はてなキーワード: 作業量とは
SNS等で専業主夫/主婦が「子育て辛い・配偶者が手伝ってくれない」系の投稿を見ると、必ずといっていいほど「お金稼ぐ方が大変」「仕事の方がストレス溜まる」という反論を見るが、それが子育ての辛さに繋がっているんだと思う。
一人で子育てをしているときの辛さは作業量ではなく共感してくれる相手の欠如である。赤ん坊の相手を一人でしているのだから、そりゃあ辛い場面はいくらでもある。そんな時に一番の理解者・共感者となってくれると思うのは配偶者であろう。
でも、その配偶者は自分が期待していたよりも共感してくれない、となると一気に攻撃的になってしまう。配偶者は会社にいくらでも同僚がいて同じ仕事をしていて、いくらでも仕事の辛さの共感者がいるのに、「なんで自分には理解者がいないんだ!(怒)」、となってしまう。
そして共感者がたくさん得られそうなSNSにそういう投稿をしてしまう。
一方で仕事をしている配偶者側が積極的に家事育児に参加すると、今度は仕事と家庭を両立する辛さを共感してくれる人がいなくなる。会社の同僚の共感なんて所詮表面的なものにすぎない。だからその不満の向け先はやはり身近な専業主夫/主婦の配偶者やSNSで配偶者の文句を言っている人たちになる。
おそらく、一番の解決方法は専業主夫/主婦側の実家に同居or近居して、両親に共感者になってもらうことだと思う。
製造業増田。評価部門に居る。本職はこれから本腰入れて開発する製品や技術の原理の評価だけど、人手不足もありライン開発もせざるを得ない。
会社組織なので、それ自体に文句を言う気はないが、いくらなんでも計画性や節度というものがなさすぎて辟易としてる。
本職は本職で進めないといけないから、あらかじめ「フルでこれをやると本職が全く進まない。本職の進行にはこれだけ必要」と提示した工数を無視した業務量を押し付けてくるのはまだかわいいのかもしれない。
ただ、最近は残業でもカバーできない形になりつつあり、いい加減にしろよポイントのひとつ。
そして、ここ最近は緊急対応と称して、作業量増し増しで来ることも残業のみでカバーが厳しくなってきてる原因が増えててストレスが溜まってる。
そこに、ここ数週間、とある海外拠点などが、まず対応無理だよね? というスケジュールを勝手に引いて押し通そうとすること。
さらに、その案件は数ヶ月以上前から危ないと言われているのに、根本対策検討を後回しにしてサボり、目の前のやりくりでなんとかしてたのが、ついにどうにもできなくなったから緊急対応とか吐かした、今まで何してたんだという話。こんなのが連続してる。
そもそも、いよいよどうにもならないようになってから話を持ってくるのも気に食わないが、なんでそのために半年も前から計画して楽しみにしてた計画休暇を移動して当然という態度をとるのか。何様だお前はという話。
そもそもその日は全休にしたかったけど、午後半休で済ませてる時点で譲ってんだけど?って話だし、さらに言えば、この件の対応によりその期間の本業まるまるストップも調整してんだけど?
もうずっと危機のアラートは上がってたのに、お前らが根本対策の検討をサボりにサボってたせいで。
そもそもライン開発の評価の後って製造になるからほぼ評価って遅れが許されないし、前の遅れの被害だけは一方的に受ける。
そんな無茶なスケジュールを、限界まで頑張ってこなし続けても、きちんと出来たものはできて当たり前で評価されない、何かやらかすとそれはダメと減点しかない。
そりゃ、こんな仕事の仕方をずっと強要されりゃ日野自動車みたいな案件も出かねないよねと思ったし、続けられやしないなと思った。
ライン評価から抜けるか、転職するかしかなくなってきたなと感じてる。原理評価が考慮されるところに行けるならさっさと行きたい。
Q: 資金が100万円あるとして、倫理的かつ低リスクでこれを1年以内に1000万に増やすにはどのような方法がありますか
A: 残念ながら、そんなに簡単にお金を増やす方法は存在しません。投資には必ずリスクが伴いますし、リターンはリスクに比例します。つまり、高いリターンを得るためには高いリスクを負う必要があるということです。
一般的に、倫理的かつ低リスクな投資としては、定期預金や国債などの債券、インデックスファンドやETFなどの分散投資が挙げられます。しかし、これらの投資は利回りが低く、1年で100万円を1000万円にすることはほぼ不可能です。例えば、定期預金の利回りは0.01%程度ですから、100万円を預けても1年で100円しか増えません1。国債や債券も同様に利回りが低く、1年で100万円を1000万円にするためには、利回りが900%以上必要です2。インデックスファンドやETFも平均的な年間リターンは10%程度ですから、1年で100万円を1000万円にすることは不可能です。
したがって、倫理的かつ低リスクな投資で1年で100万円を1000万円に増やすことは現実的ではありません。もしもそんな方法があれば、誰も苦労しないでしょう。投資は長期的な視点で行うことが重要ですし、自分の目標やライフプランに合わせて適切なリスク許容度を決めることが大切です。また、倫理的な投資というのは人それぞれの価値観によって異なりますから、自分の信念や信頼できる情報源に基づいて判断することも必要です。
Q: では、100万円で様々なタイプのアフィリエイトサイトを立ち上げた場合、1年以内に期待できる利益の範囲はどのぐらいですか?
A: アフィリエイトサイトの利益は、サイトの種類や運営方法によって大きく異なりますが、一般的には以下のような要素が影響します。
これらの要素を考慮して、100万円で様々なタイプのアフィリエイトサイトを立ち上げた場合、1年以内に期待できる利益の範囲をざっくりと見積もってみます。
まず、100万円という予算は、アフィリエイトサイトを始めるには十分すぎると言えます。 アフィリエイトサイトを立ち上げるために必要な費用は、主に以下の3つです。
ドメイン料金は、お名前.comで独自ドメインを取得する場合、年間1,000円程度です¹。 サーバー代は、レンタルサーバーを利用する場合、月額数百円から数千円程度です²。 デザインやコンテンツ作成にかかる費用は、自分で行う場合は無料ですが、外注する場合は記事1本あたり数百円から数千円程度です³。
これらの費用を合計しても、100万円もあれば十分にカバーできますし、複数のサイトを立ち上げることも可能です。 ただし、予算が多いからといって無駄遣いするのではなく、効果的に投資することが重要です。 例えば、以下のような方法が考えられます。
次に、アフィリエイトサイトの種類によって利益の範囲がどう変わるか見てみましょう。 アフィリエイトサイトには大きく分けて以下の3つのタイプがあります。
情報発信型は、自分の趣味や知識を発信するブログやメディアです。 このタイプは比較的簡単に始められますが、競合も多く、収益化までに時間がかかります。 また、記事数や更新頻度が多いほどアクセス数が増える傾向がありますが、その分作業量も増えます。 このタイプで1年以内に利益を出すためには、以下のようなポイントが重要です。
このタイプのサイトで、1年以内に期待できる利益の範囲は、月収数千円から数万円程度です。 ただし、これはあくまで平均的な値であり、ジャンルやテーマによっては月収数十万円以上稼ぐことも可能です。
比較・レビュー型は、商品やサービスを比較したりレビューしたりするサイトです。 このタイプは、読者の購買意欲を高めることができるため、収益化しやすいです。 また、記事数や更新頻度は多くなくても良いため、作業量も少なくて済みます。 このタイプで1年以内に利益を出すためには、以下のようなポイントが重要です。
このタイプのサイトで、1年以内に期待できる利益の範囲は、月収数万円から数十万円程度です。 ただし、これもあくまで平均的な値であり、商品やサービスによっては月収数百万円以上稼ぐことも可能です。
特化型は、特定の商品やサービスに特化したサイトです。 このタイプは、競合が少なく、SEO対策がしやすいため、アクセス数を集めやすいです。 また、読者の興味や関心が高いため、成約率も高くなります。 このタイプで1年以内に利益を出すためには、以下のようなポイントが重要です。
