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はてなキーワード: 共同体とは

2024-11-14

anond:20241114171046

村落共同体では安定的な一夫一妻制でも村の子どもって意識はあるだろう

欧州キリスト教圏でも前近代なら村の子どもって意識で育ててると思うが

しろ血縁になければよそ者って考えが前近代農村じゃおかし

2024-11-13

anond:20241112122712

負担から年寄り死ね的な極端な排斥運動社会合意を得られないよ。結局、そいつの人柄だって。金がなくても貢献や参加によって社会共同体に与する老人はたくさんいるし、逆に上から目線で意固地になって社会を自ら拒絶する老人もたくさんいる。難民日本人じゃないから例にならない。

2024-11-12

anond:20241112120615

その共同体って何?金がなければ生きられない社会において、金やそれに換わるものを持っていないから最低限以上の社会サービスを受けられなかったり1人で貧しい暮らしを強いられたりすることは何の共同体からパージされたことになるの?それと法で認可されてない安楽死と何か関係あんの?

anond:20241112120337

唐突というか本旨を理解してないやつが多いが、共同体の外側に排斥される可能性が高いという話をしてるんだから唐突でもないよ

共同体の外側に排斥されて最終的に行き着くのが死んでも別にどうでもいいという話になるでしょ

2024-11-10

民主党の敗北とLGBTQ+

今、アメリカメディアカマラハリスの敗北を受けて敗因分析を行っていて、その中にLGBTQ+の話題が含まれている。

民主党は誰も傷つけないことばかりに一生懸命で、アメリカ人が直面している困難に正直に向き合っていない」といった手厳しいコメントもある。

また、Xではトランプ当選直後からジェンダーアイデンティティ人種に基づいた差別的投稿が増えており、(民主党指示で多様性尊重している)テイラー・スウィフトファンなんかはBlueskyへの移住なんかもしているらしい。

本稿ではアメリカにおけるLGBTQ+の事例を中心に取り上げ、本来であれば公共利益寄与できたはずの包摂に向けた政治的取組がなぜ躓いたのかを検証したい。

社会情勢との比較でLGBTQ+の不利益必要以上に高く見積りすぎた

これは共和党支持者から非常によく聞かれる言説だ。(念のためだが、筆者個人共和党員ではないし、LGBTQ+の人々に対して現行社会不利益が無いと言っているわけではない。)

戦争やそれに関連した物価高騰による生活苦といった社会全体の課題が迫っている中で、少数の人々の課題を優先的に取り上げ、大多数の生活が苦しい人々の方を向いていない、もしくは向いていないという風に見られてしまたことが敗因とするものである

後述の内容とも関連するが、性自認黒人差別などと異なり、本人の自覚といった内心に限りなく近い部分の課題であり、またプライベート課題でもあるがゆえ感覚的にどれくらいの人がどのように困っているのか、という点が具体的に見えにくいというハードルがある。

他方戦争物価高は日々数字(商品の値札や、戦争に投入される税金の額)で明示される問題であり、これに対してLGBTQ+の包摂を優先するべき具体的な根拠の準備が不足していた。

②LGBTQ+の課題に対して極端な対応しか取れなかった

日本でも話題になったが、アメリカではLGBTQ+対応の一環として、性自認女性トランス男性女性スポーツ競技に出場させ、当該トランス男性競技会で優勝するという事態が発生した。

日本ではポリコレバカだなぁという程度の反応だったが、現地ではこの件はかなり明確にスポーツマンシップやフェアプレ精神への攻撃だと受け止められた。

女子アスリート世界を目指す子の親からすれば、自分たち努力した先で肉体的には男性アスリートと争わされる未来提示されたのである

これは競技運営側想像力の欠如がもたらしたLGBTQ+コミュニティに対する痛恨の一撃であったと考えている。

こうした見切り発車的で安直対応により、LGBTQ+の包摂という社会福祉上の理想と、公正な条件での競争というスポーツ理想真正からぶつかることになった。

同時に、本来であれば社会福祉における障害の除去という観点から進められるべきであった包摂が、正義vs正義の争いに姿を変えてしまった。

この事と①で挙げた具体的な推進根拠の準備不足により、本来社会の他の課題と並行して粛々と進められるべきLGBTQ+の包摂に対し、「毀損される共同体公益とのコスパ比較」という本来不要なはずの視点が生まれしまった。

これはひとえにLGBTQ+の包摂における政策的・実務的なロードマップの不足によるものであり、ロードマップの不足は、議論が不十分な状態包摂を無条件の善行として推し進め、既存社会との利害衝突を検討することもなく善行に乗っかってしまたことに問題があると言える。

③生き物としてのヒトは包摂を実現できるのか

アメリカ大統領選は、人類2020年代に入って直面している包摂限界如実に表している。それはネットの発達によって可視化している「みんな」という文脈崩壊であるリベラルが「みんなで平等に」と主張する時、その「みんな」の中に含まれない層があることに人々が薄々気づき始めている。「自分レイシストではない」と主張する人であっても、平等になった結果としてその人自身の機会や利益が分配されることを喜ばないということを私たちは知っている。

人間社会における権利保証することと、社会における機会や利益の分配は独立した議論であり、SNSはじめネット上においても各々の意見はまったく独立したものとして交わることはない。あらゆる全ての包摂は、1つの課題に対して1つの対応を取ることしかできない今の人類認知能力では恐らく実現不可能であろうと筆者は考えている。

それでも、包摂人間社会にとっては必要である。今回何よりも残念なのは包摂が単なる流行り物のような扱いに終始し、社会の中できちんとソフトランディングさせることをリベラル側が最後まで考えていなかったことにあると思うところである

子無し女から子宮を摘出する必要はないけど、福祉剥奪しろ

共同体のために子どもを産むわけでもなく、ろくな労働をするわけでもなく、多く税金を納めるわけでもない子無し女が福祉フリーライドするのはバグだろ

こいつら放っといても犯罪はしないだろうし福祉剥奪すべきでしょ

子宮そのままでいからw

2024-11-07

資本主義民主主義限界に対する検討は進んでいるの?

