はてなキーワード: 安定的とは
マグロは全国的に魚の王者という扱いを受けているように見える(特に関東)。
実際、取引される価格や、魚体の大きさから言っても王者たる風格は十分である。
一方、タイは西日本を中心にウオサーの姫的な唯一無二の地位を確立している。
タイは、マグロが下魚とされてきた古の時代から常にリーディングフィッシュとして魚介シーンを牽引してきたのだ。
確かに生マグロの中トロの刺し身や、タイの昆布締めは、うまい。すんげえうまい。これ食っとけば間違いない感じがする。
だが、最強食材としてこの二種がそのままワンツーフィニッシュしてしまうのは、どうも納得がいかない。
海は広いのである。
海のポテンシャルにもっと賭けたい。そう思った。きっと海は応えてくれる。
そこで、魚介類最強の食材を決めるため、一度、王者も姫も抜きにして、食材として公平に魚介類をジャッジしたい。
最強を選ぶには、食材の持つ「味」が争点になってくるだろう。ついで「他にない魅力」も外せないな要素だ。
この2点がずば抜けていれば、希少で高価であっても仕方がないと思う。
一般に高級食材といえば、マグロ・タイの他に、トラフグ・ウニ・ウナギ・イクラ・アワビ・カニなどがある。
もう少しつっこむと、キジハタ・ノドグロ・キンメ・シマアジ・ヒラメ・アオリイカ・カキ・オコゼ・伊勢エビ・車海老・アユなんかが挙げられるだろう。どれもうまい。
これらの希少性と需要のバランスは、高めの価格で折り合い、世の中で「高級食材」として流通している。
しかし、最強食材が必ずしも希少で高価である必要はないのだ。安さも魅力であり価値である。
では、一般流通している"大衆魚"と呼ばれる魚介の中で特にうまいものを挙げてみよう。
タチウオ・サンマ・カワハギ・イサキ・アジ・ブリ・鮭・マダコ・メバル・マイワシ。
他にもサワラ・アンコウ・カツオ・穴子・シロギスなど挙げればきりがないなこれ。
・タイ
・サンマ
・ノドグロ
・ウニ
・ブリ
タイは実は敷居の高い魚ではない。ウオサーの姫ではあるが、会いにいける姫なのである。
もちろん高価なブランド天然鯛も存在するが、基本的には養殖技術によって通年安定供給されている大衆魚だ。
タイの魅力はこの供給力と食べ味の良さのバランス、そして料理の多彩さだろう。
最強に限りなく近い食材だと思う。
次にサンマである。日本の秋といえば、国民全員がサンマを求めて大挙してスーパーに押し寄せ、豊漁不漁に一喜一憂する光景でお馴染みである。
刺し身もジューシーでうまい。新鮮なサンマが手に入る当たり年には、ぜひ試してほしい。
続いてノドグロ。言わずとしれた高級干物の王者。大きさによっては1枚数千円することも。
食べたことがある人ならわかってもらえるだろうが、あの脂、その量もさることながら、くどさの全くない異次元の質の良さを備えており、食べている間はずっと快楽中枢が刺激され続ける。
ウニの濃厚なうまみと磯の香りは食べた人を魅了し、ウニなしでは生きられなくさせてしまう。
最終的には痛風になる。
ブリは、安価かつ安定的に供給されており、華はないが攻守最強レベルの食材である。
季節の移り変わりによって味が大きく変わるのもまた良い。
またブリは出世魚として古くから愛されてきた。地方名まで含めれば、数多ある魚種の中でもっとも多くの名前をもつ魚ではなかろうか。
さあどうだろう。
この5種の中に、または他に"最強"と呼ぶにふさわしい食材はあるだろうか。
推しへの愛を聞かせてほしい。
具体的には自治体の福祉事務所に行って、何ができるか、何をすべきか、教えてもらうのがいいのでは?
それを元に目標を決めて、方策を立てるのが、一番重要でしょう。
増田の書きぶりを見ると生活保護が必要そうに思うけど、何か手があるかもしれません。
それに、増田の困窮ぶりを聞く限りではお金が足りないのは確かだけど、それ以前に、生活の基盤そのものが不安定で心配です。
とりあえず、定職に就くのを目標に、フルタイムが難しいならパートタイム、毎日が難しいなら週数日、なるべく臨時収入ではなく安定的に収入が得られるようにしていくべきでしょう。
あと、生活の基盤を整えるために一時的にお金が必要、となれば家族親戚の協力も得やすいでしょうし。
引っ越し等は、方策が決まってから対処すればいいのではないでしょうか。
大家さんに家賃の交渉をするのも手だし、(大家さんが、新たな入居者を探すより家賃を少し下げた方が得だと判断する可能性もありますし)
増田は今日も献血ポスターの話題で溢れているけど、実際の献血センター的には今非常に危機的な状態みたい。
以下は昨日のラブラッドから送られてきたメールの一部。ラブラッドっていうのは、献血を複数回する人向けのサービスで、献血結果をWeb上から見られたり血が足りないときに献血のお願いメールがきたりするサービス。
台風19号の影響により献血血液の安定的な供給に支障を来す恐れがあります。
いつも献血にご理解とご協力をいただき誠にありがとうございます。
この度の台風19号により被災されたみなさまに、心よりお見舞い申し上げます。
血液センターからみなさまに献血または献血呼びかけのお願いです。
今回の台風により、献血の受け入れにつきましても甚大な影響を受け、献血の受け入れ中止や延期などが神奈川県をはじめ広範囲で発生し、輸血用血液の安定的な供給に支障を来す恐れがある状況です。
輸血を必要としている患者さんが安心して治療が行えるように、どうかみなさまお力を貸していただけないでしょうか。
今献血できる方は、ぜひお近くの献血会場で早急なご協力をお願いいたします。また、ご体調や献血間隔などにより献血できない方は、ご家族やお知り合いなど周りの方に献血を呼びかけていただけると助かります。特に400mL献血A型、O型を必要としています。神奈川県外で献血いただいても力になります。
実際、自分の住んでる神奈川県の献血のHP( https://www.bs.jrc.or.jp/ktks/kanagawa/index.html )を見に行くと400mlの献血が足りていないことがわかる。
最近は忙しくて3ヶ月くらい献血に行けてなかったけど、今日は少し時間を作って近くの献血センターにいくことにした。