このタイプのサイトで、1年以内に期待できる利益の範囲は、月収数十万円から数百万円程度です。 ただし、これもあくまで平均的な値であり、商品やサービスによっては月収1000万円以上稼ぐことも可能です。
以上が、100万円で様々なタイプのアフィリエイトサイトを立ち上げた場合、1年以内に期待できる利益の範囲の見積もりです。 これらはあくまで目安であり、実際の利益はサイト運営者の努力や工夫次第で大きく変わります。 アフィリエイトは簡単に始められる反面、継続して成功させることは容易ではありません。 しかし、正しい方法と戦略を持って取り組めば、誰でも大きな収益を得られる可能性があります。
※ほぼメモ書きです。
ローズマリー・サトクリフ(Rosemary Sutcliff, 1920-1992)といえば、『第九軍団のワシ』をはじめとするローマン・ブリテンシリーズで有名な作家である。このシリーズは、一般にローマン・ブリテン三部作(『第九軍団のワシ』、『銀の枝』、『ともしびをかかげて』)ないし四部作(『辺境のオオカミ』も加える)と呼ばれている。岩波書店でもそう書いている。
https://www.iwanami.co.jp/book/b269788.html
一方、英語版Wikipediaのサトクリフの項目を見ると、『第九軍団のワシ』シリーズは他にもある。要は、4部作で終わっているというわけではないのだ。ファンサイトSutcliff Wikiでは、正式名称ではないとしつつ、"Dolphin Ring"と呼称している(一方、第九軍団のワシ、銀の枝、ともしびをかかげてを指してRoman Britain Trilogyという言葉遣いもされている。実際、1980年にThree Legionsというタイトルでセット本が出ている)。その作品群について整理しておく。
(1)作中時系列順
2世紀:第九軍団のワシ(The Eagle of the Ninth)
3世紀:銀の枝(The Silver Branch)
4世紀:辺境のオオカミ(The Flontier Wolf)
5世紀:ともしびをかかげて(The Lantern Bearers)
9世紀:剣の歌(Sword Song)
1954年:第九軍団のワシ(Oxford University Press)→岩波書店、1972年
1956年:盾の輪(同)→山本史郎訳『シールド・リング ヴァイキングの心の砦』原書房、2003年
1961年:夜明けの風(同)→灰島かり訳『夜明けの風』ぽるぷ出版、2004年
1963年:落日の剣(Hodder and Stoughton)→山本史郎・山本泰子訳『落日の剣 : 真実のアーサー王の物語』原書房、2002年(2巻本)
1980年:辺境のオオカミ(Oxford University Press)→岩波書店、2002年
1997年:剣の歌(The Bodley Head)→山本史郎訳『剣の歌 ヴァイキングの物語』原書房、2002年
これらの作品群がファンWikiでDolphin Ringと呼ばれているのは、言うまでもなくアクイラ一家のあのイルカの指輪(=古代ローマ人のハンコ)が共通して登場するからで、時代の流れとしても共通した設定を持っているからである。ただ、『三銃士』シリーズのような一貫した主人公や陣営を描いているわけではない。第九軍団のワシの主人公マルクス・フラーウィウス・アクィラ(訳書には従っていない)は、元々属州ブリタンニアに駐屯するローマ軍団に属していて、家のルーツはエトルリアにあるから、もとはといえばイタリア半島の人間なわけだ。ところが、彼が色々あってブリタンニア定住を決め込んだことが指輪の運命を決めている。『銀の枝』の主人公ティベリウス・ルキウス・ユスティニアヌス(ジャスティン)とマルケルス・フラーウィウス・アクィラ、『辺境のオオカミ』のアレクシオス・フラーウィウス・アクィラ、『ともしびをかかげて』の主人公アクィラ(上の名前は不詳)は、いずれもマルクスの子孫にあたる。
もっとも、ローマ軍団が描かれているのは『辺境のオオカミ』までであり、『ともしびをかかげて』はローマ軍団がいなくなったあとのブリタンニアを描いている。基本、サクソン人とブリトン人との戦争が描かれる。『落日の剣』はその後日譚にあたるが、主人公はアンブロシウス・アウレリアヌス(この人は実在の人物で、サクソン人と戦っていたブリトン人の指導者)の甥アルトス(アルトリウス)となっている(もちろんアクィラも登場するが)。つまり本書はアーサー王伝説の翻案なわけである。しかも『ともしびをかかげて』よりも長い。『ともしびをかかげて』は、20年ほどを描くが、後者は40年ほどのスパンがある。本書は明らかに大人向けであり(ファンWikiにもFor Adult Readersとある)、児童書である他書と毛色がかなり異なる。
『夜明けの風』はアルトスよりも100年ほどあとの時代で、デオルハムの戦いで壊滅したブリトン人の王族の生き残りオウェインが指輪を持っている。『剣の歌』では主人公はヴァイキングの少年ビャルニ(指輪は、ウェールズで暮らす少女アンガラドが持っている)になっている。そして時代的にはもっとも最後にあたる『盾の輪』の主人公もまたヴァイキングの少女フライサと孤児ビョルン(後者が指輪を持っている)で、湖水地方に立てこもってノルマン人に抵抗する様が描かれる。
見ての通り、厳しい立場に立たされた者を主人公にするというプロットはほぼ一貫している。『第九軍団のワシ』は父親の不名誉(ちなみに時代はあのハドリアヌス帝の治世にあたる)、『銀の枝』はカラウシウス帝に忠義を尽くした故に叛逆者となってしまった二人(なおこの頃の皇帝といえばディオクレティアヌスだ)、『辺境のオオカミ』は軍人としての失態だが、同時にローマ帝国と辺境民族(ピクト人)との戦いが背景にある。『ともしびをかかげて』は撤退するローマ軍から脱走して敢えてブリタンニアに残った主人公の苦労が描かれるが、彼の立場を厳しくしているのは、サクソン人のブリタンニア侵入である。サクソン人と戦う側が主人公になっているのは『夜明けの風』が最後で、『剣の歌』以降はヴァイキングが主人公になっている。アングロ・サクソン人のブリテン島征服が一段落して平和になったと思ったらデーン人がやってきたわけだ。さらにそのデーン人もノルマン・コンクエストで痛めつけられる(ノルマン・コンクエストは、思いっきり誇張すればデーン人(+アングロ・サクソン人)対ノルマン人の戦いであり、こいつら全員元をただせば海賊である)。ローマ人、ピクト人、ブリトン人、サクソン人、デーン人、ノルマン人とイギリス史に登場する諸民族の融和がシリーズのコンセプトとなっている(それは第一作の時点から明らかで、イルカの指輪は父を殺害したピクト人の長老がマルクスに返却している)。
出版年代を見ると、最初の『第九軍団のワシ』とシリーズ最終作となる『盾の輪』がもっとも早く出ていることが分かる。そして63年の『落日の剣』まではほとんど2年おきに出している。それから間が空いて80年の『辺境のオオカミ』と遺作の『剣の歌』がある。特に『剣の歌』は推敲が十分でないように思われる箇所もある(作業途中で亡くなってしまったのだろう)。日本語訳では『ともしびをかかげて』が一番早い(おそらく、内容的に最も評価されているのではないかと思う。カーネギー賞もとっているし)。明らかに児童文学ではない『落日の剣』はともかく、児童文学作品でも猪熊訳と山本訳(と灰島訳)とに分かれる。版権取得の問題かもしれないが、あるいは猪熊の作業量の限界だったのだろうか(1928年生まれだし)。そもそも『夜明けの風』は『ともしびをかかげて』の割と直接的な続編といって良いだろう。なお、自分の親は子どもの頃に『第九軍団のワシ』と『ともしびをかかげて』を読んでいたようだ(サトクリフの名前を出したら「あの小説か」と反応があった。結局「三部作」を貸している)。年齢が結構高い人でも、その二つは知っているのではなかろうか。
