はてなキーワード: 一喜一憂とは
・お前の抱えている悩みの大半は親への負い目に起因する。さっさと大学行ってバイトでいいから自分の力で金を稼げ。そうすれば解決する。
・大人っていうのは大人という役割を演じている人たちのことだ。薄々勘づいてはいるだろうが一皮むけば今のお前と殆ど変わりはない。まぁ、その一皮が大事だったりするんだが。とにかくお前が考えてるよりかは遥かに簡単に成れる。心配するな。
・お前の眼には周囲の人間が立派に、さも世の全てを達観しているかのように映るだろうし、実際そういう風に振る舞う人もいる。だがそいつらも一皮むけば大してお前と変わらん。等身大の悩みを抱え、日常のささやかなことで一喜一憂する、お前と同じ人間だ。お前の言う通り世の中は分からないことだらけだ。だが分からないことをさも分かっているかのように振る舞うことで世の中は回っている。分からないことが分からないのは、みんな一緒だ。
このルッキズムに支配された社会で、自分が可愛いことを自分自身に対して証明するために数々の証拠を集めては一喜一憂する日々を送っている、20代の明るく元気なOLです。
・会社の男性(既婚者含む)からデートのお誘いやお付き合いの申し込みを受けたことがある
・会社の男性陣が「うちの会社で誰が好みか」という話をするときに私の名前が挙がっていたと人づてに聞いたことがある
・高校の時からずっと私のことを好きでいてくれる男性がいる(継続的にお付き合いの申し込みを受けているが断っている)
・大学の時からずっと私のことを好きでいてくれる男性がいる(継続的にお付き合いの申し込みを受けているが断っている)
・会社や学校以外でも、何らかのコミュニティ(社外研修や習い事など)に属すると、最低でも1人の男性からは何らかのアプローチを受ける
しかしこれらの証拠は、痴漢疑惑をかけられた容疑者を擁護するための証拠のように弱弱しいもので、脳内検事からの追及にいつも耐えられないのです。
・会社の男性(既婚者含む)から食事やデートのお誘いを受けたことがある
⇒若い女子社員なら可愛かろうと可愛くなかろうと誰でもアプローチは受ける(現に他の同期の女子社員も受けている)
・会社の男性陣が「うちの会社で誰が好みか」という話をするときに私の名前が挙がっていたと人づてに聞いたことがある
⇒若い女子社員なら可愛かろうと平均だろうと可愛くなかろうと性の対象になりうるためこういった声があがることはある
⇒おそらく手に入らなかったので執着されているだけであり私が特別可愛いからではない。また、人から嫌われることを異常に恐れいているため傷つけるような断り方ができず、あいまいにはぐらかすなど希望を持たせ続けてしまっていると思われる
・会社や学校以外でも、何らかのコミュニティ(社外研修や習い事など)に属すると、最低でも1人の男性からは何らかのアプローチを受ける
⇒本エントリーからは想像もつかないほど明るく親しみやすいキャラクターなので、別に可愛くはないが「なんかイケそう」と思われているだけ
冒頭で「自分が可愛いのか可愛くないのか分からない」とは言ったものの、本当は分かってます。
別に可愛くないということを。
このエントリーを読んでくれたそこの貴方がたが、「本当に可愛い女はそもそも自分が可愛いかどうか悩まない」、「自意識過剰乙」、「ほかに考えることないの?暇なの?」、「小町でやれ」、「中学生かな?」などの感想を持つであろうことも分かりながら書いています。
でも、容姿のレベルがQOLに大きく影響する性に生まれてしまった以上、可愛くないことがつらい。
普段全然ナンパされないのに、美人の友達と歩いてる時だけナンパされるのがつらい。
100年に1度くらいナンパされることがあっても、相手がすごく気の弱そうなおじさんだったりして断るのがいろいろな意味でつらい。
あまり可愛くないタレント(本人も別に可愛さを売りにしていない)に似ていると2億人くらいから言われていてつらい。
合コンに参加しても、「今度二人で…」みたいなことは誰からも言われなくてつらい。
5年付き合った彼氏は、5年の付き合いの中でずっと、私のことを世界一可愛いと甘やかしてくれていたのに、最終的に私とは全く系統の違う北川景子系の美人と浮気していた(そして私たちは別れた)。
美容には人一倍気を使っていて、食事は野菜中心だがバランスよくタンパク質や脂質を取り入れたものを自炊する。
外食はほとんどしない。深酒、たばこは一切しない。夜更しもなるべくしない。ジムで適度に運動する。
化粧品も服も通常の20代OLが買うものよりだいぶ高いものを買っている(センスが無いのでオシャレかと聞かれると疑問だが清潔感はあるはず)。
あとやれることと言えば整形しかないというレベルで努力していると自分では思っている。
かといって美容ばかりに時間を使っているのはむなしいので、仕事はがんばって昇進して、誇りを持って取り組んでいるつもりです。
でも、上がったお給料はほぼ美容代に費やされているという人間的中身のなさ。いったい何のために仕事を頑張っているのか分からない。
写真に写った自分のほうれい線や肌のくすみに絶望する。お風呂の鏡に映った自分がブス過ぎて涙が止まらなくなる。
そして、もしやわたしって可愛いのではないか、と思わせてくれる状況証拠を集めては、脳内検事に論破されて有罪、コンプレックスの刑務所から永遠に抜け出せない。
前回の地方統一選挙以降、当選した議員のツイッターやブログを定期的にみている。
若手の議員は、SNSを利用して市政を積極的に伝えていくと言っていたにもかかわらず、週に2,3回呟くだけで、FBの更新もほとんどしていない。
たまに写真を上げるのだが、地区の運動会や公民会での挨拶の写真ばかり。
そんな中、50代の市議会議員(当選1回)のツイッターが地味ながら面白い。
ちゃんとその日の活動を報告し、事実と評価をしっかり分けて伝えようとする努力が見える。
毎朝地元の写真を上げ、スポーツの結果に一喜一憂し、健康に配慮しつつも時に羽目を外して大酒飲んでは二日酔い。
そのおっさんは、10年先の市のヴィジョンみたいな未来のことはあまり考えていないように見える。
どこどこの道路が劣化して危険だ、イノシシが酷い、保育園のための駐車場が欲しいといった感じで、今市民が困っていることを地道に解決しようとしている。
先の若手の議員は、若者の政治参加や人口減少対策といったデカい仕事に熱心である。
いや、まぁしっかりやってくれているし、若手の議員がダメってわけじゃないんだけどね。
まず最初に問いたい。
新しい働き方・働き方革命、などと謳い、欧米で芽生えたクラウドソーシングを日本に持ち込んだ業界の方々へ。
あなたたちがその仕事を始めた時に誰を幸せにしたいと思いましたか?見知らぬ誰かのためにできることを何を夢見ましたか?
