はてなキーワード: 看板とは
標題は「~理由を国際関係論という学問の用語を使って説明したい。」とした方が正確である。
しかし、それでは読んでもらえないと予想したので標題のようにしている。
自民支持されるのはおかしい( https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/DocSeri/status/1342720709873692672 )というエントリが人気だ。
それでも自民党が支持されるのは、外交と安全保障政策を任せることができる政党が自民党しかないからだ。
学術的に言うと国際関係論という学問では、High and low politics ( https://en.wikipedia.org/wiki/High_and_low_politics ) という言葉がある。
High politics とは、外交や安全保障といった分野を指す。
Low politics とは、High politics 以外の分野を指す。
High politicsでの失敗は、国としての存在に関わる。
Low politics もまた重要であるが、Low politicsが成功するには、High politicsの領域で国が安定していることが必要不可欠である。
そのためHigh politicsはLow politicsにまして極めて重要である。
High politicsで失敗するとどうなるかは、パレスチナ、イエメン、アルメニア、ウクライナ、ウイグル、チベット、【イラク】(2020-12-28 10:48追記)、そういった国々ないしまたは"地域"から学ぶことができる。
立憲民主党・その母体である民主党系の政党は、High politics を軽視している。
例えば鳩山首相(当時)は、日本中央政府・沖縄県・アメリカのいずれもが同意していた辺野古移転案を白紙化し「最低でも県外」を推し進めようとした。
それは失敗に終わり、期待を裏切られる結果となった沖縄県は辺野古移転案さえも拒否する結果となった。
例えば蓮舫副代表(当時)は2019年、F35の105機の購入計画を爆買いだと批判した。
2020年の数字になるが、中国は第4・第5世代機を1080機保有していることに対して、日本は309機しか保有していない。
( https://www.gyoukaku.go.jp/review/aki/R02/img/s2.pdf )
これを踏まえれば、必要な装備水準について現実的な対案を提起することなしの批判は支持できない。
こうした例から、立憲民主党とその母体はHigh politicsを軽視していると私は判断している。
不祥事を繰り返す自民党の議員たちは実に不快であり有害であると個人的には思う。
だからといって、High politicsを軽視した政党を支持することはできない。
そのためHigh politicsの分野で信頼できる政党ができるまでは、自民党を消極的に支持するしかない。
2020年9月10日の毎日新聞によると安倍政権への世論調査で
「最も評価が高かったのは外交・安全保障政策で、「評価する」が57%で、「評価しない」の27%を大幅に上回った。」という。
( https://mainichi.jp/articles/20200910/ddm/012/010/100000c )
2020年9月3日の朝日新聞でも、世論調査で最も支持されたのは「外交・安全保障 (30%)」であった。
(https://www.asahi.com/articles/ASN937F3RN92UZPS005.html)
こうした調査からも、自民党が支持される理由がHigh politics を重視し現実的な安全保障政策を取ってきたことにあると考える。
いただいた人気コメントと、新着コメントのうちいくつかにたいしてコメントしたい。
そんな大上段の話ではなく、ドブ板(冠婚葬祭や学校・地域の式典・イベントに顔を出す等々)と地盤(後援会)の過去からの累積が効いてる、って話では。単純接触効果は偉大ですよ。天下国家論じるだけでは選挙勝てない。
ドブ板地盤看板鞄が55年体制から現在まで自民党を支えたことは、私もそう思う。
しかしドブ板地盤看板鞄では、安倍政権が終了時に世論の支持率が上昇し、その評価する政策として「外交・安全保障政策」が一位となったことを説明できない。
北方領土が返ってこなくなったり,拉致被害者が返ってこなくなったり,Googleマップでミサイルサイト決めたり,自衛隊幹部一同が会食して一斉感染したり,high politicsってスゲェな!
4つの反論のうち拉致被害者の奪還の困難さを評価するのは難しいが、その他3点について言及する。
まず一般論として他国が実効支配している領土を交渉で返還できるのは極めて稀なケースで、北方領土が返還されなかったからと言ってただちにhigh politicsを軽視しているということにはならない。
ただし安倍政権がロシアのナイーブな善意を期待して対露譲歩(2島先行返還論への転換)をしたことが何ら成果をあげなかったことは特筆すべきであり、安倍政権が対露外交で大きな失敗をしたことに同意する。ロシアには善意や信義は通じない。国際関係論でいうところのrealism学派の外交理論を全面採用すべきであったし、せめて今後はそうあるべきである。
イージス・アショアの配備予定地の選定に防衛省担当者がGoogleマップを使用したか、及び自衛隊幹部一同が会食したかどうかについては、自民党がhigh politicsを重視しているか否かという論点には関係がない。
具体的な反論または質問の形に書き換えていただければ、解答したい。
「学術的に」という言葉に違和感を覚える方がいるのは理解できる。
というのも、「学術的に」とは曖昧な表現であって、この場合は「国際関係論という学問の用語を使って」という方が適切なのが正しい。
そうしなかったのは、そのタイトルだとたぶん読まずにスルーされてしまうだろうと予想したため。
例として挙げた辺野古政策、F-35、世論調査結果の全てにおいて議論が単純化され過ぎていて、「学術的??」となる。居酒屋の隣の席のオッチャンが言ってた。
単純化しなかった場合の議論とはどのようなものか説明してほしい。
「学術的に」は先述のとおり。
3点の反論にそれぞれ解答する。
1点目、普天間基地問題の解決は日米安全保障条約の運用の安定性に寄与することであり、日米安全保障条約の運用の安定性を向上させることはhigh politicsな課題にあたる。
2点目、戦闘機について。蓮舫氏は35に変わる代替機種などの提案した上で批判したのではなく対案なき批判となっている。
蓮舫氏が代替機種、あるいは戦闘機の購入よりも安全保障を向上させる装備体系の提案をしたのであれば、その内容に応じて賛成または反対をする。
3点目、防疫は安全保障の問題ではないか、という指摘はそのとおりだと思う。
