はてなキーワード: 携帯とは
幼稚園の頃に引っ越しがあって、全く知らない土地にきた。知り合いもいないし、親の教育方針で家の近所の保育園ではなくかなり家から離れた幼稚園にいきなり放り込まれた。元々いた幼稚園の記憶がないから前はどうだったのかわからないけど、新しい場所に全く馴染めず常に疎外感を感じていた。
小学校に上がると、遠くの幼稚園に通っていたのもあって知り合いが一人か二人しかいない状況になった。登校初日、あまりの不安から泣きながら親に行きたくないと駄々をこねたのを覚えている。
多少の疎外感と友達の殆どいない生活にもなれたころ、遊具の上から友達に突き飛ばされて骨折し、授業に参加できなくなった。
そこからというものさらに周りから避けられクラスから浮いた存在になった。それが原因だったのかいじめが始まった。
そうでなくても私は親の方針で髪型は坊主で、理屈っぽく嫌味たらしいCSで深夜アニメの再放送ばかり見ているような今考えるとどうしようもなく気持ち悪い子供だったので、いじめは必然だったかもしれない。
悪口やものを隠されるだけではなく、ありもしない噂を立てられたり、殴られたり蹴られたり投げ飛ばされたりもした。
いじめの主犯格の友達が通る階段を避けて、上級生の使う階段を早足で駆け上がる日々が続いた。
そんな日々が5年ほど続き、限界に達した先生にいじめのことを報告した。幸いなことにとても良い先生だったので一応形的にはクラスのほぼ全員から謝罪を受けた。
しかし、暴力や直接的な悪口がなくなっただけでよりクラスから浮いた存在になってしまい、あからさまに避けられるようになった。
特に女子生徒からは存在自体が悪かのように嫌がられたのを覚えている。
中学生に上がると、幸運なことに別の小学校からの生徒もいたため、いじめの過去を知らない子達とはそれなりに仲良く出来た。
しかも当時の私は携帯を持っておらず、クラスの内のカーストや政治にも殆ど関与しない立場だったため、常に空気のような扱いであった。
高校では小学校からの知り合いがいない学校に行きたいと思い、受験勉強に励んだ。
これは完全に自業自得だが、今まで宿題も碌に出さないような人間だったので勉強をし続けることや受験のプレッシャーに耐えられずあからさまにノイローゼになり情緒がおかしくなっていた。
そのせいで勉強に対するトラウマのようなものが生まれてしまった。
とにかく志望した高校には合格でき、話し相手も数名見つかったが、今までの人生で友達がいたことが殆どないため友達の作り方が分からず、連絡先もろくに交換できなかった。
そもそも話が合う人間が全くいなかったのもあるが、高校でもそんな調子で虚勢を張ってはいたものの例によってクラス内政治には全く関与せずまたもや浮いた3年間を送った。
そして今しょうもない地元の私文に進学して勉強への苦手意識を拗らせて単位をギリギリ取れるぐらいのフワフワした感じで過ごしている。
高校の時のように集団生活でもなくなったため、今は本当に友達が一人もいない。
どうすれば友達を作れるんだろうか。そして私はどこで人生を間違ったのだろうか。
とにかく暇で暇で仕方がない大学生活を楽しむためのコツを先輩方に教えてほしい。
昔の話。17歳ワイ♂、大晦日に親父と大喧嘩してバイト代の4万円を握りしめて家出した。
大阪で一人暮らしをするんだと意気込んで東京駅で西行き鈍行列車に飛び乗った。
名古屋まで着いたが、特急に乗らないとその日のうちに大阪に着かないことがわかって、金が無いけど仕方なく特急券を買おうと考えながらトイレに入った。
トイレの入口で2コ上の先輩♂と再開。ぶつかりそうになったのが先輩。本当に偶然だった。
「お前何してんの?」
「婚約者を実家に連れて帰る予定が、彼女が体調不良でさ、お前、替わりにうちに泊まらせてやるよ」
すごい偶然だった。
うちの高校は寮のある私立で関東近郊からも生徒が集まってくる。卒業後まったく交流がなかったけど、先輩は快く実家に誘ってくれた。
そして先輩の実家に到着。
先輩「ただいまー」
携帯もない時代だから細かい話は到着してからなんて当たり前の時代。
すぐに誤解も解けたけど。
3泊させてもらい、朝昼晩、家族麻雀にも混ぜてもらって、靴まで買ってもらった。
そして、その4年後、大学生のときに仲のいい友達♂と北海道旅行に行った。
1週間かけて道内をまわり札幌に戻る。そこで友人とは別行動に。
1日かけて、一人でゆっくりラーメン食ったり、お土産を買ったり、さあ電車で東京に戻るかと思っていたら、チケットが無い。
2時間くらいかけて、歩いたところを探して回るも、チケットなんて落ちて無い。交番、札幌駅の窓口にも行ったが届けがない。
クレジットカードなんて持ってないし、残りの少ない現金だけじゃ帰れもしないし、泊まれもしない。
携帯もポケベルもまだない時代。別れた友人とも連絡がとりようがない。
ヤツの宿泊先を聞いておけばよかったと、途方にくれた。次第に夜になる。
すると母が「お父さんがゴルフで今日、札幌のホテルにいるよ」と宿泊先を教えてもらった。
こんな偶然ある?