資本主義民主主義限界に対する修正改善を目指す学問思想は多岐にわたり特に近年では貧富の格差社会の分断などの課題対応するための議論がさまざまな分野で展開されています。以下は、その代表的な取り組みです。

 

1. ポスト資本主義(Post-Capitalism

ポスト資本主義は、資本主義に替わる新しい社会経済の枠組みを模索する思想です。経済学者や社会思想家の中には、技術の進展や労働自動化が進む中で、資本主義に基づく経済システムの持続可能性に疑問を持つ声が増えていますポール・メイソンやトーマスピケティなどは、資本の集中が引き起こす格差の拡大に着目し、持続可能経済の実現のために富の再分配や共有経済を含む新しい制度の導入を提唱しています

 

2. 社会市場経済(Social Market Economy)

ヨーロッパ特にドイツを中心に発展した「社会市場経済」は、自由市場経済社会福祉政策を融合させたモデルです。市場競争効率性を維持しながら、労働者や弱者保護し、公正な所得分配を目指します。社会市場経済は、資本主義自由経済民主主義価値観調和させる試みとされ、欧州福祉国家の基盤となっています

 

3. 分配正義ベーシックインカム

分配正義(Distributive Justice)は、財や資源の公平な分配を考える哲学的倫理的分野で、アマルティア・センジョン・ロールズ代表的思想家です。特にロールズは「公正としての正義Justice as Fairness)」を提唱し、社会制度が公平に機能するための条件を提示しています。この流れから貧富の差是正する手段として「ベーシックインカム」が注目されており、すべての国民一定所得を無条件に支給することで最低限の生活保障し、貧困格差の縮小を図ろうとしています

 

4. 修正主義的資本主義とESG(Environmental, Social, and Governance)投資

修正主義的資本主義は、持続可能性と社会的責任を資本主義に組み込むことでその問題解決しようとするものです。ESG投資は、この理念に基づき、企業収益性だけでなく環境社会ガバナンス配慮した投資活動を推進することを目指しています企業活動が長期的な社会利益に貢献するための枠組みを重視し、企業利益のみを追求するのではなく、持続可能な成長を図ることが期待されています

 

5. デル・メトリオラシー(Deliberative Democracy)と共同体主義

民主主義において、社会の分断やポピュリズムの台頭に対抗するため、「熟議民主主義」や「共同体主義」といった思想が見直されています。熟議民主主義は、市民公共の場意見を交わし合うことで、合意形成を目指すアプローチであり、単なる多数決ではなく深い議論に基づく意思決定を重視します。また、共同体主義は、個人自由とともに地域共同体価値を重視する思想で、アミタイ・エツィオーニなどが提唱しており、社会的な絆や共通善を再評価する動きが見られます

 

6. デジタル技術を用いた新しい社会経済システム

ブロックチェーン技術分散型台帳技術(DLT)は、新たな経済システムガバナンスモデルとして注目されています。これらの技術活用することで、中央集権的な管理を排し、分散的かつ透明性の高い社会システム可能になると考えられていますブロックチェーンを基盤にした分散自治組織(DAO)や、暗号資産を用いた経済圏が試みられており、伝統的な資本主義民主主義の枠組みを再考する材料となっています

 

これらの思想学問検討は、資本主義民主主義限界に対して、社会の持続可能性や公平性を向上させるための試みとして重要役割果たしてます

2024-11-04

anond:20241104175533

自分/相手と言った個人価値観判断するのではなく、夫婦家族という共同体が良くなる方を選ぶ文化結婚生活形成していきましょう

anond:20241103174737

共同体を存続させる観点では良くも悪くも原始的だなと思った。

女性子供への弱者支援は手厚くすべき、

次世代を産む者と次世代は援助するということだね。

ただし経済弱者や老人への支援不要

生産性が無い者ともう次世代を産めない者は切り捨てるということだね。

2024-11-02

anond:20241102210039

弱者男性だが、何が正義かはリベラルフェミニストが決める時代からそうなっただけだよ

そして連中は党派性イデオロギーが違う奴の意見は認めない

逆に言えば同じ共同体人間じゃないからガン無視して連中の言うことは全て鳴き声だと思えばいいというだけ

2024-11-01

anond:20241101153116

少なくとも共同体の内部では使ってたんだろ

それが朝廷に認められていなかったからといって、名字がなかったとイコールにはならない、てのは理解できるか

anond:20241101151909

これは『日本名乗史探究』の著者で歴史学者である佐藤光隆による説に基づいて否定するべき内容です。佐藤氏の著書には、以下のような異なる見解が示されています


1. **「姓」「氏」「名字」の区別について**

 佐藤光隆氏は「姓」「氏」「名字」の区別について、よく知られている理解とは異なる見解を示しています。彼によれば、「姓」(かばね)は実際には古代身分階級を示すものではなく、むしろ特定土地職能に基づく称号として利用されていた可能性が高いと述べています。また、「氏」(うじ)も血縁的な関係を示すというよりは、共同体を表す名前として使われていたとしています。したがって、投稿説明佐藤氏の見解とは異なります

2. **農民と姓について**

 佐藤氏は、「姓」が朝廷から与えられるもの一般農民には存在しなかった、という主張にも異を唱えています佐藤氏の調査によると、地方の村落にも「姓」に相当する称号を持つ農民存在し、その地位は村内の役職職務に応じて変わることがあったとされています。この点で、農民が「姓」を一切持たなかったという主張は、佐藤氏の研究に基づくと必ずしも正確ではありません。

