持できない
モンテッソーリ教育ってめっちゃ金かかるって聞いてるんだけど、検討できるぐらい増田のとこ稼いでるのか気になる。
モンテッソーリ取り入れてる保育園が市内にあってそこ入れたかったんだよね、次の10月から消費税増税で無料化される予定なので、私のお金はあまり関係がないよん
③サークルの知人(世話好きのおじさん)
が異性を紹介してくれようとした。
なんて親切な人たちなんだろう!と大感激。
しかし、喜びも束の間。
①は、金曜の仕事のあとに合コンをセットしてくれた。私は朝、いつになくお洒落してそわそわと出勤したが、午後から急に熱と咳で合コンどころか仕事を早退。
②は、先生の主催するクラシックコンサートのあとに共演の奏者(爽やか系お坊ちゃま)を紹介してくれてる手はずだったが、私は最寄り駅まで来たところで急に頭痛と吐き気。動けなくなり、帰宅。
③は、ある人が主催する趣味絡みのイベントで、私のような人がタイプだという相手を紹介してくれるはずだった。このところ体調管理に気をつけていたので私は風邪を引かなかったが、相手が当日になりインフルエンザで急遽欠席。
私は呪われているのだろうか。
もし良かったら読んでください。
私(女)は小学生の頃、箸の持ち方を知らないばかりか、食べる時には口を閉じてくちゃくちゃ言わないようにするとか、お皿の中に手が入らないように食器を持つとか、そういう生活常識を知らなかった。
髪は週に1,2回しか洗わないし、梳かしたことはほとんどなかった。まともな櫛やドライヤーも家になかった。同じ毛玉だらけのセーターを毎日着ていた。成長期なのにあまり顔や体を洗わなかったから、顔や背中の肌が荒れて、ニキビだらけだった。
(背中のニキビの一部は皮膚の病気になり、今も通院しているけれど、手術後も再発・肥大し、痛みと痒みが続き、大きく背中が開いた服を着ると見える。)
小さい頃からベビーシッターによく預けられて、母は友達と遊びに行ってしまう。
今思えば子供への関心の薄いネグレクト家庭だったのだが、両親はちょっと変わっているだけで、全く虐待している意識も攻撃性もなく、学校の先生が家庭訪問に来ても、新築の一軒家住まいで5月の庭には数種の薔薇が咲いており、特に生活困窮しているわけでなかったから、異常を見つけてもらえなかった。
家はあまり掃除されておらず汚かったし食事も買ってきたお惣菜や冷凍食品ばかりだし誕生日もほとんど祝ってくれなかったし学校の話も無関心でテストや定期試験の答案さえ見せたことがなかったけど、どうしても欲しいゲームや必要なものはある程度買ってくれるし、風邪を引けば病院に連れていってはくれた。
母の少女趣味で、4歳からバレエやピアノの習い事もしていた(両方とも下手だったけど)。
そんな子供だったから、小学3年生のとき、給食の牛乳を飲んでいる途中で、飲み方が悪く、むせて吐き出してしまったのをきっかけに、周囲の子どもに「汚い、キモい」などと言われ始めたのをきっかけにいじめが始まった。
私が触ったものは全て汚染されていると言われ、みんなそれを信じるようにして、避けるし、触れることがあったら菌がついたと言い他の人に鬼ごっこのようにして移す。一見遊びのようだけど、やっている人たちもからかってるわけではなくて、時間が経つうちに学年中に知れ渡り、狭いコミュニティの中では迷信のように真実めいていた。村社会的に、コミュニティ全体の常識がシフトしてしまい、今の自分と比べてずいぶん汚い身なりだったし、性格も卑屈寄りだったのでなかなか理解しがたいとは思う。あえて例えるなら、見た目に特徴のある障がい児に起きることのあるいじめのパターンがあるとすれば、それに似ていると思う。
いじめは中3まで続き、何人かの男児から、登校中に因縁を付けられて、石を投げられたり、お腹を蹴られたり、持ち物に触れたという理由で土下座させられたり、ゴミをかけられたり、クラスの8割程度の人に配った給食を残されたり、描いた絵を破られて路上に捨てられたり、カッターを持って校舎内を追いかけ回されたりした。
運悪く、担任の先生は小1から中3まで毎年変わってしまっていて、特にこちらから何もお願いしなかったから(当時の自分は、そんなお願いは聞いてもらえないと思っていたから)、特に主犯格と言えるような男児とクラスが中2までずっと被ってしまっていたし、ほとんど対策がとられなかった(こちらが言えば注意ぐらいしてくれるけど対象の人数が多すぎてキリがない)のも長続きしてしまった原因の一つ。
たまたま中2の時に、登校時に下駄箱を見たら、自分の下駄箱に他の男児の上履きが突っ込んであった。
これは、私ではなくて上履きの持ち主をいじめるためで、この頃は時々あったことなので、その上履きを適当にすのこの上に置いて、特に気にせず、教室に入ると、今度は机の中に同人物の教科書がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
取り出すのに苦労していると、当該の男児が登校してきて、自分の持ち物を“汚い”私の元に移されたことを怒っていた。
そもそも私がそういう前提で扱われることに納得いっているわけではなかったので、私も何か言い返そうとしていると、チャイムが鳴り、担任が入ってきた。
「何してるんだぁ!」と担任が一喝すると、クラス中の注目が集まった。
みんな知っていることとはいえ、表沙汰にされるのが怖かったし、恥ずかしくもあったので、その時は数年ぶりに人前で泣き、それも一言では言い表せない気持ちが色々あり、通夜のように静かに激しく泣き、ホームルーム中ずっとその嗚咽が教室に響いた。
担任に話を聞いてもらい、事態は理解してもらえたが、たった1年の付き合いの担任に比して、周りは長くて8年ぐらいの間柄であるから、今更自分への扱いが変わることはなく(誰かが私に優しくするとその人がいじめられるので)、菌扱いはずっと続いた。ただ、その頃には周りも異性などに興味が移る人が多く、積極的にそういうことをしてくる人たちは減ってきていたかもしれない。
私は他のクラスメイトとは自分と感覚が違いすぎて今見れば普通の人たちとも関わるのも怖く、多くの人とはあまり喋らず距離を置いており、関わることがあればそういう人たちだったのでわからない。
