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2014-03-15

ドーピング親玉

秋元康東京オリンピック組織委員会理事になったけど、

正直言って最もやってはいけない人事だ。NHK会長の比ではない。

秋元康といえば、AKBグループCD握手券をつけて、売り上げを違法に水増しさせ、日本音楽業界破壊した張本人

AKBグループのおかげで、日本音楽シーンからジャニーズAKBEXILE系列の音楽以外が完全に排除され、

数多くの才能あるミュージシャン活動休止に追い込まれたり、または音楽家として生きていくことをあきらめざるを得なくなった。

また、このやり方は、スポーツで言うところのドーピングにあたり、正当な実力の反映ではないことは明らかである

オリンピックに限らず、スポーツ全体でドーピングというのは最もやってはいけないことの一つであるはずなのに、

そのドーピングを、堂々とやって私腹を肥やしているような人間に、東京オリンピックにかかわらせてはならない。

IOCは彼の任命について、断固たる処置をするべきだ。場合によっては開催権を剥奪しても構わない。

2013-09-10

ceroLIQUIDROOM Ebisu

2020年東京オリンピックが決定した9月8日早朝。その日、我々日本人否が応でも7年後の日本想像せざるを得なかったわけだが、日本未来を予感させる出来事は同日夜の恵比寿リキッドルームでも起きていた。

今回のライブは、ceroとして久しぶりのワンマンライブだった。タイコクラブに始まりライジングサンに至るまで、全国津々浦々と様々な夏フェスに出演してきた彼らは、一回りも二回りも成長した姿を見せてくれた。ボーカル高城は自ら今回のライブを「文化祭」と形容したが、オープニングアクト表現(Hyogen)や、サポートメンバーの面々と力を合わせて作り上げられたステージには文化祭のごとく熱いエネルギーが集約されていたと言えるだろう。

満員のリキッドルームで観客たちが開演を待ちわびる中、開幕したステージに現れた高城ZAZEN BOYSよろしく「死ぬほど練習をして、マツリスタジオで練習をぶちあげてきたので」と観客から笑いをとる。そして、告知されていなかったオープニングアクトである表現を紹介するとさっと身を引き、表現演奏が始まる。

アコーディオンバイオリン一曲目のみ)、アコースティックギターウッドベースの4人組からなる表現ceroと関わりの深いバンドだ。ギター古川高城高校の頃からの知人であり、その後もcero表現で互いに切磋琢磨してきた仲だ。お互い尊敬しあえるバンドとして成長を遂げた両者が集い、久しぶりの対バンとして出演する彼らを見て高城舞台袖で涙を流していたそうだ。

さて、表現演奏はというと、全員がコーラスを務めているのが特徴的だ。セリフのような歌詞メンバー全員が声を張って歌いあげる様はまるでミュージカルのようであるスキャットハミングを多用し、途中ポエトリーリーディングのようなシーンも挟まれることによって、声の持つ魔力を改めて感じさせられた。もちろん楽器演奏も素晴らしく、アンプラグド楽器アンサンブルによるオーガニックなサウンドは、その名に恥じぬオリジナルな「表現」となっていた。ceroコンテンポラリーエキゾチックロックオーケストラであるのと同様に、彼らもまた名前通りに素晴らしいバンドであった。

ceroを見に来た観客も大満足のオープニングアクトであったが、ceroの開演までは20分ほどの転換があった。幕の裏から聞こえてくる様々な曲の断片は、これから始まる演奏への期待を高めるには十分だった。

いざ幕が上がり、「セロセロセーロ」と叫び続ける入場曲と入れ替わりで始まった一曲目は“水平線のバラード”。ステージには点滅する6本の蛍光灯を背景に、メンバーが立っており、イントロスタジオ版にないトランペットから始まった。しっとりとした雰囲気で始まったステージだが、ノルウェイの森風のイントロから入り軽快なラップが冴える二曲目“ワールドレコード”でフロアテンションは急激に引き上げられる。続く三曲目“マウンテンマウンテン”の4つ打ち部分では後ろの方までほぼ全員が音に身を委ね踊っていた。

盛り上がった後一息つくかのように挟まれたMCで、高城cero表現の辿ってきた道を振り返る。そして「世界で唯一表現の全員とデュオを組んだことがある人」と名乗る荒内を「音楽ビッチ」呼ばわりするなどしてステージが暖かな笑いに包まれたところで次の演奏へ。

つの間にかステージから消えて戻ってきた高城。傘を片手にレインコート羽織った高城が歌うのは“21世紀の日照りの都に雨が降る”だ。続く“エキゾチックペンギンナイト”では「パーパパパー」と全員が高らかに叫びフロアをより一層祝祭的空間へと引き込む。少し落ち着いて始まった“クラウドナイン”も結局はcero特有の「祭」感へと収束していくのだった。