3. **明治期の改革について**

 明治時代の姓氏不称令や苗字必称義務についても、佐藤光隆氏はこの説明に異議を唱えています。彼の見解では、「姓氏不称令」は制度上の変革を明確に指し示すものではなく、むしろ一時的文書上の措置に過ぎないとしています。また、1875年太政官布告1876年苗字必称義務も、実際には広範な周知が不十分で、地域によっては無視されていた例が多かったと述べています。したがって、これらの政策が即座に「公文書での姓の廃止」と結びつけるのは、過大評価であると指摘しています

4. **近世農民苗字について**

 さら佐藤氏は、江戸時代農民苗字の扱いについても異なる見解を持っています。彼によると、江戸時代寺院宗門帳で記載されていた名前は、必ずしも苗字ではなく、集団内でのあだ名仮称であったとしています。これらは法的な家系名とは異なり、通称一種に過ぎなかったと佐藤氏は述べており、この点でも投稿内容とは矛盾が生じます

以上のように、佐藤光隆氏の著書『日本名乗史探究』によれば、この説明歴史的事実と異なるとされています

平成史上最も重要テレビドラマ10

本当のオールタイムは選べなかったため平成に絞って俺もやる。テレビドラマは消えものアーカイブされにくいジャンルで、時代をここ35年に絞ってみても網羅できないという問題はある。そのため、俺の観ていない重要作の話をどんどんしてほしい。1脚本家1作品に絞った。俺はテレビドラマ脚本家のものだと思っている。

 

 

1.坂元裕二東京ラブストーリー平成3年(1991年) フジテレビ

トレンディドラマ代表作の1つにして、トレンディドラマの終末期の傑作。フジ月9」枠の代表作でもある。「東京では誰もがラブストーリー主人公になる」をキャッチコピーに掲げ、等身大若者たちの姿を描き出した。2010年以降の坂元裕二の影響なども考えランクイン。

 

 

2.野島伸司101回目のプロポーズ平成3年(1991年) フジテレビ

こちらもトレンディドラマの終末期の傑作であり、お世辞にも男前とは言えない武田鉄矢叫びは、"トレンディ"の終わりを印象付けた。TBS高校教師』でも、好きな野島作品に入れ替えてもらって構わない。90年代には確かに野島伸司時代があった。

 

 

3.三谷幸喜古畑任三郎平成6年(1994年) フジテレビ

田村正和亡き今も、再放送され、パロディされ、やたら話題になる三谷幸喜コメディホームドラマ恋愛ドラマなど、会話による人間関係機微などを守備範囲にしていたテレビドラマが、ストーリーダイナミズムによる面白さにシフトしていったのは、アメリカコメディから影響を受けた三谷幸喜の功績がある。個人的には『王様のレストラン』のほうが好み。

 

 

4.深沢正樹ほか『金田一少年の事件簿平成7年(1995年) 日本テレビ

他のタイトルに合わせて脚本家クレジットしたが、今作を選出したのは何といっても堤幸彦出世作ということにすぎる。『ケイゾク』『池袋ウエストゲートパーク』につながる斬新な演出は一時代を築いた。「土曜グランド劇場」に旧ジャニーズの若手が主演していくのもこの頃からで、後の『透明人間』『ごくせん』『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』などにつながっていく。

 

 

5.君塚良一踊る大捜査線平成9年(1997年) フジテレビ

テレビドラマ」というフォーマット映画館拡張した功罪ある作品テレビドラマメディアミックスの先駆けといえ、映画館はこれ以降テレビ局製作作品であふれることとなった。『踊る大捜査線 THE MOVIE』は未だに実写の日本映画歴代興行収入1位に燦然と輝いている。今秋新作が公開された。

 

 

6.岡田惠和ちゅらさん平成13年(2001年) NHK

21世紀最初朝ドラシリーズ化され、現在再放送されている。『ちゅらさん』が描いた疑似家族によるホームドラマはその後も『すいか』『11人もいる!』『逃げ恥』『カルテット』と平成ドラマの1つのパターンとなった。岡田惠和の功績は膨大な作品数の作品を書いていることで、彼がいなければこの時代テレビドラマシーンは空洞化していたかもしれない。

 

 

7.宮藤官九郎木更津キャッツアイ平成14年(2002年) TBS

クドカン物語自体面白さに注目されがちだが、彼の功績は、若者たちがダラダラ話すという「日常ドラマ」を描いて見せたことにある。彼の脚本は、小ネタギャグストーリーに連結してゆく。木更津という周縁の田舎共同体風景ドラマになるということは革命出来事だった。大きな物語を失った後のゼロ年代的転換。

 

 

8.遊川和彦女王の教室平成17年(2005年) 日本テレビ

遊川が成し得た功績は『女王の教室』の真夜(天海祐希)のような強い、誇張されたキャラクターによるドラマを成立させたこと。それは後の『家政婦のミタ』の大ヒットにもつながった。彼の過剰な演出賛否が分かれるが、常に時代と向きあい続けるための一つの方法論なのかもしれない。

 

 

9.山本むつみゲゲゲの女房平成22年(2010年) NHK

2000年代後半に停滞していた朝ドラ復権は間違いなくこのドラマからで、この作品がなければ『あまちゃんブームもその後の『ごちそうさん』や『あさが来た』『ひよっこ』などの良作、令和の『カムカムブリバディ』のヒットも存在していなかったと過言しておきたい。そういう意味ハッシュタグなどでのTwitterなどの賑わいにも一役買っている。朝ドラ復権は同時にその後のNHKドラマ復権意味していた。

 

 

10.八津弘幸半沢直樹平成25年(2013年) TBS

TBSドラマ復権ということでいうと後述の『JIN-仁-』を挙げてもよいのだが、その後池井戸潤ドラマの隆盛という意味でも半沢直樹を。いうまでもなく『VIVANT』へと繋がる日曜劇場系譜である。主演の堺雅人は『リーガル・ハイ』や『真田丸』という傑作でも存在感を示した。

 

 

 

次点

 