しかしながら、今、この日本ではクラウドソーシングを通して不幸な人間が産み落とされました。
キュレーション問題にまつわる一連の出来事は記憶に鮮明で、なおもマスメディアでは報道が行われています。
この騒動の発端はとあるIT企業ではあり、たしかに彼らの責任というものはそう小さくはなかったでしょう。
しかし、その遠因は本当に彼らだけにあるのでしょうか?謝罪会見を開き首を垂れた小さな為政者たちにだけに?
いくつかの報道ですでに実態は明らかになっていますが、クラウドソーシング業界が一連の騒動に大きく関わっていたのではないでしょうか?
拡大するキュレーションメディア、その影にマッチポンプとなるあなたたちがいたのではありませんか?
キュレーションメディアを作れば簡単に売上が上がる。証明さえしてみせればあとはそのフレームワークに乗せるだけ。
売上を欲する企業と報酬を欲するユーザの間で立ち振る舞い、自社の利益だけを追い求めた記憶は、その助力となった覚えはありませんか?
ガイドラインの改訂、評価制度の新設。まるで自分たちが襟を正せば問題ないだろうと居直った様に見えるのは私だけでしょうか?
クラウドソーシング大手自体が活発に営業活動を行った。その事実はありませんでしたか?
聞く必要もありません。それは上場企業であるクラウドワークスの次の四半期報で明らかになることでしょう。
同様の売上減が発生するのは火を見るよりも明らかなのですから。
ガイドラインの改訂や評価制度の新設、まるで自分たちには非がなかったかの様な素振りを続けるクラウドソーシング業界。
あなたたちは悪びれもせず、自分たちに非はないと言っている様に見えます。いえ、実際にそうなのでしょう。
謝罪もせず、正常化を謳いまた同じ過ちを繰り返す。そう、まるで壊れた蛇口が水を流し続ける様に。
グレーゾーンで得た収入で一部の才能ある人間がさも全ての様に立ち居振る舞い、また、勘違いした不幸な人間を生み出す。
それはあなたがなしたかったことですか?生き馬の目を抜くのでなく、駄馬の肉を内臓を売り捌く行為にあなたの本質はありますか?
その仕事を始めた時にあなたたちがしたかったことを胸に手を置いて考えてみてください。
まず、成し遂げたい何かはあなたの中にありますか?その成し遂げたいものは見えていますか?
その成し遂げたいものを阻害するものがあるのであれば、それは社会ですか?時間ですか?それとも上司ですか?
上司だと思ったのであれば、あなたが今のクラウドソーシング業界に対して見切りをつけ退職し、その業を断ずるべきです。
仕事とは求められた結果に対して、満足できる対価を支払うことです。
その対価を支払うこともできない人間に報酬を餌に無理矢理労働させる様な事実はありませんでしたか?
おそらく、あなたの同僚や上司はこういうでしょう。社会のために、ユーザのためにと。
ですが、その上司が見ているものはなんですか?売り上げやKPIだけではないですか?
自己ブランディング、会社の拡大、キャリアアップ、そういったことしか考えられない人間があなたの隣に上司にいませんか?
出世、売上、転職の道具として会社を活用し、まるでゲームのように、もしくは狩りのように数字に一喜一憂する人間があなたの隣に上司にいませんか?
ゲーム感覚で売上や成果だけを誇り、些細な世界を幸せにすることすら忘れてしまう世界にあなたは生きていませんか?
結果だけが優先され、プロセスは無視され、間違ったことをしてでも数字を示すことが重視されていませんか?
あなたが小銭を稼がせて満足させた人間はこの先も満足できますか?満足させるサービスを提供するための覚悟はありますか?
最後にもう一度問いたい。
クラウドソーシング業界に生きる方へ、あなたは自分の仕事に誇りを持っていますか?
あなたが働く理由は様々あれど、あなたの周囲の人間、余裕があれば社会へ還元する。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFL22HIB_V21C16A1000000/
最近のメディアや政治の反応が単なる一喜一憂でしかないのは皆さんもおわかりだと思う。
この問題では、株式運用のリスクに関する視点からの賛成、反対の議論が中心となっている。
まずはじめに私の立場を述べると、株式運用比率を高める事は賛成である。
その中で、私が問題とするのは運用資産のうち株式に投資する比率の目安を50%に増加させた時期についてである。
まず、運用比率を引き上げた2014年の秋から半年間(株式比率を高めるのには一定期間かかるため)の日経平均株価を見てもらいたい。
http://stocks.finance.yahoo.co.jp/stocks/chart/?code=998407.O&ct=z&t=5y&q=c&l=off&z=m&p=m65,m130&a=
その期間は常に上昇傾向で約17000円~20000円という歴史的にも最高値圏にある事がわかる。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5075.html
当たり前だが株価というのは上がったり下がったりする物である。
つまり、最高値の時期に株を買うという事は、将来下がる(損をする)リスクが非常に高いという事である。
ちなみに、株式指標は長期的に見れば最高値は更新していく傾向にある。
例えば、アメリカの指標などを見てみるとその傾向は顕著である。
http://ecodb.net/stock/dow.html
しかし、日経平均の長期チャートを見ればわかるように、残念ながら日本の株式市場にそのような傾向は見あたらないのが現状である。
もちろん、2020年までは成長し続けるという楽観論もあり、それが実現されれば最高値が更新していく事もありえる(いずれにせよその後下がる事になるだろうが)。
ただ、近年のオリンピックでは、開催前の景気悪化が起こる事も顕著に見られる(いずれも途上国ではあるが)。
今は株価は安定しているが、年明けと共に株価は下落を始めるだろう。
そもそも松坂はホークス選んだことが1番の間違いだったと思う。これは活躍できていたとしてもそう。ホークス入った時点で色々な歯車が狂いだした。松坂はヒーローだった。憧れの存在で、スーパーマンだった。当時野球をやっていた少年はみんな松坂の活躍に一喜一憂していた。
ヒーローに対して、ファンは絶対に像を思い浮かべると思う。こうあってほしい。こうあるべき。みたいな。
それをやり遂げ続けるからヒーローなんだと思う。イチローだって年とともに衰えるし、野茂も松井も晩年は本当に衰えてた。それでも彼らが未だにヒーローであり続けられるのは、成績云々でなくて、ファンに対しての像を裏切らなかったから。清原なんてある種はその像を裏切ってないと思う。あれは彼に抱かれていた一種のヒーロー像だったかもしれない。
2014年のオフ、松坂がホークス入ると聞いて、僕はその瞬間に「何やってんだよ」と思った。その理由は、ホークスに入った松坂が、たぶんヒーローでなくなると思ったから。
