はてなキーワード: 一喜一憂とは
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シバターから試合お断りのメールをもらい、動画に対するアンチコメントがいっぱいになる一方、9sariグッズ売れ行きやブログ閲覧数が急増し、9sari cafeの看板猫9ちゃんの動画をアップする、漢a.k.aGAMI
以上の動きに翻弄され一喜一憂し、シバター関連動画を急上昇一位に押し上げる、YouTubeキッズ達
685 : 訴える名無しさん。2017/07/08(土) 02:00:03.64 ID:sfgHWQVs
良質な作品やライブをコンスタントに発信し続けて音楽だけで食っていけているラッパーも存在する中で、
ただ、他のレーベルオーナーは実質個人事業主で、せいぜい自分と自分の家族が食えれば問題ないのに対して、
法人格を持った株式会社の経営者は従業員に毎月賃金を支給して、納税して、社会保険料を納付しなければならない。
プレイヤー時代の価値観に縛られてマネージャーとして必要な決断が下せない中小企業経営者が案外多い中、
その覚悟はあるように感じる。
プレイヤーとしては猛烈にシャバいが、収益確保の好材料が当座見当たらない現状において、
将来何かしらのアクションを起こした際の焚き付け材としてチャンネル登録者数という目標を定めたのなら、
今回の動きは経営者としては極めて正しい。
まして、この業界のプロップスなど、漢が下がることで何故かONE-LAWが上がるような相対的で虚ろな代物なんだから、
消費者の多くは「現在」の印象に支配される。1年後には1年前のプロップスは無意味となる。
つまり、1年後にどうすることもできる。ならば、「現在」どれだけ叩かれようが数字という目に見えるものを取るべきだ。
代表取締役という現在の漢の立場における本当のシャバさはもっと別の部分にあって、
本体事業、つまりまともな音源のリリースが停止している点にある。
たとえ収益を生む見込みが立たないとしても、本体事業の稼働は止めるべきではない。
この点については改善が見られないようなら、将来的に法人の存否にかかわる問題に発展しかねないと思う。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/hiphop/1499431541/685
完
今日、応援している声優さんがお誕生日を迎えられたので、初めてTwitterでリプを飛ばしてみた。
できるだけ目立たないよう、当たり障りのない言葉を選ぶのに一生懸命になっていたら30文字程度なのに10分もかかってしまった。
けど、送れた。緊張した。
沢山のリプが来ているから、きっと埋もれてしまうだろう。表示数の上限とかに引っかかって見れないかもしれない。
けど、それでいいと思う。
それでいい、という事にしたい。
私は、その声優さんに関してはライトなファンでいたいと考えているからだ。
私がその声優さんのファンになってから、まだ1年も経っていない。
中高生の頃はアニメをよく見ていたけれど、2次元は随分とご無沙汰だった。
ジャンルはぼかすが、お笑い・舞台・アイドル・バンドなどの「ステージを観に行く」系のものだと思ってほしい。
元々高校生の頃からそのジャンルのファンではあったのだが、大学生の頃にとある人に興味を持ち、その人を目当てに見に行く回数が増えていった。
Aの規模は決して大きくない。
「若手」とか「マイナー」とか「インディーズ」とか、そんな感じだと思ってほしい。
aさんと出会うまでは同じジャンルでももっと規模の大きなところに通っていた私は、Aでカルチャーショックを受けることになる。
距離の近さだ。
小さな会場だと、一番後ろでも表情がわかる。目が合う。
Twitterでリプを送ると反応が返ってくることがある。
そしてそういう事を繰り返していくうちに、相手に自分を覚えてもらえる。
自分の存在が相手に影響を与えているということがあんなに嬉しいとは知らなかった。
そして、そういった体験は私をどんどんaさんに夢中にさせていくことになった。
当時を振り返って、私がaさんという「沼」の深みにはまってしまった原因はなんだったんだろう?と最近考えることがあったのだけれど、決定打(致命傷というべきか)を与えたのは「チケット」かもしれない。
私は、チケットを取るのが上手かった。
なのでいつ買っても良いのだが、同じ席種のチケットでも優劣があるのは良く知られている事だと思う。
座席が決まっているものでも整理番号入場で自由席でも、基本的には先着順で良いチケットは無くなっていく。
そしてそれは運の要素ももちろんあるのだが、先着順で先頭になるテクニックというものが存在する。
決して特別なことではないのだが、私はそれをするのがどうも一般的な人よりは上手かったらしい。
Aの公演に通い始めてしばらくして、初めてチケットの発売日にチケ発をしたら最前列でみれるチケットが取れた。
本当に特別な事はしていないので驚くと共に、私は不安に襲われる。
どんなジャンルでもそうだと思うのだけれど、最前列は熱心なファン、「強火」なファンが多いものである。
そんなファンの中に、まだにわかな私が入っていっていいものなのだろうか。
いじわるをされたりしないだろうか。
遮るもののない視界。
手を伸ばせば届きそうな距離。
やっべちょうたのしい。
こうして私は、だんだんと公演を見に行く回数が増え、「前方で見ること」にこだわるようにもなっていったのだった。
それから1~2ヵ月経つ頃には、一般的に「追っかけ」というレベルになっていた。
公演には9割方行っていたし、その大半は前方数列以内で見ていた。
地方の公演にも行くようになった。
出待ちも毎回するようになった。
そうするうちに、aさんもAに所属する他の演者も私の事を覚えてくれて、お互い軽口を叩ける位の関係性になっていった。
そうなるともうやめられない。
結果として私は、1年間に70~80公演、イベントも含めると100回近く、それくらいのペースでaさんに会いに行くようになった。
どんなに時間や体力や懐が厳しくても、会いに行くことをやめられなかった。
1~3年目は大学生だったので、公演がない日は隙間なくバイトのシフトを入れ、単位を落とさない程度に授業に出ていた。
キャリーバッグを持ってバイトに行き、終わり次第夜行バスに乗って地方公演に行ったり、
地方公演に行った後空港で徹夜して、始発の飛行機で戻りそのまま大荷物で大学に行ったりとなかなかアグレッシブだったと思う。
しかし、結局就職先が決まらずにフリーターをしながら資格の勉強をする道を選ぶことになる。
名前が書ければ入れるような大学ではなかったことと、その年の就活事情が「氷河期よりひどい」と言われるレベルだったことを一応言い訳させてほしい……首都圏で大卒初任給額面15万(残業代出ない)の求人を蹴ったのは間違いではないと思うんだ……。勿論私が追っかけにかまけて就活を真面目にしていなかったことが一番の原因なのだけれど。
何となく察していらっしゃるかと思うが、フリーターになったことで追っかけはとてもしやすくなった。
よく働いた。そして給料は全てaさんのために。
2年後にようやく就職するまで、私は大学生の時以上に追っかけに精を出すことになってしまったのであった。
なお、資格は3ヶ月で諦めている。費用は全て自分持ちだったので勿体ないことをした。どうせならその費用を追っかけに使えばよかったと未だに思っている。
aさんの追っかけをしていたのは正味5年間くらいだと思うのだけれど、その内4年間くらいはずっと「強火」だったんじゃないだろうか。
さっき、「公演には9割方行っていたし、その大半は前方数列以内で見ていた。」と書いたが、前方数列以内では基本的に満足せず、最前列をいつも狙っていた。
理由は色々ある。
誰よりも近くで見たかったし、他のファンが目に入るのが嫌だった。
それに、最前列にいると「誰よりも近くにいる」という優越感も出てくる。
中にはAの他のファンと結託してチケットを取っている人たちもいたから、その戦争に打ち勝ち最前列を勝ち取るのは大変だったし、自力で良いチケットを取って最前列でみれたはいいものの、他のファンから嫌がらせを受けて楽しめなかったりもした。
それでも、私はaさんを近くでみたかったし、元来勝ち気で負けず嫌いな性格なので嫌がらせなんぞに屈する訳もない。
むしろ火がついてより一層チケット取りに力を入れることになる。
テクニックで取れる先着順のチケットも、万全を期すために代行業者に頼んだりした。
