はてなキーワード: 群衆とは
放送中のアニメ「ハッカドール THE あにめ~しょん」の第9話にて、監督のげそいくおさんが絵コンテ・演出・作画監督・原画を1人で兼任。その凄まじさがネットで話題になっています。
監督のげそいくおさんは以前、インターネット掲示板“2ちゃんねる”にて「ハッカドールは短いアニメなのだから、下手に他人に任せないで死ぬ気で全部のパートを担当すればいいのに」と書かれたことがあり、1つの担当パートだけでも圧倒的に作業量が多いことから「暗に死ねと言っているよねこれ」と苦言を呈していました。
そこからまさかの絵コンテ・演出・作画監督・原画とかなりの数のポジションを兼任したことで、そのファイティングスピリッツにアニメファンもびっくり。監督が絵コンテか演出を兼任すること自体は珍しくないのですが、ここまで多岐にわたる兼任は滅多にないことから「げそいくお監督を人間国宝にするべきだ」「狂気を感じる天才」など、さまざまな反響が寄せられています。
この間放送された「ハッカドール THE あにめ~しょん」第9話を指しての記事だが、この文章だと色々とミスリードを誘おうとしているように見える。
「何もかもげそいくお監督が1人でやったから凄い」という風に誘導しようとしてる印象を受けたが、実際はどうだっただろうか。
ハッカドール1話分は約8分、その内OPEDの尺を除くと本編は約6分。一人で原画を担当するのも何とか可能な規模だろう。
しかし担当したげそいくお氏はハッカドールの監督自体も兼ねているため、監督業務を考慮した上で考えるとかなりの作業量ではあるだろう。
しかし実際第9話を見てみると、後半はアクションシーンなどもあるが前半はドット絵の画面を用いたり、同じカットを何回も繰り返したりと省力的に済ませられる所は省力的にやっている
http://download1.getuploader.com/g/sakugasure/434/hakka9.jpg
ハッカドールという作品はギャグアニメなので、こういった省力化もギャグの演出として機能するように計算してやっているのが窺える
また、げそいくお氏本人が言ってるように一人原画と言ってもL/O(レイアウト、ラフ原画)までで清書等を含めた第二原画以降は分担作業である。
本日のハッカドール9話 コンテ演出作画監督一人原画(LO)その他諸々なので見てね!— げそいくお (@gesoikuo) 2015, 11月 27
ネット上では動画や仕上げ、背景なども担当している事も取り沙汰されているが、これも結構な人数のうちの1人として数えられる
憶測ではあるが、第9話でげそいくお氏が動仕まで担当したのは、こういう線のタッチを強調した一連のカット↓の事だろう。
http://download1.getuploader.com/g/sakugasure/435/hakka9-2.jpg
これらを鑑みるに、今回げそいくお氏がやった事は「常識外れの脅威的な行動」をしたというよりも「地に足がついた堅実な方法」を取っているように思えた。
様々なセクションに名を連ねていたとしても、それぞれ実現可能な範囲での作業を執り行っているように見える。
それらをしてネット上では「狂気を感じる」を称されているが、世の中にはもっと狂気を感じるぐらい個人が作業を抱え込んだアニメも存在する。
例えば、いまざきいつき氏は「ちょぼらうにょぽみ劇場あいまいみー」1&2期や現在放送中の「不思議なソメラちゃん」において監督・キャラクターデザインと共に脚本・絵コンテ・演出・作画監督・原画を1人※で"全話数"担当している
この2作品は1話の尺数はハッカドールよりも短かく3分弱であるが、全て合わせると30話はゆうに超えるので作業量もプレッシャーも相当なものになるだろう。
※(厳密には、あいまいみー1期は最終回だけ二原に撒いているし、2期やソメラちゃんは最初から第二原画有りきの体制)
竹内哲也氏も「百合星人ナオコサン」で監督・脚本・キャラクターデザイン・絵コンテ・演出・作画監督・原画を全て1人でやっている。こちらは第二原画も無しだ
「ナオコサン」のアニメは2本作られているが両方とも竹内哲也氏である。2本目は30分近くあるにもかかわらずだ。
OP(演出は山下祐)もEDも1人で作画している。カットの内容もアクションありエフェクトあり群衆あり回り込み背景動画もありの超ハードだ。
三原三千夫氏が「カイバ」の第4話で動画まで1人で担当仕切った時は作画オタクの間では騒然としていた。
動画チェックこそは違う人だが、ほとんど他者を介さず三原三千夫氏の絵がそのまま画面上に全編にわたって映し出された事になる。
ただしこれらは特別なスケジュールが組まれ、完成まで半年から1年はかかっているので通常のアニメとの比較では参考にならないかもしれない。
監督のげそいくおさんは以前、インターネット掲示板“2ちゃんねる”にて「ハッカドールは短いアニメなのだから、下手に他人に任せないで死ぬ気で全部のパートを担当すればいいのに」と書かれたことがあり、1つの担当パートだけでも圧倒的に作業量が多いことから「暗に死ねと言っているよねこれ」と苦言を呈していました。
そこからまさかの絵コンテ・演出・作画監督・原画とかなりの数のポジションを兼任したことで、そのファイティングスピリッツにアニメファンもびっくり。
