はてなキーワード: 1948年とは
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これらの問いに対して、人類が歩んできた歴史の視点からの回答が無いので、記しておきます。
お前らって本という物体に対してだけ異常に過保護じゃない?それにしてもお前らの「本を大事にしろ!本を傷つけるな!」的な反応は過敏で異常だよ。宗教なの?
それは「図書館」っていうシステムが原因だと思う。なんで本だけ特別視されて、自治体が無料で貸出しなくてはいけないのか本当に謎。
これは人類が、本そして情報を手に入れる為に、血みどろの歴史を歩んできたから。
その歴史の教訓によって培われた共通認識を ”宗教” と呼ぶならば、そうかもしれないが。とりあえずは、なぜこうなったのかを紐解いてみましょう。
古来、文字や書物(パピルスや木簡など)は特権階級の軍人や貴族や宗教家のものでした。なぜ特権階級が独占していたかというと、文字を記す為のパピルスや木簡の製造コストが高かった事や、地図や軍事情報など機密に関する内容が記されていたなどが理由です。庶民の識字率も低く、市民が文字を使うとしても帳簿や資産管理としての利用が長年続きます。
しかし15世紀にグーテンベルクの活版印刷機の発明により状況が激変します。書物が大量複製できるようになり、庶民に知識が行き渡るのです。
これまでの世界において、知識や文化とは、口伝や継承によって高いコストをかけて伝承されていく特権階級のものだったのが、複製された本を手に入れることでも誰でも知にアクセスできる時代が到来しました。
当時の特権階級の宗教家達の心情を記した言葉が残されています。
教皇は知識と印刷術を廃止しなければならない。さもなくば、印刷術が最終的には教皇を廃位に追い込むことになろう。
From the Days of Great Dedications - John Fox's Book of Martyrs
印刷術による本の普及により、知が民衆化した。それにより特権階級だったカトリック教会の力が弱まる。
そしてゆくゆくは18世紀にヨーロッパ市民革命に繋がり、ついに貴族の統治する時代が終焉し、民主主義が産声を上がった。
それまで特権階級が保存していた、価値ある美術品や博物品は、市民の手により Museum として共有される事になりました。(英語の Museum が博物館と美術館の両方の意味を備えるのは、貴族から奪った貴重品をいっしょくたに展示した為、美術品や史物の区別をつけなかった事が定着したからとも言われている) 一方、図書館は革命時代より一足はやくに制度化が進んでいたため、 Library という名前で普及していく事になります。
概ね図書館および本という存在が、市民の地道な活動により普及し、普及した成果がさらなる民衆の活動を促した。という見方ができるといえます。
日本図書館協会の「図書館について - 図書館を支える理念」を引用します。これこそが、図書と書籍の歴史を端的にあらわしています。
図書館は、それを生み出す社会の特徴や条件を色濃く反映してきました。戦時下では国家の思想を広める役割を果たすこともありましたし、一方では社会的マイノリティーの権利を守るために働くこともありました。社会の変化の中で、図書館はさまざまな状況におかれてきましたが、いくつもの波にもまれながら、いかなる状況の下でも、すべての人たちに情報を提供するのが「図書館の自由」(Intellectual freedom of libraries)なのだという理念を獲得するに至ります。アメリカでは「図書館の権利宣言」(Library bill of rights、1948年採択)、日本では「図書館の自由に関する宣言」(1954年採択)です。これはあらゆる種類の図書館が守るべき自律的規範として、広く支持を得てきました。また、この原則を守るための専門職の行動規範として、「図書館員の倫理綱領」(Code of ethics for librarians)があります。
私のシンプルな記述だと物足りず不満に思う人もいると思います。興味がある人の為に、図書館の歴史と近代ヨーロッパの歩みについての書籍を紹介するので、それで理解を深めてください(と逃げさせて頂く)
書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで
まあ総括して言える事は、本が重要だと長い歴史の中で認められてきた為、今の扱いの重さに至ってるって事ですね。
同じ理屈で、他の疑問にも答えられる。
米とかもそういう節がある気がする(平均的な食品の大事にされ方を遥かに超越して大事にされてる)けど、どういう心情からそれが発生するわけ?
お米は長らく税として徴収されてきた歴史がある。つまりお金と同じ価値でした。
宗教なの?
同じ理屈で返すなら、あなたの財布に入っている一万円札。これはただの紙切れなはずですが、破いて捨てないのはどうしてですか。社会的・歴史的に一万円札の価値と通念が形成されてるから、大切に扱うわけでしょう。ただの紙切れなのに。
本も、米も、お金も、同じことです。
図書館基準で考えるなら、体育館の施設利用自体も無料にしてほしい。図書館は法律がそうだからというのは理解している。それなら体育館もそうすればいいのにってこと。オリンピック的な勢いでそうならないかなぁ。運動する人のことも考えてほしい。
図書館にも有料のものも多くありますが、まあ置いておくとして。この理屈は分からなくはありません。
しかし図書館と同じように、社会に必要とされる意味合いが重くなるなら、きっと体育館も無料になるでしょう。
実は歴史の上でも先例が多数あります。オリンピック繋がりでスパルタの例を紹介しましょう。
古代オリンピック発祥の地にも近い、ギリシアのスパルタ。7歳になった子供はスパルタ国家の寮で生活し、毎日運動がさせられます。費用はもちろんスパルタ国家が全部負担してくれます。無料です。立派な運動教育のすえ、子供は屈強な戦士としてスパルタ国を守る存在となりました。めでたしめでたし。
これはスパルタ教育という言葉で現代にも伝わっていますね。大げさな例を出しましたが、このように社会に必要とされ価値が認められれば、無料になる例には事欠かないと言えます。
日本も高齢化社会が進んでいますし、健康寿命を気にした予算投入も珍しくありません。スパルタ国ほどオーバーな例はないにしても、無料になるところは今後増えると思いますよ。社会に必要とされていますから。
1582年夏 本能寺の変。信長親子脱出成功。山崎の合戦で光秀滅亡。
1583年夏 信忠・秀吉による九州攻め開始。信長による小田原城砲撃で後北条家滅亡。柴田勝家が小田原からの帰路で謀反。
