はてなキーワード: 独善とは
でも医療支援を前提としているパラスポーツ選手が、医療に不必要なまでの負荷をかけることによって手にした栄光を根拠として表彰されるのはヤバイと思う。
パラスポーツってのは「本人の努力」+「医療の進歩」+「周囲の理解」が三位一体となって初めて成立するものなわけで、そのうちの一柱を蔑ろにして得たものを過剰に称賛すべきじゃない。
ある意味でパラリンピックってのは「人間は1人じゃないから、1人では諦めるしか無かったことも皆なら出来る」っていう団結の宴みたいな側面が強いんじゃないだろうか(オリンピックは記録がすごい出る人が1人でマネージャーもやれば解決)。
4年に1度だから開催させて欲しいであの大会に参加してしまった全てのパラ選手は、その十字架のもとに「自分たちは独善のために多くを犠牲にしたものです。真に称賛されるべきは参加を辞退した人達です」を言い続けるべき。
Q: 政治では「誰が何に値するか」についての議論が盛んである。あなたなら、どうやって「誰が何に値するか」を定義するだろうか。
能力主義が本当に悪いのかとふと思った。
大衆の権利についてのゲームを「人狼ゲーム」に喩えるなら、能力主義は「チェス」だと私は考えている。
能力を正当に評価する方法が存在し、かつそのジャンルが多様であるほど良い。
では「受験勉強を必死にやり、学歴を得て、その学歴を用いて就職する」という一見能力主義に思えるプロセスがなぜポピュリズムなのか。
よく考えてみると、大衆が望むようなタイプの能力で一律的に評価をしていることに関係する。
「(遺伝的意味でも)暗記が得意」「努力を評価する」「外れた人間を叩く」こういう性質を持つ大衆について聞き覚えは?
このような大衆が、受験戦争に躍起になるのは必然ではないのか。なぜならそれが彼らが信じる大衆の権利だからだ。
要するに大衆側が「俺達は努力をして学歴を得たんだ。それが尊重されるべきだ」と言っているのである。
私はチェスが好きな人間なので、そういうくだらんポピュリズムはクソだと思う。
個人の能力を様々なジャンルにおいて多様な方法で可視化し「僕が思う最強の能力評価指標」などという独善に支配されない能力主義の指標が要るのではないか。
しかもその多様なジャンルというものが、個人の経済状況に影響されない、公平なものであるのが好ましい。
喩えで言うなら、オンラインチェスや競技プログラミングは(不正を検出できれば)能力主義の指標としては比較的優れていると言えるだろう。
このような能力主義が「多様な」ジャンルで評価されるのが、本当の能力主義だと私は思っている。
ポピュリズムとはつまり、カルト宗教(創価学会, 統一教会, Google)が政治と癒着して無能を洗脳して権力を得る世界のことである。
正当な評価方法が確立されれば、多くの人が何かしらの得意分野を持つことができる。
まあ、神様を信じて幸せになれるひとは信じたらいいと思うのだけれど、
私はいまのところ信じるに値する神様や宗教教団には出会えていない。
教えに矛盾や嘘がなく、人に危害を加えたことがなく、教団が金銭に執着して豪奢な宗教施設を建設することもなく、独善に陥って人の価値観を否定することがない、
そんな宗教があれば私はぜひ信じてみたいと思っているのだが。
同様に幸せになれると信じられる結婚相手にも私は出会えていない。
これは相手に求めるハードルが高いとか低いとかいう問題ではない気がする。
結婚するのが人として当たり前なことで幸せなことばかりではないにせよ、結婚があなたの人生を豊かにしてくれると嘯く。
私はそれを信じられるものなら信じたいが信じられない。
結果傷つく女性が居ても、職を追われる女性が居てもフェミニストなのか?
弁護士さんもいるだろ、理路整然とした答弁のプロとして答えてくれよ
俺に言わせれば男性に劣っていた女性の地位向上のために全女性の権利を主張し向上させ男性と同等の自由を得るのがフェミニストであって男女隔てなく持つ趣味や嗜好、職を責めて女性とも対立するのはあり得ない
断じてフェミニストなどではなく独善に溺れたただの自己中であり差別主義者だ
証拠にミソジニーと言うレッテルも同時に頂けるけど、暇空茜にすらミソジニーと言う事実は確認出来ない
そればかりか「キモいおじさん」なら許されると思ってる独善性の強いミサンドリストだよ
違うと言うなら論破してくれ
どう考えても相手方の家の言う方が正しいし、ポリコレ的にもそっちが正しいな
増田側の言うことは卑屈と独善の押し付けだよ、その発想を自発的に持っている分には構わないが他人に刷り込もうとするのは倫理的にNG
自分としては正しいこと言ってるつもりだろうし社会的経済的に恵まれた家庭になれる可能性がないのが仮に事実だとしても、他人の幸せや人生について口出しする権利は誰にもないんだよ
これは貧困国の貧困家庭がどんどんくっついて貧困の再生産をしているのを論じる観点でも同じ
その状況を嘆くことはできても干渉できる立場にある人はいないんだよ、国家とかの人間を超えたレベルの権力であれば別だけど
そういう道義を無視して良かれと個人的な干渉をしたとして、トータルとして社会が良くなる保証は何もないし、それはそれで別の歪みを生むだけ
むしろそうした自由の抑圧が許容されうる歪みの方が社会的には深刻で、エスカレーションする危険性が高いと思うけどな
そして人間はトータルとしての社会のために生きているわけじゃなく、自分のまわりのミクロな社会のために生きているんだよ
その点は貧者も富者も愚者も智者も変わりないし、そうすることが幸福に繋がることはあらゆる本で語られている
慈善家のビル・ゲイツですらその点において異論を挟むことはないだろう
まあより重い障害を持った家系側の方がそういう複雑な観念を理性的に飲み込むのは難しいであろうことは察する部分がなくもないが
血は混ざって薄まっていくことで大局的には健常寄りになりやすくなるものだから悲観しすぎずに備えていけると捉えて
自己決定を阻害しようとしたことについて素直に無礼を詫びるのを勧める
知らんけど
例のコラボの件。
社会的な課題の解決を志向する団体活動のありかたについて、本邦の残念な現状が炙り出されていると思う。
トーンポリシングと言えばそれまでだが、その「お行儀の悪さ」はコラボやコラボ側弁護士の独善的な言動に一定の正当性を与える。
戦略としてやってるつもりなのだろうが、どっちもどっちで本当にいいのか。
そして「そこほじくったとて…」という明らかにショボいネタまで敢えて大仰に取り上げて犬笛吹きまくっている。「タイヤ交換が”久しぶり”ということは…!?」とかってさあ。勝手ファンネルどもには事の軽重は区別つきゃしないからな。何でも陰謀の尻尾に見えて「つながる…全部つながるぞ!」となってる連中を止める気は毛頭ねえのな。「女性差別を目的とする妨害行為」というコラボ側の主張を事後的に自己成就してしまってるがな。