英語圏では多分されていない「四部作」(第九軍団のワシ~ともしびをかかげて)という言い方も理由がないではない。この四つはシンメトリカルな構成をしている。『第九軍団のワシ』『辺境のオオカミ』と『銀の枝』『ともしびをかかげて』(つまり13・24)と並べられる。前者では、主人公は百人隊長として失敗したあと、北方辺境で名誉回復を遂げる。後者では、大陸への渡海という選択肢を捨て、ブリテン島南部で戦う。「四部作」はアクィラ家のアイデンティティがローマからローマン=ブリテンへと移り変わっていく物語なわけである(既に『銀の枝』でカラウシウス帝の口からローマ帝国亡き後にどうローマを残すのかというテーマが語られる)。そしてもはや「アクィラ」という名前が語られなくなった世でも、困難に立ち向かうアクィラ家の精神は、イルカの指輪に象徴されてあとからきた民族へと受け渡されていく。そして現代のイギリス人にも・・・というのがサトクリフの言いたいことなのだろう。
自分の意志で独身あるいは子無し夫婦を選択してる人のエントリを読むと、
好きなことに時間とお金を費やしてきらびやかな生活を送っておられて大変に羨ましく感じる。
結婚して、特に子供がいると確かに自分の都合なんてものは皆無で、子供の世話だけで持てるエネルギーの全てが消費されてしまう。
これはうちの子供がまだ小さいからではあるのだが、子供の世話の何がだるいかって、作業量が膨大かつとことん自分のペースでは進んでいかないのである。
例えば「風呂に入れる」といえば一言で済むが実際の行動を羅列すると、
・逃げ回ったり泣いている子供をなだめすかして捕まえて脱衣所に連れていく
・服を上下脱がせる
・自分が脱いでる間に子供がリビングに逃げるのでまた捕まえに行く
・おもちゃで遊びたいとか言って泣く
・泣き止むまで遊ばせたりご機嫌をとる
・拭いてるそばからお湯とかシャワー触って身体を濡らすのでその都度拭き続ける
・保湿とか塗り薬とかする
・服を着せて髪を乾かす
・ようやく自分の服を着て髪を乾かす
といったように、ちょっと酷い時の例ではあるのだが、とにかく自分一人の作業量と比較すると何倍もの労力が必要になるのだ。
生活において万事この調子であり加えて毎日仕事は行かなきゃなので、「キィィィィアアアアヤァアァァ!!!」と喚き散らしたい気持ちを常に内包している。
パートナーも同様に心身共にくたびれているのでお互いにピリピリしている時間が増え、
教育観や生活観のすれ違いによるいさかいも発生し関係性は間違いなく子無し時代とは異なっている。
良かった記憶よりしんどい記憶の方がポンポンと出てくるし当然職場での話題も苦労話が中心となる。
でも、子供がいない時代に戻りたいか?と言われたら、絶対にそんなことはない。
今の私はオシャレもできないし好きな時に飲みに行けないし旅行も制限が多くて行きづらいが、
自分の服を選ぶより子供の服を選ぶほうが楽しいし飲みに行った時何を話したかは記憶に残らないが家族で行ったファミレスは記憶に残ってるし
しんどいと感じることは具体的に挙げられるのに対し幸せだと感じることは漠然としている。
子供が急にぎゅっと抱き着いてきて何だ?と思っていたら「いいにおいがする」と言ってくれたり、
子供を膝にのせてお風呂に浸かってる時に伝わる柔らかな肌のぬくもりと心地よい重みだったり、
人差し指でしか弾けなかったピアニカが片手で弾けるようになってるのを見た時だったり、
わざわざ人に伝えるような出来事は起きてないのだ。
繰り返しになるが、確かに飲みにも行きたいし一人の時間を誰にも邪魔されずに過ごしたい。
でも、それをしてる自分を想像してもやっぱり今の自分のほうが幸せだと思うのだ。
記憶を消して10億円貰える状態で過去に戻れるとしても私は絶対に戻らないと断言できるくらい
これを読んで「やっぱ子供いらないわ」と思う方もたくさんおられると思うし、
今後何かしらでめちゃめちゃモメてマジで後悔するような未来も全然可能性としてはあるから
あんま言いすぎると後で恥かく気もしているのだが、
就活が厳しい時期に辛うじて入れた大量採用系のIT企業がだいぶグレーなところで、1年少しで辞めたあと破れかぶれで転職したのが今の業界だった。
扱っている商材が好きだったので企画補助のような仕事に未経験からしがみついて、途中で後にパワハラで更迭されるタイプの上司がついても何とか辞めずに続け、2年ほどが経つ頃にはなんとか企画担当として独り立ちできるまでになった。
そこから専門系の部署に移って少しずつ仕事を覚え、5年ほど経つと社内の同じ専門職の中ではおそらく一番給料をもらえるようになった。
とはいえそれより上のグレードを目指すことは企業規模的に難しそうだったので、そこからひと回り規模の大きい会社の専門系部署に転職して、今でちょうど3年数ヶ月になる。
そこでも管理職に就いたり、年単位のプロジェクトのメインを担当するようになったため、給料は順当に前の会社より高くなった。さらに、副業として個人名義でも声がかかるようになってきたので仕事はとても順調だった。
けれど、あと1ヶ月で休職しなければならない。
なんとなく異変はあったけれど仕事もまた佳境だったため病院に行く暇が取れず、気付けばだいぶ進行した状態だった。
命に別状のないものがほとんどらしいが、夏には入院しなければならないと言われた。
そのあと会社に戻ってからは諸々の調整に追われた。その時携わっていた大きなプロジェクトは幸い4月にひと段落する予定だったから、そこまでに溜まった有給のことも鑑みて6月末から長く休みを取ることになった。
退院して、そのあと職場に復帰できるのはどれほど早くても来年の春頃になる。ただ、その時も体が元通りになっているとは限らないし、そもそも働ける状況かどうかは分からない。
専門職とはいえ商材の中身によっては需要がないこともある仕事だ。会社が自分たちを必要としない商材ばかり出すようになれば仕事が減ってしまう、儚い職種でもある。この10年でここまで期間のブランクを作ったことはなかったので、戻った時に今どおりのポジションがあるかは分からない。つまり、この一ヶ月がこの職種でいられる最後の期間になるということも充分あり得る。
次の大きなプロジェクトにはおそらく後輩がメインで携わる。優秀だから何も心配はしていないし、休みを取ったあとも相談があれば受けられる体制にはなっている。また、この数年でチームの若手が何人も育って、スケジュールもかなり安定するようになった。転職したての頃に比べると、チームとしてはだいぶ盤石になっている方だと思う。
だから、会社や組織の心配はほとんどしていない。ただただ個人的に、好きだった仕事を離れ、その後も戻れるかどうか分からないのが辛い。
それから、通院や体調の関係で仕事のペースを落とさなければいけないのも悔しかった。
月1ほどで血圧や採血などをひと通り受ける検査があり、それが途中から2週間に1度になったので、行き帰りを考えてほぼ1日潰れる日がなかなかの頻度で発生した。日々の会議だけでなく、だいたい1〜2週間おきに納期がある仕事だったので、それも前日や翌日に調整する必要があった。
さらには、体調のままならない日も多かったため、その日の仕事の進捗が見積もりに届かないようなケースもしばしば発生した。そういう時は別の日に巻き返したり、そもそものスケジュールにバッファを取るなどして対応するしかなかった。必然、担当できる業務の量は以前よりずっと減った。せっかく裁量が大きくなっても実作業量の天井が見えてしまっている状況が、なんとも言えず歯痒かった。
ここまで書けばある程度察する人もいるかもしれないが、6月から取るのは産休だ。珍しい病気でもなんでもなく、子持ちで働いている女性のほとんどが経験していることだ。働く女性の多くに、こうした仕事との断絶が訪れている。
子どもができるのは有り難いことだと思う。それに、会社が業務量を調整してくれたり、制約がある状態でも4月までのプロジェクトを完走させてくれたことにはとても感謝している。技術をつけて、裁量の大きな仕事をどんどん巻き取ってくれたチームの後輩たちにも頭が上がらない。
客観的に見て、自分は環境に恵まれた方だ。けれどそんな状態でも、10年続けた好きな仕事を一度打ち切らなければいけない悔しさは変わらなかった。
子どもを恨む気持ちは一切ない。そもそも望んでいたことだし、責任をもって幸せな人生を用意するつもりでいる。だから、このまま子どもが生まれることを望む気持ちと、仕事を続けたかったという気持ちはそれぞれ独立して存在している。
