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はてなキーワード: にゆとは

2024-10-16

大麻合法化してもらって

弱者男性を集めて

大麻を吸いながら皆ハッピーにゆっくりのんびり暮らす大麻コミュニティ

AI搭載のロボットが全ての労働を担い

ロボット(もちろん大麻が効かないので正気である)を通じて外界とやりとりする

そんなコミュニティを作ってシンギュラリティを待ちたい

お前らも弱者男性を見なくて済むからWinWinだろう

宜しくお願いしま

2024-10-15

「生まれてきてごめんなさい」の逆は「死にゆくことに感謝

最も重要漫画の選び方10選

1 後世の漫画への影響で選ぶ

漫画を単体ではなく歴史の一部として考えるスタイル。何らかのジャンルの起点となるもの重要になる。

例:ジョジョ能力漫画におけるビジョン概念

2 漫画界全体への影響で選ぶ

漫画という文化圏全体やその周囲への訴求力まで含めて考えるスタイル。新たなメディアミックスや客層を開拓した作品などが高評価に。

例:鉄腕アトムTVアニメという形態確立

3 社会全体への影響で選ぶ

漫画業界だけでなく社会全体にどんな影響力があったかで考えるスタイル。何らかのブーム事件引き起こしたか重要

例:キャプテン翼サッカー少年を大量に排出(倍率で考えるとヒカルの碁の方が強いんだろうけどね)

4 作品の売上で選ぶ

漫画商品として考えるスタイル。単純な売上ランキングだけでなく「黎明期雑誌を支えた」や「久しぶりの大ヒット」といった要素を加味されることもある。

例:ワンピース→圧倒的な売上

5 作品の叩き出した記録で選ぶ。

記憶よりも記録に残っているか評価するスタイルギネスを取れているか、どんな賞を受賞したかが争点となる。

例:こち亀単行本の巻数でギネス

6 お硬い視点で選ぶ

漫画を単なる娯楽コンテンツではなく何らかの情報を後世に残す資料として見ていくスタイル歴史的事実や当時の空気感を伝達するような作品評価高まる

例:はだしのゲン戦争原爆イメージを後世に伝える。

7 個人的趣味で選ぶ

俺がルールだというスタイル。単に自分の好きな漫画をあげるだけの実質的自分語りだが、そういうのを好む物好きはいる。

例:王ドロボウJING→時折やたらと高い評価がつけられているのを見るが通常のランキングに入ることはまずない。

8 漫画という概念誕生する前まで含めて選ぶ。

範囲を全時代で広げていくスタイルそもそも漫画という言葉自体が産まれるより前から浮世絵ポンチ絵のようなものはあったのでその中からも選ぶ。

例:鳥獣戯画漫画の原点だと言われることもあったりなかったりしろ

9 日本以外も含めて選ぶ

バンド・デシネアメコミも含めていくスタイル世界的な知名度日本国内の知名度のどちらを優先するかが難しい。

例:タンタン冒険 → 世界的に有名だが日本においては「言語表記した時の名前」がある意味でとても有名。

10 作者で選ぶ。

作品単体よりも作者が何者かで選ぶ。何らかの事件や別名義に関する話になりやすいので好まれないことも多い。

例:ラブひな国会議員赤松健代名詞的な作品

11 アンケートで決める。

投票にゆだねていくスタイル五条問題コイル問題が起きてしまうこともあるので、それを含めて盛り上がれる場所でやろう。

2024-10-14

anond:20241013115053

まあどう考えても地方在住年収300万円マイルドヤンキー三連休の昼下がりを公園子供と一緒にゆっくり過ごしてる方が強者だしな

2024-10-13

anond:20241013143007

鹿キャラなのに「奈良犬ならっしー」ってなんだと思ったが「父は犬、母は鹿」という公式説明にゆキャラにあるまじきケタ違いの闇を感じてしまった

anond:20241013165607

ミュージカルパートは、ほぼ、アーサー・フレック妄想なので、

人生の行き詰まったおっさん妄想ばかりして暮らすんは普通のことだしょ。

ジョーカーの大冒険スペクタクルみたいなのを期待してゆくと大外れだと思うけど、

低能先生裁判を傍聴するつもりで見にゆけば、まぁまぁ納得感あるわな。

2024-10-12

https://anond.hatelabo.jp/20241009195017

氷河期非正規の悲願である正社員解雇規制撤廃

いや、それは君と君の同志だけで、さすがに多数派ではないと思うよ。

小泉政権時代民営化すればすべてうまくいく(そんなことはなかったのは周知の通り)と同様、解雇規制撤廃すれば使えない正規雇用解雇されて、非正規正規雇用されやすくなる、なんてことにはならない。

そもそも日本法律的には解雇規制そこまで厳しいわけでもない(米国例外的にゆるゆるなだけ)

仮に解雇規制が融和されたとしても、今の日本雇用者レベルだと、有能だけど気に入らないやつを解雇して立ち回らなくなる会社が増えるだけ

anond:20241012071631

ホンダの新型プレリュード対象世代ゆとり世代の上の世代と下の世代なんだよね

Z世代が昔のスカイラインとか旧車乗ってたりもするしなんか車の趣味が多様だよ

にゆとり世代だけなんだよねガチスポーツカー離れって

2024-10-11

お店とかで料理持ってくるときにゆっくりしていってねとか定型文で言うけど、ほんとにゆっくりしてたらガチで怒り出すくせにと思いながらいつも聞いてる

2024-10-10

やる気が無いとき増田寝るに限る夜夜着カニルネ出す魔は気と稲賀着ルや(回文

おはようございます

急に来るクタクタ感。

昨日はもう帰ってきて何もやる気がない感じがして大好きなハイボールもそこそこに

スプラトゥーン3は2戦で1勝しつつノルマを果たせたけれど

そして頑張って洗濯物をして

寝る前にシンクを磨いて。

最低限のことはやったんだけど

他の事に

例えばもっとスプラトゥーンで遊ぼう!とかゼルダの伝説で遊ぼう!とか気力が無くて

すこーんと寝ちゃったわ。

急に訪れるこの感じなんなのかしら?

食べ物はそんなに栄養が偏っている天秤に掛けたらちょうど釣り合うかって言うとあんまり自信は無いけれど

まあ最低限のバランスブロッコリーなのよ。

でね、

たぶん私ゆーっくりまたお風呂に浸かれてないからかしら?って思いつつ

よーし!

今晩はうんとお風呂長風呂ちゃうぞ!って

昨日お洗濯物も片付けたし

今日まとめてやってもいいけれど

風呂にゆっくり浸かっているとなかなか同時に洗濯物も遅くに回すのもって考えちゃうから

頑張って昨日お洗濯もしておいてよかったわ。

極度に疲れているというわけでもないけれど

極度に睡眠不足というわけでもないけれど

私にこの急に訪れるこの感じはなんなのかしら?って

もう昨日はだからすこーんと寝て正解だったわ。

疲れててもどうしても遊びたいときもあるけれど

それすらも気力が起こらなかった感じ。

季節の変わり目とかってそういうもんよねって思うしかないわ。

まあ今日はしっかりお風呂をって思うわ。

最近はもうすっかり早くにも寝ちゃうので、

久しく足が遠のいている銭湯

言っちゃう絶対に寝るのが24時回っちゃうから

22時には寝たいのよね。

そうなると結構厳しい時間スケジュール表になるの。

うーん、

1回は大浴場でばーんと浸かりたいものよね。

あの感じは

あのお湯のパワーは大浴場ならではの得られるそこでしかない栄養なのよね。

から

昨日は頑張ってお洗濯済ませちゃってて良かったー。

今日は夜うんとゆっくりしよう!って考えているこの夜のプラン

しかしたら急にそう言う時に限って

なにかやる気が過度に出ちゃわないか心配するけれど

そう言うの

やる気貯金ってあったらいいのになぁってそんな都合のいいものはそうは問屋は美味しい海苔を卸さないのと同時に

かに言われてみたら

やる気ってのも不思議な気よねーって

今気付いたわ。

うふふ。


今日朝ご飯

美味しいもので元気の源にある私の大好きなタマサンドしました!

やっぱこれよね!って

もしかして昨日タマゴ食べてなかったからかも知れないという一抹の不安もよそに

今日ちゃんタマゴ食べてみたので、

案外これで解決しちゃったりなんかしてね。

こういう時は好物を無理なく食べるのが転機なのよ。

きっと。

デトックスウォーター

ホッツ白湯ウォーラーね。

起きてすぐ起き上がれないボーッとした時間沁みる白湯ホッツはストレート

ゆっくり飲みながら起動スタートよ!


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2024-10-06

職場にゆで卵を持って行っているんだけど

仕事で小腹が空いた時に殻をむいて食べているけど、

塩をどうやって持っていくのが良いのか、悩んでいる。

イラ弁当用の醤油入れ(ポリエチレン製の魚みたいなやつ)に

塩を少量入れて持って行っているけど、今ひとつな気がする。

2024-10-05

anond:20241004135529

私は主人を亡くし、シングルです!

幼児をひとりで男風呂に行かせろとでも?

お母様も一緒に男風呂にゆけばなんの問題もないでしょう。

2024-10-02

 三四郎は、その不思議な事を、すぐ話せばいいと思うのに、与次郎は平気なもので、一人でのみこんで、一人で不思議がっている。三四郎はしばらく我慢していたが、とうとう焦れったくなって、与次郎に、美禰子に関するすべての事実を隠さずに話してくれと請求した。与次郎は笑いだした。そうして慰謝のためかなんだか、とんだところへ話頭を持っていってしまった。 「ばかだなあ、あんな女を思って。思ったってしかたがないよ。第一、君と同年ぐらいじゃないか。同年ぐらいの男にほれるのは昔の事だ。八百屋お七時代の恋だ」  三四郎は黙っていた。けれども与次郎意味はよくわからなかった。 「なぜというに。二十前後の同じ年の男女を二人並べてみろ。女のほうが万事上手だあね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だって自分軽蔑する男の所へ嫁へ行く気は出ないやね。もっと自分世界いちばん偉いと思ってる女は例外だ。軽蔑する所へ行かなければ独身で暮らすよりほかに方法はないんだから。よく金持ちの娘や何かにそんなのがあるじゃないか、望んで嫁に来ておきながら、亭主を軽蔑しているのが。美禰子さんはそれよりずっと偉い。その代り、夫として尊敬のできない人の所へははじめから行く気はないんだから相手になるものはその気でいなくっちゃいけない。そういう点で君だのぼくだのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」  三四郎はとうとう与次郎といっしょにされてしまった。しかし依然として黙っていた。 「そりゃ君だって、ぼくだって、あの女よりはるかに偉いさ。お互いにこれでも、なあ。けれども、もう五、六年たたなくっちゃ、その偉さ加減がかの女の目に映ってこない。しかして、かの女は五、六年じっとしている気づかいはない。したがって、君があの女と結婚する事は風馬牛だ」  与次郎は風馬牛という熟字を妙なところへ使った。そうして一人で笑っている。 「なに、もう五、六年もすると、あれより、ずっと上等なのが、あらわれて来るよ。日本じゃ今女のほうが余っているんだから風邪なんか引いて熱を出したってはじまらない。――なに世の中は広いから、心配するがものはない。じつはぼくにもいろいろあるんだが、ぼくのほうであんまりうるさいから、御用で長崎出張すると言ってね」 「なんだ、それは」 「なんだって、ぼくの関係した女さ」  三四郎は驚いた。 「なに、女だって、君なんぞのかつて近寄ったことのない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌の試験出張するから当分だめだってわっちまった。ところがその女が林檎を持って停車場まで送りに行くと言いだしたんで、ぼくは弱ったね」  三四郎ますます驚いた。驚きながら聞いた。 「それで、どうした」 「どうしたか知らない。林檎を持って、停車場に待っていたんだろう」 「ひどい男だ。よく、そんな悪い事ができるね」 「悪い事で、かあいそうな事だとは知ってるけれども、しかたがない。はじめから次第次第に、そこまで運命に持っていかれるんだから。じつはとうのさきからぼくが医科の学生になっていたんだからなあ」 「なんで、そんなよけいな嘘をつくんだ」 「そりゃ、またそれぞれの事情のあることなのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼まれて困ったこともある」  三四郎おかしくなった。 「その時は舌を見て、胸をたたいて、いいかげんにごまかしたが、その次に病院へ行って、見てもらいたいがいいかと聞かれたには閉口した」  三四郎はとうとう笑いだした。与次郎は、 「そういうこともたくさんあるから、まあ安心するがよかろう」と言った。なんの事だかわからない。しかし愉快になった。  与次郎はその時はじめて、美禰子に関する不思議説明した。与次郎の言うところによると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それだけならばいいが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのだそうだ。  三四郎も少しばかにされたような気がした。しかしよし子の結婚だけはたしかである。現に自分がその話をそばで聞いていた。ことによるとその話を美禰子のと取り違えたのかもしれない。けれども美禰子の結婚も、まったく嘘ではないらしい。三四郎ははっきりしたところが知りたくなった。ついでだから与次郎に教えてくれと頼んだ。与次郎はわけなく承知した。よし子を見舞いに来るようにしてやるから、じかに聞いてみろという。うまい事を考えた。 「だから、薬を飲んで、待っていなくってはいけない」 「病気が直っても、寝て待っている」  二人は笑って別れた。帰りがけに与次郎が、近所の医者に来てもらう手続きをした。  晩になって、医者が来た。三四郎自分医者を迎えた覚えがないんだから、はじめは少し狼狽した。そのうち脈を取られたのでようやく気がついた。年の若い丁寧な男である三四郎は代診と鑑定した。五分ののち病症はインフルエンザときまった。今夜頓服を飲んで、なるべく風にあたらないようにしろという注意である。  翌日目がさめると、頭がだいぶ軽くなっている。寝ていれば、ほとんど常体に近い。ただ枕を離れると、ふらふらする下女が来て、だいぶ部屋の中が熱臭いと言った。三四郎は飯も食わずに、仰向けに天井をながめていた。時々うとうと眠くなる。明らかに熱と疲れとにとらわれたありさである三四郎は、とらわれたまま、逆らわずに、寝たりさめたりするあいだに、自然に従う一種快感を得た。病症が軽いからだと思った。  四時間、五時間とたつうちに、そろそろ退屈を感じだした。しきりに寝返りを打つ。外はいい天気である。障子にあたる日が、次第に影を移してゆく。雀が鳴く。三四郎はきょうも与次郎が遊びに来てくれればいいと思った。  ところへ下女が障子をあけて、女のお客様だと言う。よし子が、そう早く来ようとは待ち設けなかった。与次郎だけに敏捷な働きをした。寝たまま、あけ放しの入口に目をつけていると、やがて高い姿が敷居の上へ現われた。きょうは紫の袴をはいている。足は両方とも廊下にある。ちょっとはいるのを躊躇した様子が見える。三四郎は肩を床から上げて、「いらっしゃい」と言った。  よし子は障子をたてて、枕元へすわった。六畳の座敷が、取り乱してあるうえに、けさは掃除をしないから、なお狭苦しい。女は、三四郎に、 「寝ていらっしゃい」と言った。三四郎はまた頭を枕へつけた。自分だけは穏やかである。 「臭くはないですか」と聞いた。 「ええ、少し」と言ったが、べつだん臭い顔もしなかった。「熱がおありなの。なんなんでしょう、御病気は。お医者はいらしって」 「医者はゆうべ来ました。インフルエンザだそうです」 「けさ早く佐々木さんがおいでになって、小川病気から見舞いに行ってやってください。何病だかわからないが、なんでも軽くはないようだっておっしゃるものから、私も美禰子さんもびっくりしたの」  与次郎がまた少しほらを吹いた。悪く言えば、よし子を釣り出したようなものである三四郎は人がいいから、気の毒でならない。「どうもありがとう」と言って寝ている。よし子は風呂敷包みの中から蜜柑の籠を出した。 「美禰子さんの御注意があったから買ってきました」と正直な事を言う。どっちのお見舞だかわからない。三四郎はよし子に対して礼を述べておいた。 「美禰子さんもあがるはずですが、このごろ少し忙しいものですから――どうぞよろしくって……」 「何か特別に忙しいことができたのですか」 「ええ。できたの」と言った。大きな黒い目が、枕についた三四郎の顔の上に落ちている。三四郎は下から、よし子の青白い額を見上げた。はじめてこの女に病院で会った昔を思い出した。今でもものうげに見える。同時に快活である。頼りになるべきすべての慰謝を三四郎の枕の上にもたらしてきた。 「蜜柑をむいてあげましょうか」  女は青い葉の間から果物を取り出した。渇いた人は、香にほとばしる甘い露を、したたかに飲んだ。 「おいしいでしょう。美禰子さんのお見舞よ」 「もうたくさん」  女は袂から白いハンケチを出して手をふいた。 「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」 「あれぎりです」 「美禰子さんにも縁談の口があるそうじゃありませんか」 「ええ、もうまとまりました」 「だれですか、さきは」 「私をもらうと言ったかたなの。ほほほおかしいでしょう。美禰子さんのお兄いさんのお友だちよ。私近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。美禰子さんが行ってしまうと、もうご厄介になってるわけにゆかないから」 「あなたはお嫁には行かないんですか」 「行きたい所がありさえすれば行きますわ」  女はこう言い捨てて心持ちよく笑った。まだ行きたい所がないにきまっている。  三四郎はその日から四日ほど床を離れなかった。五日目にこわごわながら湯にはいって、鏡を見た。亡者の相がある。思い切って床屋へ行った。そのあくる日は日曜である。  朝飯後、シャツを重ねて、外套を着て、寒くないようにして美禰子の家へ行った。玄関によし子が立って、今沓脱へ降りようとしている。今兄の所へ行くところだと言う。美禰子はいない。三四郎はいっしょに表へ出た。 「もうすっかりいいんですか」 「ありがとう。もう直りました。――里見さんはどこへ行ったんですか」 「にいさん?」 「いいえ、美禰子さんです」 「美禰子さんは会堂」  美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた。どこの会堂か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。横町を三つほど曲がると、すぐ前へ出た。三四郎はまったく耶蘇教に縁のない男である。会堂の中はのぞいて見たこともない。前へ立って、建物をながめた。説教掲示を読んだ。鉄柵の所を行ったり来たりした。ある時は寄りかかってみた。三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つつもりである。  やがて唱歌の声が聞こえた。賛美歌というものだろうと考えた。締め切った高い窓のうちのでき事である。音量から察するとよほどの人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌はやんだ。風が吹く。三四郎外套の襟を立てた。空に美禰子の好きな雲が出た。  かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。田端小川の縁にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊。迷羊。雲が羊の形をしている。  忽然として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。縞の吾妻コートを着て、うつ向いて、上り口の階段を降りて来た。寒いみえて、肩をすぼめて、両手を前で重ねて、できるだけ外界との交渉を少なくしている。美禰子はこのすべてにあがらざる態度を門ぎわまで持続した。その時、往来の忙しさに、はじめて気がついたように顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の目に映った。二人は説教掲示のある所で、互いに近寄った。 「どうなすって」 「今お宅までちょっと出たところです」 「そう、じゃいらっしゃい」  女はなかば歩をめぐらしかけた。相変らず低い下駄はいている。男はわざと会堂の垣に身を寄せた。 「ここでお目にかかればそれでよい。さっきからあなたの出て来るのを待っていた」 「おはいりになればよいのに。寒かったでしょう」 「寒かった」 「お風邪はもうよいの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色がよくないようね」  男は返事をしずに、外套の隠袋から半紙に包んだものを出した。 「拝借した金です。ながながありがとう。返そう返そうと思って、ついおそくなった」  美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに、紙包みを受け取った。しかし手に持ったなり、しまわずにながめている。三四郎もそれをながめている。言葉が少しのあいだ切れた。やがて、美禰子が言った。 「あなた、御不自由じゃなくって」 「いいえ、このあいからそのつもりで国から取り寄せておいたのだから、どうか取ってください」 「そう。じゃいただいておきましょう」  女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。鼻のところへあてて、三四郎を見ている。ハンケチをかぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンケチ三四郎の顔の前へ来た。鋭い香がぷんとする。 「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎。四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明らかにかかる。 「結婚なさるそうですね」  美禰子は白いハンケチを袂へ落とした。 「御存じなの」と言いながら、二重瞼を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。そのくせ眉だけははっきりおちついている。三四郎の舌が上顎へひっついてしまった。  女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。 「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」  聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた。下宿へ帰ったら母から電報が来ていた。あけて見ると、いつ立つとある