手売りのチケットで順番がランダムになっていた時は30枚、50枚、100枚と良席が出るまで買い続けた。(流石に毎回は出来ないが。)
余ったチケットは定価か定価以下で譲りに出していたけど、譲り先が決まらなくて手元に結局残ってしまったことも少なくない。
今でも実家を掃除するともぎられていないチケットの束が出てきたりするのはそのせいだ。
私が100枚買ってもチケットが完売しないような状態だったから、きっとAにとっては良いお客さんだったろう。
おかげでAの演者たちから、私はそれなりに気に入られていたと感じている。
まあ、客だから悪く扱われないのは当たり前なのだけれど、他の「強火」のファンの中には割と問題児もいたりしたので「相対的に」ということだと思ってもらえればいい。
その問題児についても沢山書きたいことがあるのだが(なんせ面白い話が沢山あるのだ)、長い話になるため、まだ本題にも辿り着けていない今回は自重したい。
「詐欺」と「下肢静脈瘤」と「亀によく似ている」いうキーワードだけ置いておくのでもし増田でいつかそんな記事を見かけたらその時は宜しくお願いします。
話を戻す。
私はaさんから、他のaさんファンと比較して1番良い扱いを受けていたと思う。
「相対的に見てまとも」
「他のファンと揉めない」
「毎回来てくれる」
「チケットを沢山買ってくれる」
これなら気に入られるのは当たり前なんだけれども。
当時の私も、その事は理解していた。
やめてしまえば、今の「特別扱い」は無くなるとわかっていたからである。
私はそのポジションを守るために必死だったから、やってみて評判が良かったことは続けるようになってしまった。
チケットは、もう良いチケットを確保していてもまだ沢山残っていたら追加で買った。
差し入れは、たまにaさんだけではなく他のAの人にもさり気なく配って他の演者達からの評価も下げないように気をつけた。
出待ちで自分が話す時間が無くなっても、他のaさんのファンの子を「話しに行っておいで」と送り出した。
全部、最初は打算なくやっていたこと。
たまたま、友人を誘う予定ができたから追加でチケットを買っただけ。
たまたま、お礼をしたいことがあったから他の人にも差し入れを渡しただけ。
私が他のaさんファンから嫌がらせを受けたことがあったから、私はaさんファンに優しくしてaさんファンを増やしたかっただけ。
でも、それに「ありがとう」と言われてしまうと、やめるのが怖くなり自分をどんどん追い詰めていくようになる。
それでも、自分が特別だと思っていたし、自分が好きでやっている事だから何も気にならなかった。
けれど、
例えば、自分がどうしても譲れないと思っていた公演で最前列を取れなかった時。
例えば、自分はされたことのないファンサービスを他の人にしているのを見た時。
例えば、相手の機嫌が悪くて冷たくされた時。
_______辛かった。苦しかった。しんどかった。
Aの、aさんの熱心なファンが増えていくほど、そういう事は増えていった。
違うか。
私が、そういう事を前より気にするようになってしまっただけだ。
(だってAの客は5年間で殆ど増えなかったんだもの)(新顔が増えるのと同じくらい前からのファンが離れていったから)
自分が強火になればなるほど、その火力は沢山の利益をもたらしたけど、それと同時に私の精神は焼け爛れていった。
幸いにも、5年間の間にAの他の演者のファンで、私と同じようなスタンスで応援している信頼できる仲間ができて、その子達と相談したり協力しあっていたから孤独ではなかった。
これが辛いと愚痴を零せば「わかる、私もね……」と話をしてくれ、お互い慰め合い励ましあって。
1人でないことがどれだけ心強かったことか!
けれど、aさんはAで一番人気で一番ファンに問題児が多くて一番気分屋だったから、他のみんなより私は苦労することが多かった。
事実はどうあれ、少なくとも私はそう思っていたので、その結果
「みんなはいいよね、私なんか……」
と思う事も一度や二度ではなかった。
その頃にはもう、お金を稼ぐ時間とaさんに会いに行く時間以外はなくなっていったし、稼いだお金はいくらつぎ込んでも足りなかったから、友人からの誘いも断ることばかり。
元々私は多趣味で他にやりたいことも沢山あったけどそんな余裕はどこにもなくて、私の世界はどんどん狭くなっていく。
そしてそうなればなるほど、「私にはaさんしかいない」という盲信は強くなる一方……
「舞台の上のaさんをこれからもずっと見ていたい、応援していたい」
そう思って走り始めたはずだった。
それだけならそんなに苦しい道では無かったかもしれない。
けれど、道の途中で美味しい果物を見つけてしまって、気が付けばそれを探さずにはいられなくなってしまった。
道端に落ちていたりたまたま貰えたりすることもあったけれど、いざ探し求めるとその果物は高い木の上や険しい崖の上にあった。
手の届く所にあるものだけでは我慢できなくて、傷だらけになりながらそれを取りに行った。
同じaさんのファンを妬み、仲間を羨み、時にaさん本人すら呪い、正解も終わりもない「特別扱い」を求めて自分を追い詰めていった。
そんな日々の終わりは、意外とあっけないもので。
他のファンに、私が取った最前列の一番いい場所を理不尽に横取りされたというだけのことだったんだけど、そこで「あ、もういいや」となってしまった。
普段ならそれくらいのことで折れたりめげたりしないのにあの日はなんだったんだろう。
まあ、そんなこんなで私は頑張るのをやめた訳です。
徐々に公演に行く回数も減らして、就職をすることにした。
完全にファンをやめた訳ではなかったけれど、頑張らないというだけでとても気持ちは楽になった。
そうなると公演ものんびりと楽しめるようになる。
どういう訳だか、頑張っていた時のような興奮と感動を味わうことはなくなってしまったのだけれど、穏やかな気持ちでaさんを見られることは悪くなかった、と思う。
特別扱いは無くなるだろうと思っていたけれど、意外なことにそんな事はなかった。
たまに公演に顔を出せばいつもファンサービスをくれたし、たまに話す機会があっても今まで通り。
「そんな事をしても、もう前のようには頑張らないよ」
と言ったことがある。
しかし、そんなつもりはないと返ってきた。
それも含めて営業かもしれないが、私の5年間は一応何かしらの成果を出したのかも知れなかった。
そんなこんなで数ヶ月が過ぎた頃、aさんは突然Aをやめた。そのジャンルからいなくなり、普通の人になった。
最後の公演を観に行くことはなんとなくしなかった。その必要はないと思った。
そういえばその時、aさん宛にメッセージを集めたいとaさんファンの子に言われたけれど、それは断ったのを覚えている。断った理由は忘れてしまったけれど。
こうして、私とaさんの5年間は終わった。
随分と長い昔話になってしまったが、最初の話に戻ろう。
去年、友人に勧められて見たアニメで好きになったキャラクターの声を担当していたのがその人だった。
その当時、中の人に興味がなかったので、本来であればそこで終わる話だったのかもしれない。
なのだが、そのアニメがきっかけで2次元に出戻り、色々なアニメを見たりアプリゲーをするようになって、その声優さんのキャラに惹かれることが多いことに気付いた。
あまりにもその人が声を当てている子ばかり好きになるものだから、その人の他の出演作を見てみたくなった。
その人本人にも興味が出た。
そんな感じでなんとなくその声優さんを気にかけるようになって、やがて
と思うようになる。
出演作を追えば追うほど、ラジオやなんかで人となりを知れば知るほど、その人を応援したい気持ちは増していって、
ついに自分がその声優さんのファンだと認めざるを得なくなった。
(そう、なんとここまで全て前置きなのである)
けれど、もう私はどんなジャンルであれ「強火」にはなりたくないのだ。
aさんを追いかけていた頃より歳をとってしまった今の私には、あの頃のような体力も行動力もない。
嫌な思いをしてもその人に会いに行くために全力を尽くすという気概もない。
更に、もし今その声優さんをあの頃の私の温度で追いかけようとした場合、時間も費用も体力もあの頃とは比べ物にならないだろう。
300人キャパの会場が埋まらなかったAと、売れっ子の若手声優さんでは色々な規模が違いすぎる。
イベントのチケットを取ろうとしたってあの頃のようにほいほい最前列が取れるわけもないし、そもそもチケット自体激戦で取れないことだってある。
リプを返してもらえたり、出待ちやなんかで直接話す機会が沢山あったaさんとは違うのだ。
この先その声優さんのファンをやってて、果たして直接話せる機会なんて来るんだろうか。