さっき書いたように、ファンはヒーローに対して像を重ねる。こうあってほしいと。そして同時にストーリーを語る。「ここまで来る道のりにはこんなことがあった」と。そのストーリーが太いものだからヒーローになる。もちろん結果も伴うけど、それと同じく文脈にものすごく色々な要素を含んでいて、それがみんなに語られる。
もし松坂がホークスで活躍していたとしても、活躍の度合いによるけど、たぶん多く語られるものでもない。それはたぶん望まれているストーリーではないから。
日本に帰ってくるという話がでたとき、ベイスターズがオファーを出したという記事を見て、ベイスターズに入った松坂を想像した。ベイスターズに行けば間違いなくスターであり続けられたと思っている。というかそれを見たかった。今と同じく故障で働けなくても、もっと応援されてんじゃないかって思う。それは望まれている像に当てはまっていたはずだったから。
松坂はその時代においては、常に最高の選手だった。そして同時に、常に逆境に相対する選手だった。
高校2年生では自身の暴投で先輩の夏を終わらせた。乗り越えて春を制覇、夏はPL相手に延長17回を投げ切り、敗戦濃厚の準決勝を奇跡的に逆転勝ち。最後はノーヒットノーランで優勝。プロに入って最初に話題となったのは「リベンジ」。語られやすい話は逆境ばかり。でもそれを乗り越えて頂点に立ち続けたからヒーローだった。
松坂がホークスに入ったとき、既にホークスは頂点のチームだった。そして何の縁もゆかりもない。どちらかというとライバルのはずだった球団だ。ベイスターズに入れば、まず横浜高校時代の活躍を思い起こさせる。「ベイスターズに松坂が帰ってきてくれた!」と。そして松坂は高校時代にはベイスターズへ入りたいと話していた。ベイスターズには同級生の盟友、後藤武敏もいる。また、ベイスターズには優勝経験のある選手は少ない。メジャー帰りの経験豊かなベテランもいない。色んなものが伝えられることが想像できた。仮に選手として活躍できなくても、貢献できることが多く想像できる。
それでも松坂はホークスに入った。いまや常勝球団であり、もはや巨人並のヒールになりつつもあるそんな球団に。そこで生え抜きスターを育てていくべきホークスが松坂のような選手を取ったこと、松坂のようなヒーロー像を重ねられている選手がそれと全く反する選択肢を選んでしまったこと。全てが悪手だったと思う。そして今この惨状である。
それでもここまで堕ちたからこそ、期待される部分がでてきた。とりあえず来年少しでも投げられる兆しを見せて、あわよくばクビになって横浜に入ってほしい。今なら西武でも良いと思う。そして活躍してくれたらと思う。そしたら松坂が、もう一度ヒーローに戻れる気がする。早くクビになってくれ。頼む。そして次を見せてくれ。そう願っている。
このままでは疲れてなめてやってた奴で終わる。そんな松坂で終わってほしくない。
昔は休日を楽しみにしていたが今は休日になっても楽しいことがない
やることがない
それも飽きてきた
そうするとやる事がなくなる
interestingがない
興味深いと思う知的好奇心の刺激とかがない
恋人もいない
欲しいと思ったときもあったが話を聞くだけ疑似体験するだけで大体どういう気持ちが満たされるのかがわかる
寂しいとか満たされたいとかそういう感情への薬みたいなもんだなと思った
自分はそういうのにこたえられる人間でもないし恐らく本心ではどうでもいいと思っている
3回告白されたが嬉しいというよりどう答えたらいいのか分からないので避けて引いただけだった
物心ついたときからこんな調子だから生まれた時からおかしいんだと思う
唯一の救いは身近で痛いとか苦しいとかいう人をみると心の中がザワザワして穏やかでいられない
何か助けてやりたいと思う
この間も見ず知らずの酔っ払い?の人が自転車でこけてたから起こしてあげた
周りは知らんぷり
別にお礼が欲しいわけでもなく、挨拶するくらいのノリで人助けだ
何の感動もない
これが共感性というやつかは分からないがモヤモヤするから行動する
でも愛してるとか大事にしたいとか独占したいとかを人に向けたことがない
そんな興味持てない
いっしょにいて楽しい人もいっつもいれるわけじゃない
誘ってくれると嬉しいけどずっといられないのが分かってるから希望しない
死ぬのが分かってて別れるのが辛くなるだけだろう
とにかく何のために生きてるのかそれを探さないといけないのだが
それを見つけるまでこのままだと電池が持ちそうにない
別に電池が切れたら死ぬわけではないが精神的虚無感と戦い続けなければならない
常に半裸で秋空のしたでいるような感じだ
勘弁して欲しい
自殺も考えてない
自殺したところで本当に解放されるのかどこにも確証がないからだ
でも俺には信じる神がいない
正確には信じている神はいる
神と呼んでいいか分からないがとにかくこの世界の一番最初の始まりを神としている
それが人のように意志を持つとか持たないとかはどうでもいい
それがなければ始まらなかったモノ、インフレーションの前の本当の始まりを神としている
でもそいつのせいでできた宇宙は俺にとってたいそうつまらない世界だった
なんで死ななければいけないのか、栄枯盛衰でなければならないのか
永遠の命が前提だとしたらそんなもの存在すら考えられさえしなかっただろう
最初のやつがそういうシステムがいいってんで作ったんだろうけど俺にはクソゲーにしか思えない
本当にこんな考え方してるやつがこの世界にきてしまって不幸だと思う
心理的に充足感を得ることができるようになったとしてもそれが何だっていうんだろうか
単に脳内麻薬がでたり伝達物質の分量さで心境の変化がおきてそれに一喜一憂する
虚しいと思う
これを糧にして人生エンジョイしてくれと言われてもできるだろうが死ぬときの慰めになるのか果たして怪しい
いっその事どこかの国で殺し合いの中で洗脳されてとっとと死んだ方がマシだったのかもしれない
どこに向かいたいのかを探すだけの体力が年々なくなっていく
体験版にしたって長すぎる
この世界に無抵抗に生かされ続ける存在させ続けられるすべての物質に対して神は不公平だと思う
その世界の物に世界のルールを操作する権利を一方的にはく奪して自分の条件下で圧倒的な力量差でルールを隠したり難しくしたりしている
不公平だと思う
こんなんを売れば即クソゲー扱いですよ
よくこんなもん売ろうと思ったな神よ
スペックとしては身長は183センチ/108キロ体脂肪率36%から183センチ/73キロ体脂肪率12%になった。
まずどのタイミングで食事をしようと太る量は変わらない。重要なのは「いつ」食べたかよりも「どれだけ」食べたか。
1日の消費カロリーを1800calとして、朝に1000cal、昼に600cal、夜に400cal摂取するのと朝400cal、昼に600cal、夜に1000cal摂取するのでは太る量は変わらない。
そもそも有酸素運動自体が時間効率が悪く30分走ったてたった300キロカロリー程度しか消費されない。