親父の宿泊しているホテルにいって事情を話すと、いま外出中とのこと。仲間と飲みに行ってて不在だった。
ロビーで待っていると親父が帰ってきた。
「お前何してんだ?」
「チケット失くして帰れない。家に電話したら親父が札幌にいると」
「おまえラッキーだな」
バブルの風に乗って小金持ちだった親父から、小遣いをもらい、そしてホテルの部屋も取ってもらって、無事翌日東京にもどった。
俺って運がいいんと思うけど、どうだろうか。
他にもスゲ~偶然がたくさんあるんだけど、ここまでにしとく。
忘れそうだからどっかに残しておきたかったんだけど、どこもしっくり来なくてここに書き散らす。
震災の話を書くので苦手な人は読まないでね。
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家には父(無職)と犬(デカいけどビビり)と自分(高3。卒業式も終わって春休み中)
そもそも宮城は地震が多くて、震度5〜6も数えるくらいだけど体験してた。最初はいつもの感じかなーと思ってたんだけどなんか長くて、ヤバさを感じたからとりあえず犬を抱えた。犬は震えながらテーブルの下にいた(避難訓練やってたんか?)。ちなみに父はテレビ押さえてた。
そしたら揺れが大きくなって台所の食器棚が倒れて皿が割れるデカい音と砂煙が舞って(マジかよ〜)って気持ちになった。多分正常性バイアス。
家にいるのも危ないのか?と思い犬を抱えたまま外に出ると大人がたくさんいた。近くの一軒家のブロック塀が崩れてて(本当に崩れるんだ)と思う。
母は出勤してたので出迎えも兼ねてたんだけど、場所が悪くてすれ違いになり「どこいるの?」とメールが来る。空にはガァガァ鳴いて飛んでる白鳥の群れと雪がチラついててなんだか絶望的な気持ちになった。
(家の近くで白鳥は飛ばないので、普段と違う様子の怖さと寒さのせいだと思う。それと人間が大変なことになっても変わらず雪は降るのか…っていう無力感)
家に戻ると母が割れた食器を片付けてた。割れた食器の中に神戸旅行で買ったレトロなお皿もあった。勿体無いから使わずに取っておいてたんだけど使わないまま割れてしまった。
確かその時は電気が通っててテレビが付いてた気がする。緊急事態の時の縁が青い画面で、右下に被災地域の地図と沿岸に赤いライン。確か津波来るから逃げてくださいって言ってた気がする。
こんな地震でも電気来るなら大丈夫かなって思ったけど夕方?くらい?には電気も止まった。
家にいるのも危ない気がしたので近所の中学校の体育館に避難する。父は犬と家に残った。
体育館には結構人がいて、ストーブが炊いてあった。ストーブ囲って近くの知らない大人とちょっと話した。携帯でニュースを見るけどイマイチ状況がわからない。充電もなくなるので寝た。
朝、体育館の入り口に河北新報だか朝日新聞の号外が貼ってて、デカデカと気仙沼?石巻?松島?の火事の写真が載ってた。
えーここに住んでる人どうしたんだろう…と思う。
家にいても学校にいても同じなので、次の日からは家で寝ることにした。
この後の記憶はなんとなく時系列順に箇条書きするけど順番間違ってるかもしれん。
・こういう時ってご飯どうするんだろうって思ってたけど、うちはお歳暮のお菓子(マドレーヌとか)があったのでそれで食い繋いでた。元々少食だけど不思議な事にお腹はそこまで減らなかった。
・ライフライン全部止まってるのでトイレは2回したらちょっと流す でやりくりした。ご飯も水も最小限だったのでトイレ自体あんまり行かなくならなかった気がする。
・近所の集会場の水道が出るって話を誰かから聞いて、バケツとかペットボトル持って並んだ。並んでたら夜になって星がめちゃくちゃ綺麗で、こんなに星見えるんだ と思った。
・タバコ屋のじいちゃんがやってる自販機も開けて飲み物売ってくれてたらしいけどコーヒーしかなかった、と父が言ってた。(買って来てたかは覚えてない)
・コンビニはロープ張って立ち入り禁止になってた(スナック菓子とか売って欲しいなと思ったけど従業員も被災者だからな…と諦める)
・ヨークベニマルが食品を売ってくれるらしいという噂を親が仕入れて来たので行ってみる。駐車場一帯を大きく円を描くように人が並んでた。(こんな時でもちゃんと並んでてエラい と思う)店舗の前で長机に電卓でお会計してる店員さん、カート運んで並んでる人に商品選ばせてくれる店員さん、みんな家族がいて自分も被災者なのにありがたいなぁと思う。
・なんか父親ががっくりしてる日があった。何かと思ったら津波で被害を受けた地域が祖母宅がある場所だったらしい。具体的にいうと陸前高田。祖母と連絡が取れない日が続く。ラジオではずっと同じニュース。
・とうとう電気が復旧してくる気配を感じる。マンションから夜外を見てると市役所がある方が明るい。数日に1度?電気が付いてる区画が広がる。母と明日かな?明日かな?と言い合う。電気が戻ったときは歓声がわいた。ガスと水はまだなので2,3週間くらいお風呂に入ってない。
・大学の入学式は予定通りやると連絡が来た(進学先はあまり被害がなかったらしい)。この3週間風呂に入ってない、しっとりツヤツヤヘアで入学式出ろと!??と驚いた。っていうかそもそも出席できなくね?2,3日後、式は1ヶ月後にやると連絡が来た。電気も戻るまで3週間かかったのに1ヶ月後に入学式出れるのか???と思う。(結局出れた)
・ガスか水道が戻る前に高速バスが復旧した。進学先の他県にアパートは借りてるので食料調達兼入浴に出かけた。びっくりドンキーでほぼ1ヶ月ぶりくらいにちゃんとしたご飯を食べる。食べたら秒で腹壊してトイレに駆け込む。固形物ほとんど食べてなかったから胃がビックリしたんだと思う。勿体ない…。そのままアパートか温泉かに入り、まだ電気開通前の部屋で凍えながら寝た。(引越し前なので布団もないからフローリングにそのまま)
これ以降は更に時系列があやふや。入学式は普通に出れた。また父がグッタリしてる日があって母に聞くと震災で亡くなった方の特集を見てたら高校の後輩?が出てたらしい。
震災1ヶ月後くらいやっと落ち着いた時にまた5強?とか来て片付けたものがまた落ちたり倒れたりして地球氏ねって思った。
余震は死ぬほど来てたので震度4くらいじゃビックリしなくなった。
祖母とも連絡取れたらしい。家にそこまで被害はなかったけど壁が壊れたとかでGWに父と高田に行く。
車に乗っててそろそろ近くまで来たな〜と思ってるとなんか訳わからない丘に漁業船が乗ってる。
こんなんあったっけ?と思ってると瓦礫まみれになって行く。
でも場所がわからないので元々瓦礫まみれの土地なのか、津波でこうなったのかわからない。道も当たり前に変わってるので検討がつかない。
えーどこなんだろうここ、そろそろ祖母宅着いてもいい頃なんだけどって思ってたら見覚えのあるアパートが建ってた。
そこで今瓦礫まみれの場所が帰省の時使ってた道だった事に気づく。
コメリは?隣にあったスーパー(名前なんだっけ わかる人いたら教えて欲しい)は?お食事処のキリンの看板は?過去にあそこですれ違ったはずの人たちは?