1583年秋 第一次関ヶ原合戦。勝家勢が信長を追い詰める間際、勝家勢後方に下品な金成瓢箪が現れ勝家勢崩壊。お市に会いたく無い勝家が安土城で自刃。
1584年夏 「三州騒乱」勃発。伊達、上杉を巻き込んだ徳川家康による信長への叛逆。岐阜城攻防戦で家康勢遅滞。
1584年秋 秀吉による近江口への誘引で「第二次関ヶ原合戦」発生。
1585年頃 信長により天下統一完了。日本皇国成立。海外進出が本格化、大陸方面では無く東南アジアや北海道方面へ。
1587年頃 スペイン帝国主力の欧州連合による東洋派遣艦隊を撃破。印度以東の欧州権益取得。信長は南海覇公と呼ばれる。
1620年頃 新大陸で新出雲新界成立。その後スペイン帝国領ヌエバ・エスパーニャ副王領を併合。日本皇国領大和州となる。
1762年 日本皇国大和州派遣軍が大和民国軍に新出雲の戦いで敗れる。これにより大和民国独立が確定。
1813年 プロイセン陸軍参謀本部が九州攻めを参考にした「ライヘンバッハ・プラン」でナポレオンの内線作戦を崩壊寸前にまで追い込む。
1814年 ウィーン会議。ナポレオンは失脚せずフランス帝国も存続。
1848年 大和民国の武力恫喝によってヴァージニアが割譲される。欧州の新大陸領土消失。
1898年 大西戦争によって大和民国はスペインからキューバをはじめとするカリブ海領土を得る。
1937年 「満州戦争」勃発。中華連合共和国が中華民国領満州へ侵攻開始。日本皇国は中華民国との同盟により渋々介入。
1938年 大韓帝国が日本皇国に宣戦布告。大英帝国大艦隊が大和民国領キューバを奇襲攻撃し「大西洋戦争」勃発。
1939年 中華民国が中華連合共和国に降伏。林彪上級大将率いる中華沿海州装甲軍が日本皇国沿海州で攻勢に出る
1940年 日本皇国・大和民国を中心とする「大東洋同盟」が成立。
1941年 大韓帝国が日本皇国と休戦。中華連合共和国に宣戦布告。
1942年 中華連合共和国・大英帝国が大東洋同盟に降伏。大西洋戦争終結。
この記事を読めばN医師とは誰のことかたちどころにわかるのだが、それはさておき、色々調べてみると、この事件は文藝春秋社が一方的に悪いことがわかる。結局、スポンサーへのSWCからの圧力という事実は存在せず、勝手に慌てふためいただけの文藝春秋者が雑誌を廃刊し、社長が辞任し、そして勝手に花田編集長(当時)が辞めたのだけだったのである。しかしこれは最悪だった。ホロコーストに否定的なことを言うのはタブーだ、という誤った認識を世間に与えてしまったからである。SWCは単にホロコースト否定論を監視する団体であり、それまで世界中でずっと抗議してきたのである。なぜなら、欧米では日本など比べ物にならないくらいホロコースト否定論は昔から大きな問題だったからである。
事件の中心人物だった、N医師のその当該記事は噴飯物の記事だった。何せこのN医師、普通ならあの有名なAuschwitz強制収容所は「アウシュビッツ」或いは「アウシュヴィッツ」と日本語表記される筈なのに、「アウシュウィッツ」と呼んでいたくらいのレベルだったのである。今でもAmazonや古本で『アウシュウィッツの真実』という初版本は売っているので、その表紙をWeb上で見てみるといい。これが別の出版社からのちにペーパーバック版として出された時に、こっそり「アウシュヴィッツ」に直しているのが笑える。ちなみに、この指摘をしたのは、N医師をネットで散々苔にするほどに論駁していた山崎カヲル氏である。
N医師は、デイブ・スペクターによれば、それまでは英字新聞への投稿マニアに過ぎなかったらしい。おそらくは、そうした趣味が1995年当時、そこそこ盛り上がりを見せていた欧米のホロコースト否定論に接する機会を与えたのであろう。N医師にしてみれば単に当時の流行り物に飛びついただけだったに違いない。ともかく、N医師は別にホロコーストに詳しいわけでもなんでもなく、その程度のレベルであったから、文芸春秋社はきっちり反論記事でも載せるべきだったし、或いはN医師の記事など最初から突っぱねるべきだったのである。どれだけ噴飯物の内容だったかは、これでも読んでみるといい。
だが、たった一度のその記事は、N医師の人生を大きく変えてしまった。未だにN医師は日本のホロコースト否定論者の第一人者としてたくさんの信者が存在する人物になってしまったのである。知名度を生かして講演料まで稼いでいるらしい。前置きが長くなったが。
この問題は、結構事情が複雑である。簡単な説明は英語だがこちらで読むことはできる。一体この煙突問題を誰が言い出したのかはよくわからないが、クレマトリウムⅠの捏造疑惑自体は、1980年代ごろにフランスの有名なホロコースト否定論者だったロベルト・フォーリソンが言い出したのである。大概の細かいホロコースト否認論はこのフォーリソンが発祥である。フォーリソンはホロコースト否定を公に行ったことで当局に逮捕され、裁判になり、実はこの裁判でクレマトリウムⅠの捏造疑惑は形上は一旦決着しているのだ。だが、フォーリソンはそんなことで諦めるような人ではない。
続いてホロコースト否認問題では欠かせない話題であるツンデル裁判というのがカナダで起きる。欧米では当時かなり大騒ぎになった事件である。そして、このカナダの事件にフォーリソンは深く関与した。有名なロイヒターレポートの発案者も実はフォーリソンなのである。それはともかく、クレマⅠの捏造疑惑のネタがまたこの裁判内で取り沙汰される。この時はフェルデラーという超悪質なホロコースト否認論者が証人となって裁判で取り上げたようである。間違いなく暗躍したのはフォーリソンであろう。この裁判の決着はさておき、最も目立ってこのクレマⅠの捏造疑惑を取り上げたのは1990年代に入ってデヴィッド・コールというユダヤ系アメリカ人だった。ユダヤ人だってホロコースト否認はする人はするのであるが、彼はアウシュヴィッツ博物館に出向いて、アウシュビッツ 担当者まで登場させるビデオを撮ったのである。このビデオは今でもネットで視聴可能である。コール自身はこのビデオの販売に抗議したらしいが、出回ってしまったものはしょうがない。しかし、このデビッド・コールのネタ元は間違いなくフォーリソンである。コールの裏で暗躍していたかどうかまでは知らないが、フォーリソンが1980年ごろに指摘しなければ誰も気づかなかったのは間違いない。2000年代以降はオーストラリアの否定論者フレデリック・トーベンという人物がこのクレマ1捏造疑惑を喧伝していたようであるが、この人物も何度か逮捕されてるということくらいしか私は知らない(正直どーでもいい)。
