はてなキーワード: 不可能とは
そりゃ勿論ちんこを持ってるってところですよ。
いや大真面目に。
幾つか良さを語っていくので、世の男性諸君はそうかぁちんこってやっぱ良いよな~~と思う契機にしてください。
興奮すると勃起する、単純ながら実によくできた仕組みだと思う。非常にわかりやすい。
一応女も濡れるっていう印があるっちゃあるんだけど、勃起に比べるとかなりわかりにくい。
自分は今結構冷静なはずだ...と思ってても脱いでみたら思ったよりめちゃめちゃ濡れてたりして、うっかりそうなってしまった場合は下着を手洗いする羽目になる。
まぁおりものシートとかしてればいい話なんだけどね。でも濡れるかも...と思って予めシートしとくのって不可能じゃないか?
濡れるかもと思った時には既に濡れているのであって毎回後手に回っている。洗濯がめんどいんじゃい!
もっと今濡れてますよ!みたいなわかりやすい通知がほしいんだよな。
自分が今めちゃめちゃ興奮してることがわかると自慰にも身が入るってもんですよ。
外についてるものと中にあるものを触るんじゃ断然外の方が心理的ハードルが低いわけ。
中に指入れるのはこう...腰を据えて自慰をするか...という覚悟がいる。
エロ漫画読んでるとかわいい女の子が頬を染めて背徳感に浸りつつゆっくりと指を挿れてたりして、見る分にはエロくていいんだけど実際自分でやるとなると話が違ってくる。
普通に怖いし。触りかた間違えるとかなり痛いし。
挿れたら即気持ちいいとかじゃなくて、圧迫感や挿入の恐怖に耐えつつ良い所を良い感じに触る訓練が必要なんだよね。
検索すると『女性が中でイくのは難しい!オナニートレーニングで心地よい快感を』みたいなページいっぱい出てくるけど、
トレーニングなんかしたくないんだよ~~~!!!もっと気軽にうわ気持ちいいなにこれ!!って感じのやつをやりたいわけ!!!!
その点男性はとにもかくにもしごいてればある程度の快感は保証されてるわけで、そこは心の底から羨ましいです。
クリ触れよって話だけど、でもやっぱここが一番気持ちいいとされるところに辿り着けないのはなんか負けた気がするだろうが......
やっぱりこの点は欠かせないですね。
気持ちいいだけじゃなくて射精した後は萎えるのではい、自慰が一区切りつきましたよというメリハリがある。
女の場合イく前後で見た目は何ひとつ変わらないのでちょっと面白みがない。
女の方がイく快感が持続するのは良い点かもしれないけど、でも男はやろうと思って練習すればメスイキができるじゃんね。
男はメスイキに到達できるけど女は射精に到達できない......悔しい。射精してみたいよ~~~
禁じた分だけ射精量も増えるだろうし、達成感半端なさそう。やりたい。
これも若干上で書いた外と中の心理的ハードルの話になっちゃうけど、女性の自慰グッズの1位としてイメージされるものってやっぱりバイブなんだよね。
どこを見てもバイブは売ってるけど、バイブはもう既に形がかなり性のイメージ。
一発で挿れるやつだ!!ってわかる形をしてるので、エロい気分じゃない時に目に入るとうーん...っていう気持ちになってしまう。
あと個性を出そうとするとどうしても独特な形(長かったり突起が生えたり)に進化しがちで、エロさよりも痛そう!の方が勝ってしまう。
今TENGAのHP見てみたけど物凄く良い。おしゃれ。全然アダルトグッズ感がない。かっけ~~~!
それにバリエーションも中がふわふわだとかスクリュー型だとか、なんだそれ...気持ちよさそう...触ってみたい...と好奇心が刺激される。
モノを受け入れるのとモノに突っ込むのとではやりやすさも違うしね。いいな~~オナホ。
ざっとこんな感じ。
実際の男性におかれてはそんないいもんじゃない、めんどくさいという意見もあるのかもしれないけど、ちんこっていいな~~という気持ちが抑えられなかったので書きました。
性転換したいわけじゃないよ。
背が高い人ってかっこよくて憧れるな~視界よさそうだし似合う服多いだろうな~~って感じ。
『戦争とエロが科学技術の発展を牽引する』のような格言を聞いたことがある
ではここで思考実験
戦争が根絶され、性欲が完全に管理され工場から赤ん坊が出荷される世界では何が科学技術の発展を強く牽引するのだろうか?