理解しているのだが。
では、どうやってファンをしたらいいのだろう。
ファンであると自覚してから、最初に興味を持ったのは声優イベントだった。
元々「見に行く」ジャンルにいたせいだろうか、直接本人が見れるイベントに行きたくてたまらなくなったのである。
正直悩んだ。
イベントに行く=ガチ勢、というような印象があったし、aさんを追いかけていた頃の悪い癖が出そうで嫌だった。
間違いなく、行けば深入りするきっかけになってしまいそうだと思った。
けれど、誘惑にはめっぽう弱い私なので、結局、とあるイベントに行ってしまった。
悩んだが、行ってよかったと思っている。後悔はしていない。
「うわーーー生きて動いて喋ってるーーーキャーー」
というクソみたいな感想しか出てこなかったが、実際に生で喋っているその人を見れて嬉しかったし、話し方や表情の動きを見ているだけで本当に楽しかった。
その人の服装、持ち物、連れと来ていればその関係性と会話の内容、
どの程度必死なファンなのか、人間性はどうか、マナー違反をしていないか、ファンサービスをされているか……など。
つまりは、
「あっ、今あの人わかりやすくファンサされた。最前列にいるし言動からして熱心なファンのようだし、もしかしたらあの声優さんから認知されている常連のファンなのかもしれない。やだなー、あの人さっき友達割り込ませてたじゃん、そんな人がファンサ受けるなんて……」
Aを見に行っていた当時は、
見ない顔があれば観察して、誰のファンなのか、aさんに認知されているのか、どの程度の頻度で来ているのか、最前列を狙うようなファンだろうか、迷惑行為をしたりするような人ではないだろうか……
と、毎回そんな感じで他のファンを観察していた。
観察する理由は色々だが、「知らない人がいるのが嫌」ということにまとめられる。
aさんのことはなんでも知りたくて、それは「どんなファンがいるか、そのファンにどんな対応をしているか」という点についても同様だったのである。
そして、観察対象と自分を比較して不安になったり安心したりするのが常であった。
その癖は対象がかわっても治らなかったようで、私はその日、他のファンを観察しては一喜一憂していた。
その声優さんのファン層やファンサの仕方を知りたい、という好奇心だけならよかった。
けれど、自分よりも熱心で、沢山その人に会いに行っていて、更に自分より前列で見ている相手がいると勝手に妬み、勝手に自分を卑下して、勝手に傷ついてしまう。
「好き」という感情を他人と比較することも自分の定規で他人のものまで測るのも、無意味で無様で失礼なことだ。
またマウンティングゴリラになってクソの役にも立たない優越感を味わいたいのかもしれない。マウンティングする力なんてもうないのに。
こういう気持ちを打ち明けられて、相談できる同じ趣味の仲間がいたら、と思う時がある。
けれど、同じ人のファンとは表面上の付き合いしかできる気がしないし、例えば違う声優さんのファンだったとしても、過去の私は違う人のファンにまで嫉妬をしてしまっている。
そもそも、こんな面倒臭くて考え方が危ない人間であることを受け入れてくれる人がどこにいるんだろう。
なので、声優ファンの友人を作るのがとても怖い。
先日、同じ声優さんのファンの方からTwitterで声をかけられ相互フォローになったが、とても窮屈な気持ちになっている。
私の不用意な発言でその人を傷つけてしまうかもしれない。嫌な思いをさせたくない。
私のこんな澱んだ感情は隠し通さねばならないと思い、息が詰まる。
もうひとつ厄介なのが、Aを追いかけていた頃に培った技術がどうもこのジャンルでも多少有用らしいこと。
最近は二回連続イベントで最前列を取ることができたし(これは指定席や抽選ではないやつ)、ちょっと取りにくいチケットも普通に取れた。
きっかけは、ヤクルトファンの父が取引先から東京ドームの巨人ヤクルト戦のチケットをもらってきたことだった。
実はその前に1度、東京ドームに野球を見に行ったことがあった。
その時も父がチケットをどこかからもらってきてなんとなく着いて行ったんだったと思う。
運動音痴でスポーツ全般に興味が持てなかった私は野球のルールも碌に知らない。
またその日は割と単調な試合展開で余計に素人には面白さがわかりにくかった。
しかもサッカーなんかと違って、一打席事にプレーが止まるから長ったらしくて仕方ない。
その日の記憶は、残念ながら
・つまらない
・オリックスの誰かが負傷して担架で運ばれていった
まとめるとこの3つだけになる。
という訳で、2回目のその日も全く期待せずに、父の財布で飲むビールだけを楽しみに私は東京ドームに向かった。
到着して席につくと、グラウンドに何か黒いのがいる。
父に「あれはなんだ」と尋ねると、父は「ヤクルトのマスコットのつば九郎だ」と言う。
元々、鳥やカッパなどのクチバシのついたキャラクターが大好きな私は、つば九郎に一目惚れした。
なにそれめっちゃいい。
という訳で、前回のマイナスイメージはつば九郎によってプラマイゼロの所まで持ってこられた。
試合が始まると、前回とは違いヒットが沢山。
正直ヒットもファールもフライもよく分からなかったが、バットがボールを打つ小気味よい音と、それに一喜一憂するスタンドを見ていると、なんだかワクワクさせられる。
そう思い始めた私の目に、ある選手の走塁が映る。
なんか知らんがめっちゃ速い。
あれは誰だ、とまた父に尋ねると父は名前を教えてくれた。
難しい名前ではなかったのですぐに覚えることができた。
足が速い=かっこいい
私はその試合、初めて名前を覚えた野球選手を注目してみることにした。
その足の速い選手は、チャンスでヒットを何度も打った。
試合結果は、よく覚えていないけど確かヤクルトが負けたような気がする。
(東京ドームと相性がよくないヤクルトのことだから、多分この記憶は合っているはず)
けれど、私はこの日とても野球を楽しんだ。
そして、父の「次は神宮に行こう」という言葉に大きく縦に首を振ったのだった。
前置きが長くなったのでこの後のことはちょっと駆け足で説明する。
初めて神宮に行ったら、古いけど味のある球場と広い空に感動し、
生ビール(750円)だけでなく瓶ビール(450円)があることに感動し、
一打席ごと一イニングごとに止まるプレーもビールを飲むには都合がいい。
よく打たれたけど、それ以上に打ちまくって勝利を重ねていった。
2番川端
3番山田
4番畠山
その年の打者タイトルを攫っていく3人が並んだ打線はとにかく見ていて楽しかった。
野球に詳しくない人間には、投手戦より乱打戦の方がわかりやすくて面白いと思うのだけれど、
野球素人の私がヤクルトファンになったのはその辺も大きい気がする。
今は大体、月に1~2回くらいのペースで神宮に行き、たまーにビジターも行き、
それ以外の日は月曜以外毎日、テレビでヤクルト戦を見ながら夕食を取る。
まあ、これくらいの感じでゆるーくヤクルトファンをやっています。
今年の目標は戸田デビューですかね。試合結果は追ってるんですけどまだ2軍戦は見に行ったことがなくて。
私はミーハーの気があるので、優勝したから好きになったのかもしれないしそれは否定しないけど、
でも、5位に終わった2016年も変わらず大好きだったし、
というか、野球やスワローズに詳しくなった分、好きの度合いは増したような気がする。
多分、これからもずっと変わらず好きでいつづけると思う。
ちょっとずつ、本題に入っていこうと思う。
球団マスコットとトリプルスリーと瓶ビール450円がヤクルトファンになった主な理由の私なので、割とこう、ふわっとしている。
他球団ファンの友達もそこそこいるし、特別アンチ球団もないし、むしろ他球団にも好きな選手が大体1人か2人はいて密かに応援している。
巨人だったら坂本と阿部と菅野が好きですね。横浜は今永君が気になってます。
ヤクルトが取り逃した高山君も本当にいいですよねー。対阪神戦で、打たれたくない場面で高山君にヒット打たれると
と、なんかちょっと、悔しいとハイテンションが混ざったような変な感じになります。
パ・リーグあんまり詳しくないんであれなんですけど、今年の春季キャンプで見た杉谷はすごく惹かれたなあ。(斎藤佑樹が投げた日ハム楽天戦を見に行った)
リアル野球盤のイメージしかなかったけど普通にすげええってなった。
西武の横に走るやつとか楽しそうですよね。あとはチャンテ2?でしたっけ?男女パート分かれてるやつかっこいい。
オリックスのタオルで踊るやつも反対のスタンドから見ててとても華やかで素敵!
