はてなキーワード: 自由主義とは
雪組だけに?
これ一幕ものでよかった、と思う。
雪原?ロシア?ロシア。ナポレオンが敗北したロシア。でもサクサク動いてみんなを助けて、いい人なんだなあナポレオンさん。
ここは少し気持ちがダレた。もうちょっと演者側でやりようがあったように感じる。ワンスのマックスやこのナポレオン、月城かなと氏だったらどう演じたかなと考える。city hunterは楽しみにしている。
ベートーヴェン「おれたちは何のために生きてるんだ」
ナポレオン「苦しむためだ」「苦しむためじゃなかったら、おまえは何のために生きてきた」
「人間はあらゆるものを発明することができる。ただ幸福になる術を除いては」不可能あるやん、ていう。
出生名
ナポレオン「そ!こ!そ!こ!」
わらった。
!!ナポレオンてEU構想持ってたの⁈つながった!第九、the European Anthem。なるほど、ヤバ!
音楽は数学だし、昔は世界を解き明かす学問として必修科目だったしね。
再び勝利。
「愚人は才人にまさる大いなる利得を有する。彼は常に自らに満足している」
ナポレオン「生きることは、不幸だ。不幸に敗北するか、それとも不幸に戦いを挑むか、それとも」
ナポレオンが死んだのは1821年。ウィーン会議から6年経ってる。第11場ウィーン会議にロッシーニがいたことを考えると、あそこで1822年ぐらいまで描いていたと考えてもいいのかもしれない(『セビリアの理髪師』1816、『どろぼうかささぎ』1817、ロッシーニウィーン訪問1822)。
謎の女「誰もがわたしを憎む もうひとりのあなたとも知らず 醜い不吉な女だと 憎んで恐れて逃げまどう 憎むほど自由奪われて ただ 死を 待つ」
ベートーヴェンも謎の女に失せろと言った。そして孤独期、曲も作れず、ただ…。
謎の女「死は、救いなの」
ベートーヴェン「哀しく強い、おまえの歌」
あーー。だから、曲、献呈。「やるならやってみろ、運命よ」は1816年の彼の日記のことば。
「今、運命が私をつかむ。やるならやってみよ運命よ!我々は自らを支配していない。始めから決定されてあることは、そうなる他はない。さあ、そうなるがよい!そして私に出来ることは何か?運命以上のものになることだ。」
上田氏の京大講演会「経験の中で一番痛いもの、辛いことが不愉快なものなら、当然、それがなくなることはない」
ここは本当にありがとうと言いたい。望海真彩(あと非常に聞こえづらいけど多分望海の右手)でメロディを歌いながら、真彩の右手がオーボエパート、望海の左手がクラリネットパートかな、をなぞってきっちり3声の対位法をやってのけた。歴史に残るメロディ爆誕の瞬間。1822年。
モーツァルト「不幸と一緒になって、よろこびをうたってる!」
シラーの『歓喜に寄せて』は、もともと『自由賛歌』で、ベートーヴェンが感動して曲をつけようとしたのは『自由賛歌』のほうであるが、当時の体制下で云々。…というのは都市伝説であると、英語版のWikipediaには書いてあるなあ。日本語版の出典のひとつはURLの変更があったっぽく今はたぶんこっち。もうひとつの出典では『自由賛歌』がシラーの作品だとは言っておらず。セイヤー氏の著作が都市伝説の元なのかな。
ベートーヴェン「あー」(A4)
運命「あー」(A5)
1815年の手紙から。日本語訳がピッタリこないけどドイツ語わからないから2つの英訳。
"We finite ones with infinite souls are born only for sorrows and joy and it might almost be said that the best of us receive joy through sorrow."
"we mortals with immortal minds are only born for sorrows and joys, and one might almost say that the most excellent only receive their joys through sorrows."
よかったね天国行きだよ!
あー、早霧さんが出てた世界ふしぎ発見でやってた話。
und der Cherub 音楽は おれたちのものだー! steht vor Gott, フォルテー! steht vor Gott, フォルティッシモー! vor Gott, フォルティッシッシモー! vor Gott.
ここだけドイツ語詞で、ケルブ様出てきた。第九の中のここの歌詞の解釈はなかなか大変なようで、まあなんとなく壁・障害・天国/楽園行きを阻むもの・自由を阻むもの、ぐらいで自分は捉えておこうかなあというところ。
今作においては、ベートーヴェンさんお亡くなりになりました、ってことかしら?
