はてなキーワード: 政府広報とは
政府は広告費ゼロでゴールデンタイムの貴重な時間に自分達に都合の良い発表を垂れ流しにできる。
記者クラブは幹事社が事前に質問原稿を政府に渡してチェックしてもらう。
こうすればヤバい質問する奴は指名しなくていいから政府は楽ちん。
記者クラブも政府広報業務を排他独占して、社員も毎年毎月脳死状態で同じ仕事を繰り返してるだけで高給もらえてハッピー
たまにイソ子みたいなガチ目な奴を混ぜとけば八百長バレないし、ガチやばになったら記者クラブの幹事社がヤバい奴を勝手に締め出せば政府は責任逃れできるし、
マスコミ社員もやっぱり安定してルーチンワークこなせて楽ができる。
結局、自民党が悪い、安部が悪い、菅が悪い、二階が悪い、とか日本人は言うけど、結局マスコミもこんなんなんだから国民のレベルなんだよな
自民党ぶっ潰しても同じ日本人集団から政治家選ぶんなら結局同じような奴らが政治に出てくるんだよ
アホくさ
権力者と一般市民の距離が遠いのはしょうがないが、それにしても距離感がある。
しかし、そこに関しては共産党や国民民主党などの野党勢力がイチャモンを控えて与党案の精査修正に徹し、
政府もそれを受け止めたため、最終的には国民に広く行き渡る保証になったといえる。
できれば政府、自民党内でもう少し中産~貧困層を意識して欲しいところではある。
既存のテレビや新聞などの強力な報道力を持つメディアに依存し続けてきた結果なのか、自力での広報能力があまりにも低い。
「どうせニュースメディアが報道してくれる」とでも言わんばかりの広報能力の低さだ。大事な通告を小声で言っても、気づくのはごく僅かな人だけだ。
自ら大声で発信する必要がある。それを精査するのは我々やメディアの役割だ。
しかし、これらがすでに進んでいれば給付金やマスク配布はもっとスムーズに進んだはずである。
②の政府広報能力の低さだけではなく、この国に蔓延する「今大丈夫なんだから変えなくていいじゃん」という先延ばし的な気質そのものに問題がある。
④報道の質が著しく低い
これがあまりにも顕著だ。結論ありき、感情論、決めつけ、罵倒のオンパレードだ。
メディアの重要な役割に権力の監視と批評があるが、今のメディアのやっていることはゴシップ探しと批難でしか無い。「監視」も「批評」もどこにも存在しない。
給付金の申請に関する告知、絶対に足りて無かったと思う。総理が「オンラインでも申請できます」くらいしか言わなかったために現場にめちゃくちゃ負担がかかってる。
【政府広報で伝えるべきだった項目】
・マイナンバーカードができるまでには申請から1〜2ヶ月かかる。まだマイナンバーカードを持ってない人は、給付金の申請を郵送でした方が良い。
・そもそもカードリーダーのあるパソコンか、おサイフ機能があるスマホがないと申請できない(どちらも持ってない状態でどうしたら申請できるか聞かれたことがあった)
・マイナンバーカード持ってても事前に電子証明が必要。ない場合は自治体で申請する必要あり。5年で失効するので、失効したら再度自治体で更新する必要あり。
・マイナンバーカードの有効期限は10年間。今のところ期限切れになってる人はいないはず。(有効期限について聞かれることあった)
・4月末はさほど無かったのに、5月に入ってから突然マイナンバーカードに関する相談が急増した。前々からオンライン申請にはこういった条件が必要だから、お早めにご準備くださいと告知しておくべきだった。
いまだかつてやったことがなかったオンライン申請に関する不備不具合多発すること分かってたんだから、十分な周知を行うべきだった。
ただでさえ自治体には、銀行の融資関係とか児童手当、補助金の申請で納税証明書とか所得証明書、印鑑証明書等必要な人がたくさん来ていて過密状態なのに…と思う。
表現規制派とかフェミの人たちのイチャモンとか単に無視しとけばいいと思うんだよね。ただの暇潰しを越えてああいう敵との戦いにコミットしてそうなオタクを見ての感想。
オタクは別にああいう連中との議論に勝って今の立場を手に入れたわけじゃない。
宮崎事件で世間の評価がマイナスに振り切れてから、オタクが「俺たちを差別するな! 表現の自由を認めろ!」と権利運動をしたから、政府広報や自治体に萌えキャラが使われるようになったわけじゃない。
当時は何を言っても無駄だからと、ただひたすら好きなものを作ったり観たりしているうちにいつの間にか世間にオタクの数が増えていた。
オタクが企業や官庁で色々と決められる歳になった、それだけで世の中がここまで変わった。
政治で勝負して市民権を勝ち取る必要なんかなくて、経済にちょっと金払いの良い客と認められるだけで十分だったんわけだな。