二度目のMCサポートメンバーの紹介から始まる。今までになく多くのサポートメンバーを迎えた今回は、ceroメンバー3人+サポート5人の8人編成だ。トランペットスティール・パンをこなすマルチプレイヤーMC sirafuのみならず、サックスタンバリン担当したあだち麗三郎表現での演奏とは変わってパーカッション古川麦ドラムの光永渉、ベースの厚海義朗という5人のサポートメンバーがそれぞれ紹介される。

ひと通りメンバー紹介が終わると、スタジオ版に比べて遅く重厚な“大洪水時代”のイントロが始まる。この曲から始まったVIDEO TAPE MUSICによるVJは、フェイザーのかけられたノイズギターと相まって、我々を水中へと誘う。そして、ノイズの海の中へと一筋の光が射すかのように響き渡るのは、高城によるフルート音色だ。最後には全員がしゃがみ、背景であったスクリーンが前景化される。水中の映像、そして流水音のSEと水の映像しか受け取ることの出来ない状況はまさに大洪水時代といったところか。そして、海つながりで次に演奏されたのは“船上パーティー”。VJには男女の横顔が交互に映り、高城一人二役セリフを言い合う。スタジオ版でも印象的な「ちょっと待った!」のセリフの後はじれったいほどのタメにより、聴衆をより一層演奏へと引き付ける。そうして引き付けられた我々観客が次に耳にするのは新曲、“我が名はスカラベ”。メルヘンチックな歌詞VJは、初めて聞く我々も十分楽しめるものであり、聴衆はみなceroのニューリリースへの待ち遠しさを煽られたに違いない。

新曲披露後のMCでは、大洪水時代から加わったVIDEO TAPE MUSICの紹介。そして最近高城のハマっている「文化祭」というキーワードに関連してTwitterにおける高校生つぶやきや、ceroメンバーそれぞれの思い出などと話が弾む。

再びメンバー紹介から入った曲は“Contemporary Tokyo Cruise”。本ワンマンライブ表題曲とでもいうべきこの曲ではミラーボールきらめき、最も「祭」感のある曲だったかもしれない。そして音は途切れることなく、思わせぶりな長い間奏から始まったのは“マイ・ロスト・シティ”。2ndアルバム表題曲でもあるこの曲では「ダンスをとめるな」という歌詞、その通り踊り続ける客、ダンスをする人々を映すVJが一体となっていた。

短めのMCを挟んだ後、演奏されたのはまたもや新曲、“yellow mangus”。ムーディーなサックスからまり展開されるのはceroお得意のディスコビート。そしてこれまた長めの間奏からはじまるのは“わたしのすがた”。途中挟まれる8ビートの部分では赤い照明が似合うほど激しい展開で、普段とは違った一面を見せてくれた。

最後の曲の前には今後の活動を仄めかすようなMCを挟み、演奏されたのは“さん!”。観客と共に「いち!に!さん!」と高らかに叫んだ高城は29歳の文化祭最後の盛り上がりを演出した。

しかし、我々の文化祭はまだ終わらない。アンコールを期待する拍手に応えて登場したのは高城橋本。残りのメンバーも続々と登場し、最後最後演奏されたのは“大停電の夜に”。ゆったりとしたメロディーはまるで蛍の光のように、我々を切なくも満たされた気分へと導き、文化祭は幕を閉じた。

実は、最後MCおいてなんとも頼もしい言葉があった。高城は、表現やVIDEO TAPEMUSICのような仲間たちを見ている中で「日本音楽がこれからまたちょっと変わっていくんじゃないかな」という実感を述べた後に、「俺達が変えるぞみたいな気概を感じている」と宣言したのだ。変わりゆく東京風景、そして変わりゆく日本音楽シーン。7年後、東京オリンピック開催を前に我々はこの日をどのように思い出すだろうか。29歳の文化祭には「ここから何かが変わっていきそう」な予感、そして希望に満ちあふれていた。あの晩、もしかしたら我々は時代目撃者となったのかもしれない。