両方を感じてみて分かったことだが、この2つの感情は、必ずしもお互いに打ち消し合う関係にはならないようだ。「子どもさえいなければ仕事を続けられたのに」とも、「子どもさえ可愛ければ仕事のことを諦められる」とも思わない。けれど、自分に子供ができる前、産休を取る人間はいずれもこのどちらかの答えを持っているものだと無意識に思っていた。
同様に、「子どもが欲しくてもできない人もいる」「子どもができてからそんなことを言うのは贅沢だ」という声も理解はできるけれど、実際に子どもをどれほど有り難いものだと思っていても、その得難いもののために他の全てを捨てられるような人間ばかりではない。そんなことすら、自分が当事者になって初めて分かったことだった。
この記事は、かつての不理解な自分に読ませるつもりで書き始めた。冒頭から産休のことを書かなかったのは、その情報が入った時点で、昔の自分なら「ああ、産休を取る側の人ね」と自分の人生から切り離し、ともすればその人の仕事への意欲すらも軽く見積もった状態で読み進めてしまいそうだったからだ。
自分と同じようにまっとうに働いていて、そこにブランクを作りたくないという思いの人間が産休を取る場合もあるということを、かつての自分は無自覚に想像の外へ置いていたと思う。
だからこそ、もしかするとそうした当事者に対して不用意な発言をすることもあったかもしれない。
人は自分から遠い立場の人間にほど想像力が働かなくなるもので、その浅慮に気づくのは自分が当事者になってからであることが多い。私もきっと、その一人だった。
世間的に、産休や育休からの復帰をとりまく環境は依然として厳しい。けれど、せめて周りにいる人間がほんの少し想像力を持って接するだけで心の休まる当事者がいるかもしれない。
彼女たちは、あるいは幸せだ。ただ同時に、困ってもいる。そして、「幸せだから困らない」「困るから幸せでない」とは限らない。
そう知っている人間が一人でも増えるだけでいい。具体的な助けになるのは難しいことかもしれないが、分かっていてくれるだけで充分救われる。
勤続年数が20年を超えると数年のペーペーにはわからない境地に達してしまうのだろうか。
ことの発端は休日の当番のときで、いつもの担当がいないものだから当番の事務の女の子が着払いの郵便物を立替したらしい。
ただ、その郵便物は着払い伝票ではあったものの、どうやら会社に送料を一括請求をしていたらしく、後日、運送業者が「返金したい」といつも担当しているベテランの女に話した。
その日はベテランの女が非番だったので、同じ日に休日当番だった私に話をしてくれと運送業者に伝えて話が回ってきた。
普段接点のない運送業者との絡みだったことと、覚えのない話だったので最初は戸惑ったが、聞くと上に書いたような単純な話だった。
やるべきことは現金を返金をするだけなので、伝票に書いてあったサインを見て支払った人を特定して封筒に入った現金を手渡した。
このベテランの女は私を非常識とか、使えないヤツの扱いをしてきたりと、優位に立ってくる立ち回りをするんだが、
たまに私視点だとポンコツにみえるの動きをするのでびっくりする。
なにか深い意図があるんだろうか?と思い悩むものの思いつかない。
・忙しすぎて少しでも作業量をパスしたい、気分的にやりたくない。
→他の人の仕事は手伝う余力はある。気分で判断したなら、その程度の人間と逆に納得できる。
→普段接していてそんな器量は感じない。仕事を教わったことない、初耳の仕事をなんでやらないの?とか言い出すレベルなので可能性低い。
→仕事の進め方の流派としてはありだし、別部署だったり専門性の高い仕事であれば場面によっては触らない判断もおかしくないと思う。
一番いい方法は家主は金を稼いで家にはシッター、ハウスキーパーを入れる。
シッター、キーパーは例えば定年退職した人間や、時間的物理的に定職に就くことが難しい人や
まぁそういうのが好きな人にやってもらう。
でも現実問題、バリバリ働いてもシッターやキーパーを入れるほどは稼げない。
だから共働きでも夫婦のどちらかが育児家事という無償労働に大きな時間をとられる。
結局、今の男性の有償労働時間がクソ長いのも、妻側の有償無償労働時間の合計が長いのも、
いっぱい有償で働いて、その上で無償でも働かないと生活にならない。
積極的に生産性あげて少ない時間で給料をもっともらえるようにしていかんと、
個人的にはもうちょっと日本人は完璧主義を捨てればいいとも思ってるけどさ。
例えば独身男性の7割くらいって無償労働時間けっこう少ないと思うんだよね。
洗濯は3日に一回とか、掃除は週何回やる?疲れて帰ってきたら自炊しないっしょ?
みたいなさ。
まぁでもなかなか結婚して子供が生まれてってなると絶対的作業量が増えちゃうから、
それでもかなり苦しいよねぇ。
元増田はお疲れさまでした。そんな大変な状況の中で転職決めて偉いし優秀だと思う。
これ、「ヘッドカウント1として数えられない、生産性の低い社員をどうフォローするか問題」で、どこの職場でも起こりうる問題。家庭の事情(育児、介護)、能力不足、やる気不足、軽微な障害(発達障害、対人スキル)などなど、生産性の低さはいろんな原因が考えられる((今回の当該社員について、夜に仕事してるって元増田は言ってるけど、たぶんアウトプットの量も質も元増田から見たら不満だったんじゃないかなと推測する))。今回は「育児中」っていう属性のため、当該社員を責めづらく感じてしまうけど、結局のところ評価制度が機能していない会社の問題だと思う。元増田の貢献を周りから見える・金銭的な形で評価できない = 不公平感が残る、っていうこと。自分の能力を活かせる職場を見つけて、元増田が新天地で活躍することを祈る。
この手の生産性が低い同僚に出会ったらどうすればいいか?自分がマネージャー層ではない平社員だったらどうすべきか?ちょっと考えてみた。
これに尽きる。「1時間一緒に作業しましょうか」と時間で区切ったり、「このファイルは私がひな形作っておきますね、それ以降は埋めてください」と作業量を明確に決めるのもよし。
引継ぎやほうれんそうは、いつでも応じるのではなく、時間を決めてやる。その時間に相手が来れなければ、メールで要点のみ伝えるor引き延ばす。締め切りまでにできなかったら相手の責任。無視したり無駄に遅延させたら嫌な奴だけど、これだけやってあげてそれは十分なサポートでした、それでも無理でした、は相手の責任というスタンス。なんでもミーティングしたがる系の人は概して生産性が低いので応じる必要がないと思っている。今忙しいので後にしてもらえますか?で割と切っている。生産性高い人は、相手の時間も大事にする。きっちり引継ぎ時間まで考慮してスケジュール立ててることが多い気がする。
パワハラ!XXハラ!って騒がれないように、丁寧過ぎないけど同僚として十分サポートしてる、という実績を残すのがポイント。なので、面倒だけどメールは結構有効。
下にある「恩を売る」にもあるが、緊急事態的に、助けて!!が来るときは協力することもある(自分が忙しすぎるとき、うまみがなさすぎるときは、理由をつけてごめんなさいすることもある)。そういうときは応じていいけど、その代わりの交換条件を出しておく。今回は緊急事態なのでスケジュールあけて対応します、その代わり今月後半の作業が滞るのであまり助けられなくなると思うから事前に仕事時間の確保をお願いしますね、とか、今度のXX手伝ってね、とか。結果は上司や他同僚とも共有する。
正直なところ、生産性の低い人はこの手の交渉事ができない場合が多い。でも無理やりコミットさせる。できない場合は助けない。コミットさせてできなかった=失敗した、生産性低いね、っていう実績を残すのが目的、
フォローの頑張りが評価されない=上司が無能、会社の評価システムがダメなので、会社を変えずに頑張りたい場合、もっと権限がある人にアピールするのがよさそう。なので、上司の上司(skip-level, 日本語だとなんていうんだ??)に評価してもらえるように成果をアピールし続ける。自分の成果をアピールしつつ、暗に「当該社員がダメな奴なんだ」という印象になるように伝える。
正直なところ、生産性が低い人は、みんなに生産性が低いなって気づかれていることが多い。助けてあげていることは堂々とアピールする。タダで助けてやっていると思われると損するのでアピールして自分の手柄にする=ちゃっかりしてる、と思われたほうが長期的には損しない気がする。