(それを見れるのはこちらがピンチの時なのでアレなんですけど……)
セだと、ヤスアキジャンプやってみたい。あと中日のサウスポーかっこいい!
カープだとハイパーユニオンかなあ。最初にハイパーユニオンを聞いたのは明治の応援でなんですけど、あのパリピうぇいうぇいみたいなテンションめっちゃ楽しいですね。
阪神のチャンテだと「チャンスだふり抜けかっとばせー」のが好き。
あと阪神は、神宮のヤクルト戦だろうとどこだろうと「くたばれ読売そーれいけいけ」言ってるのが、割と嫌いじゃなかったりします。
阪神と巨人どっちが好きかとかそういうんじゃなくて(どっちも同じくらいだし)、なんかこう、スポーツチームらしさ?
上手く言えないんですけど、去年村上春樹先生がヤクルトのファンクラブに寄稿して下さったアレに近い感じの感覚というか。
(気になった方は読んできてください。ボストンの下りのとこです。)
巨人と阪神の関係は、第三者目線から見てるととても楽しいのでこれからもスタンスを崩さずやって欲しい。
巨人と阪神ってファンの雰囲気とか応援の仕方とか比べても割と対照的じゃありません?
例えば、阪神ファンってメガホンも口径の大きい大きな音が鳴るやつ使ってる人割といるけど、対して巨人はメガホン自体使ってる人少なくて手拍子だったりとか。
どこの応援も個性があって楽しくて、機会があったら私もやってみたい。
今年は行けたらオールスターに行こうと思ってるのでセの応援は他球団のもできるかもでワクワクしてます。
ようやく本題。
そんな私なので、カープの赤傘も「楽しそうだからやってみたい」の範囲なんじゃないかなーって思ってる。
私がヤスアキジャンプやってみたいのと同じように、傘開いて東京音頭やってみたい他球団ファンがいてもおかしくないと思う。
阪神ファンの一部の方だけど、神宮で黄色い傘持ってラッキーセブンでくたばれ読売してらっしゃるし。
だけどなんでだろうね、阪神ファンのそれはそんなに問題にならないのに赤傘がこんなに荒れるのは。
正直、私も赤いシリーズ初年度は「そんなに目くじら立てること?」って思ってたんです。
ひとつは、まあ各所で色んな方が仰っているけど「1年目にヤクルトファンから批判的な声がある程度以上あがっていたのに何故何度もやるのか」って事なんだろう。
いくらふわふわした私でも、私自身はどうでもよくても、仲間のヤクルトファンが嫌がってることを何度もする人はあまり好きになれないよ。
これに関しては、許可を出したらしいヤクルト球団側にも文句を言いたい。
でも、「ネットで議論が白熱」ってだけだと、具体的にどの程度の割合のヤクルトファンが批判的な意見なのかわからないですよね。
初期の私みたいに「別にいいんじゃね?(°σ¨_°)」みたいな人の方が実は多いって可能性もあるから、署名でもしてみないとなんとも。
(球団側に苦情を直接言った人もいるかもしれないけど、それも「一部の過激な人の意見」って捉えられる可能性も否定出来ないし)
その日現地に行ってた私は、9回裏もさっくりあっさり凡退して負けたヤクルトを見て落ち込んでおりました。
でも最後まで応援できたし、切り替えてまた明日応援しよう、と思ってふと顔を上げたら、
三塁側に赤い傘が2つ並んで見えた。
見間違いかと思ったけど、バックネット裏にいた私とその席とはあんまり離れてない。
もう一度よく見たけどやっぱり赤い傘が開いてた。
ちょっと流石にアレはない。笑
怒るの疲れるから滅多にキレることないけど、あの時は流石に口から「ふざけんな」って出たわ。笑
・広島が勝った時に
・赤傘を広げて喜ぶ
この使い方ってカープさん的に正しいんですかね。
その時の怒りは一晩寝たらさめたけど、私のモヤモヤが広がる原因には間違いなくなりました。
あれは一部の人だってわかってるし、広島ファンに仲いい友達もいるし、その出来事だけでどうこうっていうのはないんですけど、
でも、その時の気持ちだけは察してもらえないかな……と思う訳です。
赤傘配布の時の試合でも、カープ勝利時にハイパーユニオンに合わせて傘振ってる人いたよね……
逆に、ヤクルトが広島に勝った試合でこっちがハイパーユニオンやったらどう思うんだろう。
巨人と阪神だと、ファン同士の仲が悪いのは周知の事実で、その対立はある種のエンターテインメントとしてもう成り立っているのでは、と個人的に思っている。
以前、巨人ファンの友人に
「ジャビット君のぬいぐるみを紐でくくって引きずってる阪神ファンとか見るけど、正直どう思ってる?」
と聞いたことがある。
その時の彼女の答えは
それに続けて彼女はこうも言っていた
「私は、巨人ファンになった幼稚園の時から阪神は嫌いだったし、阪神ファンも私を嫌いだと思う。けど、それはもうそういうものだと決まっているから、お互い安心して憎みあっているんじゃないだろうか。」
ちょっと納得した。
そんな、対立に歴史がある巨人阪神とは違って、ヤクルトと広島の関係性はそんなにぎすぎすしたものではなかったのではなかろうか。
私の知ってるヤクルトファンは比較的おっとりしていて、特定の球団のアンチは少ない印象なんだけれど、
別に、ヤクルトとカープがこれから戦争を始めるつもりならそれはそれで構わないし、そうなったら私も心からカープを罵れるんだけれど、
だってこれまでそんなんじゃないし、今更対立を激化させる理由もない。
だけど、
「嫌だからやめてよ」
の流れは毎年起きていて、これじゃあ喧嘩になって当然だと思う。
さっきも言ったけど、例え私は赤傘なんかどうでもいいとしても仲間の嫌がってることをする人は好きになれない。
だから、「赤傘否定派ヤクルトファン」が例え少数派だったとしても、赤傘を使い続けることでやがて少数派が多数派にまわることもある。
ヤクルトファンと喧嘩してまで赤傘にこだわる理由が何かあるならその方針を貫いてくれて構いません。
でも、こんなくだらないことで喧嘩しても、巨人と阪神とか、ヤンキースとレッドソックスとか、浦和と大宮とかみたいな完成された対立関係になれるとは思えない。
カープという球団と赤傘否定派ヤクルトファンに突っかかるカープファンが何を目指してるのかしらんけど、とりあえずよくわかんない喧嘩を吹っかけるのはやめた方が良くないですかね…?
