はてなキーワード: 臨場感とは
原稿の段階においてはこれまでより表面的な文章それ自体に関する事柄が重要となる。冲方はこの段階を「肉書き」「皮書き」の2段階に分けるが、原稿の執筆と推敲をそれぞれ意味しているに過ぎない。本稿では表現上の混乱を招くだけであるため、特に冲方の分類には従わない。
さて、西谷のように本一冊を使ってこれを解説したているものも存在するが、その内容は全て基礎的な日本語文法の復習であり、独自の知見は少なく、例えばうなぎ文などを交えた日本語文法それ自体に関する細やかな議論があるわけではなく、また修辞技法に関する詳細な分類と効果について言及しているわけでもない。会話文の閉じカッコの前に句点は付けない、中黒ではなく三点リーダを偶数個使う、といった些末な作法をめぐるこれらの内容について本稿では特に言及しない。
文法、作法上の間違いではないが避けた方が好ましい表現についても、断片的ながらそれぞれの作家ごとに主張されている。例えば水島の「同じ語尾を連続して使わない」「台詞以外で「である」「なのだ」という語尾を使わない」「三点リーダと感嘆符の多用を避ける」、榎本の「三行以上にわたる一文は避ける」「会話の順番を固定し、誰がしゃべっているのかフォローの文なしでも理解できる方が良い」、西谷の「物事が起こった順番に書く」などである。
とはいえこれらは絶対に避けねばならないものではない。例えば同じ語尾を重ねることは畳語法として効果的に機能しうる一つの技術である。会話の順番を固定する、というのも、例えば5人の登場人物の会話順が完全に固定されて順に発言しているような状態が自然な会話文として望ましいとは思えない。それぞれ場合によって使い分けられるべきであろう。
よって本項では各作家によって提案されたいくつかの修辞技法についてを断片的ながら俯瞰するにとどめる。
水島は「明るい文」「ラノベ文体」として、「難しい表現を使わず、何が起こったのか一目でわかる」こと、「読者がハイスピードかつリズミカルに読める」ことが望ましいとする。
具体例として次の例を挙げている。
「すごい美少女だ!」
俺は驚き、つい声を上げた。と、同時に……、
――ドカーン
背後で、謎の爆発が!
なぜ難しい表現を避けるのかといえば、「読者は気合いを入れて読んではくれない」「メインターゲットとなる読者である中高生は学校の登下校、勉強の合間などに読むので、集中して読んでくれない」からだとする。「ラノベは読み飛ばされるのが宿命」だと水島は言う。これに近しい意図を持つ指摘としては、榎本による「ガイド」の提案がある。ガイドとは榎本独特の表現であるが、「シーン冒頭に「これがどういうシーンなのか」がわかる描写を書き込む」もので、つまりそのあとの文を読み飛ばされても何が起きたのかざっくりとは理解してもらえる、という効果が期待されているものである。
何が起こったのかわからないような文章を避けるべきなのは当然だろうし、テンポ悪くだらだらと薀蓄を書き連ねたようなものは(それをウリにしている作家もいることは事実だが)大体の場合避けるべき、というのはさほど違和感のない話である。
とはいえ学校の登下校、勉強の合間などに遊ぶテレビゲームや携帯ゲームは集中されないのか、といえばそうではないだろう。読者が集中してくれないのではなく、読者の集中を誘うだけの内容が無いからではないのか。
読者はバカだからバカでもわかるように書きましょう、というのは、逆に言えば中身の無さ、文才の無さを読者に責任転嫁しているに過ぎないとも考えられる。筒井は様々な実験的小説を書いてきたが、それは「読者の理解力に対する理解があってこそであった」と自分の読者ならわかってくれるという確固たる自負が見て取れる。もちろんそれは既に作家としての名声を確立した後だからこそ、という面は否定できないが、作家から読者をバカにしていく、という水島の姿勢はいささか理解に苦しむところである。
クーンツは作家に与えられたチャンスは最初の3ページだという。第一文から始まる3ページで面白いと思わなければ読者はそこで読むのをやめる。そして読者を3ページで魅了するための技術として、過激なアクションに始まること、ユーモアを含ませ、一度冷静に状況説明をしてから再度緊迫した場面展開に話を戻す、という手順を紹介している。
一方で西谷は望ましい書き出しについて、いくつかのラノベの冒頭を並べてその傾向を述べており、主人公の描写、自己紹介、考え方から始まるタイプと、主人公の目に映るものを描写する書き出すタイプの2通りのいずれかが望ましいとしている。
また忌避すべき典型例として「壮大な書き出し」を挙げている。例えば人類の9割が滅んだ世界であることを厳かに説明するような文章は避けるべきと言い、それくらいなら他愛もない会話からはじめ、その途中で人類の9割が滅んだことを明かす方が望ましいとしている。
人類の9割が滅んだ、とは物語背景となる情報であり、重大だが具体的な動作を連想させる情報ではない。それに比べると会話文は動作とひもづくものであり、その意味ではクーンツの「アクションに始まる」という内容と大きく矛盾するものではない。
しかしながら、これも絶対的に忌避されるべきかといえば難しい。
例えば名作と名高い「猫の地球儀」は
と、まさしく壮大な書き出しで始まる。「同じ語尾を連続して使わない」に余裕で違反する3連続の接続助詞「で」に加え、何の説明もなく独自の専門用語を第二文目で出すなど言語道断である。
しかし筆者は、上述の水島のドカーンをはるかに凌駕する圧倒的な魅力をこの書き出しに感じる(もちろんそうは思わない人もいるだろうし、それを否定する意図はない)。
作家に与えられたチャンスは最初の3ページだ、というクーンツの主張には、一読者としての経験則的に筆者も同意できるところではある。しかしではどういった書き出しが望ましいのか、といえば一概にこうでなければダメだ、というのは難しいように思われ、筒井による「いい書き出しかどうかは結局のところ作品全体の出来に左右される」という指摘がもっとも妥当であるように思われる。
従って、アクションから入ろうが主人公の身の回りから入ろうが壮大な書き出しで始まろうが、3ページで読者を作品世界に没頭させる内容が実現できればそれで問題は無いと言えるだろう。
頭に浮かんだ順に適当に書いていくと散漫な記述になりがちであるとして、西谷は「自分が描こうとする場面を実際に図に書いて、どういう順番で描写するかを決める」のが効果的だとする。この主張はその場に存在する様々なものを具体的に詳細に想定しているかどうかの事前確認という意味合いが強い。
また、「目に見えるものだけを書いていると、リアリティーのない文章になってしまう」として五感への意識を促す。嗅覚については言及されることが少ないが、特に音については場所、方向、登場人物の存在を示す役割を果たす効果的なものだとする。また西谷独特の主張として、足下の変化は触覚という点で効果的であると主張する。
こうした西谷の指摘に加えて榎本による「静止したものだけでなく動作する物を混ぜる」という指摘を考慮すると、情景描写の臨場感とはその情景における時間経過ではないか、と筆者は考えている。
止まった絵ではなく、音や匂いを含めた一定の時間の流れを含めた「図」が望ましいという意味では、作家は西谷の言うような「図」ではなく「絵コンテ」を書くべきだと言ってもいいだろう。
仮に作家が自分の想像を完全に文章化でき、そこから読者が作家の想像通りに完全に場面を想像できるとした場合、静止画が再生されるよりも動画が再生された方が臨場感が高いのは言うまでもないし、そこにに音や匂いも付与されているのであれば、臨場感はさらに高くなるだろう。
絵コンテという考え方はまたカメラワークへも影響すると考えられるが、映像作品におけるカメラワークのセオリーとこうした娯楽小説における情景描写の順序や方法の類似点、相違点については十分な調査と検討が必要と思われ、本項では今後の検討課題として割愛したい。