突然の事でボーッとしてしまう。唯一残ってたアパートもよく見たら窓が割れてて、勿論誰も住んでなかった。
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とりあえずここまで。読んでくれた人ありがとう。その後の話はまた別で書きます。
【追加】
一昨日に体調を崩して、昨日は少し持ち直した。
今朝、母に抱かれて外の空気を吸い、多分そのまま旅立ったのだと思う。
家に戻ってきて様子を見たらもう呼吸も心臓も止まっていたらしい。
私は実家から1時間弱の場所で暮らしていて、弟から死んじゃったみたい、と連絡を受けた。
本当は昨晩実家に帰るつもりだった。大雨で帰るのは今日に延期した。
犬と最後にふれあったのはゴールデンウィークが明ける前の土曜日だった。
犬は1年前くらいから歩くのが下手になり、半年はひとりで立ち上がることもできない状態だった。
でも噛む力だけは衰えず、老衰で力加減を忘れた分、若いときよりずっと危険だと家族と笑いあった。
いつだかシルバーのバングルに不意に噛み付いて、傷を付けていた。
外につれていくと歩こうと前脚を動かすので、四足歩行の体制になるように支えて歩かせた。
人間の方がよほど疲れると母と笑いあった。
それでも老犬なりに動けないなりに、それなりに元気な老後だったと思う。
とにかく牛乳が好きな犬だった。
犬に牛乳はあまりよくないというのを知った頃には牛乳が大好きな犬になっていた。
老いてからは犬用の粉ミルクに切り替えていたけれど、それまで我が家の冷蔵庫の牛乳を消費しているのはほぼ犬だった。
煮干しの頭が嫌いだった。
頭だけ器用に残して食べていたので、一時期我が家のリビングには煮干しの頭が転がっていた。
鮎を貰って大喜びしていた。
近所のおじさんに冷凍した小さな鮎をよく貰って、人間より良いものを食べているなと笑った。
さつま芋が好きだった。
人間の食べ物にあまり興味を示さなかったが、焼き芋と干し芋だけは盛んにアピールをして食べていた。
抱っこが嫌いだった。
抱き上げると器用に身をよじり、脱出する様子はうなぎのようだった。
個人主義者だった、と思う。
我が家の人間はそれぞれ好きなことを自分のスペースでやるタイプで、犬もそんな感じだった。
好きにしていて、人間が集まったタイミングで犬も参加してきた。
甘噛が直らなかった。
直さなかった。塩対応の犬だったが、人間が帰宅した時は甘噛で出迎えた。それがうれしかった。
お手とおかわりと両手タッチと待てはできた。伏せはおぼえなかった。
目がよく見えなくなったときは家中の隙間や椅子に挟まって助けを呼んでいた。
夏の暑い日は、縁側の下に潜り込んで寝ていた。
よく額の毛に指を突っ込まれて穴模様を作られていた。
換毛期に顔に謎の模様が浮き上がることがあった。
はっきり模様が出たときは、近所の住民にこどものイタズラでペンで書いたものだと思われていたらしい。
キツネみたいな顔だった。
たまに顔がまんまるになっていた。
濃茶色の毛並みなのに、背中は焦げたみたいに毛の先端が黒かった。
しっぽの先端も黒かった。
額と耳の、濃茶色の短い毛がいちばんやわらかくてふわふわの毛並みだった。
犬に会うと尻の匂いを嗅ぎに行くのに嗅がれるのは嫌がって飛び退いていた。
犬よりも人間のほうが好きみたいだった。
亀に恐る恐るちょっかいを出し、猫には負けていたがよく猫を探していた。
そういえば散歩中、我が家の犬と同名の犬に会ったのを思い出した。
散歩で遠くまで歩けなくなっても、家の周りのパトロールは入念に行っていた。
近所の仲の良かった犬たちの中では最も長生きをした。
しばらく前に亡くなったボクサー犬の飼い主が、お供えと言っておやつを持ってきてくれた。
今日は犬の思い出を探して、家族みんな写真をグループラインで共有していた。
古いカメラや携帯を引っ張り出してデータをサルベージしては、思い出を語り合った。
家族は、午前のうちに気持ちを整理したようだった。さっぱりと涙を流して、
写真を見て笑い合って、腐敗を遅らせるために保冷剤を添えた犬に声を掛け、やっぱりたまに泣いた。
今、リビングに安置されている犬のそばにいるのではなく、日記を書いているのは、
犬がまだこの家にいるうちに自分の記憶を書き出さないと駄目な気がしたからだ。
犬は明日には灰なって、もうこの家には帰ってこない。
冷たい犬の額を撫でるたび、その事実が脳に布を掛けるような涙になる。
私は犬のいる家が好きだった。
母と父がリビングで寛いでいて、二人の弟はそれぞれの部屋で遊んでいて、たまに降りてきて会話を交わす。
そして犬は定位置か母の近くで寝ていて、起きたときには、チャカチャカとフローリングを爪ではじく軽快な音を響かせる。
この光景が永遠になれと願った。この家族の揃った家が私の永遠だった。
もう犬の魂はこの家を離れて、明日には身体も無くなってしまう。
今朝、犬は母に連れられて雨上がりの空気を吸い、少し地面に触れて、再び母に抱えられた。
そうして自分の足が動くことに気が付いて、母の腕を離れ、軽快に力いっぱい走って、虹の橋を渡っていったのだと夢想する。
自由に走ることができて大喜びだっただろう。遊びに誘うような笑顔で振り向いてくれただろうか。
犬の友達は向こうにいるし、もとよりひとりでいても困らない性格だから心配はいらない。
私も、この別れは限りなく良いかたちだと思っている。
それでも私は、もっとこの家にいてほしかった。ずっといてほしかった。
家族はもう気持ちを整理できたようだった。水をさしたくないので、
この日記を書きながらひとり部屋で泣いている。私の永遠が終わってしまった。
別れたくないのに引き留められる場所にはもういない。いたって私には手段がない。
納得しているのに受け入れがたい。
去らないでほしい。ずっとリビングにいて、家族みんなに呼びかけられていてほしい。
犬が夜鳴きして、私ひとりが起きてきた夜のことを思い出す。
ずっと記憶にある思い出。
あの月を見たときは、犬と会話ができていたような気がしている。
意思の疎通ではなくて、おもいをひとつにするとか、そういう感じの。
もういない。
FeliCaははじめに掴んだJRという太客のおかげで目先の国内市場は安定して先行技術を確立して目先の安定成長が約束された。
ただ、JRの要求仕様が高すぎて海外向けの横展開が上手くいかず、国内とごくわずかの海外展開だけでシェア拡大は頭打ちとなった。
i-mode時代から始まるキャリア主導の世界に類を見ない高機能携帯で技術的に先行したが、キャリアの御用聞きで目先の成長が達成できたため、そこに特化しすぎて海外展開の足枷となった。
どちらも、なまじっか先行して優れたモノを生み出せてしまったが故に、それをそのまま海外展開しようとして失敗し、その失敗を補うために更に国内市場偏重に陥り、その後の市場の変化に対応できなかった。
病院職員をしています。この仕事をして約5年が経ちました。ベテランとは程遠いものの、新人とは言いにくくなってきました。
中くらいの規模の病院です。様々な患者を見てきました。そこで得た経験知があって、それは、多様性叫ばれる令和になっても尚、良好な関係性の血縁が最強ということです。
社会の一員として、社会システムの利益を享受しまともな生活がしたいのなら、絶対に結婚したほうがいいし、せめて親や兄弟は近くにいるほうがいいです。
ちょっと前に流行った、『置かれた場所で咲きなさい』というのはとても真理ですね。あれは、植物のように、生まれついた場所で交配しなさいという意味だったようです。違うか。
まず病院は、入院してきた人が単身独居の時点で、「うわぁ…」となります。そんな人珍しくないでしょって思いますよね。いえ、そこそこ珍しいです。感覚だと10%ないくらい。
そういう人の援助のため働く人(ソーシャルワーカーとか)がいる、と考える人もいると思うけど、その場面で必要な援助って、家族以外誰もできません。例えば急に入院したけど現金を持ってないとか、着替えがないとか。実際に困るのってそういうところです。当たり前ですが、基本的に病院には最低限の衣食住しかないです。鍵を預かって家に入って荷物を取りに行ける人は、病院職員には一人もいません。そりゃそうだ、と思う人は常識人です。お願いすれば、病院の人がやってくれるって思ってる人は結構多いです。
確かに療養生活で起きた日常的な困りごとはソーシャルワーカーさんの領分ではありますが、彼らが初動でできるのはせいぜい関係機関への働きかけくらいです。主に役所系。このへんはイメージされている通り、めっちゃ動きが遅いです。
入院している時点で、すぐには自分の身の回りのことは自由にできないです。病棟によっては携帯電話の使用も制限されます。緊急であれば連絡手段がない状態で来てしまうこともありますが、携帯を持って来てくれる人はいません。公衆電話はあるから完全に通信が制限されてる状態ではないですが、公衆電話を使うにはお金がいります。そのお金は誰が?
