「荒井由実」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 荒井由実とは

2020-09-04

荒井由実のまま夭折

どんな運命が愛を遠ざけたのか知らないが

荒井由実が死んでも輝きは戻らないぞ

2020-09-01

荒井由実松任谷由実って同じ人だったのか

はてブのおかげで勉強になることも、稀にたまにあるよね

2020-08-31

これ成りすましじゃなかったら

失職が妥当

白井 聡 - 荒井由実のまま夭折すべきだったね。本当に、醜態さらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。ご本人の名誉のために。 | Facebook

https://bit.ly/3hMQWes

ポリコレうるさい時代なのに、なんで「しねばいいのに」だけはネット的にOKになってるの?




これ↓見て思った


芸能界にもアベノショック…松任谷由実、会見見て「泣いちゃった。切なくて」

https://news.line.me/issue/oa-sanspocom/ta7bxwovm1er

白井 聡 1日前

荒井由実のまま夭折すべきだったね。本当に、醜態さらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。

ご本人の名誉のために。

https://www.facebook.com/satoshi.shirai.18/posts/4268478399894278

2019-09-12

新しい人に勧めるユーミン

ユーミン荒井由実/松任谷由実/呉田軽穂)は天才である。それも本物の天才である。本物の天才の対比を偽物の天才だと言いたいわけではない。それはそれで天才である時代文脈依存しても、先行者足り得るのは凡人では無理だ。しかユーミン天才はそう言うものではない。時代文脈を越えていくものだ。楽曲として、理に適っていると言ってもいい。

天才と言うと努力分析とは無縁で、「ギフト」だけで成立しているかのように捉える人もいる。天才の側も、ある意味商売ではあるから、敢えてそう言う風に言いたがる傾向もある。しかユーミン天才はまず第一アルチザンとしての、研究の上に成立している。そこから更に浮揚しているところが天才のゆえんなのだが、真似は出来なくても解説可能である彼女に限らず、ニューミュージック天才たちを扱う周辺で最も欠けているのは、アナリーゼである

それを私が出来る、と言うのではない。残念ながらそれだけの力量はない。ただ、分かって欲しいのは、「天才」と言う言葉ブラックボックス化して、そこで思考停止しないで欲しいと言うことなのだ。本物の天才は、「感性」のみに依存しなくても、圧倒的に存在し得るから本物の天才なのだ。私はここでは、本物の天才と言う言葉を、羽生善治が本物の天才だと言うのと同じ意味で用いている。

そのユーミンとしても作る曲作る曲すべてが傑作であるわけではない。ただしその傑作率の高さは異常である。それは彼女自身がほぼありとあらゆるジャンルに挑戦し、それぞれの中で珠玉の域に達しているかである。「ひこうき雲」を書いた人が「曇り雨」を書くのは分かる。「旅立つ秋」を書いた人が「地中海感傷」を書くのは分かる。しか彼女は早い段階で「ルージュの伝言」を書く人でもあり、「78」を書く人でもあった。その水準の高さ以上に驚くべきは多様性である

シンガーソングライターは、出だしの一音、一フレーズから、「いかにもさだまさし」であり「いかにも中島みゆき」であり「いかにも玉置浩二である。そう言うものなのだユーミンもまた、「いかにもユーミン」ではあるのだけど、その「いかにも」の引き出しの多いこと。さいとうたかおのようにプロダクション制なのではないかと思ってしまうほどだ。一生涯に一度、その水準の楽曲を書ければ一流だと言えるような楽曲ユーミンは百も二百も書いている。特に年2枚のアルバムを出していた頃、荒井由実から松任谷由実になってから最初の4、5年のいわゆる「不遇期」の作品は、すべてがその水準にあると言っても過言ではない。

新しい人に勧めるユーミン

ユーミン荒井由実/松任谷由実/呉田軽穂)は天才である。それも本物の天才である。本物の天才の対比を偽物の天才だと言いたいわけではない。それはそれで天才である時代文脈依存しても、先行者足り得るのは凡人では無理だ。しかユーミン天才はそう言うものではない。時代文脈を越えていくものだ。楽曲として、理に適っていると言ってもいい。