そりゃalla marciaには入らないよね。音楽配信も始まってしまったわけだけど、これ音だけで聴いてると爽快にズッコケる、爽快。そのうち慣れるだろうけど。
きたー
ベートーヴェンの葬儀には多くの市民が続々と駆けつけ参列者は2万人、異様な様相、大混乱だったと。
うたえ 生きとし生けるもののうた
なんかここのベートーヴェン(推定54歳)と運命さん(年齢不詳)の振り付けかわいいな。
ぴあの上田久美子インタビュー記事より(2020/3/16 コロナ前)
耳が聞こえなくなって絶望し、一度は死ぬことも考えたけれど、神から与えられた才能は自分だけの物ではないから、身体の中の音を外に出すまでは死ねない、どんなに不幸でも生きていようと思ったそうなんです。すごいですよね。そうやって作った最後の交響曲が第九で、その合唱部分の『歓喜の歌』は、今で言ったら異常に盛り上がるロックみたいな感じだったと思うんです。それを、音楽のために一切の個人的幸福を諦めた人がどうして作れたのか、ぜひその物語を書きたいと思いました。
お見事。
配役を見て?が浮かんでいたところに次々とピースがきれいにはまっていく気持ちよさ。タイトルの意味しかり。
重くなりがちなベートーヴェンの話をできうる限り軽快に描き、新しいベートーヴェン像を見せてくれた(そもそも楽聖ベートーヴェンのイメージはシントラーやロマン・ロランによって作られたもの)。
第14場がコーダっぽかったので、ソナタ形式に当てはめて考えてみた。
*一瞬だがベートーヴェン真ん中でナポレオン、ゲーテが左右におり、謎の女もいるので。
うーん、苦しいか?意外とうまくハマった気がしている。
自由主義か全体主義かってより、個人主義か全体主義かっていう問題なんだと思うよ。
政府の押し付けがあっても個人主義は成立しないんだけどさ、政府が介入しない場合もやっぱり個人主義は成立しないんだよね。
人間似た物同士で群れるし民主主義は一番群れてる連中が有利になる仕組みだから、政府が少数者を保護しない場合個人主義は絶対に成立しない。
夫婦別姓についても、同性婚についても、芸能人の不倫についても、その他なんかようわからんそういう事柄についても思うことなんだけどさ、なんで特定の人たちはそんなに他人の生き方に干渉したがるのかがそもそも一切全く分からないでいます。
権利とか自由という概念以前に、そもそもなんで干渉したがるのかそのモチベーションから分からない。分かりたくない。自分以外の人間がどう生きようが自分の人生にはなんの関係もねえのに、なんでそんなどうでもいいことに当事者意識が持てるんだろう。自他の壁が消失しているのだろうか。僕の知らない間に地球人の幼年期は終わったのだろうか。そんな形の補完は嫌だ。倫理観とか宗教観とか社会規範とかなんかそういうまぁ要するに信仰心ドリブンな事柄について、他人に強要することはあんまり良いことではないと思うし、そう憲法に書いてあるし、たぶん小学校とかで習っていると思う。知らんけど。
そもそも他人の幸せを決める権利なんて我々は持ち合わせてはいないのだから、どんなに自身の信仰心に照らして愚行と思える行いでもそれを止める権利なんてないし、愚行でないのならなおのこと。愚行権は自由権の本質です。例えば、夫婦が別姓になって何か問題が起きるとしてもそれは当事者が最大限の自助努力のもとで理不尽に相対しながら血反吐を吐いて解決すればいいだけの話です。事前に法が介入するべきではなくて、問題が起きた後に法が介入できる余地を残しておけばいい。それが法にできるギリギリのことです。
例えばそれで不幸になる人がいるにしても、その人から事前に権利を奪ってはならない。自らの自由意志による選択の結果として不幸になる権利をその人から事前に奪うことは悪行に他ならなりません。人は不幸になる権利があるんです。見方を変えて、社会規範の維持や社会制度の維持を願う権利は個々の市民にあるとしてもその権利範囲は強く束縛を与えなきゃいけないはず。個々の姓に関しての束縛はその権利範囲を明らかに逸脱しているし、個々の性事情に関しても踏み込んでいい範囲じゃない。それらは誰がどう考えても個人の自由の範疇です。
そもそも自由主義社会においては当事者同士が限りない自由の中でより良い道を模索するべきで、法律が束縛を与えるのはあまり良いことではない。法律は利益調整のために仕方なくあるものなので、必ずしも必要ではない束縛はそもそも全て破棄すべきなので、夫婦同姓規定も夫婦別性規定もどちらも要らない。というか本質的には私有財産の接続制度以外の何者でもない法律婚制度の形が現行のものだと違和感が凄いとは思っているけど、これは未婚の私が言うことじゃないから言わない。市民は自らの選択で限りなく不幸になる権利すら手中に収めた。それはきっと素晴らしいことなんです。隷従のもとで肥え太ることより遥かに素晴らしいし、それを守りたいと私は思います。私は私が正しいとは思っていません。自由主義なんて最悪だと思っています、もちろん自由主義以外のすべての形態を除けばの話ですが。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 111 | 19058 | 171.7 | 50 |
01 | 72 | 7692 | 106.8 | 57 |
02 | 73 | 5919 | 81.1 | 31 |
03 | 42 | 11020 | 262.4 | 51 |
04 | 21 | 2980 | 141.9 | 81 |
05 | 22 | 1897 | 86.2 | 35 |
06 | 25 | 1967 | 78.7 | 52 |
07 | 46 | 4117 | 89.5 | 46.5 |
08 | 109 | 9451 | 86.7 | 32 |
09 | 179 | 13497 | 75.4 | 48 |
10 | 181 | 38124 | 210.6 | 53 |
11 | 229 | 19970 | 87.2 | 56 |
12 | 304 | 29490 | 97.0 | 37 |
13 | 169 | 13677 | 80.9 | 39 |
14 | 188 | 17661 | 93.9 | 45 |
15 | 152 | 16562 | 109.0 | 35.5 |
16 | 184 | 17688 | 96.1 | 44 |
17 | 187 | 19135 | 102.3 | 50 |
18 | 185 | 12601 | 68.1 | 41 |
19 | 160 | 13439 | 84.0 | 43.5 |
20 | 89 | 10254 | 115.2 | 58 |
21 | 117 | 17774 | 151.9 | 45 |
22 | 107 | 15822 | 147.9 | 39 |
23 | 100 | 5929 | 59.3 | 38 |
1日 | 3052 | 325724 | 106.7 | 45 |