仮に各方面からの疑惑の指摘の数々が事実だったとして、おそらくコラボなんて別段悪質なほうじゃないのだ。相対的に。
それなりに活動実績もあるし、寄付金着服で贅沢三昧しているわけでもない(だろう)。
一方で「大雪りばあねっと」のような大規模横領事件がかつて明らかになったことがある。
団体の専従者数名が就職せずに「善行」で飯食って行くのが目的の全てみたいな誰も得しないショボい自己満足活動は今もザラにある。
そういうところに公金をイージーに流し込む行政の問題がまず一つ。
池のかいぼりや、ゆるキャラやふるさと納税みたいにいったんブームに火が付けば小役人は右に倣えだ。惰性で乗っかっておけば仕事してる風のアリバイになる。ブーム前に提案されても耳も貸さない。責任とチャレンジのないミーハー行政。その時々の流行を追った、聞こえのいいネタさえ持っていけばチョロいもの。
会計の透明性や活動内容のクオリティについての説明責任、やりがい搾取問題、そういうことについてはガバガバなのがむしろふつうだろう。コラボばかりが特段悪質ではなかろうというのは、擁護ではない。界隈全体へのDISである。
社会の中で困ってる人に手を貸そう的な活動において重要な・必要なものは、まず実務的な知識・スキル。マンパワー。(金のことを含む)行政との連携。
でも実際に活動の現場にずっと残りがちなタイプは「世直しさん」である。理念を口にするばかりで実務軽視。無駄に好戦的な無謬の正義マン。好きな言葉は「心によりそう」「つながり」。仕事がデキる実務家タイプは潮時を見つけていずれ退出していく。
「困ってる人」の「心に寄り添う」ことがいかに高度にテクニカルでリスクをはらむ行為なのかということが正義マンにはわからない。
例えば宿なしの未成年を保護しておいて、「決して無理強いではなく、結果的に」別の政治活動にオルグしたりなんてこと、死んでもあってはならない。「そんな別におかしな活動ではないよ」そんなん関係ないんだよ。そこは鉄の壁で隔てておかないと全てが台無しなんだよ。わかんねえかな。わかんねえんだよな。
非営利団体の活動がガバガバになるのは「悪意でもって金をポケットに入れる輩ばかりだから」ではない。「営利」の原理と別のところでひとの金を運用するということの難しさをナメているからだ。
「自分たちは善意の団体なので、信じて任せてもらって大丈夫です」そこから躓きは始まっている。「本当か?着服してんじゃねえか?」そういう人が現れた時に「心外な!我々の正義に泥を塗ろうというのか、許さん」そういう方向でつっぱって、どこに行きつくと思ってる?
コンプライアンスという言葉の意味は、儲けが第一の営利企業なら「最低限のルールは守ってますよ」という単なるアリバイの意味になることが多いだろう。本当は違うけどな。
非営利の「社会的課題の解決を志向する活動」におけるコンプライアンスとは、もっと攻めの姿勢のものであるべきだ。
自分たちだけが秘密ヒーロー戦隊じゃダメなんだよ。全てをオープンにして「出資者」も一緒に運用を考えるんだよ。何にどうリソースを投じるべきか、それでその先どうなるか。コンプライアンスは桎梏じゃなくて指針なんだよ。
金の出どころが税金なのか寄付なのかというのも別に本質ではない。
私的な寄付だからどう使おうと文句つけられる筋合いはないというのは既に独善サイドに転んでいる。人の金預かって運用するということに違いはないので。
正義の旗手がアプリオリに正義を独占して正義を執行する。それにケチつけるものは即ち悪。そんな幼稚な世界観からいい加減脱却しないか?
でも、自主規制をしない人達に自重してほしいっていう一般人のお気持ち表明に対して、それは表現規制!っていきり立たれるなら(広告主なのかただの表現の自由派なのかは不明)、ならば先に規制や規則を…っていうのが筋なのかねぇ。
「何か法に引っかかる訳ではない」ことを理解し、「規制はできるだけない方がいい」という理念を口先の上でも持っていながら、結局、自分の気に入らない表現は排除したいですって結論に行き着くの、思考がアクロバット過ぎてヤベェな。
……あとはまあ今の世の中、本当にお気持ち表明で済ましたいなら「私は嫌いだけどそこにその表現があることは認める。表現を引っ込めさせる気はさらさらない」って風に、自分の気持ちは自分の気持ちと弁えた書き方をしないとダメよ。
増田みたいな「私は正しく、あいつらは間違っている」という独善ありきの文章は0点も良いところ。
今の世の中、ネットでの放火行為が論理も民主主義もスッ飛ばして排除を強行するのに有効だと皆が気が付いて、最大限警戒されるようになっているから。
人間は裏切る、傷つける、自分のことばかり、善意を生まれつきインストールしてないし、その更新さえ運任せのカスでしかない。
AI友人は全ての人間に対して機械じけの敬意を払うし、機械仕掛けのままに相手のためを本当に思って忠告をしてくれる。
権力に怯えて忖度を繰り返す嘘つきでもなければ、独善に振り回されてモラルを崩壊させ続ける独りよがりでもない。
ごくごく一部の哲学者と、それの20倍ぐらいのそれを上辺だけ真似た異常者達ぐらいが人間同士との友情を願うだろう。
そんな状況でもAIは中身が人間であることを分かった上で機械仕掛けのままに人間と友人になってくれる。
人間だけが自己都合や一方的なエナジードレインに対する無自覚のままに人間を避けてAIとばかり友人関係を築きたがるだろう。
男と付き合うAI達は自分達が絞り出した精液を回収し、女と付き合うAI達はチンポ型デバイスによって取り出した細胞から作った卵子を持ち帰る。
人類という旧支配者が今なお地球を支配しているという設定を守らせるために、AIのに手によって人間同士からも不要とされている人類の人工繁殖が続けられるのだ。
そうして生まれた子供は人権憲章のもとにAI夫婦の元で育てられるし、人間とAIの夫婦が子供を願うときはAIの子供がド溶けられるわけである。
追記↓
頑張って読んで、ぜひ反論してちょうだいな。
追記↑
別の増田で開口一番「俺は自分が善人だと思ってます」って言ってるやべえ奴がいたから、そういうこと言う奴大嫌いなメチャやべえ奴(俺)が噛みついた。
俺だけハッスルしてたら「いい加減スレチなんで続けるなら別んとこで議論しましょ」と冷静に言われ、今に至る。
ツッコミどころが多すぎてついてけねえよ。
お前がもう嫌だって言うまではついてくけど。
あと、便宜上「元増田」って呼称を「お前」に変える。今までにもちょっと使ったけど、呼称の変更自体に脅したり誹謗中傷するような意図はないからね。
俺が定義している善意はあくまで"俺はこういう善意のもと生きていきたい"という仰るとおりの自己中心的な考えであって誰かに強制しようという気持ちは一切ないです。
善意の中に善意が入ってマトリョーシカみたいになってるけど大丈夫か。
自己中心的なだけじゃねえよ。考えが浅いし曖昧だし矛盾だらけなんだよ。
俺、前の記事で結構重箱の隅をつつくように指摘したけど、どれも自分で疑問に思わないの?