天才と言うと努力分析とは無縁で、「ギフト」だけで成立しているかのように捉える人もいる。天才の側も、ある意味商売ではあるから、敢えてそう言う風に言いたがる傾向もある。しかユーミン天才はまず第一アルチザンとしての、研究の上に成立している。そこから更に浮揚しているところが天才のゆえんなのだが、真似は出来なくても解説可能である彼女に限らず、ニューミュージック天才たちを扱う周辺で最も欠けているのは、アナリーゼである

それを私が出来る、と言うのではない。残念ながらそれだけの力量はない。ただ、分かって欲しいのは、「天才」と言う言葉ブラックボックス化して、そこで思考停止しないで欲しいと言うことなのだ。本物の天才は、「感性」のみに依存しなくても、圧倒的に存在し得るから本物の天才なのだ。私はここでは、本物の天才と言う言葉を、羽生善治が本物の天才だと言うのと同じ意味で用いている。

そのユーミンとしても作る曲作る曲すべてが傑作であるわけではない。ただしその傑作率の高さは異常である。それは彼女自身がほぼありとあらゆるジャンルに挑戦し、それぞれの中で珠玉の域に達しているかである。「ひこうき雲」を書いた人が「曇り雨」を書くのは分かる。「旅立つ秋」を書いた人が「地中海感傷」を書くのは分かる。しか彼女は早い段階で「ルージュの伝言」を書く人でもあり、「78」を書く人でもあった。その水準の高さ以上に驚くべきは多様性である

シンガーソングライターは、出だしの一音、一フレーズから、「いかにもさだまさし」であり「いかにも中島みゆき」であり「いかにも玉置浩二である。そう言うものなのだユーミンもまた、「いかにもユーミン」ではあるのだけど、その「いかにも」の引き出しの多いこと。さいとうたかおのようにプロダクション制なのではないかと思ってしまうほどだ。一生涯に一度、その水準の楽曲を書ければ一流だと言えるような楽曲ユーミンは百も二百も書いている。特に年2枚のアルバムを出していた頃、荒井由実から松任谷由実になってから最初の4、5年のいわゆる「不遇期」の作品は、すべてがその水準にあると言っても過言ではない。

2019-02-28

anond:20190227235537

その2曲で想起されるイメージで言うと『雨のステイション』『花紀行』『旅立つ秋』とかか。要するに荒井由実時代(『ひこうき雲』『MISSLIM』『COBALT HOUR』『14番目の月』)っぽい感じだと思うんだが。

ちなみに私が好きなのは『たぶんあなたはむかえに来ない』。小品だが曲も詞も演奏も、シュガーベイブコーラスも良い。

2018-06-05

荒井由実(19)「小さい頃は神様がいて毎日愛を届けてくれた」

西野カナ(29)

「I sayがんばれ私!がんばれ今日も!

いってきます いってらっしゃい

Happy lucky sunny day イケイケ私

この調子 いい感じ

がんばれ私!がんばれ今日も!

いってきます いってらっしゃい

Happy lucky sunny day 偉いぞ私

負けるな焦るな挫けるな」

2017-03-31

就活について覚えていること/考えていたこ

 自分就職するのだな、というのが決定的になったのは、大学三年の正月帰省したときだった。そのとき姉は子どもを身ごもっていて、結婚式の準備を進めている時期だったと思う。両親の住む実家はいつになく浮き足だっていて、居間に鎮座した年代物のコンポが機嫌のよい音楽を流しているのを何年ぶりかに聴いたりした。この雰囲気だったら言っても大丈夫だろうかと思った。家に着いたその晩、おそらく姉の結婚式やお腹のなかの子ものことをしばらく話したと思う、そのあとに切り出した。あのさ、大学院に行きたいっちゃけど。