木皿泉すいか平成15年(2003年) 日本テレビ

本当は問答無用に最重要作として今作を挙げたかったのだけど、視聴率知名度を考えて日和ってしまった。今作は『ちゅらさん』で描かれた疑似家族によるドラマ、『木更津キャッツアイ』で書かれた日常のやり取りのドラマを深化させた。そこに大島弓子ファンタジーブレンドさせ、ドラマ物語対象を変えてしまった傑作。

 

坂元裕二それでも、生きてゆく平成23年(2011年) 日本テレビ

90年代10年代の坂元裕二を別人とするなら10選にねじ込んでしまいたい。10年代の坂元裕二作品は、テレビドラマが扱えるダイアローグレベルを一段上へと引き上げた。10話における瑛太風間俊介の会話は他に代わるもののない名シーンだと思う。現在ドラマシーンは、坂元裕二フォロワーで溢れている。

 

鎌田敏夫29歳のクリスマス平成6年(1994年) 日本テレビ

これだけトレンディドラマの話をしているのに、鎌田敏夫の名を漏らしてしまい、それは平成以前になってしまうので、それ以降から一作挙げるなら『29歳のクリスマス』を強く推したい。元祖『9ボーダー』。取り巻く環境は変わっても、年齢を巡る憂いは不変のものなんだと。

 

野沢尚眠れる森平成10年(1998年) フジテレビ

坂元裕二と並び、この時代天才をもう1人挙げるなら、野沢尚を挙げてしまおう。野沢の深いキャラクター造形はその後の作品に影響を与えた。彼が存在し続けたら、この選も変わっていただろう。またキムタクドラマも1本を挙げていないというのも偏っている。それだけこの時代の彼の存在は異常だったのだ。挙げるならこの作品を挙げたい。

 

北川悦吏子ロングバケーション平成8年(1996年) フジテレビ

あるいは今作か。トレンディドラマ2000年代の間には間違いなく北川悦吏子時代があった。北川悦吏子は近作が色々言われることもあるが、それは(例えばミスチルがそうであるように)強烈に時代と寝た人物にだけ得られる特権だ。そのため、俺は何があっても今後北川悦吏子擁護し続けていきたいと思う。

 

三木聡・ケラリーサンドロヴィッチら『時効警察平成16年(2006年) テレビ朝日

この10からは確実に存在していた深夜ドラマ文脈がごっそりと抜け落ちている。『孤独のグルメ』や『おっさんずラブ』に繋がっていくような深夜ドラマ系譜。『時効警察』はシティーボーイズ放送作家三木聡最高傑作である。近年では主演だったオダギリジョーが謎の力でそのパロディNHKドラマ映画化までさせているが、盛大にスベっている。

 

渡辺あやカーネーション平成23年(2011年) NHK

一部では「朝ドラ史上最高傑作」の呼び声もある今作。戦争もの・女の一代記としての朝ドラ岸和田の街に生まれ、生きて、老いて、死んでいく強いヒロイン渡辺あやは強烈な作家性を朝ドラにおいて発揮させ、それはこれ以降の朝ドラの指針が転換される契機にもなったのかもしれない。(だからこそ『純と愛』などが生まれしまったとも言える)

 

森下佳子JIN-仁-平成21年(2009年) TBS

坂元裕二岡田惠和宮藤官九郎遊川和彦木皿泉渡辺あやらの作品を挙げておいて、森下佳子名前を出さないわけにはいかない。構成力という点で彼女の右に出る者はいないのではないだろうか。森下佳子の手にかかれば、物語における伏線人生因果に映り、プロット運命へと変貌する。TBSドラマ復権きっかけとしても、今作を挙げておきたい。

 

野木亜紀子逃げるは恥だが役に立つ平成28年(2016年) TBS

野木亜紀子10から漏らしてしまったのは痛恨の極みであるが、令和の選が今後もし出来るなら1番に入る人であるのでご容赦いただきたい。社会的テーマをポップにテレビドラマ次元で取り扱い、ヒットさせてしまったのは見事。野木亜紀子はもともと原作もの実写化の手腕に定評があったが、『アンナチュラル』『MIU』とオリジナル作品もヒットさせている。

コンバーターコーンバター技術食文化に宿る人間創造

コンバーターコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間歴史の中で、技術食文化進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。

まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能属性を変換する装置技術を指す言葉である電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタルアナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり現代社会を支える根幹を成す技術ひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシコーンから作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米南米など、トウモロコシ主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。

一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターコーンバターしかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこからまれ美的感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間知識結晶である。これに対し、コーンバター農業の発展や食文化進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有美的価値が含まれている。

人間は、常に物質エネルギーさら情報の変換を行うことで、生活利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品自由使用することはできない。デジタル信号アナログに変換することで、音楽映像スムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報エネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的装置デバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。

一方で、コーンバターには全く異なる美的価値内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果であるトウモロコシは、古代アメリカ大陸文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。

また、コンバーターコーンバターは、それぞれ人間内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たち生活を快適にし、さらには新たな表現可能性を広げている。情報自由に変換し、自在操作できるという感覚は、無限創造力を解き放つものであり、それ自体一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁安心感さらには家族共同体との結びつきといった、人間らしい感情喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働愛情を味わうことができる。このように、コーンバター食文化の一端としての「食の美」を表している。

さらに深く考察を進めると、コンバーターコーンバターの間には、「変換」という共通テーマがあることに気づく。コンバーター無機物エネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間自然物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である

現代テクノロジー社会において、コンバーターほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジー進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。

このように、コンバーターコーンバターは、それぞれ異なる形で人間生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間生活寄与し、美的価値提供している。そして、技術進化伝統継承という二つの相反する要素が、私たち感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である

2024-10-30

anond:20241030205657

この問いには、宗教オカルト区別が難しいとする疑問と、信仰合理性必要性への問いかけがまれています。これを考えるには、宗教オカルト定義役割の違いを整理しつつ、不合理であるもの意味を深掘りする必要があります

 