思考実験なので「戦争は根絶することは不可能だ」だとか「性欲が管理されたとしても闇でポルノが蔓延るだろう」とかそういうことを言うのは野暮(トロッコ問題とかでも思考実験の前提をちゃぶ台返ししたがる人をよく見かける)
『戦争とエロが科学技術の発展を牽引する』というのは言い換えれば『戦争とエロは儲かる、または開発予算が下りる』ということだろう
ということは、この思考実験は『戦争性欲完全管理社会では何が儲かるのか?』という問いなのかもしれない
また、『現実世界で戦争とエロ以外で儲かるものは何?』という視点からも考えることが出来る(この架空世界特有の儲かるものはこの視点からだと探れないが)
そう考えると……健康欲と食欲だろうか うーん、ちょっと短絡的すぎる気もする
SF小説の題材になっていてもおかしくないような仮定だと思うのだけどな
アーサー・C・クラークとか伊藤計劃とかが似たような題材で書いていないだろうか
『幼年期の終わり』の「黄金時代」の雰囲気や『ハーモニー』なんかが近い雰囲気だと思うんだけど
「これこれこういう内容の小説を探す」という内容からの逆引きといのはなかなか難易度が高い
「戦争とエロが科学技術の発展に対して『牽引』と表現するほど特別に寄与しているか?」という話は大変ごもっともかと思います
それはそれとして、これはSF小説の設定を考えるような遊びとしての思考実験を当時書いていたのであってね
科学技術の発展に寄与する数多のファクターの中から戦争とエロが取り除かれたらどうなるのか?
という空想遊びだったわけですね
なので最初の命題(冒頭の格言もどき)が偽であると思うのであれば、より適切な命題、もっと楽しい思考実験の設定を提示していただければ幸いです
作ればいいというものじゃない。買って食べてもらわないと意味がない。
今は、生産と消費と災害と補助金、高齢化による離農と参入、規模拡大がある意味よくバランスされていると思う。
ただちょっとした揺らぎでどこでどう転ぶか分からないので、とても不安ではあるが、
そのリスクを打ち消してくれるのが農業収入保険という制度。もはやこれは社会保険の一種だとも思う。
ただその効果は3年程度だ。過去5年の売上を平均して収入補填をする仕組みなので、
●消費拡大を唱えるが、輸出はできない
長期的に消費は落ちていく。
今のところ、輸出で成功しているのは高級果物と肉と加工品(日本酒など)だと思う。それ以外はムリ。
そこには色々な事情があり、個別の農家ではどうしようもない。一例をあげる。
・コメ
1俵2500円、安い安いと騒がれている今年のJA仮渡金(販売額みたいなもの)の一番安い地域の1/3だ。
もし輸出前提で作るコメに補助金がつくのであれば、その大義は国防だと思う。つまり過剰生産しても国民の食糧を守るということ。
そもそもコメの生産国は、自国消費分を作っているのがほとんどであって、生産量に比して輸出量が少ない。
基本的にはほとんどの国が国内消費を前提としている。例外的に生産超過しているのがタイとインド。
中国は現時点ではコメは生産力不足で輸入超過状態。しかしリン鉱石産出量世界一という農業上の最大のアドバンテージがあるので今後は未知数。
肥料について、すでに中国に首根っこを掴まれている状態のようだ。
・野菜
日本には野菜を長期保管するように加工できる施設が十分にない。
なぜなら、日本は国土が狭く生鮮品が生鮮のうちに目的地に着くため、加工施設が必要ない。
その他冷凍・長期保存技術の普及状態などは、おそらく勝ち目がない(たぶん)
投資をしたところで、ほとんど輸出前提の場合のみに使える技術となるので、元から加工が必要な国と比べると分が悪いだろう。
すまないが、これは想像も入っているので、気になる人はファクトチェックをお願いしたい。
全ての工程を自動化することは不可能だ。必ずボトルネックが存在し、そこには人間がいる。
農業は種籾を入れたらコメになるような機械が存在するわけではないし、
この例えですら「種籾を入れる」というボトルネックになりうる工程が存在する。
(#追記:籾を入れてコメにする機械は存在し、それを精米機というが、ここでは主題から外れるのは理解してもらえるだろう)
自動化をすすめるというのは「どこまでコストをかけてボトルネックを解消するか」という問題に半分は置き換えられる。
残念ながら、機械が高度になればなるほど、人間の作業環境は過酷になっていくのではないだろうか。
例えば田植え機を自動化できたとして、今の速度の2倍の速さで作業ができるようになったとしよう。
(田植え期間は限られるので、機械の性能向上と達成可能な規模拡大の最大値はイコールになるだろう)
苗の補給はというかコメ栽培で最も重労働なものの一つ、田植え作業の半分は苗運びと言っても過言ではない。
・2倍の作業者を投入して2倍の面積をこなす(田植え機をボトルネックになる)
・作業者数を同じとして規模を1.33倍にする(苗運びがボトルネックになる)
である。高齢化人不足の業界で前者が容易ではないのは想像つくだろうし、
後者は機械に乗る時間が規模拡大前の0.67倍になるが苗運びの時間は1.33倍になっている。
多分体がもたない上に2倍のはずの機械の能力が発揮されている気がしない。