より良い場面の切り替えについて、クーンツによる指摘に触れておきたい。クーンツは「ひとつの場面が終わったら、すぐさま読者を次の場面へ案内しなければならない」こと、そして簡潔さを重視する。例えば主人公は一人自室でテスト勉強をしている場面Aと、学校でテストを受けている場面Bを連結させるとする。この間にはもちろんさまざまな出来事、例えば寝て起きて朝ごはんを食べて家を出て電車に乗って学校に到着する、といった過程があるはずだが、それらをだらだら書くべきではなく、場面Aが終わった次の文ではテスト中の主人公を描くべき、という。
これは場面の切り替えにやっつけ仕事めいた過程を描く必要は無い、という単純な指摘に留まらず、各場面はプロット上必要不可欠な要素であるべきで、必要のない場面を含めるべきではない、とも理解できる。例えば場面Aのあと電車でヒロインと遭遇させる必要があるのであればそれを場面Cとして独立させ、プロット上場面AとBの間に配置すべきである。
クーンツは会話は全体の20~30パーセントは必要だとする。一方で30ページ以上続く会話文も問題であるとしており、当然であるがバランスが必要である。
その場に登場人物が2人しかいないときに、いちいちどちらの発言か説明しないと読者が理解できないようならその会話が悪い、という指摘や、「「言った」という動詞が連発しないよう、表現を工夫する、などというのは過ちである」というのはなかなか面白い指摘と言えるだろう。クーンツは発言内容が重要なのであれば、それ以外の「言った」という表現を「尋ねた」「口を開いた」「聞いた」など必死に工夫する価値はないとする。一方でアクションシーンでは動詞の選択は重要だとしており、その場で強調すべき要素とそうでない要素を区別することを要求している。英語と日本語の違いはあれど、これは文章のメリハリを付ける上では面白い指摘と言いうるだろう。
ヒックスは会話の機能として、「ストーリーを前進させること」と「登場人物を明らかにすること」を挙げるが、特に後者については人物の性格を読者に理解させる重要な要素だ、と換言できるだろう。
このようにクーンツ、ヒックスはともに会話文を重要な位置づけにあるとみなすが、一方でラノベ作家陣からの指摘として、榎本は「キャラクターの会話ばかりで「そのシーンはどういう状況なのか」「今どうなっているのか」が全く書かれていない作品」を批判する。
この点については筒井が「描写や展開が面倒なのですべて会話で片付けようとする」ことを批判しており、何のために会話文を書いているのか、という目的意識に違いがあるように考えられる。すなわち情景描写が苦手だから、間が持たないから、といった問題を正面から解決するのではなく、会話文で埋めることでごまかすようなことが榎本や筒井の批判するところと言いうるだろう。
説明するまでもないが、小説では一人称体、もしくは三人称体が多く用いられる。この人称に関しては、どの創作技術本でもありがちなミスとして、一人称体にも関わらず語り手の知り得ない情報を記述してしまう、という点がよく指摘されるところである。
一方で三人称体は登場人物の知りえない情報を記述することができるという利点があるが、一人称体がその語り手が同化する先の人物への感情移入を惹起しやすいのに対し、三人称体はその点で劣ると言えるだろう。
このことから水島は、「楽しさ重視のコメディは一人称」が望ましく、「複雑なストーリーは三人称が向いている」としている。では一人称体と三人称体を組み合わせて書けばいいのではないか、という意見については、それは読者の理解の混乱を招く手法として否定し、また三人称体においても実質的には「主人公が今どうなっているか」を中心に描くことが望ましいとしている。
一方で飯田は三人称体をとるメリットは「キャラクターそれぞれの内面が描ける」点にあるとしている。実際「インフィニット・ストラトス」を例に、飯田は一人称体と三人称体の混濁を否定せず、それどころか「主人公の一人称視点と、ヒロイン寄りの三人称視点を使い分けて全ヒロインからの愛され感をもたらしている」と高く評価している。
とはいえ三人称体として振る舞いつつ登場人物それぞれの視点に入ったり、といった視点を「神の視点」と表現し、これは避けるべきものだとする論調は少なくない。
一切言及されていないが、現実には三人称体に一人称表現が入り込む技法は自由間接話法と呼ばれて存在し、主人公の知る由もない情報を描けるという三人称のメリットと、感情移入を容易にする一人称のメリットを同時に享受できる極めて強力な技法である。
なぜ言及がないのかといえば、これを多用する作家はさほど多くなく、むしろ全く使わない作家の方が多いことから、おそらくはプロの作家自身、これを人に説明できるほどうまく扱える自信が無い、ということが原因ではないかと思われる。
他方、これと似て非なる技法に「神の視点」があり、これについて触れたものとして、クーンツは「ストーリーの途中で作家が登場人物を批評したり意見を述べるのは19世紀の時代遅れな手法」としており、もはや使うべきではない技法だとしている。
端的に言えば「あぁ、神よこの男を憐れみたまえ」といった大仰なそれに対する指摘であるが、例えばH.P.ラヴクラフトなどは意図的かつ効果的にこの神の視点を用いていたように筆者は考えているし、町田康の有名な「あかんではないか」などは見事にこれを活用した好例と言いうるだろう。
筒井はこれを「劇化された語り手」であるとしているが、これについてはまた詳細かつ精密な議論が必要であることから本稿では割愛する。
水島は夢や過去の回想について、これらは今誰が何をしているのかがわかりにくくなる、述べており、またこの点についてはヒックスも同様の指摘をしている。「バック・ストーリーの情報を提示するのに最も効率が悪く気の効かない方法が、フラッシュバックである」と、フラッシュバックはドラマの勢いを失わせるものだと注意を促している。
一方で、筒井による「遅延・妨害」に関する記述はある意味でこのフラッシュバックの効果を逆用したものとも言いうるだろう。具体的内容としては、「読者の疑問を宙づりにしたまま進行させる」ものである。特にクライマックスの直前など、いよいよ事態が緊迫し抜き差しならない状況であることを描いたところで、突如穏やかな場面に切り替えて「あれはどうなっているんだ」と読者の不満をあえて買い、じらした上で緊迫した事態の展開に再度移る、ということでより大きな満足感を読者に与える効果があるとする。
クーンツもその冒頭において、過激なアクションの次に一度冷静な場面を挟み、再度戻る、という手法を提案しているが、効果としては似たようなものだろう。
推敲の重要性を否定するものは一つとしてない。しかしどう推敲するか、という点について具体的に述べているものはそれほど多くは無い。例えばキングによる6週間空け、そして1割削減する。ワナビにとっては6週間も余裕がないことの方が多いだろうが、一定の時間を空けて自分自身で読み直すことの効果は少なくないだろう。
冲方は推敲の要点として、「冒頭とラストにインパクトと引きを作る」「事件とはあまり関係のない人間の登場を減らす」「専門用語は前半は少なく、後半は多くする」という推敲の指針を挙げる。最初の2点はプロットレベルでの書き直しが要求される内容でもあるだろうし、そもそも事件(物語)に関係ない人物を登場させる意味はなにか、という疑問もあるが、専門用語の配分などは参考になるだろう。
最後に、推敲は一度で終わるものではない。アイディア、プロット、原稿まで順に進めるとこれまで述べてきたが、推敲によって再度プロットへ、またはアイディアまで戻ることはいずれの説においても当然のこととして主張される。
4歳になる息子は、「大丈夫」と大見得を切っていたが、すごい内股を擦り合わせていたので、無理やり連れて行った。
妻はそれを見て苦笑していた。
それに伴って、1mmも進まない渋滞が発生した。
妻は明らかにいらいらした様子で、息子を叱り出したり、おれを叱ったりした。
渋滞がはじまって1時間ぐらいたったころ、妻は「次のPAまでどれぐらいかかるか?」と聞いてきた。
うーん。と答えあぐねていると、耳元で「おしっこにいきたい」と言われた。
なんだって?