具体的な反論または質問の形に書き換えていただければ、解答したい。
結論から先に考えてないかな?書かれていることは仮説でしかない気がします。データの根拠が弱い(30%って)ので、追加のレポート期待しています。
ただ、実験のできない、さらに統計もとれない分野ではこれ以上の根拠を持ってくるのは難しい。
「それでも自民党が支持されるのは」ではなく「それでも俺が自民党を支持するのは」だろう。太宰メソッドだ。Objectだけを分析してもSubjectの行動の理由を説明したことにはならないだろう
元国際関係論の学徒だが、もう大学の図書館にも電子ジャーナルにも入れない、本も経済的な事情で売ったので
そこは多めに見てほしい。
①筆者の挙げるパレスチナ、イエメン、アルメニア、ウクライナ、ウイグル、チベットの置かれている状況を日本に当てはめるのが妥当と言えるのかどうか。(経済力・人種・宗教・資源・地理)
High politicsに失敗した場合、例えば北朝鮮の核攻撃を主要都市に受けた場合に
それらの国々と日本の状況に大差はなくなると私は考える。
②外交・安全保障をHighとして、内政をLowと位置付ける概念は、政治学の中でメインストリームなのか、またそれは軍事関係者などのイデオロギーに影響されてないものなのか(引用にWikipediaっていうのも?だし、Wiki自体にも引用文献が少ないから疑問に思った)
国際関係論には、大きく分ければ2つの学派がある。1つはrealismで、もう1つはliberalism。
realism は、High politicsだけに関心がある。
liberalism は、High politics以外にも関心がある。だが、最も重要視するのはHigh politicsであるという見解はrealismと共通している。
これはliberalismの中心人物であるJoseph Nyeという学者が「安全保障とは酸素のようなものであり、それが希薄になり息が苦しくなるまでは、人々はその重要性に気づかないが、実際にそうした状況になれば、それ以外のことは考えられないほどに重要なのである。」と著作である「国際紛争ー理論と歴史」という本で述べている事実が端的に説明している。
「政治学」まで広げた場合はメインストリームかどうかはわからない。
「日本の、国際関係論を除く、政治学者」の間でのメインストリームではないとは感覚的には思う。
民主党政権時、外交側を軽視していた事例があった、としか書いてないような…。自民党が外交を重視しているとも、その結果が支持に繋がるという根拠もちとわからず…。
ご指摘のうち、「自民党の外交が支持されている」のは朝日・毎日の世論調査の結果で説明できていると思う。
「自民党が外交を重視している」例がないのはそのとおりだと思ったので追記する。
例として最も適切なものは、「自由で開かれたインド太平洋」構想の定着だ。
「自由で開かれたインド太平洋」構想は、麻生外相が2006年に行った演説にある「自由と繁栄の弧」 (https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/easo_1130.html) 構想、ないしは2007年の安倍首相のインド国会での「2つの海の交わり」「安全保障ダイアモンド」(http://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2020/2020-01_003.pdf?noprint) に起源がある構想だ。
これが、例えば2020年のアメリカ共和党の国家安全保障戦略報告書でも日米豪印(Quad)協力の継続・支持が提言(https://jp.reuters.com/article/idJP00090300_20200618_00220200618)され、アジア版NATOであるかと議論されるまでに定着した。
国際政治学者の細谷教授は、自由で開かれたインド太平洋に対して「過去1世紀半の日本外交の歴史の中で、これほどまでに日本が提唱した外交構想が国際社会に浸透して、幅広い支持を得たことはなかったのではないか。(https://apinitiative.org/en/2020/12/21/14345/)」と述べている。
「自由で開かれたインド太平洋」構想は自民党外交の最大級の成功であり、自民党が外交を重視している根拠としては最も適切なものだと考える。
「ないし」は漢字では「乃至」と書く.
最近の辞書には「または」の言い換えとしても見えるが, 「または」とか「やら」を使っておくのが賢明だろう.
「ないし」を使うと高尚で学問的な感じが出るためかネット論客はむやみに使いがちだが, 諸君, 漢字の意味をきちんとわかってて使ってるだろうか.
ご指摘ありがとうございます。修正しました。
(アドベントカレンダーからのリンク先が思いつかなかったので、ここで生成する。)
はい、そういうわけで、ですね!TUTのちょっと良いところ、言ってみたいんですけど!
東京工科大学だと思った人、残念ながら帰っていいですよ!
今はホットなのはそっちのじゃないほう大学です、ギコ大です!技科大です!
ちょっとあらぬ感じアレだったことを観測したので・・・時を戻そう。
(この記事は12月に23日のアドベントカレンダーからリンクされています、ていうかする予定ですという分かりづらいボケです。
だって26日より先が空いてなかったどころか枠がなかったんだもん。もんじゃねーよ。)
都会度というか、その辺りは
で、私自身技科大から豊橋駅に行くには上京する心づもりでした。
あとこれは200x年頃のお話なので、今は全然違うかもしれません。
◆環境◆
・豊橋のさらに奥の僻地にあり、近場のミニストップを神のライフラインとして崇めていた
・その次に近いのが徒歩10分位の距離にあるすき家(都会のライフステーション
・イオンに初日に行った帰りに迷うほど、目印の少ない牧歌的な風景
・最低でも原付は欲しいところ。なので学内で原付の売買がお盛ん
・それでも鋼の意思でチャリと徒歩で生き抜くならば毎日がエクササイズという特典が
・なのでお出かけの基本は車となり車を運転できる人間はそれだけでデキるやつだった
・車に全員載らない場合は車と単車、原付、場合によってはチャリで編隊されて行軍する
・大学はそれくらいの秘境にあるので、その寮へのネット回線はボッタクリナロードバンド月5000円一択のみ
・貧乏学生のライフライン、業務スーパーは普段生活のみならず学園祭の仕入れにもお役立ち
・なんで飛んで火に入る夏の虫のごとく、緑の看板には生活を求めて日々飛んで行ったよね
・ブレーカーを数部屋で共用する男子寮。ドライヤーひとつで数部屋を道連れにするスリル
・当然クーラーなんてないよね~、あんな貴族の嗜好品。夏の猛暑はアイスノンと扇風機で生き抜くサバイバル
・当然激セマ君ではあるのだが、寮費が光熱費込みで1万も行かなかった(5000円位だったか?