1キロ脂肪を消費するのに約7200キロカロリー必要だから、12時間も走らないといけない。
そんな事するなら毎食ご飯半膳減らして余った時間を別の事に使った方がいい。
じゃあなんでこんなにも有酸素運動信仰が強のかというと誰にでも出来て簡単にやった感が出るからだ。
誰でも走る事位出来るだろ?汗かくとやった感出るだろ?そういう事だ。
朝起きてトイレいった後体重計に乗りその体重を「今日の体重」にする。
次は食事の事だが、野菜を「多く」食べるとか曖昧な考えじゃダメ。
多くとるとか曖昧な言葉で考えてるとキャベツの千切りで腹を膨らまそうとしたりしてろくな結果にならない。
ダイエットに食事は切っても切れない関係だからキッチンが汚れるのが嫌だとか考えてる人はこれを気に料理を覚えろ。
最初は汚れるかもしれないが次第に上手くなって効率よく作れるようになる。
手入れも楽とか直鍋で食えるとかのデブ思考は捨てまともな思考へ変えていこう。
体重管理は一生続けるものだからその場しのぎは帰って効率が悪い。
今は24時間やってるジムが多数あり安く通えるから水泳よりも筋トレをしよう。
当然ジムにシャワー設備もあるから汗をかいた後は気持ちよく帰れる。
服を着てるので体型も隠せる。
ジムはロッカーもあるから好きなシャンプーやボディーソープも使え手ぶらで行く事ができる。
食事は自分の1日の摂取カロリーを計算して消費カロリーよりも低くすればいいだけ。
今はコンビニがどこでもあるし殆どのものにカロリーが書いてあるのでそれをスマホなりにメモして計算しよう。
はじめは食事を既製品のもの(カロリーが記載してあるもの)を摂取する方がいい。
そのうちどの食品をどの位食べると何カロリー位というのが感覚で分かってくるからそうなれば早い。
朝は何食べてもいいとか夜は少しだけとかいう考えを捨てましょう。
何度も言いますがいつ食べたかよりもどの位食べたかの方が重要です。
体を温めても痩せません。
風呂出た後に体重が減るのは水分がなくなっただけなので水を飲めばすぐ戻ります。
体温めるのに労力使うくらいなら摂取カロリーを気にしましょう。
部分痩せなんてしないので腹を温めても腹は凹みません。
暖かい200kcalのものと冷たい100kcalだと後者の方が痩せます。
以上です。
長文乱文失礼致しました。
では、また。
俺はパチスロをやるし、こうして増田に何か書いては100ブクマ超えたーとかで一喜一憂している人間である。
で、このパチスロをやって当たった時の快感と、自分の記事にブクマが集まる快感と、比べてみるととっても似ている。
なんていうか、自分がすごい人間になったような気がどことなくするのだ。
昔のスロ仲間が、こう言っていた。
「俺は家でスロアプリやっていてもつまらない。ゲーセンで遊ぶならギリ我慢できるけど、やっぱりホールで出したい」
この言葉を聞いた当時はやっぱり演出よりも金だよな、と思って聞いていたが、でもそれならゲーセンで我慢できるわけがない。そこが謎だった。
で、最近の俺の記事にそこそこブクマが集まったりして得た快感とパチスロが当たった時の快感が似ているな、と思った時、この言葉は別の意味を持ち始めた。つまり、『人前で』大当たりしていることが重要なのではないかと。
パチスロの世界には『どやタバコ』なる用語がある。大当たりが始まった時に吸い始めるタバコのことだ。俺はタバコはやらないから、このどやタバコにどんな意味があるかイマイチわからないが、俺は当たっているアピールだとすると納得がいくのである。
ネット上の承認欲求もそうだ。ネット上に俺が書いた記事がじわじわ広がっていくのが数字でわかるあのブクマ数。あれが増えていくのを眺めるときの渇望は、パチスロで大当たりを求める渇望の麻薬っぷりとよく似ているのだ。
まぁこんなことを書いているが、実はもうパチスロはやめようと思って、今日専門の精神科医の先生に相談しに行った。先生は最後にこう言っていた。
「ギャンブル中毒の皆さんはいろいろなことを言うけれど、総じてみると当たった時の『自分はすごい』という感覚が忘れられなくて止められないように見える」
けれども、『自分はすごい』という感覚のためにパチスロを打っているのだとしたら、『自分はすごい』という感覚が得られるはてブの世界に俺の依存先は転移するだけに思えてならない。
はてブの世界はパチスロほど金は使わないからまだ健全かもしれないが、それでもあの渇望が、あの麻薬が、自分にとって良くないものだという感覚は変わらない。
ああ、本当に業が深くてやってらんねぇ。
ちょっと前にここで憂さ晴らし程度に記事を4つ程更新したら、思った以上に反応を頂いた。
賛否両論ではあったけど、共感や励ましのコメントを読んでいくうちに自分の中の憑き物がすとんと落ちた気がした。
自分の書くものはちゃんと人の心を動かせるのだという実感は、とてつもなく自分を強くした。
私は趣味で漫画や小説の二次創作をやっている、いわゆる腐女子だ。
承認欲求が人一倍強く、他者が評価されているのを見ると平気な顔を装いつつも内心にはドロドロとした感情が渦巻いていた。
私生活も上手くいっていない部類だったので、増田として書いた記事は本当に日頃の自分の感情を吐き出す気持ちでまとめ上げた。
Twitterなどで自分の記事を引用RTされるのを見て、うれしさの半面、ヒヤヒヤもしていた。誰かがこれを私だと特定したらどうしよう。そんな自意識過剰の日々が数日続いた。
でも、幸か不幸か、誰もそれが私だとは気付かなかった。
そりゃそうだ、誰にも話したことのないことを書いたのだから、特定のしようがない。
でも、私の心の中にだけは「あれは私だ」としっかりと記憶として残った。
しょうもない匿名日記ではあるけれど、私の書いたものであることは確かだし、嘘偽りはない。ログだってしっかりと残っている。
でも、私はいやらしい奴だから、数字も欲しかったんだと実感した。
讃えてもらうだけが全てではないとも思う。
でも、讃えてもらって私は救われたんだと思った。
その気付きは、私の生活と考えを塗り替えた。
認められたかったら、思いを込めて、形にすればいい。
私にはちゃんとその才能があるのだ。
矛盾してるようだけど、認められるためのものを作るんじゃなくて、一生懸命作ったものはある程度は絶対認めてもらえる自信がついた。
気楽な気持ちで作ったものはそれなりの評価だし、表情や台詞の言い回し一つに気を配って、沢山の人に読んでもらいたいと願って作った本気の作品はちゃんと多数の人に読んで頂けるようになった。
それでも大手の描くような美麗な絵ではないから、爆発的には伸びない。
それでいいのだ。私は私の作品を、私の想定するクオリティで作れるようになったことが、今なによりも嬉しいのだ。
タイトルでは「成仏した」と書いたけれど、形を変えて側にいてくれるような気もする。
あれも、私の一部分だった。
このエントリーを読んでくれている人の中に、前書いた記事にコメントを残してくれた人がいるのなら、心からお礼を申し上げたい。見てくれただけでもいい。