anond:20241002010446

2024-10-01

七  裏から回ってばあさんに聞くと、ばあさんが小さな声で、与次郎さんはきのうからお帰りなさらないと言う。三四郎勝手口に立って考えた。ばあさんは気をきかして、まあおはいりなさい。先生書斎においでですからと言いながら、手を休めずに、膳椀を洗っている。今晩食がすんだばかりのところらしい。  三四郎茶の間を通り抜けて、廊下伝いに書斎入口まで来た。戸があいている。中から「おい」と人を呼ぶ声がする。三四郎は敷居のうちへはいった。先生は机に向かっている。机の上には何があるかわからない。高い背が研究を隠している。三四郎入口に近くすわって、 「御勉強ですか」と丁寧に聞いた。先生は顔をうしろねじ向けた。髭の影が不明瞭にもじゃもじゃしている。写真版で見ただれかの肖像に似ている。 「やあ、与次郎かと思ったら、君ですか、失敬した」と言って、席を立った。机の上には筆と紙がある。先生は何か書いていた。与次郎の話に、うちの先生は時々何か書いている。しかし何を書いているんだか、ほかの者が読んでもちっともわからない。生きているうちに、大著述にでもまとめられれば結構だが、あれで死んでしまっちゃあ、反古がたまるばかりだ。じつにつまらない。と嘆息していたことがある。三四郎広田の机の上を見て、すぐ与次郎の話を思い出した。 「おじゃまなら帰ります。べつだんの用事でもありません」 「いや、帰ってもらうほどじゃまでもありません。こっちの用事もべつだんのことでもないんだから。そう急に片づけるたちのものをやっていたんじゃない」  三四郎ちょっと挨拶ができなかった。しかし腹のうちでは、この人のような気分になれたら、勉強も楽にできてよかろうと思った。しばらくしてから、こう言った。 「じつは佐々木君のところへ来たんですが、いなかったものですから……」 「ああ。与次郎はなんでもゆうべから帰らないようだ。時々漂泊して困る」 「何か急に用事でもできたんですか」 「用事はけっしてできる男じゃない。ただ用事をこしらえる男でね。ああいうばかは少ない」  三四郎はしかたがないから、 「なかなか気楽ですな」と言った。 「気楽ならいいけれども。与次郎のは気楽なのじゃない。気が移るので――たとえば田の中を流れている小川のようなものと思っていれば間違いはない。浅くて狭い。しかし水だけはしじゅう変っている。だから、する事が、ちっとも締まりがない。縁日へひやかしになど行くと、急に思い出したように、先生松を一鉢お買いなさいなんて妙なことを言う。そうして買うともなんとも言わないうちに値切って買ってしまう。その代り縁日ものを買うことなんぞはじょうずでね。あいつに買わせるとたいへん安く買える。そうかと思うと、夏になってみんなが家を留守にするときなんか、松を座敷へ入れたまんま雨戸をたてて錠をおろししまう。帰ってみると、松が温気でむれてまっ赤になっている。万事そういうふうでまことに困る」  実をいうと三四郎はこのあい与次郎に二十円貸した。二週間後には文芸時評から原稿料が取れるはずだから、それまで立替えてくれろと言う。事理を聞いてみると、気の毒であったから、国から送ってきたばかりの為替を五円引いて、余りはことごとく貸してしまった。まだ返す期限ではないが、広田の話を聞いてみると少々心配になる。しか先生にそんな事は打ち明けられないから、反対に、 「でも佐々木君は、大いに先生に敬服して、陰では先生のためになかなか尽力しています」と言うと、先生はまじめになって、 「どんな尽力をしているんですか」と聞きだした。ところが「偉大なる暗闇」その他すべて広田先生に関する与次郎所為は、先生に話してはならないと、当人から封じられている。やりかけた途中でそんな事が知れると先生しかられるにきまってるから黙っているべきだという。話していい時にはおれが話すと明言しているんだからしかたがない。三四郎は話をそらしてしまった。  三四郎広田の家へ来るにはいろいろな意味がある。一つは、この人の生活その他が普通のものと変っている。ことに自分の性情とはまったく容れないようなところがある。そこで三四郎はどうしたらああなるだろうという好奇心から参考のため研究に来る。次にこの人の前に出るとのん気になる。世の中の競争があまり苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣はあるが、世外の功名心のために、流俗の嗜欲を遠ざけているかのように思われる。だから野々宮さんを相手に二人ぎりで話していると、自分もはやく一人前の仕事をして、学海に貢献しなくては済まないような気が起こる。いらついてたまらない。そこへゆくと広田先生太平である先生高等学校でただ語学を教えるだけで、ほかになんの芸もない――といっては失礼だが、ほかになんらの研究も公けにしない。しかも泰然と取り澄ましている。そこに、こののん気の源は伏在しているのだろうと思う。三四郎は近ごろ女にとらわれた。恋人にとらわれたのなら、かえっておもしろいが、ほれられているんだか、ばかにされているんだか、こわがっていいんだか、さげすんでいいんだか、よすべきだか、続けべきだかわけのわからないとらわれ方である三四郎はいまいましくなった。そういう時は広田さんにかぎる。三十分ほど先生と相対していると心持ちが悠揚になる。女の一人や二人どうなってもかまわないと思う。実をいうと、三四郎が今夜出かけてきたのは七分方この意味である。  訪問理由の第三はだいぶ矛盾している。自分は美禰子に苦しんでいる。美禰子のそばに野々宮さんを置くとなお苦しんでくる。その野々宮さんにもっとも近いものはこの先生である。だから先生の所へ来ると、野々宮さんと美禰子との関係がおのずから明瞭になってくるだろうと思う。これが明瞭になりさえすれば、自分の態度も判然きめることができる。そのくせ二人の事をいまだかつて先生に聞いたことがない。今夜は一つ聞いてみようかしらと、心を動かした。 「野々宮さんは下宿なすったそうですね」 「ええ、下宿したそうです」 「家をもった者が、また下宿をしたら不便だろうと思いますが、野々宮さんはよく……」 「ええ、そんな事にはいっこう無頓着なほうでね。あの服装を見てもわかる。家庭的な人じゃない。その代り学問にかけると非常に神経質だ」 「当分ああやっておいでのつもりなんでしょうか」 「わからない。また突然家を持つかもしれない」 「奥さんでもお貰いになるお考えはないんでしょうか」 「あるかもしれない。いいのを周旋してやりたまえ」  三四郎苦笑いをして、よけいな事を言ったと思った。すると広田さんが、 「君はどうです」と聞いた。 「私は……」 「まだ早いですね。今から細君を持っちゃたいへんだ」 「国の者は勧めますが」 「国のだれが」 「母です」 「おっかさんのいうとおり持つ気になりますか」 「なかなかなりません」  広田さんは髭の下から歯を出して笑った。わりあいきれいな歯を持っている。三四郎はその時急になつかしい心持ちがした。けれどもそのなつかしさは美禰子を離れている。野々宮を離れている。三四郎の眼前の利害には超絶したなつかしさであった。三四郎はこれで、野々宮などの事を聞くのが恥ずかしい気がしだして、質問をやめてしまった。すると広田先生がまた話しだした。―― 「おっかさんのいうことはなるべく聞いてあげるがよい。近ごろの青年は我々時代青年と違って自我意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――君、露悪家という言葉を聞いたことがありますか」 「いいえ」 「今ぼくが即席に作った言葉だ。君もその露悪家の一人――だかどうだか、まあたぶんそうだろう。与次郎のごときにいたるとその最たるものだ。あの君の知ってる里見という女があるでしょう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね、あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋をとれば肥桶で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。そうしてゆくうちに進歩する。英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡がとれている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、はたから見れば堅くなって、化石しかかっている。……」  三四郎は内心感心したようなものの、話がそれてとんだところへ曲がって、曲がりなりに太くなってゆくので、少し驚いていた。すると広田さんもようやく気がついた。 「いったい何を話していたのかな」 「結婚の事です」 「結婚?」 「ええ、私が母の言うことを聞いて……」 「うん、そうそう。なるべくおっかさんの言うことを聞かなければいけない」と言ってにこにこしている。まるで子供に対するようである三四郎はべつに腹も立たなかった。 「我々が露悪家なのは、いいですが、先生時代の人が偽善なのは、どういう意味ですか」 「君、人から親切にされて愉快ですか」 「ええ、まあ愉快です」 「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」 「どんな場合ですか」 「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身目的でない場合」 「そんな場合があるでしょうか」 「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」 「そりゃ……」 「しないだろう。それと同じく腹をかかえて笑うだの、ころげかえって笑うだのというやつに、一人だってじっさい笑ってるやつはない。親切もそのとおり。お役目に親切をしてくれるのがある。ぼくが学校教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たらさだめて不愉快だろう。これに反して与次郎のごときは露悪党領袖だけに、たびたびぼくに迷惑をかけて、始末におえぬいたずら者だが、悪気がない。可愛らしいところがある。ちょうどアメリカ人金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身目的である。それ自身目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味のないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の、こむずかしい教育を受けたものはみんな気障だ」  ここまでの理屈三四郎にもわかっている。けれども三四郎にとって、目下痛切な問題は、だいたいにわたっての理屈ではない。実際に交渉のある、ある格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである三四郎は腹の中で美禰子の自分に対する素振をもう一ぺん考えてみた。ところが気障か気障でないかほとんど判断ができない。三四郎自分感受性人一倍鈍いのではなかろうかと疑いだした。  その時広田さんは急にうんと言って、何か思い出したようである。 「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」 「どんなのです」 「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善しか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語あくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっと優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行らなくなる」  広田先生の話し方は、ちょうど案内者が古戦場説明するようなもので、実際を遠くからながめた地位にみずからを置いている。それがすこぶる楽天の趣がある。あたか教場講義を聞くと一般の感を起こさせる。しか三四郎にはこたえた。念頭に美禰子という女があって、この理論をすぐ適用できるからである三四郎は頭の中にこの標準を置いて、美禰子のすべてを測ってみた。しかし測り切れないところがたいへんある。先生は口を閉じて、例のごとく鼻から哲学の煙を吐き始めた。  ところへ玄関足音がした。案内も乞わず廊下伝いにはいって来る。たちまち与次郎書斎入口にすわって、 「原口さんがおいでになりました」と言う。ただ今帰りましたという挨拶を省いている。わざと省いたのかもしれない。三四郎にはぞんざいな目礼をしたばかりですぐに出ていった。  与次郎と敷居ぎわですれ違って、原口さんがはいって来た。原口さんはフランス式の髭をはやして、頭を五分刈にした、脂肪の多い男である。野々宮さんより年が二つ三つ上に見える。広田先生よりずっときれいな和服を着ている。 「やあ、しばらく。今まで佐々木が家へ来ていてね。いっしょに飯を食ったり何かして――それから、とうとう引っ張り出されて……」とだいぶ楽天的な口調であるそばにいるとしぜん陽気になるような声を出す。三四郎原口という名前を聞いた時から、おおかたあの画工だろうと思っていた。それにしても与次郎交際家だ。たいていな先輩とはみんな知合いになっているからえらいと感心して堅くなった。三四郎は年長者の前へ出ると堅くなる。九州流の教育を受けた結果だと自分では解釈している。  やがて主人が原口に紹介してくれる。三四郎は丁寧に頭を下げた。向こうは軽く会釈した。三四郎それから黙って二人の談話を承っていた。  原口さんはまず用談から片づけると言って、近いうちに会をするから出てくれと頼んでいる。会員と名のつくほどのりっぱなものはこしらえないつもりだが、通知を出すものは、文学者とか芸術家とか、大学教授とか、わずかな人数にかぎっておくからさしつかえはない。しかもたいてい知り合いのあいだだから形式はまったく不必要である目的はただおおぜい寄って晩餐を食う。それから文芸有益談話を交換する。そんなものである。  広田先生一口「出よう」と言った。用事はそれで済んでしまった。用事はそれで済んでしまったが、それから後の原口さんと広田先生の会話がすこぶるおもしろかった。  広田先生が「君近ごろ何をしているかね」と原口さんに聞くと、原口さんがこんな事を言う。 「やっぱり一中節稽古している。もう五つほど上げた。花紅葉吉原八景だの、小稲半兵衛唐崎心中だのってなかなかおもしろいのがあるよ。君も少しやってみないかもっともありゃ、あまり大きな声を出しちゃいけないんだってね。本来四畳半の座敷にかぎったものだそうだ。ところがぼくがこのとおり大きな声だろう。それに節回しがあれでなかなか込み入っているんで、どうしてもうまくいかん。こんだ一つやるから聞いてくれたまえ」  広田先生は笑っていた。すると原口さんは続きをこういうふうに述べた。 「それでもぼくはまだいいんだが、里見恭助ときたら、まるで形無しだからね。どういうものかしらん。妹はあんなに器用だのに。このあいだはとうとう降参して、もう歌はやめる、その代り何か楽器を習おうと言いだしたところが、馬鹿囃子をお習いなさらいかと勧めた者があってね。大笑いさ」 「そりゃ本当かい」 「本当とも。現に里見がぼくに、君がやるならやってもいいと言ったくらいだもの。あれで馬鹿囃子には八通り囃し方があるんだそうだ」 「君、やっちゃどうだ。あれなら普通人間にでもできそうだ」 「いや馬鹿囃子はいやだ。それよりか鼓が打ってみたくってね。なぜだか鼓の音を聞いていると、まったく二十世紀の気がしなくなるからいい。どうして今の世にああ間が抜けていられるだろうと思うと、それだけでたいへんな薬になる。いくらぼくがのん気でも、鼓の音のような絵はとてもかけないから」 「かこうともしないんじゃないか」 「かけないんだもの。今の東京にいる者に悠揚な絵ができるものか。もっとも絵にもかぎるまいけれども。――絵といえば、このあい大学運動会へ行って、里見と野々宮さんの妹のカリカチュアーをかいてやろうと思ったら、とうとう逃げられてしまった。こんだ一つ本当の肖像画をかい展覧会にでも出そうかと思って」 「だれの」 「里見の妹の。どうも普通日本の女の顔は歌麿式や何かばかりで、西洋の画布にはうつりが悪くっていけないが、あの女や野々宮さんはいい。両方ともに絵になる。あの女が団扇をかざして、木立をうしろに、明るい方を向いているところを等身に写してみようかしらと思っている。西洋の扇は厭味でいけないが、日本団扇は新しくっておもしろいだろう。とにかくはやくしないとだめだ。いまに嫁にでもいかれようものなら、そうこっちの自由いかなくなるかもしれないから」  三四郎は多大な興味をもって原口の話を聞いていた。ことに美禰子が団扇をかざしている構図は非常な感動を三四郎に与えた。不思議因縁が二人の間に存在しているのではないかと思うほどであった。すると広田先生が、「そんな図はそうおもしろいこともないじゃないか」と無遠慮な事を言いだした。 「でも当人希望なんだもの団扇をかざしているところは、どうでしょうと言うから、すこぶる妙でしょうと言って承知したのさ。なに、悪い図どりではないよ。かきようにもよるが」 「あんまり美しくかくと、結婚の申込みが多くなって困るぜ」 「ハハハじゃ中ぐらいにかいておこう。結婚といえば、あの女も、もう嫁にゆく時期だね。どうだろう、どこかいい口はないだろうか。里見にも頼まれているんだが」 「君もらっちゃどうだ」 「ぼくか。ぼくでよければもらうが、どうもあの女には信用がなくってね」 「なぜ」 「原口さんは洋行する時にはたいへんな気込みで、わざわざ鰹節を買い込んで、これでパリー下宿に籠城するなんて大いばりだったが、パリーへ着くやいなや、たちまち豹変したそうですねって笑うんだから始末がわるい。おおかた兄からでも聞いたんだろう」 「あの女は自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない。勧めたってだめだ。好きな人があるまで独身で置くがいい」 「まったく西洋流だね。もっともこれからの女はみんなそうなるんだから、それもよかろう」  それから二人の間に長い絵画談があった。三四郎広田先生西洋の画工の名をたくさん知っているのに驚いた。帰るとき勝手口で下駄を捜していると、先生梯子段の下へ来て「おい佐々木ちょっと降りて来い」と言っていた。  戸外は寒い。空は高く晴れて、どこから露が降るかと思うくらいである。手が着物にさわると、さわった所だけがひやりとする。人通りの少ない小路を二、三度折れたり曲がったりしてゆくうちに、突然辻占屋に会った。大きな丸い提灯をつけて、腰から下をまっ赤にしている。三四郎は辻占が買ってみたくなった。しかしあえて買わなかった。杉垣に羽織の肩が触れるほどに、赤い提灯をよけて通した。しばらくして、暗い所をはすに抜けると、追分の通りへ出た。角に