ここ最近はもっぱら成分献血をしていたけど、今日は久しぶりに400mlをお願いされた。
メールを見てかわからないけど、週末の午前中にしては結構人がいたように思う、自分がロビーに居た20分くらいの間にも3〜4人位新規で献血をしに来てた人もいた。
こういっては悪いけど、みんなオタクっぽかったのがちょっと面白かった。
献血をしている人の割合は1:2でやっぱり男性の方が多い。しかし、男性の年齢層は結構高めで40〜50代くらいがボリュームゾーンになってると思う。
実際、ロビーに20〜30代の人は友達とかを誘ってくださいっていうお願いのチラシが貼ってある。
もちろん宇崎ちゃんのポスターも貼ってあった。でもオタク向けポスターはいつでも貼ってあるし度々来てる人はまたかって思ってそう。
前回来たときは私に天使が舞い降りた!のキャンペーン、その前ははたらく細胞だったと思う。
ふと生まれ育った町の情景を夢で見て、多少思うところがあったので気持ちを書き留めようと思う。
静かな入り江から小さな漁船が海の彼方へ消えゆくような、そんな夢だった。
最近よく見かける「田舎で非知識階層に囲まれて育ったけど、地元に馴染めずなんだかんだで都会に出てきて過去やホームタウンを思い返すたびに多少絶望する」という散文的な自分語りであることを先に断っておく。
ただの個人の経験であり、エスノグラフィのようなものだと思って読んでもらえれば嬉しい。
確かに「東京の人間が想像することも出来ないような社会」が日本のどこかには必ずあって、学ばないことが規範と化して社会が再生産されているということ。
名古屋まで電車で1時間半以上、文化的な施設といえば聞いたことのない演歌歌手がたまに来る小さな市民ホールと、小さな本屋が2軒あった。
2軒の本屋は万引きの被害額が大きすぎて自分が町を出た後に潰れた(跡地はセレモニーホールという名の葬式場になった)。
1時間に一本しか電車のこない駅から伸びるメーンストリートで今でも開いている店は、年金暮らしの年寄りが趣味でやっている畳屋と宝くじ屋しか無かった。
街中でスーツ姿の人は見たことがほとんどなかったし、そもそも人が出歩いている記憶すらない。
高卒で一度も町から出たことのない母親は、漁師を相手にする場末のスナックで働いて自分を育てた。
同じ町で漁師をしていた父親はフィリピンパブで出会ったフィリピーナに入れ込んで、小学2年生くらいの頃に母親と離婚した。
それより前には「キミの父親は不倫をしているんだ」と小学校の同級生の母親から聞かされた。
相手は近所に住んでいた太ったおばさんだったので、あんなデブとなぜだろうとその時は疑問に思ったけどすぐに忘れた。
最後に父親と会ったのは、父親が家を出て半年後くらいに小遣いをやるからと呼び出された紫煙で視界の悪い雀荘だったと記憶している。
その後は行方不明で、風の噂では今はマニラに住んでいるらしい。
こんな家庭環境は、東京の自分が属するコミュニティでは聞かない。
なぜそんなことにわざわざ触れたかというと、自分の家庭は何も特別ではなく、周囲を見渡せば程度の差はあれどどこもそんなものだったから。
親が大卒の同級生なんてクラスに1割も居たかという感じだったし、自分が通った地元の中学校には200人くらい同級生が居たがそのうち大学に進んだのは20人くらい。
自分は博士まで進んだが、マスターレベルですら聞いたことがない。
あとで詳しく触れるが、そもそも勉強をするとか考えること自体を忌避するという一貫したスタイルがあらゆる局面で通底していた。
さて、シングルマザーの家庭はクラスに3割は居たし、両親が揃っていても母親・父親違いの兄弟姉妹が居るなんて話も珍しくない。
親世代の職業は漁業か水産加工、町工場、自動車修理で、小中学校教諭や公務員の子息は格の違いを醸し出すスーパーエリートの家庭扱いだったし、家も小綺麗だった。
スーパーエリート以外は、トタンの壁が海風で茶色く錆びて、汲み取り式のトイレから伸びる煙突の先がクルクル風で回っている文化住宅か、古民家カフェを思いきりボロボロにしたような都内なら廃屋だと思われるような家に住んでいた。
町工場に勤めている人たちで指が無くなったなんて話もよく聞いたし、どこそこの家が生活保護受給とかという話もよく聞いた。
クラスメートが学校を翌日休む理由が、その前に起こした暴力事件で家裁に呼び出されているからとかもよくある話だった。
そんな彼らが余暇にすることといえば、スナックかフィリピンパブ、ギャンブル、セックスくらいしか聞いた限り思いつかない。
確かに、成人した兄がいる同級生の家に遊びに行った時には、真昼間から居間で同級生の兄と派手な格好をした若い女性がセックスをしていたし、パチンコ屋には毎朝人が並んでいた。
ギャンブルはパチンコか電話で投票する競馬が主流だったが、甲子園の季節になると地元の暴力団が元締めをする高校野球賭博も流行っていた。
暴力団は偽ブランド品も売りさばいていて、軽自動車にスウェット姿だけど鞄は高級ブランド(偽物)という出で立ちの女性をよく見かけたものである。
まぁこんな感じでつらつらと思いつくまま挙げてみたが、自分の身の回りで溢れていたのは、キーワードでいえば貧困、性、暴力、ギャンブルだった。
そもそも大人たちがそんなスタイルだったので、子供達も似たような社会をフラクタル図形のように構成していた。
小学校の頃には駄菓子屋やコンビニでの万引きが横行していて、後に刑務所に入るような子供たちはその時代からすでに盗んだタバコを吸って、やっぱり盗んだバイクに乗っていた。
暴走族(ゾク)に入って大人たちを殴ったり大怪我するほどのゾク同士の喧嘩をする中学生たちが小学生のヒーローで、ゲリ便が出る時のような音を撒き散らすバイクに皆憧れていた。
そんな時に暴力的な彼らは、異質な存在を排除することが大好きで、異質とみなされた同級生は徹底的に排除された。
小学6年生のとき、教室に入ったらメガネをかけている子が素っ裸で椅子に縛り付けられて頭にバケツを被らされていた。
メガネは弱いものの象徴で、勉強や議論をするような人間は排除の対象だった。
文革かって感じ。
反対に、野球が上手いか、足が早いか、ケンカが強ければヒエラルキーの上部に君臨できる。