おかげで私は、私のために創作が出来るようになったよ。
ただ、それだけの気持ちです。
「アイドリッシュセブン」、通称「アイナナ」をご存知だろうか。
iOS、Androidで一年ほど前から配信されているソーシャルゲーム、それがアイドリッシュセブンだ。
近年人気ジャンルの一つになった「アイドル育成ゲーム」であり、そしてそのアイドル達が実際に歌う曲をゲーム中でプレイする、俗に言うところの音楽ゲームとして宣伝されてきた。
豪華声優陣が演じるフルボイスストーリーも売りの一つで、着実に人気を得ていたアプリゲーム。
この記事を書いている私も配信当初からプレイし、アイドル達の物語に一喜一憂し、トラブルにも負けずに前を向く姿を応援していた。
グッズは購入しないけれどその分アプリに課金して、とにかくハマっていた。
最初は暇潰しに丁度いいや、と軽い気持ちだった。それがフルボイスのストーリーに触れ、追加されるカードイラストが見せる表情や動きに次第に傾いて行き、気付けば暇潰しどころか毎日の空き時間や睡眠時間までも削るゲームになっていた。
「でも、楽しいし推しのイラストは可愛い。ゲームも楽しい。睡眠時間もお金も惜しくない」、そう言ってゲームを続け、何かあればゲームに逃げ込んだ。
推しは運営にも愛されている。だってカードを定期的に追加してくれるし、ストーリーでキャラを崩されないし、誕生日だって祝ってくれた。
アイナナにはキャラの誕生日ガシャというものがあって、そのガシャでは「誕生日のキャラのカードしか出ない」という仕組みだ。アイナナのガシャは普段なら候補生といって、所謂モブのRカードが平気で排出される。
他のゲームでいえば、フレンドポイントなどで回せる無料ガシャで出てくるようなカードが課金で回すガシャで出てくるといった具合。
それが一切出てこない上に、大好きなあの子のカードしか出て来ない。日々課金しては出てくるモブに辟易していた私にとって、まさに「神のようなガシャ」といえた。
そうすればユーザーは「運営ありがとう!」と感謝するし、確実に欲しいキャラを手に入れられて苛々は霧散して、自然と好感度が上がった状態になるのだ。
仮にその後のガシャを回しモブが出て来ても、ユーザーは「また次の誕生日ガシャがある。もしかしたらその前に何か特別なガシャがあるかもしれない、あんなガシャを開催してくれるんだから希望はある」と勝手に自分で自分を納得してくれるのだ。
言い聞かせ続ければユーザーはいつの間にか思考を停止するし、そこにトドメのように事あるごとに課金アイテム(石)を与えておく。
アイナナは同じSRを特訓(合成)すれば、上位レアのSSRになる。更にSRもRの合成で持つことが出来るカードがある。故に他のゲームより、課金が出来ない学生の割合も多かった。
そんな中課金アイテムを多く配布したらどうなるか? 簡単だ、優しい運営を崇拝するようになる。
課金している人にも石の足しになり、当然文句を言う人は少ない。
CDを出せば必ずランキング、CDTVの話題などを公式アカウント――それもゲーム中に実際に出てくる大神万理というキャラが言っているようにツイートすることで、更にユーザーはいかに運営がアイナナを大切にしてくれているのか!と感動する。
不定期だがプロデューサーレターというものもあり、ユーザーはより一層「このコンテンツは私たちが育てた」と優越感に浸れる。
私もそうだ。日々の仕事で疲れ果てていたのを、そんな気持ちを抱くことで誤魔化すことが出来た。
アイナナは最高だった。曲追加もストーリー追加も遅く、待ち飽きる時間だって楽しみになった。推しのカードが出るならそれくらいいいとさえ思っていた。
私はTwitterもやっていて、そこではアイナナ好きの人とも他ジャンルの人とも繋がっていた。布教はしなかったが毎日何らかのスクショをアップし、公式からの告知をRTしては「可愛い!」と言う。
アニメ化も決まった。冗談抜きで泣き崩れたし、フォロワーと喜び合った。楽しかった。
その日も仕事帰りの疲れの中、Twitterを開いた。私は電車の中で思わず声を出しそうになったくらい驚いた。
アイナナが炎上している。他ジャンルメインの人が特に苦言を呈しており、カードのキメラトレスや構図パクだと訴えかけるツイートが回ってきた。
更にキャラの設定パクを纏めたwikiまで出来ている。恐る恐る覗いてみると、そこには私の大好きなキャラの被り点を指摘する記述が並べ立てられていた。
私は何とか空いた席に座ると、スマホを片手にしばらく放心した。身動きが出来なかった。
ソシャゲ以外に疎かった私は「そのジャンルはアイナナの後に出たんじゃないのか」と、怒りで頭を真っ赤に染め上げてすぐに検索を掛けた。
……もう5,6年は続くジャンルだった。対するアイナナは一年。おまけに原案は、その長寿ジャンルの同人誌を書いていたこともあるらしい。
設定であげられていたジャンルだけじゃない。某アイドルゲームが好きなフォロワーさんが怒っている。
アイナナ繋がりの人は皆黙するか、知らぬ存ぜぬという素振りでツイートをするか、「こんなのありふれてる!」と言う人がほとんどだった。情けないことに、私も運営を信じてしまった。
するとひとりのフォロワーさんがこういった。
「私がこの子をずっと応援してきたのは、その子がアイドルとして輝く姿を見る為だ。最初は出番が少なかったけど、必死に出番を貰えるようにお金を入れてきた。全てはアイドルとして未来で笑って欲しかったから。
このゲームのカード制作の手間を減らしてやるためでも、素材を提供してやる慈善でもない。ステージで輝く姿を馬鹿にしないで」
輝いてほしい。アイドルとしてステージで誰よりも素敵になった姿を見たい。だから応援するし、お金も入れた。
…………それじゃあ、今私の手元で笑顔を見せるこの子のカードは何だ?
見れば見るほど似ていた。この笑顔もステージ上の姿も、この子であるはずなのに決してそうではない。あろうことかキャラを構成する骨組みでさえ、よそからつぎはいだものだという。
私の大好きだったアイドルは、他のジャンルの人達がずっとずっと応援してきたアイドルを平気で横取りした材料で生み出された?
ぐるぐるする頭で考えていた私の元に更なる衝撃が飛び込んできた。根岸綾香の問題だ。
アイナナに登場する如月あると。それが根岸Pが自己投影しているキャラクターだ、というツイートだった。
アイナナで「あると」と言えば、「如月あると」という人気女性アイドルという設定のキャラクターだ。
この「如月あると」は、2(キャラ名は一応伏せておく)とゲーム内ストーリーで共演し、公式ノベライズでは撮影現場でも仲良くしており、「ある坊」と呼ぶ程親しい仲なのだとも言われている。
根岸PのTwitterアカウント名が「あると」であること。アイナナ関連の(恐らく製作に関わる重要な)情報をツイートしていることから裏付けが出来ると、スクリーンショット付きで流されていた。
なんで?私がお金を払っていたものは他の人がたくさんの愛情を込めたコンテンツを平気でパクったものなの?ゲームプロデューサーの夢小説ってどういうこと?