自身、かなり頑固だったので、耐えなければいけない、自分が悪いと思って、不登校にはならなかったし、転校も考えたことがなかった。そういうことを言うと、何事も大ごとにしたくない親や周囲の大人が嫌がるのがわかっていたし、恥ずかしかったし、どこへ行っても同じだと思っていた。
友達が少なく読書をよくしていて、進研ゼミも取っていたので(教養コラム読むのとシール集めに赤ペン先生出すだけで一般教材はやらなかったが)、勉強は得意だったので親に頼んでバレエを辞め、好奇心から塾に通わせてもらった。
成績が良かったので、塾の講師にも会社実績を上げるためのエースの一人として熱心に指導をいただき、都道府県で公立トップの高校に進むと、周りの人たちがガラッと変わって、周りは賢くて志の高い人ばかりで、誰も自分をいじめなかった。とても驚いた。廊下で男子にぶつかったとき、気持ち悪がられて罵倒されるどころか、「ケガはない?」と心配してくれて逆に申し訳なくなった。
中学生ぐらいからは、部活の友達が居たこともあり、少しは身なりの整え方などが改善され、今まで全く笑わなかったが楽しさを感じて笑顔が出るようになったこともあり、普通に友達や仲間ができた。
しかし、高校3年生になると、みんな受験勉強に勤しむので友達付き合いを控えるようになり、元々大学を目指しているわけでもなかった自分は高校生からは成績がかなり悪く、学問は諦めて美大を目指していたが、絵の勉強に身が入らず、部活も終わりかけ、家族とは相変わらずあまり関わりがなかったしとても孤独で、GWの間、一日7時間ぐらいいろんなことを考えた結果、人生がわからなくなり、5月下旬に家の中でパニック発作を起こした。
流石に親が心療内科に連れて行ってくれて鬱の診断をもらった。
頭の中の時間感覚がおかしくなり、好きな授業もあったけれど、教室でじっとしているのが怖くて、家や保健室でボーッと過ごす日が続いた。
結局ほとんど絵も学問も勉強しなかったので、試験には落ち、浪人生の身分となった。
浪人を始めた頃には少し鬱は回復していたので、一念発起して美大ではなく私立文系の勉強を始めた。ついでに、不細工と言われ続けた顔を鏡で見ると昔を思い出すので、貯めてきたお年玉をはたいて眼瞼下垂気味だった目を整形した。
高校に入ってから部活や他の趣味ばかりでろくに勉強していなかったけれど、一年間ほとんど勉強だけしていたからか、早稲田大学の3学部を受け、全て合格した。
それから先も多少いろいろあったけれど、今は政令市の地方公務員として働いている。
陰険な上司や先輩に当たって虐められた年もあったが、今は環境に恵まれて毎日が過ごしやすい。
20歳頃からは皮脂分泌が落ち着いて肌荒れしなくなり、髪も縮毛矯正をマメにかけるようになり、あれほど男子に不細工、キモい、近寄るな、死ねなどと毎日言われていたのに、今は男性もみんな優しい(それでも同年代の男性が今でも怖いし、年をとったり、見た目が悪くなった途端に冷たくなるのでは?と思う)。
過去のことは忘れないと思う。
というか、昨夜も夢に見たのが今回文字に起こしてみたきっかけ。
幸せな子供時代というものも味わってみたかったけれど、人生一度きりだから仕方ない。今後のことはわからないし、何かの糧になったと思って今を楽しく暮らすしかないのかもしれない。親にはお金の面ではありがたいと頭では分かるが、気持ちとしてはどうしても感謝できない。
今の私がそのまま子供に戻れたら、もっと周囲に訴えかけ、逃げられないなら転校だってできた...と思う。10〜20年ほど前だから、今の時代よりも支援は得られないかもしれないが、多少の嘘をついて逃げても誰も大して困らなかっただろうし、何より自分の人生を大切にすべきだった。
※下に述べるものはあくまでも個人の考えであって一般論を語るつもりはないということを最初に断っておく。
突然だが、私はできれば子供が欲しくないと考えている。
自分の中で、「親になるということ」に対するハードルがとてつもなく高いと感じられるのである。
・女、26歳
・兄と姉が一人ずつ
(兄は独身、姉は既婚で2児の母)
・根本的に自分という人間が嫌いで、自信がない。そのため、できれば自分の遺伝子を残したくないと考えている。
私は三人兄妹の末っ子で、どちらかといえば甘やかされて生きてきた方だと思う。
子供の頃の私は、いわゆるいじられキャラというやつで、同級生や友人によくからかわれたりしていた。その延長か、純粋に嫌われていたのかはわからないが、今で言ういじめのようなもの(程度は軽め)を小学校高学年~中学生くらいまで受けていた。
高校や大学は比較的平和だったが、就活でつまずきフリーターとして過ごした時期があり、やっと決まった正社員としての仕事でも、お局から嫌われモラハラに近い扱いを受けている。
ここまでくると、自分の人格には、他人に嫌われやすい、また下に見られて虐げられやすい要素があるということが嫌でもわかってしまう。
子供は一人で産めるものではないし、どんな人間になるかは結婚相手(子供の父親)にもよるだろうが、私から産まれてくる子供(今のところ予定は全くないが)には、生きづらい思いをさせてしまうのではないだろうかと思わずにはいられない。何せ母親が生きづらいと感じながら生きているのだから。
また、フリーター期間は将来に対して全くと言っていいほど希望がもてず、生きるのか辛くて仕方がなかった(今もたいがい生きづらいが)。自分の弱い部分や悪い部分を責めに責めたのだが、そんな時に私は、禁断の考えに至ってしまった。
「なぜ両親は私を産んだのだろう」
「両親の子供には既に兄と姉がいて、兄は大企業勤めで、姉は素敵な人と家庭をもち可愛い孫もいる。それで十分じゃない」
「私を産む必要はあったんだろうか。そうでないなら、産まれてこなければよかった。彼らが私を産まなければ、こんな思いをすることはなかった」
…ひどいことを考えている自覚はもちろんあるし、思っても両親に伝えたことは一度としてない。しかし、私はそう思ってしまった。両親がたくさんの愛情やお金や手間をかけて育ててくれたにもかかわらず。