路肩めいた個所はない。
また、規制解除されたら発車を余儀なくされる位置であり、降車はよくない。
「どれぐらいがまんできそう?」
「もう無理かも」
おしっこに関しては、もう漏らしてもらうしかない。非情な決断だ。
その上で、車内の被害を最小限にして、なおかつ妻のプライドをどうするかという問題なのだ。
あれを、妻の座る助手席にしこう。
次に息子だ。
おしっこ漏らす、漏らさないみたいな話は大好きなやつで厄介だ。
ようし。
「おい、妖怪ウォッチはイヤフォンつけてやれ」
「渋滞で止まってんだから、大丈夫だよ。あと、音量最大にすれば気持ち悪くならないし、臨場感が出るぞ」
「そうなの! やってみよう」
「あ、鼻にティッシュ詰めとくと、もっと気持ち悪くならない。あと、運転の邪魔だから、後ろ向いてやれ」
「あ、はーい」
降車して、ビニールシートをトランクから持ってきて、妻の座席に敷いた。
彼女は泣いていた。
情けなかったのだろう。
しかし、きみが泣くことはない。
プロポーズのとき、結婚のときに誓ったように、きみの笑顔を保証する。
妻には運転席に移動してもらって、おれはおしっこまみれのビニールシートが敷いてある助手席に移動した。
そして、おれもおしっこを漏らした。
妻は、「あなたバカね」と言いながらも、涙は消えていた。よかった。
先日、クリエーター系の友人と東日本大震災が与えた影響について話した。影響と言っても創作界隈に関する話に限ってだ。
一応、立場を明かしておくと僕ら二人はどちらも震災による被害(計画停電を含め)は全く受けない地域にいた日本人だ。
友人曰く「311」がクリエーターの精神に与えた影響は凄く大きくて、震災前、震災後で明らかに作風が変わってくるであろうし、時代を分けるべきだ、とまで言っていた。
友人の言うところによると、震災や津波や原発事故はまさしく震災前に想像された世界の終わりであって、SF作品が書いてきたものだった。しかし、現実には世界は終わらなかったし、被災地以外では何一つ変わらない日常が続けられていた。そのことでSF作家というのは衝撃を受け、あの程度で世界は終わらない、と彼らが描く未来というのは決定的に変化してしまった……、まあそのようなことを言っていた。
その友人は震災というのを大きく受け取っていて、震災の当日や原発爆発の映像、連日の報道は「世界の終わり」に感じられたそうだ。津波の動画を見て涙を流した、と言っていた。
僕はまったく逆で、震災を小さく受け取っていた。友人の前ではそれに同調するように悲しいことだったよね、怖かったよね、と僕は言っていたけれど、内心は違った。僕はあの大震災にドラマを見ていた。僕にとって震災はエンターテイメントだった。最高に楽しく、ドキドキとわくわくの非日常を提供してくれる見世物にすぎなかった。世界の終わりなんて微塵も感じなかった。次の日も普通に日常が続いてたからね。動画を見て涙を流すという感覚が分からなかった。当事者以外にとっては対岸の火事だろうと思った。まぁ、こういうのはサッカーの日本代表が負けて泣いちゃう感覚と似ているんだろうと思う。僕の友人はそういうスポーツとかに感情移入するタイプだったから。僕にはスポーツを見てるだけの面白さがわからないので、津波動画で涙する感覚もわからなかったけど。
初日に津波が全てを洗い流したところに言い知れない高揚を覚え、原発が爆発している動画を見て思わず破顔した、これからこの国がどうなっていくのだろう、という期待感があった。ネットはお祭り騒ぎで、日本中がニュースにかじりついて浮き立っていた。その雰囲気を楽しみながら僕は極めて健全にコンテンツを消費していた。それには、どうせ僕には関係ないという、あくまで観客としての視点があった。僕と友人は被災地にはいなかったという環境は同じにも関わらず、こうも受け取るものが違っていた。友人はどこまでも日本人としての当事者意識があったのかもしれない。僕には日本の遠い一地域であった非日常な、それも歴史的にも珍しい10年単位でしか見れないだろうというようなビッグイベントとして見ていた。
その後は日本人と政府による茶番劇が始まって、この国はもう根本的なところで駄目になっているんだなとせせら笑って、楽しんでいた。そしてこのつまらない日常が帰ってきた。残ったのは日本という国に対する絶望だけだった。そういう意味で、震災は確かに影響があったかもしれない。直接的な影響なんてせいぜいFPSに水浸しのステージが増えたぐらいにしか感じられなかった。
震災はエンタメだったなんて言えば、人格を疑われるだろうからきっと言えないし、おそらくこのような考えを描いた創作物というのは10年経っても出てこないだろう。僕も自分の作品の中でこんな話はおそらく持ち出さないだろう。クリエーターの端くれとして、この感情を創作に取り入れたい、面白いとは思っているけれど、絶対に世に出せないだろうし、出しても正義感の強い方たちに袋叩きにされてひどい目に遭うだろう。それどころか、少なくとも2011年から5年ぐらいは震災を『ネタ』((題材、あるいはインスピレーション、元ネタ、設定の一部としての利用、様々な意味で))にしたエンタメ作品(ルポや感動の復興物語!以外の作品)というのは不謹慎だというので作られないだろう。だから、友人にはそのようなことは一切言えなかった。僕は情の深いふりをして、この場面に僕も胸が引き裂かれるようだったと言った。
創作に携わっていた人間なら、あるいはもっと広く、コンテンツを提供している人間であれば誰しもが、あの震災はネタになると確信したに違いない。現にどこかのアフィサイトの管理人だかが上手いこと震災でお金儲けしていたし、投資家や会社員だって、あの震災を利用しておいしい思いをした人は多いはずだ。とあるポンプ会社の社員は、震災の復興需要で業績もいいよと嬉しそうに僕に語ってくれた。あの一大イベントに皆が興奮していた。メディア関係者も視聴率にニコニコして、震災を報道するとき、歴史に残るような大きな出来事に携わり、自分が業界に入った理由を思い出しながら、使命感と臨場感、そしてちょっぴりゲスな気持ちでわくわくしていたはずだ。東北を救おうと盛り上がっていた皆が、日本の団結するときだと、あの雰囲気に、非日常に酔っていたに違いない。不謹慎なネタをネットに書き込み、他方でニコ生で電気をつけてる配信者に電気消せ、pc消せ不謹慎だろ、と書き込んでみたり、そうやって楽しんでいたはずだ。
僕はあの震災で絆だ、不謹慎だなどと喚き散らしたこの国の人々にもう何の愛着も沸いていない。元からそんなものはなかった。愛国心や愛郷心なんて一度も持ったことはなかった。これは僕だけじゃないはずだ。
さあ、もう一度、来てくれ。今度はこの国を吹き飛ばすぐらいに大きな地震を僕は待っている。
滅ぼそうぜ、世界。
あなたは正義感の強い人で、僕は確かに間違っているかもしれませんが、死ねとか言ったり人格否定するのはやめてください。上でも書きましたが人前では常識的な対応をしてます。事件現場で写メとかとりません。たぶん、この人たちと僕は理解しあえないんだなぁと思いました。
この国が吹き飛ぶぐらいの地震が来たら僕も喜んで巻き込まれますよ。もちろん、被害に遭ったときは泣き叫ぶかもしれないし、恐怖に震えるかもしれません、でもそれは僕が自殺願望を持っていたとしても、殴られれば泣いてしまうし、ナイフで脅されれば怖くて動けなくなるのと同じことなんです。実際に遭遇したときの反応と、願望は全く別のところにあると思います。夢を見すぎているかもしれませんが、全てが崩壊した退廃的な光景というのを生で見てみたい、この国なり、世界が滅びる瞬間が見たいっていうのは、現実的かどうかは置いておいて、多少願ってる人もいるんじゃないかなぁ、と思っていたんですけど、世界滅ぼそうという賛同は全然得られなかったのでした。
僕一人じゃなくてよかったーと思いました。
今後の参考にさせていただきます。皆様のクリエイティブな人生を心よりお祈りしております。
911に触れてる方、鋭いです。残響のテロルを見終えた後、911をネタにするなとマジギレしてる人を見て、創作に使って何が悪いと思ったのが、この記事の発端です。阪神淡路大震災はエンタメ的創作物でたまに見かけるのに、東日本大震災がネタになってはいけないのはなぜか、とか事件はいつからネタにされてよいのか、東京マグニチュードが震災後、自粛され扱いが変わったこと、ピングドラムもモチーフにサリンや酒鬼薔薇なんかを使っているが好意的に受け止められていたことなどを友人と話しているうちに3.11が創作に与えた影響という話に辿り着きました。
ほんとは個別で拾ってみたいブコメもあったのですが、慣れてない上に長くなりそうだったのでこのへんで。
良くなかった点:
・話のつながり、何をしているのかが分かりにくい
・漫画の表現として古臭いところがちょいちょいある(ただしこれは好みの問題で、好きな人もいるとは思う)
良かった点:
・キャラのデザインは可愛いと思うし、可愛く描きたいポイントも伝わってきた
・サブキャラ(長髪の子)は常識的、一途などそれなりにキャラが立っており、好感が持てた
・画面や線がゴチャゴチャしておらず見易い
・思いついたネタを全部ぶっこむんじゃなく厳選して、代わりに繋ぎの間や状況描写をもう少し挟むと、何をしてるか分かり易く且つメリハリができるのでは
・ギャグの中のシュール対わかりやすさ比を、もう少し分かり易さ重視にしてみる
あと、シュールギャグで笑わすには絵面の面白さも大事だと思うので、そこを研究してみる
・メガネッ子のツッコミをもっと、ツッコミ単体でも面白いくらいまで練るべき
・見やすさが良い点なので全部のコマを埋める必要はないが、要所要所で背景を描き込むと、臨場感が出るのでは
シュールギャグとは言え、ボケとツッコミ、振り回され役など役割分担がある以上、それぞれのキャラ立てもあって然るべきと思う