これでは規模を拡大しない方が正解な気がする。
余談だけど、ヤンマーが提唱した密苗は、この業界では珍しく苗運びの負担減までを考えた優れたパッケージだと思う。徒長しやすいという問題は残ったが。
僕の予想は
・機械化はもう少し進むけど自動化は止まる。結局は人間がやる方が応用がきく。AIの出る幕は全然ない。
・分業が少し進み、プロ農家の仕事は野菜・作物を作ることにフォーカスされていく。イメージとしては酒蔵の杜氏が近いと思う。
・セミプロ農家としての収穫家(とでも言うべきか、収穫調整に特化した人、今はパートのおばちゃんが担当)の登場
・野菜農家は農作業者(正規雇用)1名あたり700万円程度の売上で4人程度で1経営体あたり年商3000万円程度(北海道を除く)
・コメ農家は1経営体あたり15-30ha程度、農作業者(正規雇用)が1-2名程度
多分、このくらいがそこそこ機械に投資もできて利益も上がる、最も競争力が上がる領域ではないだろうか。
そこから上は、規模拡大だけならハイリスクローリターンの領域なので、
突き出るためには、余程の工夫を凝らすか、余程良いビジネスモデルを構築できたものだけだろう。
・きちんと対策を打っていかないと、セミプロ農家が低賃金化していく。
・需要があれば規模拡大を狙う農家は出る。田んぼ一枚増えたところで限界費用は低い。それゆえ食糧不足にはならない。
・60歳あたりで参入してくる人は相変わらずいて、80くらいになれば誰でも限界が来る。農業従事者の高齢化は高止まりしたまま動かず70歳あたりを維持する
も付け加えておく。
なに、そんなにオカルティックな話じゃない。
暇つぶしに聞いていってくれ。
まずは呪いをかける前の心構えだ。
これを誤ったり揺らいだりすると自分の呪いに飲まれることになる。
呪いをかける相手に個人的な感情を抱いてはいけない。友情や愛情などは以ての外だが恨みや嫌悪等の負の感情を抱くこともだめだ。
これが一番難しい。
まあ、だからこそ呪いの代行が職業として成り立ってきた歴史がある。呪術師とクライアントの関係は無責任極まりない関係だ。そこに私怨は発生しない。
では本題。
呪いのかけ方だが、その前にもう一つ、呪いの本質について話そう。
呪いは、広義的な意味では人と人の関係のこと。人間感の関係性や言葉などによる契約、もしくは態度や空気感によって相手の精神を思い通りに変化させる技だ。
「冷蔵庫にあるプリンは明日まで食べないでおいてね」とあなたがあなたの家族に伝えたとする。この時点であなたは家族に対して呪いをかけたことになる。
ただ、自覚的でない呪いは多くの場合強力な呪いとしては成立し得ないだろう。更に言うならばこの約束においてあなたは個人的な感情を抱いてしまっている。
約束を違えてプリンを家族に食べられてしまった場合、あなたは悲しみ?怒り?どちらにしろ負の感情を発露させることとなる。
あなたはあなたがかけた呪いによってあなた自身の感情を左右されてしまうことになる。これは呪いをかけるにあたって最も避けなければならない失敗を犯し、呪いにのまれてしまったということだ。
なぜ呪いをかけるにあたって個人的な感情を抱いてはいけないのかも理解できたと思う。
何度もいうが、強力な呪いをかけるには人間的な感情を一時的に捨て去る必要がある。
それを避けたいならば無関係の他人、それこそスペシャリストである呪術師に頼むのがいいだろう。
呪いのかけ方は千差万別だ。しかしやりやすい方法というのも、ある。
重要なのは、もっともらしい理由を相手に想像させること、自発的な行動を促すこと、反復してそれを定着させることだ。
極端である必要はない。必ず目を見て話す、逆に絶対に目を合わせないで話す、毎日相手に肩を触るなどのスキンシップを取るなど。
呪いの扱いに慣れてきたら規模を大きくしてみる。SNSの捨てアカウントでリプライを送りつづける、など。いかにも呪いっぽいもので言うならば(犯罪だが)虫の死骸をポストに毎日入れるとか。
相手の思考がどのような方向に向くか、相手のことを根気よく観察しながら常に影響を考えてアクションを起こし続ける。
まあ、これはわかりやすく言っただけのものだ。プロはここまで露骨なやり方を取らない。
テンプレートであなたが想像する呪術師であるならば、得体のしれない宗教というツールを使ってクライアントを媒体としてターゲットに呪いをかけるというパターンが多いだろう。
呪術師なんていう胡散臭いものに頼るのはそれを頼るくらいに胡散臭いものを信じている人だ。儀式という手続きを経ることでクライアントは呪いがかかったものと認識する。
もちろん疑う気持ちも持っているだろうが無意識下でそれを信じることによる影響は出ている。これによってクライアントからターゲットへの態度の微妙な変化など様々な要因が組み合わさることによりターゲットに向けて呪いが帰着することになる。
ここまで読んでもらってわかる通り、強力で身近な対象に向けた呪いは素人にはハードルが高い。なんとか呪いをかけるところまでこぎ着けても呪い返しにあったり予測できない不正確な効果を制御できない可能性もある。
無責任な立場で、何かが起きても対処できる範囲でのみ試してほしい。
何度も繰り返して扱いがうまくなれば実生活にも応用できるだろう。
と思うのだけど、どう?