グッズについても言及する声があった。やはりそちらも類似しており、眩暈がした。
それでもツイッターのアイナナ好きは意見を変えない。寧ろおかしいと声をあげることを赦さない、異様な雰囲気のままTLが流れていた。私は先ほどの訴えと根岸Pの件を耳に入れ、ようやく決心した。
アイナナに課金するのは様子を見よう。そして一度運営に問い合わせよう。
大丈夫だ。あれだけキャラに愛を持っていた運営だ。ユーザーに優しいツイートを流し、プロデューサーレターまで用意する様な彼らなら、誠意ある対応で今後も安心して遊ばせてくれるはず。
そんな期待もあった。私は運営にメールを送り、調査を待った。何の根拠もなく調査してくれると思い込んでいた私の元に、翌日返信が届いた。
内容は典型的な挨拶、それから「そのような事実はない」という否定。
……調査は?と思った。ツイッターを開き検索すると、同じような内容が返ってきたというツイートを見かける。おまけに課金していないのに勝手に代金を請求されるという「課金エラー」も起きており、早急な対応をするべき問題にノータッチ。
愕然とした。どうして?なんで?あんなにキャラを、ゲームを大切にしていたなら、ちゃんとするべきじゃないの?
「本当に大切ならその子固有のポーズや表情を考える。その子だけの煌きの一瞬を切り取るはずだ。アイナナは、そうじゃなかった」。
私はあれだけ熱に浮かされ、運営を信じ込んでいた頭が一気に冷えて行くのを感じた。本屋でアイナナが表紙になっているのを見かけ、コンビニでアイナナの商品があると知らずのうちに嫌悪感を抱いていた。
キャラは好きだ。ストーリーも応援していた。運営も好きだった。なのに対応は杜撰、根岸の自己投影。何よりもパクリ問題や他の俗に言うラレ元ファンの人を踏みにじった。
ツイッターを見るとアイナナファンはみんな口をそろえ、「アイナナは悪くない」「どこにでもある」「他のゲームも被ってる」という。傷付いた人たちのことは顧みない。どこにでもあるという構図は、そのゲームの運営やイラストレーターがきっと必死になってそのキャラの為に考え生み出した一枚だ。
私自信、彼らのこともゲームも良く知らない。けれど彼らがアイナナのための素材集ではないことくらい分かる。
それでも諦めきれずだらだらとゲームを続け、罪悪感や苛々、ファンの言動への嫌悪を募らせていた時。ついに公式が声明を出した。私は藁にも縋る思いで読み、乾いた笑みを零した。
要約すると「パクじゃない。これからもオリジナリティを追求し頑張る。」問題の根岸に至っては、まるで怒られて不貞腐れた子どものそれだ。
第三者機関への調査依頼さえせず、違うと言い張る運営。絶望だった。そうか、彼らはアイドルを大切にしていない。他のゲームもファンも、自分のコンテンツのキャラクターさえ「金になる存在」程度にしか見ていなかった。
私はアプリをアンインストールした。グッズを購入しないタイプだったので、何も手元には残らない。でもそれで良かったと安心した。
ツイッターは相変わらず「嫌なら辞めろ」「アイナナを叩くな」と盲目的な意見で溢れている。一歩間違えば私もああだったのかと思うと、今回の件で傷付いた人やクリエイターさん達に申し訳ない気持ちでいっぱいで、トイレに籠り思いっきり泣いた。
辞めた人達にもアイナナが好きで、運営がまともな対応をしてほしいと思う人だっているだろう。実を言えば私もそうだ。
そんな人たちの意見さえ許さない。肯定しか受け入れない。まるで今の擁護派は宗教の信者のようで、日々誰かを傷付けていることに気付かない。
彼らはいつになったら気付くんだろう。存在しているだけで不安と怒りを与えるコンテンツを擁護する自分達という姿を、一度見つめ直してほしい。
アイナナが今後も誰かの大好きなキャラを素材にするかもしれないのだ。標的は自分の大切なあの子かもしれない不安を、きっと他のユーザーは抱き続けないといけない。
ストーリー中で、アイドリッシュセブンの楽曲が盗作されるというものがありました。盗作されたアイドリッシュセブンの子達は、喜んでいましたか?
それが答えです。ストーリーだ!創作だ!というなら、もう何も言いません。
消費者にはこの件について言及する権利があります。私は気持ちの整理をするためにこれを書きました。
終わって問い合わせ可能な時間になれば、調べてから然るべきところへ問い合わせます。もうアイナナをプレイすることはないでしょう。アニメも観ません。
でもきっと一緒に成長したかったあの子だけは忘れられないし、これから好きな気持ちと、好きになってしまったのが悪いことだと言う罪悪感も持ち続けるんだと思います。
ついさっき一縷の望みをかけて公式サイトもツイッターもみました。でもやっぱり、なんにもない。
残ったのは色んな感情と、このコンテンツを応援し続けたという一年間だけ。なーんにもない。あの子は運営から愛されていなかったし、きっとあの子にしか無い煌きも本当はどこにもなかった。
まだ課金エラーにも対応していない運営。彼らがいつかまともになっても、私は今回のことが頭を過ってしまうから、きっともう戻りたくても戻れない。
アイナナの人達はみんな切った。私がお金をかけて生み出していたのは誰かの憎悪と、哀しみと、不安と、傷だった。一年間情熱を注いで愛を抱いて笑って楽しんで、手元に残ったのは途方もない罪悪感と虚しさだった。
これでおしまいにする。アニメショップにももう行かないし、ツイッターも消すだろう。アイナナを見ればどうしようもなくなってしまうから。
でもあの子が成長する姿や煌くのをもっと見たかった、どうなるのか一緒にはらはらして笑って泣いて前に進みたかった、あの子がいれば毎日頑張れた。私にはあの子が必要だった。でもあの子は演じている人さえ、規模は小さかったけどやってはいけないことを起こしていた。怒ってる人がいた。だからもうだめだった。
さようならアイドリッシュセブン。これを書いている時点で未練も何もかもたらたらなんだろうけど、私は元ユーザーとして、せめてもう誰もこんな気持ちを抱く人が出ないことを祈っています。
少しだけ真面目に言うならテーマというのは「主題」なわけ。「主」って言葉の意味はわかるよね。中心であり核心であり、即ち価値なわけ。価値があるから「主」というので、なければ単なる一部分にすぎないの。そんなものを「テーマ」とは言わないですよ。
だからテーマを論じたらそれはマウンティングになっちゃうわけ。少なくとも優勝劣敗が存在するわけ。そんで「作品に込められたテーマを探す競争」が人々の中二心をくすぐったりもしたし、作者すらそれに乗って崇高で深遠な「テーマ」を探す競争とかしてたわけ。でもあなたが言うとおり「テーマが主なら、作品は従か?」って疑問が当然出てくるわけ。「いやいやテーマと作品は不可分一体だよ」とか言ってごまかしてもダメなわけ。たかだか数行にまとめた「テーマ」が主なら、二時間の映像はいらなくて、最初っからテーマだけでいいでしょって話になる。おかしいよね。なんでそんなことになったのか?