ここまで書いといて何だが、ギャグは好き嫌いが人によって激しく別れるので、増田が良いと思った方向性を追求してみたらいいんでない
まぁ、最初はそんな感じかな。
鑑賞対象の作品を細かく分解し、どの部分のどの要素が自分に感銘を与えたのか言えるようになれば十分でしょう。
「○○の戦闘シーンのカメラワークが大胆で、敵と味方の色彩の対比が素晴らしかった。静かすぎるBGMの中に突如炸裂する爆発音には思わず体がびくっとなったよ。
作例が下手で申し訳ないけど、こういう分解できる能力が大人なんだと思ってる。
より多くの面白いモノ、美しいモノを見てきた結果として養われる審美感のようなものだね。相応の語彙も必要。
評論家なら、
昔の日本語の発音は違っていたというのは知っていたが、動画でその復元音声を聞いてみるとまた印象が違う。
ほとんど何を入っているのかわからない。古文法(かつ文語)というのもあるかもしれないが、おそらく話し言葉でもわからないだろう。
今話している日本語もきっと数百年後には不思議な発音法に聞こえるのだろう。
そう考えると、今ある日常がすこしだけ貴重に思えてくる。保存する価値が有るように思える。
小沢昭一氏が「流しの芸」や「客寄せ」、「見世物」、「厄祓い」、…、そういった民俗的な放浪芸のたぐいを収集、録音したCDがある。これもまた今となってはかなり時代を感じるのだが、おそろしく臨場感がある。今はその殆どがなくなってしまったが、当時は(すくなくとも取材された地域では)保存するとか考えるまでもない身近なものだったのだろうと感じさせる。
保存するにしても日常に寄り添いすぎて誰もとっておかないようなつまらないチラシ、パッケージ、謳い文句、宣伝歌の類が意外と生々しさを感じさせるんじゃないだろうか。
そういうのを保存している物好きはどのくらいいるのだろう。公的機関ではまさか保存すまい。
追記:
聞いてみたいという人がいたので、自分が見た動画を幾つか紹介します
古代語 From Proto-Indo-European 古代言語音声集 How Ancient Languages Sound Like - YouTube
日本語以外にもいろんな古言語が聞ける。8:01から上代日本語、10:01から中古日本語(これは多分↓の動画と同じもの)
朗読 源氏物語(Tale of Genji) 若紫1 平安朝日本語復元による試み - YouTube
金田一春彦氏指導の平安時代の発音復元。多分ブコメで触れられているもの。ゆっくりに感じるけどどうなんだろう。
100年前の日本人の声 - Japanese voice 100 years ago - - YouTube
100年前の録音音声。これも多分ブコメで触れられているもの。このへんだと普通にわかる。少し落語っぽいから落語にそのまま継承されているのかも。
背も小さいし運動も苦手だった。
よくプロレス技をかけられたり、物を壊されたりした。
イジリというやつだ。
中学生に上がると、体格にも差が出てきて、笑って済ませられないほど暴力が強くなった。
よく、人のこないような物陰につれこまれ、殴る蹴るの暴行を受けた。
トイレで顔を便器につっこまれたりした。
火の着いた爆竹を投げつけられたりした。
僕はすっかり萎縮して、家の外ではうまく話せなくなった。
そして事件は起こった。
体育のために体操服に着替えようとしていると、不良達が僕を無理にひっぱってきて、
また殴られるのかと思ったけど、いつもの方向ではなかった。
更衣室の方に向かっていた。
どういうことかと思っていたら、
女子更衣室に放り込まれた。
僕一人残して、背後で扉が閉まった。
大量の視線が僕に集中した。
誰も何も言わなかったけど、
「は?なんであんたがここにいるわけ?」
という冷たい視線に、瞬時に血の気が引いて、倒れそうだった。
僕はすぐさま女子に背を向けて、今入ってきた扉から外に出ようとした。
けど、外から不良達が扉を抑えているようで、びくともしなかった。
意地になった。
僕は全体重をかけて、全力で扉を引いた。
そしたら3センチくらいだけ、扉が開いた。
おっ、と言う声がして、すぐに向こうも全力で扉を抑えにかかって、
僕の全力は無に帰した。
息も絶え絶えに、ただ扉に手をかけていると、
スッ、と、その手のひらに誰かの手のひらが重ねられた。
彼女は不気味な目つきで僕のことを見ていた。
なんと言うか、目が座っていて、目元が笑ってないのに口元だけ笑っていた。
とにかく、不安にさせられる目だった。
彼女は言った。
「こんな所で何してるの?」
見た通りいじめられてるんですが、とは言えないまま、黙っていると、
「犯罪になるよ、こんなの」
まるで僕が加害者のような言い方だった。
僕のせいなわけで縮こまるような思いだった。
「脱いだら許してあげる」
は?と思ったら、彼女は突然、制服の上を脱ぎ始めて、ブラ姿になった。
知識として知ってはいたけれど、自分の身の回りの女の子がブラジャーをしていたのに驚いた。
お母さん以外のブラジャー見るのは初めてだなとか、女の子はみんなブラジャーするのかなとか、
頭のなかをすごい勢いで思考がぐるぐる巡った。
「ほら、脱いで」
「脱げってんだよ!」
狙いは外れて、僕の背後の扉にぶつかって、バンッ!という腹に響く大きな音を立てた。
僕は言う通りにするしかないと思って、制服の上を脱いで上半身裸になった。
「下もだよ!」
「はやくしろよ!」
気がついたら僕に向かって怒鳴っているのは3人になっていた。
怖くて腹の底が冷たくなっていた。
彼女達は少しの間、僕を眺め回した後で、
「きゃー!」という声が更衣室全体に響き渡った。
あまりのことに全身が硬直し、思考が真っ白になった。
だけど、正直、気持ち良かった。
白状すると、何の力もないはずの自分が、女子達をキャーキャー言わせているのが、嬉しかった。
半笑いで、嫌そうにしながら、その実しっかりと僕の股間に視線を向けているのが、楽しかった。
むくむくと大きくなった僕自身。
それを見て、さらに場は狂乱した。
僕を恐れるように、更衣室の隅に全員で身を寄せ合って固まりながら、
視線だけはガン見してくるのがおかしくておかしくて、笑みが浮かんだ。
そして、突然ガラッと扉が開いた。
振り返ると、体育の先生が立っていた。
騒ぎを聞きつけて、やってきたようだった。
不良達はもう居なくなっていた。
次の瞬間、視界が全て線になった。
今思えば、ぶん殴られて床に倒れたのだろうが、その時は何が起こったかわけが分からなかった。
髪の毛をひっつかまれて無理やりに立たされ、保健室に連れて行かれた。
服はすぐに返してもらえた。
ホームルームになって、担任に連れられて教室に戻った時は、緊張のあまり小便を漏らしそうだった。
教壇に立たされ、僕は弁明を迫られた。
知らない男子は敵意、攻撃、弱いものをいたぶろうという、いつもの視線だった。
僕は何も言えずにうつむいた。
体中から汗がふきだした。
涙が溢れて溢れて止まらなかった。
少し漏らした。
恥ずかしくて、測らずも悟った自分の変態さが情けなくて、悔しくて、しゃくりあげないようにするだけで、精一杯だった。
「おい、何か言えよ」
「泣いて許されるとでも思ってんの」
「ばっかじゃねーの」
と罵倒が飛んできて、死にたくなった。
もういっそ、この場で盛大に漏らしてやれば、笑いが取れるかなという考えがチラッとよぎった。
僕は、
「ご、ごっ、めっ、んな、しゃい」
と、情けない謝罪をするのが精一杯だった。
「ごめんで済むかよ」
「泣いた子もいるんだぞ」
「お前死んだほうがいいよ」
あんなに面白がっていたくせに、泣いたなんて話になっているのかと思うと、
僕の味方はこの世に一人も居ないのだと思い知った。
それから僕は、クラスメイト全員の前で、二度と女子の前で全裸にならない、などという、
真面目に聞いたらちょっと笑っちゃうような内容を誓わさせられ、
ホームルームが終わって下校する段になって、いつもの校舎裏で男子一人一人に一発殴られてから家に帰った。
初日は本当に熱が出た。
殴られすぎたせいだろうと思う。
2日目はまだ体が思うように動かなかった。
3日目は惰性で休んだ。
両親も何も言わなかった。
4日目にはこのまま学校に行かなくなって、
社会からドロップアウトするのも悪くはないかなという気になっていた。
そう思うと一気に気が楽になって、久しぶりに小説でもじっくり読んだりした。
僕が玄関を開けるなり、
「こんなことになってごめんね!」
と謝ってきた。
僕は何か、天からの光に包まれたような気がした。
救いの手が差し伸べられたと思った。
温かい光だった。
学校に来なくなってしまった僕を気にして、彼女が誤解を解いてくれたそうだった。
僕はそれを聞いて、涙を流しながら、
と繰り返し感謝した。
彼女はそんな僕を抱きしめて、落ち着くまでずっとそうしてくれていた。
ほとんど初めて話した仲だったのに。
後から聞く所によると、僕は陰ながら女子から人気があったらしい。
僕を脱がせた子達も、ちょっと僕に気があってあんなことをしてしまったらしかった。
僕の彼女も実は僕に興味があって、例の騒動の一部始終をスマホで撮影していたらしい。
それから僕を陥れた不良達が逆にホームルームで謝罪することになり、
僕を不登校にしたことから女子達から陰湿な制裁を受けて逆に不登校になってしまった。
おかげで僕はいじめられることが少なくなった。
ただ、ひとつだけ問題があるとしたら、僕の彼女はとてもSっけが強くて、
何かと僕を振り回して楽しむところがある。
今もこうして、僕達が付き合うことになったきっかけを、全世界に公開しろと迫られて文章を書いているところだ。
動画の向こうの僕が、その時どう感じていたかを、臨場感豊かに書けと言われて、もう3回も加筆修正している。
今やっとOKが出た。
大好きだよ、R.W.