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与次郎用事というのはこうである。――今夜の会自分たちの科の不振の事をしきりに慨嘆するから三四郎もいっしょに慨嘆しなくってはいけないんだそうだ。不振事実であるからほかの者も慨嘆するにきまっている。それから、おおぜいいっしょに挽回策を講ずることとなる。なにしろ適当日本人を一人大学に入れるのが急務だと言い出す。みんなが賛成する。当然だから賛成するのはむろんだ。次にだれがよかろうという相談に移る。その時広田先生の名を持ち出す。その時三四郎与次郎に口を添えて極力先生賞賛しろという話である。そうしないと、与次郎広田食客だということを知っている者が疑いを起こさないともかぎらない。自分は現に食客なんだから、どう思われてもかまわないが、万一煩い広田先生に及ぶようではすまんことになる。もっともほかに同志が三、四人はいから大丈夫だが、一人でも味方は多いほうが便利だから三四郎もなるべくしゃべるにしくはないとの意見である。さていよいよ衆議一決の暁は、総代を選んで学長の所へ行く、また総長の所へ行く。もっとも今夜中にそこまでは運ばないかもしれない。また運ぶ必要もない。そのへんは臨機応変である。……  与次郎はすこぶる能弁である。惜しいことにその能弁がつるつるしているので重みがない。あるところへゆくと冗談をまじめに講義しているかと疑われる。けれども本来性質のいい運動から三四郎もだいたいのうえにおいて賛成の意を表した。ただその方法が少しく細工に落ちておもしろくないと言った。その時与次郎は往来のまん中へ立ち留まった。二人はちょうど森川町神社鳥居の前にいる。 「細工に落ちるというが、ぼくのやる事は自然の手順が狂わないようにあらかじめ人力で装置するだけだ。自然にそむいた没分暁の事を企てるのとは質が違う。細工だってかまわん。細工が悪いのではない。悪い細工が悪いのだ」  三四郎はぐうの音も出なかった。なんだか文句があるようだけれども、口へ出てこない。与次郎の言いぐさのうちで、自分がまだ考えていなかった部分だけがはっきり頭へ映っている。三四郎はむしろそのほうに感服した。 「それもそうだ」とすこぶる曖昧な返事をして、また肩を並べて歩きだした。正門をはいると、急に目の前が広くなる。大きな建物が所々に黒く立っている。その屋根がはっきり尽きる所から明らかな空になる。星がおびただしく多い。 「美しい空だ」と三四郎が言った。与次郎も空を見ながら、一間ばかり歩いた。突然、 「おい、君」と三四郎を呼んだ。三四郎はまたさっきの話の続きかと思って「なんだ」と答えた。 「君、こういう空を見てどんな感じを起こす」  与次郎に似合わぬことを言った。無限とか永久かいう持ち合わせの答はいくらでもあるが、そんなことを言うと与次郎に笑われると思って三四郎は黙っていた。 「つまらんなあ我々は。あしたから、こんな運動をするのはもうやめにしようかしら。偉大なる暗闇を書いてもなんの役にも立ちそうにもない」 「なぜ急にそんな事を言いだしたのか」 「この空を見ると、そういう考えになる。――君、女にほれたことがあるか」  三四郎は即答ができなかった。 「女は恐ろしいものだよ」と与次郎が言った。 「恐ろしいものだ、ぼくも知っている」と三四郎も言った。すると与次郎が大きな声で笑いだした。静かな夜の中でたいへん高く聞こえる。 「知りもしないくせに。知りもしないくせに」  三四郎憮然としていた。 「あすもよい天気だ。運動会はしあわせだ。きれいな女がたくさん来る。ぜひ見にくるがいい」  暗い中を二人は学生集会所の前まで来た。中には電燈が輝いている。  木造廊下を回って、部屋へはいると、そうそう来た者は、もうかたまっている。そのかたまりが大きいのと小さいのと合わせて三つほどある。なかには無言で備え付けの雑誌新聞を見ながら、わざと列を離れているのもある。話は方々に聞こえる。話の数はかたまりの数より多いように思われる。しかしわあいにおちついて静かである煙草の煙のほうが猛烈に立ち上る。  そのうちだんだん寄って来る。黒い影が闇の中から吹きさらしの廊下の上へ、ぽつりと現われると、それが一人一人に明るくなって、部屋の中へはいって来る。時には五、六人続けて、明るくなることもある。が、やがて人数はほぼそろった。  与次郎は、さっきから煙草の煙の中を、しきりにあちこちと往来していた。行く所で何か小声に話している。三四郎は、そろそろ運動を始めたなと思ってながめていた。  しばらくすると幹事が大きな声で、みんなに席へ着けと言う。食卓はむろん前から用意ができていた。みんな、ごたごたに席へ着いた。順序もなにもない。食事は始まった。  三四郎熊本赤酒ばかり飲んでいた。赤酒というのは、所でできる下等な酒である熊本学生はみんな赤酒を飲む。それが当然と心得ている。たまたま飲食店へ上がれば牛肉である。その牛肉屋の牛が馬肉かもしれないという嫌疑がある。学生は皿に盛った肉を手づかみにして、座敷の壁へたたきつける。落ちれば牛肉で、ひっつけば馬肉だという。まるで呪みたような事をしていた。その三四郎にとって、こういう紳士的な学生親睦会は珍しい。喜んでナイフフォークを動かしていた。そのあいだにはビールをさかんに飲んだ。 「学生集会所の料理はまずいですね」と三四郎に隣にすわった男が話しかけた。この男は頭を坊主に刈って、金縁の眼鏡をかけたおとなしい学生であった。 「そうですな」と三四郎は生返事をした。相手与次郎なら、ぼくのようないなか者には非常にうまいと正直なところをいうはずであったが、その正直がかえって皮肉に聞こえると悪いと思ってやめにした。するとその男が、 「君はどこの高等学校ですか」と聞きだした。 「熊本です」 「熊本ですか。熊本にはぼくの従弟もいたが、ずいぶんひどい所だそうですね」 「野蛮な所です」  二人が話していると、向こうの方で、急に高い声がしだした。見ると与次郎が隣席の二、三人を相手に、しきりに何か弁じている。時々ダーターファブラと言う。なんの事だかわからない。しか与次郎相手は、この言葉を聞くたびに笑いだす。与次郎ますます得意になって、ダーターファブラ我々新時代青年は……とやっている。三四郎の筋向こうにすわっていた色の白い品のいい学生が、しばらくナイフの手を休めて、与次郎の連中をながめていたが、やがて笑いながら Il a le diable au corps(悪魔が乗り移っている)と冗談半分にフランス語を使った。向こうの連中にはまったく聞こえなかったとみえて、この時ビールのコップが四つばかり一度に高く上がった。得意そうに祝盃をあげている。 「あの人はたいへんにぎやかな人ですね」と三四郎の隣の金縁眼鏡をかけた学生が言った。 「ええ。よくしゃべります」 「ぼくはいつか、あの人に淀見軒でライスカレーをごちそうになった。まるで知らないのに、突然来て、君淀見軒へ行こうって、とうとう引っ張っていって……」  学生ハハハと笑った。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーをごちそうになったもの自分ばかりではないんだなと悟った。  やがてコーヒーが出る。一人が椅子を離れて立った。与次郎が激しく手をたたくと、ほかの者もたちまち調子を合わせた。  立った者は、新しい黒の制服を着て、鼻の下にもう髭をはやしている。背がすこぶる高い。立つには恰好のよい男である演説いたことを始めた。  我々が今夜ここへ寄って、懇親のために、一夕の歓をつくすのは、それ自身において愉快な事であるが、この懇親が単に社交上の意味ばかりでなく、それ以外に一種重要な影響を生じうると偶然ながら気がついたら自分は立ちたくなった。この会合ビールに始まってコーヒーに終っている。まったく普通会合であるしかしこのビールを飲んでコーヒーを飲んだ四十人近くの人間普通人間ではない。しかもそのビールを飲み始めてからコーヒーを飲み終るまでのあいだに、すでに自己運命の膨脹を自覚しえた。  政治自由を説いたのは昔の事である言論の自由を説いたのも過去の事である自由とは単にこれらの表面にあらわれやす事実のために専有されべき言葉ではない。我ら新時代青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会したと信ずる。  我々は古き日本の圧迫に堪ええぬ青年である。同時に新しき西洋の圧迫にも堪ええぬ青年であるということを、世間に発表せねばいられぬ状況のもとに生きている。新しき西洋の圧迫は社会の上においても文芸の上においても、我ら新時代青年にとっては古き日本の圧迫と同じく、苦痛である。  我々は西洋文芸研究する者であるしか研究はどこまでも研究である。その文芸のもとに屈従するのとは根本的に相違がある。我々は西洋文芸にとらわれんがために、これを研究するのではない。とらわれたる心を解脱せしめんがために、これを研究しているのである。この方便に合せざる文芸はいかなる威圧のもとにしいらるるとも学ぶ事をあえてせざるの自信と決心とを有している。  我々はこの自信と決心とを有するの点において普通人間とは異なっている。文芸技術でもない、事務でもない。より多く人生根本義に触れた社会原動力である。我々はこの意味において文芸研究し、この意味において如上の自信と決心とを有し、この意味において今夕の会合一般以上の重大なる影響を想見するのである。  社会は激しく動きつつある。社会産物たる文芸もまた動きつつある。動く勢いに乗じて、我々の理想どおりに文芸を導くためには、零細なる個人を団結して、自己運命を充実し発展し膨脹しなくてはならぬ。今夕のビールコーヒーは、かかる隠れたる目的を、一歩前に進めた点において、普通ビールコーヒーよりも百倍以上の価ある尊きビールコーヒーである。  演説意味ざっとこんなものである演説が済んだ時、席にあった学生はことごとく喝采した。三四郎もっとも熱心なる喝采者の一人であった。すると与次郎が突然立った。 「ダーターファブラ、シェクスピヤの使った字数が何万字だの、イブセンの白髪の数が何千本だのと言ってたってしかたがない。もっともそんなばかげた講義を聞いたってとらわれる気づかいはないか大丈夫だが、大学に気の毒でいけない。どうしても新時代青年を満足させるような人間を引っ張って来なくっちゃ。西洋人じゃだめだ。第一幅がきかない。……」  満堂はまたことごとく喝采した。そうしてことごとく笑った。与次郎の隣にいた者が、 「ダーターファブラのために祝盃をあげよう」と言いだした。さっき演説をした学生がすぐに賛成した。あいにくビールがみな空である。よろしいと言って与次郎はすぐ台所の方へかけて行った。給仕が酒を持って出る。祝盃をあげるやいなや、 「もう一つ。今度は偉大なる暗闇のために」と言った者がある。与次郎の周囲にいた者は声を合して、アハハと笑った。与次郎は頭をかいている。  散会の時刻が来て、若い男がみな暗い夜の中に散った時に、三四郎与次郎に聞いた。 「ダーターファブラとはなんの事だ」 「ギリシア語だ」  与次郎はそれよりほかに答えなかった。三四郎もそれよりほかに聞かなかった。二人は美しい空をいただいて家に帰った。  あくる日は予想のごとく好天気である。今年は例年より気候がずっとゆるんでいる。ことさらきょうは暖かい三四郎は朝のうち湯に行った。閑人の少ない世の中だから、午前はすこぶるすいている。三四郎は板の間にかけてある三越呉服店看板を見た。きれいな女がかいてある。その女の顔がどこか美禰子に似ている。よく見ると目つきが違っている。歯並がわからない。美禰子の顔でもっと三四郎を驚かしたものは目つきと歯並である与次郎の説によると、あの女は反っ歯の気味だから、ああしじゅう歯が出るんだそうだが、三四郎にはけっしてそうは思えない。……  三四郎は湯につかってこんな事を考えていたので、からだのほうはあまりわずに出た。ゆうべから急に新時代青年という自覚が強くなったけれども、強いのは自覚だけで、からだのほうはもとのままである休みになるとほかの者よりずっと楽にしている。きょうは昼から大学陸上運動会を見に行く気である。  三四郎は元来あまり運動好きではない。国にいるとき兎狩りを二、三度したことがある。それから高等学校の端艇競漕の時に旗振りの役を勤めたことがある。その時青と赤と間違えて振ってたいへん苦情が出た。もっとも決勝の鉄砲を打つ係りの教授鉄砲を打ちそくなった。打つには打ったが音がしなかった。これが三四郎のあわてた原因である。それより以来三四郎運動会へ近づかなかった。しかしきょうは上京以来はじめての競技会だから、ぜひ行ってみるつもりである与次郎もぜひ行ってみろと勧めた。与次郎の言うところによると競技より女のほうが見にゆ価値があるのだそうだ。女のうちには野々宮さんの妹がいるだろう。野々宮さんの妹といっしょに美禰子もいるだろう。そこへ行って、こんちわとかなんとか挨拶をしてみたい。  昼過ぎになったから出かけた。会場の入口運動場の南のすみにある。大きな日の丸イギリス国旗が交差してある。日の丸は合点がいくが、イギリス国旗はなんのためだかからない。三四郎日英同盟のせいかとも考えた。けれども日英同盟大学陸上運動会とは、どういう関係があるか、とんと見当がつかなかった。  運動場は長方形の芝生である。秋が深いので芝の色がだいぶさめている。競技を見る所は西側にある。後に大きな築山をいっぱいに控えて、前は運動場の柵で仕切られた中へ、みんなを追い込むしかけになっている。狭いわりに見物人が多いのではなはだ窮屈である。さいわい日和がよいので寒くはない。しか外套を着ている者がだいぶある。その代り傘をさして来た女もある。  三四郎失望したのは婦人席が別になっていて、普通人間には近寄れないことであった。それからフロックコートや何か着た偉そうな男がたくさん集って、自分が存外幅のきかないようにみえたことであった。新時代青年をもってみずからおる三四郎は少し小さくなっていた。それでも人と人との間から婦人席の方を見渡すことは忘れなかった。横からからよく見えないが、ここはさすがにきれいである。ことごとく着飾っている。そのうえ遠距離から顔がみんな美しい。その代りだれが目立って美しいということもない。ただ総体総体として美しい。女が男を征服する色である。甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかった。そこで三四郎はまた失望した。しかし注意したら、どこかにいるだろうと思って、よく見渡すと、はたして前列のいちばん柵に近い所に二人並んでいた。  三四郎は目のつけ所がようやくわかったので、まず一段落告げたような気で、安心していると、たちまち五、六人の男が目の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである決勝点は美禰子とよし子がすわっている真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見つめていた三四郎視線のうちにはぜひともこれらの壮漢がはいってくる。五、六人はやがて一二、三人にふえた。みんな呼吸をはずませているようにみえる。三四郎はこれらの学生の態度と自分の態度とを比べてみて、その相違に驚いた。どうして、ああ無分別にかける気になれたものだろうと思った。しか婦人連はことごとく熱心に見ている。そのうちでも美禰子とよし子はもっとも熱心らしい。三四郎自分無分別にかけてみたくなった。一番に到着した者が、紫の猿股をはい婦人席の方を向いて立っている。よく見ると昨夜の親睦会で演説をした学生に似ている。ああ背が高くては一番になるはずである。計測係りが黒板に二十五秒七四と書いた。書き終って、余りの白墨を向こうへなげて、こっちを向いたところを見ると野々宮さんであった。野々宮さんはいつになくまっ黒なフロックを着て、胸に係り員の徽章をつけて、だいぶ人品がいい。ハンケチを出して、洋服の袖を二、三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切って来た。ちょうど美禰子とよし子のすわっているまん前の所へ出た。低い柵の向こう側から首を婦人席の中へ延ばして、何か言っている。美禰子は立った。野々宮さんの所まで歩いてゆく。柵の向こうとこちらで話を始めたように見える。美禰子は急に振り返った。うれしそうな笑いにみちた顔である三四郎は遠くから一生懸命に二人を見守っていた。すると、よし子が立った。また柵のそばへ寄って行く。二人が三人になった。芝生の中では砲丸投げが始まった。

砲丸投げほど力のいるものはなかろう。力のいるわりにこれほどおもしろくないものもたんとない。ただ文字どおり砲丸を投げるのである。芸でもなんでもない。野々宮さんは柵の所で、ちょっとこの様子を見て笑っていた。けれども見物のじゃまになると悪いと思ったのであろう。柵を離れて芝生の中へ引き取った。二人の女も、もとの席へ復した。砲丸は時々投げられている。第一どのくらい遠くまでゆくんだか、ほとんど三四郎にはわからない。三四郎はばかばかしくなった。それでも我慢して立っていた。ようやくのことで片がついたとみえて、野々宮さんはまた黒板へ十一メートル三八と書いた。

 それからまた競走があって、長飛びがあって、その次には槌投げが始まった。三四郎はこの槌投げにいたって、とうとう辛抱がしきれなくなった。運動会めいめいかってに開くべきものである。人に見せべきものではない。あんものを熱心に見物する女はことごとく間違っているとまで思い込んで、会場を抜け出して、裏の築山の所まで来た。幕が張ってあって通れない。引き返して砂利の敷いてある所を少し来ると、会場から逃げた人がちらほら歩いている。盛装した婦人も見える。三四郎はまた右へ折れて、爪先上りを丘のてっぺんまで来た。道はてっぺんで尽きている。大きな石がある。三四郎はその上へ腰をかけて、高い崖の下にある池をながめた。下の運動会場でわあというおおぜいの声がする。

 三四郎はおよそ五分ばかり石へ腰をかけたままぼんやりしていた。やがてまた動く気になったので腰を上げて、立ちながら靴の踵を向け直すと、丘の上りぎわの、薄く色づいた紅葉の間に、さっきの女の影が見えた。並んで丘の裾を通る。

 三四郎は上から、二人を見おろしていた。二人は枝の隙から明らかな日向へ出て来た。黙っていると、前を通り抜けてしまう。三四郎は声をかけようかと考えた。距離があまり遠すぎる。急いで二、三歩芝の上を裾の方へ降りた。降り出すといいぐあいに女の一人がこっちを向いてくれた。三四郎はそれでとまった。じつはこちからまりごきげんをとりたくない。運動会が少し癪にさわっている。

あんな所に……」とよし子が言いだした。驚いて笑っている。この女はどんな陳腐ものを見ても珍しそうな目つきをするように思われる。その代り、いかな珍しいもの出会っても、やはり待ち受けていたような目つきで迎えるかと想像される。だからこの女に会うと重苦しいところが少しもなくって、しかもおちついた感じが起こる。三四郎は立ったまま、これはまったく、この大きな、常にぬれている、黒い眸のおかげだと考えた。

 美禰子も留まった。三四郎を見た。しかしその目はこの時にかぎって何物をも訴えていなかった。まるで高い木をながめるような目であった。三四郎は心のうちで、火の消えたランプを見る心持ちがした。もとの所に立ちすくんでいる。美禰子も動かない。