親も兄弟も疎遠なので恋人に連絡してほしい、と職員に頼んでくる人がいます。
そんな重要な相手がいるなら籍を入れておいてほしかったです。だって家族じゃないとこちらは簡単には連絡できないもん。疎遠でも、血縁者への連絡が優先されます。
家族じゃない人に患者の個人情報を電話で話すのは、本人が想像している以上にハードルが高いです。私がいいって言ってるんだからいいでしょって訳にはいかないです。こっちは安い給料で、よく知らない患者と自分の身を守りながら慎重に動いているので。
家族じゃなきゃダメなんて今の時代に合わない、病院は遅れてるって思っていた頃もありました。でも今は、動きの遅い行政機関の気持ちの方が理解できます。だってこの国の人間の第一責任者は家族です。家族以外の他人の介入は慎重にならないといけないです。そこで生じたトラブルの責任を負える程の給料は誰ももらってないので。
一人で生きるって思っている方。
何か困ったことがあれば、然るべき職業の人が助けてくれるって思ってる方。
確かに生き方は自由だし、社会システムは整っているのでどこかに繋がれば見殺しにはされないです。なんとかなります。
でも助けてくれる人は、最低限、仕事で助けるだけというのは理解しておいてほしいです。
枠組みの中でしか動けないし、組織の端くれが何か決断できることはありません。判断には時間がかかります。書面のやり取りも必要です。どこか画一的なのは仕方ないです。
思ったように動いてもらえなくて怒る人に、口先では謝ることもありますが、腹の底ではそれがお前の生き方の結果だよ、って思ってます。無責任な生き方だと思ってます。仕事だから投げ出したりはしないけど、トラブルを避けるためにより慎重になり、もっと動きは遅くなっていきます。
なので主題。
リングとか岩井俊二とかが流行るのがわかるほど暗い社会だったし、
ウシジマくんの世界に転げ落ちそうな危なっかしい人たくさん居た。
97-99年ごろとか、流行ってた洋服、イケてる人ほど黒・白・グレー!だった。
静かに暗かった。もしくは薬でラリってた。おっさんの自己中さとモラハラ加減がすごかった。
多分俺今のあのおっさんよりも遥かに給料もらってるけど、それ知ったらどんな顔するかな。
世の中に出てる情報が少なすぎて雑誌と噂話ベースがメイン。科学的裏付けがなくて誰も信じないようなものもすぐに持て囃されてた。今表に出てるものはアングラの情報レベルだった。
そんな世界だから悲しくなっちゃったり街を彷徨っちゃったりする若者多数。
そして100円ショップなんてほぼないから今100円で売ってるようなものに1000円とか5000円とか払いながら手に入れてた。情報と金がなければ自由もなくてただただ檻の中にいるような時代だった。
多重派遣プログラマを20年以上やっていた就職氷河期高卒増田が出会ってきたパワハラ上司、パワハラ顧客たちの記憶。全部昔の話。
増田が結婚した時のこと、新婚旅行で1週間休むと伝えたら「派遣社員なのに結婚するんだ?」と高笑いした某銀行システム部の50代社員。
そうなんすよーと答えつつ、ホントにこういう奴っているんだ!と感動した。
タクシーで帰ることが認められていた。
プロパーのリーダーは毎日15時すぎに出勤して24時にタクシーで帰るのである。
私は朝9時に来て、毎日21時~終電あたりで帰っていたが、タクシー男、自分より早く若者が帰るのが気に入らない。
ある日嫌がらせで、後に聞いた話だと「あいつは絶対出来ない」と他者に語っていた課題を渡された。
アホくさいのでその後は毎日昼すぎに出勤してタクシーで帰る生活にした。労働時間はさほど変わらなかったが何も言われなくなった。
ゴルフ経験者増田。若手の時は手取りが17万円なのに、参加費が4万円(名門コースのプレー代込)かかる年2回の自社ゴルフコンペにしつこく誘われた。
出向先に総務部長、常務、社長から電話がかかってきて、最終的にはゴルフをやれるほど給料貰っていないと言ったが、1度、老いた会長のキャディをやらされつつ回ることになった。
その日のコンペの準備も当然全部若手増田。楽しさなど微塵もない。苦行。
現場に入った直後、いきなり仕様書を渡され今週中にやれとだけ言われ、他は何も教えてくれない。
今であれば開発環境、システムの概要など現場に入ってまず何を見れば良いか解るが。
まず何をどうしたら良いかを尋ねるとブチギレ。他の社員に助けられる。
「田舎に帰って頭の使わなくていい缶詰工場で働け。業界にいたら迷惑だ」
強く叱責された後、地下鉄の電車に飛び込みそうになる自分が居た。
その10年後、別な現場の上司(プロパー会社の社員として転籍していた)として缶詰男が登場。
だが仏のような性格に変わっていて、当時の俺は頭がおかしかったと謝られ、2人で昼飯を食う仲に。
だがそのおかげで他人が死にかける事もある。
不具合多発のシステムの開発現場、SEを奴隷としか思っていない顧客システム部。
その中で25歳くらいの女性がいたが、まだ若手なのでシステムの知識が浅い。
顧客システム部の方針で指摘をいくつか上げなければならないのか、ドキュメントの語句のどうでも良いツッコミが多い。無駄なテストのやり直しも多数要求。そして性格が偉そうでヒステリック。周囲も止めないしわりと偉そう。
開発側にメンタルを壊される人間が現れ、一次受けのSI会社の営業が「お前が〇〇を壊したんだよ!!!」と客である姫にお前呼ばわりで超ブチギレ。
というPJの端に目立たないようにして座っていた。
リモートワークになった時、自堕落な増田が働いているのか、下手すると1時間おきに起きてます?働いてます?と聞いてくる年下現場リーダーがいた。