君のおかげで、僕は少し男らしくなった。
今は君に守られてばかりだけど、いつか、いつか君を守れる男になるよ。
愛してる。R.S.
私はよく夢をみる。夢とは不思議なもので、起きているときにはない臨場感があり、それはリアルな感覚を換気する。まるでどこかの二流ストーリテラーが仕立てたようなハチャメチャな物語の当事者になって、時に空を飛んでみたり、怖いものに追われてみたり、誰かとはしゃぎあったり、相思相愛になってみたり、結婚してみたりした。先日はかつて好きだった人が、なぜかイトーヨーカドーに漂流し椅子に腰かけていた私にたちはだかり、好きな人ができた、なんて言って去っていく夢だった。間もなく起きて、いいようのないショックに少し放心した。そんなどうしようもない夢それぞれを、一つでも多く集めてみようと夢日記を始めたのが4年ほど前になるだろうか。書いたり書かなかったりを続け、ノート1冊を書き終えた後、エバーノートへ移行した今も気の向くままに夢内容をログし続けている。私は「友達いっぱいいそうだよね」なんて言われることがある。実際にはゼロに等しく、ただ無意味に社交性を発揮した結果がそんな印象を与えたのかもしれない。そんなお粗末な私にも高校時代には親しいと思える友達が数人いた。ただはしゃぎあうだけで、一緒にいるだけで楽しく満たされていた。「これが一生の付き合いをする友達なのかな」なんて卒業してみると、ぱったり会わなくなった。いろいろやってみた結果として、大学進学に失敗した私は友達との一切の連絡を遮断した。「身を立てたら会いにいこう」。そう思って以降いくかの職場で働き、それぞれでいくつかの人と仲良くなったが、結局いまに至るまで関係は継続ならなかった。とある日、私が夢を記録していくなかであることに気づいた。ノートに記し続けた雑多な夢には、出てくる登場人物が限られているということだった。いままで出会ってきた全ての有象無象が混在する夢で、私が出会えるのは高校生の頃までの友達だった。小学生、中学生、高校生、みんな当時の姿で私よりも幼く、それがいちいち懐かしくて悲しかった。私は年をとりながらあの頃のまま、無意識がそう私に言ってるみたいだった。ずっと過去に生き続けるようなこの閉塞感を突破し、前進する実感を享受するには、様々な人と出会いを更新し続ける必要がある。できればそこに、親しくできる友達がいれば、きっといい夢がみれると思う。
鞄から携帯を出そうとしたら、隣に座っていた人のNexus7にぶつかって
あ、すみませんと顔を向けたら、知っている顔だった。
ひとしきり近況を交換したところで、知人が見せたいものがあるという。
内製アプリのプロトかなにかと思ったら、タップしたのは標準アプリの「ギャラリー」だった。
彼はちゃっかりリア充ぶりを見せつけるように時間をかけた後、伊豆で撮ったという一枚の寂しい写真に最終的に辿り着いた。
下のサングラスのようなアイコンをタップすると端末を持って周りを見回してくれと言う。
言われるままに端末を滑らすと、真冬の弱々しい太陽とくすんだように黄色く低い灌木が山裾まで広がった景色が左に流れ、
代わりにここまで撮影者を連れてきたのであろう山道が山の嶺の向こうまで続いて風景に変わっていた。
はっと後ろを向けば、ステンシルで型どられたような影法師が山緑を上下に分けていた。
行ったこともなく名前も聞いたこともないその場所に、あの時私は確かに立っていた。
「これを知ったら、一眼レフはもう持てないよ。」
ゴルフのドライバーの代わりに三脚を車のトランクに突っ込んでいたことを思い返せば、
その発言は驚きで、でも理由を説明されなくても分かる気がした。
ハードウェアじゃなくて完全にソフトウェアで実現していること、
内蔵された傾加速度センサがそれを可能にしていること、
撮影するのに時間がかかるけど、たくさんのカメラがあれば一瞬で出来ること、
ドイツのベンチャーが、放り投げるだけで360度の視界を撮影できてしまうカメラボールを開発していて
日本でも入手できることなど、たくさんの覚えきれない話に時間はゆっくり流れていく。
今のところ、これの唯一の欠点は足下が幽霊になってしまうことぐらいだねーと、
さっきは気づかなかった、臑の先が風景に溶け込んでいく自然さに笑った後、
「ところで、そのNexus4にも同じ機能入ってるはずだよ」
ぽろっと落雷が舞い込んだ。そうだ、この携帯、KitKat入ってた。
IoTって言葉がなんかバズって久しいし、iBeaconやAndroidWearが後二年ぐらいしたらフツーになってるからと
上司に力説されて、AndroidWearのデモアプリを動かすためによくよく調べず購入したけど
今のところマインクラフトPEのMODスキンをその場で確認できる自己満足くらいにしかなってないNexus4が
使い方はいたって単純。ランチャーアプリすら入れていない自分の環境では
ホーム画面を開いて、左下のカメラボタンをタップして、同じような位置にあるアイコンをタップして、
一覧の一番上の地球儀がサングラスを掛けたようなアイコンをタップして端末をまっすぐ前に掲げて「Align to start」という文言を見ながら待つだけ。
これすごいよ、と電車内を盗撮しまくっていたところを友人につっこまれ、
「じゃあ、開けた場所に行こう」と自分の予定も友人の予定も置き去りにしたまま、
全方位写真は撮影者が一番臨場感を感じると思います。楽しいです。
Nexus5と間違えてNexus4を購入した時は世界が終わったような感じがしてましたが、
数学→大勝利、多分満点。時間15分位余ってた。てか今年はえぐい図形や積分計算がなかった。
理科→勝利。満点だと思うけど、ミスがあったかもしれない。今年の知識問題はあんまりえぐいのは無かった。若干計算が重かったのでミスしないように丁寧に1つ1つ呼吸をおいてやった。
国語→ヤバい。時間足りない。まったく自信無い、150超えててくれ~。古文、漢文が難しかった。現代文はぬるかったと思うけど正直分からない。
社会→まあまあ。流し教科だったから、70切ってなきゃいいなあ。
英語→勝利。試験前に眺めてたアクセント問題集のおかげでアクセントは余裕。長文も多分満点。文法はわかんね。多分190くらい。あんまりえぐい長文は無かった。
う~~ん。
ちゃんと準備しててよかったよかった。
<やった準備>
①試験前1週間は、12時寝て、7時起き
②試験前1週間~4日前は、「1時間で集中して解く」訓練で、スタミナをつけた。 試験前3日~は、集中して解くのは15分で1題とかで、他の時間は「1度解いた問題を見直しながらイメトレ」に使った。スタミナが落ちるのを防げるし、イメトレするだけでも十分本番用の頭の使い方のトレーニングや臨場感になる。
③社会、理科は午前中だけど、この2つは暗記だから思考力は余り必要無い。なので、午前中はボーッと受けた。ここで緊張しまくったり本気出すと午後にある国語や数学といった思考、集中系の時間でのクオリティーが悪くなる。
④午後は2科目だけど、科目の間にパンを食べた。そしてチョコも食べた。昼飯だけではガソリン切れになるので。(将棋のプロも昼ご飯の後におやつを途中で取る。集中系の作業はおやつ必須っぽい)
⑤あらかじめ、その日の休憩時間にやることを決めていた。暗記系は直前にぱらぱら見直す、問題用紙が配られる時間は目を閉じる(文字情報を目に入れるとその分キャパシティーが食われるので直前までその部分の脳みそは使わないようにする)。試験開始直前まで机に突っ伏して首の筋肉を使わないようにする。
⑥教科ごとに一番難しい野から解いた(満点狙いなので、満点を阻害する部分から先に解くことで、時間内にもう一周リフレッシュして帰ってくるチャンスを作るため)。英語は長文から、数学は図形と面積から、理科は知識問題と複雑な計算をだいたい時間内に均等にといた、社会は苦手な所から、国語は古文から。ここから手をつけることで全体のクオリティを考えながら進めることができた
⑦ミスを減らすように頭の中で声を出しながら問題文を読む。(一回で全部読めなくても、そもそも2回読む。読むときにすでに声を出せば2回目で読む時の負担が減る)
⑧計算は2,3手順いっぺんにやらずに、1手順ずつやる。手順数が多くなったらその分だけけいさんてじゅんを増やす