動物的に強弱を判別できることがそのままヒエラルキーの源となっていたし、意思の合意は感情とその時の雰囲気で決まっていた。
そして中学生になると、今度は成績が良い人が排除の対象となる。
真夏に水を飲まずに走りこんで泣きながら試合に負ける部活に打ち込むことがすべてに勝り、もしくは非行に走ることがある種の中学生らしさであるというコンセンサスを伴って正当化されていた。
授業中には廊下を自転車が走り、思い出した頃に校庭に暴走族や野良犬があらわれる。
トイレにはタバコの吸い殻が落ちているし、たまに窓ガラスは割られていた。
教師はたまに殴られたり、殴り返したり、車を壊されたりしていた。
一方で登校している生徒にとっては、校則はフーコーのパノプティコンも真っ青な規律を自動化させるもので、髪型は男子は坊主、女子は肩まで。
他にも細かい校則がたくさんあって、破れば容赦無く教員から殴られる世界だったし、皆が一緒であることを望んでいたので、逸脱すれば容赦無く告げ口されていた。
校則を破らなくても、目立てば排除の対象になりうるので、いつしか自分も誰かが見張っていると意識して、いかに溶け込むかを重視するようになっていた。
そして積極的に学んだり考えることが嘲笑の対象であったので、そこでもやはりセックスをしたことがあるかとか、バイクの知識があるかとか、そういう分かりやすい尺度でヒエラルキーが構成されていた。
授業中に教師から指名されて小難しい答えを言ったり、発音記号通りに英単語を発音しようものなら3日は真似をされてイジられるのは御多分に洩れず自分の地元も同じだった。
テスト期間は早く帰れるので皆喜んで下校後に遊ぶレベルの勉強に対する姿勢で、将来は男子は工業高校、女子は商業高校に通ってそのあとのことは何も考えないのが一般的だった。
ここまでは自分がライブで触れた15歳くらいまでの環境の話で、せいぜい15年くらい前の話だ。
はっきり言えば、そのような環境はまっぴら御免だし、そんなところで自分の子供を育てたくはない。
さて、経緯は知らないが、自分は幼稚園の頃にIQテストを受けた。
そのあとに、あなたの息子は知能指数が高いから相応の教育を受けさせてあげてくださいと園長先生から母親はコメントをもらったらしい。
大学のことすらよく知らない専門学校卒の母親だったが、自分を都内か海外の全寮制の学校に小学生のうちから預けようとした。
だが、当時の自分はこともあろうに泣き叫んで拒み、結局は地元に残ることを選んだ。
当時のことはよく覚えていて、理由は友達と離れたくなかったから。
その時に知りうる限りの世界を取り上げられることに対する極端な不安が何よりも勝っていて、母親は息子の気持ちを優しくも汲み取って折れた。
小学校に上がった時、小1か小2くらいの頃から、本を読み始めた。その頃に三島由紀夫や島崎藤村やら、古い作品から新しい作品まで縦横無尽に慣れ親しんだ。
早朝に登校して空いた時間や、ジャンケンで負けて押し付けられた図書委員の時間、図書室でひたすら本を読んだ。
そのうちに、自分が生活する社会と根本的に異なる社会、つまり学び、考えることが重要であるという社会が存在することを知った。
哲学や思想系の本はもちろんのこと、西洋美術の画集や建築の写真集に心を揺さぶられたし、マーラーのCDを初めて聞いた時の感動は死ぬまで忘れないと思う。
めちゃイケを好むふりをして、自分は加藤周一の羊の歌に感銘を受けて、とりあえず東大に行こうと中学の頃には考えていた。
そして周囲に迎合しつつも高校に進んだ。いわゆる地方の公立トップ校だった。
他にも理由はあったと思うが、中3の時には成績が良いという理由でものを隠されたり上履きにガムが入っていたこともあった。
入学から1ヶ月もしないうちに、明らかに新たな社会、社会階層に自分は組み込まれたと自覚した。
同級生の親の職業は、医者、弁護士、会計士、大企業の社員ばかりだった。
誕生日には名古屋のデパートの上層階のレストランだったり、どこぞで伊勢海老を食べるだのとそんな話もたまに聞いた(成金的な家はあまり無かったけど)。
彼らの親は旧帝国大学出身はざらにいたし、兄が東大、今はオックスフォードに留学中とかそんな話も当たり前にあった。
幼い頃からピアノやバイオリン、書道、バレエ、スイミングなんかをやっているのがマジョリティだったし、週末に美術館やコンサートホールに足を運んだという話も決してレアな話ではなかった。
彼らと出会ってとかく感動したのは、好きだった本や芸術の話を初めてリアルの人間とできたことだった。
そして何より彼らは、自身の解釈や、見解を示してくれたし、自分のくだらない議論にも向き合ってくれた。
もちろん性やギャンブル、暴力、ワンピースの話もたまにはあったが、それ自体を享受するだけでなく、思考の対象としても話題を取り上げることががあった。
高校以来、自分は学び、思考する人しか存在しないかのように振る舞う社会に身を置き続けている。
今にして思えば、もっと早く外の世界に出た方が良かったのではと素直に思う。
なぜなら、受動的に与えられたその社会が自分のすべてだったから。
母親が母親であるように、生まれ育った社会は生まれ育った社会であって、代替がきかない。
自分はたまたま、自分が立っていた社会と違う社会を知りうるきっかけを子供の頃に得たから今があるのであって、その機を逃せば一生地元に居ただろう。
なぜなら、考えることや知ることを拒むことが規範となる社会では、外の世界があるということ自体を知りようがないのだから。
自分は考えることも、こうして頭の整理をすることも好きだ。
パチンコの新台や、友達の奥さんが不倫をして旦那が相手と殴り合いの喧嘩をしたとか、そういう動物的な話題を「それ自体」をただ消費する社会に少なくとも自分は興味がない。
もちろん、そういった社会(自分が経験したような)を否定する理由はどこにもない。
ただ、自分が故郷を捨てたように、その社会に残るのは、その社会に適応しきった人々である。
有り体にいえば、将来の選択肢の存在すら意識できないのが自分の体験した社会であり、どのような選択肢があるのか獲得しようする営みそのものが封建的に否定される強い構造を伴っている。