 予想外に、部屋の空気が一瞬で凍りついたのを覚えている。両親は言葉を発さず、コンポから流れる陽気な音楽荒井由実セカンドアルバムの六曲目、あなただけのもの、)がいっきに、なにか強烈な、皮肉めいた疎外感のようなもの演出する異物となって浮き上がった感触があった。しばらくして、母が重々しく口を開いた、なん言いようね、そげんお金なかよ。大学院てなんね。行ってなんすると。もとより自分も、大学院で何か研究したいことがあるわけじゃなかった、研究というのが何をすることなのかもよく分かっていなかった。ただサークルや何やで接する先輩たち、自分より二年間長く学生でいられる、その二年間は就職せずにいられるひとらのことがうらやましかった。その程度の動機だったから、突如として部屋に現れた重苦しい空気を前にして、うっかり声に出した気持ちは途端に冷え切り、しぼんでいった。なんでんなか、分かった。話を逸らすような話題もなく、アルバムが次の曲に行ってしまうまえに居間を出て階段を上がった。あのコンポ音楽を流しているのを聴いたのはそれが最後だったと思う。

  *

 就活はいろいろな街へ行った。下宿していた福岡から、十分な交通費支給されるとき新幹線飛行機LCCはまだなかったから、スカイマーク)で行き、そうでないとき夜行バスで行った。その土地の知人に当てがあれば泊まらせてもらうときもあり、ネットカフェに泊まるときもあった。神戸三宮とか東京蒲田とか、そのころネカフェに泊まったっきり訪れていない街がいくつかある。

 就活にかかる交通費は多くの同級生にとって悩みの種だったと思う。専攻柄、東京一極集中したメディア広告出版関係企業を受けるひとが多かったせいもあったか、とにかくいか交通費破産せず就活を乗り切るかはひとつ重要テーマとして共有されていた記憶がある。自分もそんなに多くの交通費を出せる状況ではなかったので、受ける企業の数をかなり絞っていた。当時の就活サイト提唱する標準的エントリー数は二十社くらいだったけれど、自分は十社も受けなかった。それでも度重なる関西関東への移動はそれなりに負担で、特に東京会社選考が進むたびに片道半日以上かかる夜行バスを往復するのは楽ではなかった。

 夜行バスが発着するのはたいてい新宿西口だった。あるとき、行きのバスに乗っていた添乗員さんと、帰りのバスでも鉢合わせたことがあり、乗り込みざまそのひとが、就活ですか、がんばってね、と声をかけてくれた。あのひとはたぶん、その数日間だけじゃなくてずっと、何十往復も、あの片道半日はかかる夜行バスに乗りつづけていたのだと思う、いまも乗りつづけているかもしれない。西新宿ビル街を歩くと時々そのことを思い出す。

 支給される交通費収入を得るモデルを立てていたひともいた。関東実家や知人のところに滞在しながら、東京会社をたくさん受け、それぞれの会社に対して福岡東京間の交通費申請して利益を得る手法だったと記憶している。あるいは近場であれば、実際には18きっぷで移動しながら新幹線のぶんの交通費を出してもらう方法もあったらしい。これは静岡会社大阪から来ていた子が教えてくれた。会社でいっしょに最終面接を受けたあと、内々定をほのめかす説明会から帰るバスの中でのことだった。その子はすでに他社から内々定を得ていて、ほんとうはそちらに就職するつもりだと言っていた。第一安倍政権ときで、少なくとも経済政策はうまくいっていて売り手市場だったから、そのように交通費収入を得る目的で、実際には就職する気がない企業内々定までを得る学生はその子だけではなかったと思う。二年後にはリーマンショックが起こって、ふたたび新卒市場氷河期を迎えた(らしい)。もし自分大学院に進み、二年後に就活をしていたら、たぶん学部とき受かったところには受かっていなかっただろう。

 職を得るためにスーツを着ることは苦ではなかった。それは公立小学校から高校までをずっと制服で通わなければならなかったのと同じ程度の義務だと思っていた。大卒でそれをしなくてよい人生がどういう仕組みで成り立っているのか、そのころさっぱり想像がつかなかったし、いまでもその仕組みを十全に理解しているとはいいがたい。いずれにせよ、そうしたもの自分には関係のない、自分に与えられた生の可動域からは逸脱するものだと思っていた。もちろん、自分を取り繕って面接官に良い顔をすることとか、所与の経歴と志望動機矛盾なく有効に繋げる作業会社ごとに行うこと、そうした虚飾じみた行為への疲れはあった。リクナビみん就サイトを見るのも好きではなかった。けれど仕方のないことだと思っていた。ほかに生きられる道があるとも思えなかった、だからメンタツも読んだ、SPIも受けた、そうこうしているうち、他人自分矛盾なく説明するために用意したぎりぎり嘘でない物語の数々は、徐々に内面を染めかえ、自分なかに元々あったそれらと区別がつかなくなっていった。照明がおとされた夜行バスの車中で、自分は眠れずによく手を組んで、いろいろな願いごとをしていたけれど、どうか今度の面接が通りますように、内定が取れますように、そういうこともふつうに願った。