眠い。
五時になる。
寝る。
私も三年前くらいはそんなかんじでした。これから持ち直したりぶり返したりあると思います。一喜一憂せずに(無理だと思いますけど)、頑張って(無理だと思いますけど)下さい。今は院にはいって就活中です。留年すると、ランクが落ちるので周りが馬鹿ばかりに見えちゃうんだよなあ~F欄とまさか競争するとは10年前の自分なら思わないよね。同じ大学のロンダ後輩(同期?先輩?)でも私のほうができるよなあと思うことも多いけど、まあ社会はそんなん評価してくれませんねー。よっぽど天才なら違うんでしょうけど。残念ながらそうではないので。お互いそこそこを目指して頑張りましょう。(そこそこなんて嫌だとリトル私がいっている。)あ~、もっともっと遠くへ行きたいんじゃー。
ttp://www.cycle-g.info/entry/2017/06/01/%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%8C%E3%80%8EYoutuber%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%E3%80%8F%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%81%AB%E3%80%81%E5%83%95%E3%81%8C
子供が将来ユーチューバーになりたいと言って素っ気ない返事をした事に反省をしている文章である。
まあ、某所の調査で子供がなりたい仕事ランキング1位にもなったらしいし、親からすれば心配にもなろう。が、別にこれは今の時代になっての問題ではなく、品を変え大昔から延々受け継がれてきた悩みなのだ。だから肯定するにしても否定するにしても気にする必要はない。
例えば、私が子供の頃は漫画が大流行だったので、私も漫画家になりたいと親に言った事がある。当時の漫画はそりゃ子供達からは大人気だったが、親から見たらしょうもない落書きである。漫画読むぐらいなら小説を読めと言われたもんだ。今のユーチューバーとさして変わらない待遇だと思う。
しかし、子供にとってはそんな事はどうでもいい。わずか数十ページの中に、宇宙への冒険・変身ヒーローになって地球を救う話・腹がよじれるような面白おかしい世界が無限に広がっていたのだ。そういう世界を作りながらお金を稼げるなら、こんな素敵な事はないだろう。意を決して、漫画家になりたいと母に打ち明けた。そうしたら、うちの母は、
「馬鹿な事を言ってるんじゃないの。手塚治虫も本当はお医者様になれる程、頭がいいのよ。馬鹿なあなたがなれるハズがないでしょ」
とにべもなく無く言われたものである。今の時代なら流石に自分の息子に向かって面と向かって「あなたは馬鹿」と言う親はいないだろうと思う。まあ、小学校のテストの点数すら半分とれなかった馬鹿なのだから仕方がないのだが。
流石にウン十年昔の話なので、当時の私が「そっかー、無理なのかー」と思ったか「そんな事ない、絶対になってやる」と思ったかは忘れてしまったが、馬鹿な私でも高校に入る頃には、漫画家になるのがいかに狭き門で難しいかは理解出来るようになっていた。
今の子供のユーチューバーになりたいという意志と私が子供の頃の漫画家になりたいという意志に差があるとは思えない。昔から対象が変わっただけで子供達は変わっていないのだ。そして、高校生になる頃には実際になるのはとんでもなく狭い門をくぐらないといけない無理ゲーだと気づくのも昔と変わらないだろう。そもそも、今の子供達が大人になる頃に動画配信で収益を生むというビジネスモデルがまだ存在しつづけるとも限らない。年の若干離れた弟は子供の頃ゲームプログラマーになりたかったが、今のこの状況でゲームプログラマーになりたい子供がどれだけいるだろうか。普遍的なビジネスを生み出すのは難しい事だ。
だから、まあ、子供たちが自分の夢を実現する事の難しさに気付く事が出来たなら、それは大人になった証拠だ。それまでは、「子供の」夢なんだから、好きにさせたら良いと思う。
ネット世論を見て一喜一憂する。憂うことの方が多い。ろくでもない意見が大多数で、しかも彼らは自分が多数派だという自覚もないからだ。自分と同じ意見を探してすっきりしたくて、いつまでも読んでしまう。そして泥沼に沈む。自分と同じ意見だって安心できない。「やっぱりこれが現状なのだ。」と絶望させられるから。
2ちゃんやまとめサイトにうんざりして、はてなに救いを求めたがそこでもがっかりすることが多い。はてなにすら裏切られた時は本当に救いのない気持ちになる。だから、最初から期待をしていない2ちゃんやまとめサイト等にあえて行くこともある。期待をしていない分いい意見が案外多かったりすると嬉しい。当然、裏切られることが多い。
定期的に憂鬱な感情になり、2,3日すれば治るもののそれも2,3日くらいしか続かない。その繰り返し。どんどんひどくなり、どんどん自分の思想は過激化し、この国に絶望し、体は重く笑えなくなっていく。ふとした瞬間に思い出し心が沈む。夜はうなされているらしい。何度ももうがっかりするようなところへ行くのはやめよう、と思った。でも結局無理だった。趣味垢でだって流れてくる。何もなくてもいろいろ思い出す。
ネット辞めた方がいいと言われた。頭ではわかる。でも、趣味垢で語り合うのが、趣味の小説や絵を読むのが、音楽を聴くのが、大好きなのだ。それができるのはネットしかない。
どうすればいいのかわからない。
http://anond.hatelabo.jp/20160622100234
この記事を書いた者です。
年間アクセス7位になっているのに気付き、久しぶりに記事作成をしようかなと思い立ったのでこれを記しています。あとゴールデンウイークに突入し、暇なのもあります(笑)
本文、追記共に当時の自分の心の澱と人には中々主張出来なかった故の断定的かつ鬱屈した感情がみっしりと記されていて、書いた当人ですら読んでて疲れました。
ただ、この記事で自分の気持ちを発散したことで実に穏やかな気持ちになれたのは確かです。
この匿名ダイアリーという場で、多くの人に自分の実際に感じたこと、体験したことの一部を『わたし』という人間が見えない場所から発信し、意見を貰う。カウンセリングに行くよりもずっと効き目の高いセラピーになりました。
発信して初めてわかったことがありました。それは、私みたいな生き方をしている人間は思っているよりもいなかったことです。
自分が多数派だなんて考えは当然ありませんでしたが、「私と同じ悩みを抱えて、苦しんでいる人は多いのかもしれない。そういう人がいるんだよって発信したら、私みたいな人間は救われるのではないか」くらいのことは思っていました。
ただ、反応を見る限りだとそうではなかったみたいです。共感以上に、私や周囲の異常性、読み物としての感想が多く、もしかしたら私自身の考えや生きてきた人生というのは、自分が思ってた以上に異常なのかもしれないということにお恥ずかしながら初めて気付かされたのです。
もしかすると、普通は越えないような轍を何個も何個も越えてきてしまい、引っ込みすらつかないのが私の人生なのかもしれない。
そう考えると、ここに記した殆どのことは、実生活の私の「墓場まで持って行く秘密」にしないと、あまりにも受け入れがたい事実なのだなぁと感じました。その位、人には理解しがたい人生を歩んできてしまったのだと。
これはとてもさみしいことです。だからこそ、インターネットで発散できてよかった。もしそうでなければ、私はこの澱んだ感情をずっと抱えたまま死んでいかなければならなかった。誰も私を理解できないと、自分だけが思ったまま。
そんなことすら、人に認められないと自認できない。
承認欲求の底知れなさを思い知りました。そして、私は、そういうことと一生をかけて向き合うのかもしれないと。
そういう性質の性格なのだから、仕方ないですよね。今はそうやって自分と向き合えるようになりました。
同人活動なのですが、Twitter中心で細々と続けています。
エントリーに関するRTが流れてくるたびにドキドキしていましたが、誰もそれを書いたのが私だとは気づいていないみたいです。今では誰も話題にしていません。インターネットなんて、そんなものです。
二次創作を描けば1000を超えるRTを頂けることもありますが、そのことに関して前よりは落ち着いていられるようになりました。というよりも、RTされるネタの書き方みたいなものを感覚で掴みました。
完全に記事を脱線するので詳しくは書きませんが(そもそも感覚なので説明も難しい)、別に絵が上手いとか特別な技量がなくても伸びるときは延びるのだから、一喜一憂していたらキリがないなぁと。
即売会は、行く回数は減りましたが参加しています。ただ、もう新刊を作ることはないかもしれません。キャラクター愛やそれを人と共有したいという感情が前よりも薄れました。