だからこそ、自分の田舎はいつまでも同じ姿を留めることに成功しているのだと思う。
もちろん、その社会自体が恐ろしいぬるま湯であり、外には異なる社会が存在することを予期している人も稀にはいることだろう。
幼い息子を外の世界に出そうと考えた母がそうだったように、おそらくそれに気付いた時に自身を好転させるにはあまりにも遅い場合が大半であると自分は思う。
そして、自分は今更何があったとしても、地元の彼らと交流することはできないし、するつもりは一切ない。
母はもう二度と戻ってくるな、お前の居場所はもうここにはないと電話口でことあるごとに言う。
一方で、開成や筑駒から東大に進んだ都内組は何も捨てることなく、安定的に自分が望んだ社会を享受してその上に今も生活を営んでいる。
それは誰でもそうであるように、最後の最後に拠り所となり得る自らの地域的なアイデンティティをきちんと持っているということである。
自分は依拠すべき地域(地元)を自己実現と引き換えに失ったのであって、願わくば我が子には地元を与えるか、もしくは地元がなかったとしてもサバルタンとなり得ない思想的な土台を築いて欲しいものである。
原子力発電所ってのはリスクもあるけど、大電力を安く作ることができるんよね
儲かったお金は原発のある自治体に還元されるし、関連企業の従業員の給与や株式配当で還元される
電力会社の大株式って、自治体や、銀行や保険会社とかの金融機関だったりするんで、3.11以降電力会社からの莫大な配当が減ったりなくなったりしたもんだから、金融機関はリストラの嵐
金融機関が従業員の首切りしてるのは、日銀の0金利政策とかIT化のせいだけじゃないんよね
だから、もし原発が全部動いて安い電力を安定的に作り出すことができれば、金の流れが良くなって、景気が少しは良くなって、今の日本の閉塞感ってのが無くなるんじゃないかねぇ
東京大学大学院の講義「問いを立てるデザイン」で細胞培養による人工肉に関する様々な課題を取り上げる講義を受けた。講義のテーマは、人工肉を培養する際の技術的な側面と、その倫理的な観点(たとえば、培養した生命を頂くことはありなのか?など)であった。個人的にも、「試験管で培養したお肉はなんか嫌だな〜」といったところである。とはいえ、講義内でも説明があったが、今後も我々が安定してお肉にありつけるとは限らない。世界の人口は増えていくし、その一方で、畜産従事者は減る一方。そこで、お肉を我々が安定的に摂取するための代替手段のひとつが、人工肉というわけである。
一方で、栄養バランスの観点から見れば、タンパク質を摂取できれば良いのであるから、必ずしもお肉に頼る必要はないのかもしれない。
タンパク質を得る一つの例として、個人的に昆虫食に注目している。子どもの頃、祖母に作ってもらったイナゴの炒め物は大変美味しかった記憶がある。何故日本人はイナゴをもっと食べないのか。実は、そこを私は非常に残念に思っている。世界的に見ても、昆虫を食する国はアジアやアフリカに多く存在する。数年前に中国の新疆ウイグル自治区に旅行した際は、サソリの揚げ物を提供された記憶がある(見た目の都合上その時はとても食べられなかった)。
そこで、講義の主要テーマからは(大きく)はずれることになるが、人工肉と同じように将来の我々のタンパク源を担うであろう昆虫食を本文では取り上げる。その中から、日本で昔から食べられてきた我々(私だけ?)に馴染みの深いイナゴ料理について、3種類ほど紹介することとした。
(参考 https://cookpad.com/recipe/4246461)
イナゴの食べ方の定番。少し甘みを感じるものが一般的な様である。ネット上の感想を調べると、サクサクして美味しい、エビの尻尾の様だ、と高評価が並ぶ。Amazonでも購入可能な様である。私も食べたことはない。
その2:イナゴの炒め物
(参考: https://www.muji.net/camp/contents/tech/activity/being/d/d103.html)
イナゴを茹でた後にさっと油でカリカリに炒めたもの。私が子どもの頃食べたのはこれである。「これは天然のかっぱえびせんだ!」と思った記憶がある。目を瞑って食べると、とても美味しい小エビの唐揚げと間違えるはずだ、と自信をもって言える。後ろ足と羽根が固くて美味しくなかったので、予め取り除いてから調理することを勧める。
(参考:https://www.narinari.com/Nd/20130521693.html)
6年ほど前に一部で話題となった昆虫食パスタ。なお、提供していたお店はすでに閉店している。閉店の理由として昆虫食が影響しているかは不明である。
人工肉と同様に未来の食材の一つとして期待される昆虫食のうち、個人的に思い出深いイナゴ料理についてここでは紹介した。周りの友人に「イナゴを食べたことがある」「イナゴは結構美味しい」という話をすると、殆どの場合はドン引きされる。だが、ほんの70年前は普通に我々の祖父・祖母が食べていた食材であるし、日本の伝統料理の一つと言っても過言ではないと考えている。また、世界的に見ても多くの人々が食していることから、イナゴは食材としてポピュラーな存在とも言える。個人的な感覚では、我々が昆虫を食べていることを気持ち悪く思う感覚は、日本人が魚や生卵を生で食べていることを「うげっ」と思う欧米人と似たようなものではないかと思っている。要するに、我々も海外の人からすると気持ち悪いと思う食材を普段から食べているわけである。結局これは、先入観、固定観念がすべてではないかと思う。欧米人が生魚ののった寿司を喜んで食べ始めたのはほんの10数年前と思うし、きっと10年もすると、我々も喜んでイナゴを食べているようになるのではないだろうか。
東京大学大学院の講義「問いを立てるデザイン」で細胞培養による人工肉に関する様々な課題を取り上げる講義を受けた。講義のテーマは、人工肉を培養する際の技術的な側面と、その倫理的な観点(たとえば、培養した生命を頂くことはありなのか?など)であった。個人的にも、「試験管で培養したお肉はなんか嫌だな〜」といったところである。とはいえ、講義内でも説明があったが、今後も我々が安定してお肉にありつけるとは限らない。世界の人口は増えていくし、その一方で、畜産従事者は減る一方。そこで、お肉を我々が安定的に摂取するための代替手段のひとつが、人工肉というわけである。