こんな自分が子供を産んで育てたところで、その子が「この世に産まれてきてよかった」と思える気が全くもってしないのである。
・経済的にも、人一人を赤子から一人前に育てあげられる気がしない。
子供一人を育てるのには、最低でも1,000万、進学パターンによっては2,400~3,000万程度かかると言われている。
これも結婚相手の職業や年収によるが、よほど高収入の方でない限り専業主婦にはなれないと考えている。むしろある程度稼ぎのいい方と結婚できたとしても、仕事は続けていって何かあった時のために少しでもお金を貯めておきたい。ということで共働きということになる。
ここからは単純にお金がないという問題ではなくなるが、私自身仕事・家事・育児を毎日こなしていける自信が全くといっていいほどない。
昔から要領が悪く、料理などは時間がかかり、掃除なども手がつけられず気がつけば部屋が散らかっていることが多い。そんな人間に、働きながらの食事の支度(朝晩、お昼のお弁当)、後片付け、洗濯、片付け、掃除、その他もろもろが務まるだろうか。それだけでも不安なのに、その上子供の世話があると思うと…世の中の母親たちは本当に魔法使いか何かなんじゃないかと思ってしまう。それくらい大変なことを、彼女たちは毎日のようにこなしているのだから、尊敬せずにはいられない。
もちろん結婚相手にも家事育児に協力してほしいところだが、よほど相手に理解が無い限りは、女性である自分が、妻として母として家事育児を多めに、場合によってはほとんどを負担することを覚悟しておかなければならないだろう。「家事や育児は女がするもの」という、日本の一昔前の価値観をもっている人は、若い世代(特に男性)にも意外と多い。
また育児休暇や時短勤務といった子供がいる職員のための制度は、女性に対してはある程度認められる企業も増えてきたが、必ずしもきちんと機能しているとは限らない。また、男性に対して認められる企業はまだまだ少ない(制度上はOKでも前例が極めて少なく、定着しているとは言い難い)。
そして、子供ができると、保育園探し、節目節目の行事ごとの準備、習い事、進学の準備…と、とにかく子供関連でやるべき事が次から次へと降ってくる。それに関しては決して面倒だと思うわけではなく子供をもった以上は必要不可避だと認識しているが、それらすべてをこなしていけるとは現時点では到底思えない。きっと、完全なる自分だけの時間はなくなってしまうと思っておいた方がいいだろう。
長くなってしまったが、経済的余裕の無さや自分に分不相応の多量のタスクは精神的余裕が失われる原因になり、子育てにも悪影響を及ぼす(怒りっぽくなる、子供の話をしっかり聞くだけの余裕がなくなる、など)のではないかと考えている。我が子を育てあげるつもりでいるのが、我が子をないがしろにしてしまっては元も子もない。
最後になるが、私は「親」として生きる人々のことを心から尊敬している。
私は親になったことはないが、それらが決して容易なことではないということくらいはわかる(周囲の「親」として生きる人々に対しては、できるだけ力になりたいと思っている)。
そして、そう思うからこそ、自分が子供を産み育てる覚悟ができそうにない。
親戚などに、結婚は、子供は、と聞かれる機会が多いこの時期に、心の中で引っかかっていたことを言語化してみた次第である。
ここまで読んでくださった方には、こんなことを考えている人間もいるのだということを、心の隅に置いておいていただければ幸いである。
【中学受験】
動機は3つ。小学校で好きだった子や友人と張り合うため。先生に勧められたため。行きたい学校を見つけたため。
小学校は東京郊外の私立に通った。いわゆる東京の私立というイメージとは遠く、付属中学もなく田園の教育という方針を実践しているのんびりとした学校だった。学年に男女合わせて30人ちょっとしかおらず、当然クラスもひとつしかなかった。
私は四年生の時に親の母校であるその私立へと転校した。学校では何もしなくても成績が良かった。テストはいつも早く終わり、ほぼ満点しか取らなかった。いつもトップを争う子がおり、私はいつしかその子に好意を寄せるようになった。その子とは度々一緒に学級委員に選出されて囃されたが、実際悪い気はしなかった。
五年生になって周囲が塾という習い事のため足早に帰ることに気づいた私は、特に深く考えもせず受験がしたいと親に申告した。担任の先生と相談すると、可能性を広げる良いチャンスなので多いに推奨すると言われた。この時の先生の一言だけで私は世界が広がった気がした。
学校をいろいろ見学した結果、最後に訪れた御三家の一角を目指すことになった。門を叩くまで母は恐れ多いと躊躇していたが、行ってみると風通しが良く自由な校風で私は一発で気に入った。ここしかないと強く思った。
好きになった子とは家族ぐるみの付き合いがあり、テーマパークへ行ったり共学を一緒に見学したりした。同じ学校で無敵の青春時代を過ごす妄想が捗ったが、世間的に知名度の高かった共学も思ったほど私には語りかけてこなかった。試験日程も遅かったので、お互いそれぞれの御三家が第一志望となった。
塾は近所の個人塾に通った。寺子屋みたいな雰囲気で、先生は塾長と奥さんの2人、生徒は4人、そして授業中は正座だった。私だけ必要な科目数が多かったので、マンツーマンで教わる時間も多かった。回答を間違えると「バカチン」と先生はよく言った。指導は厳しかったが、頻繁に飴を配ったり可愛がってくれた。
塾は行ったら行ったで面白いし好きではあったのだが、束縛に耐えられなかったのか、私はよく直前にお腹を壊したり、自転車で行くふりをしてバックレたりした。もちろんすぐバレた。何度もやめてもいいよと親に諭されたが、そう言われると余計に引けなかった。何より勉強は楽しかった。自宅で勉強と称して漫画を読むのも楽しかった。
大手の塾には模試と講習だけ行ったが、普段の学校や塾とはまるで異質な空気に圧倒された。何点取ったらゲームもらえるとか、模試で何位だったからお小遣い増えたとか、そんな会話が横行しできない奴は容赦なくバカにされた。私は萎縮してしまい、模試や講習では御三家を狙うにはギリギリの偏差値をいつも取っていた。