  *

 先日、はじめて海外旅行に行った。羽田から仁川経由でニューヨークへ向かう機内の十数時間体験しながら、ああ、これは博多から東京まで夜行バスでかかったのと同じくらいだなと思った。

 夜行バスに乗っていたとき自分にとって、海外旅行宇宙旅行も似たようなものだった。どうせ行けないのだから費用や行きかたなんて調べても意味のない、視界に入れたってしょうがないもの。行けるわけのない外国の遠さよりも、見慣れた田んぼ、そこにある変わらない暮らし、そういったものに思いを馳せるようになるのは、そのとき自分にはごく自然な成り行きだったと思う。だから新宿の街も好きではなかった。東口ネットカフェに泊まったりから歌舞伎町銭湯に入ったりする小旅行を、楽しんではいたけれど、駅の通路浮浪者排泄物のにおいが漂っていたのを強烈に覚えてもいた。長く住むところではないと思った、その都市に、けっきょくいまは福岡下宿していたのよりもずっと長いこと住んでいる。

 去年はじめて実際に調べた、二月のヨーロッパアメリカへ渡る往復航空券の値段は、盆や正月ラッシュのなかを新幹線実家に戻るのと大差がなかった。どうせ行けるわけがない、他に選べる道もない、と見過ごしてきたものごとの数を考えた。けれど、そのときはたしかに、それが自分の視界に映るもののすべてだった。その視界が十分に広くなかったとして、いまを測るための物差しとしては省みることかもしれない、けれど責められるものではない。いまとむかしの自分は違う、同じものでない、そのことは互いの存在を妨げない。一応は自分お金大学院を出て一年が過ぎ、将来の自分から先借りしているお金を返しはじめて半年が過ぎたいまはそう思っている。

2016-05-14

インターネッツ若者のもんなんだよ、消えてくれ

http://anond.hatelabo.jp/20160514012518

 

それって…… 

 

レ 

  

インターネット若者のもんなんだよ、消えてくれ

2ちゃんねる若者のもんなんだよ、消えてくれ

リツイートされない読み捨てツイッター若者のもんなんだよ、消えてくれ

はてな匿名ダイアリーは心が若い若者のもんなんだよ、心が老化したニセ若者は消えてくれ

秋葉原あやしげな店は若者のもんなんだよ、消えてくれ

吉野家の特盛りは若者のもんなんだよ、消えてくれ

東京ばな奈バナナプリン味は若者のもんなんだよ、消えてくれ!

歩行者天国若者のもんなんだよ、消えてくれ

石原慎太郎の昔の小説若者のもんなんだよ、石原慎太郎は消えてくれ

無調整豆乳黒砂糖を入れてあたためたやつは若者のもんなんだよ、消えてくれ

コンビニ駐車場若者のもんなんだよ、消えてくれ

荒井由実ひこうき雲若者のもんなんだよ、消えてくれ

盗んだバイクは盗んだ瞬間だけ若者のもんなんだよ、消えてくれ

犯罪行為犯罪でない行為ギリギリのあたりは若者のもんなんだよ、消えてくれ

 

 

2015-07-11

カラオケ

今の職場へ来て数年経った。

年に1~2回程度、飲み会のようなものが開催される。

その後、二次会としてカラオケを歌うことができるようなスナック(?)へ行くのが恒例になっている。

で、そこで、50過ぎのおじさま方が、よくまあ歌う。

古い曲から新しい曲まで、なんでそんなに知ってるんだというくらい、よく知っていて、ほんと驚く。

古い世代なのだから古い曲を知ってるのは、まあわかる。

荒井由実とか山口百恵とか松山千春とかオフコースとか、(このあたりは名前くらいしかからない)