一方で、栄養バランスの観点から見れば、タンパク質を摂取できれば良いのであるから、必ずしもお肉に頼る必要はないのかもしれない。
タンパク質を得る一つの例として、個人的に昆虫食に注目している。子どもの頃、祖母に作ってもらったイナゴの炒め物は大変美味しかった記憶がある。何故日本人はイナゴをもっと食べないのか。実は、そこを私は非常に残念に思っている。世界的に見ても、昆虫を食する国はアジアやアフリカに多く存在する。数年前に中国の新疆ウイグル自治区に旅行した際は、サソリの揚げ物を提供された記憶がある(見た目の都合上その時はとても食べられなかった)。
そこで、講義の主要テーマからは(大きく)はずれることになるが、人工肉と同じように将来の我々のタンパク源を担うであろう昆虫食を本文では取り上げる。その中から、日本で昔から食べられてきた我々(私だけ?)に馴染みの深いイナゴ料理について、3種類ほど紹介することとした。
(参考 https://cookpad.com/recipe/4246461)
イナゴの食べ方の定番。少し甘みを感じるものが一般的な様である。ネット上の感想を調べると、サクサクして美味しい、エビの尻尾の様だ、と高評価が並ぶ。Amazonでも購入可能な様である。私も食べたことはない。
その2:イナゴの炒め物
(参考: https://www.muji.net/camp/contents/tech/activity/being/d/d103.html)
イナゴを茹でた後にさっと油でカリカリに炒めたもの。私が子どもの頃食べたのはこれである。「これは天然のかっぱえびせんだ!」と思った記憶がある。目を瞑って食べると、とても美味しい小エビの唐揚げと間違えるはずだ、と自信をもって言える。後ろ足と羽根が固くて美味しくなかったので、予め取り除いてから調理することを勧める。
(参考:https://www.narinari.com/Nd/20130521693.html)
6年ほど前に一部で話題となった昆虫食パスタ。なお、提供していたお店はすでに閉店している。閉店の理由として昆虫食が影響しているかは不明である。
人工肉と同様に未来の食材の一つとして期待される昆虫食のうち、個人的に思い出深いイナゴ料理についてここでは紹介した。周りの友人に「イナゴを食べたことがある」「イナゴは結構美味しい」という話をすると、殆どの場合はドン引きされる。だが、ほんの70年前は普通に我々の祖父・祖母が食べていた食材であるし、日本の伝統料理の一つと言っても過言ではないと考えている。また、世界的に見ても多くの人々が食していることから、イナゴは食材としてポピュラーな存在とも言える。個人的な感覚では、我々が昆虫を食べていることを気持ち悪く思う感覚は、日本人が魚や生卵を生で食べていることを「うげっ」と思う欧米人と似たようなものではないかと思っている。要するに、我々も海外の人からすると気持ち悪いと思う食材を普段から食べているわけである。結局これは、先入観、固定観念がすべてではないかと思う。欧米人が生魚ののった寿司を喜んで食べ始めたのはほんの10数年前と思うし、きっと10年もすると、我々も喜んでイナゴを食べているようになるのではないだろうか。
アホめ。皆がお前の好きな作品を好きにならないのは、皆が歪んでるからってか。
お前に才能が無いからなんだよ。
まずはその現実に向き合え。
その上でだ……。
お前ほんとに皆に読まれたいの?
例えばだ、商業で100万部売りたいなら、皆が好きなやつを書く練習をするのがいいさ。
あるいは、安定的な月収を確実に得て生活したいなら、エロの練習をしろ。エロは食事と同じで需要が切れないからな。
しかしお前は、お前が描きたい名作を、たとえ印税が貰えなくても描きたいんじゃないのか。
お前がやりたいのはさ、カプが着かない話でも見にきた読者がたった10人でもさ、その10人が全員「神がかった奴ら見つけた!」思う作品を、書く事ではないのか?
じゃあ、いまPVが着かない程度の作品をさ、誰かに承認されて、カプ書いてる人と同じ理由でpvが増えて、それで嬉しいのか? 作品の質は変わらずにクソなんだぜ。
孤高の道を行けよ。
その先にはたぶん、アホどもとは隔絶した世界があるぜ。
原発が必要悪なのは分かるけど、なんで2019年にこの話題を出してるんだ?
選挙の争点にもなってるのかな。
反原発論者の人って何考えているか調べたことないけど、いますぐ原発をやめろ、ってことを主張してるんだよね?
恐らく地震だったり、あるいはミサイルの標的にされたりして危ない、ってことがその根拠だと思う。
そうなると増田の手紙はそういう主張には答えていないことになるよ。
それに安定的な電力供給にしたって、たとえば福島の警戒区域に大規模な太陽光発電や風力発電を作ったり、大規模な蓄電施設を作ったりすれば実現可能なんじゃない?
今だって夜間には捨てている電力だってあるし、そういうのはなんで活用できないんだろ?
(実現性や採算性がないからだと思うけど、ちゃんと検証してみたのだろうか?)
それに新しい電力源として、太陽"熱"発電や、重油産生藻類による有機燃料生産ってのもある。
(熱核融合とかレーザー核融合とか、安全な方の核を使う方法もあると思うけど、これはまだまだ先だろうしな)
原発を期限を設けずになーなーで使っていたら、普及しそうなものも普及しなくなっちゃうんじゃない?
こういう手段をもってしてもやっぱり原発じゃないとダメなんだ、ということをもっと明快に語ってくれないと、反原発論者は聞き入れないと思うよ。
再生可能エネルギー、Googleの発電施設とか素晴らしい発想だよね。
問題は、あれは国際的な大企業だからこそできる発想と手段であって、国策でできるものじゃない、ってところかな。
実際、メタンハイドレートじゃなくても安定的な再生可能エネルギーでもいいんだよ。ちゃんと工業用途にも使える電力が確保できるなら。
というわけで、再生可能エネルギーの現状を聞かせてくれ。
バカに突っ込むの、好きだろ?