自身が「客観的な基準」を示さずに、相手方にだけ(実質的に不可能に近い)「客観的な基準」を示すことを要求する、さらには提示できない(していない)ことを以て罵倒するのは、卑怯だと思う
客観的な基準を設けることなんて実質的に不可能だからその調整機関として裁判所が存在するわけで。更には変動する世の中に応じて法律自体も刻々と変化するわけでしょ
君らの問題はここだよね
この手の論ってよく見るけどそもそも定性的な「わいせつ」という概念を、定量的かつ「客観的な基準」として示すのって無理では?
何が「わいせつ」に当たるのかを誰が見ても明らかに定義した「客観的な基準」なるものが存在するのなら、そもそも裁判所なんて不要になるだろうし
社会は複雑怪奇で変数が多すぎる。違法なのか、適法なのか、違法ではないけどグレーなのか。公共広告なのか、民間広告なのか、ターゲットは誰なのか、ゾーニングしているのか、状況によって判断基準も変わるだろうし
客観的な基準を設けることなんて実質的に不可能だからその調整機関として裁判所が存在するわけで。更には変動する世の中に応じて法律自体も刻々と変化するわけでしょ
増田もまさか警察が小中学生向けの広報で注目を集めるために局部を絆創膏で隠したAV女優を起用しよう!なんて主張していたら、たとえ合法であっても批判すると思うのよな
自身が「客観的な基準」を示さずに、相手方にだけ(実質的に不可能に近い)「客観的な基準」を示すことを要求する、さらには提示できない(していない)ことを以て罵倒するのは、卑怯だと思う
なのでできるものならまず増田が「客観的な基準」とやらを示してほしい
結局、Vtuber擁護側も「俺的には大してエロくないからセーフ。基準は俺」としか言ってなくない?(そしてそれは仕方がないことだと思う)
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以下追記
「裁判で違法になった表現のみ批判されるべきである」という態度は、一見客観的なようで実は非常に主観的(であることに言ってる本人も気がついていない)だし、多々問題や矛盾点がある考え方だと思うのよね
・推定無罪の原則から、有罪が確定するまでは無罪として扱う必要がある。また確定判決が出るまで年単位の時間がかかる場合もあるのが現代日本の裁判制度である。この前提に立った際、たとえば「〇〇殺す」といった、どう考えてもアウトだし批判されても非難されても仕方ないよという表現でも、確定有罪判決が出るまでは一切批判すらしてはならない、ということになる。あまりにもラディカルすぎないか
・刑事では無罪だが、民事では違法性が認められて賠償請求が通るような事案(あるいは逆も可)があった場合、アウトなのかセーフなのかの判定が矛盾する
・さらには、どのような表現が有罪になってどのような表現が無罪になるのか、網羅的な法律の専門知識があって言っているわけでもないだろう
このあたりを踏まえると「裁判で違法になった場合のみ批判されるべき」という態度は、言葉を補えば「俺が、もし裁判になったらおそらく違法になるだろうと思っている表現のみ批判されるべき」としかいっておらず、その判断基準の内実を定量的に示したわけでもなく、非常に主観的だ。
そもそも行政分野ではあらゆる表現は違法にならない限りOKですよーなんてされておらず、各種ガイドラインが頒布されている。フェミが勝手に言っている、とかではなく、普通に中央省庁や自治体が制定しているものだ。
以下は埼玉県の広告ガイドラインだが、まさにP.10に今回の事案に近い例が記載されている(女性をアイキャッチャーに使う、性的側面、過度に性的な萌キャラなど)
https://www.pref.saitama.lg.jp/documents/64903/p4-p12.pdf
なので、裁判で違法にならない限りオールオッケーとあなた個人が考える分にはよいけれど、現実社会の行政・公共表現ではそんなラディカルな態度は取れるわけがないので、正直いうと世間知らずだな、という印象を受けました。
「自分は見ず知らずの人間に付いていきそう」な軽い人間に見られることに傷つくっていうけど、それがよくわからない。
1. そこで断れば良いだけでは? 断ることによって「自分は見ず知らずの人間に付いていくような人間ではない」ことを証明できるわけで。簡単ですよね。
2. それなら、そう見られないようにPDCA回して改善すればいいだけなのでは・・・?そこでアンケートとって「何故私に声をかけたのか?」を聞き取ることで、今後このようなことが無いように改善の糧になりますよね。
「軽い女に見られた」ということが自身にとって嫌な事だとして、その責を相手に求めるのは何故か?自分にも責はないか?改善できないか?となぜ思考しないのでしょう。例えば「腕も脚も細いし脅したらカネをユスれそう」とカツアゲされた男が、筋トレしてムキムキマッチョメンになってカツアゲされなくなった。みたいな成功例ありますよね。抑止力。そもそも、誰が誰をどう見ようが自由だし縛れるものじゃないんですが。あなたは誰か他人を「コイツ仕事できなそう」「年収少なそう」とか思ったこと、ないんでしょうか。
3.男の性質を知らなすぎるだけなのでは? 単にダメモトで話しかけてるだけでしょう・・普通に考えて。ダメだとわかってるけど一応当たって砕けてみるだけで。
男の恋愛は名前を付けて保存、女の恋愛は上書き保存、なので、男の生存戦略は「数打ちゃ当たるやろ」なんですが、それを女の生存戦略「一番いいのを選別する」と見てしまっているのでは? 「男も、女の生存戦略と同じ行動をしている」という誤解をしているのだろうか?説。
つまり「この男は一生をかけて一番いいものを選んだ選択を、私にぶつけてきた」という、背景の誤解をしたうえで誤った自己嫌悪しているだけなのでは?(それはそれで相手の人生を賭した行動に敬意を払って重く受け止めているとも言えますが)
「お前ごときが、お前の人生を賭けた一世一代の選択を私にぶつけてくるのか?」ではなく、「はいはい無駄打ちご苦労さま~シッシッあっちいけ」では、まったくメンタリティが違ってきますよね。「平服でお越しください」「御社を第一志望に選んだのは」、社交辞令、営業トーク、男の「お前だけだよ」を真に受けてしまうよう・・・ってコト?