簡単には説明がなかなか難しい。全体を把握しようとすると、ホロコーストの全体的な細かな問題まで把握しないといけなくなる。ただ、こう説明することはできる、ホロコースト否定派はどんなことがあっても絶対に断じて「ガス室」だけは認めることはない、のである。他の虐殺方法程度なら認めるホロコースト否定論者はいるけれど、ガス室だきゃあ絶対に認めてはならぬものなのである。そのガス室は現在もアウシュヴィッツという最も有名なホロコーストにおける強制収容所内にあったものとして公開されているのだから、否定論者にとってはまず最初に疑いの目を向けるものになってしまったのだのだろう、それ故に、否定論者にとってはクレマトリウムⅠと呼ばれるその場所は「戦後に捏造された」ものでなければならない。
ところがこのクレマトリウムⅠ、実に否定論者にとって都合がいいことに、実際に戦後に「再現」工事がなされているのだ。前述したリンク先を読めば書いてあるように、戦時中にいったん防空壕になっていたものを、ガス室として公開するために、もっかい戻したのが、昔は共産圏だったポーランドだったのだ。そして、この再現工事に実際に携わった当時の職人が、前述したフォーリソン裁判に出廷し、「再現工事をこんな感じでやりました」ときっちり証言していたのである。当然、捏造だなんて話にはなっていない。しかし、フォーリソンら否定派は「そんなに都合よく裁判に証人が出てくること自体怪しい」と引き下がらない。何せ、1980年代当時は、相手は東側であり、西側にとっては怪しすぎる共産圏国だ。背後にはソ連がいて、疑うにはもってこいの状況だった。
前述した海外サイトへのリンク記事にもあるが、煙突問題とは、戦時中にクレマトリウムⅠにあった煙突が、そこが防空壕に改築されるときに解体されたのである。そして、その煙突はアウシュヴィッツ博物館が1948年にオープンするのに合わせて、当時の再現という意味でもう一度作り直されたのだ(煙突だけではなく他も色々工事しているが、結構杜撰な再現工事であることは頭に入れておく必要がある。図面をよく見ればわかる)。だから、一時期煙突はなかったのであるが、戦後にそのなかったときのクレマトリウムⅠの写真が残っていて、それを現在の写真と比較して「戦後すぐにはなかったじゃないか!どうして今あるんだ? 捏造しだろ?」と仰るのである。……アホかと。
実際、煙突はガス室にはほとんど全く関係がない。火葬場があれば、煙突は必要だった筈で、クレマトリウムⅠのガス室は否定しても、そこが「死体置き場」だったことを否定する否定論者はゼロ(だって「死体置き場」自体はバッチリ図面にそう書いてあるのだから)である。むしろ、煙突がもし戦後に再建されていなかったら、図面を見た人間は気づく筈である、どうして煙突がないのだ? と。結局、防空壕だった時もその前の時も、図面が残っているので、問題の根本があるとするならば、ガス室としてほんとに「死体置き場」を使用したのかどうかだけが問題の筈なのである。これが、N医師にはどうしても理解できないらしい。そもそも悪いのはフォーリソンなのであるが(図面をきっちり1980年ごろに既に取得しているのであるが、フォーリソンには図面を正しくみる能力はなかったようである)、そもそも論としてそこがガス室とされるのは、図面にも文書にも残ってないのだから、アウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスやその他の証言者の証言しかないのである。こんなの否定論者が一番よく知っている事実の筈である。つまり、最も怪しむべきはその「証言・証言者」であるわけだ。だから、私はそのことを直接本人に言ってやったのだが……。
N医師は最初「アウシュヴィッツ司令官のルドルフヘスの話がガス室の根本である」のようなことを言ったので、私はそれはおかしいと指摘した。何故ならば、ルドルフ・ヘスは逮捕されたのは1946年3月であり、実はその約1年も前に、問題にしているクレマトリウムⅠのガス室に関する証言をした人物がいるからである。ポーランドは、ドイツが撤退すると、さっさと戦後処理に取り掛かり、ドイツの終戦を待たずに戦犯裁判に動き出していたのだ。だから、1945年4月16日にアウシュビッツの囚人だった人物がクレマトリウム1のガス室についてポーランドのクラコウというアウシュヴィッツ収容所のある地元法廷で宣誓証言をしているのである。これは時系列として全くN医師の言っていることに矛盾する。
「肝心だったのは、連合国としてはアウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスに中心人物として証言させることだったのであり、誰が証言をし始めようと構わなかったのである」と。
まぁ、そんなことだろうなとは予想はしていたが、N医師は自身の脳内ストーリーさえ辻褄あわせができればそれでいい低レベルの陰謀論者に過ぎなかったのである。彼はこうも言っている(昔からである)、「ヘスはイギリス人に拷問を受けて嘘を言わされている」と。拷問を受けたというのは拷問した人物が手記にそう書いているので、事実であるだろうが、拷問受けてなくても当然信用してなかったわけだし、それよりももっと矛盾しているのは、これ拷問したのは「イギリス」である。N医師は別のところでは、「ポーランド」が怪しいと言ったり、「ソ連」が怪しいと言ったり、単にめちゃくちゃな脳内理論を披露しているだけなのである。陰謀論者の一般的な主張通り、陰謀それ自体の証明は一切ない。陰謀は巧妙にできているからである。
だったら何故、「煙突問題」のように疑われるような事実を残すんだよ? と突っ込んでやりたいところだが、奴らは脳内論理の辻褄さえ合えばそれでいいので、どんなにツッコミを入れても無駄である。
当然私など、N医師に比べりゃ微塵子のような存在でしかないから、支持はN医師に集まる。N医師自体がネットに腐るほどいる低レベル陰謀論者に過ぎないことは実際どうでもいい話なのだけど、N医師を支持する人が実際に結構いるという事態を目にしてしまうと、こっちが頭が変になりそうだった。SNSはそうした言わば人気者をあたかも「教祖」のようにしてクラスターを形成する仕組みだから、それ自体は現象としてしょうがないのだけど、頭では分かっていても実際に見てしまうとねぇ……。
というわけでさ、ホロコースト否定論なんざ、そんな下らない低レベルの世界なんだ。あなたは、「ガス室」はそれでも疑わしいと思いますか? つーか、なんでそんな低レベル陰謀論が支持者を集めるのか、私にはちっとも理解できません。
追記すると、N医師にはクレマトリウムⅠは一回防空壕に改築させていることだけはなんとか認めさせた。それすら認めていなかったのだから、呆れるけど。