全く失礼なやつだが、わりと寝てたし、仕事してるときもアニメ見ながらプログラム書いてた。ごめんな。
これも20年前の話。
某巨大システムの現場の打ち上げ、1次会は普通に居酒屋だったが、二次会に連れて行かれたのがPMの大好きなフィリピンパブだった。
逃げれず、自分の前についたのは20歳の若い子だった。 だが、日本に来たばかりで日本語が喋れない。増田はコミュ障で喋れない上に英語が喋れない。今みたいに携帯で翻訳も出来ない。
次に行くぞ!の号令が聞こえた時に逃げ帰ってきた。
ちなみに支払いは大手SIの会社の若手が入社時に貴族カードを持たされていて巨額の支払いが来たと言っていた。
銀行システム部に出向(立場上は銀行員側になる)した際、海外の支店のシステム担当と毎日英語でやりとりをしなくてはならなくなった。
私は英語だけは本当に出来ないと伝えていて、出向する際はプロパーの営業から英語以外の仕事で大丈夫と聞いていたのだが、現場のリーダーにその事を伝えてみると、「そんなの(英語を使わないのなんて)許されないですよ」と笑顔で即答された。詐欺だ。
プロパーの営業に文句を言うと、ごめんね。じゃあがんばって。との返信。詐欺だ。
翻訳サイトを使い、泣きながら英語で文章を書いたが、高学歴の銀行員に文法の怪しい英語を嘲笑されつつ英語のメールを描き続けた。
とある現場の大手SI企業の40代後半リーダー、金曜日は早く帰って沖縄に発ち、月曜日の早朝に東京に戻って来る生活をしていて、月曜日は毎週のように雪塩ちんすこうをくれるのである。雪塩ちんすこうすき。
プロジェクトが終わった時には増田、韓国人中国人の部下達へ、南青山の高級フレンチで自腹で奢ってくれたりした。
人生楽しそうな人であった。仕事の振られる量も的確で嫌な空気になったことも無く、ほどほどの緊張感もある良い現場だった。
自腹で奢るのが良いという話では無い。
今は派遣プログラマを卒業して起業し、全く別の業種で働いているのだが、それから何故か更に8キロ太った。おかげで高血圧。
もっと酷いことが色々あったはずなのに、辞めてから2年以上経つともう記憶があやふやだ。
どうやら喉元を通り過ぎてしまったらしい。
30代で80kg170cmの典型的なワガママBODYのオッサンなんだけど、いままでズボンの穿き方間違えてたっぽい。
視覚的な印象でいうと、服屋にサイズがないまではいかないけど、だいたい何着ても腹が目立つしズボンのベルトには腹が乗っかる。周囲からも「あの太ってる人」と認識される程度。
最近いろいろあってみるみる体重が落ちて今73kgなんだけど、目に見えて腹の引っ込んだ自分の裸体やズボン一丁の姿を鏡で見て悦に入っていると、あることに気づいた。
今までは、身体の横から見てベルトの前が少し下がるように穿いていた。腹肉がベルトに乗っていて、腰骨にベルトの荷重が一番かかっている穿き方。袴の穿き方に近いと思う。
だから常に腰パン気味になってしまうんだけど、試しにベルトが水平になるよう穿いてみた。
すると、腹筋をほんの少し突っ張って腹を前に出すとベルトに程よく食い込み、身体の全周に荷重がかかってめちゃくちゃ楽。ポケットに携帯2台と財布を入れても腰骨が痛くない。今までみたいに腰パンか上げパンのどっちかみたいな高さにもならず、ちょうどよくズボンのシルエット本来の場所で穿ける。
体重が減ったからとウキウキでユニクロでジャストサイズで買ったスリムフィットチノも、なんだかお尻周りがぷっくらして「まだまだ痩せ足りないんだな……」と見た目良く穿きこなせるのは先だと思っていた。でもこの穿き方にしたらお尻周りもすっきりして見えるよー!!!!
上半身も、今まではTシャツやシャツを着たときお尻や腹のシルエットが目立ってたのが、ズボンの正しいシルエットに支えられてか上半身まですっきりして見えてくる!!!
振り込め詐欺の電話は、自宅の固定電話にかかってくることが多いらしい。
こうした事実から、市町村では録音機能付きの電話機を提供するなどの対策をとっているらしい。
鞄とか一切携帯せず、どっかの役所かなんかに提出するっぽい封筒入り書類(なんか役所っぽい名前が印字されていた)とレッドブルとチョコスナックを手に持っていてさ、財布とかは全部ズボンのポケットに押し込んでいた。
そういうスタイル何だろうと思うし顔もけっこうイケてる系で良い感じだったんだけど、チョコスナック食べようとしたらレッドブル持ってる方の手が疎かになったのか盛大にこぼして、なんかバツが悪そうにしてるけど拭くわけでもなく(そもそも拭くものを持っていないんだろう)、なんなら封筒にも(恐らく中の書類にも)まあまあ盛大にレッドブルがかかっており、無駄なものを携帯しない系ファッションボーイとしてはプライドが許さないのかもしれないが、やっぱ書類は鞄に入れた方がええで、とオバサンは生暖かい目で見ちゃったね。
よく作るんですか?豚の生姜焼き。そうですね、頻出メニュートップ3に入りますね。わかります、残ったらお弁当とかに詰めてもちょうどいいですもんね。あ、お弁当派ですか?いや~作りたいなとは思って、お弁当箱買ったりレシピサイト見たりしているんですけど、ついつい外食になっちゃいますね。わかります、お弁当作ったり一人分の食事をあるものでぱぱっと作ったりって慣れないと難しいですよね、忙しいとつい習慣にできなくって。最近はお仕事がお忙しいんですか?繁忙期がある業種なんですよ、春先が一番でその後は徐々に落ち着いてきます。私も春は引き継ぎとかでバタバタするんですけど、一年を通じてそれほどムラはないですね。今の会社は転職して4年目なんですが、最近はジム通いもできるようになりました。いいですね、適度な運動って大切ですよね。私はヨガに通っています。