創作が楽しくなくなったわけではないのですが(これに関しては後述します)、なんでしょう。これが年をとるということなのかな。自分の中で「思い出」になりつつあるんです。
好きなキャラやCPをきっかけにして、Twitterでつながったり、Skypeをしたり、自分で本を書き、人の書いた本を読み、萌えて転げて、アフターや日常でも仲間同士で集まって、そのキャラの話で花を咲かせて。
そういう光景を見かけると、楽しそうだなという感情にはなるのですが、参加したいなという気持ちにはならなくなってしまいました。
でも、気の合う子とのおしゃべりは今でもとても楽しいです。みんな会ったときは10代でしたが、今では大人になりました。結婚している人は多くないですが、会うとキャラの萌えを語るより、近況を話すことのほうが増えました。
そんな私をつまんない人だと感じる人は、どんなに仲良くしていたとしても離れていきます。でも、それでいいんだよなと。
今、一緒にいて楽しい人だけが「オタク友達」なんです、きっと。そこから先の「普通の友達」になるためには、それだけじゃ足りない何かが絶対必要になってくる。そしてそれは、誰とでも芽生えるものじゃない。だからこそ、オタクの友達はあまりにも即物的。でも真の友情が芽生える可能性もあるから、バカに出来ないなって思います。
Twitterのフォロワー数だって同じです。繋がるのに何の不自由もないからフォローされてるだけであって、共通項がなくなればそこで終わりです。だからこそ、数に拘るのは無意味なんだと思います。ずっと見てくれる人や、たまの落書きを何年も変わらずにいいねしてくれる人こそ、大切にしなきゃいけない人なんだと思います。相互片道関係なく。
ここまで書いてきて、また自分の「●●でなければいけない」癖が文章に反映されていて、苦笑しました。
誰かに伝える文章は、例えそれが自分に課している制限だろうと断定的に書くことで人を不快にさせるみたいです。それもここで知ったことです。
難しいですよね。でも「私はこう思うけど、あなたはどう考えても自由だよ」とその度に書くのはくどいと思うのでここで一回書いたことで許されようと思います。許して下さい(笑)
二次創作への情熱が薄れるかわりに、最近は一次創作が楽しいです。
まだ公表していません。それなのにこんなに楽しいことがあったのかとびっくりしています。
物語という形にすることで、自分の意志を表に出すことができる。そこには何の制限もありません。もちろん物語としての整合性を整えるのもひとつの楽しみですが、どうしても自分の主張したいことがあるなら、オリジナルのキャラクターにやらせる分には誰も文句は言えないのではないかと気付きました。
悪い部分もあってこその人間。仲のいい友人に見せると、とても生き生きと動くキャラクターだねと言われ、お世辞でも嬉しいです。
ここで数人が「実録としてエッセイマンガにしたらどうか」とコメントされてましたが、いまでもそれをする気はありません。やはり私は、事実をそのままマンガにするのは好きじゃないみたいで、だったら一次創作のキャラクターに、何らかの形で搭載したいです。
主人とは、つかず離れず上手くやっています。私も多少ちょろまかすという事を覚え、小遣い以外に稼いだ分から少し抜いた分で友達とランチへ行ったりしています。意外と気付かれません(笑)
私の場合、ささやかな幸せを幸せとも感じてなかったことがそもそもの間違いだったので、今はそこを目標に生活水準を下げています。意外となんとかなります。
一年経った今、自分のことを牙を抜かれてチワワになった狂犬みたいだなと思いますが、それでこのままチワワになれたらもうけもんです。
尖って尖って、非難されるような自分だったからこそ、なれるものがある。
それを誰かにバカにされたり情けないだなんて言われる権利なんてきっとない。
他人の人生を私が生きることが出来ないように、私の人生は私にしか生きることができなかった。
それがどんなに汚い生き方でも、一般的には努力の足りない人生でも、誇りに思っていいことだ。
そんな風に、思います。
そう思えるようになったきっかけは、間違いなくあのエントリー。
なんてステマ臭の強い記事なんだろうと思うけど、本当にステマじゃないです。最後まで読んでくれてありがとうございました!面白みがなくてごめんなさい!相変わらず長い!ただの感謝の気持ちです!
○朝食:なし
○昼食:オムライスセット(オムライス、サラダ、味噌汁、コーヒー)
○夕食:きしめん
○調子
はややー。
来週から本格的にデータパターンや異常系もやっていくから、ちょっとしたバグは出るだろうけど、まあ今週みたいな謎事象の分析みたいな仕事はこないだろう。
疲れたあ。
ゴールデンウィークはゆうきゅーを使って大型連休にしたいところですね。
●3DS
まだ半分も進んでない。
バッジを集める、というだけの遊びというよりは、ユーソリティ的な側面も強いゲームでしたが、だからこそゲームの根本的な楽しみが感じられて好きなゲームです。
とはいえ、目標の悪ポケモンコンプリートは達成しちゃったので、さすがにログイン率は下がりそうだなあ。
○ポケとる
メインステージを進めるのは一旦休止して、
現在、225個。キリキザンが解放されたので捕獲したいところだなあ。
いやまあ、ぶっちゃけ、何狙いでもなく、仕事ひと段落ついた記念と、一周年記念に課金しただけなので、あんまり一喜一憂する感じでもない。
別に対人戦で勝ちたいとも思ってないので、デオキシスが出なかったことになんの思入れもない。
とはいえ、大好きな悪ポケモンでまだ持ってない、レパルダスとドラピオンが出たのは嬉しいかな。
よおし、はずみもついたし対人戦だ! と思ってリーグをやったら、いきなりデオキシスPTでうんざりしたので、やっぱこのゲームの対人戦苦手だなあ。
異動先して1ヶ月あまり、自分の無力さに凹む。同期が売上を出しているのを見ると、うんこ生産機という言葉を思い出す。先輩方の反応に一喜一憂、というより一鬱一鬱してる。しかし、自分が思っている程、周囲は自分のことに関心を向けていないだろう。と、思いたい。
隣の先輩はインポテンツだし、向かいの先輩は長年のセックスレスで頭がいっぱいだし、隣の隣の先輩は浪人したお子さんの荒れっぷりと姑の介護に憂鬱になっているから。知らんけど。
間違ったと思ったら次は直せばいい話。
自分は結果が出ないけど頑張ってるし、
って何を根拠に頑張っていると言えるのか。
自分には、病気があるかもしれないと分かってから、自分に甘くなってしまった気がする。
まず、好きな人が出来た。すごく久しぶりだった。何年振りか忘れたくらい。
仕事に対する姿勢とか、考えとか、すごく素敵な人だなと思った。人として、尊敬できる人だった。
次に仕事で会う時、自然と目で追ってる自分がいた。あんまり話す機会がなかったり、相手の態度を過大解釈して、一喜一憂してる時、あれ、もしかして好きなのかもしれないって思った。
自覚したら一瞬だった。
その時一回世界は変わった。LINEなんてめんどくさくて好きじゃなかったのに、向こうから連絡が来るたびに例えようがないくらい幸せな気持ちになれた。
返事を待ってる間、そのことばかり考えてしまうようになった。仕事で会わない時は、会ってた時のことや、LINEでの会話を気づいたら考えている自分がいた。
今まで何を考えていたのか忘れてしまうくらい相手のことを考えるようになった。
週に会えるのは1回か2回。LINEは1日多くて10往復くらい。
世界がもう一回変わった。相手に会えない日は「会いたい人に会えない日」、LINEをしていない時間は「相手からの連絡を待っている時間」になった。全て。
今までは、仕事をして、自分の好きなことをして、自分のことだけを考えていたのか時間が、何かをしつつも「相手のことを考えている時間」になった。
これが、良いことなのか、それとも悪いことなのかわからない。ただ、正直最近ちょっと焦っている。仕事でやりたいこともある、叶えたい夢もある、考えなきゃいけないことはいくら時間があっても足りないくらいあるはずなのに、「あの人に会いたい」ということを考えていると時間が過ぎる。
良い歳なのに、初めて恋をしてる気がする。相手のことで頭がいっぱいになって他のことが手につかない、なんて本当はもっと早く経験しておかなきゃいけないことだったんじゃないかって思う。
こんなに大切に思えて好きだって思える人に出会えて、恋人という関係になれているなんてこれ以上無い幸せだと思ってる。
でも、今までの人生とあまりに日々の時間の過ごしているときの感覚が違いすぎてて、今までの自分を構築していた何かを無くしてしまったんじゃないかって不安になってしまう。
幸せなのは間違いない。満たされてる、とも思う。でも本当にこのままで良いのかなって時々心配でたまらない。
こんなに他人のことばっかり考えていて、自分自身の人生はちゃんと進む?上手くいく?もし相手を失ったら今のその時間はどうなる?好きになる前の世界に戻る?