・貧乏学生をしていたので、食堂はあまり記憶にございませんねぇ
・バカ舌もあって味噌ラーメンとかはそんなに悪くなかったような
⇒そんな感じで、今や絶滅種の「昭和の貧乏学生」生活が送れる素敵な場所です。
◆勉学回り◆
・学生のほとんどは高専病に起因する英語ヨワヨワなんで許してあげてほしい
・というか高専教育が悪い。今は変わってきてるのかもしれないけど
・中学からの受験以降、受験とほぼ無縁で単位取得のサバイバルのみで生き延びた学生が多いイメージ
・なんで、興味範囲以外はいかに取りやすいか、いかに出席や提出物が少ないかが授業選択の最重要ファクターの学生がいたとかいないとか
・自分の居た系のみかもしれないが、大学で割り当てられるアカウントの個人領域のディレクトリに学生番号出来られていて、他からも見ることができた
・そこには過去の学年のレポートとかが眠っていた。なんで、そこから引っ張ってレポート提出する学生もいたとかいないとか
・だがまぁ、それは誰しもが考えるので、過去の有料レポートを提出すると中身同一レポートが教授のもとに集まり、諸共無言で最低点の裁きを受ける
・院試は自分の苗字名前をケアレスミス無く書ければ徹程度の難易度
・先生はダイバーシティの極みの極み、二重の極みで、まともな人、あきらめ系、変人などなんでもござれだった気がする。
・他と比較できてないからわからんけど変人の比率は高かった、と思う
⇒背景、状況から「普通ではない」ふいんき(なぜか変換できない)が醸成されていたのは事実かなぁ
◆サークルとか◆
・そんなわけで、高専からの入学がほとんどの技科大サークルはちょっと関係が難しい
・具体的には3年生新入部員と2年生の先輩部員という時空のひずみ
・とはいえ、3年生新入部員と3年生先輩部員も発生しうることから大概は学年で先輩後輩関係は形作られる
・ただし、そこにさらに時空の法則を破る留年先輩が出てくるがそうなるともう、年齢で判断することになる。
・そもそも、サークル活動的なのはあまり活発ではなかったイメージ
・ほぼ男子校の技科大生のあこがれ「愛知大学」との連携で女子とのキャッキャウフフを夢見る生徒も多かったとか少なかったとか
・あ、そうそう。サークルだけではなくて愛知大学と連携していて、確か愛知大学の図書館も使えたはず
・数式をおかずにして飯を食えと言わんばかりの糞高い技術書しかない技科大の図書館に比べて、文学教養の良書がタダで借りられる裏技があるんですよ!
⇒陽キャは居たにはいたけど、レア種でしたね。居ても、フェードアウトするとか。3年の夏休み前にパチプロになると聞いて以来、音信不通の彼はパチプロマガジンとかに出ているのかな。出ているといいな。
なんだろう、ぱっと思った限りこんな感じ。
うーん、まぁ学生生活にはちょうどいい閉塞感で、自分としてはこの環境を楽しませてもらいました。
なんか思い出して行きたくなるくらいには。
総武線で新宿を出て三鷹方面に向かうとき、中野で停車する時間が無駄に長い。誰も乗り降りすることはないのに列車はドアを開けたまま停まっている。この時間がほんとうに長い。停車時間は2分とアナウンスが入るが、この2分はぜったいに2分じゃないと感じる。中野から2駅あとの阿佐ヶ谷で降りる自分にはこれがいつも軽いストレスだった。
中野でこれから2時間停車と車内放送が聞こえたときには、聞き間違いだろうと思った。先週までは(たぶん)2分後に列車はきちんと走り出していた。だが乗客はどんどん列車を降りていき、車内には自分だけになった。東日本国有鉄道の業績が疫病のせいで傾いていると新聞に載っていた。そのしわ寄せが来るとしたら中野のような所なのだろう。しかたがないから降りたが、中野でなにかをするあてがあるわけでもない。
中野は阿佐ヶ谷に比べると殺伐としているので、本当に用事があるときでないと降りない。改札には人が立って切符に鋏を入れていて、SUICAは使えない。さんざん並んで一時降車証明書をもらって駅を出ると、乾いた小便の臭いが鼻を突く。駅の軒下には浮浪児がたむろして寝転がったり莨(たばこ)を呑んだり、片足の傷痍軍人がアコーディオンで天然の美をプカプカ弾いたりしている。
駅前に広がる街があきらかに茶色い。泥のなかに崩れかかったバラックがごたごたと並んで店を出して、どこの盗品かわからないようなベルトや万年筆、シケモクをほぐして干したものを売っている。食べ物といえばすいとんやじゃんぎ丼のようなものを出す屋台しかなく、労務者が地べたにしゃがみ込んで丼を掻き込んでいる。疥癬で背中がボロボロになった野良犬が物欲しそうにそれを見ている。
中野で途中下車する乗客をあてこんだ商売も出始めていた。ピンク色の法被に黒のスラックス姿の男が、新しめのバラックの前に立っている。そばを通ると、「発車までお遊びどうですか」と声をかけてきた。傍らの看板には毛筆で『列車ヲ待チナガラ花ビラ大回轉 一時間五千圓ポツキリ』とある。いくら時間があっても密室で接待を受けていたら疫病にかかるかもしれない。とても無理だなと思いながら通り過ぎると、サラリーマン風の男二人が店に入っていった。
最近都内で増えている屋外の娯楽がパブリックハンギングだ。中野駅前の広場にも櫓ができて、周りに人が集まっている。場所にもよるが1000円くらい払うと、櫓の上に設置した処刑台に人を吊ったり、自分が吊られたりすることができる。目隠しをした相手の首に縄をかけるか、自分がそうされるかを選べる。吊られた人はすぐに下のトランポリンに落下して大きく飛び跳ねる。野次馬は拍手したりしなかったりする。他愛ないといえば他愛ない遊びだが、最近なぜか流行っていた。世相のせいだろうか。
そんなに刺激を求めているわけではないが、スマートボールはこの前やったばかりなので、結局自分はうずら園で時間をつぶすことにした。入場料を払って囲いの中に入ると、うずらがたくさんいて地面を歩き回ったり、藁の上に休んでいたりする。その辺を探すと卵が見つかることがある。これは持って帰ってよいことになっている。うずらの攻撃を避けながら制限時間内に卵を探すだけの地味な遊びだが、自分はこれがけっこう好きだった。