ヨガって難しくないんですか?体が柔らかくないとできないイメージがあって。そんなことないですよ、死んだ犬のポーズとか、面白い名前の型があるのでやってて楽しいです。死んだ犬!すごいですね。あ、僕実家で犬を飼ってるんですけど、ペット飼いたいなって思うことありますか?動物好きなのでいつかは飼いたいんですけど、東京だとなかなか飼える物件がないじゃないですか。あとちょっと喘息気味なのでアレルギーが心配で。物件探しは難しいですよね、ペット飼うこと考えると戸建てのがいいかなって思いが頭をよぎりますよね。実は私生まれてからずっとマンション暮らしばっかりで、戸建てって住んだことないんです。もしかして転勤が多いお家だったとか?そうなんです、父の仕事の都合で3年おきくらいに引っ越しをしてて。逆に私は地元しか住んだことしかないんです。社会人になってからは実家は出たんですが、それでも電車一本で帰れるような距離なので、全国に住まれた経験があるのって憧れます。いやー引っ越し大変ですよ、子供の頃はやっぱり転校が嫌で仕方なかったし。確かに友達と離れるのは子供にとってはつらいですよね、今みたいに携帯ですぐ連絡とれるわけじゃないですしね。あでも今でも福岡と新潟には仲のいい友達がいるのでたまーに旅行に行ってあったり、東京に来てくれたときにご飯に行ったりしてます。この間スカイツリーに登っちゃいました。スカイツリー!毎日のように見てますけど、登ったことないですね。そういう機会がないとなかなか中入ろうって思えないですもんね。都内あたりだと他にどんなところにお出かけされますか?散歩が好きなのでただ歩くだけで楽しい街によく行きますね。谷根千とか、西荻とか。時間のある日は鎌倉まで行ってみたり。アクティブなんですね!楽しそうで羨ましいです。お出かけはあまりされないんですか?山と温泉が好きなので、一人で弾丸旅行に行くことはあるんですけど、都内を歩いたりはあまりしてなくって。お店とかもぜんぜん知らないんです。一人で入りやすいカフェとかのおすすめありますか?うーん、甘いものお好きですか?お酒は?銀座にお酒と締めのかき氷が美味しいお店があって、早い時間だと雰囲気もカフェみたいで行きやすいんですよ。
本当それ!本当そう思うよ!!あんなんずっとやってたら病むわ!!!世の中のスーパーやショッピングモールの店員さんしかり携帯ショップしかり、営業職ってのはこの世に溢れてるなあとは思うけど...合う仕事探すのって大変だよね
元増田です、きみの好きに思ってくれていいよ!
ちなみに他10年前とは書いたけど実際は15年前くらいなのでスマホじゃなくて携帯電話が主流だったし(だから携帯と書いている)、帰って来ないのに携帯を処分する理由がそもそもない、というのは書いておく。
時折、ふと思い立ってPCの画像を見返してると大きさ240x320の画像群がずらりと並んだフォルダを見つけて開いてみたら自作のアナログ絵をブツ撮りした画像が並んでて羞恥に塗れたリア厨時代の痛々しいネト活の記憶が光の速度でAMSから逆流するように蘇り心臓バクバクさせながらフクロテナガザルのケイジくんみたいな奇声を上げてイキュラスキュオライキュラスキュオラキュラスキュオラ!することってあるじゃないですか。ありますよね。あるんですよ。
私も昨日、昔撮ったきゃわいいきゃわいい飼い猫の写真を久々に見ようかと古い順に画像をソートしたら見ちゃいましてね……中学生の時に愛していた絵師様に向けて描いたキモすぎるラブレター的なアレとかアレとかアレとかをさ。
もうサムネ見た瞬間ビクッとなったんですけど、じゃあはよ消せよって話なんですけど、そんなんでも色々思い出が詰まってるんですよね。キモさの中にも美しさがある、痛さの中にも気持ちよさがある、親しき中にもレズがあり、みたいな。
そんな中学時代の汚らしくも輝かしい青春の記憶を今、絶妙に嘘松を交えながら赤裸々にここに綴る。
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私が絵を描き始めたのはそれこそ物心ついたときからで、母に聞かされた話によると同じ保育園に通ってたお隣の子が上手なおジャ魔女どれみの絵を描いて私に自慢しに来たのが始まりらしく、対抗心を燃やした私は連日おジャ魔女どれみを描きまくっていたらしい。その傾向は小学生になっても変わらず学校の休み時間はひたすら自由帳に絵を描き、帰宅しても夜まで絵を描き、休日は画用紙と絵の具を使ってカラー絵を描くという毎日を送っていた。
そして小学3~4年頃に美術館で観たアンドリュー・ワイエス展に衝撃を受け西洋美術に関心を持つようになり、本格的に勉強したいと思うようになるのだけど…。
5年生になった頃には私の身長は170cmを超え、親にも親戚にも「アンタそんな立派な体してるんだから何か運動したら」と事あるごとに言われるようになり、当人らは特に他意無く適当にそう言ってたんだろうけど、言い返せない、断れない性格の私にはその一言が重くのしかかり、渋々陸上部に入部する。
さすがに身長の高さゆえか男子女子問わずほとんどの部員より足が速かったためそれなりに記録を残すことができ充実感もあったのだけど、やっぱり勉強以外の時間は絵を描きたいし、特に休日に大会があるときなんかは切実に辞めたいと思った。でも親は陸上頑張ってて偉いね、なんて言うもんだから。別に親は悪くないんですけど。
そんな調子で2年間を過ごし、卒業まであと3ヶ月という頃にはすっかり絵を描くこともなくなってこの世で一番アンドリュー・ワイエスから縁遠そうな、カリカリに日焼けした野暮ったい私がそこにいた。そして中学進学に向けて色々と準備をするなか親に渡された携帯電話、これが私の人生を良くも悪くも大きく変えてくれたのだった。