この書き方だと、まるで「全部やればいいのに」という発言を受けてから第9話の1人複数担当が決まったような書きぶりだ。
しかし「暗に死ねと言っているよねこれ」というげそ氏のツイートが投稿されたのは11月15日
暗に死ねって言ってるよねこれ pic.twitter.com/hGiKHhVCHH— げそいくお (@gesoikuo) 2015, 11月 15
そしてハッカドール第9話が放送されたのは11月27日、短編アニメとはいえ幾ら何でも12日で放送まで完パケするのは物理的に無理だろう。そんな"思いつき"のような案がまかり通る状況とも思えない。
だからこれは「1人でやればいいのに」という反応とは無関係に9話の体制は決まっていたと考えるのが自然であろう。ちょっと考えれば当たり前の話であるが。
自分は別に「ハッカドール THE あにめ~しょん」を貶めたいわけじゃない。大したことしてない等とは思っていない。
それどころか今期のアニメでは「ハッカドール」は抜群に面白いと思っている。決してゴージャスなアニメではないが、ジャンクな感じがたまらなく良いと思ってる。
楽に作ってるアニメでも決して無いだろうし、監督以下スタッフが身を削る思いで作られてるのは紛れも無い事実だろう。
放送開始直前の頃は、監督げそいくお氏のツイッターがかなり荒れた内容になっていたし、ニコ生でも制作状況の厳しさ、意思疎通が上手くいかない状態を何度も嘆いていた。
アバウトなアニメに見えても、作ってる方は決してアバウトに作ってるわけではないのだ。
自分がこの記事で一番に疑問に思うのは、執筆したねとらぼの大里ミチルなる記者は本当に物事を解った上で書いてるのか?という事である。
自分はねとらぼの事を、企業が運営するまとめサイトという認識でありはっきり言って悪い印象を持っている。
はちま起稿ややらおん等の悪名高いまとめサイト群と大差ないとすら思っている。
企業運営である分余計質が悪いとすら思っている。(はちまjinややらおんが企業ぐるみで無いとも思ってはいないが。)
ねとらぼは過去にはちま起稿を喧伝するようなインタビュー記事を掲載していたし、つい最近でもその記事を作成した池谷勇人というライターが久保帯人先生を誹謗する意図があるとしか思えない記事を書いた
集英社が“久保帯人先生ネタ”行為に警告 「別人の肖像をあたかも久保帯人先生であるかのように紹介」「悪質な場合には法的措置も」 - ねとらぼ
http://b.hatena.ne.jp/entry/nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1509/04/news145.html
この記事は当初の題名の最後に「あっ……(察し)。」と書かれていた。
「あっ……(察し)。」という言葉を付け加えることで、久保帯人先生を貶める方向に印象付けようとしていたのは明白であり、ユーザーの通報によってタイトルから「あっ……(察し)。」が削られた
これを記者無記名で行ったわけだが、有志によってこの記事の作成者が池谷勇人である事が暴かれた
(察し)とか書くやつ全員死なねえかな、例えばねとらぼとか
そういう所が送り出す記事は常に身構えている。
何よりロクな下調べもせず、適当な事を書き散らすだけの記事は悪だ。
「サブカル、語る」みたいな個人ブログですら槍玉に上げられる昨今、企業運営の所が糞ザルな記事書いてどうすんだと思う。
今回のねとらぼのハッカドールの記事は、はっきり言ってザル記事だ。
「ハッカドール THE あにめ~しょん」の魅力を伝えるわけでもなく、ただ単にネットで目についた話題を適当にちょっぱってコピペで仕上げただけにしか見えなかった。
ましてや「ネットの反応を真に受けて監督は一人演出・作画を敢行した」という嘘のストーリーをでっち上げようとしているのは、作品を持ち上げてる記事だとしても流石に看過できなかった。
追記
あと2ちゃんに反応してから9話作ったわけないからな10;あのツイートしたのって確かもう9話納品してなかったっけ…— げそいくお (@gesoikuo) 2015, 11月 30
Web上から断片的な記録をかき集めより高次の情報として昇華させるためには,技術と時間が必要だ。
しかし,炎上時にはあっという間に情報が出揃う。なぜこのようなことが可能かというと,群衆が相手になるからだ。
小数では困難でも,多数の人が力を合わせれば可能になる。
例え理路整然と反論しても,納得して戈を収めるのは極一部で,「なんだその態度は」「本当に反省しているのか」という燃料になりかねない。
また,炎上の参加者が全ての情報を把握して参加しているわけでは決してない。
仮に反論が正当だったとしても,全ての人が反論を見てから炎上に参加するわけではない。自己言及的だが,炎上の参加者は叩けるから叩いている。
従って炎上に対する最も基本的な対策は,速やかに謝罪し,一切の反論をしないことである。嵐はいずれ過ぎ去る。
先日、『選挙カーがはた迷惑な大声で名前を連呼する理由を知った時のこと』という文章を書いた。
予想外の反響を得て、驚くとともに、うれしくも思う。
そもそも記事を書くきっかけとなったサイバーメガネさんも、さっそく内容をフォローするように