そんなこんなで中学受験。第一志望の受験日は2月1日。受験番号は402。母が「フォーチュンだね」と言ったので覚えている。大手塾特進クラスの連中はまるで家にいるみたいに寛いでいた。田んぼの学校に通いちっぽけな寺子屋からひとり送り出された私は、担任や塾長の言葉を思い出しつつ、昼休みに母の作った弁当を噛みしめた。
手ごたえはあった。得意科目は算数だったが、特に国語ができた気がした。第二志望以降も受けたはずだが、第一志望で力を使い果たしておりほとんど記憶がない。2月3日に結果が出るとその後はもう受けなかった。サクラサク。
【大学受験】
東大を受験することにした。理由は、別の進路を断念したため、学費が安かったため、そして周囲のほとんどが目指していたため。
はじめは芸大の先端芸術表現科というところに行きたかった。アートを学び実践したかったのだ。しかし、東大からでも道はあるという説得と、受験対策のための出費がかさむという理由で断念した。今思えば金をかけずに挑む方法を模索して食い下がればよかったが、当時は思い至らず折れてしまった。
私が中学の頃に父は長年勤めた会社を早期退職したが、その後仕事が奮わず家計は火の車となった。学費と生活費の捻出に家族があくせくする状況の中、私だけ美大受験の意志を押し通すことはどうしてもできなかった。大学受験は塾に通わず授業と自習で挑むことになった。
幸い有数の進学校には通っていたので、目標を東大に変えることは自分の置かれた環境を最大限活かすことにもなった。上位25%が東大に進学する学校で私は時折圏内に食い込む程度の成績だったので、そう遠くない目標に思えた。
ところが、目指し始めた頃には届きそうに思えた赤門も、時間が経つにつれ遠のいていった。ハイレベルな塾に通う周りからは目に見えて離され始め、模試の判定も振るわなかった。いくら寝ていても自習をすると眠くなり、分からないところがあっても差を感じると素直に質問できなくなった。焦るほどに時間だけが過ぎていった。
願書を出す段になると、父と腰を落ち着けて話した。弱気になった私とは裏腹に、父は自信に満ちていた。「滑り止めに金は出さない。行きたいところだけ受ければいい」と父は言った。それもそうかと妙に納得し、私は東大のみを受験することにした。東大一本なら正直落ちてもカッコつくと思った自分がいたのは事実である。
余談だが、父は学生紛争で東大受験がなくなった年に受験生だった。成績優秀で東大を目指していた父はその年第一志望に挑戦することすら叶わず第二志望へと進学した。私はその話を本人からではなく母から聞いた。複雑に絡み合った様々な思いを背負って私は試験に臨んだ。
結果はボロボロだった。足切りこそされなかったものの、センター試験は合格者平均を大きく下回っていた。二次試験の数学に至っては頭も回答用紙も真っ白だった。案の定、私は東大に落ちた。
【大学受験2】
東大に落ちて私は忸怩たる思いでいっぱいだった。自分が周りに一目置かれたいがためにいたずらに東大を目指した気がした。東大しか受けずに落ちたと言うと、周囲はその勇気を讃え不運を嘆いた。だが私が一番良く知っていた。それは勇気ではなくただの処世術で、不運ではなく純然たる力不足だった。
私が卑屈にも自分と比べていた仲間たちは一足先に合格をその手で掴み大学生となってしまった。毎日通っていた高校も卒業してしまった。私はからっぽになった。現役受験が終わってから、これは他人との競争などではなく自分との戦いなんだとやっと気付いた。
就職か浪人かという選択肢を前に、働くと言いかけた私に親は浪人を勧めた。もったいないから、という言葉に私は到底納得できなかったが、ある種自分を見直す時間だと捉え受け入れた。親に頭を下げ予備校に通った。
浪人の前半期はくすぶっていた。授業は新鮮で楽しめたが、予習復習には身が入らなかった。借りた小説を読み漁り、レンタル映画を見倒した。私は物語の主役であり、困難に立ち向かう若者であり、世界の広さを思い知る冒険者であった。自由を求め無頼を気取っていたが、その実何の変哲もない予備校生だった。
後半期になると配属クラスが上がった。自分でも気持ちが乗ってきているのが分かった。模試では結果を出せるようになり、勉強と試験のサイクルが単に知識の吸収と確認をする作業なんだと理解できた。高校の教科書をはじめから読んだり、資料集を飽きるまで眺めたりした。そこに書かれていたのは試験のために記憶すべき情報ではなく、世界を紐解く手掛かりだった。
この頃から私はセンター試験をひたすらやった。現役受験の際に感じた基本の不足を徹底的に見直そうと思った。周りは東大対策に余念がなかったが、私は自分が一番手応えを感じられる道を進めばいいと思えた。センター試験で満点が取れるようになると、不思議と二次試験の過去問も解けるようになった。
結果からいうと、私は当時の前期日程試験で不合格だったが、後期日程で理科一類に合格した。
前期日程で落ちたのは予想外だったが、余計な要素が削ぎ落とされるほどに私はなぜか冷静になれた。後期日程では科目の絞り込みに加え選択もあるため必要な試験が少なく、私の場合はほぼ英語と数学のみだった。そして私にとってはそれが望ましかった。
試験前日はよく眠れた。朝は自然と目が覚め、焦りや気怠さを感じることなく落ち着いて試験に臨むことができた。数学はあっけなく終わり逆に不安になったが、英語が会心の出来だった。やるべきことはやったという清々しい心持ちで試験を終えた。
結果発表では安堵と高揚感からか、現実感が薄らいですべてがぼやけた夢のように思えた。勝鬨をあげたり号泣したりする見知らぬ同志たちを横目に、私は特に湧き上がる感情もなく立っていた。アメフト部に合否を聞かれ、小さく頷くと胴上げされた。着地の際に自分の体重が戻ってきたのを感じ、それまでの漂うような気持ちは消えた。
こうして私の受験は終わった。
【最後に】
小学校で好きだった子は私と同様に第一志望の御三家に合格したが、中学進学以来疎遠になった。私は大学を出て10年になる。