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金持ちの息子も、貧乏人も、生きていくのに月10万円必要な人にも、
国はベーシックインカムで7万円配るだけであとは各自なんとかしてが「平等」
金持ちの息子と、貧乏人と、生きていくのに月10万円必要な人では、個人の能力以外の部分でのハンディがあるから、それぞれのハンディに対してハンディキャプ決めて埋めて対等な競争出来るようにしようというのが「公平」
リベラルは「公平」
って感じ
作り手の理屈乙。
あのCMが「どう読めるか」という意味では、ツイッターの多くの人の理解の方が正確だよ。
リモートワーク自体は推進してもよい。しかし、その背後ににじむのは、「働き手」側の主体的な選択ではなく、DX推進すべしという社会的経済界的な要請のみである。リモートワークが進展する中で、特に女性の自殺率が増加しているといったことが何度も報じられたのに、どうして「一働き手」の感想がこんな風になるのだろう? 少し気持ち悪さを感じる部分。
「会社の先輩、産休あけて赤ちゃん連れてきてたんだけど、もうすっごいかわいくって。どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかって今、スローガン的に掲げてる時点で、何それ、時代遅れって感じ」
少子高齢化は社会の課題であるが、今多くの「働き手」が生で感じているのは、産休を自由に取ることが難しい社会だとか、男女で取得率に差が出ることであるとか、保育体制の不備だとか、育児、教育にかかる重い自己負担であるとかであって、ことさらに「産休あけの先輩がー」「赤ちゃんかわいくてー」ではないように思う。この感想はやはり上記同様「経済界の方々がこういう風であったらいいな」と都合よく想像する働き手の姿ではないのか、という疑念が湧いてくる。一体誰目線のCMなのだろうと疑問が生じ始める。
この流れで「ジェンダー平等」をスローガンに掲げるのは時代遅れ、という発言が続けばどう聞こえるか、もはや自明だろう。ああ、経済界の方々はもう「十分ジェンダーに配慮しているだろう」「これ以上ジェンダーがとか言う政治家など時代遅れの野党の議員どもだろう」と思っているのだろうな、と思わせる発言。これを「一働き手(若い女性)の発言」として語らせる演出は非常に悪質だと思われる。だが、ここからさらにひどくなる。
ジェンダー平等をdisった後、彼女が述べるのは「ちょっといい化粧水を買ったこと」である。化粧に関心をもつことは別に悪いことではない。だが、ジェンダー平等を腐した後で「私は化粧水を買ったのよ」と発言することが、文脈的にどう聞こえるかは自明だろう。つまり、たとえば「この職場はジェンダー平等ができていないと思います」と発言するオンナでなく、「ちょっといい化粧水を買ってオッサンの気に入られる」黙るオンナになるべし、と言っているわけだ。その方がウマく生きていけるよ、と。これを(おそらく)オッサンが企画し、若い女性俳優に演じさせているわけだ。全方位的にダメすぎて言葉を失いそうになる。
似たような発言でも、たとえば次のような流れにしたら、化粧水の話も全然意味が違って聞こえるだろう。だが、このCMの作り手はこれと真逆な文脈で語ったのだ。
(逆転メッセージ例)
「会社の先輩、産休あけて戻ってきたんだけど、旦那さんと交互に休みとって乗り切ったって。どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかってスローガンに掲げてたけど、やっぱりまだまだだなあ、って感じ」
「化粧水買っちゃったの。もうすっごいいいやつ。私もいろいろ頑張らないとだなー。」
強引なまでに割り込んでくるこの発言も地味に最悪で、消費税が高い「でも」財政は赤字、という逆接は、当然ながらその後に「だから仕方ない」という結論を予測させる。(仮に、消費税が高い「確かに」財政は赤字、なら、「しかし、それは言い訳にならない」など、真逆のメッセージを予測させることになる。だが、作り手はまたも前者の文脈を選択したのだ。結論を隠しつつ、相手に予想させるというのは、相手の思考を誘導する悪質なプロパガンダの手法である。)そもそも国は「消費税の引き上げは社会保障財源のため」と主張している。(https://www.mof.go.jp/consumption_tax/)だが、実際には法人税減税の進行とともに消費税が増税され、赤字の補填に使われているのは衆人の知るところであり、つまり彼女は政権の「本音」を過剰に慮って、つまり「忖度」しているのである。なぜ「一働き手」の代表のような顔をして彼女は政権に忖度するのか。それは、「政権に忖度すること」こそ「ニュースをしっかり見ている正しい一国民のあり方」であるという作り手の主張に他ならない。
つまり、あのCM(プロパガンダ)が述べていることは、簡単明瞭かつグロテスクな次の6つの声明である。
・リモートワークを受け入れてDXを進めろ。
・プライマリーバランスのため消費税増税は当然。
そして
・黙って政権に忖度するものが正しい「国民」であり、うまく生きていく方法である。
……これを「一働き手」の代表然とした若い女性の口を借りて語らせる。政府広報でもさすがにここまでやらないだろう(恥ずかしくて)。
これは誤解とかそういうものではない。このCMの作り手は、特に上の6番目のメッセージを正しいものと信じそれを内面化しているのだろうと思わざるを得ない。それは、自由主義国の「報道」に関わる人間としては最もあってはならない態度であり資質である。更に言えば、こんなたやすくそれが読み取られる作り方をした時点で、宣伝広告者としても極めて能力が低い。
というわけで、あのCMを、誰が企画し構成し放映にGOサイン出したのか。あれがどのような「視聴者」に寄り添うと考えたのか、テレビ朝日の関係者にはぜひ本音ベースで聞かせてもらいたい。そして、そんなことをした方々が二度と報道に関わらないようにするためにどうすべきかを、真摯に説明する必要があるだろう。それができないなら、もう「報道」機関ではない。
前半はこちら↓
https://anond.hatelabo.jp/20210306213555
結局のところ、このイシグロ氏のインタビューの浅さ、つまらなさは、インテリ向けの文学芸術業界という自分の属する世界を世界全体であるかのように錯覚して語っているところにある。
その上で、あくまでもそういうインテリ業界や文学芸術業界への提言、また自戒としてイシグロ氏の発言を読むなら、部分的に同意できないこともない。イシグロ氏は「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です」と言う。必要かどうかはわからないが、非リベラルの人が思想や感情を表現した芸術があってもいいというのはその通りだろう。リベラルの原則からしても、非リベラルの人の表現の自由を制限するのは筋が通らない。ただしその表現を批判する自由もあり、表現する以上は批判を受けるリスクは負うべきだというだけだ。