まず、私も長期的にみたら原発をなくしていくことには賛成だ。なぜなら、廃棄物の問題と事故が起こった時の事の重大さが怖いからだ。
しかし、今は原発をなくせないとも思っている。エネルギー問題は人の命に直結する問題だからだ。それを今から述べようと思う。
まず、反原発論者である貴方は原発をなくした分足りなくなるエネルギーをどうやって確保するつもりだろうか?多分、いくつかの案があるだろう。しかし、現時点ではどの解決方法も原発の利点を覆せない。
東日本大震災が起こってから、再生エネルギーの利用が進んだ。特に太陽エネルギーの発電所はかなり増えた。これらが家庭の電力をある程度補ってくれているのは確かだ。しかし、それでは不十分なのだ。
日本は今だ工業国である。そうした工場で使うための安定した電力は再生エネルギーではまかないきれない。単純に発電量が足りないのもあるし、再生エネルギーの発電は不安定だ。工場で使うための電力がこれで補えることはあり得ないのである。
日本が大東亜戦争を起こしたきっかけの小さくない一つがエネルギー問題だ。当時の日本はABCD包囲網により石油の輸入を完全に止められた。当時の電力は石油による火力発電に依存していた。つまり、日本は工業生産や日々の日常を安定的に営むことを禁止されたのだ。これをきっかけの一つにして日本は大東亜戦争を起こし、ご存知の通り多数の死者を出した。
日本からは石油はほとんど産出されない。なので、火力発電に戻すということはエネルギーのほとんどを輸入に頼るということになり、諸外国の政情次第でいくらでも不安定になるし、最悪輸入を止められるということがあり得る。実際戦後になっても政情不安定による石油不足からオイルショックと呼ばれる恐慌を何度か起こしている。
原子力発電の燃料も輸入ではあるのだが、石油一本に依存するよりはだいぶ安定感が違うのだ。
これを考えている方は想像力がかなり足りない。
あなた一人が山奥で電力を使わない暮らしをおくるのはそんなに難しくないかもしれない。しかし、電力を使わないということは電力で維持されている命を殺すことであり、経済活動を殺すということであり、大恐慌という言葉ですら生易しい大混乱が日本を襲う。当然死者も出るレベルだ。
実際のところ、これが一番まともな代替案になる。安定的な電力を作ることができて、なるべく輸入に頼らない、そして安定した量のあるエネルギーを使うのだ。そんな都合のいいものがあるわけない、少なくとも昭和の時代には誰もがそう思っていたが、実はこれらの条件を満たすエネルギーが存在する。メタンハイドレートだ。これは石油、天然ガスに代わり火力発電の燃料になることが期待されている。
メタンハイドレートは日本近海に大量に埋蔵されている。問題は、海底にあるため採掘技術が確立されていないということだ。
しかし、これの採掘技術が確立した時、日本はエネルギー問題のくびきから解き放たれることが期待される。
今の現状では原発をなくせ、とは言えない。しかし、長期的に見れば廃止していくべきだし、そのための希望もある。だから、今反原発というところを争うのはあまり賢明ではない。どうかそれをわかって欲しいと思ってこれを記した。これが貴方に新しい視野を示すことができたのならば幸いである。
よい機会だから書いておこう。
私は、はてなで偶に「フェミ」認定されることがあるが、そのたび(というほど律儀にはやってないか)にフェミニストではないと否定してる。
フェミニズムに与することができない私なりの理由はいくつかあるけど、その中の1つにこの問題に対するフェミニズムのスタンスがある。
まずはっきり言っておくけど、手伝ってくれと言われて「なら、代わりに稼いでこい」と返すこの夫は普通にダメ。その点では、たぶん私はフェミニズムに満腔の同意を与えることができると思う。
問題はその先。専業主婦という選択をする女性に対して、フェミニズムはちょっと微温的にすぎる気がするんだよね。
今回の例を見ても分かるけど、専業主婦という選択は、女性のキャリアに大きな(悪)影響を及ぼし、自律を困難ならしめる危険が大きい。うまくいってるときはいいけど、一人で生計を立てていくことが難しくなってしまっているから、なにかあっても黙って夫の横暴に耐えるしかない、ということになりかねない。
こんなしくみは健全な助け合いとはとても言えない。ある意味奴隷制度みたいなものだよ。どう考えても女性の自律を阻害する要因になってる。
でもなー、どうもこの点、フェミニズムは煮え切らない感じなんだよなー。専業主婦を希望するような女性に対して、「選択肢の1つ」くらいのヌルいことしか言わないフェミニストが多いイメージがある。
まあ、その理由は分からないでもない気はする。女性はこのある種の奴隷制度の被害者なわけで、被害者を責めるのは酷だっていうのもあるかもしれないし、本人が納得してる/希望してるなら、まあそれでいいかという発想もあるかもしれない。
それでも、やっぱり動かしがたい事実として、専業主婦を希望する女性「も」、このある種の奴隷制度の維持強化に紛れもなく一役買ってるわけだ。どんな制度でもそうだけど、それを支持するのが利権を得る者だけでは長続きしない。安定的な制度というのは、制度によって損をする者までもがそれを内面化し受け容れているものだ。その意味で、専業主婦を希望する女性というのは、奴隷の再生産に寄与する加害者的な側面も持ってると言わざるを得ない。
フェミニズムはこの点、ちょっと甘すぎるんじゃないか。制度の食い物にされている気の毒な女性に対しても、言うべきことはある程度言わないと。別に専業主婦を希望する女性に対する直接的な非難とならないような形で専業主婦の問題性を指摘することはいくらでもできるはずなんだから。
自分が共同体をベースにして考えており、「個人の自由のために同性婚を許容すべき」派ではない、というのはご理解のとおり。
現代においてなお「個人」なるものが集団から屹立して成立しているようなタフな社会は到来していないと思う。個人主義者、あるいは単純にネオリベが勘違いしているのはそこのところで、彼らの多くは集団から多大な恩恵を受けつつも「個人の自由」を過剰に追求する、要するにただのフリーライダーであり、それを「上手いやり方」だと勘違いしている。みんなある程度読み書きができて理屈が通じてそれほど暴力的でなくてルールに従順で…という社会が、どれだけの無償の努力によって成立しているか考えたこともないお坊ちゃん達だ。そもそも個人主義というのは歴史的に見ても相当特異なものの考え方であり、次の、その次の世紀にまで引き継がれるスタンダードな思想になるとはとても思えない。よって、自分はそもそもそこに基盤をおいて考えない。
(2)「制度」が社会の現実を反映するという発想こそが近代主義
少し考えて欲しいのだが、ごくごく一般的な庶民が、二人も三人も嫁をもっている前提のストーリーが、古典作品にあるだろうか?
王様や貴族、商人、といった「社会的に富と権力を抱える支配層」が妾を複数置くという話はいくらでもある。それをもってあなたは「制度としては一夫多妻だった」と言いたいのだろう。しかしそれはむしろ、妻を複数もつ彼らが「慣習的な一般常識を超越しうる存在であった」ことを示しているに過ぎないのではないか。つまり、一般庶民、村や町といった所に住む普通の人々にとって、二人、三人と恒常的なパートナーシップを結ぶことは、むしろ非現実的であったことを示しているに過ぎないのではないか? 中国の古典にも純愛の話(一夫一婦)はたくさんある。日本の昔話でも、じいさんとばあさんがペアで出てくることは多いが、嫁や夫を複数持つという状態が「常識」であったりすることはほぼない。イスラム世界は一夫多妻だろうという声もあるだろうが、イスラムの戒律が厳しくない外国に行き、経済的にものすごく恵まれた状態でない限り、結構すぐに嫁から不満の声が上がるというよ。一夫多妻(あるいは多夫一妻)を、民衆の多数の同意の下、安定的に運営してきた共同体なんて、むしろ現実に存在するのかな? 男女の誕生比率が世界の何処でも大きく変わらない限り、簡単に破綻するのは自明の理屈と思うけど。
近親婚の話は、上の個人主義の話との関連で、特に補足する必要は無いな。
もっとも、増田の言ってることは十分面白い。別に頭から否定したいわけではなくて、こうして意見交換をするのが思考実験としても面白く思っているので、「あえて」反論している所もあるよ。一応。
あー、やっちまったわ。
スマホ落としちゃった。
打ち所が悪かったみたいで画面がバキバキよ。
一応は使えるんだけどなんか一瞬凹むなぁ。
くよくよ凹んでても仕方ないので気持一瞬で切替よ!