そもそもむかしむかし「作り手・受け手」の関係において「受け手」は弱者だったわけ。「作り手」は神の代弁者、司祭、シャーマンつまり「天才」。受け手はただの虫けらで、神の子の手で一喜一憂し転がされ泣かされ笑わされ搾り取られるだけの存在だったわけ。でも「批評」という行為によって革命が起きたのが近代という時代だったの。書き手さえ気付かぬ作品のシンの価値を発見し確立する創造的行為としての批評、それが近代的なあるべき作品受容の姿となり、そこで発明された批評家の武器がすなわち「テーマ」なわけ。「この作品のシンのテーマは…」とかしたり顔で語る連中は、、ことごとくこの時代に生まれた連中のしっぽなわけ。
それに対して、受け手が100%の権力を握るべしとした20世紀の過激主義者がエンタメ派なわけ。どんな作品であろーが、オレたちが楽しめればいーじゃんていう。オレたちが楽しんだ事実だけが重要なのであって、作品のテーマとかそんなもんあってもクソ、みたいな考えは、一方で作品の質みたいなものを果てしなく劣化させてく危険思想でもあったのだけど。まあそんなことは昨今のアニメを見てる連中ならうすうす気付いていることだとは思うけど。萌え豚共だって自分らが萌え狂ってる作品が、50年後100年後まで人類を熱狂させるHOTコンテンツだなんて欠片も思っちゃいないでしょ? まあでも、「批評主義、テーマ主義」ってしょせんはインテリの玩具であって新しい階級主義だったわけ。それより、萌え豚の方が「ぶひー」言ってればいいから楽しいし多数派なわけ。急進派は多数派に敗北するのが歴史の必然なわけ。んなわけで、萌え豚が「テーマ=悪。エンタメ至上」という旗印の下に批評家オタクを駆逐していったわけ。
そんなわけで、この件についてはどちらが正しいってことも別にないわけ。「それぞれの時代における流行りの作品受容の在り方」でしかないわけ。いずれもその時代なりの必然があって生まれたスタイルなわけ。
それより、そういうエンタメ派全盛な脈絡の中であえて「いかにもテーマ的に論じられそうなコンテンツ」をぶっこんで来た所が庵野のタチ悪さだったわけ。つまりテーマを論じる批評という行為自体を巧妙にエンタメ化したわけ。わかりやすく言えば萌え豚という民衆の手にテーマ論という権力を解放したということで、これはまさしくアナーキズムの可能性の中心なわけ。これがゼロ年代のオタク概念の飽和を生んだ庵野革命だったわけ。そして今回は、ゴジラと震災と政治、なんつーメジャーコンテンツを使って(政治ももはや萌え豚の旗の下に果てしない劣化を始めていたというタイミングもあって)
一般人までまんまとそれに狂わされてるわけ。そこが庵野の手腕ですげーとこなわけ。だから、増田や増田やお前増田や俺増田がこうやってネットであーだこーだいうところまでひっくるめて、全部庵野の計算したとおりのエンターテイメントなわけで、つまり「やっぱり『シン・ゴジラ』すごいわ」というのがとりあえずの結論なわけ。
というわけで、これがライト左翼の語る「シン・ゴジラ」論なわけ。
http://anond.hatelabo.jp/20160816124615
(追記)ブクマに回答
id:tick2tack 批評オタクが「駆逐」されたのはなんでなのかな?エンタメ派が増えようが批評を続けることに問題はないように思える。単に注目・承認欲求が得にくくなったためとか?
承認欲求と言えばそうですね。すごそうな「批評」に感心してくれる人が減ったら批評のやりがいがない。エンタメ派によって「今時『テーマ』とかムキになって論じちゃう批評ってイケてない」というイメージが広まりましたしね。あと、積極的に駆逐しなくても、エンタメ=楽しい、と一動作に対して批評=考える+論じるの二動作。後者は前者にどうあがいても敵わぬ理屈ッ(成る程っ!)、みたいな。「楽で楽しい」方向に流れるのは時代と歴史の必然でもあるように思います。
なんでもポケモンGOで使うアイテムの入手場所に平和公園が入ってるのが「ふさわしくない」として削除要請したとのこと。
でも今回の件に関しては俺は市の判断を支持してます。個人的には平和公園でのポケモンGOのプレイは原則禁止にすべきだと思ってます。
理由は
と考えているからです。
まず①について。
平和公園は原爆の犠牲者に祈りを捧げ、平和の尊さを考える場所として作られています。この思想、理念の是非はともかくそういう目的で作られ、大半の市民はそれを支持している訳ですからそれに対するポケモンGOのプレイヤー側からの配慮はあって然るべきだと思います。
また平和公園では8月9日の式典を始め、ちょくちょくその手のイベントが行われます。その運営面から考えてもポケモンGOのプレイを規制するのには合理性があると思います。こういったイベントに拒否反応を示す方(個人的には俺も苦手です)もいるとは思いますが、元々平和公園はそういったイベントを行う為に作られた施設ですので、これについて外野からあれこれ指図される謂われはないでしょう。
件の記事のブコメでは目的はどうあれ平和公園に来る人が増えるのは良いことじゃないかという意見もありましたが、個人的にはポケモンGOが目的で来た人はポケモンやアイテムをゲットしたらさっさと帰っちゃう人が大半だと思うんです。平和や原爆について考えるタイプの人が平和公園でポケモンGOをプレイするというのもちょっと想像しにくいですし。特にグロ画像(グロアニメもあるよ!)満載の原爆資料館(平和公園近く)にポケモンGO目的で向かうと後悔する人が多いと思います。
またスポーツ施設も含んでるんだから削除要請はおかしいというブコメもありましたが、今回の削除要請はおそらく平和公園(平和祈念像があるところ)、爆心地公園、原爆資料館の3ヶ所、もしくは平和公園のみだと思います。地図で見て貰えば分かるのですがビックNスタジアム(野球場)や市民プールなどの施設は平和公園などがある場所から国道や路面電車の線路を挟んだところにあり、それなりに距離があります。俺は今回のことでビックNや市民プールが平和公園の一部だったのを初めて知ったくらいでして、おそらく大半の市民の認識も削除要請をした市役所の職員の認識も平和公園=平和祈念像のあるところという認識と考えていいと思います。もしビックNや市民プールなども対象だとしたらそこは削除要請の対象から外すのはアリだと思います。ただプールはプールで安全面への配慮から禁止にした方が良さそうですけどね。
続いて②について。
長崎市内に関して言えば他にも公園はあります。ポケモンGOを楽しむならそういうところで良いと思うんです。平和公園の様に拒絶反応が強そうなところに無理矢理乗り込んでいく必要なんてないと思うんです。別にそこにしかアイテムがないって訳でもないでしょうし、仮にそうだったとしてもそれはゲームを運営する側の問題であって、勝手に設定された側が削除要請を出したからと叩かれる理由にはならないのではないでしょうか?