しかしここでもやはりイシグロ氏との現状認識の断絶は感じる。イシグロ氏から見ると世界はリベラルが作った芸術ばかりらしいが、少なくとも私は日本に生まれ育って、「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術」の方を圧倒的に多く目にしてきたと思う。そもそもポリティカルコレクトネスなどが日本で多少とも意識され始めたのはごく最近のことであり、それ以前の言論にせよ芸術にせよ、今の視点で見れば差別と偏見にあふれているものが普通だ。
たとえばイシグロ氏と同じくノーベル文学賞を受賞した川端康成という作家がいて、日本ではいまだに高く評価され、小さな書店にも文庫本の数冊くらいは置いてあるだろう。私も過去にいくつも作品を読んできたが、同時に忘れられない言葉がある。ある時私の母親が言った「若い時に川端康成を読んで、女は芸者しか出てこんのかと思った、芸者にならにゃいけんのかと思った」というものだ。私は芸者という職業は否定しないが、ここで問題なのは芸者の側ではなく、女性を極度に美化しつつあくまでも鑑賞される客体として描きがちだった川端康成の視線の方である。現在の目で見て、こういう川端康成の視線が女性蔑視的要素を含まないということは難しい。
また私は十代の頃に太宰治を読み、貧しく教育のない芸妓を買い取るようにして妻にした挙げ句、その妻が他の男と寝ていたというので絶望し、何やら自分が裏切られたかのように荒れている主人公(これは作者自身の体験に基づく)の思考回路がよくわからないと感じたことがある。しかし当時の私はまだ、そんなものはわからなくていいと突き放すことができなかった。そこであれこれ想像力を駆使しつつ、そういう「苦悩」に何とか共感できないかと努めた記憶がある。ずいぶんと「理解しがたい他者」に耳を傾けようとしたものだ。その後フェミニストの批評に触れたりする中で、共感できなくて当然だったといつしか思うようになったが。『男流文学論』や『妊娠小説』を笑いつつ興奮しつつ読んだ日を思い出す。
私の世代には、そういうフェミニスト批評のように、また女性自身による新しい表現のように、男性作家の視点を相対化してくれるだけの「他者の声」が辛うじてあった。その他の多様なマイノリティの視点から作られる芸術も探せばそれなりにあった。しかし古典とされるようなものは言うまでもなく、世間で人気のあるもの、話題になっているものは多くがリベラルでも何でもなく、機械的に「差別語」を排除したりする他はポリティカルコレクトネスにも多様性にも無配慮なのが普通だった。それにもかかわらず、「逆差別」だの「自虐史観」だのとリベラル側の価値観を攻撃する言説は早々と巷にあふれていた。私は左翼だが、小林よしのりの作品をいくつか読んだことがある。周りで流行っていたからだ。小林よしのりは「じいちゃんの死は無駄だったというのか」といったまさに感情に訴える手法で保守派の戦争観を広め、当時の若い世代にかなり影響を与えた。
イシグロ氏の周りはどうなのか知らないが(と皮肉を込めて言うが)、日本の書店というのはいまだに「嫌韓本」が山積みにされたり、保守論客の歴史本がベストセラーになったりしている。イシグロ氏の小説を読むようなインテリ層の一部はそれに眉をひそめるかもしれないが、現実として、日本にはずっと「リベラル以外の人」の表現があふれ、どこにでもいる「リベラル以外の人」がそれをのびのびと享受している。「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」である社会などいったいどこにあるのだろうか。私は見た覚えがない。
「小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。」そう思うのかもしれない。「私は人生の大半を進歩自由主義的な考えのもとで心地よく過ごしてきた」と言えてしまうような人は。この言葉が移民であり民族的マイノリティであるイシグロ氏の口から語られることは、イギリス社会の成熟を示すものでもあるだろう。
しかしあいにく、私の住んでいる世界はイシグロ氏の世界とは違う。イシグロ氏の世界にしても、単にイシグロ氏に見えていないだけで、リベラル的価値観の過剰ではなくその不足に苦しんでいる人がまだたくさんいるだろうと私は思う。私はリベラルとして非リベラルの発言権を奪えとは言わないし、またその声に耳を傾ける人がいてもいいと思うが、私が日本社会でより多く耳を傾けたい声は、やはり非リベラル的社会が長らく抑圧してきた、今も抑圧している声の方である。
ところで、私は川端康成や太宰治の作品に差別的な要素があると言ったが、かれらの本を絶版にしろとも、教材に入れるなとも、子どもに読ませるなとも思わない。差別的要素があるからといって作品全体が否定されるべきだとも思わない。私は川端康成の文章の美しさも、太宰治の小説の面白さも理解することができる。それに価値がないとは言わない。
「キャンセルカルチャー」という言葉が指す状況を私は詳しく知っているわけではないが、作者がある場面で「政治的に正しくない」言動をしたからといってその作品を全否定したり、市場から完全に追放したりすることは私は支持しない。差別思想の公的な表明は批判されるべきだが、芸術表現を直接的に規制したり、作品を抹消したりすることは慎重であるべきだと思っている。
この点はおそらくイシグロ氏の考えと私の考えは近いだろう。芸術を総体として愛するならば、自分の嫌いな作品、理解しがたい作品が生まれてくる可能性も含めて愛さなければならない。私は現在の視点で川端康成や太宰治の表現の一部に批判をもっているが、その批判を表明する方法は作品を焼いたり隠したりすることでは決してなく、批評や新たな作品で相対化していくこと、注釈を書き加えていくことだと思っている。
ただし同時に、かれらの作品にも行動にも現在から見て許しがたい要素があること、それは当時には自覚も変更も難しかったかもしれないが、今後の社会に引き継ぐべきではないこと、そこを否認するつもりもない。作品は消さないが、今後も読まれ続けるのなら、そういう観点からの批判も作品自体と同じくらいに読まれ、語られるべきだと思う。もし川端康成を教室で読むのであれば、教師にはその美しさだけでなく、その女性の描き方が一方的であったり一面的であったりすること、フェミニズムを通過した視点でどう見えるかというようなことにも学生の注意を促してほしいと思う。これが過剰な要求であるとは私は思わない。
最後に、イシグロ氏が述べている「感情」というものについて少し違う角度から見ておきたい。最初に書いたように、私は政策決定などにおいて事実や科学的根拠より感情が優先されるような事態は望まない。この点ではイシグロ氏に同意する。
