はてなキーワード: アホの坂田とは
・あ、よいとせのこらせのよいとせのこらせ」
・アッホ! - フジテレビ「オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦スペシャル!!」で清水アキラが坂田利夫のマネとして、ピンクレディーの扮装で「UFO」を歌った際、「ご本人登場」として坂田も共演。そのギャグを逆パクリしたもの。
・アホウドリの歌 - 「なにわ人情コメディ 横丁へよ~こちょ!」などに出演した際に、番組の終盤近くなどで披露する歌。
・ あ~りが~とさ~ん(当たりギャグである、山本正から5000円で買い取ったギャグ)
・ あんたバカね、オホホ~(ルーキー新一の「あんた知らないの? ホホホン」の流用または盗用ともいえる)
・ いえす、あいどぅー
・ 恋のマイアホ - これまた、ものまね番組で清水アキラが坂田利夫のマネとして、「恋のマイアヒ」を歌った際、「ご本人登場」として坂田も共演。そのギャグを逆パクリしたもの。
・ ジョンジョロリ~ン、ジョンジョロリ~ン、ジョンジョロリンの、ぱっぱ(冒頭に「みみずもカエルも皆ごめん」と言う場合もある。)
・ G・N・Pは国民総生産、G・D・Pは国内総生産、Y・K・Kはチャックの会社(オチ)
・ 手足をくねらせながらの独特の横歩き。吉本の舞台では、時に「アホ」と大きく書かれた赤い腹巻きを着けていることがある。
・ ファーホーファアーホー(椅子などに座り、両手両足で交互に拍手をしながら)通称「とっちゃん叩き」。
・ まいっちゃったよたまんないね
昔、「探偵ナイトスクープ」という視聴者の疑問を探偵役のお笑い芸人がレポートする番組で、ご意見番ポジションのキダ・タローがいるときに、彼が作曲した「アホの坂田のテーマ」をノルウェーだかカナダだかのホッケーの試合で聴いたという調査依頼があり、それは要するにどこかの民族音楽をキダ・タローがパクっただけという話なのだが、コメントを求められたキダ・タローが「引用や!」と開き直ってスタジオ爆笑というオチになった回があった。
それで済んでしまったので子ども心に釈然としない思いを抱いたものだが(もちろんアホの坂田の原曲は著作権が切れているのだろう)、音楽業界の「引用」って、もしかして思ったより根深くて、当時キダ・タローが「引用や!」と言ったのも、ウケ狙いとかではなく、本気だったのかなあというようなことを、昨今の騒動でふと思った。
ちなみに「フニクリ・フニクラ」という曲はどこぞの登山鉄道の宣伝のために作られたものだそうで、それを知らず「イタリアの昔の民謡かなんかだろう」と思い込んで「引用」したクラシック作曲家が訴えられて著作権料を払う羽目になったそうな(Wikipedia情報)。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
質問が長いなあ。
怯んだが、まあ答えよう。
君の主張がそこまで的外れだというつもりはないが、少し誤解している。
「アホの坂田」こと坂田利夫は、プライベートで芸人仲間にアホ呼ばわりされると怒るというエピソードは有名だな。
だが、これは矛盾していない。
芸人などが自分の美醜などのコンプレックスをウリにすることと、他者がそれをいいことに笑いのタネにしようとすることには違いがある。
何も道徳的な、政治的な正しさという観点から、それらを「笑い」にすること自体を非難しているわけではないのさ。
何かが足りなかったり、或いは過剰であったり異常であることは、人間が感じる「面白さ」に密接に関係しているだろう。
その点で「笑える、笑えない」に、「健全かどうか」であったり「政治的正しさ」を無理に結びつける必要性はない。
長所を活かすことを是とするなら、短所を活かすことだって是としてもいいかもしれない。
誰かにとっての短所が、誰かにとっては長所になりうるという側面、まあよくある話だ。
だが、“そういうこと”に過敏な人や、或いはそれらの要素を罵って人格を不当に貶める人がいるのもまた事実だ。
誰かにとっての長所が、誰かにとっての短所になりうるという側面、これもよくある話だな。
そんな人たちの視線を基準に考えるべきか否かなんてことは、私が決めることじゃあないが。
仮に決めるなら、その世界の住人たちだろう。
例えばの話だが、障害者が障害をウリにした芸をやり、それを他の障害者や関係のある身内たちも笑う。
もしそんな世界があるのなら、それはそれで健全だとは思うが、まあ非現実的かな。
小人プロレスとかのように、そういう「正しさ」でもって誰かが割を食う側面はあって、それは必ずしも善悪の二元論で語ることが難しい可能性もあるのだが。
まあ、現環境に即した「健全さ」を目指して最適化していくしかないだろう。
さて、今回学ぶべき教訓はこうだ。
僕はテレビを見ない人間だ。ブラウン管テレビはホコリ置き場になっていた。邪魔なので捨てたら、一人きりの年越しはとっても寂しかった。TVも人間もいない年越しは寂しい、というか虚しい。孤独で死にそうだった僕は、ラジオで紅白を聴いていた。
ラジオで聴く紅白は、ラジオで聴くワールドカップサッカーと同じくらいわけがわからなかった。何が起こってるのかさっぱりわからない。野球と競馬ならわかるけど。それで、『犬神家の一族』を文庫本で読みながら聴いていたら、DJ OZMAという名前がコールされた。