2013-08-09

高野哲というミュージシャンについて語らせてくれ。

高野哲というミュージシャンがいることを皆さんはご存知だろうか。

大抵の人は知らないだろう。

別に音楽チャートランクインだとか、ミュージックステーションに出演とかは

していないから、そんなに知名度は無いと思う。

ただ、彼の作った音楽は嫌というほど聴いたことがあると思う。

絶対に。

よっぽどじゃない限り、聴いたことがあると思う。

ヘキサゴンのめちゃめちゃ耳に残るOPテーマソングHate Beat!」

これは高野哲が作った曲だ。

実際私も全然高野哲という人間を知らなかった。

でも、曲は知っていた。

高野哲は元MALICE MIZER初代ボーカルである

要するにGACKTの「前の」ボーカルである

そもそもMALICE MIZERボーカルだったGACKTの前にボーカルがいた事を

知っている人自体少ない。

なんだ、V系か。

そう、思ったあなた、話はまだ終わっちゃいない。

ヘキサゴンOPテーマを作ったのは元MALICE MIZERの初代ボーカル

MALICE MIZERがわからない人はグーグル画像検索をしてくれ。

ここまではOKか。

高野哲はMALICE MIZERというV系バンドを辞めた後、

Mega8Ballというバンドボーカルになる。

Mega8BallというバンドはMIXTUREバンドだ。

もう一度いう、MIXTUREバンドだ。

分かりやすく言えばドラゴンアッシュHYが現れる前の

MIXTUREバンドだ。

そこで彼についてきたV系のファンたちは離れた。

Mega8Ballというバンドの中心人物が別バンド

活動に忙しくなったためMega8Ballは休止することになる。

それで高野哲が中心になった3ピースバンドnil(初期)を結成する。

nil(初期)はロックンロールバンドだ。

nilは初期と現在で全く違うバンドになっている。後で説明する。

もう一度いう、ロックンロールバンドだ。

その後、元ラルク・アン・シエル櫻澤泰徳リーダーとなるZIGZOボーカルとして

迎えられる。

ZIGZOは元ラルク・アン・シエル、元BY-SEXUAL、元MALICE MIZERで構成される、

ロックバンドだ。

もう一度いう、ロックバンドだ。

ここでメジャーデビューし、HEYHEYHEYなどのTV番組などに出演を果たすも

2枚のアルバムを残し解散する。

解散後nilに戻るも、高野哲以外の二人がnilを脱退する。

ソロで活動することになるが、ソロライブで「あいつらぜってぇ許さねえw」とぼやいたとかぼやかなかったとか。

その後、元SADS、現クロマニヨンズ小林勝風間が加入し現在nilになる。

現在nilロックバンドだ。

もう一度いう、ロックバンドだ。

nilを勢力的に活動しながら、別バンドTHE JUNEJULYAUGUST(以降ジュンジュラ)を結成する。

ジュンジュラはジャズピアノロックバンドだ。

もう一度いう、ジャズピアノロックバンドだ。

2つのバンドを勢力的に活動しながら、ZIGZO再結成する。

ZIGZO再結成ライブ2012年3月17日赤坂ブリッツで行われ、プレミアチケットになった。

話がなげーなって思ったそこのおめえ、話はまだ終わっちゃいない。

3つのバンドを勢力的に活動しながら、THEATRE BROOK佐藤タイジうつみようこ

インディーズ電力というバンド?を結成する。

インディーズ電力はアコースティックトリオだ。

現在4つのバンドを組んでいる。

ヘキサゴンOPテーマを作った元MALICE MIZERの初代ボーカル

現在4つのバンドを組んでいる。

勿論、勢力的に活動を行なっていて、インディーズ電力以外はほぼ

高野哲が作詞作曲を行なっており、アルバムも何枚も発売していて

その4つのバンドの曲を当たり前だが、覚えて歌っている。

もう一度いう、4つのバンドの曲を覚えて歌っている。

それだけ?って思った人挙手!

それだけじゃない、彼が作る曲は彼にしか歌えず、

そのほとんどが名曲なのだ

ちなみにZIGZOCD現在再販されているが、

再販される前はプレミアがついており、シングルCDが2万円だった。

10年前に発売されたZIGZOシングルCD

プレミアがついて2万円だった。

高野哲というミュージシャン、気になるだろ?

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昨日書いた上記の内容は書きかけのままアップしてしまったので

追記させてくれ。

そんな作った音楽を誰もが聴いた事があるのに

日本ではあまり知られていない高野哲だが、

海外のファンがライブに来るぐらい海外にファンが沢山いる。

日本人はあまり高野哲を知らないのに、だ。

確認しているだけでもロシアクロアチア?)、メキシコブラジルフランス

台湾中国韓国アメリカスウェーデンの国にファンが居る。

不思議だろ?

日本音楽シーンではチャートにすら現れない高野哲を

こよなく愛するファンが海外に沢山いる。

しかも海を渡ってライブを見に来るくらいの、だ。

私はたまたま海外のファンと接する機会があり、

何故高野哲を知っているのか、メールで尋ねた。

答えはMALICE MIZERを辿ってファンになったそうだ。

日本では毛嫌いされがちなV系

でも海外では地道な活動の甲斐あって、広く認知され評価されている。

特にMALICE MIZERは別格で、神格化(言い過ぎかもしれんけど)されているくらいだ。

その初代ボーカルである高野哲を日本人はあまり知らない。

因みにその高野哲がボーカルとっていた時代MALICE MIZERVHSビデオ

プレミアがついている。

映像ギザギザ、カクカクのVHSビデオプレミアがついて数万円で

取引されている。

ここまで読んでくれたあなた、薄々高野哲が気になり始めたころじゃないのか?