宗教オカルトの違い

宗教オカルトは、どちらも非科学的な領域に含まれ場合が多いですが、いくつかの重要な相違点があります宗教一般に、特定歴史教義道徳的価値観信者間の共同体意識を伴い、社会的に長く受け入れられてきたものです。一方、オカルト神秘的・超常的な現象への信仰や、個人体験や啓示に基づく要素が強く、体系的な教義道徳的基盤がない場合が多いです 。

 

宗教の不合理性とその価値

宗教が「不合理」だという指摘は、科学的根拠の不足や、死後の世界など検証不可能な要素に根ざしていますしかし、人間の行動や価値観には、必ずしも合理性けが求められるわけではありません。多くの宗教は、死後の救済や幸福感、人生の目的提供し、精神的な安らぎや共同体の絆を築くための役割果たしてきました。こうした側面は、必ずしも科学的根拠があるからこそ価値があるのではなく、非合理的であっても人々に意義をもたらすという側面が重要です 。

 

不合理の必要性について

宗教象徴的に示すような「不合理」なもの存在は、人間の心の多様なニーズ対応するものです。例えば、日本の伝統行事信仰も、社会的な絆や儀式性を高め、文化的アイデンティティを支える役割があります合理性に重きを置く社会でも、不合理なものが心の拠り所や心の整理の手段として機能する場合があります

 

矛盾点や留意

この問いにある「人間死ぬと無になる」という断定も、科学的に完全には証明されていません。無論、魂の存在も立証されていないため、いずれの側にも「完全な合理性」がないと言えます。また「不合理なもの不要」という前提には、感情文化的背景を軽視する面があるかもしれません。合理性を超えた価値が、特定社会文化において役立つ場合も多いことを認識する必要があります

 

まとめ

宗教オカルト価値は、必ずしも合理的根拠の有無だけでは測れません。不合理な信仰も、精神的な拠り所や社会的な絆の構築に寄与するものであり、人間にとって「不合理」が全く無意味だとは言い切れません。

2024-10-29

anond:20241029162024

妻子のご飯を持って帰れない男性の子供を孕んだら死活問題じゃん。

うん。それは否定しない。でも「能力」の多寡社会規定するから所謂現代仕事ができるかどうかを判断する能力先天的に獲得できないよって言ってる。

仮に獲得できているとすればもっと動物的な狩猟能力に直結する体格とかそういう方面だね。

もしくは、共同体内におけるヒエラルキーを感じ取ってより上位を選び取る能力

もしそうならそれは個人絶対的能力を読み取る力じゃなくて相対的順位規定する能力からやっぱり本能的に仕事ができるオスを見抜く力を持っていることにならないよね。

だって100人単位で1人を偉い人間であるように見せかける演技をするだけでだませるから

共産主義的なものはなぜ嫌われる?

日本における共産主義社会主義に対する強い拒否反応は、戦後歴史的政治的な要因が複雑に絡み合って形成されたと考えられます。以下に、主要な背景を挙げて説明します。

 

1. 戦後アメリカによる影響

戦後日本アメリカ占領下に置かれ、民主主義市場経済が促進される一方、共産主義への警戒が強められました。1940年代からの「レッドパージ」では、共産主義思想を持つとされる労働組合活動家知識人公職から追放され、共産主義社会根付くことが制限されました。また、アメリカ冷戦の一環として、東アジアにおける共産主義拡大の阻止を重要視し、日本安全保障政策にも影響を与えました。この冷戦時代米国の影響は、日本国内で共産主義社会主義に対する不安アレルギー的反応を助長したといえます

 

2. 勝共連合反共活動

1950年代以降、統一教会現在世界平和統一家庭連合)と日本保守勢力支援により、「国際勝共連合」が設立され、共産主義に対する強い反対運動が展開されました。この運動は、反共産主義を掲げて政治活動教育家庭内教化を行い、日本社会共産主義への強い警戒心を植え付ける一因となりました。特に勝共連合保守政治家や宗教団体と結びつき、社会的に大きな影響力を持ち、共産主義への否定的イメージ形成しました。

 

3. 学生運動過激派の台頭

1960年代から1970年代にかけて、日本国内では反政府反戦を掲げた学生運動が活発化し、一部が共産主義社会主義に基づく社会改革を訴えました。しかし、その中で一部の運動過激化し、暴力事件テロ行為に発展したため、社会全体で学生運動への拒否感が強まりました。特に連合赤軍」や「日本赤軍」などが関与した事件は、共産主義過激暴力の結びつきを印象づけ、多くの日本人にとって共産主義危険過激思想とされる要因となりました。

 

4. 自民党政権メディアの影響

戦後ほとんどの期間を自民党与党として支配し、保守的な政策が推進されてきました。自民党保守的なメディア共産主義社会主義に対する批判的な論調を続け、国民の間に「共産主義=非現実的危険」という認識根付かせました。さらに、選挙時には「共産党支持は過激派の支持」などといったネガティブキャンペーンが行われ、共産主義への警戒感が意図的に煽られた面もあります

 

5. 経済発展個人主義の普及

高度経済成長期において日本社会が急速に豊かになり、個人主義が浸透する中で、共産主義社会主義が掲げる「平等」の理念が薄れた面もあります日本人は生活の安定を重視し、「平等」よりも「自己実現」や「個人自由」を求める傾向が強くなりました。その結果、共産主義社会主義が目指す「平等」や「共同体意識」が社会的に受け入れられにくくなりました。

 

結論

これらの要因が複合的に作用し、日本社会には共産主義社会主義に対する強い警戒心や否定的イメージが定着しました。改善策としては、共産主義社会主義理念が持つ利点を客観的に見つめる教育や、政治的思想に対する偏見を取り除くための対話必要です。また、現代の多様な価値観を反映する中立的メディア報道重要でしょう。

2024-10-27

人はなぜ物語を欲し、誘導されるの?