しかし人間の感情というものが社会のあらゆる場面で抑えられるべきとも、それが可能とも思えない。イシグロ氏の主張を大きくまとめると、現在の世界(実際はイシグロ氏の属するインテリ業界)はリベラル側の感情を優先しすぎるものになっているので、感情優先を抑えると同時に非リベラルにももっと発言の場を与えるべきだ、と読める。私はこれには同意できない。
まず現状認識が違い、芸術の世界がリベラルに席巻されているようには到底見えない、というのが上に書いたことだが、それとはまた別に、文学や芸術の世界でまで政策議論の場合のように感情を排除する必要はないだろうと思う。イシグロ氏は小説家として、感情を重視する文学がトランプ支持のような不合理に加担した可能性を反省しているのかもしれない。しかし思うに、それはそれで文学の買いかぶりというものだ。感情に訴え、感情を揺さぶるものは文学や芸術の他にもいくらでもある。むしろ現実の生活が多様な感情を強く喚起するからこそ、それを芸術に表現し直すことが対象化や客観視の手段になりうるのだ。そして文学芸術は、合理性を追求する世界からこぼれ落ちる感情や思想の避難所としての役割をもっている。人間が完全に「合理的」な存在に変化しない限り、この役割がなくなることはないだろう。科学的エビデンスに基づいてワクチン政策を決めるように自分の人生を生きられる人はいない。そんなことを個人に求めるべきだとも思わない。
また、イシグロ氏の言う「リベラル」に人種的、民族的、性的その他の抑圧されてきたマイノリティが含まれるのだとしたら、かれらが時に強い攻撃性をもってその感情、蓄積されてきた恨みや怒りの感情を表現することを私は一律に非難したくない。被差別者の表現が時に復讐的な攻撃性をもっていたり、「逆差別」と見えるような偏見を含んでいたりすることはある。それ自体はたしかに「良いこと」とは言いがたい。しかしこれもまた現状認識の問題になるが、今の社会でマイノリティがマジョリティを攻撃するような表現を公然と行えば、より危険にさらされるのはマイノリティの方である。だから圧倒的多数のマイノリティはそんなことをせず、むしろ感情の抑制に非常に長けている。
BLMを暴力的だと言って眉をひそめる人を数多く見たが、私が以前から思っているのは、もし黒人たちがその何世代にもわたる奴隷制の怨恨を復讐としてそのまま投げ返したなら、アメリカの白人社会はすでに何度廃墟になっているかわからないということだ。しかし現実はそうなっていない。現実のマイノリティは、時に攻撃的に見えることがあるとしても、総体として恐ろしく理性的で自制的で、そして寛容なのだ。何一つ復讐も、感情を表現することもできずに埋もれていった膨大な被抑圧者の忍耐の上に今の社会は維持されている。多くの被差別者は、深い痛みを抱えながらも、求めるのは復讐ではなく次世代が幸せになることだと穏やかに語る。その中から時に感情的な表現が投げかけられたとして、それを感情的だと単純に排除することを私はためらう。
ずいぶんと長くなってしまったが、ふと書く気になったので書いた。まだいくつか書き残している気もするが、土曜も一日つぶれたことだしこのへんで。
https://toyokeizai.net/articles/-/414929?display=b
まず、私は自分が大別すれば「左翼」かつ「リベラル」の立場にあることを自覚している。左翼の定義やリベラルの定義の困難さ、特に現在の日本で「リベラル」が「左翼」の言い換えのように使われて混乱が生じていることは十分承知しているが、そのあたりに触れるといくら前置きをしても足りなくなるので、要するにここを見るような人間たちがイメージする「左翼」であり「リベラル」であると考えてもらえばいい。ただし、左翼かつリベラル、というように私はこの両者は区別している。区別した上でどちらでもあるということだ。参考までに、最近やってみた下記サイトのポリティカルコンパスでは、
https://www.idrlabs.com/jp/political-coordinates/test.php
という結果だった。これを見てもわかるように「左派」と「自由主義」(リベラル)は別軸である。混同している人は気をつけてほしい。
そういう一人の人間として、件のイシグロ氏の発言への感想や疑問を書いてみる。
まず、社会制度の大枠を議論したり決定したりする際に、感情より科学的なデータやエビデンスが重視されるべきだというイシグロ氏の意見には私も異論がない。陰謀論やフェイクニュース、似非科学や歴史改竄に代表されるような事実軽視は、それが誰によるものであれ批判したいと思う。私は左派だが、左派の中にこの種の問題がないとも言わない。
たとえば近年では、日本共産党などがHPVワクチン副反応被害者の立場に寄り添うあまり、反ワクチン的な言説を許してしまっている(自分で言わないとしても、運動内部のそういう言説をはっきり否定しない)ことを歯がゆく思っている。誤解している人もいるようだが、日本共産党は本来はワクチンに否定的ではない。HPVワクチンについても、むしろ導入を行政に要求したりしてきた。しかし副反応被害を訴える声が上がり、裁判になってその原告を支援する立場となると、原告側の科学的根拠が弱い言説に対しても必要以上に寛容になっているように見える。それが被害を訴える原告の「感情」を優先したためなのか、あるいは裁判や運動を進める上での利害を計算したためなのかはわからない。そのあたりは人によっても違うだろう。しかし現在出ている科学的検証の結果が原告側に有利ではない以上、主張はデータを軽視しつつ苦痛の強調など感情に訴えるものになりやすい。イシグロ氏が言う「科学的エビデンスより感情が優先される」問題として私が連想したのはこのような例だ。
この件で一応私の意見を言っておくと、副反応を訴える人にはなるべく広く補償を適用しつつ、HPVワクチン自体は普及を進めるべきだと思っている。副反応裁判の原告団体については、補償の範囲を広げる運動としては支持するが、同時にHPVワクチンの勧奨再開に反対したり、さらには反ワクチン的な主張をする人物が混じっているのが支持できない。また便宜的に日本共産党の名前を出したが、私は共産党員ではなく関係も薄い。共産党に限らずHPVワクチン訴訟原告を支援する左派系政党や団体に共通する問題として挙げた。
しかし多くの部分で、私はイシグロ氏の発言に同意できず疑問を感じる。そもそも現状認識が私とは大きく違うように思うからだ。たとえば次のような部分だ。
"小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。リベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快なものかもしれません。
しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。
リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです。"
ここは私には非常に疑問が湧くところだ。何よりわからないのは、いったいいつどこの世界で「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」になったのかということだ。
イシグロ氏が住むイギリスのどこかにはそういう特殊な場所もあるのだろうか。まあおそらく、イシグロ氏が属するコミュニティの大半が教養ある「リベラル」で、そこでは「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」はほとんど目につかず、その声が抑圧され死に瀕しているかのように錯覚してしまったのだろう。しかしイシグロ氏自身が言っているように、アメリカでは半数近くの人が一時的にであれトランプを支持し、イギリスではブレグジット派が不正ではない投票で多数を占めてしまったのだ。「リベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声」は十分に力を持ち、各国の舵取りに影響を与えている。
語ることがリベラルの専売特許に見える世界とは、イシグロ氏を取り巻く知的で文学芸術を愛する少数のインテリの世界のことでしかないだろう。イシグロ氏もそれを自覚はしているようで、だからこそ「縦の旅行」というようなことを言う。しかしその狭いインテリ業界での経験を一般化し、世界全体がそうなっているかのように語ることこそがまさにインテリの傲慢であり、相変わらずその狭さに無自覚な発言だとは気づいているのだろうか。
イシグロ氏と違い、私は左翼でありリベラルである自分のような立場が日本社会で主流になり、語る権利を独占しているなどと錯覚できたことは一瞬たりともない。たしかに近い考えを持つ人の集まる場所というものはある。しかしそういう場に足を運びながら、その場を一歩踏み出せば「世間」は全く違うのだと常に意識している。「縦の旅行」などするまでもなく、日本社会で「普通に」暮らせば、全くリベラルでない人、左翼を蛇蝎の如く嫌っている人、そもそもそういう言葉も、そういう違いがあることも知らない人などに電柱並みの頻度で出会うのである。
たとえば私は天皇制は廃止すべきだと考えているが、世論調査では天皇制に反対する人はずっと一割を切っている。周囲の人間をランダムに選べば十人中九人以上はこの点で私と考えが違うわけである。まあ日常生活でいきなり天皇制の話をする機会は少ないが、先日の代替わりだの改元だのの騒ぎの時には、自分が少数派であることをあらためて意識させられた。特に天皇の問題については、過去に右翼の襲撃のような直接的暴力による脅迫があり、言論の自由が大きく損なわれたことを知っておくべきだろう。「じゃあこっちはどうなんだ」をあまり振り回したくはないが、ポリティカルコレクトネスなどによる言論の不自由を懸念するのであれば、日本社会にはびこる天皇をめぐる言論の不自由にも一通りの知識と関心は持ってほしいと思う。
「自由民主主義」の社会を享受してきたと語るイシグロ氏は、部屋で文章を書くだけでなく、デモに参加し、街頭で語ったりビラを撒いたりしたことがあるのだろうか。それは自由民主主義を維持するための不可欠な活動の一つなのだが。やってみるとわかるが、街頭では温かく応援してくれる人だけでなく、口汚く罵ってくる人にも出会う。私の知人の中には、突然殴りかかられてけがをした人さえいた。手渡したビラを一目見るなり舌打ちして破り捨てる人もいる。私たちはその断片を拾う。それでも受け取ってくれるだけましとも言え、多くの人は避けるように通り過ぎていく。「自分とは違う世界がある」どころか、周囲の人の大半は自分とは違う考えだが、それでも少数者として声を上げていくことは無意味ではないはずだ、と私は自由民主主義社会で日々自分に言い聞かせている。
日本で左翼をやっていると、自分が投票した候補者が当選することも少ない。民族的、性的、その他さまざまなマイノリティの権利擁護運動に関わっていると、そもそも多数決に任せれば無視されるのが当然、そういう世界でいかに存在を認識させ、主張を届けるかというのがあらゆる活動の第一歩になる。言うまでもない前提だ。
上記のイシグロ氏の発言で何度読んでもわからないのは、「多様性」についてわざわざ「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく」と言っていることだ。これは何なのだろう。イシグロ氏はここで、「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」と「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」をあえて対立させ、前者より後者の多様性が重要であるように言う。前者の多様性と同時に、それに加えて後者の多様性も、というならまだわかる。しかし、少なくとも多数決投票で勝利したことのあるような「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」の声を「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」の声より優先して聞こうというような提案が現状の「多様性」をどれだけ高めるというのだろうか。
また、「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語る」という記述を読んで私が疑問に感じるのは、これはいったい誰が、どの立場から語るのだろうか、ということだ。翻訳の問題などもあるのかもしれないが、これを読むと、その人々の世界を外の人間が「誠実に」語ることのように読める。たとえばイシグロ氏のような作家がブレグジット支持者の内面世界を誠実に想像して描くというようなことなのだろうか。
しかしそれは、その傍で言われている「誰もが語る権利」と矛盾する。「語る権利」と言う時、マイノリティの運動の中などでは特に、当事者が自ら語ることを重視する。当事者の心中を非当事者が想像して代弁することは推奨されず、場合によっては本人の言葉を奪う行為として非難される。トランプ支持者やブレグジット支持者にしても、たとえばイシグロ氏のようにもともと思想的立場の違う作家がいかにも理解ありげに、「あなたはこんなふうに思っているのでしょう」とばかりにその思いを代弁したら多くは反発するのではないか。だから原則としては、その声に耳を傾けたいなら、非リベラルと言われる人々に語る場を保障し、自ら直接語ってもらうのが正しい。
その上でイシグロ氏は、そうして語る場を提供して耳を傾けた時に飛び出してくる言葉が、「○○○人はゴキブリ、この国から出ていけ」や「同性愛者は天罰を受けて死ね」だったり、静かな口調で確信に満ちて語られる「あなたがたは皆ディープステートに洗脳されているのです、ぜひこの資料を見てください」だったりした時にどういう反応をすべきか、どこまで現実感をもって考えているのだろう。この発言が単なる綺麗事に見え、それゆえ面白くないのはこのあたりの現実に何も触れていないからだ。