『無党派層はコスパが悪くて当てにならない』というエントリを書いてくださった。
なぜ、反響があったかといえば、おそらく、あの頃の自分と同じように選挙の現場を見たことがなく、
「なぜ、反感を買うだけなのに、選挙カーは騒音をまき散らしているのだろう」と疑問に思っていた人が多かったのだろう。
中には、「ああいうばあさんは、もうすぐいなくなるだろう」という趣旨のコメントもあったが、僕はそうは思わない。
そもそも、あれはまだ橋本龍太郎が総理大臣をやっていた頃の話だ。
つまり、かれこれ20年近く前の話なのだが、その後も状況にさほど大きな変化はなかったことは、いくつかのブコメを見るだけでも分かる。
次の20年で変わるかといえば、そうでもないだろう。なぜそう思うかを、書いていこうと思う。
あの頃、「無党派層」という言葉はすでにメディアに登場していた。
(wikiによれば、大阪府知事に横山ノック、東京都知事に青島幸男が当選するという「珍事」が起きた時に注目され、流行語大賞をとったそうである。
その前に「日本新党ブーム」を経て、細川内閣が誕生したころには、まだメディアではメジャーな言葉ではなかったのか)。
無党派層に心情が近かった当時の僕も、「ああいうばあさんみたいなタイプの人は、いずれいなくなるのだろう」と思っていた。
だが、少なくとも20年程度では、いなくならなかった。
思い起こしてみれば、あの当時から、「応援しているのに、なぜウチのほうに選挙カーがこないのか」と苦情をいうのは、必ずしも年寄とは限らなかったのだ。
その渦中に身を投じてみれば分かるが、選挙というのは一種の「お祭り」である。
であれば、選挙カーという「神輿」は、自分の家の近所に来てくれたほうが楽しかろう。
お祭りというのは、参加する者にとっては楽しかろうが、部外者にとっては迷惑で騒々しいだけだ。ハロウィンを見ればわかる。
最近、高知県では、新住民からの「よさこい祭りの練習の騒音がうるさい」という苦情が増えて、祭りの伝統を守りたい人々は対応に苦慮しているらしい。
祭に参加して騒ぎたい人々と、外側にいて「うるさい」と感じる人とは、どうしても対立する。
それは、祭りのルーツがどうとか、そんなこととは、おそらく関係がない。
僕はあの頃、お祭りに参加して盛り上がるのは年寄りのやることだと思っていた。
だが、実際にはそうでもなかった。
古臭い祭りにはそっぽを向いても、なにか面白そうな新しいお祭りあれば、こぞって参加するという人たちが、世の中には相当程度いるのだ。
既成政党による「ドブ板選挙祭り」にはそっぽを向いている若者が、国会議事堂前でSEALDs祭に参加したって、なんの不思議もない。
お祭りといえば、あの選挙事務所でバイトをしていたとき、幹部がにわかに、ちょっとしたお祭り騒ぎになったことがあった。
総裁とは誰のことなのか、僕はにわかに判じかねたが、それは当時、自民党総裁にして総理大臣でもあった橋本龍太郎のことであった。
事務所の関係者は「総理」でも「首相」でも、ましてや「ハシリュウ」でもなく、「総裁」と呼んでいた。
総裁が応援しに来てくれるということは、つまり、その候補者や選挙区を党本部が重視している証拠なのだが、、
橋本龍太郎という人は日本の歴代総理には珍しく、その端正なルックスで女性人気がきわめて高かった。
慶応大学在学中に第一期東宝ニューフェイスに誘われたこともあるというから、「政治家にしてはイケてる」というレベルではない。
当然、「集客力」も高く、事務所としては、願ってもない応援弁士なのである。
今でいえば、小泉進次郎の人気が、近いものがあるのかもしれない。
当日は、それはもう「お祭り騒ぎ」だった。バイトも支持者も大勢駆り出された。
事務所の幹部は警察官やSPと打ち合わせに余念がなく、事務所の司令塔たる候補者の長女は、誇らしげな顔をしていた。
実際、当時の橋本龍太郎は、「本日、○時に、橋本龍太郎総裁が、応援演説に来られます!!」と呼びかければ、
「エッ、うそ!? マジ? こんなトコにハシモトソーリがくるの? じゃ、ちょっと見ていこうかな」
などと騒ぐほどの人気があった。
「もし、総裁が演説している最中に暴漢が襲いかかって、それをウチの先生が体を張って守って、ケガして運ばれたりしたら、明日の新聞の一面になりますかね?」
「ああ。そうなったら先生は、もう当選確実だな。お前、いっちょやってみるか?」
僕らは、大分親しくなった事務所の下っ端幹部と、そんな軽口をたたいたりした。
定刻になると、ちょうどライブの最前列でファンを押さえるスタッフのように、バイトや運動員が群衆を抑えている前に、黒塗りの車列が到着した。
SPに囲まれながら降り立った橋本龍太郎は、思った以上に背が低かったが、確かに二枚目だった。
「世の中には、選挙になると、消費税率は下げて福祉の水準は上げるなどと、夢のようなことを訴える政党もありますが、
私には、そんな魔法使いのようなお約束をすることはできません」
などと語りかけるイヤミな調子には、好き好きがあっただろうけれど。
当日、街頭には大勢の支持者が動員されていたけれど、それを上回る人々が足を止めた。
それがきっかけで自民党候補者に投票したひともいるのではないだろうか?