このDJ OZMA、僕が先日「何その人? 芸人?」と知人に言ったら散々馬鹿にされた(m9(^Д^)プギャー)、少々恨みがましい存在だった。初めて
耳にした時は、DJ あづま(納豆メーカー)の聞き間違いだと思ったくらいだ。その知人は、DJ OZMAを知らない僕を馬鹿にはしたけれど、結局DJ OZMAの何たるかは教えてくれなかった。二重の意味で気になってしまい、僕は佐清の手型の鑑定結果が出たところで本を置き、ラジオに耳を傾けた。
きっとほとんどの人がそうだろうと思うけど、あれを曲だけ聴いたって何が何だかわかるわけがない。まして僕だ。ラジオのアナウンサーが「OZMAさん、服を脱ぎ始めました」とか解説してたけど、僕はどうでもよくなって、また『犬神家の一族』を読み始めた。僕の耳は騒音をスルーしていた。サブちゃんが出ていたことより、犬神家の秘密の方が興味をそそられた。
その後、アンジェラ・アキをスルーしてさだまさしに感涙する僕は、年のわりに耳が古いのかもしれない。今井美樹もよかった。その次の徳永英明の『壊れかけのRadio』の素晴らしさといったら! 今思い出しても、つい「レディオ」につられてRedioとミスタイプしてしまうくらい感動した。でも(壊れかける気配の無い)ラジオで聴いていた時は、感動の余韻もくそも無かった。曲が終わったすぐ後に、NHKのアナウンサーの謝罪コメントが入ったからだ。
コメントが読まれる際、会場からは二度も笑いが起こった。だから僕は、ちょっと下品な演出があって、PTAのオバサンみたいな神経質な視聴者様方が過剰反応してヒステリックなクレームを押し付けてきたのかなと思った。まあ紅白だし、ちょっとやんちゃが過ぎたのかと。それ以上にどうでもよかった。だって紅白だし。聴いといてアレだけど、興味無いし。
それからしばらくして、DJ OZMAのパフォーマンスが問題になっているってネット(はてブ)で知った時は、正月からはてブをやっている虚しさを吹っ飛ばすくらい、驚いたものだった。腐っても鯛、視聴率低迷が言われている紅白と言えど、まだまだ世間への影響力は侮れないものだと思った。その批判内容(はてブコメント)を見たら、僕がイメージしていた「PTAのオバサンみたいな神経質な視聴者様方が過剰反応したヒステリックなクレーム」まんまで、さっきよりも驚いた。ネット上には良識派を気取って重箱の隅を突っつき回したがるナルシズムエゴイズム溢れる人々が意外に多いのは知っていたけど、それにしてもなあと思った。そこで、僕自身がまだかの映像を見ていないことに気がついた。だめじゃん。
で、Youtubeを見た。読みかけの『犬神家の一族』は、湖面から逆さまに人の足が突き出ている、かの有名なシーンにさしかかっていた。
まず感じたのは、戸惑いだった。僕はものすごく戸惑った。どう反応したらいいのかわからなかった。ああいう騒々しいモノに対して、僕はパターン化された理解を持たなかった。テレビを見ていないと最近の娯楽についていけないのか、テレビ買おうかなとすら思った。その戸惑いをよくよく分析してみると、僕は不快だった。美しくない眉を顰めていた。そう、悲しいことに、僕自身もクレーマーと同類だった。僕はDJ OZMAを見ていて、どうしようもなく不快だったのだ。画質の悪さでおっぱいが本物らしく見えるくせに、その実本物でないのも腹立たしかった。
しかし僕は、クレーマーたちと自分を差別化しなければならない。そうでなければ、頭がおかしくなりそうだ。いや、もうおかしいのかもしれない。
もう一度、DJ OZMAのパフォーマンスを眺める。そして、何故彼がこのような馬鹿げた、下品なパフォーマンスをするのか、しばし考えてみた。
そうだ、アホの坂田がアホでも何でもないように、DJ OZMAもきっと、真実に馬鹿げた人間ではないのだ。彼はきっと、僕よりもずっと高いところに立って、釣られクマーな僕をあざ笑っているに違いない。
その時僕は、どうしようもない屈辱感に襲われた。DJ OZMA、彼に何らかの反応を示した時点で、僕は彼に負けたのだ。彼はきっと僕の、このような反応を全て了解済みだったのだ。「下品だ」「紅白にふさわしくない」という反応も彼の想定内であれば、「DJ OZMAはお前らの反応も織り込み済みなんだよ」「ナンセンスだ」というメタぶった反応すらも想定の範囲内に収めていたのだ! 僕がどう考えようとどう反応しようと、僕はただDJ OZMAの掌の上で踊る哀れな猿にすぎないのだ。一連の事実が彼を中心に回っている以上、どうメタ分析を試みようが上から物言おうとしようが、僕は、いや僕らは、彼を超えることなどできないのだ。騒ぎの渦を一つの世界と看做すならば、彼は神だ。唯一絶対の神だ。愚かな人間どもを哂う神だ。いっそどんな形でもいい、彼に心囚われてしまったことが(または正月からこんなことで騒いでいることが)すなわち、僕らの負けであり、彼の哂いなのだ。
僕の心は虚脱感に包まれた。もう、全てがどうでもいいのだ。僕の正月は暇だった。このテキストの記号的意味でなく、存在的意味が、悲しい事実を何よりも雄弁に物語っているではないか。傍若無人。かたはらにひとなきがごとし。如しじゃなくて本当に誰もいない正月を、僕はDJ OZMAに哂われて終えることにしよう。テレビはやっぱり買わない。