初めてスケートリンクに遊びに行ったとき、普通にスケート教室がリンクの中央で開催していた。そこで自分と同世代の女の子たちが、きれいに足を上げて滑っていたのだけれども、いつものようなパンチラとは違って普通にお尻の曲線をずっと眺めていることができてしまって、僕は滑るどころではなかった。
性に目覚めたころ、こんな目で女の子を見ちゃいけないと思ってはいたのに、自分ではどうしようもないほど強力な衝動に襲われていて、自分が自分でなくなってしまいそうで本当に怖かったし、初めての射精のときも呆然として、それから怖くなって涙が出てきた。男性だって、性の目覚めってのは怖いものだということは、広く知られていい。今となっては、とてつもなく図太くなってしまったが。
ところで、フィギュアスケートだ。その名の通り、元々は氷上に図形を描くスポーツであったのだが、その優美さと技を競うものになっている。氷の上を滑る技術そのものは非常に古く、スケート靴も先史時代にさかのぼるという。
で、そのスケートが競技になって以来、女性たちはどうやってパンツが見えることを防いできたのか。今のようなレオタード以前はどうであったのか。調べてみると驚きの結果が出た。なんと、戦前にさかのぼる見せパンが発見された。以下はその資料である。
1928年、ドイツのEllen Brockhöftによる滑走。
https://www.liveabout.com/illustrated-history-of-figure-skating-clothes-1283059
1948年、Barbara Ann Scottのクラシックなスケートスカート。ミニスカートになっているのは、戦時中の繊維不足のためだと書いてある。にわかには信じがたいが、これ以来スケートのスカートが極端に短くなったのだという。
また、同資料では、スカートがどのようなフリル付きレオタードに移っていったかの写真が掲載されている。
こちらの資料でも、繊維の不足がミニスカート化を加速させたと書いている。
同じくBarbara Ann Scott、1948年のオリンピックである。
同じく1948年、アメリカのGretchen Merrill。興味深いのがベルトを身に着けていることだ。当時ではフィギュアスケートのアクセサリーとして使用されていたが、60年代から70年代のワンピース型の衣装の普及とともに廃れたとのこと。しかし、ベルトを着けていると、なんだかますます見てはいけないもの(パンツ)を見ている気がする。
ちなみに、プロの選手が練習時に着用する、真っ黒な長袖長ズボンみたいなの実は好き。とはいえ、ジーンズにワイシャツのかわいい女性が好きというのと同じで、元々かわいくないと似合わないんだよ、とツッコミを入れられてしまいそうな話ではある。
スポーツジムで、体操の選手のレオタードを中継しているのをみたことがあるのだが、なんだかエッチな気持ちになるのが申し訳ないくらい、辛そうだった。手足は傷だらけだし、表情は真剣そのものだ。それでも、魅力的に感じてしまうことに、我ながら困惑する。おそらく、頭の中で「好き」「かっこいい」「エッチ」の感情を処理するユニットが近いので、混線しているのだと思う。
言い訳はさておき。以前にも書いたが、レオタードは元来レオタールという男性曲芸師が全身にフィットした衣装を身に着けていたことに由来する。もともと男性のものだったのだ。しかし、その機能性が注目され、女性のものとして利用されるようになった。
とはいえ、当時のことだからいきなり今のようなハイレグ水着みたいな形になったわけではない。当然、紆余曲折があった。
http://www.olympicleotards.com/leotard-history/
上記の資料によれば、1908年代に女性向けレオタードと称していたのはドレス状のものである。初期の女性の水着がドレスみたいで、体型を一切見せないものだったのにも似ている。
1948年に今のような形になっているが、ハイレグではない。せいぜい提灯ブルマー程度しか足を見せない。
今のようなハイレグとなったのは、60年代以降だ。1976年、ナディア・コマネチはビートたけしのギャグでも知られているが、ここまでくると広くハイレグが使われていたようだ。
おそらく女子バレーでブルマーが使われだしたのはこのころだし、これが日本でのショーツ型ブルマー導入の遠因になっている気がする。
https://www.elle.com/fashion/a37371/evolution-of-gymnastics-leotard/
それ以降、基本的にレオタードはハイレグだが、時代によって模様にもはやりすたりがある。概略を示すと、無地→愛国的デザイン→キラキラした素材、といった具合になるようだ、使用されている繊維の質も違う。
なんとなくブルマーの本場というか総本山のイメージが女子陸上や、女子マラソンにはある。とはいえ、選手によっては普通の短パンだし、中には宗教上の理由から全身を覆う例もある。普通にかわいいと思うし、よく似合うと思う。イスラーム世界はおしゃれとは無縁だと勝手に思っている人もいるらしいけれども、ヒジャブだとかチャドルだとかはいろんな色や巻き方があるし、僕らには見えないけどもその下はきれいにお化粧している。いろんなファッションでスポーツをやる人がいてしかるべきだし、それを決めるのは選手だろう。
で、話を女子陸上に戻すけれども、ここで特筆すべきなのはへそ出しというか、もうほとんどビキニみたいな恰好の選手。腹筋がめちゃくちゃかっこよくて、おかげで腹筋萌えにまで目覚めてしまったのだけれども、昔はそんな恰好をする選手はいなかった。
https://www.elle.com.au/news/summer-olympics-fashion-history-9896
こういう写真の資料をみていると、セパレート化の流れは90年代にはじまり、それがだんだん過激になって軽いへそ出しからただのスポブラになって行ったんじゃないかと思われる。
ちなみに、これはテニスだがスポブラと短パン姿だ。https://www.pinterest.jp/pin/494833077788864848/
また、ブルマーらしく裾が短くなっていくのは、やはり40年代から見られる。
ところで、以前リンクを貼ったバレーボールの記事について調べると、ブルマーの別名として「bun huggers」というのもあるらしい。英語のをウィキペディアの「shorts」の項目にも載っていた(数か月前はここまで細かく書いていなかったのに)。また、ほとんどショーツ型のbun huggersが2000年代中盤から、ショートパンツ型の「boy shorts」に置き換わった、とある。やはり、いろいろな揺り戻しがあるのだろう。現に、バレーボールでショーツ型ブルマーが導入されてからも、90年代以降に(?)使用が中断された。また時間があるときに、これらの用語からも陸上ブルマーの歴史について再検討したい。