他には:
・ググって出てくるのがほぼ職場のシチュエーションなので、職場限定の問題?それだと自分の考えは的がややズレてるか。シチュエーションが、ストリートナンパと職場で分けて考え直ししないと。
・恋愛でない一般的な話として「断る」という意思を伝えること自体の精神的負担がめんどくさい? それならわかる。自分もアブラぎった鼻息荒いウェイ営業をあしらうのちょっとめんどくさいし、家電量販店とか服屋とかで話しかけられたくない。それはもはや恋愛関係ないんですけど。でも社会で人生をやっていく上でそういう人に遭遇するのは不可避ですよね、犬も歩けば棒に当たるというか。そのコミュニケーションコストの支払いを拒否するのは不可能ですね、残念ながら。社会通念上「受忍すべき範疇のもの」として却下されるでしょうね。それが嫌なら人類補完計画しかなさそうです。気持ちはわかる。
例えば「ビーチでセクシーな水着を着る」という行為には、少なからず「性的な含意」があるのだろうが、かと言って多くの人は別に「誘ってる」わけではないわけで。「エロ」とか「性的」とかいう多義的な言葉では語りきれない微妙な差異があるということでしょう。
勘違いしないでもらいたいけど、別にプライベートな場面で着るような「セクシーな水着」で公的な仕事に臨んでいいとは言ってないよ。(まあ、件の「乳揺れ」とやらは、見た限り「セクシーな水着」よりも遥かに穏当な表現だと思うけどね。)
あの程度のものを「性的対象物」つまり「ポルノ」呼ばわりするような公開質問状の内容は、どう考えたって擁護不可能ですよね。
その上、この期に及んでVtuber側を叩く「その他大勢」の言い分もあまりにも酷い。それはフェミ議連の直接の責任ではないにしろ、見ての通り、二次元表現やアバター表現によってジェンダーやセクシュアリティ、アイデンティティを表現する文化に対する差別・偏見というのは今も苛烈に残っているわけです。そこに何かしらの不満があるのだとしても、結果としてヘイトを煽りかねない形で雑な思いつきの批判を公開するべきではなかった、という批判も有り得ますよね。喩えるなら、BLMに不満があるのだとしても、黒人差別の文脈を汲むことなく一方的な断罪に終始する限り、それ自体が黒人差別に加担する結果になるのと同じで。
…例えばオッサンになってくるとさぁ、ちょっと前の出来事だとおもってたのが、なにいってんだオマエあれはもうn年も前の話だよ?!て言われて気付かされて、ええーっ月日の経つのは早いなぁ!なんて感じることがだんだん増えてくる、時間の経つのが体感的にエラく速いような気がしてくる。。。
それってさ、記憶の一部が所々トンでる(なんとなくHDDのディスクが部分的に読み出し不可能になってるように想像する)から、そこの情報が無いから、ソイツの歴史がグッと短縮されて速くなったようなわけよ?ということはさ、
…ときどき読んだり聞いたりする話にある、「憶えたことを絶対に忘れられない能力」を持つ人たちって、時間が物凄くゆっくり進んでいる気分なんだろうか?
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
せめて下を支えた上でずっしり揺れている動きにならないのかなあ
大きな胸がそのまま揺れているだけで相当引っ張られる力が働いているのがうっすらイメージされてしまう
ブラをしていない生活圏の人の胸は垂れ下がってしまうわけだし、ブラをつけていない動きを見るとそのままの形を保つのは物理的に不可能だと本能的に感じる
なんでそんなにおっぱいを揺らしたがるの?
私は胸が揺れる表現が苦手です。
いきなりですが、アホでは?