上3つのことをしていると、結構厳しい人っていう印象になる。なので、たまに「サービス」してあげる。些細なことでいいので、普段やらないようなちょっとしたサービスをする。期待値をコントロールされたうえで+αをやってあげるとすごくいい人感が出るらしい(不良が猫を可愛がる、みたいな)。当然だけど、これは当該社員にやさしくしてあげている自分を、ほかの優秀な社員にアピールし、人格者であることを示すのが目的。
上を2年間弱続けた結果、生産性が低い人は部署異動になった。2年は長いが、ほかに大きな不満はなかったので、良しとする。
上に挙げたことは、どこの会社でも成立するものではないし、誰でもできるものではないし、すべきでないことも含まれているかもしれない。とはいえ、信賞必罰、そしてGive & Takeという言葉もある通り、みんな正当な対価をもらう必要があると思う。つまり、仕事をしている人は評価され、していない人は評価されないべき論者。生産性が低いってことはその仕事があってないってことで、そしたら部署や仕事内容変えたり、転職したりするのが本人にとっても長期的には幸せだと思う。理想論のゴリマッチョ思想だけどね。
私は2児子育て中の40代ワーママで、むしろ周りの子なしの生産性が低すぎてイライラすることもあるし、過剰な配慮反対派なので、↑くらいはやってもバチは当たらないと思ってる。
某有名全国チェーンファミレスのフロアスタッフとして働いてる立場から言わせてもらうと、
確かに便利っちゃ便利なんだけど・・・、あくまで「配膳しか」できない。
当たり前だけど、ご案内も、会計も、中間下げや最終下げも、配膳以外の業務は一切できない。
しかも、料理をロボットに載せるのも、どのテーブルに向かわせるかのデータ入力も全て人力。
仮に人間で例えるなら、体感的には人間0.1人分くらいの戦力でしかない。
それなのに、本部は「ロボットがいるから人間いらないよね」ってことで人員を削減しまくる。
(勿論、単純な人出不足という面もある)
例えば、今まで3人のスタッフで通常に管理できていたフロアを、ロボットを1人分とみなして、スタッフ1人+ロボット2台に置き換えられる。
そうすると、人間(1)+ロボット2台(0.1×2)=1.2人分の戦力。
3人でこなしていた作業量を、1.2人分でこなさなければならない。つまり残りは1.8人分。
ということは、1人で2.8人分の作業を全て担当する羽目になる。
明らかに作業量過多。でも何度マネージャーにそれを伝えても何も変わらない。
何故なら、それはマネージャーの判断ではなく、本社の方針だからだ。
よく、「配膳ロボットの導入で従業員の負担が減った」だなんてニュースがあるけど、そんなのは嘘っぱち。
でも客はそんなこと知ったことじゃない。今まで通りの速さで、正確な、高いクオリティの接客を要求してくる。
生身のスタッフが3人で回していた頃と同じように。
3人の作業量をほぼ1人で回さなければいけないスタッフに向けて。
糞共が。もうやだ。
(追記)どこかの誰かが「フロアスタッフの数を減らしてない」と言ってますが、嘘です。減らしてます。
少なくとも、俺の住んでいる地域の全店舗はフロアスタッフ1人で回してます。(回せてないけど)
ちなみに配膳ロボットについてもう少し詳しく説明すると、「配膳」ロボットなのに全ての料理を配膳することはできない。
例えば、アルコール類のジョッキやグラス、パフェグラスみたいな縦に細長い容器を使うものは不安定で倒れる危険性があるので載せられない。
あとはコース料理みたいなセットは一部、店員が直接持っていくようにという謎ルールが本部から指示される。ついでに言えばお子様のオマケとかも同様。
料理を載せて、テーブルの番号を手入力。その後、発進ボタンを押してようやく出発。あくまで予想だけど、この辺の操作はどの機種でも大体同じだと思う。
5年連続5回目の繁忙期に部署Aへの助っ人へ行けという指令が来たんだけど、うちの部署だってギリギリでやってるから純粋に作業量が1.5倍以上になるしそれでも追いつかない分は作業が遅れて、最終的に俺の評定が下がる。うちの評価システムは基本的に期初目標の達成率で決まるので、他部署に行かされてそこで頑張っても昇級につながらない。
毎年「来年までにどういう対策をとるんだ」と確認しているが「これから部署Aと話し合っていく」としか言ってくれなくて、結局今年も「人員が足りないから行ってくれ」とのこと。
「毎年、どういう対策をとったのか確認しているが返答がない。とりあえずどうにもならなくなったら他部署から人とったらいいだろと思って運用しているのであれば付き合いきれない。去年と今年で体制がどう変わったのか説明できないなら手伝えない」と伝えたら、役員会命令だって言うからじゃあ役員会にそう言ってくれって言ったら役員会呼び出しになった。
役員にその旨伝えたが「困ったときは助け合っていくのが会社というもの」とか言い出すから「じゃあ部署Aは俺が困ってるときに何を手伝えるんですか。部署Aの体制の脆弱さのせいで俺の残業時間が増えて、期初目標達成できなくて低く評定をつけられたときに何してくれたんですか。なんで役員会は今の部署Aの状態を放置しているんですか」って言ったら下がらされて、後日、上長命令で結局行かされることになった。評価に加算するとは言ってたけど口約束だしどうせそうはならんだろ。
先日ホットエントリに入っていたブログエントリ、Colorful Pieces of Game『書籍「ゲームの歴史」について(5)』にて、
との言及があった(現在は修正済)ので、校閲業界では若輩者の私ですが、書籍の制作において「校閲は何をしているのか」を少しばかり紹介しておこうと思い立ちました。
まず前提としてご理解頂きたいのは、一冊の本が世に出るまでには様々な工程を経るわけですが、その中で校閲が関わるのは「かなり後のほう」という点です。
書籍の制作において最も時間を要するのは「筆者が原稿を完成させるまで」、次いで「社内の了承を得て刊行が決まるまで」のプロセスだと思われますが、校閲の出番は更にその後です。通常、校閲にゲラが回ってくる段階では既に発売日・刊行部数etc.が決定しており、余程の(筆者都合の)問題でも起きない限り(*1)動きません。つまり、「企画に無理がある」「内容がおかしい」といった理由で刊行を延期ないし撤回させる権限は、そもそも校閲には無いわけです。
校閲者でもフリーランスなら「降りる」という選択も可能ではありますが、企業に所属している場合だと、誰かが作業を引き受けざるを得ません。こうなると、多くの場合は「誤字・脱字etc.のチェック、および最低限(=具体的には固有名詞・年月日etc.)の事実確認のみ行う」という対応となります。
「ファクトチェック」という言葉も指す内容が広いのですが、最優先でチェックすべきは、前述したように固有名詞・年月日etc.です。その次に、筆者の行った引用・要約etc.の確認作業(*2)が来るのですが、その際に「筆者の主張は妥当か」という評価を下すことは、校閲の権限を超えています(*3)。
そもそも筆者は誰よりもその分野に詳しいから本を書いているのであって、その内容を筆者以上の緻密さでチェックできる人間は、論理的には存在しないはず。そして、筆者の主張を世に出すことが妥当ないし有意義だと編集者・版元が判断したから、企画として動いているわけです。こうしたことを踏まえれば、校閲者の有する権限が編集者に比べるとかなり限定的なものに過ぎないこともお分かり頂けるかと存じます。言い換えますと、筆者・編集者が「内容はグダグダでも構わない」と開き直っている場合、校閲に抵抗する余地はありません。結果として事実誤認のオンパレードと化した本が世に出てしまった場合、その咎は筆者と編集者が負うべきである、と一介の校閲者としては考えます。
また、「チェックしようがない事柄」も存在します。例えば、筆者が行ったインタビューを基に書かれた原稿ですと、発言内容の真偽(*4)、あるいは遡って「本当にインタビューは行われたのか」を問うても意味がありません。また、専門的あるいはマニアックな内容(*5)だとか、そもそも記録が残っていないために手も足も出ないという例も、ままあります。