駅から徒歩5分ほどのところにある中野のうずら園は、それなりの規模だった。囲いの中には植え込みがたくさんあって、2、30羽はいるうずらが好き勝手にやっていた。真ん中には丸いテーブルと椅子があり、ポットからお湯を注いでハーブティーを飲めるようになっていた。
ミントティーを飲みながらうずらを眺めていると、植え込みの中に先客がいることに気づいた。グレーのスーツにスカート姿の、髪の長い女性らしい人がしゃがみ込んで、両手で顔を覆ったまま動かない。
囲いのゲートが開いてまた一人やってきた。背の高いおじいさんで、白髪交じりの長い髪は何年前に洗ったのか不明なほど汚れていて、フエルトのように固まっていた。染みだらけの黒いベンチコードにピンストライプのスラックスをはいていて、左右の靴が違った。おじいさんは恍惚とした満面の笑みで、腕を上げてゆっくりとしたリズムの手拍子を打ちながらこちらに近づいてくる。手拍子は歌にあわせていることが、近づくにつれてわかる。あーいあーいおー、あ、あーいあーいおー、あ、ああーいああんあああっあっあいあー、あっ、おあいおああんあああお、ああいああんあああーお、ああいおあんあああっあ、あいおー。これはあれだ。植え込みにうずくまったままの女は動かない。あーいあーいおー、あ、あーいあーいおー、あ、ああーいああんあああっあっあいあー、自分は手拍子だけでつきあおうと思ったら、あーいあーいおー、あ、あーいあーいおー、あ、ああーいああんあああっあっあいあー、電車の発車時刻はおあいおああんあああお、ああいああんあああーお、ああいおあんあああっあ、ああいおあんあああっあ、あいおー
一部ツイフェミの罪の連帯責任を誰かが負うべきとも思わんし、そんなの誰にも不可能だけどさあ
アカデミアでちゃんとした問題設定してなんか解決のための政治指針きめたとしても
冬休み始まって(年末また出るけど)少しヒマなので前から言いたかったこと書くわ。
いつからだっけな。
多分DLCが本格化しだした頃からなんだけど「ゲームは一度お金払ったらずっと無料で遊べるべき」みたいな勢力が出てきたんだよ。
その昔からオンラインゲームだとアプデのたびにちょっとずつ課金要素追加されてくとか結構あってユーザーも「まあ金払わねえと潰れるし大型アプデ来んのは歓迎だわ」ってことで割と好意的に金払ってた。
そういう界隈にまで奴らは攻め込んできて「基本無料なんだから全部無料だろ!」みたいなレベルで暴れ始めた。
それが最近はソシャゲ叩きに移行していって「ガチャゲーはクソ。最後まで無料で遊ばせろ」みたいな事言うようになった。
いやおかしいだろ。
趣味じゃなくて仕事で作ってんだからどっかで金稼がないと無理だわ。
『誰かが仕事でやってることは、誰かが給料を手に入れられるようになってないとおかしい』って当たり前のことを理解できてない人は昔のインターネットにはほとんどいなかった。
ADSLが出来た辺りから接続の苦労も知らず親の用意してくれた環境に丸ごと乗っかって全てが無料であるはずと思い込んだ経済観念の壊れたネット住民が生まれだした。
彼らが大きくなって立派な嫌儲民となり、購入厨という意味不明な概念まで生まれて10年ぐらい経ってる。
そうして今やそういった概念はネットでは「歴史のある党派」に数えられるような扱いでやたら堂々と振る舞ってる。
でも一度落ち着いて考えてほしい。
単にネットで長年騒いできた連中が大勢いるってだけで、自分らの言ってることが正しいと保証されることなんて無いってことを。
最近だと特に目につくのが「新作ゲームのガチャが渋い!許せねえ!」ってやつなんだよな。
まあ確かにガチャ誘導まみれのゲームって全くおもしろくはねえんだけど、それならレビューに一言「クソでした☆1」とだけ書いて去っていけば、多くの人が同じ感想ならそれが集まって凄い勢いの低評価レビューとして十分な破壊力を持つと思うんだよな。
これはインターネットの基本として覚えてほしいんだが、10人に1人が帰り際にキレてワンパンかましていくとユーザーが10万いるなら1万発のパンチが叩き込まれることになる。マジでヤバイ威力になる。(そしてそれで相手が死ぬと1万人全員に「最後の一発を入れた可能性」が出てくるので、誰かを殴る時はよく考えたほうがいい)
わざわざ必死になって「このゲーム本当にクソでしたよ[会社名]は本当にクソゲーしか作らないから皆で攻撃しましょうー!!」って呼びかける必要なんてねえわけだ。
ガチャの渋さも含めてゲームの一部なんだからそれに耐えられないならゲームを辞めればいい。
さっき10人に1人が10万集まると1万発のパンチをかますことになると言ったけど、1000人に1人でいいから手紙をちゃんと運営に送ると10万いれば100通の手紙が届く。
100通来てその中の半分に同じ内容が書いてあったら運営もそれなりに動く。
これはとあるソシャゲサイトのマスコットキャラクターが返金騒動が起きた際のことで口にした言葉なんだが、『あいつら騒ぎ立てるわりに意外と泣き寝入り体質で、Twitterとかゲームのコミュニティとかには「コインだけ奪われた!」とか書き込むのに、問い合わせて補填を受けようって発想がないんだよね。にじよめのゲーム以外でも、観察してると「まぢ詐欺だし。ホント最悪の運営です!」みたいな書き込みがちょくちょくあるわけ。そういう叫びを目にして、「おまえらそこであきらめるんだ!? 取り返しに行かないんだ」と最初は目を疑ったよ。』ってのがある。
堂々と請求できる場面ですらこうなんだから、そういう状況でなかったらマジで多くの人は文句たらたらの癖に本人には言わずに帰っていくんだろうなと思うよ。
でもそれって違うだろ?
「言いたいことがあるなら直接言う」ってのは基本じゃん。
お前らの大好きなゲームでもそれテーマにした話いくらでもあるよな?