わからない。
恋って怖い…。
主人公の名前を自分で好きなように設定出来るゲームにおいて、主人公に自己を投影しづらい空気を感じてしまう。
要点は以上です。
以下はもう少し噛み砕いた、匿名じゃないと吐き出すのに躊躇ってしまうような雑記です。
雑記というか、愚痴、もしくは『こうなら良いな』を書いた夢女子お得意の夢妄想と言った方が適切かもしれない。そんな感じの内容が続いています。
論文のような、人に理解させる為の文章を書くのは自分には向いていないと思っているので、自らの書きやすさを重視して長年慣れ親しんできた夢小説を書いている時の調子で書きました。故に冗長な文になっていますので、時間の潰し方を探している方はどうぞ。
昔から夢小説が好きで、必ずというわけではないけど、夢主人公=自分という形で夢小説を読むことがよくある。
そんな私は、設定は関係なく、たとえ自分との共通点が皆無だとしても、夢主人公は自分だとして読み進めることが出来た。
他人の夢小説の読み方にさして興味を持ったことがないので正否は定かではないけれど、もしかすると自分は夢女子の中でも異端な方なのかもしれない。なにせ見た目があって、性格が濃くて、性別が違って、種族さえ違ったとしても、夢主人公のことを自分として読み進めていく事が出来るのだから。
そもそも二次創作自体『もしこうだったら』とか『こんなことがあるかもしれない』とかそういったものを描いているのだから、『自分がもしこういう人間だったら』という前提を頭の中に用意して夢小説を読むことは何らおかしなことではない筈である。
夢小説は、個を表す記号であるところの名前を自分にして読むことが出来る。たとえどんな人物像が充てがわれていたとしても、名前変換という機能が付いている限りそれは『もしこうだったら』の姿が描かれた自分として読んでも許されるのだと思っている。
名前が自分の中での重要なパーツなのだろう。親から貰った名前である、この先名前が変わる事なんて結婚以外にはそうそうない筈だ。
世の中には当然同名の人が沢山いるけれど、それでも自分の名前が私という個を表す要素である事に違いはない。
そしてそんな私は、昔からゲームの主人公の名前も自分の名前だった。兄弟がいたので、セーブデータの判別を付けやすいように各々の名前を使用していたのが癖になっていたのかもしれない。
ゲームの中では、主人公が自分の選択したように動くし、自分の選択に合わせて仲間も成長する。自らに呼応するように変化する世界で、名前だって同じなのだ。主人公は紛れもなく自分だった。
そしてその楽しみ方は、今でも変わっていない。
私が今現在主に活動しているジャンルは、キャラクターを育成していく女性向けのソーシャルゲームだ。キャラクター達が自分の選択に一喜一憂し、会話を重ねて親愛度を上げていく。主人公の名前を好きに変えられるから、私は今まで通り自分の名前を呼んでもらっている。
ゲームの中でキャラクターと恋愛関係に発展する事はないけれど、そこの部分は自分で創作すればいいし、単純に仲間として、友人として、先輩として、後輩として、自分の好きなキャラクター達に慕われるのは楽しくて仕方がなかった。
そのジャンルで二次創作を始めたのも早かった。サイトを立ち上げて、そこに夢小説を載せた。夢主人公の設定は様々で、ゲームの主人公だったり、また別の女の子だったりもした。
このところ夢小説は昔に比べて他の二次創作と同じように衆知されていると感じていたし、ゲームの主人公受けというジャンルが一定数以上の人気を誇っていることも知っていたので、私はpixivにも作品を載せた。名前変換が必要な部分は表現を変えて、主人公の名前は一切出さないようにした。
pixivだと手軽に操作が行える機能が沢山あるので、サイトに夢小説を載せるよりも人の反応が貰いやすい。そんな中で私が貰った反応の一つに、タグがあった。自分で付けた作品タグの他に、相手キャラとゲーム主人公のデフォルトネームでのカップリングタグが付けられたのだ。
作品に夢作品だとの注意書きもしていたけれど、主人公の設定はゲームの主人公に準拠したものだったので、単純に検索しやすいように付けられたものなのだろうと私は認識した。そちらのタグが付いていた方が閲覧数は多いし、反応を貰える事は素直に嬉しいものだ。その後は自分でもそのタグを使用するようになった。
タグの他作品は自分が好んでいる夢作品と何ら変わりはなかったので、私はそちらの方も楽しんだ。pixivには名前変換機能が無い。それ故に殆どの作品でゲーム主人公の名前はデフォルトネームのままだったけれど、ゲーム主人公は=で自分なのだという前提が公式の名前変更機能で示されているし、脳内での変換は容易である。他のサイトの作品は粗方拝見させていただいていたし、占いツクールの作品も同様であったので、読んだことのない作品の宝庫であるpixivは最高だった。
その内Twitterの方にもpixivから飛んできたフォロワーが増え、こちらからもフォローして仲良くなった方も増えた。良いことばかりだと思った。
フォロー数が増えると、当然目にするツイートも多くなる。RTも同様だ。何気なくTLを覗いていた私の目に入ったのは、こんな内容のツイートだった。
「主人公受けでゲームの主人公に自己投影していると思われたくないし、そんなつもりで私は書いていない」
まあそういう考えの人もいるよね、と流し見していたけれど、そのツイートをRTした人が続けていた、
というツイートが引っ掛かり、気になった私はツイート検索をした。それからが駄目だった。
そんな内容のツイートがいくつも見つかった。相手はこちらの事を知らないだろうに、自分の事を名指しで言われているような気がして、私は身勝手にも傷付いていた。
そういうツイートをしている人は決まってデフォルトネームの主人公を可愛がっていたから、私はデフォルトネームの主人公が自分の中から乖離してしまうような、そんな恐ろしさを感じた。彼女には確かにデフォルトの名前が存在しているけれど、システムで名前を好きなように変更出来る彼女は、何にでもなれる存在であるし、何より私自身なのである。どうしてそれがキモいのだろう。
乙女ゲームを始めとした女性向けジャンルでよく見るタイプの主人公。見た目があって名前が用意されていたとしても、名前は自由に変更出来るのだから、そこに自己を投影するのは悪い事ではない筈。というかその為にある機能なのに、そのジャンル内で楽しんでいる人が何故それを蔑めるのか。
「私はゲームの主人公ほど可愛くないし、こんな風にはなれない」
思うのは結構だけど、それを根っこから否定し他人にアピールするのは何故なのだろう。刺々しい言葉でそう言われると、まるでそうしている人間を否定されたような、喧嘩を売られたような気持ちになってしまう。
必ずしも相手に悪気があったとは思わないし、相手側の独り言をこちらが見てしまっただけに過ぎないのだけれど、夢小説はただでさえ二次創作の中では砂をかけられ続けてきたジャンルである。多少過敏になってでも自衛しなければ、楽しくて続けているはずの活動により傷を負ってしまいかねないのだから許して欲しいと思うのは我儘だろうか。
それ以来私は、他の方の書いたキャラクター×ゲーム主人公の作品を読んでいない。ゲーム主人公ちゃんかわいい勢とも関わりを絶ってしまった。自分の作品には未だにそのタグを付けたままだけれど、もう少し自分の中で整理が付いたら、今まで通り他の方の作品を見るなり自分の作品からタグを外すなり出来ると思う。
もっと精神を鍛えて、作品で殴り飛ばせるよう力を蓄えておくことも必要だろう。というかマジで心無いこと言うツイッタラーみんな鍵掛けてくんねえかな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜私も鍵掛けてサイトに引きこもるか〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?!!!!!?!!!?!?!?(怒りが再燃してきた顔)
Twitterやめたらとっても楽ー!!
義理のふぁぼりつに踊らされて、一喜一憂してるのが本当に馬鹿らしかったなー
といっても自分自身どんなものでも反応欲しかっただけなんだから、とっととインスタなり渋なりに移りゃ良かったんだけど、感覚がかなり鈍ってたんだな。
適当な絵かいてる癖してプロ気取りの性悪リア友(今となっては大嫌いだけどww)の存在も嫌。
なにより今の同人やってる奴等は「私オタクだけど世の中の問題熟知してます博識ですそこいらの低脳オタ共と一緒にしないでください」みたいなのばっかりで鳥肌立つ。
そいつらがRTするのはきまって「今の日本の労働の異常さ」「ジェンダー論」「どうでもいい豆知識(にもなってない)」「子供もいないくせに分かったような子育て論」だからTLも気持ち悪くなった。
「この絵がいい!」「この絵の塗り方気になる」「このアニメが好き!」という感じの話をしたいけど、きちんとした対応でそういう楽しいやりとりができるのはフォロワーの半数以下...
なんでこんな気持ち悪いTL見ながら反応気にして媚び売って一緒に変態にならなきゃならないのかなーと考えたら自分の中で何かが腐ってった。
元々私にTwitterというシステムが合わなかったんだわな。
これからはただ絵を載せてひっそりやっていこう!