⑨朝飯は軽くおにぎり、昼飯は重く弁当。午後が勝負になるから、午後に思いっきり食べるようにした。午前は余りエネルギー使わなくて良いからおにぎりですませた。
⑩メンタルが折れないように、1教科終わるごとにノートに感想や現状の気分などを書いて整理&予定を見て今何をやるのかを確認した。書くと忘れることができるからかなり精神的に楽に受けられた。
う~ん、われながらよく出来た準備だった。
まぁ、あれやこれや色々書いているんだけど、なかなかどうしてこの500ブックマークの壁が厚い。
100~200ブックマークはある程度、狙って出るのだけど500って数値は中々狙って出せない。
一応分析としては、
http://anond.hatelabo.jp/20131003212934/
ちゃんとした統計データどっかに媒体資料とかで転がってるのかもだけど、おそらく30代のデスクワークがはてな民のマジョリティなんだろうということ。
というわけでこの記事「理不尽な顧客がいいそうな事」を絶妙に表現してる。
IT労働者の気持ちをこれほど逆撫でることはないんじゃないだろうか。
ちょっと前にあったEXCELでできるようなシステム作れ話もこのパターン。
http://anond.hatelabo.jp/20130606125435/
子育て・結婚ものというだけで「産んだ奴が悪い」「旦那が悪い」「女が悪い」「世間が悪い」とまあ色んな切り口で否定したり肯定したりしたくなるもの。
特に先程の「理不尽な◯◯がいいそうな事」というのが立場によって違うので、どの立ち位置にたっても議論が起こりやすい。
●学び方系エントリ
http://anond.hatelabo.jp/20130322031333/
今年の一番の記事これでしたね。
お役立ち情報あつめたTIPS系のなかでも、「あたらしく◯◯を始めたい」とか「今までできてない◯◯を克服したい」なんてのがすごく引っかかりが良い。
世の中には何か出来るようになってみたいという人が多いということか。
ただ自分で書く場合はちょっとした自分流のなんか無いとかけないかな。
http://anond.hatelabo.jp/20130104184115/
2013年はコレ系のほぼ同じ仕組のホットエントリが3本もベスト50に入ってる。
さっきの何かできない状態からできるようになったという学び方系のエッセンスも入ってるので伸びる。
http://anond.hatelabo.jp/20130515153030/
これはもう文才だと思う。
勝手に今年のベストオブはてな匿名ダイアリー選べといわれたら、この人のエントリ2つが秀逸だとおもう。
臨場感のある文章は2chなんかでも凄く盛り上がるけど、
この人の文章は30代のおっさんの哀愁(はてなのマジョリティ)を上手く拾ってると思う。
さて、500以上のブックマークどうやって付けてやろうか…。
そう考えると、今の中高生とかって可哀想だなと思う。
正直、これいいたいだけなんじゃないかと。
俺が初めてエロ本見たのは
正直いまのガキとかどうでもいいでしょ。
そりゃバイト始めた当初とかは
買ってはガッカリしたこと何度もあるし、
今だったら躊躇なく捨てるような
使えるヤツと使えないヤツを厳選してたわけだが
使えるヤツと使えないヤツを選ぶしかない。
昔と今のなにが違うかってーと
他人のこととやかく言う前に、
性的な満足は格段に増えたって断言できるの?
とりあえず俺はできてない。
昔は中の上くらいの1つに夢中になってたけど
今は上の下くらいのがたくさん増えた。
ピラミッドの下のほうの
なーんにも興味ないのも一緒に増えた。
でも上の上と断言できる
昔は1つだったけど、
今は2つというぐらいのもの。
探すというのはしかたないと思う。
ただ昔はある程度妥協してたように思うし、
今はこれは違うあれも違うっていう
ひよこの♂♀分けみたいなのに使う
判断時間が少なくなっただけじゃね。
あと女でもペロペロ催眠みたいな
男ですら下らんと思うようなソシャゲーやってるのいるぞ。
元増田が
ってなってるんならかわいそうってもんだけど、
そうじゃないなら政府が
「少子化をくいとめるために○○法案可決」
とかしないかぎり
別にオッサンが気にするような事態でもないんでねーの。
っていうか、こんな長文みてないで、
どうも、お久しぶりです。
今月はじめに、「日経新聞で紹介された小学校のネット教育」について、「このネット授業に賛成する人の意見が聞きたい。」という増田記事でみなさんにコメントを求め、基本全レスしてた元増田です。
あの記事中にも書いたけど、このネット教育について件の小学校に問合せた。するとなんと、この授業を行い、なおかつ教材の開発者でもある、岐阜聖徳学園大学の石原教授ご本人より、返信のメールをいただいた。
はてな匿名ダイアリーへお名前を出して掲載する旨も了承を得ているので、ここでそのメールを紹介する。
このメールは9/5にいただいたが、ひとえに私の怠慢により3週間後のこのタイミングとなったことを石原教授にお詫びします。きっと少なからず気をもんでおられたと思います。申し訳ありませんでした。
《問題となった日経記事》
岐阜聖徳学園大学付属小学校(岐阜市)の6年生の授業をのぞくと、児童たちがタブレット(多機能携帯端末)のチャット機能でコメントをやりとりしていた。匿名なので書き込みは徐々にエスカレート。5分ほどで相手を誹謗(ひぼう)中傷する言葉が増え始めた。そこで教師が手元のボタンを1つ押す。するとチャット画面上に実名が表示され、楽しそうに騒いでいた声がやんで気まずい空気が流れた――。
なお、URLとタイトルは9月上旬に私が初めて見た時から変更されているので参考までに載せておく。引用部分については変更されていない。
《ネット上の反応》
この授業のやり方に対して、2ちゃん、2ちゃんまとめサイト、はてブ、ツイッターなどで散々な批判が浴びせられた。まとめサイトは400以上のブックマーク、2000のツイート、800のFacebook「いいね」を集め、私の増田投稿も100以上のブクマがついた。Googleの検索結果を見ても日経記事を発端に、この授業が批判混じりに面白おかしく取り上げられている様子がわかる。
主な論調は「匿名と言ってチャットさせて後から実名さらすのは酷い」といったものだ。私も記事を読み、そう思った。
思っただけでなく、「どうなのこの授業?」という主旨で増田に投稿し、授業に賛成する人(・・・も約半数みられた)の意見を聞かせてもらった。冒頭で「全レス」したと書いたのはこのときの話だ。
その中で、やはりどうしてもこの授業について当事者の話を聞いてみたいという思いにかられ、問合せをしたところ返ってきたのが、これから紹介する返信ということになる。
とにもかくにもメールをご紹介します。メールの改行されてしまったところの調整等をのぞき、そのまま貼り付けています。
岐阜聖徳学園大学附属小学校の情報モラルの授業に関して、多くの関心が寄せられておりますが、スレッドを拝見しますとその中にはいくつか誤解も含まれているようですので、教材の開発者として、また今回話題になっている授業を行った授業者として実際の話をさせていただきます。
実はこのスレッドの元になった日経新聞の記事は実際の授業の様子を正確には伝えておりません。
記事を書かれた記者の方は、実際に授業をご覧になったわけではないからです。
記事では実際にご覧になったような臨場感を感じられますが、教材の開発に関わった企業の広報や授業の一部のビデオ映像などを取材されて書かれたものです。
そして記事の内容は、私が授業で意図したものと全く異なります。この点について説明させてください。
記事では「5分ほどで相手を誹謗中傷する言葉が増え始めた。」とありますがこれは事実に反しています。
実際の授業でも実名と匿名でそれぞれ5分間書き込みをさせたのですが、匿名のチャットでは一部の児童が意味不明の文字を連打したり、少し乱暴な言葉を使ったりしただけで、相手を名指しして中傷したり、誹謗するような書き込みをした児童は一人もおりませんでした。「・・楽しそうに騒いでいた声がやんで気まずい空気が流れたーー。」も実際の授業を見られたわけではないので記者が想像して書かれたものです。気まずい空気が流れたわけではありません。