つうわけでありがちな「このゲーム課金きつすぎますよ!」って愚痴りあいは言う相手間違ってると俺は言いたい。
ツイッターや5chで反対運動を呼びかける前に運営に投書しろ。
だいたい本気で投書するとそれで燃え尽きてもう他所で愚痴るエネルギーはなくなってたりする。
ガチャゲーのガチャ批判はある程度分かるんだが(ゲーム性クソになりやすいし)、買い切りのDLCにまで批判が行くのはちょっと分からない。
「買うほどじゃないなら買わなきゃいいじゃん。買いたいと思ったなら買えばいいじゃん」で終わる話でしかないはずだと自分は思ってるからだ。
モナリザの顔を切り刻んで「最近のゲームは作りかけ」って批判する画像が一時期流行ってたけど、別にアレはDLCが悪いんじゃないと思う。
軌跡シリーズなんてもう海外ドラマと同じような感じでどこまでいっても終わりが見えないモードに入ってる。
DLCに対して皆複雑に考えすぎてるんだよ。
単に追加コンテンツが用意されて、それの制作費を改めてユーザーが支払うってだけ。
無料のほうが嬉しいって人もいるだろうけど、俺は作り手に金払いたいから有料なら有料でいいと思う。
コラボキャラクター1体数百円とかを高いと思う気持ちもあるけど、でもそれ作る過程で色んな人の作業があったろうし、要らん人は買わんってこと考えるとこれぐらいにはなるなと納得はしてる。その上で金出すかどうかは気分次第。
本当どこまでも気分次第でいいと思うんだよ。
本編が30時間クリア6000円なのにDLCマップ2時間クリア1000円ってコスパ2倍以上悪化してんじゃねえかゴミかよって思うのもユーザーの勝手だし、それでも買いたいって思うなら買うべきなんだよ。
結局俺たちは「欲しい物に金を払う」以上のことは考えなくていいと思うんだ。
文句言うところがあるとしたら看板に偽りがあるパターンだけで、たとえばDLCマップクリアに20時間かかるぞ!って言われて買ってみたらしぶとくアイテムドロップ粘ったら20時間ぐらい遊べるかもねのレベルだったときは、まあ愚痴っていいしレビューに書きなぐって「皆気をつけろよ!」と言ってもいいよ。
でもそういうパターンだけでしょ。
金払う価値がどれぐらいあるかが外から見て明白で、そして値付けがしっかりしてるんだったら、あとは買いたい人間が買うでいいんだ。
他人に「でもお前そのバージョンだと◯◯出ないじゃん」って言われても「そうなんだ。でも9割方差はないっしょ?」で終わらせりゃいい。
なんでそれが出来ないのかが不思議で仕方ない。
ゲームのガチャにしたって「俺は持ってないけどアイツは持ってる」って状況でも「じゃあアイツの上げた動画見て満足すっか」とかで終わらせりゃいい。
なんかこう自分が幸せにならない方向に完璧主義拗らせることを「正しい」って思いすぎてねえか?
多分これってオタクの持つある種の「実力主義的階級主義」による悪影響なんだよな。
結局の所オタク社会って体育会系かつヤンキー系な社会で、野球部のエースは女子マネに肩もみ強要させつつ後輩に100円渡してハーゲンダッツ買いに行かせても許されるみたいな世界観なのかなって。
「カラスが白いかどうかを決める権利は誰も持ってない」ぐらいの感覚で生きちゃダメなの?
前置きが長くなりすぎたな。
暇にあかしてって奴か。
今回本当に自分が言いたかったのは「好きなゲームにお金払えるのって幸せじゃね?」ってことだったはずなのに。
いきなり言っても共有してる世界観のすり合わせが出来てないと噛み合わないじゃん?
まず「ゲームにお金払うの反対って意見が多いけどさ」があってからの「でも、ゲームにお金払うのっていいじゃん?」なわけよ。
好きなゲームに課金要素が出来るのってユーザーとしては「プラス」だと思うんだよね。
だってそれはユーザーに金を払わせようと思えるだけの何かがその世界に追加されたってことなんだから。
作り手が何らかの作業をした結果として、その代金を徴収してきてるってことは、そこに商品があるってこと。
フルプライスの商品だと「未来のユーザー購入を見越して企業が人を雇って商品を作る」ってのが見えるし、クラウドファンディングなんかだと「商品がこの世に生み出されるための準備金としてユーザーがお金を集める」って行為が可視化されるからわかりやすいけど、ゲームの課金要素でもそういうの見えにくいだけで結局一緒だと思うんだ。
新しいコンテンツが提供されるから、それをお金払って購入するっていうだけでいい。
ソシャゲで新キャラがガチャに追加されるのも、それはそのキャラを作るのにかかったお金と、そのキャラが出てくるまでの間そのゲームのサーバー借りたりメンテしたりするのに使った諸々の費用を払ってるだけなわけで、そこに納得するならそれに金払えばいいんだよ。
まあ困るのはPvPゲーで課金するとやたら強くなるパターンだね。
アレはもう「金を払うと強くなれる」まで含めてのゲームだと割り切るしかないね。
でもそういう例外を除けば大部分のゲームは「納得したからお金を払う」って形を取れるようにしてると思うんだよ。
だから「納得できないからお金を払わない」をユーザーが選んでもいいし、それについて他人がとやかく言う必要もないと思う。
そして、その両者についてやたらめったら本人以外がわーわー言うのはおかしい。
それでも納得ができないなら、そのときは作った側に投書だな。
そしてお金使ってない人でも楽しんでいいって思おう。
なろうアニメだかいう、負け組底辺の寝る前の妄想みたいなアニメとかやってっけど、あれたまに作者はITエンジニアだとか企業の人事部長みたいな看板で喧伝してんじゃん
ああいうの本気でやめて欲しいと思う、大体内容は現実でダメでクソだった自分でもプログラミングスキルだとかで無双して人生逆転、ITはこれからの時代の旗手だ!人生を切り開こう!みたいなの
大体IT知識とか技能に自信があるとか、本当のその業界で一線で働いてるなら、小説なんか描かないからね、んな時間ないし、そして、IT業界でいい年こいたオッサンやニートが未経験で入って生き残れる確率なんて、ノルマンディー上陸作戦の最激戦区並で五体満足で生き残るのと同じくらいの確率だからね
だってITエンジニアの作者がいってんだから間違いないじゃんっていうけど、普通ならそんな暇ないからなそういう人らって
本業がやってるかどうかわからんけど、そもそも役立たずの能無しで相手にされなくて暇だからレベル下げまくったからなろうだとかオタクコンテンツみたいな似たようなところに流れ着くんだろ
半端なにわか知識を喧伝されて一番困るのは、その業界の人間以上に、それに騙されるそんな小説だかアニメにハマるようなマジ底辺だよ
10年位前から、web系ならニートや底辺でもプログラミングスキルあれば無双できて彼女できて人生逆転可能なんて、
アニメだかゲームだか、情報商材屋に騙されて、ただでさえ対人能力マイナスの奴らが、web業界に入っていってはフルボッコにされて、何万人の奴らがこどおじヒッキーや自称フリーランスの障碍者手帳付き💩製造機になったよ?