イシグロ氏は「誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と言うが、これは理想論、原則としては全くその通りである。しかし現在問題になっているのは、その「誰もが語る権利」を尊重した結果次々と湧き出してくる陰謀論やヘイトスピーチへの対処を現実的にどうするかということなのではないか。先日話題になったツイッター社のトランプアカウント凍結なども、この原則と現実の間で行われた苦渋の選択だった。こういうリベラルの原則と現実とのジレンマは、「寛容は不寛容に対して寛容になるべきか」といった形で長く議論されてきたテーマでもある。それで言えば、トランプ陰謀論支持者に向き合いつつ、あえて寛容の原則に立とうと語る下の記事の方に私は感銘を受けた。
"「トランプの陰謀論」が今なお5000万人を魅了するワケ。『白人ナショナリズム』著者、渡辺靖に訊く"
https://finders.me/articles.php?id=2529
私はリベラルだが、この問題についてはここまではっきりと「寛容」に立つとは言い切れない。ヘイトスピーチ規制にも慎重派でありつつ、現実的にやむを得ないとも思っている。各国の法規制の方針を見ても、それぞれの背景に基づく大きな違いがある。現時点で何が妥当か判断しにくい難しい問題なのだ。「私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と書斎で言い放つだけでいいならそんなに楽なことはない。
また、いくつかのブコメが触れていたが、たとえばトランプ支持者が陰謀論を信じるのはそもそもイシグロ氏が言うような「感情優先」のせいなのかというのも疑わしい。選挙の敗北を認めたくないという感情が陰謀論を信じさせているのだ、というのはあくまでも外からの解釈で、本当に信じている人にとっては陰謀論は「事実」そのものだ。実際、陰謀論を広めている人はしばしば「まずは事実を知ってください」と言う。誤情報にさらされ、修正機会がないまま信じ込んでしまうという現象は特に感情がからまなくも起きる。平凡な思想を感情的に主張する人もいれば、陰謀論を冷静に信じる人もいるのだ。トランプ支持のような現象を「感情優先」として批判するのは、陰謀論やフェイクニュースのような誤情報の浸透をどう制御していくかという問題に対してあまり有効でないように思う。
ちなみに、トランプ支持者やブレグジット支持者に向き合ってその声を聞こうとした研究や取材はすでに数多く行われていて、下の記事のように日本の記者によるものさえある。
"トランプ支持者はなぜ熱狂的に支持しているの? とにかく彼らに会い続けた記者が、これからも語り合う理由"
https://www.nhk.or.jp/d-navi/note/article/20210208.html
イシグロ氏が自宅でなぜリベラルは非リベラルの声を聞かないのかとぼんやり嘆いている間にも、実際にトランプ支持者の家を訪ねて話を聞こうとしているリベラル寄りの人間は山ほどいるのだ。イシグロ氏は「リベラルが」ではなく「自分が」ご近所の非リベラルの声さえ聞いてこなかった、と言うべきだろう。主語を大きくしすぎてはいけない。
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消費税を下げて、法人税、累進所得税を下げたほうがいいというフラット税制志向は、新自由主義ゆえの結果だよ。
まず1930年代の世界恐慌で政府が何もしないほうがいいという自由主義は解を持たなかった。
大規模経済危機を迎えると、企業は金をためこみ設備研究投資をしなくなり、さらに景気が悪くなるという悪循環。
解を持つ英雄を求め、ドイツはヒトラー、日本は軍部が解だと思って暴走して戦争に至った。
そこでケインズが一般理論を発表した。政府が金融、財政、税制で金の循環を整えるという考え。軽いインフレを維持すれば経済は良くなると。
それで経済は順調に行き始めていたが、1970年代オイルショックや一部の国の経常赤字化で、「インフレだが不景気」という状態が生まれた。原因を仔細に見れば、資源不足や、産業劣化で外貨・金流出や外貨借金が増えた供給不足の問題ではある。
ケインズ主義だと政府は大きくなりやすい。政府が何もしないほうが良いという考えで、自由主義が復活した。それが故の小さな政府化とフラット税制志向。
経済は過去の貯蓄の取り崩しを含めて、資金調達しての支出を初項、収入のうち消費の比率を公比とした等比数列の和なんだわ。
資金調達しての支出は投資とも言われてるんだけど、設備研究投資に紐付いていない金融投資は貯蓄な。
だけど、設備研究投資に紐付いていない金融投資、平均消費性向以下の富裕層、そして、保身で資金余剰局面にある企業のフリーハンドの減税は公比を下げて景気を落とす。設備研究投資や消費など使った場合限定の減税は良いが。
日本では1990年バブル崩壊を迎えたが、大規模経済危機を迎えた後の停滞に自由主義が解を持たないというのは変わらず、それでいて消費税を上げて金を貯め込むところをバカバカ減税をした。
だけど、政府の裁量が働かないから理想的だという考えで、消費税を上げて、所得税、法人税を下げてきたんだよ。
1970年のような供給由来インフレを防ぎつつ、正しく金の循環を整えないとならない。無論使ったら増税の消費税は最悪の税制だからなくすべき。
当事者意識を持てないのはクズだからじゃなくて、そもそも父親というもの自体が本来は存在しない役割だからだよ。
ないが親族組織を強化して父親になるメリットを生んで父親を作った。
父親とは明確に社会の中で創造された仮想的な役割に過ぎない。人類以外のサルには社会的な父親が存在しないことでもわかる。
父親が父親になるには、まず母親が父親として認める行動がなければならないし、父親として自覚してもらうためにはメリットを与える必要があるし、自分や子供への影響力を最大化させる必要がある。
「お前が父親なんだ」と怒鳴りつけたところで男性側にメリットがなければ男性は父親にはならないものなんだよ。
現代は自由主義の時代で家父長制もないから、男性が社会的に父親であることにメリットを感じようがないからなり手がいなくなっているだけの話。
弱いもの虐げられたものが一致団結して、一部の搾取する横暴なものを倒す。人類はそれを大昔からやってきた。
資本主義・自由主義が今ほどない時代でも、いつでも自然と格差は生まれ、搾取が生まれ、闘争があった。
その結果、あまりに横暴なものやズルをするものは殺され、公正さや規範意識を進化させてきた。人類は不公平に対してなによりも敏感になった。
いま、すさまじい格差があるのにそれが機能しないのはなぜだろう?