だが、なにより、事務所に集う人々は、「総裁が来てくれた」「予想以上に人が集まった」という事実に興奮し、
例のばあさんは、街頭には来ていなかっただろうが、
「自分の支持する先生のために、橋本さんが応援に来てくれた」という事実に喜びを感じ、
ますます「近所の人に、投票してくれるように頼む」という彼女なりの方法で、お祭りを楽しんだことだろう。
「お祭りだなんて、とんでもない。選挙というのは、冷静に過去の実績や提示された政策を比較検討して、適切な候補者に投票すべきだ」
という人もいるだろう。それは、おそらく正論だ。
だが、そういう正論を唱える人たちが、政策とやらにどの程度つうじているのか。
数多ある課題の、すべての軽重を判断して、どれが適切な政策が判断することが、果たして可能なのか。
それに、どんなに「政策」が素晴らしかったとて、口先だけでは何とでもいえる。
政策はもちろんのこと、きちんと有権者に呼びかけ、汗を流している人を選ぶべきではないのか、という話にもなる。
そもそも政策など判断しかねるという大多数の人は、「難しいことは分からないけれど、あの人ならば大丈夫」という人に、判断を託すことになろう。
そして、「あの人=政策を作成、判断し、実行する人」というのは、つまり「権力者」だ。
かつての世の中では、文字通り血で血を洗う抗争をくぐり抜け、数多の屍の上に生き残った者が権力を握ったのだろうが、
そんなことで無闇に人の命が奪われるのはよろしくないということで、選挙というお祭りで権力者を選ぶようになったというのが、つまり民主政治なのだと思う。
「あの、お偉い先生も、私の一票があるから、大きな顔をしていられる」「私の一票のために、頭を下げてくれる」
そのことに喜びを感じられる人が、選挙というお祭りに参加する。
選挙カーを待ちわびる老人(のような人)とは、そういう人たちではないかと思うのだ。
そして、「お祭り」を利用して権力を上りつめようとする人間は、冷めた傍観者たちに参加を促すよりも、
「お祭り気質」な人たちを盛り上げることに注力した方が、効率が良いことを知っている。
時に、「権力者」という個人ではなくて、「戦争法案をつぶす」とか、そういう思想だが理念だか、そんなようなものを「ご神体」にしてお祭りが催されることもあろう。
多分、それがSEALDsだ。
彼らは初期の目的を達することはできなかったが、多分、世の中を意図的に動かそうと思えば、お祭りのような手段を使ってエネルギーを結集することが必要なのだと思う。
そんなこととは関係なしに、僕らから全く見えないどこかで、いつのまにか物事が決まっていく世の中は、多分、今の世より住みにくかろう。
僕はそんな世の中に住みたくないし、世の多くの人が、そう望んでいると思う。
だから僕は、「選挙カーを待ちわびる老人(のような人)」は、そう簡単に消えないと思うのだ。
消えるべきではない、といえるかもしれない。
選挙のやり方は変わっていけば、騒音をまき散らす選挙カーのような方法は使われなくもなるだろう。
選挙ではないけれど、今もネットでは、「炎上」という名のお祭り騒ぎが日夜開催され、それに参加する人もいれば、眉を顰める人もいる。
僕の粗末な頭では具体的に想像できないけれど、仮にネット選挙が今より進化したとしても、
選挙カーの連呼とは違う種類の「騒音」に悩まされ、うっとうしくなる日がくるのだろう。
ところで、僕はハロウィンに仮装して参加したことがない。今後もたぶん、参加することはないだろう。
だが、心の片隅に、あの、屈託なく仮装して楽しんでいる人たちを羨ましく思う気持ちがないかと聞かれると、全くないとは言い切れない。
選挙カーで名前を連呼する事象について言及すると「そもそも公職選挙法で規定されているから、それしかできないのだ」とブコメやトラバでご教示くださる方がいる。
仮に、連呼以外のことが認められ、選挙カーが政策を訴えだしても、「うるさい」と思う人は「うるさい」と思うだろうし、
走り回る選挙カーから、「政策に興味のある意識が高い有権者」の判断材料になるほど意義のある複雑な内容が訴えられるとも思えない。
サイバーメガネさんの「政治・選挙業界の闇の用語集」 というエントリを目にして、学生時代、東京都議選候補者の事務所で働いた時のことを思い出したので、つらつら書いてみる。
その自民党候補者の事務所で働き始めたのは、べつに支持者だったからではない。
むしろ、当時の若者の常で「それほど政治に興味はないが、しいて言えば左寄り」だったと思う。
なのに、なぜ働いたかといえば、単に友人から「とっぱらいの、面白いバイトがある」と紹介されただけの話である。
9時から18時まで日給1万円、延長の時は時給1000円、半日しか来れないときはそれでも良い、しかも昼食付きという条件に魅力を感じて、