ほとんどのやつらが、身の程弁えてりゃ、普通にそこらの飲食チェーンの正社員とか、中小企業あたりとか、スーパーの正社員あたりで落ち着くところに落ち着いていて、死ぬくらいしか救いがないような致命的な人生脱線なんて起こさなかっただろうにな
IT業界も長くいると、そんな奴らがいっぱい入ってくるけれども、枕を並べて討ち死にして双方悲しい思いをして涙の撤退みたいなの、いい加減悲しいし不毛なんだよ、だからやめて欲しい
煽りたてるなら仮面ライダーとかプリキュアとかさ、魔法少女でもいいよ、実在しないもので底辺人生の人間をあやしてやってくれ、頼むから
なるほど
自分で自分に納得して授業を進めるスタイルと、もうちょっと受講する側への質問などの配慮があれば問題なかった
質問タイミングもまったく取らないわけでもなかったはず、記憶はもう曖昧だが
これで授業のレベルが低かったら単にバカにするのであるけど、レベルは高かったし、授業自体は比較的分かりやすかったのである
どんな秀才でも天才でも何かの講義を聴いていれば疑問に思ったりすることもあるはずである
しかし、自分で自分にうんうん言う癖はそういうタイミングでかなり悪印象になるのだなと反面教師に思ったりもしたのである
その物理の教師と化学の教師、特に有機化学に関しては本当に感謝している
自分が通っていた高校は一応進学校であるのだが、端的に言って看板に偽りありであった
偏差値が高いだけで教師や授業のレベルは平均的には低かったのである
だから、かなりの生徒が高1から内職、つまり授業中に授業と異なる勉強をする始末であった
もちろん、そうでない生徒で優秀な奴もいたので自分が間違っていたのかもしれない
が、現実は現実として間近で見ることで愕然としたのも事実である
自分が落ちた公立高校の方がまともなカリキュラムもあり、多くの東大合格者も出していた
自分は東大なんぞに興味はなかったが、学費に見合わないレベルの低い授業を買わされるというのに憤慨した
しかし、就職と同じで一度入ってしまったら簡単には変更は不可能である
高校に頼れないというのであれば、自分も自己責任で自学するしかない
これは救いだった
自分にうんうん頷く物理教師は、自分だけでなく当然みんなの笑いのネタでもあったわけだが、
多分、みんなもその教師を慕っていたとは思う
自分はその教師の人柄にどうこう思うことはなく、授業を評価しているが、見た目の範囲では紳士な人だった印象がある
教師のモノマネをすることで笑いを取ることが昔の自分にはあったが、単純にバカにしているのではないのである
人には癖がある
多分、自分にも自分では気づかないが他人から見れば奇異に見える癖がいくつもあるはずである
それが他人に笑いや苛立ちを誘うわけであるが、本当に癖である場合、そこに悪意はないのである
苛立ったとしても、そういうモノマネで吹き飛ぶ程度の苛立ちである
愛の反対は無関心とも言うらしいが、モノマネもされない、印象に残らない、
正直「しずかちゃんのお風呂を覗くシーンはやめろ」と言いたくなる気持ちはわからんでもない。
時代遅れというのもわかる。
でも、それなら、一人一人が「見ない」という選択をして、それが積み重なれば視聴率が下がり、「時代遅れの描写が悪いんだ」と制作者が気づいてアニメ自体が変わることにつながる。
だから、今できることは「合わないものは見ない」ことだけなはず。
縛り付けられて見せられているわけじゃないんだから。
署名する人たちの怖いところは、「自分たちの基準で何かを排除していい」と思っているところ。
だから、「しずかちゃんのお風呂シーンもやめたんだからメロンブックスの看板も変えろ」とか、どんどんエスカレートするんじゃないかと思ってる。
しずかちゃんのお風呂シーンはなくなっていいけど、見ないという選択をせずに「認めないものはテレビで流さないで!」という要求がエスカレートすることが怖い。
見たい人しか見ないのに…。
今後、これが行き過ぎると、住み分けているエロゲーや同人誌に手が伸びるとしか思えない。
それがすごく怖いなと思う。
あと、子供たちの目に美しいものしか入れないという無菌状態で育てた方が成長してから爆発しやすいんだけど、それは私の基準だから反対する理由には使えないな。
上記の見当違いな増田に見当違いなブコメが大量についてたので適当に書く
オンラインで手続き完結できるような人はそもそもキャリアショップに来ない。
低価格に目が眩んで無理矢理ahamoに移る人もそこそこ居るだろうが、そういう人たちはむしろキャリアショップにより負荷をかけるだろう
今でもオンラインでできることをわざわざキャリアショップに来てやる人がahamoに移っても結局キャリアショップに押し掛けてくる。
そしてドコモの看板で売っている以上、いくら「ドコモショップでのサポートはしません」なんて建前を振りかざしてもドコモショップがahamoの客を切り捨てられるわけないんだからなし崩し的にサポートすることになる。
そしてそれはキャリアショップだけじゃなくて電話サポート窓口もそうだろう。
ahamoに客が移るとドコモ本体の実入りは減るのにサポートの負荷は多少減るだろうがahamoに移った客に見合うレベルでは減らない。
むしろ、サポートするべきではないahamoの客を弾くという何の価値もない仕事が増えて現場で働く人間に余計なストレスを与えるだろう。
結果、今まで以上にやめる人間は増えるから求人を増やして人を今まで以上に補填しないと仕事が回らなくなる。
サポートを削って価格を抑えるなんてほとんどのMVNOがすでに失敗した道なので失敗は確定している。
ちなみに、このほとんどに含まれてないMVNOは失敗がわかりきってるからはじめから手厚いサポート込みで始めてるので、
B2Cでサポート削って低価格戦略の成功事例は日本の携帯電話市場にはない。
むしろ、auとソフトバンクが対抗策に見せかけたできる限り自傷ダメージの低い施策を打ち出せるかどうかが携帯電話市場の壊滅を防ぐために重要。
その子はクセが強くて、強気で、いじめっこ的な気質もあって、私は苦手だなぁ…と思っていた。
実際、その子とはあまり仲良くならずに、稀に話すのみであった。
でもその子の絵は卓越して上手くて。