実際の授業を想像してください。担任が見守る中でクラス全員でチャットを行って、わずか5分で相手を誹謗中傷する書き込みをする児童が現れることは常識的にあり得ないことです。
もしそのような状態であれば、情報モラル以前のクラスだといえるでしょう。
端的に言えば、私の行った授業は、「児童にわざと誹謗中傷の書き込みをさせたうえで、見せしめのために実名をさらす」というものではなく、実名と匿名の違いを理解させ、匿名でも実際には本人を特定できることを体験的に知らせることがねらいです。
児童の人権に関わることなので、チャットを始める前に「相手を傷つけること」、「意味の分からないこと」、「乱暴な言葉遣い」、「汚い言葉を使うこと」はやめようと、それぞれ実例を示して指導しました。また、匿名の書き込みを実名に変換する前に、児童に「実名に書き換えてもかまわないか」と確認を取り、もしひとりでも「いやだ」と言う児童がいれば実名には書き換えないつもりで授業に臨んでいます。
日経新聞の記事が一人歩きして、教師による児童へのだまし討ちの授業のような印象を与えてしまって多くの方に心配をおかけしましたが、実際にはそのようなことはありません。この授業のせいで学級内でいじめが起きたり、人間不信が生まれたりするようなこともありません。附属小学校のスタッフの皆様や何より子どもたちや保護者の皆様の名誉のために、あえてこのような場で実名で発言させていただきました。
読んでいただくとわかるように、2ちゃん、まとめサイト、私の増田などを大いに騒がせたような「事実」はほぼ無かったと、日経記事での報道内容をほぼ全面的に否定している。具体的に、記事と異なる点をあげると下記のとおりだ。
記事の引用箇所たった185文字の中に、当事者の話と異なる点がこれだけあることが驚きだ。
このお返事をいただいてすぐ記事の内容について日経に問合せたが「新聞社の原則として、特定の記事に関して個別に見解を表明するというようなことは致しかねます」ということで、返事は得られなかった。
ここまでが一連の流れである。よければもう少しお付き合いください。
そしてもし気が向けば、この増田をブクマしていただけると嬉しいです。
《本授業について現状での自分の考え》
ここで「日経記事は間違いだった!」と短絡するつもりはない。
しかしながら、石原教授の主張には、名前を出して掲載することを許可いただいた時点で一定の信頼性が担保されていると考えてよいだろう。
もし主張に間違いがあれば、もっともダメージを受けるのは石原教授だからだ。
元増田で「日経記事をうけてJ-CASTが小学校の教頭にインタビューした記事がある」ことをブコメで示唆してくれた人がいた。
そのとき私はJ-CASTの記事は、授業の具体的内容や日経記事の誤りについて指摘していなかったし、学校を代表して教頭が当たり障りのないコメントをしているのかな?程度の印象しかもたず、判断保留としながらも、日経記事に重きをおきたい旨を書いた。
しかし上のような状況で、明確に日経記事を否定された今となっては、まったく逆の心証を抱いている。
仮に記事中に事実と異なる記述がなかったとしても、それでもまだ問題がある。つまり、チャットで児童の実名を出す前に確認をとったことを書かず、事前に説明や指導がなされたことも書かず、私も含め多くの人に授業方法に問題があるかのように錯覚させる記事となった。
まとめるとこうだ。日経はこの授業を実際に記者が見て取材することをせず、事実ではないことを書いた可能性がある。また、授業の説明として必要と思われることを書いていない。その結果、岐阜聖徳学園大学附属小学校の指導者、児童はじめ、関係者の名誉を損ねたおそれがある。
石原教授には、上に紹介したメールはもちろんのこと、その前後のやりとりにおいても真摯に対応していただき、大変感謝しています。にも関わらず、この投稿が遅くなってしまったことをあらためて、お詫びします。
なお、この増田記事自体が「石原教授」自身が自演で書いているのではないかという勘ぐりもあろうが、冒頭の元増田にこの記事へのリンクを貼ることでその可能性は排除できると考えている。
《あの記事が出た時点でなにができたのか?どうすべきだったのか?》
例によって長くなったがここまでで書くべきことは書いた。
ここからはおまけみたいなものだが、自分にとって必要なことなので書いてみる。
まずは結果として事実でないかもしれない記事を元に増田に投稿したことについて。
一般的に、新聞記事を元にネットであれこれ議論するのは、それが匿名の増田のような場所であっても、それほど不当なことではないだろう。
もちろん誹謗中傷が含まれるのは論外だが、そうでなければ一次情報に当たらなかったからといって非難されることはないように思う。
その上で書くが、もうすこし慎重になることはできた。
実は投稿する前に、記事の真偽について吟味する手間を省いたことを認めないといけない。
俺はあの日経記事には、そのまま鵜呑みにしてはいけないサインがあったと思ってて、俺はそのサインに気づかないふりをして増田を書いた。そこを今反省している。
サインというのは石原教授も触れている「5分で誹謗中傷が増え始めた」というくだり。ここはブコメで指摘している人もいたが不自然だ。普通に考えると5分で誹謗中傷が「増え始めた」と表現できるような状態になるとは想像しづらくて、記事の表現に無理があるように思える。
だからといって他の部分まで「嘘」とはいえないが、記事の信憑性に疑問を持つことはできたかもしれない。そして増田への投稿をやめようかとブレーキをかけるくらいのことはできたかもしれない(ただそうすると小学校に問い合わせることもしなかっただろうし、結果としてこの記事の信憑性についてより深く疑問をいだくこともできなかった)。
次に、やはり避けて通れない日経の取材について。これはちょっと分からないところがあるので、もし知っていたら教えて下さい。
石原教授の言葉が事実だとした場合、今回の記事がこの記者の個人的な失策で、かつ、普通ならまず起こりえない失策あることを願います。
さらに余談を重ねる。
事実ではないかもしれない記事をベースに騒いでしまったという反省はありつつも、今回の件を通して自分なりに子どものネット教育について考えを深めることができた。俺自身は教育者ではないが、親としての意見だ。書いてあることはたぶん色々なところで言われていることの焼き直しみたいな内容になっていると思うのであしからず・・・。自分の考えを整理するために書いています。
このような状況下で「失敗を通して学ばせる」というのは少々乱暴な話で、失敗の程度は大人が積極的にコントロールすべきだろう。いくら野球が大好きでも、小学生をメジャーリーグの試合に出場させたら命の危険にさらされる。成長度合いに応じてステップアップさせるのが最善なのは言うまでもないことだが、なぜかネットの話になると「とりあえず放り込んどけ」みたいな論がまかり通る。それは大人が責任放棄していることだと気が付かないといけない。
などなど、個々の家庭レベルでもやれることはたくさんある。
ちなみに中学生(高校生、大学生)になるまではスマホもケータイもPCも触れさせないという選択もありそうだし、実際やっている家庭もあるだろうが、それだと子どもにネットとのつきあい方を教える機会を持てないし、やっぱりネットを正しく使って欲しいという気持ちがあるので、小学生のうちでもどんどん使えばいいと思っている。
《日本経済新聞社へ》
返事ください。
いまはてブでリアルタイムに展開しているのがずっと感じてきた新格差っすわ。
・創作的能力があり、己が固有の何者かであることを世界に発信できる人
・創作的欲動があってもそれは出来ないで、あとは子ども作って納税して社会の背景として死ぬまでクソして生きる人
の2種がイキイキと描き出されてる
後者の前者に対する怨嗟!! そこそこ豊かな先進国日本の、しかも自分で稼いでない若年層にとって、それはもはや経済的格差よりも地獄的な、自意識内での格差、そしてルサンチマン。