選挙公示日の2週間前くらいから、そのバイトにはいることになった。
なお、現在、選挙事務所が、ウグイス嬢などの特殊技能を持っていない単純な運動員をバイトとして雇うのは、公職選挙法で禁じられている筈である。
当時の規定がどうだったのかは、よく知らない。
ただ、バイトにいった初日、「外で何か聞かれたら、○○事務所のボランティアですと答えるように」という注意があった。
あと、昼食は無料で弁当が出たのだが、なにか帳面のようなものに、弁当と金額が書いてあって、サインをさせられたが、
それでいて、とっぱらいの一万円をもらうにあたって、なにかにサインしたり、書類をもらったりすることはなかった。
仕事は、荷物を運んだり、連日どこかの体育館や集会場で行われている個人演説会の会場設営や後片付けをしたり、街頭演説の交通整理やビラ配りをしたり、
要するに雑用だった。
応援にきた時の首相に道を開けるため、群衆を抑える、みたいなこともあった。
あと、選挙カーの通れない細い路地を、候補者を先頭に自転車で走り抜けながら支持を訴えて走り回ったこともあった。
候補者のあとを、背中に候補者名や政党名を書いた「のぼり」をたてて路地を練り歩いたりもした。これは、内部で「桃太郎」と呼ばれていた。
「桃太郎」には「先発隊」が出されることもあった。
あらかじめ、候補者の一群が来る前に、支持者の家に声をかけて、表に出て先生に声をかけてくれるように頼んでおくのだ。
候補者が自ら支持者の家にいったら、公選法で禁じられている「戸別訪問」だが、あらかじめ支持者が公道に出ていれば、そうはならない。
告示日がすぎて、ドタバタと忙しくなっていたある日、印を付けられた地図を渡されて「ここのお宅にいって、先生のポスターを剥がしてきて」と頼まれた。
普段も街中で政治家や政党のポスターを見かけるが、選挙期間中は指定された掲示板以外にポスターを掲示してはならず、
実は、告示日が来る前のバイトの主な仕事として、選挙区を自転車で走り回ってポスターをはがして回る、というのがあったのだが、
それでも「見落とし」というのは当然ある。
そのまま、掲示をしていると、その筋(たぶん、選挙管理委員会)から警告のファックスがくるらしく、
その時は、大急ぎでバイトがポスターを剥がしに駆けつけるのである。
指定された場所は、ゴミゴミとした「アパート」というより「長屋」とでもいったほうが似合うような、古びた木造集合住宅が密集した地域であった。
今でも、東京の東部には案外そういう建物が残っているが、当時は今以上に、そういう地域が多かった。
その雰囲気は、サラリーマン家庭が圧倒的多数を占める、いわゆる「ベッドタウン」で育った大学生にとって、
物珍しさと一抹の不安を呼び覚まさせるに十分だった。
問題のポスターは、その木造長屋の二階の雨戸の戸袋に貼ってあった。
窓から乗り出さなければ、張ることも剥がすことも不可能な場所だ。
マッチ箱のような大きさの昔ながらのドアチャイムを押すと、引き戸を開けて出てきたのは
絵に描いたような「下町のばあさん」だった。腰がかなり曲がっていた。
来意を告げると、「ああ、そう。剥がさなきゃいけないのは知っていたけれど、あの場所じゃ自分でできなくてねえ」と言われた。
二階の窓から身を乗り出して、ポスターを剥がし終えると、ばあさんが冷たい麦茶を出してくれた。
ありがたくいただいていると、ばあさんがこんなことを言った。
「お宅の先生、ちゃんと頑張ってるの? こっちの方、まだ全然選挙カー来ないじゃないのよ。KM党とKS党ばっかりよ」
僕は思わず、ばあさんの方をじっと見た。選挙カーが来るのを待ちわびている人を、人生で初めて見て、いささか驚いたからだ。
「あたしゃね、SK学会とか、KS党とか、大っ嫌いなのよ。だからお宅の先生にも頑張ってもらわなきゃ。あたしも知り合いに投票してくれるように頼んでんだからさ」
ばあさんの言うことは、政策がどうとか、そんなこととは関係ない次元ではあったけれど、でも十分筋が通っていた。
あんな騒々しく名前を連呼して支持者の獲得なんてできるのだろうか、むしろ逆効果じゃないのか、と、それまでは漠然と思っていた。
世の中には選挙カーがこないと「先生、ちゃんと頑張ってるの?」と心配する支持者がいるのだ。
そして、その支持者が、さらなる支持者を獲得するために動いてくれるのだ。
もともと、候補者のことなどろくに興味がなく、選挙カーが来たら「うるせえなあ」としか反応しない層の反感によるデメリットよりも、
「ああ、先生、頑張っているなあ。あたしも頑張らなきゃ」というばあさんの意識に呼びかける効果のほうが、大きいのであろう。
世の中の仕組みをもう一つ知れた気分になって、いささか感心しながら事務所に戻ると、事務所の司令塔でもある候補者の長女に「ごくろうさま」と声をかけられた。