小学校の中では絵が上手い方だった私は、段違いに上手いその子の絵に、嫉妬さえ通り越した、憧れの念を抱いた。
その子の休み時間に描く絵は、街の電柱や看板にエアスプレーで落書きされているようなポップな画風が多かった。軽快で攻撃的で、少し怖い感じの絵。その子は目玉のモチーフが好きだったっけ。
その子の、美術の時間に描く絵は、普段とは違う雰囲気を持っていた。毒と繊細さとを纏っていて。その子の重い内面を予感させた。
これは今になって改めて気づいたけれど、その子は普段、強く振る舞うが、その実、脆くてセンシティブな性格だったろうね。
卒業式の後、教室に戻ってきて、クラス会も終わって、帰る時間となった。自由時間ができると、何人かの子たちが、卒業アルバムの最後の空白のページに、メッセージを書いたり書いてもらったりをし始めた。
私もいつの間にかそのやりとりに混ざっていて、そういうやりとりを何人かとしているうちに、いつの間にか教室がガランとし始めていた。あの賑わいは教室の中から、体育館の前やロビーなどの外に移っていたようだった。
教室は、まだセーターが必要なくらいには寒かったが、春の陽射しが、教室の床の木のタイルを暖めていた。
同じクラスにいた間、あまり会話もなかった私とその子であったけど、私は彼女に絵を描いて欲しかった。
と私は彼女にお願いをした。
すると、彼女はいつものごとく、めんどくさいなあとか、しょうがないね!みたいに小言を言いながら、でも、楽しそうに私のページにイラストを描いてくれた。
卒業式の日も、その子の筆箱にはずっしりとたくさんの色のサインペンが入っていて、色も選ばせてくれた。
よくてドコモの他社への流出防止(ただし顧客のARPU低下)だし
悪けりゃARPUの低下に加えてドコモの看板で売ることにしてしまったせいで
ドコモのサポート受けられると勘違いした客を現場がサポートせざるを得ずサポートコスト増えて自滅まである。
とはいえ、現パワハラ政権相手にガン無視するとどんな報復があるかわからんから上っ面の対抗策は必要だろう。
せっかく時間と人と金をかけて多少問題あるとはいえMVNO市場を作り上げてきたこれまでの苦労が水の泡だ。
人の努力って一瞬で無にできるんだよな。
https://anond.hatelabo.jp/20200803190330
投稿して以降、記事への反応の部分しか見てなかったんだけど、『ブックマークコメント』を見落としてました。
たくさん意見を頂いていて、ありがとうございます。しっかりと読ませて頂きました。
ごめんなさい、一つだけ訂正を…。
私は、自分で神絵師と思っているわけではなくて、『神絵師が云々という意見の、この神絵師の部分は私のことを指して言っている』と表現したかったわけで…けして自分で神絵師だと思っているわけでも、自称しているわけでもなくて…。
『奥付や後書きなどに彼女の名前を入れる』『彼女が協力者であると発信する』というコメントをたくさん頂いていた。
もちろん奥付に彼女の名前を入れるし、後書きか挟み込みペーパーで彼女がどれだけ尽力してくれたかを書くつもりだ。
でも、なんというか、そういうの書いたところで彼女のことを非難してる相手に痛む心はないんだろうなって思う。
彼女が協力者であることを発信しても、彼女のアカウントをブロックし、彼女の名前をミュートしていたら、こちらがいくらツイートしても届かない。
彼女と共同サークルという形にすることや、彼女を購入の窓口にする(つまり彼女をブロックしていたら買えない)形を取ることは一番に考えて、彼女に提案をしたんだけど、『お前の名前とキャラで売ってる部分も大きいんだから、わざわざ自分を挟んで売上が下がるようなことをしなくていい』と言われてしまった。
どなたかもコメントに書いてくれていたけれど、『こいつ、自分が大嫌いな人間が作った本を有難がってるんだよなwバッカみてえ〜w真実を知った時の顔が見てえ〜w』とゲラゲラ笑える…とまでは言わないが、友人は『嫌っていた人が作った本を大事にしてるとか想像しただけで笑える』って言ってた。
彼女のことを批判している人をブロックしないのは、彼女に言われているのだ。
『お前のことを言っているわけじゃないんだし、私を嫌っているだけで本は買ってくれるんだから、迷惑料として売上に貢献してもらおうって思ってるのに、自分から売上減らそうとするなよ』と。
『そんなこと考えるくらいなら1冊でも多く売ってボーナスくれ。ちなみに絵の稼ぎ以外での金は受け取らない』と。
さっきも書いたけど、彼女を批判していた人が本を手に取って、奥付に彼女の名前があったり挟み込みで彼女の功績を讃えたりしても…やっぱり心に罪悪感とかは抱かないんだろうなって思う。
なんか、人間って『見たいもの』しか見ないじゃん?奥付に彼女の名前があっても突然そこだけ文字読めなくなったりしてんじゃないかなって。
商業漫画家がスペシャルサンクスに協力者の名前を入れても、読者からしたら『誰ソレ?』だし、いくら発信しても彼女の名前を出しても、私のフォロワーは『私の本(グッズ)』だと言う。それが歯がゆい。
彼女の最大の意向が『私は何言われてもいいから1冊でも多く売ること』だし『積極的に売上を減らすようなことはするな』だし…自分に無関係なら先行ブロックもするな物申しもするなって…この子なんでこんなに精神が鋼なの。羨ましい。
今私が彼女の為にやるべきことは、本を1冊でも多く売ること。
元々彼女は私の絵のファンだった。感想をくれて、仲良くなって、私の絵を愛してくれて、その愛情が重すぎて鬱陶しく思ったこともあるけど、彼女はずっと『絵師』『アカウント名』といった表面的な看板を越えて、その奥にある私自身に接してくれた。
だから私は、彼女が好きだと言ってくれている私の絵で、彼女に恩を返したい。
私の本を手にとってくれる人たちが、彼女の存在を認知してくれて、『本を出してくれてありがとう』という言葉を私だけじゃなくて彼女にもかけてくれることを願っている。
MVNOはキャリアのサブブランド以外は大体それを夢見て、そんな客大した数居ないっていう現実に打ちひしがれて
ahamoが好意的に受け止められてるのも「ドコモのサポート付きで安い」という誤解と「どうせなし崩し的にドコモショップでサポート受けられる」という打算込みのものもがかなりあるだろう。