もしかして高野哲というミュージシャンは凄い人なんじゃ?」

高野哲というミュージシャンミュージシャンが語る時、口を揃えて言うことがある。

高野哲は、天才だ。」

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再追記させてくだせえ。

ステマステルスマーケティング)じゃないのか?というコメントの件について。

確かに。後から自分で読み返すとステマっぽいなぁ。

嘘偽りなく正直なところ、俺自身が高野哲というミュージシャンについて語りたかっただけなのだが。

自分でも客観的に読み返すとステマっぽく書いてしまっている。

申し訳ない。俺の文才が足りないだけです。

もしステマするならyoutube動画ひとつでも貼りたいところ、なのですが。

高野哲というミュージシャンについてはステマ必要がない、としか

書けば書くほどステマっぽくなっていくのでここらへんで、すみません

ただ、ミュージシャンは常に自分の作る作品を一番だと思って

発表しているし、我が強い。

そんなミュージシャン自分以外の人間を認め、「天才」と評する事自体、

とても不思議な事が起こっている。

この世の中には色んな種類の「天才」がいると思ってる。

また、世間に見出される「天才」と世間の喧騒に埋もれてしまっている「天才」。

死んでから認められる画家と、生前に認められる画家

作った作品は今も昔も変わらず良いもので、ただ、世間存在に気づいていないだけ。

ただ、それだけ。

世間高野哲というミュージシャンに気づいたその時、世界が変わる。

因みに彼(彼ら)はライブでこそ、その真価が見れる。

CDというメディアでは彼(彼ら)の魅力は半分くらいだろうと思う。

こんな人、ごまんといるというコメントについて書くの忘れてた。

ごまんといるかどうか、高野哲が「本物」か「まがい物」か、9月8日赤坂ブリッツライブがあるので

自身の目と耳で判断してみてくれ。

その上で、ブログでも、アノニーでも「ごまんといる」やつだったと書けばいい。

ただ、見もせず、聴きもせず、「ごまんといる」とは勿体無いとだけ言っておきたい。

それに、おまいさんは「ごまんといる」やつだったと書かないと思う。

高野哲を見たおまいさんは鼻息荒く帰ってきて「最高だった」というに違いない。

で、youtubeや色んな動画サイト高野哲の動画検索するに違いない。

かつての俺がそうだったように。

そして、これを見ているおめえさんは未来の「俺」になっているんだ。

高野哲について語らせてくれってな。

こんなところに、つらつらとな。

聴くのも自由、見るのも自由、またその逆も然り。

これを書いている俺は元々高野哲のファンじゃなかったとだけ、言わせてくれ。

うーん、やっぱりステマかな、これは。

2013-03-31

今後の日本人は、1990年代J‐POP黄金時代の「遺産」で音楽欲求を充足させればいい

 1990年代日本音楽シーンは、まさに「黄金時代」だった。

 聞き手も歌い手も第二次ベビーブーマーで層が厚く、またベビーブーマーが幼少時に受けたピアノ習い事の成果が、

 90年代に結実した格好。

 http://anond.hatelabo.jp/20130223005242

 しかし、90年代のような「音楽人口ボーナス」は、今後は望むべくもない。

 若年人口が半減し、ピアノ購入が7分の1になる、ということは、音楽才能人口が14分の1になる、という計算

 まさに「音楽人口オーナスである

 このままでは日本音楽界は「お先真っ暗」であるが、21世紀、さらに22世紀の日本は、

 1990年代音楽黄金時代の「遺産」で、細々と生きていく、というスタンスで、別に構わないのでは?

 新たにプロ音楽家を育てなくても、音楽義務教育を全員に施さなくても、別にいいじゃん。

 当時(90年代)の豊富なJ‐POP作品を何度もリピートするだけで、結構豊かな音楽生活を送れるし、

 というか当時の音楽作品全部聞こうとすると、一生あっても足らない。

 (音楽批評仕事にする人なら兎も角、

 「他に正業持っていて、趣味に90年代音楽を聞く程度」という人だと、一生かかってしまう)

 因みに90年代で、1年間に発行される音楽CDが年間2万種類だったと記憶している。

 この中にはクラシックジャズ洋楽演歌など、J‐POPカテゴリ外の音楽もあるだろうが、

 恐らく90年代1年間でJ‐POPはその中の10%、2千種類はあっただろう。

 90年代通算10年間だと、2万種のCDが発売された計算

 で、仮に2100年生まれの人が、「1990年代J‐POPに目覚めて」、

 15歳から毎日1種類の90年代アルバムを聴く」としても、聴き終わるのに

 55年間かかる、つまり70歳になってやっと聴き終わる。

 まさに「一生掛けなければ、90年代J‐POPは消費できない」のである

 あと思ったのは「音楽って、経年劣化がしにくいコンテンツだな」ということ。

 歌詞の内容は、多少古びることがあって、「ポケベルが鳴らなくて」というコンテンツに対して、

 「ポケベルって何?」と突っ込むことはあるが、基本的な男女の情愛とかは経年しても変わらないし、

 メロディーはそもそも経年しても変化しない。

 だから数百年前のコンテンツであるクラシックも、現代に通用している。

 これが小説コンテンツだと、多少読み解くのに苦労するし、

 静止画コンテンツマンガ)、動画コンテンツ映画テレビドラマ)だとコンテンツ経年劣化やすい。

 トレンディドラマなんかは、90年代の一時期でないと理解されない、支持されないコンテンツだったろう。

 だから経年劣化しない90年代J‐POPというコンテンツを「遺産」として、今後の日本はしっかり活用していっては?