本来私に降りかかるであった私の災難をその電話ちゃんが身代わり地蔵ばりに代わりに受けてくれたと思ったら、
なんてハートウォーミングなストーリーだと思うニューヨーク東8番街の奇跡じゃない?
そんでね、
直せるなら直してみようホトトギスと
すぐ近くに修理出来るところがあったからマジで5秒で駆け込んでみたら
スクリーンの在庫がなくて海外から来るのが1ヶ月以上かかるんだってー。
よく綾瀬はるかが出掛ける前にスチームアイロンでパリッとシワを伸ばして行くぐらいな級の綺麗なお姉さんのスマホの画面ってだいたいバキバキに割れてるじゃない!
だから私もその仲間入り!って思ってたんだけど、
やっぱり割れたままだと指に刺さったらいやだし
新しい携帯電話を買うことにしたの同じ機種をね。
そうファーウェーならね!ってやかましーわーい!
すごいのよ!もうさ画面修理代より本体そっくり変えた方が安いってなにそれ案件寺の和尚さんもびっくりしちゃうわよね。
今はそんな世の中顔かお金なのね。
それだけだと高くなっちゃうみたいなのでSIMと一緒に買わないといけないらしいの。
誰も何も傷つかないけど。
新しいの買うと分かったらもうくよくよしないわ。
ってーか画面が割れちゃっても案外私ケロッグ級にけろっとしてるわ。
物理傷以外の心の傷は何もないわ。
まあ落としちゃったスマホには、
たいへん悪いことしちゃったかなとゴメンな災難だけど、
そうあと便利なのがテレビの前に置いておいて、
とっさのメモに音声入力させて文字にさせてメモるのがめちゃくちゃ楽なのよね。
声で入力したらとても楽よ。
割れたままで可愛そうだけど。
ズジャーム!せーの!
シクシクしたってはじまらなーい!
なーんてね。
でも前向き駐車だと出るときにバックしなくちゃいけなく迅速に出ることができないから盗難対策になるってアメリカではほぼ前向き駐車がデフォなのよね!
バックして入れた方が出やすいじゃないって私も思っていた時代があったけど盗難対策なのね。
最初知らなかったし、
だからみんなアメリカの人は前向きで明るいんだなぁって住んでた頃思ったわ。
うふふ。
もちろんオムも好きよ。
冷たくしすぎると最近お腹痛くなっちゃい兼ねないことは無いことも無いけど、
夜煮出して常温になったやつが美味だわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
下記Tweetへのブクマを見ていて、自明だと思っていた「安倍政権の対中外交姿勢の変化」が、あまり受け入れられていないことに驚いた。
https://twitter.com/knife9000/status/1126810114575327232
…ということで、首相就任以来の「施政方針演説」の中国関連の部分を抜き出してみた。
尖閣諸島を始め、かなり強い言葉で非難しています。この頃、沖縄が「最前線」だったんですね。
「火器管制レーダー照射」というのは、この演説の1ヶ月前(2013年1月30日)にあった中国海軍レーダー照射事件のことです。
尖閣諸島が日本固有の領土であることは、歴史的にも国際法上も明白であり、そもそも解決すべき領有権の問題は存在しません。
先般の我が国護衛艦に対する火器管制レーダー照射のような、事態をエスカレートさせる危険な行為は厳に慎むよう、強く自制を求めます。国際的なルールに従った行動が必要であります。
同時に、日中関係は、最も重要な二国間関係の一つであり、個別の問題が関係全体に影響を及ぼさないようコントロールしていくとの「戦略的互恵関係」の原点に立ち戻るよう、求めてまいります。私の対話のドアは、常にオープンです。
(略)
緊密な日米関係を基軸として、豪州やインド、アセアン諸国などの海洋アジア諸国との連携を深めてまいります。G8、G20や我が国で開催する第五回アフリカ開発会議などの国際的枠組みを通じ、貧困や開発といった国際社会に共通する課題の解決に向け、我が国は、世界の大国にふさわしい責任を果たしていきます。
我が国の領土・領海・領空や主権に対する挑発が続いており、我が国を取り巻く安全保障環境は、一層厳しさを増しております。
先般、沖縄を訪問し、最前線で任務に当たっている、海上保安庁や警察、自衛隊の諸君を激励する機会を得ました。その真剣なまなざしと、みなぎる緊張感を目の当たりにしました。彼らを送り出してくれた御家族にも、感謝の念で一杯です。
私は、彼らの先頭に立って、国民の生命・財産、我が国の領土・領海・領空を断固として守り抜く決意であります。
十一年ぶりに防衛関係費の増加を図ります。今後、防衛大綱を見直し、南西地域を含め、自衛隊の対応能力の向上に取り組んでまいります。
(略)
フォークランド紛争を振り返って、イギリスのマーガレット・サッチャー元首相は、こう語りました。
「海における法の支配」。私は、現代において、「力の行使による現状変更」は、何も正当化しないということを、国際社会に対して訴えたいと思います。
安全保障の危機は、「他人事」ではありません。「今、そこにある危機」なのです。
今、この瞬間も、海上保安庁や警察、自衛隊の諸君は、強い意志と忍耐力で任務に当たっています。荒波を恐れず、乱気流を乗り越え、極度の緊張感に耐え、強い誇りを持って任務を果たしています。皆さん、与野党を超えて、今、この場から、彼らに対し、感謝の意を表そうではありませんか。
「自由や民主主義、人権、法の支配の原則(といった)基本的な価値を共有する国々」というフレーズが出て来ました。翌2015年以降の表現でわかるように、社会主義国である中国を除外するための表現です。この表現は2018年まで毎年登場します。
先月東京で開催した日・ASEAN特別首脳会議では、多くの国々から積極的平和主義について支持を得ました。ASEANは、繁栄のパートナーであるとともに、平和と安定のパートナーです。
中国が、一方的に「防空識別区」を設定しました。尖閣諸島周辺では、領海侵入が繰り返されています。力による現状変更の試みは、決して受け入れることはできません。引き続き毅然かつ冷静に対応してまいります。
新たな防衛大綱の下、南西地域を始め、我が国周辺の広い海、そして空において、安全を確保するため、防衛態勢を強化してまいります。
自由な海や空がなければ、人々が行き交い、活発な貿易は期待できません。民主的な空気が、人々の「可能性」を開花させ、イノベーションを生み出します。
私は、自由や民主主義、人権、法の支配の原則こそが、世界に繁栄をもたらす基盤である、と信じます。日本が、そして世界が、これからも成長していくために、こうした基本的な価値を共有する国々と、連携を深めてまいります。
(略)
中国とは、残念ながら、いまだに首脳会談が実現していません。しかし、私の対話のドアは、常にオープンであります。課題が解決されない限り対話をしないという姿勢ではなく、課題があるからこそ対話をすべきです。
日本と中国は、切っても切れない関係。「戦略的互恵関係」の原点に立ち戻るよう求めるとともに、関係改善に向け努力を重ねてまいります。
…なんか短いですね(このあたりが転換点なのかな?)