私も胸が揺れる表現が苦手です。
でも「自分の日常生活にない表現だから嫌」なんてマヌケな説明はしません。
胸が揺れたら不快なのと胸の形をキープする為にブラジャーをつけています。
ご苦労さんです。
でも誰も「あなたやあなたの友人知人の胸が揺れている」とは言ってません。
頭か心にご病気があるのでは?
ならば、長々と書いてた「私の日常で胸は揺れない」という話と結論が全く関係していません!
私は「性的なパーツアピールの取り締まり」に賛成か反対か問われたら反対です。(乳揺れなんか好きじゃないですが)
だって「性的」も「アピール」もなんのことだかさっぱりわからないんですもの。
そこがきちんと定義されずに無限に広がるポテンシャルを秘めてる限りはその基準のとがめだてに反対です。
バカはこういうとすぐ「取り締まられるべき基準など自明だ!」などとバカを丸出しにして威張ります。
しかしタリバンがあなた達と同じ正義、「公共の場で性的なパーツのアピールは見たくない」を実践した結果
あの国では女性は髪の毛も肌も全て覆ってしか外出できなくなっています。
女性の髪の毛は性的だし、それを出して外に歩くことがふしだらなアピールである、それは自明のことだとタリバン戦士は思っています。
自分のお気持ちや教義を自明と思ってるので議論は不可能です。バカって怖いですね。
あなたがたが「性的」や「アピール」の基準を明確にするまではね。
悪意があるというよりは頭が悪くて思考が緩いだけなのでしょうが(最善の相)、
それぐらいの労も厭うならば人の自由や欲望を制限するなんて言う大それた夢のほうを捨てたらいいんです。
積極的に見たくはないけどバカが取り締まろうとすることには反対です。
股間や乳を擁護するのではなくバカによるタリバン的な暴力性を警戒するということです。
私は股間や乳を見て気分が良くはなりませんが大した悪影響があるとも思えない。
一方でタリバン系バカが調子づくことは社会にものすごい悪影響があります。
なんでそんなにおっぱいを揺らしたがるの?
一番カチンとくるのここなんですよね。
自分の言ってることの意味を分かってないですよね。バカだから。
けど乳を揺らす表現をしたい人がいる。それを見たい人がいる。
「必然性ないよね!?」「無いならやめられるよね!?」って本気で言ってる?
それがどういう帰結になるかわかってるのでしょうか。
あなたが好んで選択するあらゆる漫画や映画やドラマやMVといったコンテンツ、ちょっとしたデザイン、あなた自身が発するなんらかの絵や言葉、
それ全部突然現れたアホに「必然性ないよね!?」「無いならやめられるよね!?」って言われても飲まなきゃいけないんですよ。
バカは抽象的な話だけで問題点が理解できないから卑近な例で説明すると、
学校や会社で人の持ち物やら服やら髪やら靴やらにいちいち「学校に持ってくる必然性がない」「会社にその格好でくる必要がない」って取り締まりたがるアホいたでしょ、
あれと同じことをやってるんですよ。
「必然性があるのかないのか」と言う質問に応じるなら「ない」かもしれない、
「ない」って答えるとそのアホの望むチョイスを押し付けられるわけ。
何このアホアホシステム?
「必然性ないだろ」が表現をやめさせる理由になると思ってる人は
全く根本的に、完璧に、箸にも棒にも引っ掛からない、超ド級の、馬鹿です。
元増田のバカさと関連する形でバカなブコメがついてる(トップ人気!)から引用します。
zheyang
戸定梨香の動画、乳が揺れてるのにスカートと腰のリボンが揺れてない。
乳に対する異常な執着が伺えるらしいんですが、
まずどこからが「異常な」執着なのか、何によって判定するのか教えて欲しいんですよね。
揺れたら異常なのか。揺れなくても大きいだけで異常なのか。胸元が開くと異常なのか。肩はいいのか。
客観的なラインとその論理を説明できるならよし、そうではなく都度決めてるならそれはただのあなたがたの主観と感情であって
そんなものはあなたがたの中ですらブレブレに動くし、まして他人が共有できるものではないんですよ。
きっとこの人達はこれっぱかしのこと聞かれても答えに窮するんだけど(なんにも考えてないから)
自分の発した言葉の意味を説明出来ないのは醜態であるという基本的な認識がこんにち発言する人全員に欲しい。
それで、
そもそもなんでこの人達がこういう微妙かつ自分達での定義すらできない「必然性」や「正常」なんていう弱弱しい論陣で戦おうとしてるかというと
フェミニスト議連がぶち上げた「性犯罪を誘発する」のような規制理由が無理筋であることは判断突いちゃってるからなんですよね。
フェミニスト議連の主張が間違ってることをこの人達は言外に、無意識に、判断出来ちゃってる。
正にお気持ち。
「スカートやリボンが揺れてないのに乳が揺れてるのは異常だ!」って本当に笑っちゃうというかレベルが低いというか、
世の中には乳に全然興味がなくスカートや髪の毛の揺れこそが少女の可愛さを表現するんだと信じてその描写に打ち込む漫画家とか幾らでも居るし
それは異常な執着ではないんですかね?