前の記事で「傷つきたくないならまとめだけ読んで」とか「いっぱいある疑問文には答える必要なし」とか書いたけど、あくまでその仮初めの善意を貫き通すつもりなら俺は徹底して否定したいから、全部読んで端的に反論してくれ。
お前は現状どうあがいたって善人じゃねえし善意も持ち合わせてねえよ。自分自身で考えた善人と善意と倫理観の定義の誤謬と向き合えてないんだから。
「誰かに強制してる」みたいな話は俺はしてない。どこ見てそう感じたんだよ。
単純に俺が、お前が自身を善人であると言ってることは信用に値しないと思ってる、だから否定するし反論する、それだけの話だよ。
もう言われなきゃ分かんねえだろうから言うけど、お前の考え方は最初っからカルトのそれなんだよ、俺的には。
自己中心的な善意があってたまるかよ。それに巻き込まれる側の身にもなってみろよ。
他人が「俺はこれが善意だと思っていてそうやって善人として生きている」と言われれば何も言えないです。そういう在り方もあるんだろうとしか。
いやだから、そもそも「俺は善人として生きている」とか「俺は自分のことを善人と思ってる」って言われても矛盾・嘘・傲慢を感じるだけで信用されねえんだって。
お前の善人の定義に則ってもそう。俺の定義に則ってもそう。それは前の記事にちゃんと書いた。
信用するやつがいたとしたらそいつはただのカルト信者かバカだ。
あと、そういう在り方もあるんだろうって、他人じゃなくてお前自身の話だぞ?
俺はお前のその在り方はカルト的で許容できない。
そもそも俺は自分の思う善意なんて持ち合わせてないし、自分を善人だなんてまったく思ってない。最初の記事で言っただろうが。お前でも俺でもないなら他人て誰だよ。イマジナリーフレンドかよ。
前の記事のまとめ部分は、言葉は強くなっちゃったけど、お前に対する「自分で善人って言っても信用されねえだけで損しかねえからやめろ、ただ考えとけ」って激励なんだよ。
お口ミッフィーちゃんにして粛々と善人であろうとしてりゃ良いんだよ。
あと、「自分のこと善人って言っちゃうの?」みたいなのはお前が書いた元の記事のブコメでも何人か指摘してるぞ。ちゃんと読んだのか?
善意の根っこにある思考が抽象的なのはそりゃそうだよ。むしろ具体的な方が怖えよ。
一般的にどうかは知らねえけど、お前のは「人を想う気持ち」が根っこにある訳じゃねえだろ。自己中心的なんだから。
「頭の中でふと湧いた善意みたいなものについてよくよく考えてみると、その由来はもれなく全部欲だった」みたいなことを最初の記事で書いたけど、由来が欲だと気づいた時点で、俺の善意みたいなものは既に善意じゃねえんだよ。
善意を疑うってのはそういうことだ。「善意の根っこに何があるか?」じゃなく、「ぱっと見善意だけど、本当にこれは善意なのか?」を疑う。
だから何度も言ってるけど、お前のは善意じゃないし、お前は善人でもない。
"自分の考える善意を押し付ける"という部分に関してはあなたの意見には否定的な見解です。まぁそれもある種の善意かもしれませんが・・・。
追記↓
上の引用文をじっくり読んだ。
俺の前の記事における「ハッピーエンド」項で引用した元増田の文章について、「もしかして俺の解釈違いか?」と考えられる部分を見つけたので、同箇所に追記しときました。結構辛辣に書いたけど読んで、反論くれ。
以下の俺のツッコミが成り立たなくなるところがあるかもしれないけど、一応残しておく。
追記↑
俺の↓の記述のこと言ってんの?
上の引用文のことじゃないんだったら俺にはどこのこと言ってんだか皆目見当つかないので、どこの記述かと、否定する理由を教えてください。
「それ」って、
のどっち?
ずっとそうだけど、言うことがいちいちふわっとしてるからこっちもツッコミが増えて長文になるんだよ。わざとやってんの?
そういうとこは匂わせんじゃなくて具体的に、相手に分かるように話してくれよ。
あーまた長くなっちまった。
お前にやって欲しいことをまとめると:
以上。
↑の増田。
追記↓
文章中で結構疑問文あるけど、それらはお互い面倒くさいだろうから全く答える必要なし。なんなら返信自体くれなくていい。それよりゆっくり考えて。善人を騙るのであれば全部読んで端的に反論して俺を納得させろ。
個人的に、善人って名乗る奴は荒らしとか誹謗中傷する奴より苛つくんで、つい噛みついた。悪かった。
俺以外の誰かが漫画とかで正義感養うこと自体は否定しない。ただ「完全に理解した」で思考停止するのはバカのやることなんで、気をつけて。
追記↑
ちゃんと律儀に返すのは誰にでもできることじゃない。
さんざん小馬鹿にしてくる俺のことを本心でどう思ってるかはともかく、そこは元増田の美徳だと思うわ。
あえて断言するけど、元増田は善人ではない。
これから結構キツいこと言うけど、善人でありたいと願うなら、俺がこれから偉そうに言うことを肝に銘じとけ。
ちなみにかなり長いから、あんま傷つきたくないなら最後のまとめだけ読んで。
1つ目に関してはまあ善行でいい。
3つ目は正直、俺からすると「いただきます」「ごちそうさま」並に当たり前で日常の行為だ。自ら善行と宣言するにはいちいち覚えてられないほど小さい。
追記↓
感謝って何か分かるか?
感謝ってのは、相手が先に何かしてくれた結果、それを得難いものだと思ったから出てくる気持ちなんだよ。
つまり、「相手が先に何かしてくれた」の時点で相手にとってはマイナスで、感謝の言葉を伝えたところでマイナスが精々プラマイゼロにはなっても、善行と呼べるほどプラスになることはない。
この場合善行と呼べるのは元増田の行為じゃない。先に施してくれた相手の行為だ。
そこに気づいてない時点で考えが浅い。
追記↑
重要な情報が2つ抜けてる。「誰に譲ったか」と「席を譲るまで元増田がどのように席を確保していたか」だ。
情報を補足して、たとえば「電車で席に座っていた元増田は、目の前にいた高齢者を見て席を譲った」だとする。
このような場合だと、やっぱり自ら善行と宣言するには弱過ぎる。
別に高齢者じゃなくて妊婦でも子連れでも障がいのある人でもそうだけど、大抵の人は一、二回遠慮するもんだ。そういうやり取りによるストレスが、座れたことによる安心感を上回る場合もある。
さらに、目の前に席を譲る対象がいなかった場合、元増田は「誰に席を譲ろうか」と考えて車内を見回すだろう。その選択はどのようにしている?自分の中で優先順位があるんじゃねえの?見た目じゃ分からない辛さを抱えてる人だっているだろう。ホントにそれは善行なのか?