「なぜ競技を御覧にならないの」とよし子が下から聞いた。

「今まで見ていたんですが、つまらいからやめて来たのです」

 よし子は美禰子を顧みた。美禰子はやはり顔色を動かさない。三四郎は、

「それより、あなたたこそなぜ出て来たんです。たいへん熱心に見ていたじゃありませんか」と当てたような当てないようなことを大きな声で言った。美禰子はこの時はじめて、少し笑った。三四郎にはその笑いの意味がよくわからない。二歩ばかり女の方に近づいた。

「もう宅へ帰るんですか」

 女は二人とも答えなかった。三四郎はまた二歩ばかり女の方へ近づいた。

「どこかへ行くんですか」

「ええ、ちょっと」と美禰子が小さな声で言う。よく聞こえない。三四郎はとうとう女の前まで降りて来た。しかしどこへ行くとも追窮もしないで立っている。会場の方で喝采の声が聞こえる。

高飛びよ」とよし子が言う。「今度は何メートルになったでしょう」

 美禰子は軽く笑ったばかりである三四郎も黙っている。三四郎高飛びに口を出すのをいさぎよしとしないつもりである。すると美禰子が聞いた。

「この上には何かおもしろものがあって?」

 この上には石があって、崖があるばかりであるおもしろものがありようはずがない。

「なんにもないです」

「そう」と疑いを残したように言った。

「ちょいと上がってみましょうか」よし子が、快く言う。

あなた、まだここを御存じないの」と相手の女はおちついて出た。

「いいからいらっしゃいよ」

 よし子は先へ上る。二人はまたついて行った。よし子は足を芝生のはしまで出して、振り向きながら、

「絶壁ね」と大げさな言葉を使った。「サッフォーでも飛び込みそうな所じゃありませんか」

 美禰子と三四郎は声を出して笑った。そのくせ三四郎はサッフォーがどんな所から飛び込んだかよくわからなかった。

あなたも飛び込んでごらんなさい」と美禰子が言う。

「私? 飛び込みましょうか。でもあんまり水がきたないわね」と言いながら、こっちへ帰って来た。

 やがて女二人のあいだに用談が始まった。

あなた、いらしって」と美禰子が言う。

「ええ。あなたは」とよし子が言う。

「どうしましょう」

「どうでも。なんならわたしちょっと行ってくるから、ここに待っていらっしゃい」

「そうね」

 なかなか片づかない。三四郎が聞いてみると、よし子が病院看護婦のところへ、ついでだからちょっと礼に行ってくるんだと言う。美禰子はこの夏自分の親戚が入院していた時近づきになった看護婦を尋ねれば尋ねるのだが、これは必要でもなんでもないのだそうだ。

 よし子は、すなおに気の軽い女だからしまいに、すぐ帰って来ますと言い捨てて、早足に一人丘を降りて行った。止めるほどの必要もなし、いっしょに行くほどの事件でもないので、二人はしぜん後にのこるわけになった。二人の消極な態度からいえば、のこるというより、のこされたかたちにもなる。

 三四郎はまた石に腰をかけた。女は立っている。秋の日は鏡のように濁った池の上に落ちた。中に小さな島がある。島にはただ二本の木がはえている。青い松と薄い紅葉がぐあいよく枝をかわし合って、箱庭の趣がある。島を越して向こう側の突き当りがこんもりとどす黒く光っている。女は丘の上からその暗い木陰を指さした。

「あの木を知っていらしって」と言う。

「あれは椎」

 女は笑い出した。

「よく覚えていらっしゃること」

「あの時の看護婦ですか、あなたが今尋ねようと言ったのは」

「ええ」

「よし子さんの看護婦とは違うんですか」

「違います。これは椎――といった看護婦です」

 今度は三四郎が笑い出した。

「あすこですね。あなたがあの看護婦といっしょに団扇を持って立っていたのは」

 二人のいる所は高く池の中に突き出している。この丘とはまるで縁のない小山が一段低く、右側を走っている。大きな松と御殿一角と、運動会の幕の一部と、なだらかな芝生が見える。

「熱い日でしたね。病院あんまり暑いものから、とうとうこらえきれないで出てきたの。――あなたはまたなんであんな所にしゃがんでいらしったんです」

「熱いからです。あの日ははじめて野々宮さんに会って、それから、あすこへ来てぼんやりしていたのです。なんだか心細くなって」

「野々宮さんにお会いになってから、心細くおなりになったの」

「いいえ、そういうわけじゃない」と言いかけて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた。

「野々宮さんといえば、きょうはたいへん働いていますね」

「ええ、珍しくフロックコートをお着になって――ずいぶん御迷惑でしょう。朝から晩までですから

だってだいぶ得意のようじゃありませんか」

「だれが、野々宮さんが。――あなたもずいぶんね」

「なぜですか」

だってまさか運動会の計測係りになって得意になるようなかたでもないでしょう」

 三四郎はまた話頭を転じた。

「さっきあなたの所へ来て何か話していましたね」

「会場で?」

「ええ、運動会の柵の所で」と言ったが、三四郎はこの問を急に撤回したくなった。女は「ええ」と言ったまま男の顔をじっと見ている。少し下唇をそらして笑いかけている。三四郎はたまらなくなった。何か言ってまぎらそうとした時に、女は口を開いた。

あなたはまだこのあいだの絵はがきの返事をくださらないのね」

 三四郎はまごつきながら「あげます」と答えた。女はくれともなんとも言わない。

あなた原口さんという画工を御存じ?」と聞き直した。

「知りません」

「そう」

「どうかしましたか

「なに、その原口さんが、きょう見に来ていらしってね、みんなを写生しているから、私たちも用心しないと、ポンチにかかれるからって、野々宮さんがわざわざ注意してくだすったんです」

 美禰子はそばへ来て腰をかけた。三四郎自分いかにも愚物のような気がした。

「よし子さんはにいさんといっしょに帰らないんですか」

「いっしょに帰ろうったって帰れないわ。よし子さんは、きのうから私の家にいるんですもの

 三四郎はその時はじめて美禰子から野々宮のおっかさんが国へ帰ったということを聞いた。おっかさんが帰ると同時に、大久保を引き払って、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子の家から学校へ通うことに、相談がきまったんだそうである

 三四郎はむしろ野々宮さんの気楽なのに驚いた。そうたやす下宿生活にもどるくらいなら、はじめから家を持たないほうがよかろう。第一鍋、釜、手桶などという世帯道具の始末はどうつけたろうと、よけいなことまで考えたが、口に出して言うほどのことでもないから、べつだんの批評は加えなかった。そのうえ、野々宮さんが一家の主人から、あともどりをして、ふたたび純書生と同様な生活状態に復するのは、とりもなおさず家族制から一歩遠のいたと同じことで、自分にとっては、目前の迷惑を少し長距離へ引き移したような好都合にもなる。その代りよし子が美禰子の家へ同居してしまった。この兄妹は絶えず往来していないと治まらないようにできあがっている。絶えず往来しているうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移ってくる。すると野々宮さんがまたいつなんどき下宿生活永久にやめる時機がこないともかぎらない。

 三四郎は頭のなかに、こういう疑いある未来を、描きながら、美禰子と応対をしている。いっこうに気が乗らない。それを外部の態度だけでも普通のごとくつくろおうとすると苦痛になってくる。そこへうまいあいによし子が帰ってきてくれた。女同志のあいだには、もう一ぺん競技を見に行こうかという相談があったが、短くなりかけた秋の日がだいぶ回ったのと、回るにつれて、広い戸外の肌寒がようやく増してくるので、帰ることに話がきまる。

 三四郎も女連に別れて下宿へもどろうと思ったが、三人が話しながら、ずるずるべったりに歩き出したものから、きわだった挨拶をする機会がない。二人は自分を引っ張ってゆくようにみえる。自分もまた引っ張られてゆきたいような気がする。それで二人にくっついて池の端を図書館の横から、方角違いの赤門の方へ向いてきた。そのとき三四郎は、よし子に向かって、

「お兄いさんは下宿なすったそうですね」と聞いたら、よし子は、すぐ、

「ええ。とうとう。ひとを美禰子さんの所へ押しつけておいて。ひどいでしょう」と同意を求めるように言った。三四郎は何か返事をしようとした。そのまえに美禰子が口を開いた。

「宗八さんのようなかたは、我々の考えじゃわかりませんよ。ずっと高い所にいて、大きな事を考えていらっしゃるんだから」と大いに野々宮さんをほめだした。よし子は黙って聞いている。

 学問をする人がうるさい俗用を避けて、なるべく単純な生活にがまんするのは、みんな研究のためやむをえないんだからしかたがない。野々宮のような外国にまで聞こえるほどの仕事をする人が、普通学生同様な下宿はいっているのも必竟野々宮が偉いからのことで、下宿がきたなければきたないほど尊敬しなくってはならない。――美禰子の野々宮に対する賛辞のつづきは、ざっとこうである

 三四郎赤門の所で二人に別れた。追分の方へ足を向けながら考えだした。――なるほど美禰子の言ったとおりである自分と野々宮を比較してみるとだいぶ段が違う。自分田舎から出て大学はいったばかりである学問という学問もなければ、見識という見識もない。自分が、野々宮に対するほどな尊敬を美禰子から受けえないのは当然である。そういえばなんだか、あの女からかにされているようでもある。さっき、運動会はつまらいから、ここにいると、丘の上で答えた時に、美禰子はまじめな顔をして、この上には何かおもしろものがありますかと聞いた。あの時は気がつかなかったが、いま解釈してみると、故意自分を愚弄した言葉かもしれない。――三四郎は気がついて、きょうまで美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返してみると、どれもこれもみんな悪い意味がつけられる。三四郎は往来のまん中でまっ赤になってうつむいた。ふと、顔を上げると向こうから与次郎とゆうべの会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を縦に振ったぎり黙っている。学生帽子をとって礼をしながら、

「昨夜は。どうですか。とらわれちゃいけませんよ」と笑って行き過ぎた。

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三四郎は流れから目を放して、上を見た。こういう空の模様を見たのははじめてではない。けれども空が濁ったという言葉を聞いたのはこの時がはじめてである。気がついて見ると、濁ったと形容するよりほかに形容のしかたのない色であった。三四郎が何か答えようとするまえに、女はまた言った。 「重いこと。大理石のように見えます」  美禰子は二重瞼を細くして高い所をながめていた。それから、その細くなったままの目を静かに三四郎の方に向けた。そうして、 「大理石のように見えるでしょう」と聞いた。三四郎は、 「ええ、大理石のように見えます」と答えるよりほかはなかった。女はそれで黙った。しばらくしてから、今度は三四郎が言った。 「こういう空の下にいると、心が重くなるが気は軽くなる」 「どういうわけですか」と美禰子が問い返した。  三四郎には、どういうわけもなかった。返事はせずに、またこう言った。 「安心して夢を見ているような空模様だ」 「動くようで、なかなか動きませんね」と美禰子はまた遠くの雲をながめだした。  菊人形で客を呼ぶ声が、おりおり二人のすわっている所まで聞こえる。 「ずいぶん大きな声ね」 「朝から晩までああいう声を出しているんでしょうか。えらいもんだな」と言ったが、三四郎は急に置き去りにした三人のことを思い出した。何か言おうとしているうちに、美禰子は答えた。 「商売ですもの、ちょうど大観音乞食と同じ事なんですよ」 「場所が悪くはないですか」  三四郎は珍しく冗談を言って、そうして一人でおもしろそうに笑った。乞食について下した広田言葉をよほどおかしく受けたかである。 「広田先生は、よく、ああいう事をおっしゃるかたなんですよ」ときわめて軽くひとりごとのように言ったあとで、急に調子をかえて、 「こういう所に、こうしてすわっていたら、大丈夫及第よ」と比較的活発につけ加えた。そうして、今度は自分のほうでおもしろそうに笑った。 「なるほど野々宮さんの言ったとおり、いつまで待っていてもだれも通りそうもありませんね」 「ちょうどいいじゃありませんか」と早口に言ったが、あとで「おもらいをしない乞食なんだから」と結んだ。これは前句の解釈のためにつけたように聞こえた。  ところへ知らん人が突然あらわれた。唐辛子の干してある家の陰から出て、いつのまにか川を向こうへ渡ったものみえる。二人のすわっている方へだんだん近づいて来る。洋服を着て髯をはやして、年輩からいうと広田先生くらいな男である。この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子をにらめつけた。その目のうちには明らかに憎悪の色がある。三四郎はじっとすわっていにくいほどな束縛を感じた。男はやがて行き過ぎた。その後影を見送りながら、三四郎は、 「広田先生や野々宮さんはさぞあとでぼくらを捜したでしょう」とはじめて気がついたように言った。美禰子はむしろ冷やかである。 「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」 「迷子から捜したでしょう」と三四郎はやはり前説を主張した。すると美禰子は、なお冷やかな調子で、 「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」 「だれが? 広田先生がですか」  美禰子は答えなかった。 「野々宮さんがですか」  美禰子はやっぱり答えなかった。 「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」  美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。その時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種屈辱をかすかに感じた。 「迷子」  女は三四郎を見たままでこの一言を繰り返した。三四郎は答えなかった。 「迷子英訳を知っていらしって」  三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。 「教えてあげましょうか」 「ええ」 「迷える子――わかって?」  三四郎はこういう場合になると挨拶に困る男である咄嗟の機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも半間である自覚している。  迷える子という言葉はわかったようでもある。またわからないようでもある。わかるわからないはこの言葉意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。すると女は急にまじめになった。 「私そんなに生意気に見えますか」  その調子には弁解の心持ちがある。三四郎は意外の感に打たれた。今までは霧の中にいた。霧が晴れればいいと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。  三四郎は美禰子の態度をもとのような、――二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片づかない空のような、――意味のあるものにしたかった。けれども、それは女のきげんを取るための挨拶ぐらいで戻せるものではないと思った。女は卒然として、 「じゃ、もう帰りましょう」と言った。厭味のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものあきらめるように静かな口調であった。  空はまた変ってきた。風が遠くから吹いてくる。広い畑の上には日が限って、見ていると、寒いほど寂しい。草からあがる地息でからだは冷えていた。気がつけば、こんな所に、よく今までべっとりすわっていられたものだと思う。自分一人なら、とうにどこかへ行ってしまったに違いない。美禰子も――美禰子はこんな所へすわる女かもしれない。 「少し寒くなったようですから、とにかく立ちましょう。冷えると毒だ。しかし気分はもうすっかり直りましたか」 「ええ、すっかり直りました」と明らかに答えたが、にわかに立ち上がった。立ち上がる時、小さな声で、ひとりごとのように、 「迷える子」と長く引っ張って言った。三四郎はむろん答えなかった。  美禰子は、さっき洋服を着た男の出て来た方角をさして、道があるなら、あの唐辛子そばを通って行きたいという。二人は、その見当へ歩いて行った。藁葺のうしろにはたして細い三尺ほどの道があった。その道を半分ほど来た所で三四郎は聞いた。 「よし子さんは、あなたの所へ来ることにきまったんですか」  女は片頬で笑った。そうして問い返した。 「なぜお聞きになるの」  三四郎が何か言おうとすると、足の前に泥濘があった。四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎こちら側から手を出した。 「おつかまりなさい」 「いえ大丈夫」と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりこちら側へ渡った。あまり下駄をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。 「迷える子」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸を感ずることができた。

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 ベルが鳴って、講師教室から出ていった。三四郎インキの着いたペンを振って、ノートを伏せようとした。すると隣にいた与次郎が声をかけた。

「おいちょっと借せ。書き落としたところがある」

 与次郎三四郎ノートを引き寄せて上からのぞきこんだ。stray sheep という字がむやみに書いてある。

「なんだこれは」

講義を筆記するのがいやになったから、いたずらを書いていた」

「そう不勉強はいかん。カントの超絶唯心論バークレーの超絶実在論にどうだとか言ったな」

「どうだとか言った」

「聞いていなかったのか」

「いいや」

「まるで stray sheep だ。しかたがない」

 与次郎自分ノートをかかえて立ち上がった。机の前を離れながら、三四郎に、

「おいちょっと来い」と言う。三四郎与次郎について教室を出た。梯子段を降りて、玄関前の草原へ来た。大きな桜がある。二人はその下にすわった。

 ここは夏の初めになると苜蓿が一面にはえる。与次郎入学願書を持って事務へ来た時に、この桜の下に二人の学生が寝転んでいた。その一人が一人に向かって、口答試験都々逸で負けておいてくれると、いくらでも歌ってみせるがなと言うと、一人が小声で、粋なさばきの博士の前で、恋の試験がしてみたいと歌っていた。その時から与次郎はこの桜の木の下が好きになって、なにか事があると、三四郎をここへ引っ張り出す。三四郎はその歴史与次郎から聞いた時に、なるほど与次郎俗謡で pity's love を訳すはずだと思った。きょうはしか与次郎がことのほかまじめである。草の上にあぐらをかくやいなや、懐中から文芸時評という雑誌を出してあけたままの一ページを逆に三四郎の方へ向けた。

「どうだ」と言う。見ると標題に大きな活字で「偉大なる暗闇」とある。下には零余子と雅号を使っている。偉大なる暗闇とは与次郎がいつでも広田先生を評する語で、三四郎も二、三度聞かされたものであるしか零余子はまったく知らん名である。どうだと言われた時に、三四郎は、返事をする前提としてひとまず与次郎の顔を見た。すると与次郎はなんにも言わずにその扁平な顔を前へ出して、右の人さし指の先で、自分の鼻の頭を押えてじっとしている。向こうに立っていた一人の学生が、この様子を見てにやにや笑い出した。それに気がついた与次郎はようやく指を鼻から放した。

「おれが書いたんだ」と言う。三四郎はなるほどそうかと悟った。

「ぼくらが菊細工を見にゆく時書いていたのは、これか」

「いや、ありゃ、たった二、三日まえじゃないか。そうはやく活版になってたまるものか。あれは来月出る。これは、ずっと前に書いたものだ。何を書いたもの標題でわかるだろう」

広田先生の事か」

「うん。こうして輿論喚起しておいてね。そうして、先生大学はいれる下地を作る……」

「その雑誌はそんなに勢力のある雑誌か」

 三四郎雑誌名前さえ知らなかった。

「いや無勢力から、じつは困る」と与次郎は答えた。三四郎は微笑わざるをえなかった。

「何部ぐらい売れるのか」

 与次郎は何部売れるとも言わない。

「まあいいさ。書かんよりはましだ」と弁解している。

 だんだん聞いてみると、与次郎は従来からこの雑誌関係があって、ひまさえあればほとんど毎号筆を執っているが、その代り雅名も毎号変えるから、二、三の同人のほか、だれも知らないんだと言う。なるほどそうだろう。三四郎は今はじめて与次郎文壇との交渉を聞いたくらいのものであるしか与次郎がなんのために、遊戯に等しい匿名を用いて、彼のいわゆる大論文をひそかに公けにしつつあるか、そこが三四郎にはわからなかった。