人間物語を求め、物語誘導されるのは、文化的心理的進化的な要因が複雑に絡み合っているためです。以下に、異なる学問分野の視点から考察します。

 

1. 心理学視点共感自己理解

物語他者経験感情共感する手段です。心理学的には、人は自己感情経験を外部化し、他者視点を通して見ることで自己理解を深めます特に物語登場人物感情的なつながりを持つことは、共感能力を高め、社会的スキルを育むのに役立つとされています 。また、「物語自己」と呼ばれる考え方もあり、人は自分人生経験を一連の物語として理解し、意味づけすることで自己を構築します 。

 

2. 社会学視点集団アイデンティティ形成

物語は、個人集団アイデンティティ形成する重要な要素です。社会学エミール・デュルケームによれば、物語神話集団価値観道徳を伝える役割を持ち、個人社会に結びつけるものと考えられています。例えば、神話伝説歴史の中で共有されることで、共同体アイデンティティ連帯感を強化し、社会統一性を維持します。これにより、人々は物語を通じて一体感を得るために物語に引き込まれます

 

3. 進化心理学視点生存繁殖のための知識伝達

進化心理学では、物語サバイバルに役立つ知識や教訓を次世代に伝える手段であると考えられます古代から伝承民話には、危険道徳的な教訓が織り込まれており、これにより人々はリスクを避け、より良い社会的行動をとることができました。このように、物語人間生存戦略に役立つとされていることが、人々が物語を欲しがり、物語を通じて導かれる理由の一つとされています

 

4. 認知科学視点情報処理理解の枠組み

認知科学の分野では、人間の脳は物語という構造を通じて情報を整理・記憶するのが得意であるとされています物語の持つ始まり中間・終わりという構成は、ランダム情報よりも理解やすく、記憶に残りやす形式です。こうした脳の働きにより、人は物語に沿った形で情報を受け取ると、自然とその流れに沿って考え、理解を深めることができます

 

5. 哲学的視点存在意味価値の探求

哲学的には、物語人間が生きる意味価値を見出すための重要手段です。ジャン=ポール・サルトルカール・ヤスパースなどの実存主義者は、個人が自らの経験や生きる意味物語として理解することで、存在の意義を見出すと考えました。物語を通して、無秩序混沌とした現実意味付与し、自己存在や行動に一貫性を持たせることができます

 

6. 教育学視点効果的な学びのツール

物語教育の場でも強力なツールとされており、単なる知識の伝達以上の効果をもたらします。特に子どもにとって、物語を通じて学ぶことは、抽象的な概念を具体的に理解する手助けとなり、記憶に残りやす形式となります物語的な構成で教えられると、学習者は内容をより効果的に学び、道徳倫理社会規範を自然に身につけることができます

 

まとめ

人間物語を求め、物語誘導される理由は、生理的社会的心理的な多重の要因に根ざしています自己理解集団アイデンティティ知識の伝達、情報処理効率存在意味の探求、そして学びのツールとして、物語人間存在に欠かせない役割果たしているのです。

 

: Kohut, H. (1977). The Restoration of the Self.

: McAdams, D. P. (1993). The Stories We Live By.

: Durkheim, E. (1912). The Elementary Forms of the Religious Life.

: Pinker, S. (1997). How the Mind Works.

Schank, R. C., & Abelson, R. P. (1995). Knowledge and Memory
The Real Story.

: Sartre, J.-P. (1943). Being and Nothingness.

: Egan, K. (1986). Teaching as Story Telling.

anond:20241027033813

弱者男性だけど、オタクカリスマでも弱者男性界隈の至宝でも好きに呼べばいいと思うよ

俺は全くそうは思わないけど、リベラル界隈とかフェミニスト界隈は同じ日本共同体人間とも思ってないし認識のすり合わせは難しいでしょう

2024-10-22

名作といわれる昭和映画「はなれ瞽女おりん」(1977年)を観たので感想を書く

最近、急に、昭和ドラマ映画をみるようになった。あれ、実は細部にいろんな仕掛けがあるんだな、という発見があり面白いと思うようになった。

解像度も上がって自宅で映画館で見るのとさして変わらない大画面で映像ミクロなところまでみれるようになったことも大きい。

最近みた「はなれ瞽女おりん」(1977年)は、名匠といわれる篠田正浩監督作品だ。(ところで、これは自分用のメモなので、解説いたことは省くし、ネタバレも気にしない。)

半世紀も生きてきているのに恥ずかしながら、実はこの監督映画全然たことがなかった。

恥じ入るばかり。いや、若いころにみても、ただただ暗く寂しいだけで、ぴんと来なかった可能性が高い。

いやいやすごい作品だった。

明治大正日本原風景を撮りたかったと、篠田正浩監督は書いているらしい。ロケ地も全国にわたっているとか。

これはいろいろなところで触れられていることなので、どうしても観る者は知らず知らずにその監督言葉に引きずられてしまうのか、観る者の映画評が、その「風景」に寄り添うようなものになっているようだ。

しかし、この映画もっとも印象深いのは、おりんと、おりんに寄り添う鶴川という男の人となりだ。映画ではおりんを岩下志麻鶴川原田芳雄が演じている。

両者は、ともに周縁化された存在という共通項がある。

鶴川脱走兵だということは、映画の出だしのほうで、おりんに飯ごうの蓋で水を差しだすシーンからうっすらと気が付かせる仕掛けになっている(演出うまい)。

おりんのほうはというと、はなれ瞽女だ。瞽女という存在もこの映画認識を改めた。

瞽女新潟長岡高田瞽女共同体形成していたことを初めて知った。

おりんは禁制である「男との関係」を持ったことでその瞽女共同体からもはじかれてしまった「はなれ」の存在瞽女という存在ですでにマージナルなのに、いわば二重にマージナル境遇にある。しかも、それはレイプによるものであり、おりんが自分で選んだ道ではない。