しかし、英語で調べたのだが、残念ながら陸上ブルマーの単体の歴史変遷についてまとめている記事は見たらなかった。オリンピックの選手は大まかにこんな服装でした、という写真を並べただけで、細かい情報はあまり載っていない。上記の記事はいちおう公的なメディアなのでそういう扱いはよろしくないとされるのだろうが、調べている個人が見当たらないのは不思議である。探し方がまずいのかもしれないので、「bun huggers」などの用語で再検索するかもしれない。
本当に逃げない男の人生の結末
↓
1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、
宮城(1948年7月1日以前の皇居の呼称)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。
日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、
師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。
しかし陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗した彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
宮城事件(きゅうじょう[注釈 1]じけん)は、1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、宮城(1948年7月1日以前の皇居の呼称)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。終戦反対事件、あるいは八・一五事件とも呼ばれる[1]。
日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。しかし陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗した彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕された。これにより日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。
愛知県の「中京」と 岐阜県の「中京」が名前を改称しあう歴史が意外と難解でびっくりした。
調べててどんどん混乱してきた。
西暦 | 梅村学園(愛知) | 略称 | 安達学園(岐阜) | 略称 |
---|---|---|---|---|
1923年~ | 中京商業学校 | (中京商) | ||
1948年~ | 中京商業高等学校 | (中京商) | ||
1963年~ | 中京商業高等学校 | (中京商) | 中京高等学校 | (中京) |
1967年~ | 中京高等学校 | (中京) | 中京商業高等学校 | (中京商) |
1995年~ | 中京大学附属中京高等学校 | (中京大中京) | 中京商業高等学校 | (中京商) |
2001年~ | 中京大学附属中京高等学校 | (中京大中京) | 中京高等学校 | (中京) |
2017年~ | 中京大学附属中京高等学校 | (中京大中京) | 中京学院大学附属中京高等学校 | (中京院中京) |
2020年~ | 中京大学附属中京高等学校 | (中京大中京) | 中京高等学校 | (中京) |
結局のところ団塊の時代は出生率が高かったんだから、その時代の制度に戻せばいいんじゃないかな。
"1948年(昭和23年)までは、一部の例外(強姦・姦通)を除き、一般的に産婦人科での避妊・中絶・不妊手術などの行為は、刑法で堕胎罪となり禁止されていた。1948年(昭和23年)に優生保護法によって限定的に容認して、さらに翌年の1949年(昭和24年)に同法は改正されて、「経済的な理由」での中絶も容認することになったため、出生率の増大に歯止めがかかり、1950年(昭和25年)以降は出生率が低下していった。さらに戦後、結核など伝染病の予防法・治療法が確立されたことで青少年期における死亡リスクが低下し多産の必要性がなくなったことも、1950年代以降に出生率が低下した要因の一つであった。団塊の世代の母親までは、産婆による出産が主流であったが、昭和30年代には産婦人科医療による出産が主流となった[8]。"
ということは、
1, 産婦人科での避妊・中絶・不妊手術を堕胎罪として、刑法で禁ずる。あるいはなんらかの処罰規定を設ける。
2. 産婆による出産を復活させる。より具体的には、助産師のみでの出産介助を前提とした産科診療とする。産婦人科医師への負担軽減にもつながる。
でいいんじゃないの?
海上保安庁→海上保安庁は、海上における法令の遵守、安全の確保、犯罪の取締り、海難救助などを行う国土交通省の外局の一つである[8]。 2018年7月1日現在の海上保安庁の職員数は12,800人[9]、予算規模は、2019年当初予算で2177億5345万7千円[2]である。予算のうち、人件費として費やされるのは、2017年度予算で999億円(47%)[10][注釈 1]。
法律(海上保安庁法)上、明確に軍隊ではないとされている[11]。しかし、「Japan Coast Guard[4]」の標記などから、海上保安庁を諸外国の沿岸警備隊(コーストガード)、国境警備隊と呼ばれる準軍事組織と同様とする見解から、これらの組織が有事の際には軍隊の一部として参戦することが戦時国際法では認められていることや、自衛隊法でも特別の必要を認めるときは組織の全部や一部を防衛大臣の統制・指揮下に組み込めるなど、準軍事組織との比定が試みられる場合がある。なお、前述の条文(第25条)に従い海上保安庁法には戦時国際法に関する条文などは存在しない。
人員の大部分は、海上保安大学校や海上保安学校で専門教育を受け卒業した生え抜きの職員であるが、長官や次長、一部の管区海上保安本部長等は、国土交通省や他省庁のキャリア官僚が海上保安庁の職員として就くことが多い。
英称は1948年(昭和23年)の開庁当初より米国の主張から、その時々に「Maritime Safety Board」や「Maritime Safety Agency」を用いた歴史的な経緯がある[12]。運輸省所管時の2000年(平成12年)4月より、「広く国民の皆様に海上保安庁の業務を分かりやすく理解していただくため、海上保安庁のロゴ、ロゴマーク及びキャッチコピーを定めた。」[4]との公表後に、権限や法律の変更は全くないが、国土交通省への移管後の2001年(平成13年)以降は船舶などへも、このロゴを用いたJapan Coast Guard(略称: JCG :直訳すると「日本国沿岸警備隊」)に変更している。