当時インターネットなんて全くわからなかった私は、漫画誌に載ってたフォレストページの小さな特集を頼りに、検索でたどり着いたイラストサイトのリンクやランキングサイト経由でその手のサイトを読み漁っていた。そういえば私絵描くの好きだったなとか思いながら。そして、ある絵描きさんの作品に一目惚れし、その方のサイトの掲示板に初カキコ…ども…してしまう。そのHPは0zeroというドメインで、一番画像を綺麗に貼れるとかで絵描きに好まれていたとかなんとか。
コピックエアブラシで描かれた色鮮やかな夕焼けと少女、油絵の具の力強いマチエールの上に描かれた少女、鉛筆で描かれた量感溢れる少女の裸体、どれも本当に素晴らしかった。何で全部少女の絵なんだろ?と思ったけど。
もう一生懸命考えて思いつく限りの称賛を書いた長文を投稿した瞬間からドキドキですよ。もう興奮で夕飯も喉を通らない有様でF5アタックみたいに更新しまくってひたすら返信を待ち続けたのだけど、最初に貰ったのは社交辞令的な一行返信だった。がっかり…。が、後日めげずにこの絵はどんな方法で描いたんですか?それってどんな画材ですかなんて引き続き書いてみると丁寧にコメント返してくれて、油絵の具ってそんなに高いんですか!?私のお小遣い月1000円だからとてもじゃないけど手が出ませんね、なんて言ってみると「あなた何歳?」って。んで11歳です、と。すると、「じゃあ私の持ってる絵の具あげるよ、今度会お?」と言われて。
しばらく固まった。どう返信していいかわからなかった。それで母親にそのことを相談したら最初は「馬鹿な子だねそんな知らない人とやり取りして」そう怒られたけどどうしても油絵の具が欲しくて、最終的に私書箱経由で絵師さんが電話番号を教えてくれて、絵師さんと母が直接電話をし、母同伴で絵師さんと会うことが決まった。そんときリアルにジャンプしてガッツーズしましたよ。
そして絵師さんは隣府県に住むとても礼儀正しい芸大1年のお姉さんで、母としては好印象だったらしい。実際、母も当日たくさんお土産渡されて即堕ちしてたし。
春休みを迎える頃には私はすっかりお姉さんのサイトに入り浸り、連日絵を投稿しては色々アドバイスしてもらったりキャピキャピ雑談して大学生の世界を教えてもらったりと楽しい日々を送っており、さらにはお姉さんの通う芸大の卒展に連れて行ってもらったりして私はすっかり美術の世界に舞い戻り、既にお姉さんのことが好きになっていた。本当にお姉ちゃんが出来たみたいだった。そして両親に東京の美大に行きたいと言ったらすげえイヤな顔された。そりゃ確かに、費用がね…。
そして中学最初の夏休み、一緒に宿題を片付けて合間に絵を教えてもらうという名目でお姉さん宅に長期のお泊りをすることになるのだが、これがあかんかった。まああかんかったよ。
隣府県の郊外にある2Kのアパート、そこがお姉さんの住処であり創作の現場だった。部屋中に飾られた素描や水彩画、見たこともない大きなカルトン、イーゼルに立てられた描きかけのよくわからないけどかっこいいのはわかる油絵、全部を束ねればお姉さんの腰くらいになりそうな大量の絵筆と少しだけ錆びついたナイフが並んだテーブルに乱雑に置かれた混沌色に染まったパレット。そして棚に並べられた大量の本とCD。
やべ、カッコよすぎて漏らしそう。でも同時にいつもどおりの田舎臭いガキ臭い格好をしてこの部屋に足を踏み入れた自分が凄く恥ずかしくなった。
ただ、テーブルの上に飾られた「スーパードルフィー」なる人形だけは正直キモイと思ってしまった。学生服を着た二体の少女人形がお互い腰に手を回して座りポースを取っているのだが、その光景に何か変態的なものを感じたというかのちに私の勘は完全に正しかったのだと判明する。
うん、確かに宿題はすごい勢いで片付くし、特に苦手な数学は私が完全に理解するまで根気強く教えてくれて本当にありがたいし、絵は美大予備校でやるレベルのことを丁寧に惜しみなく教えてくれる。家事も一緒にやって料理もそのときにちょっとだけ覚えたし、お姉さんが影響されたっていうオノ・ナツメの漫画とかミギーのイラストとか、他にもボナールとかセザンヌとかいろんな画家の画集を見せてくれてカッケー洋楽を教えてくれたり一緒にビデオを借りに行って映画もたくさん見せてくれるという、いたれりつくせりの家庭教師っぷり。おお、私の田舎臭が浄化されていく…。
ただね、この人近いんすよ、距離が…。
ちゃぶ台に座って宿題やってるときはお互いの肩が密着するくらいくっついて耳に息がかかるくらいの距離で喋り、計算間違いしたり誤字ったりすると足裏をくすぐってきたり、考え込んでると腰に手を回して太ももを撫でてきたり、絵を描いてるときはまたも背中にピッタリ身体を押し付けて色々助言しつつも肩から肘までねっとり撫で下ろしたりしてきて、上手に描き終わったときは思い切り後ろから抱きしめて私を褒めながら脇腹をくすぐってきたりして、とにかくボディタッチが激しい。
で、私がくすぐったがるとお姉さんもケラケラ笑って冗談っぽい雰囲気になるので正直イヤなんだけど拒否しずらいというか私もちょっとくすぐり返したりしてるうちにお互い距離感も縮まり、遠慮がなくなってきてタメ口で喋れるようになったのもあっていつの間にかすっかりお姉さんのボディタッチを受け入れてたんですよね…。
そうこうしてるうちに2週間が過ぎ、翌日は待ちに待ったコミケに連れてってくれるというのでもう我は有頂天である。私はね、去年から流行ってたボカロが気になって気になってどうしてもCDが欲しかったのだよ。しかも事前に宿を取ってくれていて二日目も参戦できるという。そんなん友達に自慢しまくるしかないやん!!!!