チェッカーズとかサザンとかミスチルとかスマップとかキンキキッズとか、(この辺は知ってる)

エグザイルとかえーけーびーとか、(この辺は逆にこちらはよく知らない)

なんというか、いわゆる「売れ線」をおさえてる感じがすごい。

別の場で、同世代くらいの集まりカラオケへ行ったことがある。

その時は各々が好き勝手に曲を入れて、しっちゃかめっちゃかというか、

自分は好きだけど他の人は知らないみたいな選曲の偏りが激しくて、

お笑い番組由来らしい歌だとか、ロキノン系ディープめな歌だとか、アニソンだとか、)

あと数回繰り返していればお互いの嗜好も把握できてそれなりに歩み寄れたのではないかと思うのだけど、

その場での結論としては、カラオケは気が合うもの同士で集まった方がいいよね、みたいな感じになってしまい、

飲み会的な会合は開いてもカラオケへ行くことはなくなった。

結局、飲みニケーション的な集まりにおいてはその場を共有することが重要であり、みんなにわかもの要求されるらしい。

だのでミリオンセラーのような売れ筋の曲は「みんなが共有できるもの」として重宝されてきたのではないか。

売れたからみんながカラオケで歌うようになったのか、カラオケで歌われることによって売れたのか、因果関係はわからないけれども、

飲みニケーション的な悪習を築き上げてきた世代というのが確かに存在して、

そういう人たちがミリオンセラーのような売れ筋の曲を買い支えてきたという側面があったりするのではないのかなあ、と、

酔っぱらった頭で思いつくままに何の根拠もないことを書き綴ってみたのでした。

50代~60代くらいの世代退職していくにつれて需要が減退していったのだよっ、みたいな論拠となるデータを誰か探してください。

2013-08-25

マスダ80年代女性アイドル論~松田聖子

80年代女性アイドル格付

http://anond.hatelabo.jp/20130821065806

を書いたマスダです。80年代女性アイドルについて語り倒したくなったので、順繰りにそれぞれの女性アイドルについて話してみたいと思います

今日松田聖子について。


松田聖子デビュー曲は「裸足の季節」、そのB面曲は「RAIMBOW~六月生まれ」と言う楽曲です。

どういう事情でこのB面曲が選ばれたのか、ちょっとした謎ですね。デビューシングルと言えば、売出し中のアイドルにとっては名刺みたいなもんじゃないですか。そのB面曲が「六月生まれ」だったら、普通は、ああ、この子は六月生まれなんだなあって思いますからね。でも実際には聖子3月10日生まれ、早生まれなんですね。この早生まれ、ということを初期の聖子は最大限に活用しています

三作目のシングル「風は秋色」はB面曲(扱いは両A面扱いですが)が「EIGHTEEN」で、聖子の初期の代表曲の一つです。

あーここでついでに言っておきますが、聖子シングルのB面はA面よりもむしろ優れた楽曲が多くて、ファンから強く支持されているのもB面曲が多いですね。何といっても「SWEET MEMORIES」が「ガラスの林檎」のB面曲なんですから。主演映画の主題歌だった「花一色」や「夏服のイヴ」がB面だなんて、他の歌手では絶対にありえないですよね。

で、「EIGHTEEN」を歌っている時、彼女は実際に18歳だったのですが、早生まれなので学年で言えば、「19歳」なんですよね。山口百恵は19歳の時には「プレイバックPart2」を歌っていました。そして21歳の時に引退しました。山口百恵脱アイドル路線を進み、既にその前年に嫁に行く娘の母への気持ちを「秋桜」で歌っていたことを踏まえれば、普通はもうアイドル路線から転換するような年齢で、聖子アイドルを開始したということになります

既に高校卒業して、社会人としてアイドルデビューをした松田聖子でしたが、「高校三年生の年齢である18歳」を強調することで、ファン層である中高生との乖離を極力狭めようとした、「EIGHTEEN」という楽曲にはそういう意図が感じられます