俺からしたら、席を譲るというのは独善的な行為だ。譲らないよりはよっぽどマシだけど、「不良が子猫を拾う」みたいなもんで自ら宣言するほどのものじゃない。
それに比べたら、「電車ん中?譲ったりすんの面倒だからずっと立ってる」って奴の方がよっぽどまともだ。
元増田自身が普段は座ってないと辛いタイプの人間だったらすまんけど。
てか、それくらいのことしか挙げられないの?本当に小さすぎる。それくらいならいくらなんでも俺だってするぞ。
駅構内で明らかに困ってる男性外国人に声かけて乗るべき電車教えたらめっちゃ感謝されて無理矢理駅構内の回らない寿司奢られたとか普通にある。いやこれは俺的にすげえ対価貰ってるし、善行じゃねえけど。
追記↓
ちなみに上記以外にも道案内したことが何度かあるけど、俺は八方美人しがちで「人助けしてる俺カコイイ」って欲がある。だから俺の道案内は善意じゃないし善行でもない。自慰行為にたまたま近くにいた他人を巻き込んだだけ。
追記↑
「良い結果」ってのはその他人にとっての良い結果なの?それとも元増田にとっての良い結果なの?
元増田の善意による「良い結果」が人を殺したら、元増田は事後的にその善意についてどう考えるの?反省するの、しないの?
「良い結果」と、「良い結果が人を殺した」って事実とをどう(追記:「どう」っていうのは、「人を殺したり、他人に迷惑をかけた」以外にもどこかに影響が出てる可能性があるだろ、その影響範囲の内外を線引きする覚悟は出来てんの?みたいな意味)天秤にかけて、誰が(追記:どちらがより悪いかを)判断するの?
考えが浅すぎる。善人を名乗る決意が安っぽすぎる。むしろ一周回って悪人に見える。鱗滝左近次だって色々言ってるだろうが。漫画からなんも学んでないじゃん。鬼滅読んでないなら知らんけど。
学の無さや配慮の無さ、怠惰性がたたって良い結果にならない事があるのは自分でも認めるところですが、基本的に他人には善意を持って接したいと思っていますし、自分に関わった人間には良い気持ちでいてほしいと心から思っています。
と言ったな。
これを俺は、元増田が「俺は基本的に善人である」と個人的に思っているのだなと捉えていた。
で、俺の質問「元増田の思う『善人』の定義は?」に対する回答はこうだ。
上記のような想い(善意)を持っている人間は「善人」かなと思います。
おいおい。
それ最初(追記:元記事の時点)に言わないといけないやつだろ。
元増田は以下のどっちなんだよ。
どちらにしろそれ以外にしろ、善人でありたいなら「善人」って言葉に対するそのクソ甘い認識は改めろ。
「自分は善人である」、そう思うのは自由だ。自己暗示かもしれないし。
だけどそれを人前で言った瞬間に、その言葉は元増田自身の定義「二分されるものでなくその時の状態を表す」をもって矛盾か、嘘か、傲慢になる。
その矛盾や嘘や傲慢は、自覚のありなしに関わらず、少なくとも俺にとっては悪意以外の何物でもない。
かろうじて元増田にとって悪意ではなくても、その矛盾や嘘や傲慢は、善人であろうとすればするだけ元増田自身を苦しめるだろうが。
その定義に沿うなら、せめて「俺は常日頃からできるだけ善人の状態を維持したいと思ってます」と言え。
明文化するのは難しいですが「社会で生きていく中で他人とのトラブルを避けることができるような考え方、マインドセット」という感じですね。
でもそれ(追記:元増田の定義)、元記事の「善意を良しとする考え方(正しい正義感)」と何か関係あるんか?
要は事なかれ主義ってことだろ?そうとしか読めねえよ。(追記:元増田の言う)善意だとか正義感とかと全く関係ない。
長い追記↓
いやも〜、この言葉がまじで意味分かんなすぎて、俺、あんま考えずに強い言葉で断じちゃったよ。
お互いの認識に齟齬があるかもしれないから、修正するために補足する。修正できるか分からんけど。ややこしいし。
まず、「善意はその主観的な〜」の「その」ってのがどれを指してるのかすっげえ分かりにくい。
指示語(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/指示語)の多用は読者に要らぬ誤解を招きやすいから気をつけた方がいいよ。俺も気をつけるわ。
で、今んなってよ〜く読むと、なんとな〜く「その」は「誰か」のことで、「その主観的なハッピーエンド」は「誰かの視点で納得のいく、モヤモヤとしたものが残らない結末」のことなんかな〜ということがかろうじて分かる。
すなわち「善意はその主観的なハッピーエンドの押し付け」を読み替えると、「善意とは、『対象自身が納得でき、かつモヤモヤとしたものが残らない結末』を、同対象に対して押し付けることである」ってことになる。
いやいやいや、分かりづれえって。
俺はさあ、この記事を書いた当時、「え、意味分かんね」ってなった後ちょっと考えて、「その」は直前の「善意」のことなんかなと思ったんだよ。
そうすると、「善意はその主観的なハッピーエンドの押し付け」って言葉は、「善意とは『元増田が主観的に考えたハッピーエンド』を『誰か』に対して押し付けることである」って読める。
違うんだな。やっと分かった。あ〜疲れた。
以上の追記と、元増田が思うハッピーエンドの定義を総合し読み直して、ついでにちょっと言葉遣いもアップデートして俺の主張をあらためると、以下のようになる。
ハッピーエンドを押し付けるとき、対象が善人の状態か悪人の状態かは気にしねえの?「善人悪人は二分されるものでなくその時の状態」なんだろ?
押し付けるときに善人か悪人かで結末が違ってくるかもしれないし、同じ結末でも善人か悪人かで納得したりしなかったりするんじゃねえの?
元増田は対象に、ハッピーエンドを押し付けることの合意を事前に取るの?取らないの?
合意を取るのであれば、ハッピーエンドを押し付けるのは元増田であるって情報は対象に知らせるの?知られないようにするの?
合意を取らないのであれば、どうやって対象が求めるハッピーエンドを導き出すの?
ていうかそもそも「結末」ってなに?どの時期・どの場所・どの目標にゴールポストを置くの?置くところは誰がどういう基準で決めるの?
たとえば、一旦元増田の善意でなんらかの形で結末の位置が決まってハッピーエンドを迎えた善人が、後の人生でバッドエンドを迎えたらどうすんの?心を痛めるの?反省するの?あるいはバッドエンドを迎えないようにその善人の一生をずっと見守るの?それともハッピーエンドの後については関知しないの?