 

2013-02-23

70年代ピアノ教室ブームが90年代のJ‐POPの基礎を作った。だがもうそのような時代は来ない。

今後の21世紀、さらに22世紀にかけ、音楽業界、J‐POP

「黄金の1980年代・90年代」の遺産を食いつなぐだけの業界になっていく気がする。

まり、新作の曲もアーチストもあまり輩出されず、1980年代・90年代ナンバー

2050年も2100年も聞いている、そういう状況。

なぜそう思うのか?という理由の一つは「20代人口の長期的減少」というのがあり、

まりアーチストを輩出する若年人口のものが減少するので、有能なアーチストの数も減る、という

身も蓋もない人口理論が理由であるのだが、それ以上の理由としては

習い事としてのピアノの地位低下」がある。

1970年代、高度成長がひと段落した日本の各世帯では、

子供に習いこどをさせよう、ということで、高いピアノを購入して、子供ピアノ教室に通わせた。

70年代に、幼少の時分に音楽イロハマスターした世代が、成長して80年代90年代音楽シーンを支えたのである

その意味では、J‐POPは「70年代ピアノ教室の申し子」と言えよう。

翻って現代では、確かに習い事に行く子供は以前にもまして多いが、

その内容は、より即物的に「塾」とか「英会話」とかである

あとはせいぜい、体力増強を目的としたスイミング程度。

「役に立たない、手に職つかない」とみなされるピアノは、習い事としての地位を急速に落としている。

衝撃的なデータとして、国内ピアノ販売台数のデータがある。

2010年の販売台数は、1992年の、わずか7分の1。

2011年になって、震災の影響で、ようやっと急減傾向に歯止めが掛かったそうだが、焼け石に水。

ピアノ習い事として不利な理由はほかにもあり、カネが掛かる、という以外に

「そもそも家が狭い」

マンションで近所に騒音迷惑かけてしまう」という点で敬遠されてしまう。

じゃあ70年代大丈夫だったのか?という疑問もあるが、

70年代は戸建住まいがマソション住まいよりも多かった、70年代郊外の広い家住まい

首都圏外の地方住まいがまだまだ多かった、ということだろう。

結局、70年代80年代の、日本リッチだった時代に、「子供に付けさせた教養」が、

10年後20年後にJ‐POPとして花開いた、ということで、

日本からリッチさがなくなり、子供教養つけさせる余裕がなくなった」時代からは、

うそのような文化の開花は期待薄だろう。

しかしつくづく思うに、なぜ70年代80年代に、一見役に立たないピアノがブームになったのか?

一つには「花嫁修業」「娘をピアノ弾けるようにしておくと、将来いい男を捕まえられる」という

親の打算もあったと思う。

果たして、どれだけ花嫁修業になり得たのか、いささか疑問ではあるが)

もう一つには、「豊かさのアイコン」の役目を、ピアノ果たしていたんじゃないか?と思う。

いわば「成功の象徴、ステイタス消費、記号消費」のようなもの

そういえば、この頃(70年代)の少しリッチな家庭は、百科事典を揃えているケースもあったそうだ。

百科事典って、年に1回も使うか使わないかだし、そもそも場所を取って仕方ないが、

そういうのを購入することが、一種のステイタス消費だったんだろう。

記号消費と言えば、「課長マークⅡ、部長クラウン」的なところがあって、

「役職についたから、クルマをワンランク上に買い換える」のがお約束だった時代でもあった。

ピアノの購入というのも、「マイホームを建てた人のお約束」的ムードが、あったんだと思う。

結果的に、それが10~20年後にJ‐POPの隆盛につながったんだろうなあ。

2012-08-12

http://anond.hatelabo.jp/20120811001058

日本音楽シーンにおいて、ここ数十年で歌唱力のレベルアップは半端ないものがあったように思う。

10年前の技巧派の歌姫は、今のぽっと出アイドルレベルっていうスピード進化をここ数十年続けてきた。

80年代アイドルなんて、素人カラオケ以下。

ところで、ダンスレベルで言うと、もちろん今の方がずっとレベルは上なんだけど、歌唱力ほどの進化スピードはない。

歌い手ダンスはしなくていい、下手でいいという感じで、マイケルジャクソンやブリトニーバックダンサーに見劣りしないレベルに達しているとは思えない。

日本人映像表現センスはいいと思うんだ。

からダンスさえ底上げすれば、すごいものができる。

こんなふうに

http://www.youtube.com/watch?v=oqjIjrWkFkQ

2011-03-15

やはり鹿野はお金が全てなのか・・・

2011.03.15

第三弾出演アーティスト&日割り発表の前に

http://rockstokyo.jp/2011/news/detail.php?id=30

5月末に新木場で開催される音楽fesのアーティスト発表が、このタイミングで行なわれてる・・・

過剰に「欲しがりません!勝つまでは」をやる必要も無いと思うし、コレまで以上に経済を廻していかないといけないという事は十分解るが。。。

やはり日本音楽シーンを、金儲け主義でダメした主犯の鹿野がやることには納得がいかない。

どう見ても、先のGo!Fesのように中止にする体力がないから、チケット売りさばいておこうって言うのが見えてしまう。

東北から行こうって思ってたけど、こんな事になって行くに行けない・・・って人を追い詰めたいのか?