個人的な予想としては、建前でどれだけ「ドコモはサポートしません」と掲げたところで
ドコモの看板の下で売られてる商品のサポートをドコモショップが突っぱねられるわけないので
なし崩し的にサポートすることになって、ドコモショップの店員とMVNOがしわ寄せ食らって死ぬと思う
かといって強引に突っぱねたらクレーマー大量発生でコスト削減のためにケチったサポート窓口の非正規職員がストレスと業務過多で死ぬと思う
渋谷区で一人暮らししていたが、祖父はいくつか不動産を持っており、その1つを生前贈与されたので住むようになった。場所はほぼ埼玉の東京の某市。
が、引っ越しして1年ほどたって耐えられなくなってきた。本当につらいし、東京市部を心の底から舐めていた。都心で生活できることのすばらしさを舐めていた。住環境というものを過小評価していた。
俺と同じように代々東京で、ずっと東京で生活していて、でも都心の家賃は高いから市部の生活も悪くないかもと考えている都民は多いと思う。そいつらに全力で警告したい。
・東京の生活に飽きたから田舎で生活してみたい、は絶対後悔する
幼い頃からスーパーに東京野菜というのが売られているのを見ていたし、親に練馬では大根を作っているという話を聞いていた。しかし、実際自分の目で東京の畑を見たことがなかった。厳密にいえば、新幹線や自動車に乗っているときに窓から見ていたことはあっただろう。しかし、それがほんとうに東京であることを意識したことはなかった。
実家の裏手には某美術館の庭園、一人暮らしの家からは某公園があったので自分の部屋から小さい森みたいなものは見えていた。自然から疎外されて育ってきてはいないはずなのだが、いま外に見えるのは洒落た庭ではなく畑である。同じ植物でも庭園と畑の決定的違いがある。食べるための作物か、鑑賞のためだけにつくられた緑か、という点だ。
その差は小さいようでかなり大きい。畑をメンテナンスしているのはしがない農家のオジサンだ。聞こえてくる音は見た目を整えるチェーンソーではなく、収穫するためのトラクターだ。
生きるために必要であるとはいえ、そのプリミティブな行為が自分の生活圏内にあるということは大層居心地が悪い。
東京に空が無いと誰かが言っていたが、たしかに俺が生まれた街にはない(昔は青山も今ほど高いビルがなかったからもう少し空は広かったが)。しかし、市部にはある。高さ制限や用途制限があるわけではないのに、高い建物がない。
ふつう広い方が落ち着くのではないかと思うだろう。どっこい、そうではない。俺にとって、都心のビルは圧迫ではなく受容なのだ。そのそびえるコンクリートとガラスに守られて生きてきた。しかし、市部にはビルがない。落ち着かない。ダイナミックに変化する空の脅威に直接晒されているような感覚になる。これも大層居心地が悪い。
都内と23区外、いや、都心とそれ以外は天と地ほどの差がある。電車で新宿まで40分?普段行く場所が新宿だけならいいが、丸の内にも赤坂にも恵比寿にも品川にも上野にも行く用事はあるだろう。うまい店、気の利いたものを売ってる店、友人宅etc..
それらに行こうとすると、片道1時間は平気でかかる。バーに行くことも、カフェに行くことも、フレンチに行くことも、ブティックに行くことも、本屋に行くことも、美術展に行くことも、コンサートに行くこともかなり腰が重くなる。
いや市部にも、うまい店気の利いた店は確かにある。あるのだが選択肢がないのだ。その店が休みだったら代わりの場所に行くこともできないし、気分によって切り替えることもできない。あ、時間できたしあそこ行こうかな、というのもできない。
市部には畑しかない訳ではない。むしろ畑は割合的には小さく、それ以外は画一的な戸建て住宅と古びた団地と老朽化した遊具を備える公園がある。その風景は悲しいほどに寂れている。古びた団地には本当に気が滅入る。かつて大勢の若い親たちとその子供が暮らし栄華を極めた団地だが、今は高齢者しか住んでいない。ひび割れたコンクリートを補修した跡と、その前を歩く老人の皺がオーバーラップする。終焉目前の団地1階の商店の色褪せた看板を見ると、俺の心の色を奪っていくような感覚になる。
東京に住んでいた頃にも自転車はいた。主には送り迎えするお母さんたちだ。しかし、市部の自転車の半分は老人たちだ。チェーンは錆びつきキーキー音が鳴り、よろよろとハンドルを握るおじいさん、おばあさんたちだ。あとは通学の中高生。ヘルメットこそ被っていないものの都内ではあまり見かけない「自転車通学」。田舎にしかないと思っていたものが、市部にもあった。もちろんお母さんたちも自転車に乗っている。そのお母さんたちが来ているダウンはモンクレールではなくユニクロだ。そして自転車の総数自体が都内に比べて断然多い。それは歩くのがとても窮屈だということだ。
メインの国道も狭いし、路地はもっと狭い。246の歩道より狭いんじゃないかという道を、よぼよぼの自転車と元気な通学自転車が駆け抜けていき、その間を自動車が通っている。田舎や都心ほど道が広い訳でもないのに通行量はそこそこある。こんな滅茶苦茶な道は市部にしかないのではないか。
ちょっとした用事で実家に1週間ほど戻ったことがある。その時感じたのは住むなら都内だ、ということだ。
ジャンパーだけ羽織ってスマホさえ持って外に出れば、パスモも持たずとも、カフェも本屋もブティックも何でもある。身なりのひどいおじさんもいないし、余裕のなさそうな顔で自転車を漕ぐお母さんを見ることもない。農作業している老人を見ることもない。
田舎者には「でも自然がないじゃないか」と言われそうだが、少し足を延ばせば明治神宮があるので、緑に囲まれることができる。都心には、代々木公園でなくとも新宿御苑、皇居前広場、上野公園、芝公園など実は緑に触れられる場所は多い。本格的な自然ではないが、木に囲まれたすこし湿った空気を吸うことくらいはできる。
今住んでいる家を賃貸に出して引っ越せばいい話ではあるし、実際そうしようとしている最中なのだが、都内に住んでる都内育ちの同志に同じ思いをしてほしくない。相続したからといって、気軽に市部にいくのはよしたほうがいい。どうか、貴重な人生の時間を無駄にしないようにしてほしい。