その日の昼には車で東京に向けて出発し夜にはホテルにチェックインしました。
そして念願の初コミケ1日目はお姉さんのサイトに常駐している何人もの神絵師さんと会場で初対面し手描きイラストを沢山プレゼントしてもらい号泣しちゃったり、(特にSAINTさんという鳥居、紅葉、月夜と和服の女性をモチーフに厚塗りリアルタッチの作品を描いてる絵師さんが好きで、その人に貰った絵はその日一日中眺めてました。しかもクソイケメンだった)35度の炎天下で水分補給を怠った結果熱中症でゲロ吐いてぶっ倒れたりと惨憺たる有様でしたが、二日目には「ねんがんのSupercellのCDをてにいれたぞ!」したり恥ずかしながら寄せ書きコーナーでミクを描かせてもらったりと最高の一日になった…はずでした。その夜の出来事を除けば。
結果的に言うとその日の夜お姉さんに犯された。ホテルでシャワー浴びてるときにお姉さんが風呂に突撃してきて、私の身体を洗いながら今までにない冗談抜きのマジ顔で全身くすぐりまくってきて、特に脇腹と胸を執拗に愛撫されてイかされた。抑えきれない全身の痙攣に襲われ貧血でぶっ倒れたときみたいな状態になって何の抵抗も出来なくなったらベッドに連れてかれて体感的には一晩中乳首いじられながらクンニされて涙流しながら喉が枯れるほど叫んで何度も何度もイかされ続けた。ちなみにそのときの私は性的欲求なんて皆無だったしオナニーすらしたこともない。そりゃ12歳だしね。
そして帰りの車で初めて会ったときから私を性的な対象として見ていた、卒展で再開したときには実行するかはともかくこの計画を立てていた、そしてこの夏に私の日焼けした肌を見て、直接触ってみて欲求を抑えきれなくなったとの供述をし始めた。曰く私はくすぐりに対しての反応が非常によく、沢山くすぐって何度も乳首にタッチした日は洗濯物に出した私のパンツにしっかりヌルヌルしたものが付着していたので、着実に性感開発されててこれはいけると確信したと。
帰路はずっと涙が止まらなくて、でもお姉さんは自分は今で言うとこの性的マイノリティだとか言いつつ潜在的に君はレズだからこの経験は後に良いものになる、私のこともホントは嫌いじゃないはずとかぬかしやがってさ…。確かにまだ嫌いではないよバカ野郎。お前にされたことが予想外かつショックすぎて泣いてるだけだよ。んで家に帰ったらもっかい同じことするから嫌なら蹴るなり殴るなり親や警察に通報すればいいとか言い出しやがって。
で、その日の夜またお姉さんに風呂で全身くすぐられて乳首いじられながら玩具使いつつクンニされまくってイきまくった。俺は今度こそ限界だと思った。その頃にはマジで気持ちよくて、ていうか他人に逆らうのが苦手な気質のせいかお姉さんに反抗する気持ちが湧かなくなってたので。
その日以来、私はしばらくネットを止めてお姉さんとの連絡も断っていたのだけど疲れからか不幸にもお姉さんのサイトにアクセスし私書箱から久々の連絡をしてしまう。私もうすぐ冬休みです、と。
そしてサイトの掲示板ではクリスマスに皆でパーティーしようかという話にいつの間にかなってて、新しくサイトの一員になった秋間(かずひさんだっけ?もう名前忘れたごめん)さんというパステル画の達人も加わり互いの絵を持ち寄って見せ合おうという話になる。
大阪のカラオケボックスに集結したお姉さんに一生さんとかSAINTさんとか秋間さんとか特定されないよう他1名と記すけど5人の美大芸大ガチうま絵師さんたちの生イラストを観て立ち直らねば、あの日覚えた行為の名をググって知って自慰行為も知っちゃったけどやっぱ真剣に絵を描かねばという気持ちになるわけですけど、解散後にまたお姉さんに誘われていつものアレをされて、もう全部が台無しよ。
そして図々しくも来年の夏休みもまた一緒に過ごそ?とか言われて。まあ結局そうなるわけですけど。
でも翌年の夏休みは他の絵師さんにも事前に連絡を取り付けてお姉さんの住所を教えてたおかげで日中はセクハラされず夜限定になったわけですけど。そして夜にはお姉さんの所有する大人の玩具がつよつよすぎてまた屈してしまうというかそれ耐えるの絶対無理ってなって中2のときは毎週のように逢って電マの威力に屈服させられたりしてたわけですけどさすがにお姉さんも4年になると私を相手してる余裕が無くなったらしく卒業と就職の準備に時間を割き始めて私はお姉さんより3歳年上のSAINTさんと蜜月になって、彼は愛知住みだけど何度かデートしてたらお姉さんの耳にその情報が入ってしまい、また自宅に呼び出される。
SAINTさんは紳士すぎて何もしてくれないので久しぶりのお姉さんの責めに期待してたら駅前で対面即泣かれて、よくよくその理由を聞いてみたら「あなたホントは私のこと好きなのに男と付き合ってどうすんの思春期の一時の感情に惑わされないで絶対後悔するよそれはそうとしてまたあのときの快感を思い出させてあげる」とか言われてお姉さん宅連れて行かれたわけですけど、連れ込まれた先はいつものあの部屋とは思えない綺麗に片付いた状態で「私は来年東京に就職に行くけど貴方は来れないよね」なんて言われてまた泣きつかれて。親には聞いてないけど多分無理でしょと答えたら今までにない本当にあたたかい感触でギュッと抱きしめられて「好きだよ…」と言われた。今だから言えるけど私もお姉さんのことが部分的には嫌だったけどやっぱり大好きだった。そしてもう今までのように会えないんだなって、その時悟って泣いた。
でもお姉さんに教わったことはずっと忘れないし、私は必ず絵の道に進むしそのとき必ずまた会えるよって言ったらお姉さんはコミケ帰りの私みたいにぎゃあぎゃあ泣き喚いてて、その姿が可愛くてギュッと彼女を抱きしめた。これが私達には一番心強くて、私達の絆を感じる行為だってわかってたから。そして携帯を取り出してお姉さんのサイトを開いて「私はいつもここにいるから、寂しくないよ、みんな一緒だよ」って。
その日はお姉さん家に泊まってずっと抱き合って一緒のベッドの上で寝てた。SAINTさんとの浮気をチクチク糾弾されながら。
その後、私が3度目の夏を迎えた頃にはお姉さんのサイトはすっかり過疎っていて、連絡しても一月に一回程度、たまに返してくれるくらいの頻度になり、絵を描きつつもバンド活動にハマってお姉さんにそのことを報告しようとしたら去年東京で結婚したとの書き込みを期に更新が途絶えていて。私もこのサイトのことは忘れよう、あの頃のことは忘れようとなってtwitterやpixivに活動の場を移すうち、いつの間にかお姉さんのHPは(0zeroからecacoへとドメインを変えて必死に延命していたらしいけど)サービスもろとも綺麗サッパリ無くなっていました。
単に俺が知らないだけなのかも知れねえけど、少なくとも俺は聞いたことがねえんだよなあ。
満州国とかラスト・エンペラーとかあの辺はやっぱかなりクソでさ、そういやラバウルとかの方にも大分謝らなきゃいけねえ気がするんだよ。
でもその辺を西欧諸国による侵略から救ってやったんだからトントンじゃねーかむしろお釣りが出て感謝されるぜってふんぞり返ってるようなイメージがあんだよ。
なんかニュースでも事あるごとに日本が昔「解放」した地域の人達が「ニホンジンダイスキーアリガトー」と言ってますよみたいな話が聞こえてくるのがなんか大本営発表の続きみたいだよなって。
まあゆーて謝罪半分開き直り半分でやってくしかねえのが歴史との付き合い方だってのは分かるよ。
アメリカが今更インディアンにどんなに謝っても戻せねえものが多すぎるし、侵略の象徴たる銃の携帯を正当化するのを辞めて成立させられる社会構造にするにはあと200年ぐらい必要だろうってこともな。
日本と満州の関係もそういった曖昧な道の途上なのかも知れねえ。
でもさ、なんつーかもうちょい「我が国はちゃんと謝りに行きましたよ。エライ!」ってニュースを定期的に聞きてえんだよなあ。
そこに漬け込まれそうだから謝らないじゃなくて、謝った上で漬け込ませないっていうアメリカナイズされた外交的強さを持って欲しいんだな