受験は競争心を煽って奮い立たせる仕掛けが多く、そういう経験を経て比較でしか物事を測れなくなる人間もまた多い。実際に私も周囲の人間や環境に大きく影響を及ぼされたが、最終的に納得の行く結果は自分の選択からしか生まれなかった。
正月の受験生たちに、あけましておめでとう。
そもそもMommyレベルのADHDじゃない場合に薬物治療いる?って話なんやで
結局、自己肯定感の話になる
親に学校も習い事も部活も塾も決められ、自分で何かを選んだ経験があまりない人は、自分が尊重されているという感覚を得ることができません。また、自分の選択に自信が持てず、他者の選んだものが正しいと思うようになってしまうため、他の人から認められないと自分を評価できなくなります。
③挑戦させてもらえなかったあまりに過保護に育てられると、自分で物事に挑戦しようとしてもやらせてもらえず、自信をつける経験をしたことがないまま成長してしまいます。人は、自分で何かができたという達成感を積み重ねることで自己肯定感を高められるのです。その機会を奪われてしまっては、自分は何もできない人間だと思い込み、自己肯定感が低くなってしまって当然といえます。
「愛されたい」という思いが自己肯定感を下げる
私の中には「自己肯定感が低いほうが愛される」という幻想がありました。
でも、実際は、自己肯定感が低ければ低いほど、人からは軽視されてしまうので、「愛される」よりも「蔑まれる」ほうが多くなるのです。
自己肯定感が低かった私は「人と対等」だったことがありませんでした。
自己肯定感が高く健康な人は、自己肯定感が低い私を哀れみの目で見て「付き合ったって、なんにもメリットがない!」と、静かに私から去っていきます。
そして、自己肯定感が低い人たちは、さらに低い私を蔑み、踏みつけて、そしていいように利用するだけ利用して、捨ててしまうのです。
自己肯定感が低い原因
自己肯定感が低くなってしまうのは、いったいなぜなのでしょうか? 多くの場合は、幼少期に育ってきた環境が大きく影響していると考えられています。ここでは、その具体例を見ていきます。
①親に褒められなかった親が幼少期に自分のことを認めて褒めてくれた思い出がないと、自分も自分自身を認めることができなくなります。子どもの力を伸ばそうとするあまり「もっとできるはず」とばかり思ってしまう親のもとで育つと、努力しても褒められないため自分の価値を見いだせず、自己肯定感が低くなってしまうのです。
親に学校も習い事も部活も塾も決められ、自分で何かを選んだ経験があまりない人は、自分が尊重されているという感覚を得ることができません。また、自分の選択に自信が持てず、他者の選んだものが正しいと思うようになってしまうため、他の人から認められないと自分を評価できなくなります。
③挑戦させてもらえなかったあまりに過保護に育てられると、自分で物事に挑戦しようとしてもやらせてもらえず、自信をつける経験をしたことがないまま成長してしまいます。人は、自分で何かができたという達成感を積み重ねることで自己肯定感を高められるのです。その機会を奪われてしまっては、自分は何もできない人間だと思い込み、自己肯定感が低くなってしまって当然といえます。
④話を聞いてもらえなかったその日学校であった他愛もない出来事から、自分が物事に対してどう思っているかまで、親がただ話を聞いてくれて理解してくれるだけで、自己肯定感は育っていきます。反対に、頭から取り合ってもらえず言うことを否定され続けてしまうと、自分の意見を述べることができなくなっていくばかりか、自分自身の考えることすら認めることができなくなってしまいます。
これは、親はもちろん日本の学校教育自体にも問題があることですが、周りと同じにできないことを否定され、枠にはまった人間になるよう教育されると、自分の個性を肯定できなくなります。「空気が読めない」「浮いてる」と言われないよう周囲に迎合するうちに、他者基準の評価でしか自分の存在意義を感じることができなくなるのです。
今時の小学生は忙しいし、遊びに行くとしても必ず家に帰ってランドセル置いてから、と学校からも指導されている。
共働きなら尚更、学童行かせたり子供が放課後暇にならないよう塾や習い事で時間埋めてる。そういう事をやらない親=放置親扱い。
親が専業でも、遊びに行かせるならまず帰宅させてどこに行って何時に帰るか聞いてから。
(そういう事をしない親の子がランドセル持ったまま勝手に他人の家に入り浸ったりしたら放置子扱いで近所から嫌がられる)
んで高学年になれば6時間授業で帰宅時間は3時半、塾は4時から、とかだから最短距離でないと間に合わない。
子供がランドセル背負って勝手に遊びに行っても親も学校も近所も関知しなかった昭和の頃とは何もかも違うんだよ。
物心ついた、小学生高学年の頃に引越しをする事になったが、新居の親の寝室には鍵がついていた。
ドアノブを回しただけでは開かないので、内側から鍵を開けて貰う必要がある。
小さい子供が眠れずにぐずって親の寝室を訪れるような描写をたまに見るけど、そんな物は我が家にはない。そのくせ、自分の部屋には鍵はないのでプライバシーは筒抜けだ。弟が突然扉を開けて来たり、父親が勝手に漫画を読んでいたりする。
もう少し子供の思いを汲んで、中学校も行きたい中学に行かせていてくれたら、私はもう少し親元に滞在していたかも知れない。でも私達子供はいつも蔑ろにされて、親の支配下に置かれていた。
塾や習い事だけは頻繁に行かされたが、辞めたいと言っても決して許されなかった。
子供を交えた会話も少なく、その影響か、自然的にグループの中での対話を諦める癖がついていた。
家族を題材にした作品は多い。それが観衆の心を打つのは、結局家族も人と人との集まりでしかないという反証ではないだろうか。虚構の中に真実を求めているから、何十回も何百回も、家族は大事だと繰り返すのだ。
家族愛を銘打った題材に触れる度、私はあの父のいない冷たい家庭と、鍵がかけられて何が起きているか分からなかったあの部屋を思い出す。
所得が低いのは確実だろうけど(高けりゃ自立出来るしな)
学歴まで低いと決めつけるのは何故?