聖子高校1年生の時にミスセブンティーンコンテスト歌唱力を認められ、CBSソニーが直ぐにでもデビューさせたいとアプローチをかけます彼女サンミュージック所属でしたが、レコード会社が発掘したアイドルなんです。CBSソニーサンミュージック綱引きをしたら、聖子はあくまでソニータレントです。このことがアメリカ進出の際、亀裂となって生じるのですが、それはまた別の話です。

聖子デビューが遅れたのは、父親を説得するのに2年を費やしたからです。14歳デビューした山口百恵らはさすがにデビューが早い方ですが、アイドル普通は16歳前後デビューます田原俊彦は19歳でのデビューでしたが(学年で言えば実際には20歳でのデビュー)しばらく年齢を詐称していたように、18歳以降でのデビューアイドルとしては年齢が立ちすぎていて、著しく不利です。

いいよいいよで済ます家庭で育っていれば、聖子デビュー石野真子と同期、1978年になっていたはずです。2年デビューが遅れたのは後から見れば実にラッキーだったのですが、おそらくその2年間は聖子人生の中で一番悶々としていた時期だろうと思います


娘が芸能界デビューしたいと聞いて、まずまともな父親なら反対が先に来ると思います。決して内実は美しい世界ではありません。暴力団などに食い物にされている人もいます。横目で見ていて、そんなことに娘が関わって欲しくないとまともな父親ならばそう思うのではないでしょうか。娘が芸能界に入りたいと言って、これで一儲けが出来ると思うなら、いいよいいよと父親は言うでしょう。問題は果たしてそう言う父親がまともな父親かどうかです。

芸能界に入る時に父親に反対されたというアイドルほど、荒波を乗り越えてタフなように見えます。それは最後の砦である家族を信じられるからです。家族を信じられるのは家族がまともだからです。松田聖子にはこの、「父に愛された娘」としてのタフネスがあります。それは中森明菜が結局手に入れられないものでした。


デビューが遅れて良かったのはまず第一に黄金期にあった山口百恵キャンディーズピンクレディーらと競合せずに済んだことがあげられます。本来、ポスト百恵世代は、石野真子榊原郁恵大場久美子らが担う位置にありましたが、彼女らは既に聖子デビューした時には息切れしていました。78年にデビューしていれば聖子もそうなった可能性があります聖子百恵の活動時期は殆どかぶっていなくて、百恵引退直前に聖子挨拶に行った、くらいの関わりです。百恵が不在になって、いなくなったのは百恵だけではなく、めぼしい女性アイドルたちもそうでした。80年組が豊作の年と言われるのは、女性アイドルたちが不在で、80年組がまたたくまにその空間を埋めたからです。

80年組が活発な活動を続けていた81年には、逆に女性アイドルが出てくる余地が無くて、81年組は近藤真彦竹本孝之沖田浩之などの男性アイドルは輩出されましたが、女性アイドルには本当にめぼしい人がいません。伊藤つかさだけですね。

70年代60年代の延長ですが、80年代は新しいステージに入りました。戦争を知らない子供たちどころか石油危機を知らない子供たちが青年期を迎え、先進国日本しか知らない若者が世相をリードするようになりました。

70年代末期には、海外ご当地もの楽曲が数多く出ました。「とんでイスタンブール」とか「サンタモニカの風」とかですね。海外ご当地もの聖子も数多く歌っていますが、日本若者は行こうと思えば気軽にそこへ行けるようになっていたのが70年代と異なっていますハワイグアムではもはや歌の舞台には陳腐になっていて、聖子海外ご当地ものはより遠くへ、穴場へ行く傾向にありました。グアムではなくセイシェル、ロスではなくマイアミカリフォルニアディズニーランドではなくニューヨークコニーアイランド

聖子の歌には、特に初期には憂いのようなものはなく、ふわふわとしたポップな高揚感がありましたが、80年代はそれをファンタジーではなく、普通のことにする時代でした。あの時代日本人はすべて、準超大国であった日本という国家を背負っていたのです。

聖子はその象徴になりましたが、それは78年にデビューしていればたぶん不可能なことでした。


裸足の季節」がスマッシュヒット、「青い珊瑚礁」が大ヒット、続く「風は秋色」という地味な曲が80万枚を売り上げたことから(今の感覚ではたぶん倍の枚数で考えればちょうどいいんじゃないかと思います。だから160万枚)、聖子なら何でも売れることがはっきりとしました。