2017年(平成29年)3月31日現在では、合計455隻の船艇、74機の航空機を保有している[10]。また、2017年(平成29年)4月1日現在で5,284基の航路標識(光波標識5,175基・電波標識67基・その他の標識42基)[13]を保有している。
https://anond.hatelabo.jp/20190413013400
それらを知りもしないはずの上野氏に「環境のおかげだったこと忘れないようにしてください」などと言われる筋合いはないだろう。
まさに「自分達にはどうしようもない事柄に関して責め立てられている」ように感じさせているのがこの祝辞の1つのキモだと思う。
東大の入学式はどうやら今年も武道館で行われたらしいが、入学式より前にもろもろの歓迎を受けて、「武道館で入学式とかすげえ」とかふわふわとしている新入生からしてみれば、祝辞(おそらく退屈な祝いの言葉が知らないひとからだらだら聞かされるのだろう)に全くらしくない言葉を聞かされるわけだ。「何だコイツ」ってなるだろう。異物との遭遇だよね。そういう意味では、この祝辞がいきなり医学部入試不正の話から始まるのは、違和感を置く意図が感じられて好ましかったりするが、まあそれはヨイ。
異物と出会うのは誰か。
とあるが、この祝辞は少なくとも、新入生の8割を占める「男子学生」に向けられたものであることは間違いないんじゃないかと思う。たとえば、「彼女は頭が悪いから」に言及したところで、
という言葉が出てくる。これは東大の男子学生はどうだ、ということではなくてあくまで「どんな目で見られているか」という話だ。もちろんそれは「大きなお世話」で「知りもしないくせに」であって、基本的には「自分達にはどうしようもない事柄」だ。東大生のうちある程度の割合は、所謂中高一貫の男子進学校から入ってくる。これは彼ら個人から見たときに「自分は特別である」という認識よりもむしろ「トップではない」自分を認識する時間のほうが長かったことを意味している。地方公立小中→県トップの進学校とずっとトップであった学生とはまた自己認識が異なるだろう。彼らからすれば彼らは「ふつうの人」で、それは誰にも否定できないものだと思う。だから、やはり上野千鶴子の祝辞は理不尽ないちゃもんであり、何割かは「怒り」(これはこの祝辞のキーワードのひとつになっている)を覚えただろう。
そして、上野千鶴子はこの祝辞の中で彼女が「怒り」によって駆動されてきたと語っている。自分語りも混じっているようにも聞こえる。「息子は大学まで、娘は短大まで」のとことかね。上野千鶴子は1948年生まれの富山の田舎出身らしい。ほぼ同じ世代の人間(まあ俺の母親なわけだが)を知っているが、彼女は京大ではなく東京の女子短大に行って田舎に戻ってきて結婚して子供を産んだ。頭の回転が速く人当たりも好い方で、女子短大を選んだ理由はわからないがもしかしたら「娘は短大まで」があったのかもしれない。
理不尽なもの、異物をまず最初にぶち当てられる。「なんで?」は怒りでもあり、知ろうとする好奇心にも接続される。この祝辞内ではまた、その感覚は学問(「知」という形状)に広がっていくと実例が請け負っている。学びの場への「ようこそ」(初回の講義)としては、やはり名文なのではないだろうか。
「サボタージュ」、「間諜最後の日」、「平原児」、「西部戦線異状なし」、「祇園囃子(1934年)」、「祇園囃子(1953年)」、「雨月物語」、「東京物語」、「地獄門」、「青い山脈 」(1949年版)、「おかあさん」など
「ローマの休日」※、「戦争と平和」※、「シャレード」(1963年版)、「風と共に去りぬ」、「アフリカの女王」、「荒野のガンマン」、「ガンヒルの決斗」、「キリマンジャロの雪」、「エンブリヨ」、「ルーシー・ショー」、「ボナンザ」など
「セカンド・サイト光と影の中で(英語版)」、「ハングマン(英語版)
「カサブランカ」、「紳士は金髪がお好き」、「カンサス騎兵隊」、「片目のジャック」、「マクリントック」、「バリ島珍道中」、「雲流るるはてに」、「恋愛準決勝戦」、「白雪姫」
「岩窟の野獣」、「ガリバー旅行記」、「スーパーマン」(フライシャー・スタジオ製作分)、「ポパイ」(フライシャー・スタジオ製作分)、「まぼろし探偵」
「C.C.ライダー」
「シェーン」、「禁じられた遊び」、「オズの魔法使」、「凱旋門」(1948年版)、「イースター・パレード」、「雨に唄えば」、「真昼の決闘」、「ウィンチェスター銃'73」、「ピノキオ」、「バンビ」、「ファンタジア」、「ダンボ」
本日、朝鮮半島の北緯38度線(軍事境界線)にある板門店で10年半ぶりの南北首脳会談が行われている。
南北首脳会談は、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の両首脳による首脳会談である。
(引用:Wikipediaより)
1948年8月15日に朝鮮半島に韓国と北朝鮮という二つの国が建国された。
二国の建国はアメリカ・中国・ロシアという大国の意図に寄る物であり、建国された時点で二つの国は仲が悪かった。
その、仲の悪い二国が二国間の関係をどうにかしようとして始めたのが『南北首脳会談』だ。
南北首脳会談は、これまでに二回行われた。
第一回南北首脳会談は2000年6月13日から15日に、当時の韓国側の大統領が北朝鮮の首都、平壌に訪問
第二回南北首脳会談は2007年10月2日から4日に、当時の韓国側の大統領が北朝鮮の首都、平壌に訪問
という形だ。
1948年8月15日の韓国と北朝鮮の建国以降、北朝鮮の歴代の国家主席は韓国の領土に入った事が無かった。
それが、今回の南北首脳会談は軍事境界線の直ぐ側ではあるが、韓国の領土内で行われる。
今朝のニュースは、「建国から70年近くの時を経て、北朝鮮の国家主席が初めて韓国の領土に足を踏み入れた」様子を
「歴史的瞬間」として取り扱っていた。
だが、増田主にはこれが「歴史的瞬間」とは到底思えない。
南北首脳会談は過去に二度行われ、そのどちらもが、交渉決裂に終わり凍結している。
第一回と第二回の間には7年半の空白が有る。第二回と第三回の間には10年半の空白が有る。
この流れだと、第三回と第四回の間には13年半の空白が生じてもおかしくないのではないか…というのは冗談だが、
「歴史的瞬間」という物が本当に有るとすれば、それは「朝鮮戦争の終戦条約に、関係諸国の首脳がサインした時」ではないだろうか?