港区で保護されたんだから子供が惨めな思いをしようが自業自得、ってこと?
それは子供が選んだ事ではないよね?
最初から選ばれし家庭の子供だらけという前提で入っている、多様性なんて考えてない親ばかりじゃ?
少なくとも、増田のように「虐待母とその子供が入所している所」だなんて考えもしなかったけれど。
またドメスティック・バイオレンス(DV)被害者保護においても、「改正DV法(※)」による一時保護施設としては、母子生活支援施設が最も多くなっており、
とわざわざある辺り、夫(父親)からDV受けて逃げてる母子が多いんじゃないの?それだけではないだろうけど。
母親自らが子供を虐待してるならまず母子を引き離して子供だけを施設に入れるんじゃない?
虐待母と子供を一緒にするのはおかしいし、母親が自活出来るなら母親が施設に入る必要もないし。
「貧乏で頭も悪いのに港区なんて高級住宅地に住んで子供を虐待する母親の子供は惨めな思いをしても自業自得」
って事になるんだけど。
よくもまあこんな事を堂々と言えたもんだ。
それに、公立学校に通わせている家の親もいろんな家の子供が来るのは織り込み済みだよね?
ある意味、多様性を理解させるために私立では無く、公立にやっているという側面もあるよね?
貧困は児童虐待を誘発する要因の一つではあるけれど、それだけじゃないよ。
育てやすい子しか育てたことが無いか、子供が居ないかだとそういうことって考えもしないんだろうけれど。
子供が通常の発達よりも遅かったり、何らかの障害があったり、好ましくない行動を繰り返すというのも虐待を誘発するし、
親が人の意見を気にしすぎる人だったり、何らかの障害があったり、依存症があったり、不遇な家庭で育っていても虐待を誘発するし、
親子の性格が大いに違ったり、親子の求めるものが違っても虐待を誘発するし、
孤立していたり、逆に過干渉すぎてその対応に疲弊していたり、複雑な家庭であったりするのも虐待を誘発する。
子供ができれば誰もが親としての振るまいができるってわけじゃないし、子供が思っていたような振る舞いをする子であるとも限らないよ。
特に育てにくい子供を育てる場合、親には理解と場合によってはトレーニングが必要で、他人がすぐに介入できるようなところで合宿形式でトレーニングすることが必要なこともあると思う。時には誰かに代わってもらって気持ちをクールダウンする必要がある時もある。
虐待についてのルポなんかを見ていると、虐待家庭は必ずしも貧困ってわけじゃないなだな。
つか
が併設されるなら、そこに入ってる子で小学生の子は普通に地元の公立小行くんじゃないの?
だったら
ってのはその通りじゃない?
公立ったってアルマーニ小学校みたいな所なんだろどうせ。皆金持ちの子ばかりだろ。
その中に支援施設の子が混じったら家庭環境も生活レベルも違い過ぎて惨めになるよな。
あとその公立に子供通わせている親が猛反発するのも当たり前だよな。
社会人になってからめっきり字を書く機会が減ってしまったから忘れていたんだけど、子供の頃私は糸偏が綺麗に書けなかった。
仕事上なにかを書くときはアルファベットなことが多くて、丁寧に字を書くことなんて滅多にないから忘れていた。さっき珍しく部署内の人への書き置きを書いていて思い出した。
小学生の頃、フランスの日本人学校に通っていた時期があった。駐在年数の長い子が多い学年で、みんな少し日本語がおかしかった。いろんな地域の方言や、英語、仏語、独語の単語が滅茶苦茶に混ざったニホンゴで会話していた。珍しく出入り(転入や帰国)の少ない学年だったこともあって、とにかく言語への頓着が薄かったんだと思う。
「書き」に関しても同じで、綺麗に文字を書こうという意識が、少なくとも私にはあまりなかった。高学年になれば「日本にいた頃習字教室に通っていました」というような子がひとりふたりいたんだろうけど、残念ながら低学年のクラスには母国でスキルを蓄積している子はいなかった。両親がこどもちゃれんじと青い鳥文庫を根気強く与えてくれなかったらどうなっていたんだろうと思うとゾッとする…高かっただろうにありがとう。まだ英語の和訳みたいな文章書いちゃうけど、なんとかなってるよ。
小2の春だったかな、そんな学年に日本から転校生がやってきた。訛りのない標準語を話す、おっとりした女の子だった。口数の少ないおとなしい子だったけど、私たちにとって彼女は台風みたいな革命児だった。
彼女は私たちに「日本」をたくさん持ち込んでくれた。まず、たまごっち。誰かの誕生日パーティーの席で耳慣れない電子音にざわつく私たちの前で、彼女は恥ずかしそうに「ごめん、私のたまごっち…」とポシェットから小さなおもちゃを取り出した。衝撃だった。彼女がそれを操作するのを、みんなで息を潜めて凝視した。平城京でスマホをいじったらあんな感じの視線を浴びると思う。彼女もまさか同い年の子供がたまごっちを知らないとは思いもしなかったみたいで、徐々に衝撃から解放された同級生たちから質問攻めにされて目を丸くしていた。その日から彼女のたまごっちは学年中(2クラス35人くらいだったかな)の関心の的で、毎朝進化したか、おやじっちは来たか、何か変わったことはなかったかと聞かれていた。私は彼女と同じ通学バスだったので、朝家まで迎えに行くついでに、玄関で見せてもらっていた。いま思うとまじでうざいな。
次に衝撃的だったのが、あたしンち。海外で生活する子供にとって、日本の漫画はとてつもなく貴重だった。小説は日本語の発達を懸念した親に買ってもらえるけど、漫画はなかなか入手できなかった。誕生日や、一時帰国中に買ってもらった子はヒーローだった。数少ない母国の娯楽なので、家にある漫画は片っ端から共有した。ガッシュ、コロッケ、NANA、GALS!、犬夜叉、コナン、ボーボボ、神風怪盗ジャンヌ、ケシカスくん、フルバ、ナルト、もうとにかくなんでも読んだ。