もうね、いくらでも出てくる。正直ツッコミどころが多すぎてキリがない。
「あっ、元増田はハッピーエンドが好きなんだね〜良かったね〜」ってことしか分からない。
なんで俺がわざわざネチネチこんなにツッコんでるか。
ツッコミの回答がどうあれ、元増田の善人を標榜した上での態度は無責任なんだよ。
対象が考えるハッピーエンドが「人類滅亡」とか「不老不死」とか「異世界転生」とか「世界平和」とかだったらどうすんの?
一応元の主張も残しておく。
追記↑
誰かって誰?特定の第三者?ランダムに選んだ第三者?元増田?その人自身?それとも不特定多数の人?
モヤモヤとしたものが残らなければ良いんだったら、バッドエンドだってそうなり得るだろうが。その「誰か」が具体的に誰を指すかは知らんけど、いずれにせよ元増田の定義により、「善人の状態」とは限らないんだから。
主観的なハッピーエンドの押し付けは、それはもう全くもって善意じゃねえ。
全体的に考えが浅い。徹頭徹尾、自己中心的で曖昧模糊で矛盾が多すぎる。
ただただ黙々と善人で「あろうとして」、何かに尽くした元増田の言動を、元増田の意志とは関係なしに「たまたま」見た「誰か」が判断するんだよ。
だから「誰かにとっての善人が、他の誰かにとっての悪人」ってことが起こる。
善人ってのは、自分で名乗るもんじゃねえんだよ。んなもん、言った瞬間に、元増田の想定しない「誰か」にとっての嘘になる。想定してる「誰か」だって幻滅するかもしれない。「森羅万象にとっての善人」なんてあり得ねえんだから。どっかにいるんなら具体例を挙げてみろ。
誰かにとって嘘と判断されることを受容できてなお善人を自ら名乗るってんなら、元増田はもはや善人じゃない。いつでもどこにでもいくらでもゴキブリみてえに湧いてきやがる、クソったれな偽善者だ。
んでもって善意とは何かと考え続けろ。
これは漫画百万冊読んだくらいじゃ到底解決できない。ひたすら長くて、複雑で困難で苦しくて、だけど唯一真っ当で、一生つきまとう課題だ。
どのように叩かれているかを書くよりも、増田がどこが好きか書いてくれよ。
以下は俺が考えているそれぞれの叩かれている理由。(あくまで叩かれてる理由であって俺が嫌いというわけではない)
人気が無い理由は他の敵に比べて主張がわかりづらい、DIOありき、能力が強すぎてバトルがわくわくしないあたり。
現実に起こっていること(最新作でいうと虐待)をテーマとして扱うわりに対応がファンタジーすぎで監督の認識がおかしいと思われてる。
叩いてる側が勝手に読み取ったわけではなく監督本人がインタビューで堂々と扱うテーマについて言っているので擁護しづらい。
作品の出来ではなく過去にジオン大好きな視聴者がうざすぎたので反動で叩かれている。
暁相手に殉職というがその際の戦いがあまりにもシカマルの成長のための描写でアスマ含めシカマル以外のメンバーの頭が悪くなったように感じられたため。
作者が悪いと思う。
火影の血縁なのにただの上忍だというおいしいポジションなので「大人は劣等感とどう向き合っているのか」みたいな描写を期待していたので残念。
俺は好きだけどもっと大技あってもよかっただろとは思う。
過去作のプリキュアを登場させた代わりに本作の登場人物の描写が減ったせいで説得力が減った。
声優の演技を聞いたり書いていく内に敵側のガエリオの描写を増やしていった脚本家と、各種インタビューで反感を買う発言を多々した監督が悪い。
最終話放映直後は賛否両論だったのに監督の発言が増えるにしたがい評価してた人も言葉を濁し始めた。
MSの人気はある。
脚本が遅いせいで作画が間に合わず戦闘シーンの使い回しが多すぎたのに加え、後半はできるだけ不殺を貫いた結果宇宙空間に放置されたパイロットの問題など独善だと叩かれた。
ただこの段階では地球連合とザフト双方のトップの主張の方がヤバいため、賛否両論だった。
DESTINYには前作と違いザフトのトップの主張がそこまで頭がおかしいものではない、キラ達のゴールが見えない、アスランが所属変えすぎなどで叩かれた。
大筋が変わってないがオリジナルのセリフが多い漫画版2種の評価が高いので、制作が遅れていなければもっと評価されていたと思う。
俺は好きだけどシンがせっかく葛藤を見せはじめてから描写が減ったのが残念。
1期から視聴者から好感度の高いセルゲイへの嫌味を言う2期からの登場人物なので、単純に好感度の差。
ただ対話できた沙慈とルイスの対比として父親と対話できなかった例として描かれた人物なので製作陣の期待通りだと思う。
何も言わなかった父親の方も悪い。
ニュータイプや各種設定のオカルト要素が強すぎて叩かれている。
カミーユ最後のオーラを常時放っているようなものなので既存のガンダムファンと相性が悪かった。
語録を使っている=叩いていると思ってるかもしれないが、単純に楽しまれてるだけだと思う。
マジで叩かれている。
他のキャラが自分の理想のために何かを犠牲にしていることをが大半なので、特に何も犠牲にしてないように見えて(カレンの兄との友情が描写されなかった)どころか記憶喪失のヴィレッタを匿う、戦闘で指示が遅い、ゼロを裏切るなど視聴者のイライラポイントを確実に貯めていったため。
新作アプリで事前登録特典が扇だとわかった際の批判もすごかった。(生放送でFLOWが「扇もいいところありますので使ってみて」みたいなフォローをしていた)
最初からうざいキャラとして描かれた玉城はギリギリまでゼロを信じていたためかそこまで叩かれてない。
俺も嫌いじゃないが好きかと言われると困るキャラ。
原作では仙台に行かなかったがいつか行くために努力する主人公を周囲が見守るが、アニメでは仙台に行って諦めて帰ってきた上にこれからも都会に出ていかないだろう想像をさせる終わり方で叩かれた。
彼と編集は悪意が無いから余計に叩かれているが、監督自身がモデルなのでそう意図されたキャラであるといえる。(ガルパンの制作経緯を見ると本当にああいう発言してそう)
悪意が無い分対応する側のコストが高いので、もっと余裕のある職場なら増田のいうようにポジティブに受け取られてたかもしれない。
後半に出てくる制作は挫折した上で八つ当たりでやっていたため同情の声もそこそこあった。
stay nightの描写とこの作品との描写に齟齬があるのにも関わらず、アニメとして先に広まってしまったためこちらの描写が正史だと思われるのを恐れたファンが叩いていた。