つまり、何が言いたいかと言うと…。
「北朝鮮の国家主席(金正恩)が国境を越えた程度で"歴史的瞬間"って騒いでるのって、"歴史的瞬間"という言葉を軽く使いすぎじゃないですかね?」
という事です。
厚生省は少子化を未婚のせいとしているが、本当の原因は中絶の合法化(1948)だ。
http://www1.mhlw.go.jp/topics/syousika/tp0816-2_18.html
http://www.garbagenews.com/img17/gn-20170917-08.gif
上のグラフの通り、1947年までの出生率は4.5以上あったが、1948からたった数年で人口維持に必要な2.07を割っている。
それ以後は中絶前に生まれた最後の世代(戦争から戻った男性が子作りして生まれた世代)が子どもを産んだ1970年あたりで何とか2.07を超えたが、以後はまた2.07未満。
つまり、1947年まで人口が維持できていたのは中絶できなくて産むしかなかっただけで、ほんとは産むのも育てるのもイヤなのだ(当時の中絶の理由の最多は母体の健康状態)。1947年までは中絶は堕胎罪という犯罪だったので、妊娠したら産むしかなかった。
未婚率の推移グラフ
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/images/1540.gif
出生率が急減した1948年あたりは、逆に未婚率は下がっている(=成婚したのに子どもを産まなくなった)。
未婚率が顕著に上がり始めたのは1970年あたりだが、これは工業化により職住が分離して地縁のお見合いが成立しなくなったからだと言われている。
http://livedoor.blogimg.jp/ikikatahatarakikata/imgs/b/2/b28d39cf.png
見て分かる通り、高度成長期やバブルの頃に出生率や未婚率が改善した形跡はない。
あるのは中絶合法化前の最後のベビーブーム世代が1970年頃に出産した時の出生率の僅かな上昇だけで、それは景気や未婚率とは無関係である。
金があっても結婚したくないし子どもも要らない。それが戦後ずっと続いている動きだ。
昔はみんなが結婚して子どもがたくさんいたのは強制されていたからだ。
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ここまではデータに基づいた話。
以後はただの私見。
このように、厚生省の主張のままに未婚率を改善しても少子化は改善しない。
はてなーの言うように若い世代に金を回しても未婚率は改善しない。
個人の自由に任せれば社会は維持されず、社会の維持を掲げれば個人の自由を制限するしかないのだ。
でもこのご時世で社会のために強制結婚、強制出産なんて許されるはずもないだろう。
そうなると、出産と子育てを個人から分離して国としてやる必要が出てくる。
ドナルド・トランプ米大統領は、エルサレムをイスラエルの首都として正式に認めると発表。イスラエルは1948年5月14日に建国。上記発表は建国70年目の2017年12月6日に行われた。
・イスラエルが国家として立ち上がるも70年にわたって長い混乱に見舞われる
・光と闇の両軍にそれぞれ、聖書を知らない東の国から救世主が誕生する
最初の予言は、混乱は続いてるけど、ひとつの節目を迎えたわけで、それなりに当たったと考えてよいかも。
次に、世界が崩壊して救世主が誕生するわけだが、どうやら光と闇に分かれて戦うみたいだから、おれは闇軍にしようっと。
また、「聖書を知らない東の国とは『日本』のこと」と考えたがる日本人が多いけど、今のトレンドは韓国・北朝鮮あたりだろうね。
ちょっと見てくれよ
1950年 朝鮮戦争において日本の特別掃海隊が連合国軍(韓国側)の要請で掃海作業に当たり56名が死亡
1965年 日韓基本条約により日本から韓国へ11億ドルの経済援助(日本の朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄し、韓国は対日請求権を放棄することに合意)+日韓請求権協定により8億ドルの経済支援 (参考)当時の韓国の国家予算は3.5億ドル程度
1993年 河野談話(従軍慰安婦問題に関し「お詫びと反省」)
1995年 村山談話(第二次大戦に関し「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」)
1995年 アジア女性基金設立(日本国民の拠出約6億円と政府からの5億円で韓国他5カ国に償い事業+内閣総理大臣のお詫びの手紙)
1997年 アジア通貨危機により日本は韓国へ100億ドルの支援を行う
1998年 日韓共同宣言(2001年韓国議会により破棄を全会一致で決議)
2015年 慰安婦問題日韓合意「日本軍の慰安婦問題を最終かつ不可逆的に解決」日本は韓国へ10億円供出
1948年 大韓民国が建国され初代大統領李承晩は対日戦勝国としての地位を国際社会に要求したが認められず
1948年〜南朝鮮済州島(現韓国)で韓国軍による島民虐殺が行われ多数の難民が日本へ脱出する
1950年 朝鮮戦争(このとき日本の特別掃海隊が連合国軍(韓国側)の要請で掃海作業に当たり56名が死亡)
1950年 北朝鮮に対し敗戦濃厚になったため山口県に亡命政府の設立を日本政府に要求(戦況好転のため立ち消え)
1950年 日本は密入国した犯罪者等の韓国人を強制送還しようとしたが韓国側が拒否
1952年 李承晩ラインを一方的に設定し対馬・竹島の領有権を主張するがアメリカ・イギリス・フランス・中華民国からの抗議を受ける
1952年〜竹島周辺で300隻以上の日本漁船を襲い4,000人近い漁師を韓国に拉致し44人を死亡させた
1953年 日本の漁船が韓国軍により銃撃・拿捕され民間人一人が殺され他の乗組員へも非人道的扱いが行われた(第一大邦丸事件)
1959年 在日朝鮮人の帰還事業阻止のため韓国特務機関による新潟日赤センター爆破未遂事件
1961年 済州島周辺の公海上で韓国警備艇が日本の漁船を不法に銃撃・拿捕する事件が複数発生
1965年 日韓基本条約等により日本から約20億ドル(参考:当時の韓国の国家予算は3.5億ドル程度)を得た+日本の朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全ては放棄したほか日本から約25年に渡る経済面や技術面の支援を受け大きく経済成長した(「漢江の奇跡」と呼ばれるがこれが日本の支援によるものであることは韓国内でほとんど周知されていない)