でも所詮小学生、不条理ギャグ漫画とマセた少女漫画とファンタジーバトル漫画しかなかった私たちのラインナップに、彼女のお母様が好きだという「あたしンち」が加わった。
ただの日常漫画だけど、それが私たちには衝撃だった。なんせ、知らないのだ、日常を。スーパーのタイムセールも、放課後の買い食いも、制服も給食も、私たちにとっては未知の世界の常識だった。おしゃれな少女漫画じゃ描写されない日常ネタは最高のエンターテイメントだった。ディスカバリーチャンネルでも見てるみたいだった。
レモン石鹸、ミックスベジタブル、二枚組のトイレットペーパーなんて概念は完全にあたしンちから学んだ。お子さんを連れて海外赴任されるご予定のある親御さんは、日常系漫画やアニメにすぐアクセスできる環境を整えておくといいと思う。本当にどんな教科書よりためになった。
最後、本筋からだいぶ逸れちゃったけどこれが一番書きたかったことで、彼女は硬筆の書写がとても上手だった。小学校入学前から教室に通っていたらしい。
先述の通り「綺麗な文字」という概念がすっぽ抜けてた子供だったので、彼女の漢字練習帳はあまりにも衝撃だった。で、「組」だったか「紙」だったか忘れたけど、びっしり並んだ完璧な糸偏を見たときに彼女への憧れがMAXになった。大人みたいな字を、同い年の子が書けるんだ!すごい!かっこいい!私も書きたい!それと同時に、もしかして日本を離れている私は母国の子供に比べて知識や技能に遅れを取っているんじゃないかと不安にもなった。その日家に帰って最初に両親にその目標を伝えて、大喜びの2人に日本スーパーで小さな漢字ドリルを買ってもらった。糸偏だけじゃなく、苦手だった「女」も「海」も「方」も「子」もたくさん練習した。
日本語を書くことに抵抗がなくなったのはあれがきっかけだったと思う。周りの同級生も彼女の綺麗な書き文字やオーソドックスな標準語に感化されて、国語学習に意欲的になった。本当に、彼女は私たちに大きな革命を起こしてくれたんだ。
他にもナルミヤの子供服とかプロフィールシートとか、転校生ちゃんが私たちに教えてくれたものはたくさんあったんだけど、どれもあの日本人学校っていう特殊なコミュニティにいた私たちには衝撃だった。これが生まれたのが全部自分の母国なんだって思うとゾクゾクした。いつか帰るのが堪らなく楽しみになった。そんな8歳の思い出である。
………なんてことを、久しぶりにペンで丁寧に文字を書きながら走馬灯のように思い出していた。細田さん、締切日変更の連絡がありました。お席にお戻り次第メールボックスをご確認ください。
たくさんの反応をいただいて驚きました。訥々と昔語りをしてしまって今更ながら恥ずかしいです。目を留めてくださってありがとうございました。
以下、だらだらと長い蛇足になります。まとめるのが下手でごめんなさい。
・日本人学校について
紛らわしい書き方をしてしまってすみません。ひと学年ふたクラス、合計して35人弱でした。正確な人数は覚えていません…というか、何ヶ月かに一度は転校生の出入りがあるので常に変動的でした。日本人学校の規模としては大きい方なのではないかと思います。
これは余談なのですが、フランスの日本人学校はかなり郊外にありまして、在籍する小学1年生から中学3年生までのほぼ全員がスクールバスで通学していました。大型バスで、人数の多い地域は複数台。あんなに大きな国なのに日本人学校は一校しかなくて、かなり遠くから通っている子もいました。渋滞で遅れて3限目にやっと到着、なんてのはしょっちゅうだったように記憶しています。
これは後に両親から聞かされた話なのですが、「自分の国の学校があるんだからうちに来なくてもいいでしょう」と日本人の編入を拒否する現地校が多かったようです。生徒数が多かった理由のひとつかもしれません。
・漫画について
漫画は片道1時間以上の通学バスの中で読みました。先述の通り乗車している児童生徒の年齢幅が広いので、有象無象のジャンルが飛び交います。…飛び交うというのは言葉通りで、読了後は座席に膝立ちをして、「愛してるぜベイベ2巻読みたい人!」と叫ぶとどこかの座席から返事とともに頭がひょっこり出てきて、その子目掛けて投げる、という方法で漫画の貸し借りをしていたんです。自分のものですらない漫画を。今思うと血の気が引きます。子供とはいえ酷い扱い方…猛省です。何十人規模での読み回しに耐えた漫画は手元に戻ってくるときにはボロボロでした。高学年の男の子たちはアドバンスでパワプロやってたなあ。
私が渡仏していたのは2001年頃から2005年頃までなので、その間もしくは以前の漫画は幅広く読みました。素敵な体験でした。
・現地での生活について
日本人学校に通っていると、現地の子供と接する機会はほぼありません。現地の習い事等に通っていれば別かもしれませんが…。地元のサッカーチームや水泳クラブに入っている子もいたような気がします。フランス語の授業もありましたが、あくまで第二外国語的扱いで、あまり熱心な内容ではありませんでした。
まさしく、私のヒーロー(ヒロイン)です。近所だったこともあってとても仲良くしてもらいました。私が先にフランスを離れてしまい、年賀状のやり取り程度はしていましたが、いつの間にか疎遠になってしまいました。当時の友人たちとはSNSで繋がって十数年ぶりに再会して飲みに行ったりすることもありますが、残念ながら彼女の話は聞いたことがありません。元気にしているといいな。
・不肖、私自身のことについて
渡仏前後に別の国で生活をしましたが、それぞれ現地校へ通う機会に恵まれたので日本人学校で過ごしたのはフランスだけでした。あの日々がなければミックスベジタブルどころか起立、気をつけ、礼すら慣れない状態で帰国していたことになります。本当にありがたいことです。親からもこどもちゃれんじからも漫画からも学ぶことのできない日本独自の学校文化、たくさんありますよ…前へならえとか体操隊形に開けとか…。逆上がりや二重跳び、跳び箱なんかは日本人学校の体育でできるようになっておいて心底よかったと思います。