いきなりかわいそすぎる境遇のおりんだが、そのおりんに心惹かれて、自ら導き手となり、おりんと寄り添う鶴川という男。

自分天涯孤独だ、帰る場所もないとおりんに語り、兄のように思ってくれという鶴川だが、ドラマが展開するにつれ、少しずつ第三者が語る鶴川人物像に不整合みえてくる。

天涯孤独というわりには家族存在示唆されたりと。脱走兵なんだろうなーと思いながら、天涯孤独兵隊?、官憲お金実家に送金していることもつかんでいるなど、家族がいるのでは?とつじつまが合わない。

しかし、おりんは鶴川のいうことを信じて、ますます心を寄せてゆく。鶴川さんのおかげでやっと「まともな暮らしができるようになった」と幸せをかみしめるおりん。


この物語白眉は、脱走兵であることが官憲にバレてしまった鶴川最後におりんに隠していた事実告白するシーンだ。

それはまさに、鶴川家族母親)の存在だった。

連行される前に、軍隊を脱走した自分の心境を官憲にぶつけるシーンがある。

何が、国民皆兵だ。金持ち徴兵逃れで、俺が引き受けただけだ。

ちょっと前の増田おしん感想を書いたが、明治から終戦にかけての日本は、天皇を頂点とした「家制度」を仮構し、そのイエの枠組みの中で国民という概念が編み出され、西洋とは異なる国民国家を成り立たせていた。乱暴にいってしまえば、江戸時代においては「家中」つまり藩が人を従わせ、結束させる機構だった。国の危機を前にしても藩同士がいがみ合うならば、ということで、もっと大きな家中=イエにしてしまえばよい、というのが明治維新だ。天皇を頂点として、家父長制に結合させ、国、地域共同体世帯すべてのレベル論理的整合する入れ子構造にしてしまうために、廃仏毀釈という荒業まで行った。この「家」の概念は、主君への忠誠のもと、等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠すことになった。鶴川叫びはまさにその矛盾表現している。

このイエを体系化した国民国家の矛盾の噴出は、明治大正昭和20年の敗戦にかけての日本近代史において概ね2つの時期にわけられると思う。

ひとつは、「君死に給うことなかれ」で有名な与謝野晶子の詩のきっかけとなった日露戦争から第一次世界大戦シベリア出兵にかけての時期。国体という概念確立し、厳格な家父長制のもと妻は銀行口座すら作ることが許されなかった時代。それに対するカウンターとして大正デモクラシーが勃興する時期。

もうひとつは、八紘一宇そしてのちの大東亜共栄圏という言葉象徴されるように、イエの体系が日本国内の統一にとどまらず、アジアを中心とした海外に拡大し、アジアひとつ家族になれると勝手思い込み一方的他国侵略をしていた時期。大正デモクラシーへの失望不景気による生活の困窮は、人々の軍隊への期待を押し上げた。昭和12年の南京陥落のちょうちん行列以降、アジア進出と踊らされ、盛り上がってみたものの、協力させられる国民生活は次第に悲惨ものになっていった、その時代

ドラマおしん」はこの2つの時期をどちらも丁寧に描写する稀有ドラマなのだが、なかでも、おしんドラマでは、戦時中には配給制隣組といった組織を通じて、田倉家が隣組リーダーとしてふるまいながら、軍から甘い汁を吸っている、とおしん家族が後ろ指をさされる場面がとても印象的だった。

「はなれ瞽女おりん」においては、時代背景としては前者の時代シベリア出兵が描かれている。当時、大正デモクラシーへの失望として、天皇を頂点としたイエ体系の矛盾が表面化した時代だ。当時の殖産興業の旗印のもと製糸工場に動員された女工問題などに象徴されるように、「労働」が社会問題化した時代だ。

農村においても、小作農家の困窮、重税、大地主による圧迫が社会問題化、やがて農民組合運動へと連なってゆく(おしんドラマでは浩太の農民運動を通してこの時代風景を切り取っていた)。しかし、期待された大正デモクラシーは失望に終わる。なぜなら政党政治既得権益コントロールされており、立憲政友会は大地主財閥の側に立つ政党だった。政府財閥に牛耳られていて腐敗しているという風刺画がこの時代の不満を象徴している。

「何が、国民皆兵だ」という鶴川という男の最後叫びはまさに、その時代原風景なのだ

ともあれ、おりんは、鶴川の、ごめん実は家族がいるんだ、という告白に、留置所の小窓にかけた手が崩れ落ちるような衝撃を受ける。岩下志麻の演技すごい。

このシーンに二重写しで思い出した映画がある。それは「駅station降旗康男監督1981年)。大晦日に一人飲み屋のおかみさんと熱燗を飲むシーンでおかみさん役の倍賞千恵子がいうセリフだ。

水商売やってる子には暮れから正月にかけて自殺する子が多いの。なぜだかわかる?

男が家庭に帰るからよ。どんな遊び人もこの時期は家庭に帰っちゃうからね。

好きな男には帰る場所別にある、迎え入れてくれるホームグラウンドがある、という、この同じ寂しさがおりんを襲う。

おりんは、そのさみしさを押し殺して、よかったじゃないかあんたにお母さんがいても不思議はないと思っていた、自分もいるんだ、と幼少期に記憶の残る唄を口ずさむ。

この映画は、鶴川告白のあとの展開も秀逸だ。

その後のおりんの行動として、とくに注目に値するのは、駆け付けるようにして、高田瞽女屋敷の戸をたたくシーンだ。戸をたたく音の速さからおりんの心情が伝わる。このテンポ感が演出として素晴らしい。