 いくぶんか小遣い取りのつもりで、やっている仕事かと不遠慮に尋ねた時、与次郎は目を丸くした。

「君は九州のいなかから出たばかりだから中央文壇趨勢を知らないために、そんなのん気なことをいうのだろう。今の思想界の中心にいて、その動揺のはげしいありさまを目撃しながら、考えのある者が知らん顔をしていられるものか。じっさい今日の文権はまったく我々青年の手にあるんだから一言でも半句でも進んで言えるだけ言わなけりゃ損じゃないか文壇は急転直下の勢いでめざまし革命を受けている。すべてがことごとく動いて、新気運に向かってゆくんだから、取り残されちゃたいへんだ。進んで自分からこの気運をこしらえ上げなくちゃ、生きてる甲斐はない。文学文学って安っぽいようにいうが、そりゃ大学なんかで聞く文学のことだ。新しい我々のいわゆる文学は、人生のものの大反射だ。文学の新気運は日本社会活動に影響しなければならない。また現にしつつある。彼らが昼寝をして夢を見ているまに、いつか影響しつつある。恐ろしいものだ。……」

 三四郎は黙って聞いていた。少しほらのような気がする。しかしほらでも与次郎はなかなか熱心に吹いている。すくなくとも当人だけは至極まじめらしくみえる。三四郎はだいぶ動かされた。

「そういう精神でやっているのか。では君は原稿料なんか、どうでもかまわんのだったな」

「いや、原稿料は取るよ。取れるだけ取る。しか雑誌が売れないからなかなかよこさない。どうかして、もう少し売れる工夫をしないといけない。何かいい趣向はないだろうか」と今度は三四郎相談をかけた。話が急に実際問題に落ちてしまった。三四郎は妙な心持ちがする。与次郎は平気であるベルが激しく鳴りだした。

「ともかくこの雑誌を一部君にやるから読んでみてくれ。偉大なる暗闇という題がおもしろいだろう。この題なら人が驚くにきまっている。――驚かせないと読まないからだめだ」

 二人は玄関を上がって、教室はいって、机に着いた。やがて先生が来る。二人とも筆記を始めた。三四郎は「偉大なる暗闇」が気にかかるので、ノートそば文芸時評をあけたまま、筆記のあいあいまに先生に知れないように読みだした。先生はさいわい近眼である。のみならず自己講義のうちにぜんぜん埋没している。三四郎の不心得にはまるで関係しない。三四郎はいい気になって、こっちを筆記したり、あっちを読んだりしていったが、もともと二人でする事を一人で兼ねるむりな芸だからしまいには「偉大なる暗闇」も講義の筆記も双方ともに関係がわからなくなった。ただ与次郎文章一句だけはっきり頭にはいった。

自然宝石を作るに幾年の星霜を費やしたか。またこ宝石採掘の運にあうまでに、幾年の星霜を静かに輝やいていたか」という句である。その他は不得要領に終った。その代りこの時間には stray sheep という字を一つも書かずにすんだ。

 講義が終るやいなや、与次郎三四郎に向かって、

「どうだ」と聞いた。じつはまだよく読まないと答えると、時間経済を知らない男だといって非難した。ぜひ読めという。三四郎は家へ帰ってぜひ読むと約束した。やがて昼になった。二人は連れ立って門を出た。

「今晩出席するだろうな」と与次郎西片町へはい横町の角で立ち留まった。今夜は同級生の懇親会がある。三四郎は忘れていた。ようやく思い出して、行くつもりだと答えると、与次郎は、

「出るまえにちょっと誘ってくれ。君に話す事がある」と言う。耳のうしろペン軸をはさんでいる。なんとなく得意である三四郎承知した。

 下宿へ帰って、湯にはいって、いい心持ちになって上がってみると、机の上に絵はがきがある。小川かいて、草をもじゃもじゃはやして、その縁に羊を二匹寝かして、その向こう側に大きな男がステッキを持って立っているところを写したものである。男の顔がはなはだ獰猛にできている。まったく西洋の絵にある悪魔を模したもので、念のため、わきにちゃんデビル仮名が振ってある。表は三四郎宛名の下に、迷える子と小さく書いたばかりである三四郎は迷える子の何者かをすぐ悟った。のみならず、はがきの裏に、迷える子を二匹書いて、その一匹をあん自分見立ててくれたのをはなはだうれしく思った。迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとよりはいっていたのである。それが美禰子のおもわくであったとみえる。美禰子の使った stray sheep意味がこれでようやくはっきりした。

 与次郎約束した「偉大なる暗闇」を読もうと思うが、ちょっと読む気にならない。しきりに絵はがきをながめて考えた。イソップにもないような滑稽趣味がある。無邪気にもみえる。洒落でもある。そうしてすべての下に、三四郎の心を動かすあるものがある。

 手ぎわからいっても敬服の至りである。諸事明瞭にでき上がっている。よし子のかいた柿の木の比ではない。――と三四郎には思われた。

 しばらくしてから三四郎はようやく「偉大なる暗闇」を読みだした。じつはふわふわして読みだしたのであるが、二、三ページくると、次第に釣りまれるように気が乗ってきて、知らず知らずのまに、五ページ六ページと進んで、ついに二十七ページの長論文を苦もなく片づけた。最後の一句読了した時、はじめてこれでしまいだなと気がついた。目を雑誌から離して、ああ読んだなと思った。

 しかし次の瞬間に、何を読んだかと考えてみると、なんにもない。おかしいくらいなんにもない。ただ大いにかつ盛んに読んだ気がする。三四郎与次郎の技倆に感服した。

 論文は現今の文学者の攻撃に始まって、広田先生の賛辞に終っている。ことに文学文科の西洋人を手痛く罵倒している。はやく適当日本人を招聘して、大学相当の講義を開かなくっては、学問の最高府たる大学も昔の寺子屋同然のありさまになって、煉瓦石のミイラと選ぶところがないようになる。もっとも人がなければしかたがないが、ここに広田先生がある。先生十年一日のごとく高等学校に教鞭を執って薄給無名に甘んじている。しか真正学者である。学海の新気運に貢献して、日本の活社会交渉のある教授担任すべき人物である。――せんじ詰めるとこれだけであるが、そのこれだけが、非常にもっともらしい口吻と燦爛たる警句とによって前後二十七ページに延長している。

 その中には「禿を自慢するものは老人に限る」とか「ヴィーナスは波からまれたが、活眼の士は大学からまれない」とか「博士を学界の名産と心得るのは、海月田子の浦名産と考えるようなものだ」とかいろいろおもしろい句がたくさんある。しかしそれよりほかになんにもない。ことに妙なのは広田先生を偉大なる暗闇にたとえたついでに、ほかの学者を丸行燈比較して、たかだか方二尺ぐらいの所をぼんやり照らすにすぎないなどと、自分広田から言われたとおりを書いている。そうして、丸行燈だの雁首などはすべて旧時代遺物で我々青年にはまったく無用であると、このあいだのとおりわざわざ断わってある。

 よく考えてみると、与次郎論文には活気がある。いかにも自分一人で新日本代表しているようであるから、読んでいるうちは、ついその気になる。けれどもまったく実がない。根拠地のない戦争のようなものである。のみならず悪く解釈すると、政略的の意味もあるかもしれない書き方である。いなか者の三四郎にはてっきりそこと気取ることはできなかったが、ただ読んだあとで、自分の心を探ってみてどこかに不満足があるように覚えた。また美禰子の絵はがきを取って、二匹の羊と例の悪魔をながめだした。するとこっちのほうは万事が快感である。この快感につれてまえの不満足はますます著しくなった。それで論文の事はそれぎり考えなくなった。美禰子に返事をやろうと思う。不幸にして絵がかけない。文章にしようと思う。文章ならこの絵はがき匹敵する文句でなくってはいけない。それは容易に思いつけない。ぐずぐずしているうちに四時過ぎになった。

 袴を着けて、与次郎を誘いに、西片町へ行く。勝手からはいると、茶の間に、広田先生が小さな食卓を控えて、晩食を食っていた。そば与次郎かしこまってお給仕をしている。

先生どうですか」と聞いている。

 先生は何か堅いものをほおばったらしい。食卓の上を見ると、袂時計ほどな大きさの、赤くって黒くって、焦げたものが十ばかり皿の中に並んでいる。

 三四郎は座に着いた。礼をする。先生は口をもがもがさせる。

「おい君も一つ食ってみろ」と与次郎が箸で皿のものをつまんで出した。掌へ載せてみると、馬鹿貝の剥身の干したのをつけ焼にしたのである

「妙なものを食うな」と聞くと、

「妙なものって、うまいぜ食ってみろ。これはね、ぼくがわざわざ先生にみやげに買ってきたんだ。先生はまだ、これを食ったことがないとおっしゃる

「どこから

日本から

 三四郎おかしくなった。こういうところになると、さっきの論文調子とは少し違う。

先生、どうです」

「堅いね

「堅いけれどもうまいでしょう。よくかまなくっちゃいけません。かむと味が出る」

「味が出るまでかんでいちゃ、歯が疲れてしまう。なんでこんな古風なものを買ってきたものかな」

「いけませんか。こりゃ、ことによると先生にはだめかもしれない。里見の美禰子さんならいいだろう」

「なぜ」と三四郎が聞いた。

「ああおちついていりゃ味の出るまできっとかんでるに違いない」

「あの女はおちついていて、乱暴だ」と広田が言った。

「ええ乱暴です。イブセンの女のようなところがある」

イブセンの女は露骨だが、あの女は心が乱暴だ。もっと乱暴といっても、普通乱暴とは意味が違うが。野々宮の妹のほうが、ちょっと見ると乱暴のようで、やっぱり女らしい。妙なものだね」

里見のは乱暴の内訌ですか」

 三四郎は黙って二人の批評を聞いていた。どっちの批評もふにおちない。乱暴という言葉が、どうして美禰子の上に使えるか、それから第一不思議であった。

 与次郎はやがて、袴をはいて、改まって出て来て、

ちょっと行ってまいります」と言う。先生は黙って茶を飲んでいる。二人は表へ出た。表はもう暗い。門を離れて二、三間来ると、三四郎はすぐ話しかけた。

先生里見お嬢さん乱暴だと言ったね」

「うん。先生はかってな事をいう人だから、時と場合によるとなんでも言う。第一先生が女を評するのが滑稽だ。先生の女における知識はおそらく零だろう。ラッブをしたことがないものに女がわかるものか」

先生はそれでいいとして、君は先生の説に賛成したじゃないか

「うん乱暴だと言った。なぜ」

「どういうところを乱暴というのか」

「どういうところも、こういうところもありゃしない。現代女性はみんな乱暴にきまっている。あの女ばかりじゃない」

「君はあの人をイブセンの人物に似ていると言ったじゃないか

「言った」

イブセンのだれに似ているつもりなのか」

「だれって……似ているよ」

 三四郎はむろん納得しない。しかし追窮もしない。黙って一間ばかり歩いた。すると突然与次郎がこう言った。

イブセンの人物に似ているのは里見お嬢さんばかりじゃない。今の一般女性はみんな似ている。女性ばかりじゃない。いやしくも新しい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似たところがある。ただ男も女もイブセンのように自由行動を取らないだけだ。腹のなかではたいていかぶれている」

「ぼくはあんまりかぶれていない」

「いないとみずから欺いているのだ。――どんな社会だって陥欠のない社会はあるまい」

「それはないだろう」

「ないとすれば、そのなかに生息している動物はどこかに不足を感じるわけだ。イブセンの人物は、現代社会制度の陥欠をもっとも明らかに感じたものだ。我々もおいおいああなってくる」

「君はそう思うか」

「ぼくばかりじゃない。具眼の士はみんなそう思っている」

「君の家の先生もそんな考えか」

「うちの先生? 先生はわからない」

だって、さっき里見さんを評して、おちついていて乱暴だと言ったじゃないか。それを解釈してみると、周囲に調和していけるから、おちついていられるので、どこかに不足があるから、底のほうが乱暴だという意味じゃないのか」

「なるほど。――先生は偉いところがあるよ。ああいうところへゆくとやっぱり偉い」

 と与次郎は急に広田先生をほめだした。三四郎は美禰子の性格についてもう少し議論の歩を進めたかったのだが、与次郎のこの一言でまったくはぐらかされてしまった。すると与次郎が言った。

「じつはきょう君に用があると言ったのはね。――うん、それよりまえに、君あの偉大なる暗闇を読んだか。あれを読んでおかないとぼくの用事が頭へはいりにくい」

「きょうあれから家へ帰って読んだ」

「どうだ」

先生はなんと言った」

先生は読むものかね。まるで知りゃしない」

「そうさなおもしろいことはおもしろいが、――なんだか腹のたしにならないビールを飲んだようだね」

「それでたくさんだ。読んで景気がつきさえすればいい。だから匿名にしてある。どうせ今は準備時代だ。こうしておいて、ちょうどいい時分に、本名を名乗って出る。――それはそれとして、さっきの用事を話しておこう」

五  門をはいると、このあいだの萩が、人の丈より高く茂って、株の根に黒い影ができている。この黒い影が地の上をはって、奥の方へゆくと、見えなくなる。葉と葉の重なる裏まで上ってくるようにも思われる。それほど表には濃い日があたっている。手洗水のそば南天がある。これも普通よりは背が高い。三本寄ってひょろひょろしている。葉は便所の窓の上にある。  萩と南天の間に椽側が少し見える。椽側は南天を基点としてはすに向こうへ走っている。萩の影になった所は、いちばん遠いはずれになる。それで萩はいちばん手前にある。よし子はこの萩の影にいた。椽側に腰をかけて。  三四郎は萩とすれすれに立った。よし子は椽から腰を上げた。足は平たい石の上にある。三四郎はいさらその背の高いのに驚いた。 「おはいりなさい」  依然として三四郎を待ち設けたような言葉かいである三四郎病院の当時を思い出した。萩を通り越して椽鼻まで来た。 「お掛けなさい」  三四郎は靴をはいている。命のごとく腰をかけた。よし子は座蒲団を取って来た。 「お敷きなさい」  三四郎蒲団を敷いた。門をはいってから三四郎はまだ一言も口を開かない。この単純な少女はただ自分の思うとおりを三四郎に言うが、三四郎からは毫も返事を求めていないように思われる。三四郎は無邪気なる女王の前に出た心持ちがした。命を聞くだけである。お世辞を使う必要がない。一言でも先方の意を迎えるような事をいえば、急に卑しくなる、唖の奴隷のごとく、さきのいうがままにふるまっていれば愉快である三四郎子供のようなよし子から子供扱いにされながら、少しもわが自尊心を傷つけたとは感じえなかった。 「兄ですか」とよし子はその次に聞いた。  野々宮を尋ねて来たわけでもない。尋ねないわけでもない。なんで来たか三四郎にもじつはわからないのである。 「野々宮さんはまだ学校ですか」 「ええ、いつでも夜おそくでなくっちゃ帰りません」  これは三四郎も知ってる事である三四郎挨拶に窮した。見ると椽側に絵の具箱がある。かきかけた水彩がある。 「絵をお習いですか」 「ええ、好きだからかきます」 「先生はだれですか」 「先生に習うほどじょうずじゃないの」 「ちょっと拝見」 「これ? これまだできていないの」とかきかけを三四郎の方へ出す。なるほど自分のうちの庭がかきかけてある。空と、前の家の柿の木と、はいり口の萩だけができている。なかにも柿の木ははなはだ赤くできている。 「なかなかうまい」と三四郎が絵をながめながら言う。 「これが?」とよし子は少し驚いた。本当に驚いたのである三四郎のようなわざとらしい調子は少しもなかった。  三四郎はいさら自分言葉冗談にすることもできず、またまじめにすることもできなくなった。どっちにしても、よし子から軽蔑されそうである三四郎は絵をながめながら、腹の中で赤面した。  椽側から座敷を見回すと、しんと静かである茶の間はむろん、台所にも人はいないようである。 「おっかさんはもうお国へお帰りになったんですか」 「まだ帰りません。近いうちに立つはずですけれど」 「今、いらっしゃるんですか」 「今ちょっと買物に出ました」 「あなた里見さんの所へお移りになるというのは本当ですか」 「どうして」 「どうしてって――このあい広田先生の所でそんな話がありましたから」 「まだきまりません。ことによると、そうなるかもしれませんけれど」  三四郎は少しく要領を得た。 「野々宮さんはもとから里見さんと御懇意なんですか」 「ええ。お友だちなの」  男と女の友だちという意味かしらと思ったが、なんだかおかしい。けれども三四郎はそれ以上を聞きえなかった。 「広田先生は野々宮さんのもとの先生だそうですね」 「ええ」  話は「ええ」でつかえた。 「あなた里見さんの所へいらっしゃるほうがいいんですか」 「私? そうね。でも美禰子さんのお兄いさんにお気の毒ですから」 「美禰子さんのにいさんがあるんですか」 「ええ。うちの兄と同年の卒業なんです」 「やっぱり理学士ですか」 「いいえ、科は違います法学士です。そのまた上の兄さんが広田先生のお友だちだったのですけれども、早くおなくなりになって、今では恭助さんだけなんです」 「おとっさんやおっかさんは」  よし子は少し笑いながら、 「ないわ」と言った。美禰子の父母の存在想像するのは滑稽であるといわぬばかりである。よほど早く死んだものみえる。よし子の記憶にはまるでないのだろう。 「そういう関係で美禰子さんは広田先生の家へ出入をなさるんですね」 「ええ。死んだにいさんが広田先生とはたいへん仲良しだったそうです。それに美禰子さんは英語が好きだから、時々英語を習いにいらっしゃるんでしょう」 「こちらへも来ますか」  よし子はいつのまにか、水彩画の続きをかき始めた。三四郎そばにいるのがまるで苦になっていない。それでいて、よく返事をする。 「美禰子さん?」と聞きながら、柿の木の下にある藁葺屋根に影をつけたが、 「少し黒すぎますね」と絵を三四郎の前へ出した。三四郎は今度は正直に、 「ええ、少し黒すぎます」と答えた。すると、よし子は画筆に水を含ませて、黒い所を洗いながら、 「いらっしゃいますわ」とようやく三四郎に返事をした。 「たびたび?」 「ええたびたび」とよし子は依然として画紙に向かっている。三四郎は、よし子が絵のつづきをかきだしてから、問答がたいへん楽になった。  しばらく無言のまま、絵のなかをのぞいていると、よし子はたんねんに藁葺屋根の黒い影を洗っていたが、あまり水が多すぎたのと、筆の使い方がなかなか不慣れなので、黒いものがかってに四方へ浮き出して、せっかく赤くできた柿が、陰干の渋柿のような色になった。よし子は画筆の手を休めて、両手を伸ばして、首をあとへ引いて、ワットマンをなるべく遠くからながめていたが、しまいに、小さな声で、 「もう駄目ね」と言う。じっさいだめなのだからしかたがない。三四郎は気の毒になった。 「もうおよしなさい。そうして、また新しくおかきなさい」  よし子は顔を絵に向けたまま、しりめに三四郎を見た。大きな潤いのある目である三四郎ますます気の毒になった。すると女が急に笑いだした。 「ばかね。二時間ばかり損をして」と言いながら、せっかくかいた水彩の上へ、横縦に二、三本太い棒を引いて、絵の具箱の蓋をぱたりと伏せた。 「もうよしましょう。座敷へおはいりなさい。お茶をあげますから」と言いながら、自分は上へ上がった。三四郎は靴を脱ぐのが面倒なので、やはり椽側に腰をかけていた。腹の中では、今になって、茶をやるという女を非常におもしろいと思っていた。三四郎に度はずれの女をおもしろがるつもりは少しもないのだが、突然お茶をあげますといわれた時には、一種の愉快を感ぜぬわけにゆかなかったのである。その感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかった。  茶の間で話し声がする。下女はいたに違いない。やがて襖を開いて、茶器を持って、よし子があらわれた。その顔を正面から見た時に、三四郎はまた、女性中のもっと女性的な顔であると思った。  よし子は茶をくんで椽側へ出して、自分は座敷の畳の上へすわった。三四郎はもう帰ろうと思っていたが、この女のそばにいると、帰らないでもかまわないような気がする。病院ではかつてこの女の顔をながめすぎて、少し赤面させたために、さっそく引き取ったが、きょうはなんともない。茶を出したのをさいわいに椽側と座敷でまた談話を始めた。いろいろ話しているうちに、よし子は三四郎に妙な事を聞きだした。それは、自分の兄の野々宮が好きかいやかという質問であった。ちょっと聞くとまるでがんぜない子供の言いそうな事であるが、よし子の意味はもう少し深いところにあった。研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなるわけである人情で物をみると、すべてが好ききらいの二つになる。研究する気なぞが起こるものではない。自分の兄は理学者だものから自分研究していけない。自分研究すればするほど、自分を可愛がる度は減るのだから、妹に対して不親切になる。けれども、あのくらい研究好きの兄が、このくらい自分を可愛がってくれるのだから、それを思うと、兄は日本じゅうでいちばんいい人に違いないという結論であった。  三四郎はこの説を聞いて、大いにもっともなような、またどこか抜けているような気がしたが、さてどこが抜けているんだか、頭がぼんやりして、ちょっとからなかった。それでおもてむきこの説に対してはべつだんの批評を加えなかった。ただ腹の中で、これしきの女の言う事を、明瞭に批評しえないのは、男児としてふがいないことだと、いたく赤面した。同時に、東京女学生はけっしてばかにできないものだということを悟った。  三四郎はよし子に対する敬愛の念をいだいて下宿へ帰った。はがきが来ている。「明日午後一時ごろから人形を見にまいりますから広田先生の家までいらっしゃい。美禰子」  その字が、野々宮さんのポッケットから半分はみ出していた封筒の上書に似ているので、三四郎は何べんも読み直してみた。  翌日は日曜である三四郎は昼飯を済ましてすぐ西片町へ来た。新調の制服を着て、光った靴をはいている。静かな横町広田先生の前まで来ると、人声がする。  先生の家は門をはいると、左手がすぐ庭で、木戸をあければ玄関へかからずに、座敷の椽へ出られる。三四郎は要目垣のあいだに見える桟をはずそうとして、ふと、庭の中の話し声を耳にした。話は野々宮と美禰子のあいだに起こりつつある。 「そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬばかりだ」これは男の声である。 「死んでも、そのほうがいいと思います」これは女の答である。 「もっともそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬだけの価値は十分ある」 「残酷な事をおっしゃる」  三四郎はここで木戸をあけた。庭のまん中に立っていた会話の主は二人ともこっちを見た。野々宮はただ「やあ」と平凡に言って、頭をうなずかせただけである。頭に新しい茶の中折帽をかぶっている。美禰子は、すぐ、 「はがきはいつごろ着きましたか」と聞いた。二人の今までやっていた会話はこれで中絶した。  椽側には主人が洋服を着て腰をかけて、相変らず哲学を吹いている。これは西洋雑誌を手にしていた。そばによし子がいる。両手をうしろに突いて、からだを空に持たせながら、伸ばした足にはいた厚い草履をながめていた。――三四郎はみんなから待ち受けられていたとみえる。  主人は雑誌をなげ出した。 「では行くかな。とうとう引っぱり出された」 「御苦労さま」と野々宮さんが言った。女は二人で顔を見合わせて、ひとに知れないような笑をもらした。庭を出る時、女が二人つづいた。 「背が高いのね」と美禰子があとから言った。 「のっぽ」とよし子が一言答えた。門の側で並んだ時、「だからなりたけ草履をはくの」と弁解をした。三四郎もつづいて庭を出ようとすると、二階の障子ががらりと開いた。与次郎が手欄の所まで出てきた。 「行くのか」と聞く。 「うん、君は」 「行かない。菊細工なんぞ見てなんになるものか。ばかだな」 「いっしょに行こう。家にいたってしようがないじゃないか」 「今論文を書いている。大論文を書いている。なかなかそれどころじゃない」