歩いている姿に一目惚れして、友達の協力があって知り合うことができた人とご飯を食べた。
少し前からSNSで会話したり偶然会った時に話したりってことはしてきたけど、ちゃんと約束してゆっくり話したのは初めてだった。
話してて気づいたのは、『私この人のこと思ってたより好きじゃないな』ってこと。
目が合っても逸らすことなく普通に会話を続けたし、話していて特別ドキドキすることも無かった。
昔好きだった人とは目が合うだけでドキドキしたし話すたびに相手の反応に一喜一憂してた。少女漫画みたいに。だからそれが恋ってことだと思ってたし、それと対比して今回は『思ったより好きじゃないな』って感じた。
でも別れた後にいろいろ考えた結果、『思っていたより』って話であって、やっぱり好きであることには変わりないなって結論が出た。
思い返してみると、話している間ドキドキすることはなかったけど、不快に感じることも無かった。服装も、ご飯の食べ方も、会話の内容も、受け答えも、どれにも何一つ不満が無かった。
それって本当はすごく貴重なことだよなあって思う。長年一緒にいる家族や友達にさえイライラすることはあるし、電車で隣に立っている人にさえ不快感を抱くこともある。
生きている中で出会う大半の人のどこかに、どうしても受け入れられないところが必ず存在する。それと折り合いをつけることが人付き合いってことだと思う。
その我慢をする必要がない存在って、気づきにくいけど貴重な存在になるんだろうなあって。
「完成は付加すべき何物もなくなった時ではなく、除去すべき何物もなくなった時に達せられるように思われる」ってまさにこのことだろうなあって思った。
大好きだったとあるゲームシリーズが新規取り込みの名目で古参ユーザーを唖然とさせるような方針転換を行った。
ファンコミュニティは当然大荒れ。自分も到底受け入れられるものではなかったが、制作サイドに文句を言い続けるような気力もなかったので泣く泣くそのシリーズから離れた。
それから数年後、二番目に好きだったゲームシリーズがこれまた新規取り込みの名目で同じようなことになった。ファンコミュニティは当然大荒れで以下略。
三番目に好きだったゲームシリーズはそこそこの出来と評価された最新作の売上が伸びず、気がついたらシリーズごと凍結されていた。新作に一縷の望みを賭けていたが、生みの親のような立ち位置のスタッフがとっくに退社したという情報を知った時、もう駄目だなと悟ってしまった。ちなみに未だに新作の報はない。
同じゲームが好きな縁で繋がった知人たち(ネットでもリアルでも)は、大体今は流行りのソシャゲに手を出しているか、オタク界隈から姿を消してしまったかだ。元は同じ作品で繋がったのだから自分も楽しめるかなと流行っていたソシャゲに手を出してみたが、自分には合わなかった。どうしてもかつて好きだったゲームが頭をよぎってしまう。ガチャしなくてもキャラ手に入ったのになーとか、期間限定のシナリオを読み逃すことに焦るなんてなーとか、そういうところから。
別に面白い作品はゲームだけじゃないしと思ってアニメや漫画にも一通り目を通しているが、そもそも毎週の放送や連載の先の見えない展開に一喜一憂したくなくてある程度は一作でシナリオが完結しているゲームにたどり着いたこともあり、いまいちハマりきれない。
いくつか完結済みの作品で面白いなと思える作品には出会えたので(大体古かったり世間的には駄作扱いで語れる場所は無いものばかりだが)、今はそういったものを自分なりに消化しつつ、好きだったゲームシリーズの旧作を時々立ち上げたりして遊んでいる。
オタク仲間と繋がっていたSNSのアカウントは一応残してはいるが、すっかり顔を出さなくなってしまった。
未だに好きだったゲームシリーズには未練があるし、リアルでささくれだった時の息抜きや癒やしをオタク趣味以外でどうにか出来るとは思えない。だが、今のオタク界隈のメインストリームに自分の居場所を無理矢理作る気力もわかない。何となく寂しさや虚しさのようなものを感じつつ、それでもすっぱり卒業できない中途半端な状態に時々自己嫌悪のような感情を覚えている。
基本的に女の子のエロのみ、男は竿役程度の絵が投稿できるイラストSNS(例えばBL系の絵は削除対象)があって、ここ1年くらい頻繁に投稿してる。
所詮クソみたいな絵描きなんだけど、まあそこそこ上達したようで、微々たるものではあるが反応をもらえて嬉しかったりする。
要するに、私はあなたの絵で抜きましたよ、という意思表示。いや言わんでも分かるか。
それで抜いた回数が数字で表示されるわけなんだ。
今回はよく抜いてもらえたから評判よかったな、今回はあんま抜いてもらえなかったからイマイチだったかな…って具合に。
しかしここで妙な気分になってきてさ。
自分は都内のアラサーのゲイ。去年発達障害(adhd)と診断名がついた。セクシャルかつ障害面でも診断され、いわゆるダブルマイノリティ。この世にLGBTの仲間が7パーセントいるとデータがあるけど、自分は何パーセントになるんだろう?
でも、仕事面では周りにサポートも得ているし、そんなにハンディーにはなってない。
何より辛い、苦しいのは今までストレートで過ごしてきた時の学生時代の友達が年齢につれて結婚して子供を持ち、幸せな家庭を築いていること。人間としてそれが繰り返されてきた歴史だけど、自分にはできない。
先週、中学時代に片想いしていた男の子から出張で東京に来るから良かったらご飯でも食べようと連絡をもらった。
自分は転校してきたばかりの中、彼はアイドルのようにキラキラしていて周りからも好かれていて自分にとっても仲良くなりたいと思える人だった。思春期だった頃、友達になりたい気持ちが決して叶わぬ片想いだったのは今でも覚えてる。
数年前、彼から久しぶりに連絡があった。結婚式の招待状を送りたいから住所を教えてくれとのことだった。喜んで自分は彼の結婚式に参加したし、披露宴の間は喜ばしい気持ちと彼の奥さんになる人が羨ましいなという羨望の気持ちで揺れていた。
あんた達は知り合って数年で結婚したんだろうけど、こっちの付き合ってる、知り合ってる時間は10年以上なんだから負けてねぇよ、と心のどこかで思ってた。
ゲイのようなセクシャルマイノリティーがノンケ、いわゆるストレートの人に恋心を抱くのはNGだとこちらの業界では呼ばれてる。相手に迷惑をかけることは勿論、決して叶わぬ恋だし一番傷つくのは自分自身だから。
気付かぬうちにその彼には一歳になる娘さんがいるそうだ。少し前に会った時は15年経っても変わらずキラキラ人懐っこい彼と話したことを思い出し、人柄は変わらなくても人生のステップは歩んでるんだなと心のどこかで感じた。
Facebookで結婚報告や子供が生まれたタイムラインが今でも周りで続いてるけど、いつの時からかその投稿を非表示にするようになった。機械的なFacebookのアンケートはなぜその投稿を嫌うのですか?と私に問う。
選択肢にあった見てて不快だったから、と選んだけど本当は自分の気持ちが惨めになるから、というのが理由。また、羨ましいからなんて選択肢はSNSには無いもんね。
彼だけでなく、今まで恋心を寄せていたストレートの人が結婚、つまり巣立って行くたびに寂しさで苛まれてたけど、それももう今は慣れてきた。
ゲイの恋愛は浅く寂しい。体目的で一晩体の関係を持って連絡が絶えることもザラだし、アプリでイケる人がいては一喜一憂の毎日。カマ口調で話して週末の夜をバーで盛り上げてるのは、ある意味慰め合いにも聞こえる。
でも、生まれつきのものだし病気でも無いのだから、本当の自分をいい加減受け入れて、素直に生きなきゃダメだというのはわかってる。
でも心の底では愛し合った人と結ばれていっしょに暮らし、その結晶である子供が生まれて家族になるという事が本当に羨ましい。できる事なら自分も普通に生まれたかった。
カミングアウトすらしてないのに、親から結婚は期待してないと言われたのはいつだったろう?ごめんね、親不孝で。でも、元気なうちは両親ともずっとそばに居たい。
自分が人とは違う、と気付いた時点で強くならなきゃダメだと悟った。どんな幸せな投稿、やり取りがあって勝手に一喜一憂して傷ついても明日は来る。
どう思って何を考えて居ても明日は来る。
自分にとっての幸せは何だろう?といつもふとした時に考えてしまう。
とにかく誇れるものを作ろう。
他の人には負けない何かを。