「ボクはもしかしてクソして納税するだけの歯車階級なの?」というレイプ目の呟き。yes。人類の大半がそうです。いまとなっては子作りすらも許可が出るかどうか判りません。
http://anond.hatelabo.jp/20130817010652
これにトラックバックしようかと思ったけど、話がずれたので別立てで。
野球は嫌いって思ってたけど、本当は日本の野球が嫌いなだけだった。
メジャーリーグの中継見ると、多くの客が野球そのものに集中してるし、それぞれの野球への愛がテレビから伝わってくる。
日本だとそもそもキャッチャーの後ろって壁になってることが多くて、客席が映らない。
カメラワークも各選手の顔のアップが多くて、守備位置とか、客席と選手の距離感とかがたまにしか映らない。
そのせいで、その球場に自分がいるような臨場感が消されちゃう。ずっと顔のアップばっかり見せられるのって、昼間のヘボい韓国ドラマ見たときみたいに疲れるんだよね。
応援の仕方も、日本の客席はみんなで同じ動きしてる。
メジャーの客席は、ほんといろんな人がいろんなふうにしてて、でもみんな野球そのものを集中して観てて、いいなーって思う。
父が危篤の時、ボクは家にいた。
「いつどうなるかもわかりません。」
酸素吸入は、限界まで10リットル流されていたが、SPO2は60台だった。
内服のモルヒネは効果がなく、点滴に変更したためほとんど意識はなかった。
呼吸は下顎呼吸になっていた。
痛覚刺激も殆ど無かった。
「今夜か明日が山ですね。」
その日はそう言われていた。
そう父に言って、一度家に帰った。
ipadでエックスビデオを開いているが父のことが気になってなかなか硬くならなかった。
でも、とにかく出したかった。
パソコンにHDMI端子をつなぎ、テレビでエックスビデオを見た。
42インチテレビなら等身大に近い感じで映し出されるからより臨場感があるだろうと思った。
すこし硬くなってきた。
でも、なかなかぎんぎんにはならなかった。
ボクはそこで間違った行動に出てしまう。
そして、すぐにその時がきた。
父の呼吸が止まっていると電話があった。
その時、ボクはあまりに固くならないのにイライラしてバイアグラを服用ししてしまったのだ。
本当に情けない。
父の呼吸が止まった瞬間、ボクはギンギンになっていた。
しかし、その後はどんな動画を見てもボクのあそこは反応しなくなった。
大好きな女優の大好きな部分を見ても、父との思い出が頭をめぐりまったくの無反応だった。
父に面会したとき、ボクのバイアグラ血中濃度は結構あったと思う。
父の死に目の時にボクがバイアグラを飲んだ状態であろうとは父も思いもしなかったと思う。
父も死んでも死にきれないだろう。
ボクも今まで生きていた中で一番悲しかった日だった。
普通のアニメにしたってつまんない!普通の実写にしたってつまんない!両方を備えた歪んだリアリティが惡の華にさらなる生々しさを吹き込んでいるんだよ!
原作を知っててもなお引き込まれてしまうあのリアルな臨場感はただのアニメは生まれなかったし、ただのドラマにしちゃうと引っ張ってくる役者で色がついてしまうし、最悪役者都合でシナリオに手が加えられてナニコレ?になってしまう。
一部ヒロイン等に声優を使うことで役者のイメージがついてるかもしれないが、普段の声優としての色を消して演じられていることでそれは極力抑えられている。
春日は春日であり、仲村は仲村であり、佐伯は佐伯として見ることが出来ている。
作者は監督との対談で見ているものを漫画に落としていると語っていた。
つまり何が言いたいかって、演じてるというよりほぼオリジナルそのもの。
この歪な世界観で演じられているからこそこの作品はこの先何かやらかす。異様なテンションを孕んでいる。
と言うわけで今日は7話!この作品が語る変態の、その片鱗を見せそうな回ですね。
どんなシーンになっているのか非常に楽しみです。
そうかもしれない。ただし、その理由はそこじゃない。
男性が自分のことを話すのは「自分のことを凄いと思われたいから」と、この女性は思っているようだし、まあ女性相手だとその要素が全く無いとは言わない。女性に「すごい!」と感心してもらって不機嫌になる男性はまぁいないだろう。しかしさすがに「すごいすごい」と連呼する女性は馬鹿に見えてげんなりするし(ただし、可愛いならば馬鹿のほうがむしろ都合いい時もある)、男性の大半はそんな反応を求めているわけではないと思う。
そもそも男性は、同性相手でも自分のことを話すことが少なくない。
自分の話全般に言えるのは「直接体験し、詳細を知っている」ということだ。他人やネットから聞きかじった情報と違って、そこにあった微妙な流れまで理解しているので話を膨らましやすい。また膨らます時も、すでに自分の中にある知識だけで済んで簡単。ネットや伝聞では伝わらない情報も伝えられる。オリジナリティもある…ディテールだけだとしても。更に自分がしていることは、自分が興味を持って始め、そしてまた続いていることであり、聞き手にとってもある程度面白いかもしれない。昔やったことなら詳細を言っても迷惑がかからないだろうし、今やっていることなら臨場感をもって話せる。
つまり、自分自身の話は「話すのが簡単な割に、面白い可能性がまぁまぁある」話題であるだけのこと。だからそんなに「重く」「だるく」受け取らず、おかしければ突っ込めばいいし、詳細が分からなければ聞けばいいし、つまらなければそれとなく話題をそらすなり詳細を聞いて努力するなりすればいいし、すごいと思えばすごいと言ったらいいだけのことだ。
まぁ、女性と男性で興味を持つ点が異なるのってのもあるだろうけど、男性との会話を楽しめる女性もいる以上、この女性がしんどいのは、男の承認欲求とかどうとか、期待値がどうとかではなく、
・この男性に興味が持てない
・男性に強い警戒心を抱いている
・男性の目を気にし過ぎて、相手の話に素直な反応が出来ない
・男性を「俺の頑張りやすごさを認めろ!」的な生き物と決めつけてしまい、最初からうんざりしている
・相手の男性がまじでクソ
のどれか、あるいは複合であろう。
http://anond.hatelabo.jp/20130128221907
チラ裏のつもりで書いたのが思わぬ反響を呼んでて正直ビビってる。
えと。
パパ歴もうすぐ1年になるのに。
その時の私の荷物準備と、大荷物を目の当たりにしてるはずなのに。
なのに、一人で動くのと同じ気軽さで、
「ちょっと行って帰ってくりゃいいじゃん」
的に言い放ったのが、なんともいえない脱力感を生んだ。
悪気はないのは分かってる。だからこそタチが悪い。
たぶん、子供がいることで動きが制限されるという感覚が希薄なのかなーと。
自分は仕事帰りに飲みに行ったり遊びに行ったり、前と同じように動けてるから。
ていうか。
あの、この
「北海道行きたいなー」
これを「今すぐ行きたい!」ととらえる人がこんなに多いことにびっくりした。
意図を汲んでくれた人もいたので、救われたけど。
ただ、男の人の思考回路として
「○○したい」と言われれば、具体的解決案を出したくなるんだな。
ってのは、今回改めて実感した。
気をつけてはいるのだけど、雑談だとどうしても女同士と同じつもりで
「北海道行きたいなー」
「だねー。このイクラ丼とか、超おいしそうだよね」
「ねー。あっ、ここおもしろそう!行きたーい!」
「いいねー」
以後気をつける。
あと、
「子連れで動くときはこれだけの装備と時間と下調べが必要です」
っていうことを伝えるつもりの言葉が、「デモデモダッテ」に聞こえるってのも勉強になった。
まあ、臨場感を出しすぎて息詰まる展開になってしまったのは認める。
子供を預けて、っていうのについては、今回の主旨ではないのだけど、
「預けられない(預けるのに相当の労力や忍耐を要する)事情のある家庭」
が存在するのも、理解してほしい。
母子分離が難しいとかね。
それぞれに事情があるんだよ。
事情を知らずに他人が「預ければいいじゃん。はい解決ー」と言える問題じゃないよ。
最後に。
予想外の反応がいっぱい返ってきて、そういうとらえ方もあるのかーと。
また吐き出したいことがあったら愚痴りに来るかもしれない。
その時はよろしくね。