それなりの年齢で帰国して普通に大学まで卒業させてもらい、今はメーカーで海外営業をしています。いろんな国に住んだし、仕事で海外へ渡る機会も多いですが、私には日本が一番合っていると感じています。
・細田さんの締め切りについて
この発言をした人もブコメも児相を児童養護施設と勘違いしているとしか思えない。
うちの地域だとこんな感じ。自治体によって内容に違いがあるかもしれないけれども「親を支援する」施設であることは変わらないと思う。
もちろん、虐待児を一時保護することはあると思うけれどあくまで業務の一部でしょう。
もちろん児童養護施設建設に反対したり差別するのは良くない。そこは指摘したくなる。
でもね、そもそもこの件に関しては誰も反対する理由はないんだよ。単に家の近くに子育て支援施設ができるということ。
反対者は単に勘違いをしているだけで、誤解が解ければ解決するはずなんだ。
おそらく理由の一つは多くの施設が「児相」と名乗っていないことだと思う。
「子育て支援センター」「子供健康センター」「子供家庭センター」などといったふわっとした名称になっているところが多い様子。
(参考:厚労省:改称でも「児相」表記 自治体に要請へ - 毎日新聞)
なので自分の利用している施設が児相であるということに気がついていない人も多いのかもしれない。
(ちなみに騒動になっている青山の児相の名前は「港区子ども家庭総合支援センター」)
「3丁目の田中さんに母子手帳を交付しました」「アキラくんの体重が8kgになりました」こんなのはニュースで報道されない。
報道されるのは児童虐待だけなので「児相=児童虐待」とイメージがついてしまっているのではないか
「施設の子が来れば〜」の発言からは「貧乏人の子供が引っ越して来る」というニュアンスが感じられますが、利用者は周辺地区の人たちですよね?
例えばね、マンションの広告でも「マンション内に保育園」「近くに公園や図書館、子育て施設」みたいのはよく宣伝されているでしょう。
というのもね、新しく家を建てる人、マンションを買う人は新婚さんもしくは子供ができた家庭が多いからなのよ。「子供部屋を作らないと〜」ってね。子育て支援施設ができると地価が下がるというのは理屈がちょっとよくわからないよ。図書館ができたら地価下がります?公園ができたら地価下がります?どういうピタゴラスイッチなんです?
DV親がたむろする結果になったとしても
DV親がたむろしません。妊娠した幸せカップルとか、ベビーカー押したパパママがやってきます。
DV親はプライバシーがあるので人目につくところで対応しているとは思えません。少なくとも私は見たことないです。たぶんどこか個室で対応しているのではないかな。もしくは自宅に行くか??
たぶん少なくない人が「始めて来るはずなのに、なんだかなつかしい・・・」ってなるから。
小さい頃、注射を打ちに行って列に並んだ記憶ないですか?それたぶん児相よ。検診や予防接種で人生一度はお世話になっていると思う。
区役所/市役所のホームページ→子育て支援 で施設名称がわかるよ。
区立児相設立の流れで出てきた計画かと思う(今ある児相は都立)。一時保護施設と養護施設の違いは報道で触れてほしいところだけど…
増田の言っているのは「子ども家庭支援センター」であって「児童相談所」は「児童虐待や非行などの児童に関する問題への対応や一時保護などを行う」んだが
ブコメトラバありがとう。なるほど。東京では「虐待を扱う児相(都立)」と「子育て支援(区立)」で長い間施設が分かれていたのか。だから児相に悪いイメージあるのね?ブコメ見ると非行少年の親が通うところというイメージがあるのかな。
青山にできるのは港区立の「子ども家庭総合支援センター」です。非行少年の親だけではなくいろんな親が通うところだよ。安心してね。
各都道府県や自治体に設置が義務付けられているのが児相。子育て支援は義務付けられていない。
虐待が起こってからでは遅い、子育てをサポートして虐待を未然に防ごう、という思想から子育て支援と一体型の施設が増えている。
教育だろうが仕事だろうが、一部の勤勉な人間以外は「勉強(あるいは仕事)しないといけない環境」に行かないと自分の本分をやらないから「ネットで勉強」「自宅で仕事」というのが増えない理由だと思っている。
私の職場は資料を外部に持ち出せないし、外部とネットに繋がれない環境とシステムで仕事しないといけないので通勤しているが、仮に自宅で仕事できたとしてもついつい怠けてしまいそうで恐ろしいので今のままで良いと思う。
やってみたい趣味や習い事はいろいろあるが、教室に行けばそれなりに金と時間がかかり、安くて自宅でできる習い事だと誘惑が多くて続かない気がする。
いろいろな学校や会社が施設の維持管理費をかけてでも自前の施設で授業や仕事をやらせるのは私のような怠慢な人間を勉強モードや仕事モードにするためだと思っている。
若い頃は自宅でできる仕事に憧れたが、知人のお母さんが家で仕事をやっていて仕事も家事もごちゃごちゃになっているのを見てから羨ましくなくなった。自営業でちゃんと自宅で仕事をこなせる人を尊敬する。
最善のことをしてるんだけど、自分を一番に優先してないからもやってるんじゃないかな。
脳内で一日に考えてることを円グラフにして、自分に関することはどのくらいの割合なのか見てみてよ。
少ないと思ったら、多くするようにしてみては。
趣味を増やすのが一番です。習い事とか、前から打ち込んでみたかったことに取り組むと
ちょっと、今までと違う生活にしても、誰も死なないしなんとかなっていくと思う。
変化をいれないと、なんとなく息苦しいまま続いていってしまう。
一人暮らしとかそれに関する批判は、人それぞれに事情があるのだから
あれこれ言い訳考えなくてもいいと思う。