そりゃあバカ揃いのあいつらを論破するゲームは楽しいんだろうけど、というか例のセンセが「アタシのファンだとぬかすテメーの言い分じゃBLもアウトだわ」とやり込められたのには笑ったけどさ、ああやって無駄にオタクへのヘイト高めてたらいつか江戸の仇を長崎で討つ真似されるんじゃないかと心配になってくる。
「オタクがわたしたちをイジメるんです」とあいつらが訴えたら世間の風向きはまだどうなるかわからない。まだ勝ったつもりで振る舞うのは危うい。
だから、オタク諸氏には世間からはお行儀の良い趣味人と思われるように無駄な喧嘩は避けて欲しい。
ヲチ先には手を出さず、あいつらが守りたいと言いつつ実際には盾にしている女子供からそっぽ向かれるのを(幸色のワンルーム実写化のように)眺めるだけの楽しみに留めて欲しい。
はじめに断っておく、
つまり、私の言いたいことは政治ではなく選挙における投票行為の意味であって、それ以上それ以下でもない。
議論をしたいわけでもなく「せめてこれぐらいはわきまえて議論してほしい」と願うだけの文章である。
であるが普段論考に慣れていない人には少し細かすぎる理屈かもしれない。
だが、「せめてこれぐらいはわきまえて議論してほしい」の理由には意味のある主張には必須だと思われる。
必ず読んで!ではないので、できれば読んでほしい。あと僕の思想がにじみ出た範囲は勘弁してほしい。
言うまでもないが、投票する権利は国民に与えられている。条件は18歳以上。日本国憲法は具体的に指示まで出してくれないので、”民主的に”国会によって法律で決められる。
選挙活動も年齢などの条件を満たせば認められる。
選挙活動は”他者の投票行為”に関与する行為(強制は除く)を含むので、「ルールを守って投票先をおすすめしましょう」となる。
因みに「できるだけ投票に行きましょう」も選挙活動と言える。理由は後述する。
選挙活動がなければ、メディア以外の情報はなくなるので、選挙を行うのは事実上できないと言える。メディアも選挙活動の様子と、世論調査結果を報道するとが主な発信となるし、選挙活動が起点となって世論調査となるので、選挙活動を嫌う人は多いが、そもそも選挙活動がなければ選挙という民主主義は成立しない。
選挙活動を嫌う根本的な理由は自身の行動について指図される嫌悪感からくるもので、加えてめんどくさいので、ついつい選挙活動について、文句を言いたくなるのだ。
わかりきっていることだが、選挙はめんどくさいです。
紙で投票する選挙方法は時代遅れだ。選挙に行ける人は時間と心に余裕がなければ行けない。これは明らかに時代にあっていない。だが、ルールを改正するには投票しなければならない矛盾を常にはらんでいる。
プロパガンダは悪い意味で使われることが多い用語だが、ここではその意味を含まない。「選挙に行きましょう」は政府広報だという意味だ。もちろん例外はある。
なぜ政府広報は「選挙に行きましょう」というのか、それは投票率の低下は民主主義の崩壊を意味するからだ。
だから「選挙に行きましょう」は「民主主義を守ろう!」と転換できる主張である。だが、大多数が選挙にいかない(行けない)ので、これはすでに一部の国民と政府広報における実質的な選挙活動になっている。
「選挙に行きましょう」が民主主義の唯一の回答と捉えられかねないが、それは間違っている。だが、他に現時点で有効な対策は考えられていない。
白票は「政治に対する不信感への表明」と受け取られるのに対して、棄権票は「政治に対する無関心」と言われているのが通説だ。
めんどくさくて白票にした人だっているはずなのにそれは糾弾されない。
だが、この通説には根拠が無い。”選挙に行く人”は「選挙にいかない人」と「選挙にいけない人」を区別できないので、
体良く意味付けをしただけだ。ここに気がつくかつかないかで、棄権票の意味が大きく変わってくる。
論理的に言える白票と棄権の違いはせいぜいが「投票所にきた人」と「来なかった人(来れなかったを含む)」だ。これに勝手な意味付けをしても議論は空論に終わる。
つまり、棄権票は一方的に「政治に対する無関心」とまとめられがちだ。だが、「選挙に行きましょう」運動の意味するところは、政府が”投票システム”の変更に前向きではない印象を与える。
棄権には様々な理由があるに違いない。最近は棄権理由を一方的に決めつけて、自己の主張を通そうとする人が目立ってきた。
あえて定義するなら「平和に平等に国家運営しましょう」というぐらいの意味だと僕は思っている。今の投票ルールでは国民の約半数が政治に参加していない事実があるので、残りの半数をいかに参加できるようにするか、これがより良い民主主義を目指す起点となるべきだ。
オウム返しに同じことを言われては、嫌になるに決まっている。
この辺の共通認識が足りていないので、投票率に対する議論は不毛に終わることが多い。共通認識が確認できないのですれ違いになり、互いの主張を誤解しあうのだ。