https://pbs.twimg.com/media/E1_HNmHUcAQhlbD.jpg
っていったらスカートの皴の繊細な描写も異常として取り締まりだすのかな。
saiusaruzzz 元増田は「女性にとって胸を揺さないことの必然性」を説明していて、だから胸を揺らすことは女性にとって「自己」表現とはなりにくいという話では。
だから元増田にとって乳を揺らすことが自己表現でないことは元増田の自由です。 こんなん何度も言わせないでほしい。
でも元増田以外の人達が乳を揺らす表現を選択することはその人達の勝手であって、元増田が「私の日常には無い」と宣言すること自体おかしくね?関係ないじゃん。
「私が全女性の代表です」とか「私が女性性を統括管理しております」とかいう気持ちが出始めてるならそれは心の病気です。
何もズレていません。
乳だけに反応するあなた達の乳児性や視野の狭さ反応パターンの貧しさを言っているんです。
「異常な執着」という雑な話に乗るなら私は例えとして出したこの漫画家の方が遥かに繊細で徹底的な執着を持った異常者だと思う。
https://twitter.com/siiteiebahiro/status/1252618446677803008/photo/1
あの雑でへったくそなvtuberの3Dモデルなんかよりこの人のイラスト見てると100倍ゾワゾワする。
乳ばっかり見て「揺れた!異常だ!」ってまあほんとに何を狩ってるつもりだか。
あなたたちはすごーーーくわかりやすい表層的なシグナルに反応するカエルです。
そんで自分が反応したものに対してカエルの浅はかな考察を加えておせっかいなレッテルを貼る。
あなた達が追えてるのは「表現者の異常な執着」なんて上等なものではなく、単に「自分のカエル脳の反応パターン」です。
その表現が有害であるなんて証明できたこともなく、自分のカエル脳が興奮したことを持って「許されるはずがない!」と喚いてるんです。
中世かアフガンに生まれてたらフシダラ女狩りや魔女狩りで自分の脳の興奮を他人に転嫁出来たのにね。
Arturo_Ui 長すぎて読む気が失せたんですが、「スカートの皴の繊細な描写」って、「プリーツ」のこと?
「あれは皴じゃなくてプリーツって言うんだぞ!ボクチャン知ってる!」ですか。
おしえてくれてありがとう!むずかしいこと知っててえらいでちゅねー。
私はプリーツの話ではなくスカートの動きで生じる皴の描写話をしています。
例に挙げた人はプリーツの上で重なったり折り畳まれたりするスカートの布地の形を追求して描写してるんです。
この人の理想の「活き活きとした少女」がスカートに皴を作りまくりながら躍動する絵をずーーーっと描いてる人です。
ね?具体例を画像で出されてすらどこが凄いのか何に執着してるのか着目する能力がないんです。
この程度のお粗末な解像度しかない人達だから「胸が揺れた!」みたいな表現狩りが大好きなんですよね。
「肌が見えた!」っていう蛮人となんもかわんねえ。
nicoyou “乳を揺らす表現をしたい人がいる。それを見たい人がいる。”うん。それはいいと思う。VTuberで揺れるのもいいと思う。ただ公共の場に持ってきたら見たくない人にまで押し付けることになってない?って話じゃない? 増田
けど取り締まる気はない。理由は上述の通り。
お前等がそれでも自分基準の取り締まりをやりたいならせめてその「性的」「アピール」の基準ぐらい示したらどうですか?と言ってるの。
ていうかこれ全部本文に書いたよね?
toaruR 性的に受け取られることを「期待した」表現かどうかで一線引けますよ(´-`)揺らす性的魅力によって消費されることを期待しているのなら、それは性的表現だという風にね
おめーみてーな回転がすごうく悪い人の為にタリバンの例えをしてあげたんですけどね(´-`)
タリバンは女が髪や肌を出して歩いてるだけで「男を誘っている」「アピールしている」と判定していきり立ってその女を取り締まるわけです。
一方であなたの様な頭のにぶうい規制派さんでも、日本生まれ日本育ちならまあ髪や顔の肌を取り締まりたい感性は持っていませんよね?
つまりあなたもタリバンも「性的なアピールは許さん!」という同じ文言の正義の信奉者であるにもかかわらず
その具体的な基準が全然違うわけです。正義の味方同士ですら基準が全然自明でない。
どこにどうやって引くんでちゅか?
それが単なるお前の個人的な反応ではないということを誰が証明するんでちゅか?
せめてちゃんと明文化して基準案として出してみたらどうでちゅか?
しってた?頭悪くない人間でも自分の考えまとめるために紙に書くんだよ?
君達はなおさらちゃんと文字で何枚も書いて考えまとめないとダメじゃん。
なんだろう、自分の卑猥なほど頭悪い主張を自信満々にアピールしてくるのやめてもらっていいですか?