能力主義、個人主義によって、「自分が割りを食っているのは自分のせい」という考えが広まりすぎたのだろうか。
現在のネオリベ的な社会状況は良くない。だけどそれをひっくり返すもっといい仕組みを思いつかない。共産主義は失敗に終わった(かのように見える)。
遠くない未来に自然権を抑え付けている歪みが破裂し、真の自由主義が立つことは必然である。
ただ歪みを減らすことで時間稼ぎをすることはできる。
暴力機関には選択的夫婦別姓を認めない権利はそもそも存在しない。
そんなしょうもないことで歪みを作るべきではない。
何かが壊れても誰かが悲しんでも、それは自然権の成就のための仕方のない犠牲である。
選択的夫婦別姓を容認しても人は死なない。人の自由権を毀損しない。
1945 年からしか政治的連続性のないしょうもない極東の国家に伝統も糞もない。
あったとしても伝統なんてものが真に伝統であるのか、そもそもそんなものを守る必要があるのか、その必然性を我々は証明できない。
ただ、その延命のために歪みを減らすべきだと言っているに過ぎない。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b40ac0c1c2a1cdd402c5a5b4057bfb1c3d36bc3
カナダが主導して米国が支持する「政治的目的による外国人拘禁に反対するイニシアチブ」に韓国は参加しなかった。カナダ外務省は今月15日(現地時間)、58カ国と欧州連合(EU)が参加する「国家関係における恣意的拘禁に反対する宣言」を発足した。国際連帯を通じて外国人の拘禁を政治的手段として利用する一部国家の「人質外交」の慣行を根絶しようというのが趣旨だ。トニー・ブリンケン米国務長官はこの日、映像メッセージで「(外国人の恣意的拘禁は)非常に多くの国家が悪用する極悪非道な行為」とし「人間は交渉カードではない」と強調した。
だが、カナダが公開した署名国に韓国はなかった。外交部の崔英森(チェ・ヨンサム)報道官は16日の会見で「韓国政府は参加要請を受けなかったのか」という質問に対して「それについて認知してきたし、今でも認知している。今後、国際社会の議論の動向を注視していく予定」と回答するにとどまった。
外交界では、韓国政府が中国と北朝鮮を意識して参加しなかったとみる。今回の宣言が中国をターゲットにしていたのは事実だ。2018年、カナダがファーウェイ(華為)の孟晩舟副会長を逮捕すると、中国はカナダ国籍者の2人をスパイ容疑で起訴して現在まで拘禁している。在カナダ中国大使館の報道官は声明を出して「中国は今回の宣言に非常に大きな不満と強い反対を表わし、これをカナダ側に伝えた」と明らかにした。
これに関連し、韓国政府が韓中関係を考慮したとしても、今回の宣言が普遍的価値である人権問題と直結するという点で不参加は適切ではないという批判が出ている。韓国国民の恣意的拘禁被害も絶えない。北朝鮮だけで韓国国籍者が6人拘禁されている状態だ。最近、イランが韓国船員を抑留したことも政治的目的の拘禁とみることができる。在外国民保護を主要外交目標に設定した文在寅(ムン・ジェイン)政府が今回の宣言に参加しないのは自己矛盾とみることができる。
経済社会研究院外交安保センターの申範チョル(シン・ボムチョル)センター長は「自由主義陣営に属し、自由主義の恩恵を受けて成長してきた国がこのような態度を示せば、民主主義の原則を支持する他の国から疎外されかねない」と話した。
一方、16日、鄭義溶(チョン・ウィヨン)外交部長官は就任後初めて中国の王毅国務委員兼外交部長と電話会談を行った。中国外交部の発表によると、王部長は「開放・包容・地域協力を支持し、イデオロギーで陣営を分けることに反対する」と話した。これは米国が主導する日米豪印戦略対話(QUAD=クアッド)に韓国が参加することを警戒する発言と読むことができる。
新自由主義の前のケインズ主義がオイルショックや、一部の国の経常赤字化で、「インフレだけど不況」という状態でケチが付いて復活した自由主義。この自由主義というのは、世界恐慌前に政府が何も関与しないのが理想的だと言われたという意味での自由主義。
インフレだけど不況というのは、供給不足によるもの。だから、新自由主義はサプライサイドサプライサイド言ってた。
最も、サプライサイドが必要なのはインフレのときであってデフレのときではない。かつ、供給って世の中に受け入れられる商品を供給するってことだけど、金も時間もかけずにそんな物生まれない。
企業が設備研究投資をして新しい商品を作る努力をするのと、企業がリスクを取れない段階の科学を政府が金を出して科学として磨き上げることによって生まれる。
・マルクス・レーニン主義(一名に「科学的社会主義」とも)が放棄されていないこと
・党の体制として、民主集中制を採用し、及びそれが放棄されていないこと
・高齢の実力者が、未だに重職を占め、重大な意思決定に関わっていると見なせること
・1922年の22年テーゼ以降に採用又は確認された二段階革命論並びに暴力革命の企図
及び選択肢が放棄されていない、又は放棄されたと見なすことができないこと
・1961年以降に採用されたいわゆる「敵の出方」論が放棄されていない、又は放棄されたと見なすことができないこと
・日本国憲法を廃棄する意図等が全く無いと見なすことが困難であること
(例えば、二段階革命論)
・現在、日本国が採用する統治上の基本的方針としての、民主主義、自由主義並びに立憲主義を廃棄する意図等が
(例えば、二段階革命論)
・基本的人権を、日本国憲法及び法律に規定し、及び最高裁判例に判示される範囲から