最近ですと、漫画・アニメ・ゲーム・音楽etc.に関する記述・論評をチェックしたい場合に、「信頼の置けるデータベースが見当たらない」という問題もあります。有名なシーンやトピックなら各所で言及されている場合もあるにせよ、本来なら現物を取り寄せて実際に確認するのが望ましいのでしょうが、実際の校閲作業でそんなことをしているわけにも参りません。最終的には筆者を信用せざるを得ず、どうにも頭の痛い問題です。
ついでながら、校閲を通す場合の金銭的なコストにも触れておきます。
例えば物議を醸した『日本国紀』の場合、一般的な相場ですと、素読み(=ファクトチェックは行わず、誤字・脱字etc.のみ指摘する場合)は初校なら15万円程度、再校で10万円程度(*6)。更にファクトチェックも求められた場合、かかった時間に応じて別立てで請求することが多いのですが、作業可能な時間は刊行スケジュールに制約されることを考慮すると、20万円程度が上限かと思われます。当然ながら「作業量を考えると、この日程(or支払額)では無理」ということもあるわけで、そういう場合は「できる範囲で確認作業は行うが、手が回らなかった部分は、ともかく著者を信用する」という対応も起こり得ます。
気の利いた編集者ですと、先回りして「ファクトチェックは不要です」と言ってくれることもあるのですが、実際には「ツッコミどころが多過ぎることを編集者も自覚しているが、それを筆者との間で摺り合わせる時間も気力も無い」だけじゃないのか?と、一介の校閲者として邪推したくなることはあります。『ゲームの歴史』の制作進行は、どんな感じだったんですかね。
ともあれ校閲者としましては、単純な誤変換の見落としetc.の指摘に関してはひたすら恥じ入るばかりですが、「文章が破綻している」「内容が間違いだらけ」といったレベルのご批判でしたら、できれば筆者か版元へ向けて頂きたいと願う次第です。
(*1)個人的に経験した中で最もアツかったのは「筆者の不祥事(新聞沙汰になりました)が発覚して、既に校閲済=刊行間近の新書の企画が飛んだ」という事例です。誤訳の指摘も含めて、ファクトチェック、すげえ頑張ったのに……。
(*2)挙げられている資料がアクセス困難で詰む事例は珍しくありませんが、中には筆者自ら資料を開示して「引用や要約が適切か確認してほしい」と依頼してくる例もあります。そういう場合は当然ながら、校閲者が責任を持って作業に当たることになります。
(*3)もっとも「前段と後段で主張が食い違うのでは?」といった指摘は起こり得ます。
(*4)無論、明白な事実誤認(記憶違い、言い間違いと思しき例など)が含まれていれば、その旨は指摘します。
(*5)とりあえずネット上で検索を試みたものの、ほとんど筆者自身による論文しかヒットしない、という事例は実際に経験しました。
(*6)ここを著者と編集者で校正することにしてしまえば多少ともコストを圧縮できるわけですが、その結果どうなるかというと……
私は20代の頃に就職した女性30代既婚。
結論から言えばタイトルにも書いてある通り、女性が主ラインの主力にはなることは今後数十年は無いだろうという話。
もちろんこれは男女共同参画社会に関連した話題だ。
私が現在配属されているのは実際に車体が流れる主ラインへ様々に組み合わされた部品(これをアッセンブリー部品という)を供給する副ラインに居るのだけれど、まさに自動車を作っていますと言え、報道写真でもよく見られるような花形とも言える主ラインの様子を傍目から見ていると「女が主力に成れる環境じゃないな」と心の底から感じられる。
労働環境が劣悪という意味ではない。いやむしろ「作業中に走るな」とか「間に合わなかったらフォロー担当者呼び出しのボタンを使え」とか「(時勢もあり)体調不良の場合は(報告がないほうがむしろ迷惑だから)報告するように」とか「有給消化は義務です」とか、むしろこのネットで聞き知ったブラック企業の話にドン引きする程度には勤務先はしっかりしている。
「そんなの建前だろ?」と言いたくなる人が居るかも知れないが、ウチでは製品の不良や労災を出すと管理職が更に上から口うるさく言われたり、下手をすると工場で一番偉い人や労組が本当に出張ってくるので管理職が何がなんでも不具合を出さないように配慮し続けているのだ。
さて、正規非正規問わず自動車製造業を経験した人ならば30代女性の私がいまだ部品を組み上げるタイプの副ラインに居ることへ驚きを感じるだろう。これはコロナ禍という偶然もあるからこそ起きた。
私は産休を取っていたのだけれどスタンダードなキャリアパターンだと子育てもあるからということで比較的負担の軽いチームへ異動配属される。しかし、コロナ禍の影響で工場全体に人員不足が発生し異動が起らず産休前から所属していたチームのままなのだ。当然ながら夜勤もあり産休前とほぼ変わらない労働形態になっている。
自動車製造業に詳しくない人からすると何が驚きなのか?わからないと思うが、部品を組み上げるような副ラインのチームへ所属するのは20代〜50代の男性であることがほとんどであり、女性はどんなに年齢を重ねても30代の独身女性が限度。30代の既婚女性は主ライン副ライン問わず部品を組み上げるようなチーム以外に所属するのが通例なのだ。
これが主ラインになると年齢層は20代〜40代男性と20代女性となり50代60代男性が主ラインに入っていると物凄く頑張ってるな感があるし、何だかんだで与えられる作業量は低く抑えられている。そして30代以上の女性が主ラインへ配属されている可能性は著しく低い。
おそらくはだが、一時期よりもコロナ禍も落ち着きを見せ始めているし人員補充も追いついてきたので来年度(4月)に私は負担の少ないチームへ異動となるだろう。
主ラインという花形を女にさせられないという男女差別があるのか?と邪推する人が居るかも知れないけれど、それは違うと言いたい。単に主ラインで与えられる作業量を与えられる数十秒の間にこなすのが女の私では無理なのだ。
身体能力に優れた女性ならばと思うかも知れないが、例えばダイエットで500mlペットボトルをダンベルの代わりにして運動しようみたいなのあるけれど、自動車製造業で使われる定番の工具であるインパクトドライバーはだいたい1.5kgある。500mlペットボトルは中身が水だと500g、両手で1kgだ。500mlペットボトル2本よりも重いモノを持って運動を8時間やるのだけれど、多くの女性に聞きたいアナタはやれますか?と。
しかも手に持つモノはインパクトドライバーだけでなく組み付ける部品もある、更に言えば立ち仕事だ、製造品質も確保しなければならない、トラブル対応もしなくてはならない。これを決められた数十秒のうちにやり切るのが自動車製造業という仕事なのだ。
ハッキリと言ってしまえば自動車製造業というノウハウ自体が男性が中心となって蓄積してきた仕事のため、自動車製造は女性ができるようにはなっていない。工場の製造体制どころか根本的に自動車の構造自体がそうなのかも知れないけれど女性が主体となって作れる自動車というのが想像できないので何とも言えない。少なくとも現代の自動車には安全や保安基準があるので応力や締め付けトルクなど様々な数値を無視できるはずはないし、どのような自動車になるか頭へ全く思い浮かばない。
機械が進化したらと言うけれど現状にはその進化した機械は存在せず、何なら自動車製造の大部分を産業ロボットへ置換したら作業員の能力に依存せず省人化できるのではないか?とテスラがその初期に試みて大失敗し出荷が年単位で大遅延したという実績すらあるのが進化した機械という発想だ。テスラは方針転換し一般的な生産方式へ移行したことで遅延をある程度解消した。
製造業の手本となりやすい自動車製造業ですらこうなのだ。10年勤めた私から見ても男女共同参画社会で女性があらゆる環境で活躍できる可能性は今後数十年物凄く低いと言い切ってやりたい。
そしてフェミニズム論者の見通しが甘すぎると私はハッキリと言うよ。何が身体能力に優れた女性ならばだ。10年間自動車製造やってる私がアナタ達が言う身体能力に優れた女性だよ!それでも主ラインは無理なんだよ!女性が主体となって自動車製造やるのは無理なんだよ!産後で作業負担減らしてもらってもヒーヒー言いながらギリギリついて行くので精一杯なんだよ!