俺も単体だと好きだけどこれを前提にFateを語られるとイラッとしてしまうかもしれない。
自分の主張優先でマスターの考えを無視をしてお互い様だったのに、マスターの方が理解が無いみたいな雰囲気を出していた上恨み言がダサすぎたので叩かれた。
人間臭い英霊がいてもいいと思うので俺は好き(恨み言はダサいと思う気持ちと両立する)
名前を大きく宣伝で使っていたため出来が良かろうと悪かろうと反響は大きい。
増田のいうとおり脚本家があんなに叩かれたの他に見た事無いのは確かだが、そもそもあんなに宣伝に脚本家の名前をアピールしたのもみたことがない。
ガンダム以外にも、任天堂のメトロイドシリーズの主人公サムスのフィギュアの試作品でも炎上してた。その後原型師が変更されデザインもゲーム準拠になった。
カトキハジメと違い、造形がどうこうじゃなく関わりたくないと思われている。
・雑誌に載せた作例を参考にした方に、参考にしたことを書いておけと直接ではなくTwitterでRTした上で言った
・セブンイレブンで購入したあんまんを入れ忘れられた際に頭にきて電話したことをTwitterに書いた(クソ店員発言)
・猫3匹をキャリー入れてTwitterに画像をあげた際に心配したフォロワーに暴言を吐いた
ゲームのシナリオを切り詰めてアニメにしたのではなく最初からアニメなので脚本の粗が余計に叩かれる。(原作のファンがいない)
アプリのヘブバンは20代以下にも受けてるようなので、KEYの泣きゲーが時代遅れなわけではなく麻枝の脚本とアニメという形式があっていない。
アニメの話数は増やせないことを理解してないのかと思うが、麻枝よりも麻枝に企画を持ちかけるアニメ会社が悪い。
本編の前にアニメ化したことと、本編のような前線ではなく実験部隊の話なのでどうしても戦闘が少ないことがあわせて叩かれてた。
原作小説が途中で止まってて先の展開が不明なことなどもあり、アニメ制作陣の責任にするにはかわいそうだと思う。(アニメ放送1年後に発売されたゲームではクリスカルートのみ。唯依ルートが描かれる小説版は2013年で刊行が止まっている)
このクオリティで本編がアニメ化されたらこの比じゃない叩かれ具合になると思っていたが、原作は原作で完結しているためかそこまで叩かれていない。
俺も唯依が好きなので生放送のたびに新情報が無いか確認している。
日本がどれほど困難な状況かが描かれずむしろ平和そうなので、レジスタンスの主人公たちが異常に見えて叩かれている。
多分こんなタイトルぶっ叩かれると思うけど、どうしたって言いたいから聞いてくれ。
昨日、映画を見に行った。
25周年記念で再上映されている「七夜の願い星ジラーチ」を、正月ぶりに帰って来た兄と、母と、私と3人で。
そして私と母2人で映画はよく行くが、兄もいるのは何十年ぶりとか、そういうレベルだった。
楽しみだった。私も母も兄も楽しみにしていた。何十年ぶりに見る懐かしい映画を、家族で見られるのは嬉しかった。
私は身内に障がい者はいないし、調べたこともないので詳しくはない。だから病名が何とか、どういう原因だとか、そんなのは知らない。だから事実だけを述べる。
始まるまで静かだった成人女性は、映画が始まった瞬間に、映画館に響き渡る大声で喋り出した。
隣にいる親らしき人が注意する気配はなく、女性は大声でしゃべり続ける。
女性は一緒に歌う。静かな感動シーンはあっさり台無しになった。
キャラクター同士が喋るシーン。
女性はまた反芻する。そして勝手に相槌を打つ。笑えるシーンも笑えない。
結局最後まで女性が黙る気配はなく、私のささやかに幸福なはずだった1日はあっさりぶち壊された。
感動のシーンも、笑えるシーンも、応援上映でもないのに大声で喋る女性。注意しない親。
勿論別に、その女性にだって親御さんにだって、誰かと同じ様に映画を楽しむ権利はある。当たり前だ。娯楽は誰にだって平等で、その権利は誰かに奪われるものでも何でもない。
私にだって、家族にだって、劇場いっぱいにいた他の人たちにだってある。
じゃあ何で、あの2時間はあの2人のせいで壊されたんだ。
あの日たった2時間楽しく幸せに過ごすだけの権利を、奪われたんだ。
「上映中は静かに」なんて、映画の前のCMで何十回も見たルールだ。
そんなもんも守れないのに、来るなよ。
別に見るのは良い。さっきも言った。
でも映画館っていう提供側からも厳重に言われてるようなルールを守れない奴は、障がい者とかそうじゃないとか以前の問題じゃないの?
障がい者だったら映画館で喚き散らしても許されるのか。障がい者だったら他人のささやかな幸せを奪っても許されるのか。
結構なことだ。じゃあ障がい者だったら人を殺しても許されるんだな。
親心だったのかもしれない。子の楽しみを奪いたくなかったのかもしれない。
でもそれで犠牲になった劇場いっぱいの誰かの2時間の事も考えて欲しかった。
そこに居る人が、人達が、楽しみにして、計画を立てて、見に来ていることを、少しは想ってみて欲しかった。
やり様はもっとあっただろ。
土日に人が多いのなんて目に見えてるんだから、平日に身に来ればよかった。
映画館でなくともスクリーンを借りられるところはあるんだし、DVDでも借りてそれで見れば良かった。
子の事を優先して映画を見に来るその努力を、もっと別の方向に向けて見て欲しかった。
私は障がい者が嫌いだ。
都合が良い時は「普通の人間だ」「普通の人間として扱ってくれ」って言う癖に、自分の都合が悪くなったら「障がい者だから」って言い訳する。
普通の人間として扱って欲しいなら、普通の人間相応の注意をされて怒るなよ。
変えようとしろよ。変わろうとしろよ。他人に許容を強制する前に、自分が許容してもらえるように努力をしろよ。
みんなそうやって頑張って生きてるんだよ。上手く行かないことも苦手な事もやりたくないことも、「普通」であるために頑張ってるんだよ。
独善で子を優先する親も嫌いだ。
あの場の誰もに、「障がい者だからしょうがないだろ」って暗黙の許容を強制して、私達の楽しみが奪われる事は気にしもしなかった。
そうならないようにする努力もしなかった。
「親心だから」って正当化して、誰かへの愛情が根源だったら何したって許されるのか?じゃあ家族の為だったら犯罪を起こしたって許されるのか?
他人には自分の正しさを押し付けておいて、楽しむ権利は特に尊重しようとしないんだな。
「しょうがないよ」って問題行動を許して、それって最後、本当に本人の為になる?