「豪州、ASEAN諸国、インド、欧州諸国など、自由や民主主義、基本的人権や法の支配といった基本的価値を共有する国々」という定型文になりました。露骨に中国を外しています。
今後も、豪州、ASEAN諸国、インド、欧州諸国など、自由や民主主義、基本的人権や法の支配といった基本的価値を共有する国々と連携しながら、地球儀を俯瞰する視点で、積極的な外交を展開してまいります。
(略)
日本と中国は、地域の平和と繁栄に大きな責任を持つ、切っても切れない関係です。昨年十一月、習近平国家主席と首脳会談を行って、「戦略的互恵関係」の原則を確認し、関係改善に向けて大きな一歩を踏み出しました。今後、様々なレベルで対話を深めながら、大局的な観点から、安定的な友好関係を発展させ、国際社会の期待に応えてまいります。
地球儀を大きく俯瞰しながら、積極的な平和外交、経済外交を展開する。そして、アジアから環太平洋地域に及ぶ、この地域の平和と繁栄を、確固たるものとしていく。日本こそがその牽引役であり、私たちはその大きな責任を果たしていかなければなりません。
そのことが、我が国自身の平和を守り、更なる繁栄を築く道である。そう確信しております。
自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値を共有する国々との連携を、一層深めます。
ASEAN、豪州、インド、欧州とは、これまでも戦略的なパートナーとしてその絆を深めてきました。この協力関係を、より広く、より深く、強化してまいります。
(略)
中国の平和的な台頭は、日本にとっても、世界にとっても、大きなチャンスです。戦略的互恵関係の原則の下、関係改善の流れを一層強化します。地域の平和と繁栄に大きな責任を持つ日中両国が、大局的な観点から、安定的に友好関係を発展させることで、国際社会の期待に応えてまいります。
自由、民主主義、人権、法の支配といった基本的価値を共有する国々と連携する。
ASEAN、豪州、インドといった諸国と手を携え、アジア、環太平洋地域から、インド洋に及ぶ、この地域の平和と繁栄を確固たるものとしてまいります。
(略)
日本海から東シナ海、南シナ海に至る地域では緊張が高まり、我が国を取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。地域の平和と安定のため、近隣諸国との関係改善を積極的に進めてまいります。
(略)
本年、日中韓サミットを我が国で開催し、経済、環境、防災など幅広い分野で、地域レベルの協力を強化します。
(略)
中国の平和的発展を歓迎します。地域の平和と繁栄に大きな責任を有することを、共に自覚し、本年の日中国交正常化四十五周年、来年の日中平和友好条約締結四十周年という節目を迎える、この機を捉え、「戦略的互恵関係」の原則の下、大局的な観点から、共に努力を重ね、関係改善を進めます。
2014年からあった「関係改善」というフレーズが無くなり、「日中関係を新たな段階へ」になりました(関係改善は終了したという認識かな?)
「中国とも協力して、増大するアジアのインフラ需要に応えていきます」とも述べています。「一帯一路」への協力が盛り込まれています。
自由、民主主義、人権、法の支配といった基本的価値を共有する国々と連携する。米国はもとより、欧州、ASEAN、豪州、インドといった諸国と手を携え、アジア、環太平洋地域から、インド洋に及ぶ、この地域の平和と繁栄を確固たるものとしてまいります。
太平洋からインド洋に至る広大な海。古来この地域の人々は、広く自由な海を舞台に豊かさと繁栄を享受してきました。航行の自由、法の支配はその礎であります。この海を将来にわたって、全ての人に分け隔てなく平和と繁栄をもたらす公共財としなければなりません。「自由で開かれたインド太平洋戦略」を推し進めます。
この大きな方向性の下で、中国とも協力して、増大するアジアのインフラ需要に応えていきます。日本と中国は、地域の平和と繁栄に大きな責任を持つ、切っても切れない関係にあります。大局的な観点から、安定的に友好関係を発展させることで、国際社会の期待に応えてまいります。
本年は日中平和友好条約締結四十周年という大きな節目に当たります。経済、文化、観光、スポーツ、あらゆるレベルで日中両国民の交流を飛躍的に強化します。早期に日中韓サミットを開催し、李克強首相を日本にお迎えします。そして、私が適切な時期に訪中し、習近平国家主席にもできるだけ早期に日本を訪問していただく。ハイレベルな往来を深めることで、日中関係を新たな段階へと押し上げてまいります。
「日中関係は完全に正常な軌道へと戻りました」と、2014年からの「改善」が完全に終了したことを宣言しました。
それを裏付けるように、2014年から続いていた「豪州、ASEAN諸国、インド、欧州諸国など、自由や民主主義、基本的人権や法の支配といった基本的価値を共有する国々と連携」が消えました。
さらに、「これまでの発想にとらわれない、新しい時代の近隣外交」というフレーズが出て来ています。明確に外交姿勢の転換を示しています(cf.「これまでのお約束と異なる新しい判断」)。
昨年秋の訪中によって、日中関係は完全に正常な軌道へと戻りました。「国際スタンダードの下で競争から協調へ」、「互いに脅威とはならない」、そして「自由で公正な貿易体制を共に発展させていく」。習近平主席と確認した、今後の両国の道しるべとなる三つの原則の上に、首脳間の往来を重ね、政治、経済、文化、スポーツ、青少年交流をはじめ、あらゆる分野、国民レベルでの交流を深めながら、日中関係を新たな段階へと押し上げてまいります。
北東アジアを真に安定した平和と繁栄の地にするため、これまでの発想にとらわれない、新しい時代の近隣外交を力強く展開いたします。
(略)
そして、インド洋から太平洋へと至る広大な海と空を、これからも、国の大小にかかわらず、全ての国に恩恵をもたらす平和と繁栄の基盤とする。このビジョンを共有する全ての国々と力を合わせ、日本は、「自由で開かれたインド太平洋」を築き上げてまいります。