色んなところからポケモンGOに対する反発がでてくるのってプレイヤーのマナーの悪さが一番の理由のようです。少なくともそういうイメージが広く出回っているのは確かです。そういう状況で「一部のプレイヤーを取り上げて自分達まで同じように扱うな!」「勝手なイメージだけで規制するな、偏見だ!」と叫んだところでさらにイメージを悪化させることはあっても良くする効果はないと思うんです。
すでにこの点を問題視してプレイヤーの側からマナーを向上しようという動きもあるそうですし、拒絶されずに済むプレイ環境を作っていくには拒絶している個人や組織を叩くのではなく、どうしたらそういった人達とも協力してプレイ環境を作っていけるのかを考える必要があるのだと思います。
どんなゲームであれ楽しくプレイする権利は全てのプレイヤーにあると思います。でも同時にゲームをプレイしない権利、プレイして欲しくないところでのプレイを止めて貰う権利だってあるはずです。どちらが優位という訳でもない以上、議論を重ねて妥協点を見出すしかないのだと思います。ですのでポケモンGO禁止の動きに対する過剰な反発はかえって妥協点を探す上でマイナスになってしまうのではないかと危惧しています。
最後に③について。
「ふさわしくない」という件の記事における長崎市平和推進課の発言に対する反発は大きいようです。
この場合の「ふさわしくない」のは特定のポケモンGOのプレイヤー個人を指す言葉ではないからです。
ポケモンGOはAR、拡張現実の言葉通りに実際に端末を持って動き回り、時に情報交換を行い、ポケモンやアイテムを探して一喜一憂するゲームです。メールやLINE、各種ソシャゲに比べポケモンGOはプレイする場所に対する影響も大きいです。特に平和公園の様に雰囲気を大事にしている場所にとっては致命的な影響を与えかねません。
プレイする人が指折り数える程度であればそこまで問題ないかもしれませんが、平和公園は観光客や修学旅行生など多くの人が訪れる場所です。ポケモンGOをプレイする人達が集団と呼べる人数になる可能性は十分にあります。そうなってしまうと平和公園がポケモンGOを楽しむ為の場所になってしまうのです。平和公園の存在意義といってもいい祈りを捧げる場所としての雰囲気が全てぶちこわしになってしまう可能性がある訳です。
「ふさわしくない」のはポケモンGOをプレイする個人ではなくポケモンGOをプレイする人達の集団が巻き起こす現象が「ふさわしくない」のです。
それに危機感を持つのは公園を管理する市としては当然のことで、件の記事における発言もやはり全く問題ないと俺は思っています。
富士山を登頂した者がいても、エベレストを登頂した者がいれば、前者が登山を語ることに疑問を抱く者が出てくる。
もちろん、相対的に素晴らしいものを認めることができる人間もいるがそれは少数派だ。
インターネットの普及で上位数パーセントの整った容姿を持つ人間を多く見ることができるようになった。
実際の割合というのは昔と大差ないはずだが、美形な人間が増えているかのように錯覚させる。
昔だったら美形だったはずの人間もブサイクのように扱われ、昔ながらのブサイクは嘲笑の対象になっている。
そんなセリフで笑いをとることに疑問を感じなくなっている。文化とうオールマイティーな免罪符を使えば誰も咎められない。
人種や病気、障害者などへの差別撤廃を叫ぶ一方で、変えることのできない、できても整形手術と相性のよい一握り人間のみしか変えることのできない新たな階級を形成しつつある。
求める要求が高くなり、その種類が多くなるほど人の心に余裕がなくなる。
「期末試験で科目数と難易度が去年の2倍になりました。それは進学に影響を与えます。」
それが現在の息苦しい世の中を形成している大きな要因の1つにもなっている。
美人でも整形手術を繰り返したり、その日の顔のむくみに一喜一憂している世の中はいい世の中だろうか。
自分の能力と要求が大きく乖離している場合はどうなるだろうか。
中学生の段階で、高校3年生の学力を要求されたら逆にやる気をなくす人間も出てくるだろう。
どうでもよくなるのだ。
たとえ何かを達成しても、容姿というパラメータ一つで尊厳は奪われてしまう。
社会からドロップアウトしてしまう人や無気力な人間を生産しているのはこの雰囲気によるところも大きいと推測する。
時にそんな社会を恨み、それがいきすぎて犯罪に至る者が出てくることも想像できる。
こういう雰囲気を解消するにはどうするべきだろうか。
テレビのバラエティなどでブサイクを貶めて笑いにすることは許容されている。
製作者からすればただのショーであり、仕事をこなしているだけだろうが、
文化を形成するのに多大な影響を与えていることは紛れもない事実だ。
また、美に関して順位をつけ、不安を煽る方が刺激的で、注目を集めやすい。
視聴率や企業の利益を考えると、それを自主的に止めることは難しいだろう。
みんながこの閉塞感の蔓延した社会を解消するように訴えるしかないのだ。
これを見て共感してくれた人は、その主張を広めていってほしい。
はじめは負け犬の遠吠え、ダサいやつらのやっかみだ、と思われるだろうが、
海外から帰ってきて、空港に到着したとき、飛行機の扉がひらいて乗客がゾロゾロと出てきて列を作った。どこまでも続くと思われる廊下をさっきまで乗っていた飛行機を横目に見ながら進むと、そこで列は2つにわかれるのだった。片方の列は日本のパスポートを持つ人、もう一方は持たない人。普段意識をしないものの、不意にこのときばかりは自分が日本人なのだなと思い知らされる。空港では様々なパスポートの色や図柄がかいてあるのを見つけるなかで、自分のパスポートには「日本国」と書いてあることが自分が日本人であることに対する、まるで唯一のよりどころに思われた。
灼熱のアスファルトをトボトボと歩き、やっと公民館の投票所へつくと汗はダラダラと吹き出していた。入り口に掛けられた蚊取り線香からかすかな香りを感じながら廊下を歩くと、老若男女とすれ違うことによって国民の誰もが選挙権を持っていることに気付かされる。整理券と引き換えにもらった小さな紙と、銀色の台に置かれた鉛筆、それからひんやりとして鎮座する投票箱。これが民主主義とやらを支えているのかと思うたびに、なんとローテクなのだろうと思いつつ、民主主義という人類の発明に思いを馳せるのだった。
「どうせ自分が選挙に行ってもなにも変わらない」という意見がある。それには全く同意だ。なぜなら、自分の意志で選挙の結果(当落)を左右できるひとは、大量の動員ができるごく限られた人たちだけだからだ。きっと自分の入れた一票は死票になる。それでも、自分はついつい選挙に足を運んでしまう。ふと隣国に目を向けると、日本とは異なった選挙のない(あるいはほとんどない)政治システムで動いていることがわかるし、世界の歴史を振り返れば普通選挙が始まったのは「つい最近」のことだった。例えばアメリカでは1970年代になってやっと黒人の多数が選挙に行くことができるようになったことが示すように普通選挙は歴史・地理的に見てそれほど普遍的なものではないと思う。選挙にいけば、教科書で見た間接民主制が目の前にある。たしかに、いま自分は間接民主制を採用する国に生きているんだなあ、というのを実感するために選挙に行っている。
今日の夜は一杯呑みながら、選挙結果を聞いて楽しむことにする。オヤジが贔屓の野球チームの勝敗に一喜一憂するように、自分は選挙速報を見ながらリラックスしたひとときを楽しむことにする。どうせ無駄とわかっていながらも投票してしまったがゆえに、その一票がどうなるのか気になって仕方がないのだ。