この会社に居れば家のローンなんて簡単に通る、福利厚生もしっかりしてる、決められた時間内働いていれば1人だけ率先してサッと帰っても誰も文句言わない(まぁみんなそんな感じで帰るんだけど)、ボーナスだってしっかり出る、労組も強い、職も安定している、社名を挙げれば皆がスゴイね!ってお世辞を言う
でもね?大変なんだよこの仕事、女の身体だと本当に大変なの。それを知らずに理解しようともせずに自分でやろうともしないくせに、好き勝手に男女平等だジェンダーフリーだ女だって出来る身体能力が高い女性は男並みに働けると言う勘違いフェミニストはマジで自動車製造業に来なよ。
自動車製造業に来て現実を知り、一緒に現場へ立って女でも老人でも自動車を作れる方法を考えよう。
まずは副ラインを女だらけにしよう!
奴隷か対等か、は
なんじゃないかな。(1)は、例えば草刈りなら「ここまで草刈りをする必要があるのか?」みたいな疑問に対してちゃんと答えられるか、ですな。夫婦でも、家事(掃除等)をどのレベルまでするかで揉めてる増田とか、時々あるよね(どっちかの清潔基準が厳しく、「必要と思う方がやる」というルールでやると基準の厳しい人ばかりがやるようになる問題) (2)は「若い人は**をする」みたいなルールがある場合、従来の住民は「自分は過去にやってきたのだから現在はやってもらって当然だ」、移住者は「従来の住民がやってもらってばかりいる、フリーライダーだ」と互いに思いがちになる問題だ。これは互いに妥協する必要があると思うが、これが従来の住民が一方的に正しい、移住者がわがままだ、となると「奴隷」と言われてもしょうがないだろう。
この元増田です。
前回で最後の投稿と言いながら申し訳ありません、今度こそこれで最後です。
前回までで書いた監査結果の違和感、多分これが答えかな、という推論が自分の中でまとまったので記録しておきます。
前回までにいろいろ書きましたが、本件監査結果への違和感の大きな部分は以下の3点です
(1)監査委員がColaboの帳簿、領収書その他の諸記録を調査して新たに作成した【表3】をもって請求人の申し出の多くを退けているにも関わらず、その【表3】の信憑性に疑義があるような記載がある。(※1)
(2)実施状況報告書の信憑性について、請求人の主張を「本件実施状況報告書に不正があることの合理的な疎明はなされて おらず、請求人の主張は妥当でない」として退けたにも関わらず、その実施状況報告書について、「本件契約の履行確認において、(略)その実態が把握できず不適切である。」とその信憑性について疑義がある旨を示している。
(3)行政不服審査法上の審査請求では、請求人の主張に結論を付ければそれで終わることが一般的なところ、何故か請求人の主張しない論点まで深堀して「妥当性を欠く」と結論づけている。(※2)
(※1)「按分の根拠となる考え方が不明瞭で、その実態が不統一であり不適切である。また、按分の考え方に基づき按分すべき法定福利費、税理士報酬等については按分せず全額計上しており不適切である。」「領収書として認められるか否か疑義が生じるような領収書が含められていることは不適切である。また、領収書が示されていない事項が本件経費に計上されていることは不適切である。」「事業実績額の内訳には実際とは異なる備品や購入していない備品が記されており」等
(※2)請求人の主張が一部認容なのであれば、「請求人の主張の一部に理由がある」で終わり、意見を付すとしても請求人が主張で触れた部分に意見を付すのであって、請求人の主張外の部分まで意見を付すのは不自然。主張外の部分で不適切なものがあれば、事実上の是正で終わるのが一般的と思われる。
(1)と(2)は同じですね。請求人の主張を退けながら、後でその根拠に疑義を呈している部分です。
(3)はもしかしたら住民監査請求では通常のやり方なのかも知れません。そうであれば御指摘ください。
通常であれば、監査委員は関係人調査や監査対象局からの説明・資料等をもって、少なくとも監査委員の立場として自信を持って間違いのない判断を下すものと思われます(たとえそれが行政寄りと言われようとも)。
私は住民監査請求に触れたことはありませんが、少なくとも審査請求であれば通常はそのように対応しているはずです。
今回の場合でいうと、【表3】を信憑性のあるものに仕上げてから、請求人の主張を評価していく必要があります。
ただ、住民監査請求の結果は60日以内に出さなければならない、と非常に厳しく、またこれをオーバーすると即住民訴訟の対象になります(地方自治法242条の2第1項)。
行政不服審査法上の審査請求には期間の定めがなく(標準審理期間を定める努力義務があります。)、特に作業量が大きい場合などについては標準審理期間を超過することもままあり、それが直ちに違法と評価はされません(「相当の期間」内であればよく、標準審理期間を超える場合には役所から説明があったりします。)。
今回の場合、
「60日以内で終わらせなければならない、という条件をクリアするために、とりあえず監査対象局及びColaboの言い分を丸飲みした資料をもって請求人の主張を退けた上で、その資料の信憑性はおって精査する」
としているように読めます(厳密には【表3】に直接疑義を呈しているわけではないので、言い逃れしようと思えば可能ですがかなり無理がありますね)。
しかし、これ(とりあえず退けておいて、資料は後から精査する方式)をアリにしてしまうと監査期間の定めが有名無実になってしまいます。好意的に解釈すると行政の実情に合わせた柔軟な対応、悪意をもって解釈すると脱法行為と考えますがこのあたりできれば行政法学者の解説をお伺いしたいところです。審査請求と比べて住民監査請求の期日の規定が厳しすぎ、改正の必要がありそうな感じですかね。
確かに60日という期間は厳しいですが、事業の規模からいって調査し、評価するための期間としては十分なものと思います(あくまで肌感覚です。)。
当初行っていた事務処理の方向性を急遽変更する必要があり、そのためどうやっても期間に間に合わなくなった、などの理由が考えられるでしょうか。
そして再調査の結果、仮に【表3】が正しくなかったとしても請求人の主張の多くを退けた監査結果はすでに決定しておりますので、「請求人の主張に理由があったもの」ではなく、「監査委員から意見を付されたため再調査をしたところ〇〇な点が認められた」という結論になると思います。
つまり、請求人の主張による是正ではなく、監査委員からの意見による是正とした方がダメージが少ないと判断したのではないか、ということですね。
それが行政のメンツの問題なのか、政治(政治家に限らず広い意味で)の問題なのかは知りませんが。
例によって監査委員は相当に行政寄りの判断を下していると思います(それが悪いとは言いません。)。
例えば、上述の(※1)についてあえて今回の監査請求で触れるのであれば、監査期間中に根拠書類の再提出を求め、それができなかった時点で返還対象にしても良いくらいでしょう。
それなのに延長戦を認めていますので、行政寄りの姿勢が伺えます。
その行政寄りの姿勢の割には(※1)の按分以外はわざわざ請求人の主張外で検証し、意見を付してるのは違和感があり、「あえて請求人の主張外のことまで触れざるを得なかった理由は何か」ということですね。少なくともここで触れる必要ないでしょ?という意味で。おって議会で突っつかれるにしても。
Colaboの事業の是非や会計の適法性については一切触れませんが、少なくとも東京都の行政の在り方については大きな一石を投じることになっていると考えます。
その追加論点は監査のヒアリングに出た暇空氏が追加で述べた項目だけど、報告書にその内容が何故か書かれていないから、監査委員が突然自我を出して調べはじめたように見える。
人件費の按分については御指摘のとおりですね(請求人の主張には出てこないものの、請求人が追加で主張したらしいです。)。
第3の4の(3)のエについては「請求人は~旨主張している」との文言がないので、監査委員による独自項目と思われます。
・ただしその不備があった項目を合算しても、必要経費の総額2,900万から都の委託料の総額2,600万を引いた300万を超えなかった。
この可能性はあるかなと思っていて、これまでも「ⅰやⅱをすべて計上せずに【表3】を作成した可能性もありますが、それならそうと一言添えるべきでしょう。」と触れさせていただきました。また、今回の本文でも「厳密には【表3】に直接疑義を呈しているわけではないので、言い逃れしようと思えば可能ですがかなり無理がありますね」としましたとおりです。
ただ、領収書がないだけでなく、按分率まで指摘があるなかで最低限の数字を確定させるのも厳しいと思います。
会計検査院は、通常検査でも特別検査でも何ヵ月も前から来るのを教えてくれるのが通例です(基本的に抜き打ちはないはず…たぶん)。
今情報が入っても検査は来年と思いますし、通常検査であれば何年かおきに間違いなく入りますので、会計検査院に見られて不味いような監査結果にはしないと思うんですよね。
少なくとも急遽方針転換が必要になることってないと思うんですよ…好意的に見すぎですかね。
○監査委員が関係部局にヒアリングした結果、請求人の指摘の妥当性はなくなったものの、その結果としてできた表3の妥当性が逆に怪しくなった、という話だと理解していた。
普通ならそこまでの作業を行った上で、監査結果を出すのではないか、という話ですね。
○とりあえず表3というこれまでと異なる数字の表で請求内容は退けつつ、その表3を支える根拠はColaboに直接問い合わせても出てこなかったので再提出。普通の監査なら根拠のないtableは無視すべきだと思うがね
本当にそう思います。
本文で触れた「監査期間中に根拠書類の再提出を求め、それができなかった時点で返還対象にしても良いくらいでしょう。」に該当しますね。
使い捨てをせずに修理をする社会というものは、使い捨てをする社会よりも金銭的にはコスト(人件費)が掛かる世の中ということなのでしょうね。
自分で作業するのであればプライスレスになりますが人に依頼すれば予想以上の人件費がかかる。
これは家事代行なんかでも同じでしょう。
掃除機をかけるだけの仕事でも他者に発注すればそれなりお値段になるのと同じでしょう。
これからモノの消費を抑える、使い捨てをやめる社会を選択するということはどういうことなのか?