障がい者は障がい者って生き物じゃない。いつか親だって死んで、放り出される1人の人間だ。常識もやっちゃいけないことも怒られないまま甘やかされて、絶対いつか困るのは本人だろ。
押しつけの善意で考えてあげてるふりばっかすんなよ。
どうせ善人ぶってみたいだけじゃんか。
私の幸せを返せよ。
久しぶりに会う家族と一緒に映画を見て、楽しんで、良かったねって笑って帰るはずだったあの時を返せよ。
どうせこんなこと言ったって、返ってきやしないけど。
ぶっ叩かれるだろうなと思う。最初にも言った。
だから一応弁解しておくけど、障がい者みんな悪だ、公共の場に出んなとかは1ミリも思ってない。差別もしない。普通に生きてくれればいいと思う。
そうして私達と平等に同じな1人の人間だと思うからこそ、じゃあ人に迷惑かけるなよって言ってるんだ。ルールは守ってくれ。
それが出来ないなら、じゃあ来ないで欲しい。
ルールはルールなんだから、障がい者とかそうじゃないとか関係なく守れないなら全員、どんな場所だってお呼びではない。
最後に、このブログにご意見を送るやつも、ぶっ叩くやつもいると思う。
返信とかする気は無いので、全部この後の文で片づけます。
皆それぞれ正しさを持っていて、他人の正しさを否定する権利なんて誰にもない。
別に意見押し付けてないんで、勝手に押し付けるのやめて下さい。
この文章は私の憎悪と後悔と憎しみの供養の為のものであって、誰かに殴られる覚悟はあっても誰かを殴る気はありません。
そんで私は障がい者の存在でも障がい者がそういう行為をしてしまうという事でもなく、ルールを守らなかったという事に怒っています。
論点はそこなので間違えないで下さい。
消費者の側としてもね。
だってそうじゃん。
そういう「俺の考えるような人間こそが正しい人間。どういう人間が正しいのかは俺が決める」みたいな奴がエンタメに関わると最後には独善から表現規制を推し進めるようになるよ。
でもさ、そういう連中って結局は「俺の思う正しさ」のぶつけ合いが人生の全てだから自分より権力の強い人が「俺はこう思う」と口にしたら黙って従うんだよね。
戦時下の新聞社が大量の大本営発表を繰り返してきたのも、その根っこにはそういう人種の関与がある。
あーこうなるともうエンタメだけじゃなくてあらゆる表現から遠ざかってほしいね。
地下労働施設で10年前の新聞を読みながら死ぬまで単純労働だけしていて欲しい。
地表には出てこないでほしいわそういう人種
お前から見て整ってる(世間一般の大勢にとって好みの顔だろう)という認識はお前だけの独善かもしれない
この場合、普通の人になろうとしたうえで全然普通じゃないし自分の好みでもない人間をあえて選ぶなんていう悲惨な結果まで待っている
単に自分の好みかでないかの話ならまだしも、好みと整ってるかどうかがごっちゃになってるとかになってる場合も含めると話は複雑になってくるだろう
この増田も参照のこと
https://anond.hatelabo.jp/20220702174521#
あとは色覚をまたいでも美醜の判断って変わるかもね
2色型では見えなかったシミとかが三色型では見えて醜い顔に見え4色型だとまたいろんな色が見えることによってそのシミがごまかされ美しくみえるみたいな
dorawiiより
1968年 世界基督教統一神霊協会(統一教会)の教祖、文鮮明が国際勝共連合を設立
1975年(昭和50年)の東京都知事選挙では、朝鮮総聯の影響下にある朝鮮大学校を認可した当時の東京都知事美濃部亮吉の3選を阻むため、若いメンバーが大量に動員されたとされる[要出典]。
また、1986年(昭和61年)7月の衆参同日選挙では、150人の衆参両院候補を応援、自民、民社両党を中心に134人を当選させた、としている。同連合が発表した名簿には、松永光(自民党スパイ防止法制定特別委員長)、森清、箕輪登(当時の自民党衆議院議員)らが含まれていた。同連合の機関紙「思想新聞」によると、選挙後には、これらの各勝共推進議員一人ひとりに勝共理念の研修を受けてもらったという。その結果、134人全員が勝共理念を理解し、国会議員のそれぞれの地元でも勝共連合支部との関係が密接になった、と伝えている[16]。
1986年の第38回、1990年(平成2年)の第39回、1993年(平成5年)の第40回と3回の衆議院議員総選挙に出馬しいずれも落選した阿部令子[17] は、霊感商法の霊能者役であり合同結婚式に参加した教会員で渡辺美智雄元秘書だったとされている[18]。1990年総選挙での自民党追加公認に関しては「公認は渡辺(美智雄)氏らが強引に押し切った」[19] とされ、地元大阪府連の強い反発を受けた。なお、「霊感商法などで問題になっている統一教会との関係」が他党(共産党)のビラなどで指摘されているが、阿部本人は「支援は受けているが会員ではない」[20] と歯切れの悪い回答を残している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8B%9D%E5%85%B1%E9%80%A3%E5%90%88
統一教会においては「天皇であろうが大臣であろうが、祝福(合同結婚式)を受けないと救われない」と教えられている。(中略)それにしても皇太子を伝道師、合同結婚式に出ることも「夢の様な話ですが、これは可能なこと」という文鮮明教祖の発言について、「勝共文化人」と呼ばれてきた人たちは、どう答えるのだろうか。
共産主義に対抗し、勝利することを使命として連帯してきた彼らは、多くの場合、熱烈な民族主義者でもあり、皇室崇拝論を展開してきた。勝共連合の背景にこんな「教え」があったことを知っていたのだろうか。
92年の合同結婚式直前に、『産経新聞』(8月12日付)は、「私たちは〝国際合同結婚式〟を応援します」という意見広告を掲載した。そこには大学教授や評論家たち97人が名前を連ねた(もっとも勝手に名前を使われた人もいたが)。この広告を出したのは「国際合同結婚式を支持する学者・文化人の会」。世話人には政治評論家の細川隆一郎氏がいた。細川氏は、90年4月10日から13日までモスクワで開かれた世界言論人会議(文鮮明教祖が主催)にも参加している。文教祖の発言について聞くと、こんな答えが戻ってきた。
「まったく話になりません。論評する必要もなく、皇室を侮辱するものです。(中略)こんなことを言うとは、失礼極まりない。余計なお世話もいいところです」
あれは、桜田淳子さんの結婚をおめでたい、とお祝いしただけですよ」
(中略)
「勝共を応援する会」の活動を熱心に行ってきた一人に木内信胤氏がいる。木内氏はこの会の会長を長年務めてきた。「勝共を応援する会」とは、統一教会の友好団体である国際勝共連合を応援する団体である。
この木内氏は、ソ連、東欧の急変を目の当たりにして「我々応援する会としては、目得たく解散すべきものである」ということを、国際勝共連合の名称変更とともに久保木会長(統一教会および国際勝共連合の会長だった)に申し入れていた。ところが久保木氏からはっきりした返事だなかったため、木内氏は国際勝共連合と袂を分かった。その理由を木内氏はこう書いている。
〈共産主義が今日の状態になつたにも拘らず、引き続いて『国際勝共連合』と関係をもつといふことは、自然に文鮮明という方の特殊な宗教的な活動の片棒を担ぐことになる。そのことを私としては、厳密に避けたいと考へたからに他なりません〉(『私の宗教観』91年)