続く「チェリーブラッサム」は最初のターニングポイントになった楽曲です。続いて「夏の扉」「白いパラソル」と財津和夫作曲を手掛けますが、財津和夫の流れからJ-POP原理主義とも言うべき、「はっぴいえんど」人脈とのつながりが出来て、松田聖子楽曲アイドルの枠を超えて、日本ミュージックシーンでもにわか実験的な色彩を強めていきますアルバム風立ちぬ」はこの時代もっとアグレッシヴアルバムであり、日本音楽史上、聖子楽曲は単に売れている、という以上の意味を越えて特筆すべきものになりました。売れているから何でもできたのです。

チェリーブラッサム」は初期シングルの中では最高傑作との評価も高い楽曲で、人気も高いのですが、歌うのはかなり難易度が高い曲です。聖子はその後も「いちご畑でつかまえて」のようなあり得ないような難しい楽曲をわりふられて、楽々と歌っているばかりか、生放送で披露して作品世界観までしっかりと表現しているのですが、まず普通の歌手には真似できないことです。第一に何でも売れる、第二に何でも楽々と歌える、という二つの条件が揃ったことにより、一種の「聖子解放区」なるものが出現し、日本トップアーティストたちがこれでもかと腕を振るって練りに練った楽曲提供し、ソングライターにとっての桃源郷聖子という媒体を通して出現します

その契機をつくったのが財津和夫であり、「チェリーブラッサム」でした。聖子自身は当初、この楽曲に拒否反応を示し「こんなのを歌っていては駄目だわ、と思った」と述べているのですが、それはアイドル歌謡の枠からあまりにも外れていたからでしょう。

聖子はなりたくてアイドルになっただけに、アイドル的なるものが好きでした。聖子80年代初めに、ふわりとした髪型(いわゆる聖子ちゃんカット)、ロココ趣味ドレスという天地真理スタイルを復活させた人ですが、当時は既に山口百恵後期のスタイリッシュ大人の女性路線を経ていたために、下手したら冗談と受けとられる可能性がありました。そんな恰好をするのはもはや聖子だけだったのです。その後、聖子ブレイクした結果、猫も杓子もエピゴーネンになりましたが、その時にはもう聖子はそうしたスタイルをやめていました。


そして「赤いスイートピー」で作詞・松本隆作曲呉田軽穂松任谷由実)のコンビが実現するのですが…。

松本隆80年代代表する作詞家で、トップアイドルたちのほとんどに詞を提供しています。上位から8位までのアイドルたちで言えば、中森明菜に「愛撫」「Norma Jean」、小泉今日子に「魔女」「水のルージュ」、薬師丸ひろ子に「Woman~"Wの悲劇"より」、中山美穂に「派手!!!」「JINGI~愛してもらいます」、斉藤由貴に「情熱」を提供しています

特に中山美穂については初期にプロデュースも手掛けています

しか松田聖子プロデューサーとしての活動が著名で、松本隆と言えば松田聖子松田聖子と言えば松本隆といってもいいでしょう。「秘密の花園」は元は別の人が作曲していたのですが、松本隆が気に入らなかったので急遽、作曲者松任谷由実に替えています松田聖子プロジェクトおいてはそういう権限を持っていた人です。

松任谷由実アーティストとしての全盛期を、荒井由実時代に求める人は多いのですが、私は松任谷由実になってから7年間、アルバムで言えば「紅雀」から「DA・DI・DA」までがソングライターとしての全盛期だと思いますセールス的にはその数年後に絶頂が来るのですが、セールス的な絶頂が来た頃にはソングライターとしては下降期に入っています。そのソングライターとしての全盛期がまさしく彼女松田聖子プロジェクトに関与した時期で、さすがにどの曲も珠玉の傑作ばかりです。