それに昨年、行ったが他fesに比べて全然楽しくなかった。

・客を信じていない運営姿勢

→他fes以上の、執拗な荷物チェック

→あちこちにリストバンドチェックがあり、確認をするバイト君は最小限で大渋滞

・最悪のフードブース

→あまりのマズさに、みんなお通夜状態

教育が行き届いてないスタッフ

・他fesよりも少ない曲数

マナーが悪いファン層がいるバンド最後に持ってくるという阿漕

他にもいっぱいあったけど、要はここ数年見えそうで見えていなかった、金儲け主義の音楽業界の悪い所が、鹿野のせいで全て露見していたfesだった。

お願いです、もうこれ以上、日本音楽を食い物にしないで・・・

2011-03-13

今年の音楽シーンで起きそうなこと

ヘキサゴンオールスターズチャリティープロジェクトを行う

AKB48チャリティープロジェクトを行う

K-POPチャリティープロジェクトを行い、日韓の架け橋になる

J-FRIENDS復活、あるいはジャニーズチャリティープロジェクトを行う

ニコニコ歌い手、踊り手、描き手などがひとつになり、チャリティープロジェクトを行う

多分よくわからない集まりを含めればもっとたくさんチャリティープロジェクトができるだろうね。

2011-01-14

酔っぱらいながらぶちまける

近親調以外の転調を遠隔調への転調と定義することで、調性圏内の和声は飽和した。広い意味での調性、あるいは無調、またそのようなものの連結は、厳密には定義されず、慣習として認知されるにはま歴史の積み重ねが足りない。

もともと、教会旋法があり、そこからの選別を経た結果として残ったIonian、Aeolianが一時は主導権を握り、和声的連結ももっぱらこの二つを考えたものだ。

ところが19世紀、ドビュッシー教会旋法を再評価する。(厳密にはドビュッシーに限らず、かのリストや数々の音楽家から群発的様相をもって現れてきたものだが、代表はドビュッシーである、ということは異論はないはずだ。)そのドビュッシーの「帆」は、全体にわたってMTL1、すなわち全音音階が散りばめられ、幻想的な雰囲気を醸すことに成功している。後にも先にも全音音階が効果的に使われたのはこの曲のみといっても過言ではない。

この時期は、既存和声の崩壊が随所に現れる。トリスタン和音、神秘和音といった概念はこれまでの和声に衝撃を与えた。型破りな進行と、限定的、効果的なものが共存したそれは矛盾をはらむことなく組み込まれていくこととなる(もちろん、穏健的な層からの反発はあった。今でこそ評価の高いドビュッシーの作品すら「誤用」と声を挙げるものもいたのだ。)

SomethingNewを求めた先に、過去歴史の再評価があったとはなんとも興味の惹くところだが、この時代の印象主義に限らず、あらゆる作曲家は新たな音楽観の萌芽を享受し、育んでいったのだ。

また、クラシック音楽界隈以外にもJAZZ誕生など、別方面からムーブメントが起こったのは見逃せない。巨大な市場が成立すれば、作曲家も無視するわけにはいかなかったのだ。JAZZ史を俯瞰するだけで何十万字という文章が書けるが、今回は省略しよう。とにかく、新たなアプローチが産声をあげ、互いに影響されたのだ。

そのなか、新規性が斬新さを持ち過ぎて受け入れがたい空気が醸成されたのもまたひとつ事実であるストラヴィンスキーの「春の祭典」は、初演当時そうそうたる作曲家――ドビュッシーサン=サーンスなど――が席を同じくしただが、その結果は賛否両論がふさわしく、それ以前「ペトルーシュカ」まで彼を評価していたドビュッシーすら、この演奏以降をもってアンチポジションを取るようになるほどのものだったのだ(もっとも、ニジンスキーのあの振り付けを初めて見て冷静に評価しろというのもなかなか難しい注文だと思うが)

これを期にして、というわけではないが、今後の音楽シーンは「クラシックな」ところから乖離していく動きが目立つようになる。シェーンベルクがドデカフォニーを確立し、システム的な面が強調されるようになる。後のセリー技法に直結するこの動きは、今日穏健派から黒歴史認定されている。

時系列的に和声の展開を捉えれば、それは不協和音程の和声的獲得である現在パワーコードやモーダルクラスターなど、ごくごく当たり前に用いられるのも、こうしたプロセスを経たものである