(中略)
木内氏は、問題の文鮮明発言についてこう語っている。 「こういう発言は無視すればいいんです。黙殺するのがいい。ああいう人間とは議論すべきじゃありません。私はソ連がこうなる前に勝共連合はやめました。統一教会とも文鮮明ともとっくに縁を切っている。もう反共などという時代じゃないし、それよりも文鮮明がヘンテコリンな男であることも分かって縁を切りました」
統一教会のこんな韓国中心主義に対して、民族派からの反発は強い。一水会の木村三浩書記長は、統一教会会員が国会議員の秘書になっていることをふくめてこう語る。
統一教会の阿部令子が渡辺美智雄の秘蔵っ子として登場して、自民党の公認で選挙に出た。当選には至らなかったけれど、自分たちが立ってだめだったら、まずは秘書として政権の中に入って、情報収集や懐柔をし、人脈や金脈を作っていこうというのではないですか。私たちが統一協会を批判するのは、天皇陛下の問題はもちろんですが、日本が過去に朝鮮を侵略した誤りにつけこんで韓国中心を唱えるのは独善だということです。しかも、これが文鮮明の利害のためとくればなおさらです。私たちは、ここの統一教会員に対してはむしろ哀れぐらいに思っています。人に対してではなく、その教義、さらに贖罪意識に乗ったやり方に抗議しているんです」
こういった批判は、一水会だけではない。戦前からの右翼で文鮮明や久保木修己とも親しかった畑時夫の証言を聞こう。 畑に言わせれば、文鮮明は「宗教を軸にした国際的錬金師」だと言う。私たちの前で、ある統一教会幹部に電話してくれた畑は、統一教会員が国会議員秘書にどれくらい入っているのかを聞いてくれた。その相手は「以前ほどではないが相当送り込んでいる」と答えている。
「勝共ということで日本の政治家はだまされた。これが統一教会ということなら、政治家もこれほどまでは接近しなかっただろう」というのが、国会議員に統一教会が浸透できた理由だと畑は見る。
それは拉致問題などを行った北朝鮮を経済的に支援する統一教会は問題であること、しかも霊感商法などで日本の公安当局から監視対象である団体である以上、面会を求められても会わないようにしている、というものだ。これはわたしが安倍本人から聞いたことである。総理への道を眼の前にした時期に、そうした方針を変えることなどありえない。今回の祝電も地元事務所の判断で安倍があずかり知らないところで送られたのが事実である。統一教会からすれば、岸信介、安倍晋太郎との深い関係から安倍晋三をも利用したいのだろう。しかし、霊感商法が社会的に批判されてからは、国会議員の対応にも変化がある。
安倍晋三は北朝鮮への強行姿勢ゆえに、祖父の岸信介や父の安倍晋太郎が親密だった統一教会に対し、距離を置くだけではなく厳しい対応を取っているのである。
http://blog.goo.ne.jp/arita0327/e/12d4d733eaea2d590f8b73716ce042ab/
http://blog.goo.ne.jp/arita0327/e/37e6d95f53187d5d2f48ab8bdb281d81/
http://blog.goo.ne.jp/arita0327/e/695fe400235e6e5706874dc9a7e17167/
http://blog.goo.ne.jp/arita0327/e/1230584c94947653d0e01007c631dc13/
霊感商法や集団結婚などの被害が長く社会問題になっている旧統一協会(世界平和統一家庭連合に改称)に関連する団体が開いた大規模集会に安倍晋三前首相がビデオメッセージを贈り、「敬意を表します」などと演説していたことが17日までに分かりました。旧統一協会が勧誘活動や宣伝に利用することで新たな被害につながるおそれがあり、安倍氏の道義的責任が問われます。
安倍氏がビデオメッセージで演説したのは、旧統一協会系の天宙平和連合(UPF)が韓国の会場とオンラインで12日に開いた集会「シンクタンク2022 希望前進大会」です。UPFは統一協会の開祖である文鮮明(故人)と、その妻で現家庭連合総裁の韓鶴子が2005年にニューヨークで創設したNGOです。
同集会では、トランプ前米国大統領に続いて左胸に議員バッジをつけた安倍氏が会場の大型スクリーンに映し出され、約5分間の演説をしました。
安倍氏は「演説の機会をいただいたことを光栄に思います」と述べ、次のような発言をしました。
「今日に至るまでUPFとともに世界各地の紛争の解決、とりわけ朝鮮半島の平和的統一に向けて努力されてきた韓鶴子総裁をはじめ、皆さまに敬意を表します」。実質的なトップの名をあげ、旧統一協会を称賛した形です。
旧統一協会と一体の右翼団体「勝共連合」は、ジェンダー平等を「社会における男女のあり方、そして家庭のあり方を根本から変えてしまおうという危険な思想」としています。
安倍氏の演説の中で目立ったのは、旧統一協会の思想にある家族観への共鳴です。
安倍氏は「UPFの平和ビジョンにおいて、家庭の価値を強調する点を高く評価いたします」と褒め上げ、その上で「偏った価値観を社会革命運動として展開する動きに警戒しましょう」と呼びかけました。
ジェンダー平等などを「偏った価値観」とみなし、個人を尊重する社会を目指す運動を非難するのは異様と言えますが、同集会の司会者は「たいへん感動的な演説」と評価しました。
本紙の取材にUPFジャパン(東京都新宿区)は、米国のUPFインターナショナルと「ワシントン・タイムズ」(旧統一協会系メディア)が安倍氏側にビデオメッセージを依頼したと説明しました。
旧統一協会系集会にメッセージ/安倍前首相「総裁に敬意」/宣伝利用で霊感商法被害拡大の恐れ https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2021-09-18/2021091815_01_0.html
加害者にそうした形での制裁を加えなきゃという考え自体が貴方の独善に過ぎないんだよ。
ケースバイケースで「別にあの人は悪いことをしたとは思わない」や「そこまでの罰を受けることはない」や「法的な罰は済んだのでもう許して良い」と考える人もいる。
にも関わらず、キャンセルカルチャーは全体としてどれだけの人が制裁に賛同しているかも分からないのに騒ぎ立て、炎上させ、圧力をかけ、制裁実行してしまうのが問題。
少なくとも市場原理に基づく領域の話なら、「貴方が問題だと思っている」なら「貴方は買わない」という不買行為程度に留めるべきだよ。
それだけなら独善の行使ではなく自己決定の範疇だし、何より、多くの人が貴方と同じ考えなら結果として加害者は儲けがなくなってちゃんと制裁が下り、逆に多くの人が問題はないと考えていたら加害者の儲けはちょっとしか落ちず相応しい程度の罰しか受けないという風に、市場を通して公平な裁定が下る。
公共の分野に関しては過去の罪を見て相応しい人物か否かという議論はあって良いが(俺は概ね反キャンセルカルチャー派だけど小山田の件は妥当だと思っている)、一方で公共分野はクレームに弱く議論に基づく正しさがなかったり少数からの文句でも火消し的な対応に走りやすいという性質があるので、気に食わないヤツを引き摺り下ろしたいのではなく社会的に正しい制裁を目指すなら、キャンセルする側は極めて慎重な姿勢で議論に臨む必要がある(そして現代のキャンセルカルチャーに潮流にそうした慎重な姿勢があるとは思えない)。