私の個人的な感覚では、低品質なvtuberの動画が公共空間に流れることなんかより、
こういう気持ち悪いほど頭悪い発言がわいせつ物扱いにならずに流通してる事の方が不道徳なことだと感じるんですよね。
全国フェミニスト議員連盟(以下フェミ議連)が戸定梨香さんの交通安全PR動画の削除を迫った件。
一刻も早く事態が収束し、戸定梨香さんの名誉が回復されることを祈っている。
仮にも議員を名乗る集団が「性犯罪の誘発すら懸念される」という表現を用いた公開質問状というフルスイングの圧力をかましたために、大規模な騒動となった今回の一件。
荻野議員らが発起人となって4万人を超える署名が集まり、フェミ議連に対して抗議文と公開質問状の送付がされるに至った。
自分も署名したが、この一件に疑問を感じている人は是非とも署名に加わってほしいと思う。
さて、長く沈黙を貫いてきたフェミ議連の回答は驚くべきものだった(まだ期日ではないので正式回答ではないことに注意・・・回答するよね?)
千葉県警等に提出した抗議ならびに公開質問状にご関心をお寄せいただいた皆さまへ 提出した文書は、公的機関としての認識を問うたものです。 当該動画の掲載も、削除も、ともに千葉県警によるものです。現在、メール等が多種の内容で寄せられており、個別に回答は致しかねます。悪しからずご了承ください。
「公的機関としての認識を問うたもの」という大嘘に加え、まさかの警察への全面的な責任転嫁という、厚顔無恥なスタイルはさすがに人々の度肝を抜いて、「全国フェミニスト議員連盟」がTwitterのトレンド入りするなど大規模な炎上騒動になってしまった。
しかし、彼女らは仮にも政治家だ。保身のプロフェッショナルだ。
ここまでアホな回答を本気でするだろうか? と考えたがひとつだけ心当たりがあった。
キズナアイNHK騒動や宇崎ちゃん献血騒動の火付け役となった人である。
しかし、自身は火をつけた後は一切の批判意見を無視し、自身の意見を発することなく賛同意見のリツイートのみを行うため、自身には炎上の火の粉が振りかぶらないという、実に保身に長けた放火魔として有名な人物である。
性的表現に対する炎上騒動はそもそもの論理に綻びがあるため、長期戦になればなるほどボロが出て自身が炎上するというのがいつものパターンだ。
キズナアイ騒動の時にも、後からやってきた専門家先生が杜撰な批評記事を書いて批判を浴びた。
このように、無理筋な擁護をしようとしてもっとヤバいやつが出てくるためにそっちに炎上の矛先が向かっていくというのが、いつもの流れなのである。
それを踏まえて、フェミ議連の声明を見ると気が付くことがある。
これは、署名が始まって以降、俗にツイフェミと呼ばれる人たちによって展開された頓珍漢な批判とあまりに同じなのである。
荻野議員のtwitterなどを見ればわかるが、フェミ議連が声明を出すずっと前から、ツイフェミたちはここに論点を逸らそうと腐心してきた。
あまりにアホすぎる上に、他に優れた批判がたくさん出回っているため、ここで再度語ることはしないが、とにかくそれぐらい浅い論点ずらしだ。
政治家ともあろう人が、この主張の危うさに気付かないとは考えにくい。
彼女らは長期戦の構えに入った。
あの声明は、批判者を説得するためのものではなく、自身の支持者(信者といってもよい)を力づけるためのものだ。
「本丸のフェミ議連が同じ主張をしているのだから、この路線で突っ切れる」という自信を与えたのだ。
こうして論戦の舞台を、自分以外の尖兵に委ねて自身は沈黙を貫こうという魂胆だ。
ただでさえ苦しい擁護なので、遠からずボロを出して大炎上する人が現れるだろう。そしたら炎上の主題はそちらに移り、フェミ議連にかかる火の粉は小さくなるのだ。
太田啓子弁護士と違って、フェミ議連という実効力を持った組織による行動というのが問題なので、完全な雲隠れは不可能だろう。
しかし、それでも長期戦になればなるほどターゲットが増え、論点が逸れ、相対的にダメージは減る。
自身の意を汲んでくれた警察に責任を擦り付けるような組織なので、自身の支持者が燃えるぐらいはなんとも思わないだろう。
とにかくのらりくらりと批判をかわし続けて、炎上が落ち着くまで長期戦で逃げようというのが、彼女らの思惑ではないかと推測される。
あくまで推測なので、彼女らの糸がこれで正しいかはわからない。心から警察のせいだと思っている可能性もある。
いずれにせよ、長期戦は彼女らを利するばかりというのは事実である。
なので、批判者側の戦略としてはフェミ議連を逃がさないことが必須だと思う。
期日までに正式な質問状への回答を出させ、その上で本人たちを議論の場に引きずり出すこと。そして、フェミ議連が送った公開質問状の是非を、きちんと白黒つけさせること。
批判者も目先のヤバいやつに釣られずにこれらの主題を見失わないことが大切だ。