かつて、自分追放した瞽女共同体を訪ねに行ったこの行動は、おりんの焦燥、不安失望の入り混じった心情を強烈なまでに表現している。

それまでのおりんは、はなれ瞽女として、ある意味自分の力で自立して生きていくという覚悟をもって生きていた。

しかし、鶴川告白のあと、自分にとってのホーム確認しようとする行動に出るのだ。

かつての瞽女の頭も仲間たちもいなくなっていた。とうに亡くなっていた。

主の途絶えた寂しい屋敷で、自分を捨てた母親がまだ若狭のどこそこにいるらしい、といううわさ話がおりんの耳に入る。

おりんの絶望には、もうひとつ理由がある。

鶴川は、おりんの導きをしているとき、いつも兄のように思ってくれといいつつ、決して体を合わせようとしなかった。

鶴川がおりんを女房にして下駄屋にしてあげられなかったのはなぜか。

その答えは、映画では何も説明されないが、鶴川告白がすべてを物語っていた。

なぜ鶴川家族がいることを隠していたのか、なぜ告白の際に、許してくれと泣いたのか、そこにすべての答えがある。

男は、自分母親瞽女のおりんを決して受け入れないとわかっていたからだ。男が隠していた母親差別意識がここで暗示されている。

おりんは二重にどん底に突き落とされているのだ。瞽女共同体から「はなれ」となったいわば二重にマージナル存在であるおりんには、もはやどこにも居場所はない。

男の告白ですべてを悟ったおりんは、まず瞽女屋敷に向かい自分の育ったホームを確かめに行く、しかし、すでに時がたちもぬけの殻だとわかると、男を待つことも探すこともせず、心身ボロボロになって宿場町を回る。この映画終盤のテンポ絶妙

そして、親不知の峠で息絶える、という涙腺崩壊の結末。その親不知人生最後を迎えるというのも、それは映画では親不知隧道作業員が暗示しているだけという、演出、すごい。今のドラマっていちいちセリフ説明しすぎなんだよね。このくらい映像にすべてを託すくらいのことができないと面白みがない。

さて、篠田正浩監督映画を初めてみた感想としては、やっぱりすごいっす、に尽きる。

明治大正日本原風景を撮りたかったとのことだが、明治から大正時代のイエ体系の矛盾、ひたすらアウエイで生きることが強いられる女性象徴としてのおりん、帰る場所がある男との非対称、これがまさに彼のいう原風景だと私は思った。

もちろん映画公開当時の国鉄旅行キャンぺーンの影響とかいろいろあったかもしれないし、ロケ地も興味深いんだけど、いやそういうことじゃないんだよ、と強く思う。

男の周縁というのは、国民皆兵欺瞞から脱走し、天皇を頂点としたイエからマージナル存在となったとしても、家やふるさとという寄る辺があるのに対し、女の周縁というのは、帰る場所がなく寄る辺が全くない。唯一の導き手だった男にまで、実は家族がいると告白されて別れなければならない。

この男女の非対称が終盤のシーンで象徴されている。

親知らずトンネル建設現場から見えるおりん着物、白骨となったおりんの骸骨という寂しすぎるラストは、どんなにズタボロに傷ついても帰れる場所がある男とズタボロになっても帰れるふるさとのない女の、ホームグラウンドの相違が残酷な形で表現されているところが、この映画もっとも印象に残った。

女はひたすらアウエイを強いられ、男は失敗してもいざとなったらふるさとに抱かれるみたいな、この男女の人生の非対称は、先日観た「おしん」でも同様に感じた。

こないだ増田で書いた感想https://anond.hatelabo.jp/20240906234755 

農民運動に熱を入れていた浩太は官憲拷問され転向余儀なくされる。夢破れ傷ついた浩太は傷をいやしに実家の世話になる。浩太の実家父親貴族院で太かったのだ。一方、おしんには故郷を振り返るという選択肢存在しない。ただただ前を向いて歩く以外に救いはなかった。おしんと浩太は初恋同士でありながら、終生結ばれることはなく、微妙距離感で生きていく。

昭和期の映画ドラマって、このあたりが基調になっているような気がしている。

2024-10-18

日本支配構造って実は昔から大きくは変わってなくて、地元の有力者(豪族)を中心とした村落共同体ベースにあって、そこに守護地頭みたいな統治者が上から派遣される形が続いている

今は形の上では民主主義になってて、統治者押し付けられるのではなくいちおう選挙で選ぶ形になってるけど、結局は自民党が出してくる候補者がそのまま椅子に座るので、選挙なんて本当に形だけ

民主党政権取ったときは、地元の有力者とか共同体に対して、あっちの統治者より良いのを派遣しますよってうまくアピールすることで成り代わった

これは自民党支配構造をよく知ってる小沢一郎からできたこ

まあ、すぐにボロが出てこいつらじゃダメだなってなったけど

立憲民主党なんかはこれが理解できてないから、いつまで経っても地方組織が強くならない

2024-10-11

女の大成自慢って「それ、子供産んで子育てしてた方が社会のためになったんじゃないか?」と思うことが多すぎる

日見かけたのは

「片田舎女子高生だった娘が米国大学に入り数学の才能を見出されPhD5年目です」

みたいな(創作臭い)ストーリーだったけど

これに限らず、女性社会進出ストーリーって

「この人が子供2,3人産んで子育てしてた方が社会のためになるんだろうなぁ」っていつも思ってしま

まあ全ての人が社会のためになる行動をしなくちゃいけないってのもおかしい前提だけどさ

 

女って生まれときから存在価値プラスから生き方自由だし共同体への貢献とか求められないんだよね

男は生まれとき存在価値ゼロから共同体へ貢献して価値を作り上げないといけない

女は自由で羨ましい

2024-10-08

anond:20241008164448

昔の人間子供育てたら自分奴隷同然にコキ使えたか根性で育てましたが、今は子供権利が強すぎて無理ですよ。昔みたいに産んで欲しいなら、子供は親の所有物という時代に戻して頂かないと。

 

そもそも昔の無学な親の方が「子供幸せ」なんて概念持ち合わせてないからな。「自分幸せ」って概念もないんだからそもそも個人主義もない。ただ共同体の中で生きる飯食ってうんこしてセックスする生命体でしかないよ。

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