三四郎はあきれ返ったような笑い方をして、四人のあとを追いかけた。四人は細い横町を三分の二ほど広い通りの方へ遠ざかったところである。この一団の影を高い空気の下に認めた時、三四郎自分の今の生活熊本当時のそれよりも、ずっと意味の深いものになりつつあると感じた。かつて考えた三個の世界のうちで、第二第三の世界はまさにこの一団の影で代表されている。影の半分は薄黒い。半分は花野のごとく明らかである。そうして三四郎の頭のなかではこの両方が渾然として調和されている。のみならず、自分もいつのまにか、しぜんとこの経緯のなかに織りこまれている。ただそのうちのどこかにおちつかないところがある。それが不安である。歩きながら考えると、いまさき庭のうちで、野々宮と美禰子が話していた談柄が近因である三四郎はこの不安の念を駆るために、二人の談柄をふたたびほじくり出してみたい気がした。

 四人はすでに曲がり角へ来た。四人とも足をとめて、振り返った。美禰子は額に手をかざしている。

 三四郎は一分かからぬうちに追いついた。追いついてもだれもなんとも言わない。ただ歩きだしただけである。しばらくすると、美禰子が、

「野々宮さんは、理学者だから、なおそんな事をおっしゃるんでしょう」と言いだした。話の続きらしい。

「なに理学をやらなくっても同じ事です。高く飛ぼうというには、飛べるだけの装置を考えたうえでなければできないにきまっている。頭のほうがさきに要るに違いないじゃありませんか」

「そんなに高く飛びたくない人は、それで我慢するかもしれません」

我慢しなければ、死ぬばかりですもの

「そうすると安全で地面の上に立っているのがいちばんいい事になりますね。なんだかつまらないようだ」

 野々宮さんは返事をやめて、広田先生の方を向いたが、

「女には詩人が多いですね」と笑いながら言った。すると広田先生が、

男子の弊はかえって純粋詩人になりきれないところにあるだろう」と妙な挨拶をした。野々宮さんはそれで黙った。よし子と美禰子は何かお互いの話を始める。三四郎はようやく質問の機会を得た。

「今のは何のお話なんですか」

「なに空中飛行機の事です」と野々宮さんが無造作に言った。三四郎落語のおちを聞くような気がした。

 それからはべつだんの会話も出なかった。また長い会話ができかねるほど、人がぞろぞろ歩く所へ来た。大観音の前に乞食がいる。額を地にすりつけて、大きな声をのべつに出して、哀願をたくましゅうしている。時々顔を上げると、額のところだけが砂で白くなっている。だれも顧みるものがない。五人も平気で行き過ぎた。五、六間も来た時に、広田先生が急に振り向いて三四郎に聞いた。

「君あの乞食に銭をやりましたか

「いいえ」と三四郎があとを見ると、例の乞食は、白い額の下で両手を合わせて、相変らず大きな声を出している。

「やる気にならないわね」とよし子がすぐに言った。

「なぜ」とよし子の兄は妹を見た。たしなめるほどに強い言葉でもなかった。野々宮の顔つきはむしろ冷静である

「ああしじゅうせっついていちゃ、せっつきばえがしないからだめですよ」と美禰子が評した。

「いえ場所が悪いからだ」と今度は広田先生が言った。「あまり人通りが多すぎるからいけない。山の上の寂しい所で、ああいう男に会ったら、だれでもやる気になるんだよ」

「その代り一日待っていても、だれも通らないかもしれない」と野々宮はくすくす笑い出した。

 三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分今日まで養成した徳義上の観念を幾分か傷つけられるような気がした。けれども自分乞食の前を通る時、一銭も投げてやる了見が起こらなかったのみならず、実をいえば、むしろ不愉快な感じが募った事実反省してみると、自分よりもこれら四人のほうがかえって己に誠であると思いついた。また彼らは己に誠でありうるほどな広い天地の下に呼吸する都会人種であるということを悟った。

 行くに従って人が多くなる。しばらくすると一人の迷子出会った。七つばかりの女の子である。泣きながら、人の袖の下を右へ行ったり、左へ行ったりうろうろしている。おばあさん、おばあさんとむやみに言う。これには往来の人もみんな心を動かしているようにみえる。立ちどまる者もある。かあいそうだという者もある。しかしだれも手をつけない。子供はすべての人の注意と同情をひきつつ、しきりに泣きさけんでおばあさんを捜している。不可思議現象である

「これも場所が悪いせいじゃないか」と野々宮君が子供の影を見送りながら言った。

「いまに巡査が始末をつけるにきまっているから、みんな責任をのがれるんだね」と広田先生説明した。

わたしそばまで来れば交番まで送ってやるわ」とよし子が言う。

「じゃ、追っかけて行って、連れて行くがいい」と兄が注意した。

「追っかけるのはいや」

「なぜ」

「なぜって――こんなにおおぜいの人がいるんですもの。私にかぎったことはないわ」

「やっぱり責任をのがれるんだ」と広田が言う。

「やっぱり場所が悪いんだ」と野々宮が言う。男は二人で笑った。団子坂の上まで来ると、交番の前へ人が黒山のようにたかっている。迷子はとうとう巡査の手に渡ったのである

「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて言った。よし子は「まあよかった」という。

 坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切っ先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。そのうしろにはまた高い幟が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込むように思われる。その落ち込むものが、はい上がるものと入り乱れて、道いっぱいにふさがっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見ていると目が疲れるほど不規則うごめいている。広田先生はこの坂の上に立って、

「これはたいへんだ」と、さも帰りたそうである。四人はあとから先生を押すようにして、谷へはいった。その谷が途中からだらだらと向こうへ回り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛けの小屋を、狭い両側から高く構えたので、空さえ存外窮屈にみえる。往来は暗くなるまで込み合っている。そのなかで木戸番ができるだけ大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それほど彼らの声は尋常を離れている。

 一行は左の小屋はいった。曾我の討入がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着ている。ただし顔や手足はことごとく木彫りである。その次は雪が降っている。若い女が癪を起こしている。これも人形の心に、菊をいちめんにはわせて、花と葉が平に隙間なく衣装恰好となるように作ったものである

 よし子は余念なくながめている。広田先生と野々宮はしきりに話を始めた。菊の培養法が違うとかなんとかいうところで、三四郎は、ほかの見物に隔てられて、一間ばかり離れた。美禰子はもう三四郎より先にいる。見物は、がいして町家の者である教育のありそうな者はきわめて少ない。美禰子はその間に立って振り返った。首を延ばして、野々宮のいる方を見た。野々宮は右の手を竹の手欄から出して、菊の根をさしながら、何か熱心に説明している。美禰子はまた向こうをむいた。見物に押されて、さっさと出口の方へ行く。三四郎は群集を押し分けながら、三人を棄てて、美禰子のあとを追って行った。

 ようやくのことで、美禰子のそばまで来て、

里見さん」と呼んだ時に、美禰子は青竹の手欄に手を突いて、心持ち首をもどして、三四郎を見た。なんとも言わない。手欄のなかは養老の滝である。丸い顔の、腰に斧をさした男が、瓢箪を持って、滝壺のそばにかがんでいる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるかほとんど気がつかなかった。

「どうかしましたか」と思わず言った。美禰子はまだなんとも答えない。黒い目をさももうそうに三四郎の額の上にすえた。その時三四郎は美禰子の二重瞼に不可思議ある意味を認めた。その意味のうちには、霊の疲れがある。肉のゆるみがある。苦痛に近き訴えがある。三四郎は、美禰子の答を予期しつつある今の場合を忘れて、この眸とこの瞼の間にすべてを遺却した。すると、美禰子は言った。

「もう出ましょう」

 眸と瞼の距離が次第に近づくようにみえた。近づくに従って三四郎の心には女のために出なければすまない気がきざしてきた。それが頂点に達したころ、女は首を投げるように向こうをむいた。手を青竹の手欄から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐあとからついて出た。

 二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。周囲は人が渦を巻いている。三四郎は女の耳へ口を寄せた。

「どうかしましたか

 女は人込みの中を谷中の方へ歩きだした。三四郎もむろんいっしょに歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。

「ここはどこでしょう」

「こっちへ行くと谷中天王寺の方へ出てしまます。帰り道とはまるで反対です」

「そう。私心持ちが悪くって……」

 三四郎は往来のまん中で助けなき苦痛を感じた。立って考えていた。

「どこか静かな所はないでしょうか」と女が聞いた。

 谷中千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通っている。三四郎東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋そばである

「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。

「歩きます

 二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋こちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である

 三四郎はこの静かな秋のなかへ出たら、急にしゃべり出した。

「どうです、ぐあいは。頭痛でもしますか。あんまり人がおおぜい、いたせいでしょう。あの人形を見ている連中のうちにはずいぶん下等なのがいたようだから――なにか失礼でもしまたか

 女は黙っている。やがて川の流れから目を上げて、三四郎を見た。二重瞼にはっきりと張りがあった。三四郎はその目つきでなかば安心した。

ありがとう。だいぶよくなりました」と言う。

休みましょうか」

「ええ」

「もう少し歩けますか」

「ええ」

「歩ければ、もう少しお歩きなさい。ここはきたない。あすこまで行くと、ちょうど休むにいい場所があるから

「ええ」

 一丁ばかり来た。また橋がある。一尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大またに歩いた。女もつづいて通った。待ち合わせた三四郎の目には、女の足が常の大地を踏むと同じように軽くみえた。この女はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。

 向こうに藁屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつくところまで来て留まった。

「美しいこと」と言いながら、草の上に腰をおろした。草は小川の縁にわずかな幅をはえているのみである。それすら夏の半ばのように青くはない。美禰子は派手な着物のよごれるのをまるで苦にしていない。

「もう少し歩けませんか」と三四郎は立ちながら、促すように言ってみた。

ありがとう。これでたくさん」

「やっぱり心持ちが悪いですか」

あんまり疲れたから

 三四郎もとうとうきたない草の上にすわった。美禰子と三四郎の間は四尺ばかり離れている。二人の足の下には小さな川が流れている。秋になって水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒が一羽とまったくらいである。三四郎は水の中をながめていた。水が次第に濁ってくる。見ると川上百姓大根を洗っていた。美禰子の視線は遠くの向こうにある。向こうは広い畑で、畑の先が森で森の上が空になる。空の色がだんだん変ってくる。

 ただ単調に澄んでいたもののうちに、色が幾通りもできてきた。透き通る藍の地が消えるように次第に薄くなる。その上に白い雲が鈍く重なりかかる。重なったものが溶けて流れ出す。どこで地が尽きて、どこで雲が始まるかわからないほどにものうい上を、心持ち黄な色がふうと一面にかかっている。

「空の色が濁りました」と美禰子が言った。

anond:20241001033922

2024-09-30

https://anond.hatelabo.jp/20240930202150三四郎はすぐ床へはいった。三四郎勉強家というよりむしろ※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊家なので、わりあい書物を読まない。その代りある掬すべき情景にあうと、何べんもこれを頭の中で新たにして喜んでいる。そのほうが命に奥行があるような気がする。きょうも、いつもなら、神秘講義最中に、ぱっと電燈がつくところなどを繰り返してうれしがるはずだが、母の手紙があるので、まず、それから片づけ始めた。

 手紙には新蔵が蜂蜜をくれたから、焼酎を混ぜて、毎晩杯に一杯ずつ飲んでいるとある。新蔵は家の小作人で、毎年冬になると年貢米を二十俵ずつ持ってくる。いたって正直者だが、癇癪が強いので、時々女房を薪でなぐることがある。――三四郎は床の中で新蔵が蜂を飼い出した昔の事まで思い浮かべた。それは五年ほどまえである。裏の椎の木に蜜蜂が二、三百匹ぶら下がっていたのを見つけてすぐ籾漏斗に酒を吹きかけて、ことごとく生捕にした。それからこれを箱へ入れて、出入りのできるような穴をあけて、日当りのいい石の上に据えてやった。すると蜂がだんだんふえてくる。箱が一つでは足りなくなる。二つにする。また足りなくなる。三つにする。というふうにふやしていった結果、今ではなんでも六箱か七箱ある。そのうちの一箱を年に一度ずつ石からおろして蜂のために蜜を切り取るといっていた。毎年夏休みに帰るたびに蜜をあげましょうと言わないことはないが、ついに持ってきたためしがなかった。が、今年は物覚えが急によくなって、年来の約束を履行したものであろう。

 平太郎おやじ石塔を建てたから見にきてくれろと頼みにきたとある。行ってみると、木も草もはえていない庭の赤土のまん中に、御影石でできていたそうである。平太郎はその御影石が自慢なのだと書いてある。山から切り出すのに幾日とかかかって、それから石屋に頼んだら十円取られた。百姓や何かにはわからないが、あなたのとこの若旦那大学校はいっているくらいだから、石の善悪はきっとわかる。今度手紙のついでに聞いてみてくれ、そうして十円もかけておやじのためにこしらえてやった石塔をほめてもらってくれと言うんだそうだ。――三四郎はひとりでくすくす笑い出した。千駄木の石門よりよほど激しい。

 大学制服を着た写真をよこせとある三四郎はいつか撮ってやろうと思いながら、次へ移ると、案のごとく三輪田のお光さんが出てきた。――このあいだお光さんのおっかさんが来て、三四郎さんも近々大学卒業なさることだが、卒業したら家の娘をもらってくれまいかという相談であった。お光さんは器量もよし気質も優しいし、家に田地もだいぶあるし、その上家と家との今までの関係もあることだから、そうしたら双方ともつごうがよいだろうと書いて、そのあとへ但し書がつけてある。――お光さんもうれしがるだろう。――東京の者は気心が知れないから私はいやじゃ。