そして、彼女は、笑いながらこんなことをいった。
「あのあたり、ゴミゴミしてほんと汚いでしょう? いっそ地震でも起こって全部燃えちゃえば、再開発でもできるんでしょうけどねぇ」
彼女の父親の地位は、その「ゴミゴミしてほんと汚い」ところに住んでいるばあさんたちに支えられている筈であるのだが、
彼女にとってそこは、さっさと燃えてしまえばいい場所のようであった。
もともと冷めた目でこのバイトをしていた上に、さらに「軽蔑」の気持ちが加わったのだが、それはそれとして、バイト代は魅力的だったので、僕はその事務所に通い詰めた。
そういえば、投票日当日、事務所の整理などの仕事があったので、やはりバイトにいったのだが、
そのとき、事務所の「コールセンター」で、女性たちが支持者名簿を片手に電話をかけまくっていた。
女性たちは、「○○事務所のものですが、本日の選挙、投票にいかれましたか? 大事な選挙ですので、ぜひ投票なさってくださいね」などと呼びかけていた。
「○○候補への投票をお願いします」と当日に電話で呼びかけてしまうと、公選法違反になるということだった。
事務所の幹部たちは、1時間ごとにだされる投票所ごとの投票者数が記された紙を見て、「○○地区の出足がおそいなあ」などと言いながら、
女性たちに「○○のほうを強化して」などと、電話をかける先を指示していた。
結局、その候補者は当選した。開票速報が流れたときにも事務所にいたのだが、それはもう大層な盛り上がりようだった。
関係の深い人々はもちろんのこと、つい一か月ほど前に縁をもったばかりのバイトの大半も、それなりに興奮していた。
一月の間、同じ目標に向かって働くことによって生まれる一体感が、その興奮を生み出すエネルギーの源泉となっていたのだろうが、
先の一件で事務所に軽蔑の念をもっていたので、心の中ではかなり冷めた目でその光景を見ていた。
表向きは、その歓喜の輪に加わって、翌日に行われた祝賀会でも、随分ご相伴にあずかって、ビールやら桶の寿司やらをしこたまいただいたけれども。
このとき、結局、一月で20万近くを稼いだ僕は、その資金で海外へと貧乏旅行に出た。
インドで、現地で知り合った人に
「この国は世界最大の民主主義国なんだけれど、まだまだ文字が読めない人も多いので、
選挙の投票用紙には政党のマークが印刷してあって、それに印をつけるんだ」という話を聞いて、
「選挙ってなんだろう」と考えたりもした。
あれ以来、選挙の現場に直接かかわったことはないが、選挙の季節が来て、候補者の名前を連呼する声が聞こえると、
ああ、この辺りに、あの候補者の支援者が住んでいるのだろうか、などと考える。
選挙は一度も棄権したことはないが、選挙カーによる名前の連呼は、僕の投票行動にはいささかも影響を与えていない。
選挙カーで名前を連呼する事象について言及すると「そもそも公職選挙法で規定されているから、それしかできないのだ」とブコメやトラバでご教示くださる方がいる。
仮に、連呼以外のことが認められ、選挙カーが政策を訴えだしても、「うるさい」と思う人は「うるさい」と思うだろうし、
走り回る選挙カーから、「政策に興味のある意識が高い有権者」の判断材料になるほど意義のある複雑な内容が訴えられるとも思えない。
いや、教会ででたらめなことをしてる奴への対応は結構厳しいぞ?
10 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。
11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
(「マタイによる福音書」http://2nd.geocities.jp/durian22jp/weekdaybible/bible4/610000t3.html)
自ら磔になったのは預言を成就するためだろ。「なんでもかんでも全て受け入れる」のが正しい信仰だなんて解釈はちょっと違うんじゃないか。「右の頰を…」云々のキャッチコピーでも有名なように、キリスト教は確かにそれなりには寛容な教えではあるけれど、「なんでもかんでも」と言えるほど寛容じゃないと思う。
群衆の「個人叩き」が怖いってだけなのかなと思う。
佐野は個人として叩かれた結果耐えられず、
組織委はなにもできずに使用中止を決めただけ。
だれもなにもコントロールできないまま使用中止になった。
今回の炎上って、佐野個人ではなく大会組織委員会に批判が集中していればそこまで怖がる人はいないと思うんだよ。
そして大会組織委員会批判でもロゴの使用中止という結果は変わらなかったと思う。
競技場の件、見てみろよ。
あっちはザハ叩きはそこまでひどくなかっただろ?(不正があったわけではないからあたりまえだけどさ)
でも競技場も白紙になっただろ?