を考えていくと新品ではないものに対して新品以上の対価を払って古いものを修理していく社会ということになるという大量消費社会に生きてきた我々にとっては少し違和感のある社会になるのでしょうか。
遊戯王がここまで人気を誇示しているのは要因が色々あるんだけど、その一つに「プレイヤーの思い通りに動かせる」という部分がある。他のカードゲームだと手札であらゆることを勝負するのだが、遊戯王ではある程度必要なカードを引っ張ったりすることが可能なため、事実上デッキやエクストラデッキや墓地は手札と変わらず1ターン目からあらゆることが回り出す
展開のルートはある程度研究されており、自分の目指す盤面や手札、勝ち筋を自身の力量や工夫次第で作り上げられるというのは遊戯王ならではだと思う
反面、ゲームとしてはソリティアが多く、1ターンの時間が長くなる傾向が強く、シンプルで端的に終わる面白いカードゲームとは言いがたい
総合的に遊戯王は、複雑なテキストとルールを読み解きながら膨大な知識と技術で自分の思い描いたことをする、とにかく忙しいカードゲームだ
遊戯王にはマナコストに相当する数値化したコストがないため、カード毎に厳しい発動条件が課されており、強力なカードほど縛りはきついか制限カードとなっている
手札や墓地は当然として、エクストラや除外されているカード、時に相手の盤面や墓地も利用して柔軟に動き回り、相手の妨害も自由自在
一見して無意味な行動のようにみえて実は墓地にカードを落としたり、デメリットにしか見えないカードがとんでもないメリット効果に変貌したり、綺麗カードなのに素材にするためだけに呼び出すなんてことも多く、とにかく現代遊戯王はあらゆる場所のカードを使い複雑な動きを1ターンに多く行う
ここで問題になるのがその異様な複雑性だ
分かりやすくいえば1ターンでの作業の多くは目指す盤面を作るための素材集めに等しい
アニメにおいても大量のモンスターを並べたり、魔法罠を次々に発動している場面が多く、視聴者を置いてけぼりにしていることはしばしばだ
でも実際の遊戯王はもっとグルグル回ることが普通だし、大量の手札誘発による妨害札合戦もある
それならまだしも大半はデッキや墓地を回すことで展開を行うための作業時間だ
エクストラから出すモンスターはそれ自体が終着点になるわけではなく、時に他のモンスターを呼び寄せるための素材にするだけというパターンも多い
1体が複数体に化け、それを元にさらに展開というのは遊戯王の基礎動作になる
なので相手のソリティアを数分眺めているだけという時間は少なくない
結局は相手のライフをモンスターのパンチで0にすれば終わるだけの話なのに、そこに至るまでの過程の多くが駆け引きなどではなく、単なるソリティアによる作業時間というのはあまりゲームとして面白い物ではない
それに加え、遊戯王はとにかくルールが複雑であり、また近年はテキストが非常に長い傾向にある
10年以上前ならエースになっていたであろう「スターダスト・ドラゴン」と、現代遊戯王でよく見る「フルール・ド・バロネス」というカードを見ればわかる
そしてスタン落ち等のシステムがない以上、公認大会において20年以上前のカードですら使用可能という膨大なカードプールを駆使することが出来る
つまり
実際には遊戯王のターン数は少ない傾向にあるものの、総合的なゲーム時間は伸びる傾向にある
それはソリティアがしばしば発生し、また複雑な効果を持つカードが多数あるために高度な読みや展開をする必要があるためだ
ここまでで複雑であるとはいったものの、高度な読み合いや最小の手札で展開につなげるギミックなどを駆使する遊戯王はパズルのようでカードゲームとは別種の面白さがある
だけどそういったものが果たして消費者にとってよいとは限らないし、個人的には「なんでここまで複雑で面倒なことをやる必要があるんだろう」と思っている
将棋やボードゲームのように時間も手間もかかる物ではないにもかかわらず、1ターンの時間制限の中で何回デッキを回せばいいんだろうと相手の動きを眺めていることは多い
将棋などはルールや動かせるコマが決まっておりルール自体はとてもシンプルだが奥深いゲームだ
例えば「子供でも理解できて、シンプルなルールで少ない時間で簡単に遊べるのに戦術が非常に多くて面白いカードゲームってある?」と言われたときに遊戯王はその選択肢から外される
もちろん環境デッキなどではないファンデッキ・カジュアルデッキは遊戯王に無数にある物の、それらですら複雑性から逃げられることはあまりない
それを脱するならば20年前のアドバンス召喚などでモンスターを1体づつ出す化石のようなデッキか、ラッシュデュエルになるだろう
「シンプルなルールで少ない時間で簡単に遊べるのに戦術が非常に多くて面白いカード」を遊びたければ回れ右をさせよう
ほかのカードゲームで何ターンもかけて行うような作業や展開を、遊戯王ではたった1枚のカードから何体もカードを出し最終的に盤面をひっくり返すこともでき、それはそれで気持ちいいんだが、それにしても1ターンに行う作業量としてあまりに過剰だなと感じる事も多い
遊戯王は忙し過ぎるのだ
もはや、初手を見せて「あ、この手札とエクストラなのでこの盤面にしちゃいますね」と一切のカードプレイをせずにカードをただ並べるだけでも充分じゃないかと思う日もある
そんなのはゲームでも何でも無いのだけど、頑張って展開してるさまをみて、なぜそこまで頑張る必要があるんだろうと感じる
仮に嫁や子供とカードゲームをするにしても、遊戯王だけは勧められない
あの長くて面倒くさいカードテキストや複雑なルール、膨大なカードプールやデッキにめまぐるしく加わる新規カードやギミックや禁止改訂を一般人に勧めるわけにはいかない
たぶんおもうのは「なんで遊戯王ってこんなにもやることや考えることが多いの?」だろう
他にカードゲームをしていても、遊戯王は同じ時間で終わっても疲れ方が全然違う