赤いスイートピー」「渚のバルコニー」「小麦色のマーメイド」「Rock'n Rouge」「秘密の花園」「瞳はダイアモンド」「時間の国のアリス」が松任谷由実松田聖子提供したシングルA面曲になります。B面曲/アルバム曲では「制服」「レモネードの夏」「蒼いフォトグラフ」「恋人がサンタクロース」などが有名なところでしょうか。彼女ソングライターとして全盛期だった松任谷由実楽曲を歌うことで、松任谷由実エピゴーネンになる危険を冒しました。ユーミンサウンドのチャンネルひとつ、になってしまう可能性があったのですが、そうはならなかったのは、第一に二三の例外を除き、松任谷由実セルフカバーしていないから、そして、松田聖子が独自の歌唱で、世界観をくっきりと提示したからでしょうか。

これは彼女楽曲カバーしたアーティストの歌を聴き比べればはっきりとしますカバーアーティストたちはプロですからそれぞれに上手いのですが、聴き比べればやはり聖子歌唱が圧倒的に優れているのが分かります。これは単にオリジナルシンガーというだけでなく、楽曲世界観を提示する能力が卓越しているからです。

彼女洋楽日本語版をカバーして歌っていることも多いのですが、それらはオリジナルよりもよほど強い輪郭を持っています

松田聖子は演技は致命的に下手ですが、歌の中にドラマを作り上げる技量は他の追随を許しません。いわゆる歌が上手いと言われる人、例えば美空ひばりは、彼女自身が器楽として優れているのであって、実はその歌は、世界観を味わうというよりは、音楽としての歌を楽しむ、実はより純粋音楽の方向に寄り添っています松田聖子は歌を映像として見せる技量に秀でているのであって、その圧倒さは唯一無二のものです(対照的に中森明菜器楽寄りの歌手です)。


はっぴいえんど」人脈によって松田聖子というアイドル楽曲風景歴史的ものになったのですが、松田聖子自身は本来はそちらの性向ではなかったのでしょう。「花一色」は文芸映画「野菊の墓」の主題歌で、やはり数多くの文芸映画に主演した山口百恵の中期の路線を思わせる楽曲でしたが、しっとり日本の情感を歌い上げています彼女自身はそういう、「大人」の路線にシフトして行きたかったはずですが、松田聖子プロジェクトが圧倒的な成功を収めたために彼女自身、その成功に圧倒されていきます

チェリーブラッサムを歌いたくなかった」

という言葉は実は、「案外、自分のことはわからないものだ」という自己反省の文脈で語られています自分よりも周囲の方が案外分かっているのではないかチェリーブラッサムはそういう教訓を彼女に与え、彼女自身、松田聖子自己模倣していきます

アイドル時代キャリアの後半になるにつれ、子供っぽい、可愛い歌の傾向に拍車がかかるのは、その表れでしょう。「時間の国のアリス」「天使のウィンク」「ボーイの季節」は過剰な少女趣味が行き過ぎていて悪趣味ですらあります

ほとんど自らの巣に絡まる蜘蛛のような、自虐的とも言えるまでに肥大化してゆくアイドルとしての松田聖子の路線に、松田聖子結婚休業をすることでけりをつけるのです。

2013-07-27

風立ちぬ

スタジオジブリ風立ちぬ」。

どこまでピュアな純情な作品でありました。

今の時代にこれだけ純粋な作品を作れるのはジブリ宮崎駿監督しかいないのではないかと思わせるほどで、

普通にこういった作品を作ると、どこか作為的で青臭い感じが違和感として残るのだけど、

この作品はあまりに素直でそれだけに見ている側が苦しくなるように心にズカズカと土足で入り込んできては、

だけども、最後荒井由実の「ひこうき雲」ですべてをさらっていってくれるような、そんな清々しい残り香だけが残るようでした。

2008-10-14

運転していてたまたま入れたCD荒井由実だった。

そういえば、バブルの頃のユーミンの曲を最近聞いてないなぁ、昔好きだったはずだったんだけど。聞くのは妙に古いのばかり。荒井由実時代の曲とか。

運転してるとだんだん思い出してきた、そういえばあの頃のユーミンって恋愛神様みたいな扱いだったよなぁ。

で、ここまできて、最近、ていうか10年以上、あの頃の曲を聞かなかったわけを思い出した。

彼女だ。

そうか、まだ引きずっているんだ。

だめすぎて笑うしかないや。

 
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