そして怖い怖いと言う人あまりいなかっただろ?
それはある程度コントロールされた決定に見えたからだと思うんだよね。
東京五輪エンブレムの使用中止に、ネット炎上の影響が「無かった」とは言えないと思う。
もちろんこの「思う」は、関係者に取材をあてて話を聞いたわけではないし、感想レベルだ。
でも、まあそうかな。そうだろう?当たり前だろ!というネットの個々人の反応は予想がつく。
何の証明も無く、何の責任も負わず、ただの「感情」のうねりが、エンブレムを使用中止に追いやったのじゃなかろうか。
そうした“リアルの与論”に近い性質を帯びるようになった“ネット世論”が、警察や裁判所や第三者機関を介するでもなく、リツイートやシェアやまとめサイトを経由して増幅し、テレビや週刊誌を先回りするかたちで問題を暴き、批判し、蹂躙していく――その風景が、私にはとても恐ろしく感じられた。
(与論はたぶん世論の誤字なんだろうけど、何箇所も有るし俺の知らない用法なのか……?まあ良いや)
シロクマセンセイの「メシウマしたい個人が大挙して押し寄せて、それが世論になるの怖え」というのは、感覚として判る。
ただ、ネット→マスコミ→世論、という、ワイドショーロンダリングによるお茶の間意思形成に一役買ったのじゃないかとは、思う。
その意味で、ギリギリ一歩踏みとどまって、既存のメディアスクラムというか、メディアリンチまでで済んでいる。
勿論この社会的制裁ってやつだってどうかとは思うが、「捏造確定」のような報道は、少なくともしていない。
まあ老獪とか言うのかもしれないが、流石に法務があるようなところで、無茶はしなかろう。
例えば、シロクマセンセイへのブコメにこんなものがあって、スターを集めてる。
augsUK 盗用や捏造の指摘を「叩き」と言ったり「暗い情念」と表現するのは、単純にその人の倫理観がねじ曲がってんのかなとは思う。そもそも「ネット」が一つの人格で動いているような表現がとても気持ち悪いけど。
ブコメ中で「盗用や捏造」と言っているが、何のことだろうか。立証されただろうか。それasgsUKさん個人が、責任取れるだろうか?
捏造していないと裁判の末に証明されて、名誉棄損で訴えられて、30万くらい払う覚悟でブコメ、してないよね?(してたらゴメンネ)
法治国家における倫理観としては、「疑わしきは罰せず」で、容疑者を犯罪者として扱わないことなのかな、と思う。
で、たぶんこの流れを読んでギョッとしたんじゃないかな。
え、いきなり個別のブコメを取り上げてナンカ言うのかよ、みたいな。
そう思ったのであれば、それは「「ネット」が一つの人格で動いている」となんとなく思っているからだ。多分そうだと思う。
当然、それぞれのネット上の発言は、それぞれ別の人格で、それぞれ別々に各発言に意思と責任があるんだけど、そう思ってないんじゃないかな。
だから、言葉が「軽い」し、覚悟がない。まあそんなもんだとは思うけど。
例えば、ザハ・ハディドの個人攻撃あったよね、ちょっと後味悪かったよね、みたいな記事に、こんなブコメがあってスターを集めてる。
Matsuriame そうかなぁ。競技場に関しては「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし、「ザハのせい」にしたがって、建築家だけに責任を押し付けて降ろしたのはむしろ発注者の人達だったけど。
まあ、「そうかなぁ」って書いときゃ免責みたいな空気感、あるよね?
xevra ザハの物を本当に作ろうとするのはクレイジー。ザハは模型を見て楽しむ物であって実際に作ろうとしちゃダメだ。デザインは素晴らしいからコンペは通過しちゃうが実現性無視してるから到底作れない。
はてブで1000超えってワリと珍しいんだけど、xevraさんの他にも「金かかるのデザイナー(ザハ)のせいなのね」というブコメの大合唱ですね。
他にも記録はイッパイあるけど、Matsuriameさんは、ググったり、ブコメを振り返ったりしない人なのかもしれない。(スターつけてるヒトもね)
そういう自分の発言がホントかどうかの責任を意識しないし、取るつもりもないのは、まあ放言じゃないかなぁ。(無責任話法)
勿論ここでは、「そうかなぁ」って書いてて、強く「いや違う!」とはコメントしてない。
感想だし違ってたらゴメーンネってすれば、別に良いじゃんブコメだし、みたいな空気感、あるよね?
「「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし」って、嘘ついても、いや嘘じゃないよ感想だしそういう言い方はヒドイ、とか思うのではないかな。
見境なく社会的制裁を振るう現状は、褒められたものではない。昔だったら居酒屋談義で終わってしまったはずのネガティブな情緒が、インターネットを介してこんなに繋がり、こんなに盛り上がり、こんな風に“世論”に直結して構わないものだろうか?