 三四郎手紙を巻き返して、封に入れて、枕元へ置いたまま目を眠った。鼠が急に天井であばれだしたが、やがて静まった。

 三四郎には三つの世界ができた。一つは遠くにある。与次郎のいわゆる明治十五年以前の香がする。すべてが平穏である代りにすべてが寝ぼけている。もっとも帰るに世話はいらない。もどろうとすれば、すぐにもどれる。ただいざとならない以上はもどる気がしない。いわば立退場のようなものである三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さえここに葬ったかと思うと、急にもったいなくなる。そこで手紙が来た時だけは、しばらくこの世界に※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊して旧歓をあたためる。

 第二の世界のうちには、苔のはえ煉瓦造りがある。片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。梯子をかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手ずれ、指の垢で、黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もった塵がある。この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊いである。静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である

 第二の世界に動く人の影を見ると、たいてい不精な髭をはやしている。ある者は空を見て歩いている。ある者は俯向いて歩いている。服装は必ずきたない。生計はきっと貧乏である。そうして晏如としている。電車に取り巻かれながら、太平空気を、通天に呼吸してはばからない。このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、火宅をのがれるからいである。広田先生はこの内にいる。野々宮君もこの内にいる。三四郎はこの内の空気をほぼ解しえた所にいる。出れば出られる。しかしせっかく解しかけた趣味を思いきって捨てるのも残念だ。

 第三の世界はさんとして春のごとくうごいている。電燈がある。銀匙がある。歓声がある。笑語がある。泡立つシャンパンの杯がある。そうしてすべての上の冠として美しい女性がある。三四郎はその女性の一人に口をきいた。一人を二へん見た。この世界三四郎にとって最も深厚な世界である。この世界は鼻の先にある。ただ近づき難い。近づき難い点において、天外の稲妻一般である三四郎は遠くからこの世界をながめて、不思議に思う。自分がこの世界のどこかへはいらなければ、その世界のどこかに欠陥ができるような気がする。自分はこの世界のどこかの主人公であるべき資格を有しているらしい。それにもかかわらず、円満の発達をこいねがうべきはずのこの世界がかえってみずからを束縛して、自分自由に出入すべき通路をふさいでいる。三四郎にはこれが不思議であった。

 三四郎は床のなかで、この三つの世界を並べて、互いに比較してみた。次にこの三つの世界をかき混ぜて、そのなかからつの結果を得た。――要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問にゆだねるにこしたことはない。

 結果はすこぶる平凡である。けれどもこの結果に到着するまえにいろいろ考えたのだから思索の労力を打算して、結論価値上下やす思索自身からみると、それほど平凡ではなかった。

 ただこうすると広い第三の世界を眇たる一個の細君で代表させることになる。美しい女性はたくさんある。美しい女性翻訳するといろいろになる。――三四郎広田先生にならって、翻訳という字を使ってみた。――いやしくも人格上の言葉翻訳のできるかぎりは、その翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己個性を全からしむるために、なるべく多くの美しい女性接触しなければならない。細君一人を知って甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にするようなものである

 三四郎論理をここまで延長してみて、少し広田さんにかぶれたなと思った。実際のところは、これほど痛切に不足を感じていなかったかである

 翌日学校へ出ると講義は例によってつまらないが、室内の空気は依然として俗を離れているので、午後三時までのあいだに、すっかり第二の世界の人となりおおせて、さも偉人のような態度をもって、追分交番の前まで来ると、ばったり与次郎出会った。

「アハハハ。アハハハ

 偉人の態度はこれがためにまったくくずれた。交番巡査さえ薄笑いをしている。

「なんだ」

「なんだもないものだ。もう少し普通人間らしく歩くがいい。まるでロマンチックアイロニーだ」

 三四郎にはこの洋語意味がよくわからなかった。しかたがないから、

「家はあったか」と聞いた。

「その事で今君の所へ行ったんだ――あすいよいよ引っ越す。手伝いに来てくれ」

「どこへ越す」

西片町十番地への三号。九時までに向こうへ行って掃除をしてね。待っててくれ。あとから行くから。いいか、九時までだぜ。への三号だよ。失敬」

 与次郎は急いで行き過ぎた。三四郎も急いで下宿へ帰った。その晩取って返して、図書館ロマンチックアイロニーという句を調べてみたら、ドイツのシュレーゲルが唱えだした言葉で、なんでも天才というものは、目的努力もなく、終日ぶらぶらぶらついていなくってはだめだという説だと書いてあった。三四郎はようやく安心して、下宿へ帰って、すぐ寝た。

 あくる日は約束から天長節にもかかわらず、例刻に起きて、学校へ行くつもりで西片町十番地へはいって、への三号を調べてみると、妙に細い通りの中ほどにある。古い家だ。

 玄関の代りに西洋間が一つ突き出していて、それと鉤の手に座敷がある。座敷のうしろ茶の間で、茶の間の向こうが勝手下女部屋と順に並んでいる。ほかに二階がある。ただし何畳だかわからない。

 三四郎掃除を頼まれたのだが、べつに掃除をする必要もないと認めた。むろんきれいじゃない。しかし何といって、取って捨てべきものも見当らない。しいて捨てれば畳建具ぐらいなものだと考えながら、雨戸だけをあけて、座敷の椽側へ腰をかけて庭をながめていた。

 大きな百日紅がある。しかしこれは根が隣にあるので、幹の半分以上が横に杉垣から、こっちの領分おかしているだけである。大きな桜がある。これはたしかに垣根の中にはえている。その代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話妨害になる。菊が一株ある。けれども寒菊とみえて、いっこう咲いていない。このほかにはなんにもない。気の毒なような庭である。ただ土だけは平らで、肌理が細かではなはだ美しい。三四郎は土を見ていた。じっさい土を見るようにできた庭である

 そのうち高等学校天長節の式の始まるベルが鳴りだした。三四郎ベルを聞きながら九時がきたんだろうと考えた。何もしないでいても悪いから、桜の枯葉でも掃こうかしらんとようやく気がついた時、また箒がないということを考えだした。また椽側へ腰をかけた。かけて二分もしたかと思うと、庭木戸がすうとあいた。そうして思いもよらぬ池の女が庭の中にあらわれた。

 二方は生垣で仕切ってある。四角な庭は十坪に足りない。三四郎はこの狭い囲いの中に立った池の女を見るやいなや、たちまち悟った。――花は必ず剪って、瓶裏にながむべきものである

 この時三四郎の腰は椽側を離れた。女は折戸を離れた。

「失礼でございますが……」

 女はこの句を冒頭に置いて会釈した。腰から上を例のとおり前へ浮かしたが、顔はけっして下げない。会釈しながら、三四郎を見つめている。女の咽喉が正面から見ると長く延びた。同時にその目が三四郎の眸に映った。

 二、三日まえ三四郎美学教師からグルーズの絵を見せてもらった。その時美学教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。何か訴えている。艶なるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものに堪えうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきであるしかもこの女にグルーズの絵と似たところは一つもない。目はグルーズのより半分も小さい。

広田さんのお移転になるのは、こちらでございましょうか」

「はあ、ここです」

 女の声と調子に比べると、三四郎の答はすこぶるぶっきらぼうである三四郎も気がついている。けれどもほかに言いようがなかった。

「まだお移りにならないんでございますか」女の言葉ははっきりしている。普通のようにあとを濁さない。

「まだ来ません。もう来るでしょう」

 女はしばしためらった。手に大きな籃をさげている。女の着物は例によって、わからない。ただいつものように光らないだけが目についた。地がなんだかぶつぶつしている。それに縞だか模様だかある。その模様がいかにもでたらめである

 上から桜の葉が時々落ちてくる。その一つが籃の蓋の上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれていった。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。

あなたは……」

 風が隣へ越した時分、女が三四郎に聞いた。

掃除に頼まれて来たのです」と言ったが、現に腰をかけてぽかんとしていたところを見られたのだから三四郎自分おかしくなった。すると女も笑いながら、

「じゃ私も少しお待ち申しましょうか」と言った。その言い方が三四郎に許諾を求めるように聞こえたので、三四郎は大いに愉快であった。そこで「ああ」と答えた。三四郎の了見では、「ああ、お待ちなさい」を略したつもりである。女はそれでもまだ立っている。三四郎はしかたがないから、

あなたは……」と向こうで聞いたようなことをこっちからも聞いた。すると、女は籃を椽の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺を出して、三四郎にくれた。

 名刺には里見美禰子とあった。本郷真砂町から谷を越すとすぐ向こうである三四郎がこの名刺をながめているあいだに、女は椽に腰をおろした。

あなたにはお目にかかりましたな」と名刺を袂へ入れた三四郎が顔をあげた。

「はあ。いつか病院で……」と言って女もこっちを向いた。

「まだある」

それから池の端で……」と女はすぐ言った。よく覚えている。三四郎はそれで言う事がなくなった。女は最後に、

「どうも失礼いたしました」と句切りをつけたので、三四郎は、

「いいえ」と答えた。すこぶる簡潔である。二人は桜の枝を見ていた。梢に虫の食ったような葉がわずかばかり残っている。引っ越し荷物はなかなかやってこない。

「なにか先生に御用なんですか」

 三四郎は突然こう聞いた。高い桜の枯枝を余念なくながめていた女は、急に三四郎の方を振りむく。あらびっくりした、ひどいわ、という顔つきであった。しかし答は尋常である

「私もお手伝いに頼まれました」

 三四郎はこの時はじめて気がついて見ると、女の腰をかけている椽に砂がいっぱいたまっている。

「砂でたいへんだ。着物がよごれます

「ええ」と左右をながめたぎりである。腰を上げない。しばらく椽を見回した目を、三四郎に移すやいなや、

掃除はもうなすったんですか」と聞いた。笑っている。三四郎はその笑いのなかに慣れやすいあるものを認めた。

「まだやらんです」

「お手伝いをして、いっしょに始めましょうか」

 三四郎はすぐに立った。女は動かない。腰をかけたまま、箒やはたきのありかを聞く。三四郎は、ただてぶらで来たのだから、どこにもない、なんなら通りへ行って買ってこようかと聞くと、それはむだだから、隣で借りるほうがよかろうと言う。三四郎はすぐ隣へ行った。さっそく箒とはたきと、それからバケツ雑巾まで借りて急いで帰ってくると、女は依然としてもとの所へ腰をかけて、高い桜の枝をながめていた。

「あって……」と一口言っただけである

 三四郎は箒を肩へかついで、バケツを右の手へぶら下げて「ええありました」とあたりまえのことを答えた。

 女は白足袋のまま砂だらけの椽側へ上がった。歩くと細い足のあとができる。袂から白い前だれを出して帯の上から締めた。その前だれの縁がレースのようにかがってある。掃除をするにはもったいないほどきれいなである。女は箒を取った。

「いったんはき出しましょう」と言いながら、袖の裏から右の手を出して、ぶらつく袂を肩の上へかついだ。きれいな手が二の腕まで出た。かついだ袂の端からは美しい襦袢の袖が見える。茫然として立っていた三四郎は、突然バケツを鳴らして勝手口へ回った。

 美禰子が掃くあとを、三四郎雑巾をかける。三四郎が畳をたたくあいだに、美禰子が障子をはたく。どうかこうか掃除がひととおり済んだ時は二人ともだいぶ親しくなった。

 三四郎バケツの水を取り換えに台所へ行ったあとで、美禰子がはたきと箒を持って二階へ上がった。

ちょっと来てください」と上から三四郎を呼ぶ。

「なんですか」とバケツをさげた三四郎梯子段の下から言う。女は暗い所に立っている。前だれだけがまっ白だ。三四郎バケツをさげたまま二、三段上がった。女はじっとしている。三四郎はまた二段上がった。薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺ばかりの距離に来た。

「なんですか」

「なんだか暗くってわからないの」

「なぜ」

「なぜでも」

 三四郎は追窮する気がなくなった。美禰子のそばをすり抜けて上へ出た。バケツを暗い椽側へ置いて戸をあける。なるほど桟のぐあいがよくわからない。そのうち美禰子も上がってきた。

「まだあからなくって」

 美禰子は反対の側へ行った。

「こっちです」

 三四郎は黙って、美禰子の方へ近寄った。もう少しで美禰子の手に自分の手が触れる所で、バケツに蹴つまずいた。大きな音がする。ようやくのことで戸を一枚あけると、強い日がまともにさし込んだ。まぼしいくらいである。二人は顔を見合わせて思わず笑い出した。

 裏の窓もあける。窓には竹の格子がついている。家主の庭が見える。鶏を飼っている。美禰子は例のごとく掃き出した。三四郎は四つ這いになって、あとから拭き出した。美禰子は箒を両手で持ったまま、三四郎の姿を見て、

「まあ」と言った。

 やがて、箒を畳の上へなげ出して、裏の窓の所へ行って、立ったまま外面をながめている。そのうち三四郎も拭き終った。ぬれ雑巾バケツの中へぼちゃんとたたきこんで、美禰子のそばへ来て並んだ。

「何を見ているんです」

「あててごらんなさい」

「鶏ですか」

「いいえ」

「あの大きな木ですか」

「いいえ」

「じゃ何を見ているんです。ぼくにはわからない」

「私さっきからあの白い雲を見ておりますの」

 なるほど白い雲が大きな空を渡っている。空はかぎりなく晴れて、どこまでも青く澄んでいる上を、綿の光ったような濃い雲がしきりに飛んで行く。風の力が激しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い地がすいて見えるほどに薄くなる。あるいは吹き散らされながら、塊まって、白く柔かな針を集めたように、ささくれだつ。美禰子はそのかたまりを指さして言った。

駝鳥の襟巻に似ているでしょう」

 三四郎ボーアという言葉を知らなかった。それで知らないと言った。美禰子はまた、

「まあ」と言ったが、すぐ丁寧にボーア説明してくれた。その時三四郎は、

「うん、あれなら知っとる」と言った。そうして、あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあのくらいに動く以上は、颶風以上の速度でなくてはならないと、このあいだ野々宮さんから聞いたとおりを教えた。美禰子は、

「あらそう」と言いながら三四郎を見たが、

「雪じゃつまらないわね」と否定を許さぬような調子であった。

「なぜです」

「なぜでも、雲は雲でなくっちゃいけないわ。こうして遠くからながめているかいがないじゃありませんか」

「そうですか」

「そうですかって、あなたは雪でもかまわなくって」

あなたは高い所を見るのが好きのようですな」

「ええ」

 美禰子は竹の格子の中から、まだ空をながめている。白い雲はあとから、あとから、飛んで来る。

 ところへ遠くから荷車の音が聞こえる。今静かな横町を曲がって、こっちへ近づいて来るのが地響きでよくわかる。三四郎は「来た」と言った。美禰子は「早いのね」と言ったままじっとしている。車の音の動くのが、白い雲の動くのに関係でもあるように耳をすましている。車はおちついた秋の中を容赦なく近づいて来る。やがて門の前へ来てとまった。

 三四郎は美禰子を捨てて二階を駆け降りた。三四郎玄関へ出るのと、与次郎が門をはいるのとが同時同刻であった。

「早いな」と与次郎がまず声をかけた。

「おそいな」と三四郎が答えた。美禰子とは反対である

「おそいって、荷物を一度に出したんだからしかたがない。それにぼく一人だから。あとは下女車屋ばかりでどうすることもできない」

先生は」

先生学校

 二人が話を始めているうちに、車屋荷物おろし始めた。下女はいって来た。台所の方を下女車屋に頼んで、与次郎三四郎書物西洋間へ入れる。書物がたくさんある。並べるのは一仕事だ。

里見お嬢さんは、まだ来ていないか

「来ている」

「どこに」

「二階にいる」

「二階に何をしている」

「何をしているか、二階にいる」

冗談じゃない」

 与次郎は本を一冊持ったまま、廊下伝いに梯子段の下まで行って、例のとおりの声で、

里見さん、里見さん。書物をかたづけるからちょっと手伝ってください」と言う。

「ただ今参ります

 箒とはたきを持って、美禰子は静かに降りて来た。

「何をしていたんです」と下から与次郎がせきたてるように聞く。

「二階のお掃除」と上から返事があった。

 降りるのを待ちかねて、与次郎は美禰子を西洋間の戸口の所へ連れて来た。車力のおろし書物がいっぱい積んである三四郎がその中へ、向こうむきにしゃがんで、しきりに何か読み始めている。

「まあたいへんね。これをどうするの」と美禰子が言った時、三四郎はしゃがみながら振り返った。にやにや笑っている。

「たいへんもなにもありゃしない。これを部屋の中へ入れて、片づけるんです。いまに先生も帰って来て手伝うはずだからわけはない。――君、しゃがんで本なんぞ読みだしちゃ困る。あとで借りていってゆっくり読むがいい」と与次郎が小言を言う。