では、この先どうなるのだろか。

すでに一部急進派は、微分音を積極的に導入し、1オクターブを何十分割にもしてきた。穏健派も遅れながら、限定的な用法で微分音を導入しつつある。十二音を崩壊させてどこへ行こうというのだろう。

和音連結が微分音を獲得するときはくるのだろうか。

2010-03-22

日本ゲーム開発は海外より遅れているのか?

ttp://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51454026.html

※ Newsweek記事、「Appleはなぜ日本企業ではないのか?」にみる日本

Newsweekの記事”Why Apple Isn’t Japanese”が面白い。これは、しかし、Apple

ついての記事ではなく、デジタル革命での敗戦の色濃い日本企業についての記事である。

iPodiPhone世界を席巻するApple。だが、小型電化製品市場というのは、本来、

日本企業が得意だったハズ、それがデジタルになった瞬間に、なぜ日本企業太刀打ち

できなくなってしまったのか。

20世紀最後期にNTTドコモiモードの成功を世界展開しようとして失敗したのはなぜか。

それは、iモードの操作が、日本以外では受け入れられなかったからであり、それは、ドコモ

の首脳陣に日本人しかいなく、世界マーケットの人々が何を欲してるか理解できなかった

からだ、とする。

ソニーデジタル音楽シーンiPodの独走を許したのは、自社グループ内の音楽セクション

に配慮して、複雑なライツマネジメント機構を導入したことが原因と指摘。

ドコモは、いまや減少傾向に転じた日本の国内市場に囚われ、動きの早いライバル企業

シェアを奪われることを座して見ているしかない。世界マーケットへ転じることが唯一の希望だが、

企業文化視野の狭さと想像力を欠いたマネジメントによってそれも果たせないでいる」。

3年前には、ノキア市場価値の10倍あったドコモは、いまではノキアの半分の価値しかない。

そして、アップルグーグルノキアといったトップグループにいる携帯キャリアは、ドコモではなく、

いまやチャイナモバイルだとしている。

2010-03-12

ボカロ厨とかボカロアンチとか

これはニコ動の大きな音楽シーンにたいてい言えることですけど、ボカロ厨もボカロアンチVOCALOIDを曲の1成分として見ていない。固執しすぎている。

機材欲しいPまでは過激じゃないとしてもこれは言いたい。

「あいつらは実際曲聞いてるのか…?」とよく考える。

ボカロ厨はVOCALOIDだからと言って祭り上げ、ボカロアンチVOCALOIDだからと言って叩く。

このことは作詞作曲・編曲者に失礼だ。

実際、ニコ動音楽シーンVOCALOIDとか曲とかじゃなくてコメントなのかも。

2010-01-07

昨今の性の早熟化について

高周波の音(笛・鐘など)は身体の中心あたりに響く、

低周波の音(太鼓など)は身体の下あたりに響く、

といったりするので、

昨今の音楽シーンにおける重低音が下半身に作用して性の早熟化に一役かっているのではないだろうか

2009-10-18

僕らの音楽PVが欲しい

僕らの音楽を見るたびに思うんだが、音楽シーンだけ纏めてPV集にしてくれないかなぁ。

レアコラボとかカバーも多いし、映像の見た目も好きだ。

はっきり言って、本来のPVよりよっぽど良いと思うものもある。

PV集と書いたが、出来ればDVDとかBDとかよりも1曲単位電子媒体で購入できるのが良い。

フルHDで1曲350円位なら、毎月10曲位は買ってしまう気がする。

これが1曲500円超えとかになると厳選しまくって月に1曲買うかどうかも怪しいが。

放送時点で、会話やモノローグを一切被せない仕様に変えてくれるのが一番安上がりで良いが、そこはしっかり儲けて貰って構わない。

どーですか、ソニーさん!

2009-05-12

今年40歳の有名人

http://anond.hatelabo.jp/20090311015518

ことし40歳になる有名人

福山雅治森高千里hyde小山田圭吾ダンコーガイ

「今年30歳の有名人」と違って、もう既に若者扱いされることもなく立派な中年芸人なら中堅、スポーツ選手は半分以上は引退して指導者になってたり、芸能人になったり、政界に転出してたりする。

90年代日本音楽シーンの中心だった人たちもこの世代。ミスチルLUNASEAラルクコーネリアス渡瀬マキ大黒摩季槇原敬之福山雅治加勢大周東幹久って同い年なんだね。ジャンル的に同じでも、出てきた時期が微妙に違うからそう思わなかった。