1973年 韓国の民主政治家で韓国中央情報部KCIAに命を狙われていた金大中(のちの韓国大統領)が日本滞在中に拉致され韓国に連れ去られる
2005年 反日法を制定し親日派と認定された人物およびその子孫が所有する財産を没収(法の不遡及に反するのではないかという見解がある)
2011年 「外交関係に関するウィーン条約」に違反して韓国日本大使館前に慰安婦像設置
2012年 李明博大統領が竹島に上陸し天皇への謝罪要求を行う
2013年 日韓間による犯罪人引渡し条約を無視して靖国神社に放火した刑事犯の中国人を日本への引き渡さず「政治犯」として中国に送還
2015年 慰安婦問題日韓合意「日本軍の慰安婦問題を最終かつ不可逆的に解決」日本は韓国へ10億円供出
2017年 文在寅大統領が「日韓合意には内容及び手続き面で重大な欠陥があるとして、日韓合意では問題の解決がなされないとする」とする声明を発表
こちらも合わせてご覧ください
https://anond.hatelabo.jp/20180117173801
1948年 大韓民国が建国され初代大統領李承晩は対日戦勝国としての地位を国際社会に要求したが認められず
1948年〜南朝鮮済州島(現韓国)で韓国軍による島民虐殺が行われ多数の難民が日本へ脱出する
1950年 朝鮮戦争(このとき日本の特別掃海隊が連合国軍(韓国側)の要請で掃海作業に当たり56名が死亡)
1950年 北朝鮮に対し敗戦濃厚になったため山口県に亡命政府の設立を日本政府に要求(戦況好転のため立ち消え)
1950年 日本は密入国した犯罪者等の韓国人を強制送還しようとしたが韓国側が拒否
1952年 李承晩ラインを一方的に設定し対馬・竹島の領有権を主張するがアメリカ・イギリス・フランス・中華民国からの抗議を受ける
1952年〜竹島周辺で300隻以上の日本漁船を襲い4,000人近い漁師を韓国に拉致し44人を死亡させた
1953年 日本の漁船が韓国軍により銃撃・拿捕され民間人一人が殺され他の乗組員へも非人道的扱いが行われた(第一大邦丸事件)
1959年 在日朝鮮人の帰還事業阻止のため韓国特務機関による新潟日赤センター爆破未遂事件
1961年 済州島周辺の公海上で韓国警備艇が日本の漁船を不法に銃撃・拿捕する事件が複数発生
1965年 日韓基本条約等により日本から約20億ドル(参考:当時の韓国の国家予算は3.5億ドル程度)を得た+日本の朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全ては放棄したほか日本から約25年に渡る経済面や技術面の支援を受け大きく経済成長した(「漢江の奇跡」と呼ばれるがこれが日本の支援によるものであることは韓国内でほとんど周知されていない)
1973年 韓国の民主政治家で韓国中央情報部KCIAに命を狙われていた金大中(のちの韓国大統領)が日本滞在中に拉致され韓国に連れ去られる
2005年 反日法を制定し親日派と認定された人物およびその子孫が所有する財産を没収(法の不遡及に反するのではないかという見解がある)
2011年 「外交関係に関するウィーン条約」に違反して韓国日本大使館前に慰安婦像設置
2012年 李明博大統領が竹島に上陸し天皇への謝罪要求を行う
2013年 日韓間による犯罪人引渡し条約を無視して靖国神社に放火した刑事犯の中国人を日本への引き渡さず「政治犯」として中国に送還
2015年 慰安婦問題日韓合意「日本軍の慰安婦問題を最終かつ不可逆的に解決」日本は韓国へ10億円供出
2017年 文在寅大統領が「日韓合意には内容及び手続き面で重大な欠陥があるとして、日韓合意では問題の解決がなされないとする」とする声明を発表
職場の人権研修で、障害者だ貧困だ難病だ、話を聞いたり動画を見たりして気になったのは、いずれも「偏見に晒されたり不当な不利益を被る人達がいかに立派な人か」という擁護?が混じっていることだった。ホームレスの中には少し前まで大きな会社にずっと勤めてたという人がいるんだとか、足の悪い○○さんだけ津波に飲まれたけど優しい人でとか。
じゃあ人間の屑だったらどうなんだと私はそっちよりだったんで思ったし、生活保護の支援団体の人までそういうくちっぷりだったのは少々辟易した。中には運命の歯車がほんの少しずれてしまっただけの人だっている、それはその通りだ、でも中には居るだなんて言ってたら、本当にただただ働くとかそういうの面倒くさいだけのテンプレなずるい人だっているだろう。障害ゆえに津波に飲まれた人は性格が悪くて周りから嫌われていたなら割り切りがつくのか。手を差し伸べる人を傷つけるような弱者に、差し出された支援にあぐらをかくようなヤツに、本当に我々は、じんけんとは、うんぬん、しなくちゃならないのか。話は逸れるが人権研修のメニューはいろいろあって選べたりするんだけど発達障害についてが無くて、じゃあ空気読めなくてどこにも就職できない無能は、みんな、車椅子の聖人君子を相手にするように自然と配慮だかなんだか、社会はそこまで成熟してるのか。いや、成熟する必要があるのか。ハンディキャップを活かして駆使して援助者をせせら笑うクズからは、そんな権利なんかとりあげちまうのがすじなんじゃないか。
そんなことをつらつら考えていた。
そしたら今更ながら、世界人権宣言を読んだ。
これは1948年に国連で採択されたもので、世界中の人権の話はたどっていくとこれに基づいている。
第1条にはこう書かれている。
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
これが答えだった。国連の下にいる国の、国民は、世界中の我々は、この宣言の元にいるのだった。
性善説だ。人権なんか無いようなどうしようもないクズだなんていませんよというのがスタートだった。考えてみればあたりまえかもしれないけれど。
法律というのは第1条に主旨を置く。これからごちゃごちゃ具体的な話を書いていくが思っていることはつまりこういう気持ちなんだというのが第1条だ。社会や人間はそこまで到達できないし到達できる気もしないが少なくとも建前はここに書いてあったのだ。
ひとつすっきりした。