 美禰子と三四郎が戸口で本をそろえると、それを与次郎が受け取って部屋の中の書棚へ並べるという役割ができた。

「そう乱暴に、出しちゃ困る。まだこの続きが一冊あるはずだ」と与次郎が青い平たい本を振り

 三四郎はじっとその横顔をながめていたが、突然コップにある葡萄酒を飲み干して、表へ飛び出した。そうして図書館に帰った。  その日は葡萄酒の景気と、一種精神作用とで、例になくおもしろ勉強ができたので、三四郎は大いにうれしく思った。二時間ほど読書三昧に入ったのち、ようやく気がついて、そろそろ帰るしたくをしながら、いっしょに借りた書物のうち、まだあけてみなかった最後の一冊を何気なく引っぺがしてみると、本の見返しのあいた所に、乱暴にも、鉛筆でいっぱい何か書いてある。 「ヘーゲルベルリン大学哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化一致せる時、その説くところ、言うところは、講義のための講義にあらずして、道のための講義となる。哲学講義はここに至ってはじめて聞くべし。いたずらに真を舌頭に転ずるものは、死したる墨をもって、死したる紙の上に、むなしき筆記を残すにすぎず。なんの意義かこれあらん。……余今試験のため、すなわちパンのために、恨みをのみ涙をのんでこの書を読む。岑々たる頭をおさえて未来永劫に試験制度呪詛することを記憶せよ」  とある署名はむろんない。三四郎は覚えず微笑した。けれどもどこか啓発されたような気がした。哲学ばかりじゃない、文学もこのとおりだろうと考えながら、ページをはぐると、まだある。「ヘーゲルの……」よほどヘーゲルの好きな男とみえる。 「ヘーゲル講義を聞かんとして、四方よりベルリンに集まれ学生は、この講義を衣食の資に利用せんとの野心をもって集まれるにあらず。ただ哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝うると聞いて、向上求道の念に切なるがため、壇下に、わが不穏底の疑義解釈せんと欲したる清浄心の発現にほかならず。このゆえに彼らはヘーゲルを聞いて、彼らの未来を決定しえたり。自己運命を改造しえたり。のっぺらぼうに講義を聞いて、のっぺらぼうに卒業し去る公ら日本大学生と同じ事と思うは、天下の己惚れなり。公らはタイプライターにすぎず。しかも欲張ったるタイプライターなり。公らのなすところ、思うところ、言うところ、ついに切実なる社会の活気運に関せず。死に至るまでのっぺらぼうなるかな。死に至るまでのっぺらぼうなるかな」  と、のっぺらぼうを二へん繰り返している。三四郎は黙然として考え込んでいた。すると、うしろからちょいと肩をたたいた者がある。例の与次郎であった。与次郎図書館で見かけるのは珍しい。彼は講義はだめだが、図書館は大切だと主張する男である。けれども主張どおりにはいることも少ない男である。 「おい、野々宮宗八さんが、君を捜していた」と言う。与次郎が野々宮君を知ろうとは思いがけなかったから、念のため理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんという答を得た。さっそく本を置いて入口新聞を閲覧する所まで出て行ったが、野々宮君がいない。玄関まで出てみたがやっぱりいない。石段を降りて、首を延ばしてその辺を見回したが影も形も見えない。やむを得ず引き返した。もとの席へ来てみると、与次郎が、例のヘーゲル論をさして、小さな声で、 「だいぶ振ってる。昔の卒業生に違いない。昔のやつは乱暴だが、どこかおもしろいところがある。実際このとおりだ」とにやにやしている。だいぶ気に入ったらしい。三四郎は 「野々宮さんはおらんぜ」と言う。 「さっき入口にいたがな」 「何か用があるようだったか」 「あるようでもあった」  二人はいっしょに図書館を出た。その時与次郎が話した。――野々宮君は自分の寄寓している広田先生の、もとの弟子でよく来る。たいへんな学問好きで、研究もだいぶある。その道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知っている。  三四郎はまた、野々宮君の先生で、昔正門内で馬に苦しめられた人の話を思い出して、あるいはそれが広田先生ではなかろうかと考えだした。与次郎にその事を話すと、与次郎は、ことによると、うちの先生だ、そんなことをやりかねない人だと言って笑っていた。  その翌日はちょうど日曜なので、学校では野々宮君に会うわけにゆかない。しかしきのう自分を捜していたことが気がかりになる。さいわいまだ新宅を訪問したことがないから、こっちから行って用事を聞いてきようという気になった。  思い立ったのは朝であったが、新聞を読んでぐずぐずしているうちに昼になる。昼飯を食べたから、出かけようとすると、久しぶりに熊本出の友人が来る。ようやくそれを帰したのはかれこれ四時過ぎである。ちとおそくなったが、予定のとおり出た。  野々宮の家はすこぶる遠い。四、五日前大久保へ越した。しか電車を利用すれば、すぐに行かれる。なんでも停車場の近辺と聞いているから、捜すに不便はない。実をいうと三四郎はかの平野家行き以来とんだ失敗をしている。神田高等商業学校へ行くつもりで、本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して九段まで来て、ついでに飯田橋まで持ってゆかれて、そこでようやく外濠線へ乗り換えて、御茶の水から神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸数寄屋橋の方へ向いて急いで行ったことがある。それより以来電車はとかくぶっそうな感じがしてならないのだが、甲武線は一筋だと、かねて聞いているか安心して乗った。  大久保停車場を降りて、仲百人の通りを戸山学校の方へ行かずに、踏切からすぐ横へ折れると、ほとんど三尺ばかりの細い道になる。それを爪先上がりにだらだらと上がると、まばらな孟宗藪がある。その藪の手前と先に一軒ずつ人が住んでいる。野々宮の家はその手前の分であった。小さな門が道の向きにまるで関係のないような位置に筋かいに立っていた。はいると、家がまた見当違いの所にあった。門も入口もまったくあとからつけたものらしい。  台所のわきにりっぱな生垣があって、庭の方にはかえって仕切りもなんにもない。ただ大きな萩が人の背より高く延びて、座敷の椽側を少し隠しているばかりである。野々宮君はこの椽側に椅子を持ち出して、それへ腰を掛けて西洋雑誌を読んでいた。三四郎はいって来たのを見て、 「こっちへ」と言った。まるで理科大学の穴倉の中と同じ挨拶である。庭からはいるべきのか、玄関から回るべきのか、三四郎は少しく躊躇していた。するとまた 「こっちへ」と催促するので、思い切って庭から上がることにした。座敷はすなわち書斎で、広さは八畳で、わりあい西洋書物がたくさんある。野々宮君は椅子を離れてすわった。三四郎は閑静な所だとか、わりあいに御茶の水まで早く出られるとか、望遠鏡試験はどうなりましたとか、――締まりのない当座の話をやったあと、 「きのう私を捜しておいでだったそうですが、何か御用ですか」と聞いた。すると野々宮君は、少し気の毒そうな顔をして、 「なにじつはなんでもないですよ」と言った。三四郎はただ「はあ」と言った。 「それでわざわざ来てくれたんですか」 「なに、そういうわけでもありません」 「じつはお国のおっかさんがね、せがれがいろいろお世話になるからと言って、結構ものを送ってくださったから、ちょっとあなたにもお礼を言おうと思って……」 「はあ、そうですか。何か送ってきましたか」 「ええ赤い魚の粕漬なんですがね」 「じゃひめいちでしょう」  三四郎はつまらものを送ったものだと思った。しかし野々宮君はかのひめいちについていろいろな事を質問した。三四郎特に食う時の心得を説明した。粕ごと焼いて、いざ皿へうつすという時に、粕を取らないと味が抜けると言って教えてやった。  二人がひめいちについて問答をしているうちに、日が暮れた。三四郎はもう帰ろうと思って挨拶しかけるところへ、どこから電報が来た。野々宮君は封を切って、電報を読んだが、口のうちで、「困ったな」と言った。  三四郎はすましているわけにもゆかず、といってむやみに立ち入った事を聞く気にもならなかったので、ただ、 「何かできましたか」と棒のように聞いた。すると野々宮君は、 「なにたいしたことでもないのです」と言って、手に持った電報を、三四郎に見せてくれた。すぐ来てくれとある。 「どこかへおいでになるのですか」 「ええ、妹がこのあいから病気をして、大学病院はいっているんですが、そいつがすぐ来てくれと言うんです」といっこう騒ぐ気色もない。三四郎のほうはかえって驚いた。野々宮君の妹と、妹の病気と、大学病院をいっしょにまとめて、それに池の周囲で会った女を加えて、それを一どきにかき回して、驚いている。 「じゃ、よほどお悪いんですな」 「なにそうじゃないんでしょう。じつは母が看病に行ってるんですが、――もし病気のためなら、電車へ乗って駆けて来たほうが早いわけですからね。――なに妹のいたずらでしょう。ばかだから、よくこんなまねをします。ここへ越してからまだ一ぺんも行かないものから、きょうの日曜には来ると思って待ってでもいたのでしょう、それで」と言って首を横に曲げて考えた。 「しかしおいでになったほうがいいでしょう。もし悪いといけません」 「さよう。四、五日行かないうちにそう急に変るわけもなさそうですが、まあ行ってみるか」 「おいでになるにしくはないでしょう」  野々宮は行くことにした。行くときめたについては、三四郎に頼みがあると言いだした。万一病気のための電報とすると、今夜は帰れない。すると留守が下女一人になる。下女が非常に臆病で、近所がことのほかぶっそうである。来合わせたのがちょうど幸いだから、あすの課業にさしつかえがなければ泊ってくれまいかもっともただの電報ならばすぐ帰ってくる。まえからわかっていれば、例の佐々木でも頼むはずだったが、今からではとても間に合わない。たった一晩のことではあるし、病院へ泊るか、泊らないか、まだわからないさきから関係もない人に、迷惑をかけるのはわがまますぎて、しいてとは言いかねるが、――むろん野々宮はこう流暢には頼まなかったが、相手三四郎が、そう流暢に頼まれ必要のない男だから、すぐ承知してしまった。  下女御飯はというのを、「食わない」と言ったまま、三四郎に「失敬だが、君一人で、あとで食ってください」と夕飯まで置き去りにして、出ていった。行ったと思ったら暗い萩の間から大きな声を出して、 「ぼくの書斎にある本はなんでも読んでいいです。別におもしろものもないが、何か御覧なさい。小説も少しはある」  と言ったまま消えてなくなった。椽側まで見送って三四郎が礼を述べた時は、三坪ほどな孟宗藪の竹が、まばらなだけに一本ずつまだ見えた。  まもなく三四郎は八畳敷の書斎のまん中で小さい膳を控えて、晩飯を食った。膳の上を見ると、主人の言葉にたがわず、かのひめいちがついている。久しぶりで故郷の香をかいだようでうれしかったが、飯はそのわりにうまくなかった。お給仕に出た下女の顔を見ると、これも主人の言ったとおり、臆病にできた目鼻であった。  飯が済むと下女台所へ下がる。三四郎は一人になる。一人になっておちつくと、野々宮君の妹の事が急に心配になってきた。危篤なような気がする。野々宮君の駆けつけ方がおそいような気がする。そうして妹がこのあいだ見た女のような気がしてたまらない。三四郎はもう一ぺん、女の顔つきと目つきと、服装とを、あの時あのままに、繰り返して、それを病院の寝台の上に乗せて、そのそばに野々宮君を立たして、二、三の会話をさせたが、兄ではもの足らないので、いつのまにか、自分代理になって、いろいろ親切に介抱していた。ところへ汽車がごうと鳴って孟宗藪のすぐ下を通った。根太のぐあいか、土質のせいか座敷が少し震えるようである。  三四郎は看病をやめて、座敷を見回した。いかさま古い建物と思われて、柱に寂がある。その代り唐紙の立てつけが悪い。天井はまっ黒だ。ランプばかりが当世に光っている。野々宮君のような新式の学者が、もの好きにこんな家を借りて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格であるもの好きならば当人随意だが、もし必要にせまられて、郊外にみずからを放逐したとすると、はなはだ気の毒である。聞くところによると、あれだけの学者で、月にたった五十五円しか大学からもらっていないそうだ。だからやむをえず私立学校へ教えにゆくのだろう。それで妹に入院されてはたまるまい。大久保へ越したのも、あるいはそんな経済上のつごうかもしれない。……  宵の口ではあるが、場所場所だけにしんとしている。庭の先で虫の音がする。ひとりですわっていると、さみしい秋の初めである。その時遠い所でだれか、 「ああああ、もう少しの間だ」  と言う声がした。方角は家の裏手のようにも思えるが、遠いのでしっかりとはわからなかった。また方角を聞き分ける暇もないうちに済んでしまった。けれども三四郎の耳には明らかにこの一句が、すべてに捨てられた人の、すべてから返事を予期しない、真実独白と聞こえた。三四郎は気味が悪くなった。ところへまた汽車が遠くから響いて来た。その音が次第に近づいて孟宗藪の下を通る時には、前の列車よりも倍も高い音を立てて過ぎ去った。座敷の微震がやむまでは茫然としていた三四郎は、石火のごとく、さっきの嘆声と今の列車の響きとを、一種因果で結びつけた。そうして、ぎくんと飛び上がった。その因果は恐るべきものである。  三四郎はこの時じっと座に着いていることのきわめて困難なのを発見した。背筋から足の裏までが疑惧の刺激でむずむずする。立って便所に行った。窓から外をのぞくと、一面の星月夜で、土手下の汽車道は死んだように静かである。それでも竹格子のあいから鼻を出すくらいにして、暗い所をながめていた。  すると停車場の方から提灯をつけた男がレールの上を伝ってこっちへ来る。話し声で判じると三、四人らしい。提灯の影は踏切から土手下へ隠れて、孟宗藪の下を通る時は、話し声だけになった。けれども、その言葉は手に取るように聞こえた。 「もう少し先だ」  足音は向こうへ遠のいて行く。三四郎は庭先へ回って下駄を突っ掛けたまま孟宗藪の所から、一間余の土手を這い降りて、提灯のあとを追っかけて行った。  五、六間行くか行かないうちに、また一人土手から飛び降りた者がある。―― 「轢死じゃないですか」  三四郎は何か答えようとしたが、ちょっと声が出なかった。そのうち黒い男は行き過ぎた。これは野々宮君の奥に住んでいる家の主人だろうと、後をつけながら考えた。半町ほどくると提灯が留まっている。人も留まっている。人は灯をかざしたまま黙っている。三四郎は無言で灯の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上までみごとに引きちぎって、斜掛けの胴を置き去りにして行ったのである。顔は無傷である若い女だ。  三四郎はその時の心持ちをいまだに覚えている。すぐ帰ろうとして、踵をめぐらしかけたが、足がすくんでほとんど動けなかった。土手を這い上がって、座敷へもどったら、動悸が打ち出した。水をもらおうと思って、下女を呼ぶと、下女はさいわいになんにも知らないらしい。しばらくすると、奥の家で、なんだか騒ぎ出した。三四郎は主人が帰ったんだなと覚った。やがて土手の下ががやがやする。それが済むとまた静かになる。ほとんど堪え難いほどの静かさであった。  三四郎の目の前には、ありありとさっきの女の顔が見える。その顔と「ああああ……」と言った力のない声と、その二つの奥に潜んでおるべきはずの無残な運命とを、継ぎ合わして考えてみると、人生という丈夫そうな命の根が、知らぬまに、ゆるんで、いつでも暗闇へ浮き出してゆきそうに思われる。三四郎は欲も得もいらないほどこわかった。ただごうという一瞬間である。そのまえまではたしかに生きていたに違いない。

anond:20240930173941

2024-09-29

何も言わないやさしさ

先日の三連休彼女から旅行に誘われた

俺の転勤に伴い、半年から遠距離恋愛で、会うのは月一ぐらい。

そんな折、三連休から彼女から温泉旅行に誘われた。

いいね、行こうと俺は返事をしたものの内心焦りがあった。

彼女とはここ数カ月セックスをしていなかった。

月一で会う際、彼女の方から何となくそうした雰囲気に持っていこうとしているなと感じることはあった。

でもその度、俺はやんわりと否定した。もちろん言葉にはせず、すぐに眠ってしまうような感じで。

理由自分が今EDからで、そのことを彼女には話していない。

EDとなった原因は梅毒を移されたからで、それが原因となってそれ以降、勃たなくなってしまったのだ。

そして、”移された”とは何を意味するのか。彼女はすぐに理解するだろう。

彼女のことを傷つけたくはない。その一心で、俺はこのことを墓の中まで持っていくつもりだ。

から今は、完治したとはいえ性交渉が恐かった。そして温泉に誘われるということは、そういうことだろうと理解はしていた。

それでも俺は今でも彼女のことが大好きで、誘いを断ることは出来なかった。

その日は合流して、LINE通話で話すだけでは語りきれなかった話が積りに積もり、途中カフェによってお昼を食べてゆっくりたっぷりと話をした。

彼女は相変わらず美しかった。楽しそうで、俺も楽しかった。

何とかなるだろうという、そういった楽観視があったのだと思う。

そのあと予約した宿に向かい、美味しいご飯を食べて、温泉も最高だった。

問題は夜。布団を並べて横になり、明かりを消した。

俺はすぐに寝たふりをした。疲れていたんだろうと思われるように。

どれぐらい経ってからだろうか。バサッと布団の捲れる音が聞こえ、彼女が起き上がったのが分かった。

ねぇまだ起きてる?と俺に声をかけてきた。俺は無視して寝たふりを続けた。

彼女が近づいて来る気配を感じた。

彼女鼻息が俺の顔に当たった。生暖かい鼻息

彼女は俺に口づけをした。優しいキスで、唇と唇が触れ合う程度の、中学生がするようなキス

俺の反応を伺うように彼女は俺の眼前で微動だにせず、それでも俺は目を瞑り続けた。

諦めたようにゆっくりと、彼女の気配が目の前から薄れ始めた。

ギシッ、ギシッ、と畳を踏む音が静かに響き、彼女が移動しているのが分かった。

俺の布団が少し捲られた。俺の足首に彼女の手が触れた。

彼女は徐々に手を上げていき、足首から脹脛、太ももと手を上へと移動させていく。

やがて陰茎に辿り着くと彼女はそこで手を止め、浴衣の中に手を滑り込ませてくる。

彼女は俺の陰茎を触り、撫で、それからゆっくりとしごくように上下に動かしていく。

俺は寝たふりを続けた。

それでも微かに、少しずつ、元気になっていくのが分かった。

しか復調の兆しは途絶え、半立ち以上にはならなかった。

彼女不思議そうに何度か手を止め、そして再度しごくように手を動かすが俺の物はそれ以上微動だにしなかった。

突然、ぬめり気を感じると彼女が口に咥えたことが分かった。

彼女は俺の布団に顔を潜り込ませ、口の中で俺のものを激しく弄ったが、それでも結果は変わらなかった。

どれぐらいの時間が経ったのかは分からない。俺は終始目を瞑り、時間確認することは出来なかったのだから

暫くして彼女は諦めたように俺の元から離れ、ギシッ、ギシッと音を聞かせて自分の布団に戻ると、それ以降は絡んでくることはなかった。

俺は未だ寝たふりを続け、結局朝方になるまで眠れなかった。

翌日、彼女は昨夜の事には全く触れず、まるで何事もなかったように振舞った。

結局、俺たちはセックスをしなかった。

チェックアウト前に露天風呂を堪能しようと朝風呂に入り、部屋に戻ると俺の鞄が開いていた。

部屋に戻ってきた俺を見て、ゴム、持ってこなかったんだね。と彼女が呟くように言った。

そしてそれ以上、なにも言ってこなかった。

俺は今でも彼女のあのとき言葉意味を考える度、なんとも言えない気分になる。

最近友達がまた結婚したんだよね、と彼女が帰りの車の中で会話の脈略を無視して呟いた。

俺は何も答えず、ご飯すごく美味しかったね!と続ける彼女同意し、微笑んだ。

彼女は敢えて言葉にすることはない。昔から、やさしい性格なのだ

彼女の期待に、今は厳しいけれど、いつかその期待に応えてあげたい。

俺は本心から、そう思っている。

anond:20240928235502

たまにいるいるそーゆー女性

控えめにゆって〇ミ〇ズ

ネタだろうから辛辣に書いちゃった

2024-09-28

2024-09-27

風呂にゆっくりつかりながらじゃんたまで半チャン1ダースやる

ふわふわ

2024-09-26

anond:20240926130820

・単調にガシガシやるのではなく、始めはじらすようにゆっくり浅くを長めに、浅い/深い、ゆっくり/速くのメリハリをつけつつ、徐々に激しく

・穴に対してまっすぐ挿入ではなく、あおむけ状態なら腹側から斜め下に向かって挿入

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