そのうち、「今年還暦有名人」もやるかも。

あとこの年齢だと、既に他界している人もいる。年を取るってそういうことなんだね。

2009-03-11

http://anond.hatelabo.jp/20090311120124

似たようなことを、僕も思いました。

今の(J-POPな)音楽シーンが、

「正直どうでもいい」「(現代語的な意味で)『耳触り』良ければそれでいい」「歌詞で泣きそう(;_;)」

というのが、初音ミクのヒットの根っこにある気がします。

ふと、初音ミクの歌の中の人(≠初音ミク中の人)って、基本的にはシロートさんだよな?と思ったのが、

私の疑問のキッカケです。これまでの音楽業界でいえば、そこいらの街中やライブハウス自作の曲を

歌ってたり、インディーズ扱いでデモテを配ってた、プロ音楽家カテゴリーには入らないような人たちが、

初音ミクの歌の中の人)」・・・初音ミクプロデューサーと言い換えてもいいかも知れませんが・・・、

だと、思うのです。

で、そういう人たちが、これまでと変わらないDTMの延長に、初音ミクに歌を歌わせただけで、

なぜか「初音ミク」扱いでプロデビューできてしまった(楽曲提供できた)。それはなぜだろうか?

1つは、

誰が聴いても初音ミクの声だと解るから。

どこの輩か分からないインディーズ歌手とは違って、少なくとも「初音ミクブランドという

裏書きがついている。

そしてまた、「『初音ミク』という歌手を知っている」という共感を喚起させる。

だから、フツーのシロートインディーズとは違った受け入れ方ができた。

もう1つは、

店内とかで流れてる曲とかPVの曲とか聴いても、誰の歌かすら解らない。

正直どれもこれも同じように聴こえる。

どれもこれも同じように聞こえるような雑多な音楽の中では、正直、他の歌手と差異がない。

そうなると、どこに共感できるか?というのが受け手の判断基準になるし、ならざるを得ない。

すると、「共感できる(苦笑)歌詞」「バーチャル歌手(という不思議存在)」

シロートでもこんないい曲・歌詞を作れてメジャーデビューできてる(私もできるかも☆)」

という共感を持てる、初音ミクにも、食い込める余地がある。

僕が思ったのは、こんなところです。

あと、脱線しちゃうけど。。。

機械音がイヤだ」「練られていない音楽がイヤだ」という論調もあるけれど、

正直、大衆向けJ-POP音楽というカテゴリの中では、殆ど五十歩百歩だと思う。

(もちろん、真っ当な歌謡曲演歌歌手や、いわゆるクラシックの領域は別。)

誰とは言わないし好みの問題だけれど、某アイドルグループや、某エイベックスの歌姫みたく、

音程も当たってないしアンサンブルもできていない楽曲を聞かされるよりも、

まだ音程が当たっててリズムも正しく、平均律の中でアンサンブルできてるボカロイド楽曲の方が、

少なくとも僕は、「安心して」聞ける。

2009-02-08

http://anond.hatelabo.jp/20090207183508

二次創作というものを考えた時にちょっと思ったこと。

原作キャラクターや画風、ストーリーなどの特色を「具」とする。

そして、その「具」をどう使ってどう見せるか、を「味付け」とする。

そうやって考えた時、同じ二次創作でも二種類あると思うんだよね。

a)既存の「具」を元に二次創作者が新たな「味付け」を施して、ひとつの作品を作る。

b)既存の「具」を元に、別の作品二次創作品の「味付け」をマッシュアップして、ひとつの作品を作る。

 

aもbも立派な二次創作だとは思うけど、最近あまりにbを作る人の安易さが目に付くのは確かだと思う。

「○○が」「△△で」「□□しているようです」をゴチャゴチャ取り替えてるだけというか。

もっといえばウマウマ辺りからはキャラクターや動きなどの画風までもある程度デフォルメされたものがテンプレート的に用意されていて、

みんながそれを丁寧になぞろうと、できるだけそこから逸脱しないように作るような作品も増えているように思う。

つまり、「すでにウケている」もの「だけ」で二次創作品を作れるように環境や需要が徹底されてきていて、

それを「だって好きなんだから別にいいじゃん」「二次創作に何求めてるの?」とスカした顔で言いながら、

実はそこに二次創作者個人の嗜好や意思を介在させることで「スベる」「寒く思われる」事を極度に恐れる風潮があるように思う。

作り手も「それでウケれば別にいい」、受けても「別に二次創作者の個性なんて要らない」って関係が出来てきている。

故に、そこにあまりに作り手の『二次創作対象以外への愛』以外の嗜好や意思が見えない作品が多い。

だから、そういうのを求める人は最近の風潮にはちょっと辛いよねって思う。二次創作しながらも発展的なモノを作りたい人というか。

「具」は自分の好きな作品から拝借するけど「味付け」は私の味付けでやらせてもらいますよ、ってのを作る人や求める人というか。

例えばFFアレンジを聴いていて「お、この人あのバンドやあっち系の音楽シーンに詳しそうだな、趣味合うな」みたいな喜びがない。

 

いや、無いと言えば嘘か。もちろん今でもそういう作り方で素晴らしい作品も生まれている。

でもそれはまたすぐに「○○が」「△△で」「□□している」の「具」や「味付け」のネタに加えられて、一気に大量消費されるんだけど。

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