「構わないものだろうか?」というか、法治国家ならシステム外のプロセスも経ていない圧力でひっくり返るのはマズイと思うよ。
とはいえ、感情や情緒は大切にしましょうというのは、日本のシステムにはプロセス中に組み込まれているし、拡大傾向にある。
amakanata 今回のシロクマさんの見方はちょっと違うんじゃないかなぁ。世界的な賞を許可を得ずに素材を使ったデザインでごまかし続けた人間の作ったものを神輿にしたくない、という庶民の感情の健全な発露でしょ。
「ごまかし続けた人間の作ったものを神輿にしたくない」という「ネガティブな情緒」で、「庶民の感情の健全な発露」として「“世論”に直結」。
シロクマセンセイの見立てとそう言ってること違うようには思わないけども、amakanataさんの感覚は、ざっと見ブコメの5割くらいの感覚には近いように思う。
(本人の属性で作品の価値が上下するのは日本では良くある話だし、事業に関わる人の身ぎれいさを要求するのは日本だけじゃないしね)
amakanataさんは「ごまかし続けた」という具体例とかそれが真実ごまかしたのかを立証する責任があるとは思ってないだろうし、まあ実質ないんじゃないかな。
ちょっとブコメするのと同じ気軽さで簡単クリックで1万人自動訴訟できる世の中になったら、またちょっと違うんだろうけど、その非対称性の話はまた別の機会に。
ただ、「ホントだったらヒドイ(=嘘でも責任は俺にはない)」みたいなデマ一直線の発言も、居酒屋談義や床屋政談ならアリだと思うし、そこを気にするのは健全ではない気もする。
監視社会じゃねえのにそんな発言まで責任持ってしなきゃいけねえの?みたいな。いやほんとは責任もってしなきゃいけないんだけど。
信頼出来ない上司の業務命令には疑いの目を向ける、ではないけれども、本質的なところに不信感があるのではないか。
つまり、知性主義というエリートのやることに、なんか違うのではないか、どうも信頼出来ない信用出来ないとの思いがあるのではないか。
それが、判りやすい形で出た今回のエンブレム炎上騒ぎで、「普通の市民の道徳的な感覚として、まっとうな結果」と思う人が多いのであれば、
それは「メシウマ」が(ホフスタッターの言う本来の意味での)「反知性主義」として機能し始めたということなんじゃないかな、と思う。
エリートの言うことは信頼出来ないから、市民団体が監視をします、では無く。
一人ひとりの小さな放言や、調査結果や、情緒からくる感覚や感想が、まとめサイトに束ねられてマスコミがすくい上げて拡大する。
そこには警察の捜査も、弁護士や検察官の立証も無く、過去の蓄積からの裁判所の判断もなく、法律もルールも無縁の所で、
そうだろう、そうに違いない、絶対そうだという、責任のない感情的な判断が積み重なることで、「事実」になる。
それはある人から見れば「暗い情念」だし、ある人にすれば「常識的な市民感覚」だろう。
動機が行為を正当化するとも免責するとも思わないけど、そういうものかもしれない。
クリックで参加できる人民裁判だし、結果死人も結構出てるけど、改まらないしね。
(この増田も、5人から訴えられる可能性あるしなあ。たぶんダイジョブだと思うけど。裁判面倒だよなあ)
「反知性主義」判り難いという指摘を直接受けてまあそうかなとおもったので追記。
「知性主義」は、「専門家主義」と置き換えてもらうのが、一番ホフスタッターのニュアンス近いと思う。
「反知性主義」は、「反専門家主義」となって、つまり「専門家の判断ではなく、むしろ専門家ではなく専門的な知識がないからこそ、正しい判断が下せる」という主義とか態度のことね。
模倣の判断や、建築実現性、刑事民事の責任まで、デザイナーや建築士や弁護士でない、知識を持たないヒトが正しい判断をくだせていると考える(またそれを支持する人がいる)というのは反専門家主義(反知性主義)が受け入れられる土壌が育ってきているのではないか、という話。
専門家でない人達の声で(途中に週刊誌や新聞の専門部署を経ずに)、専門的な判断が覆る怖さについての話なのかなと思っている。
まあ、医療や災害に関しては、ネットでもまだ反専門家主義者が批判されるのを見ると、専門家たちが丁寧に説明することが重要なのかな、と思う。
(とはいえ、教育関係のひっくり返らなさを観ていると、今回の炎上は個別事案であって、脇が甘かったからこそってことなのかも知れないけど。ぬ、訴えられる可能性が上がった気がする。熱狂的な個人は手打ちが面倒だからボカスぞ)
なぜなら、管理する側は明確でも、管理される側(つまり並ぶ人)は素人さんだから。
並ぶのを管理する方と、並ぶ方の、双方が訓練を経て、初めて管理が成功するようになる。
これは、切符の購入から店の限定販売、施設への入場に至るまで全て同じ。
例えば徹夜はしないでね、に対して、徹夜組200名です、だと、これを弾くのは難しい。
店側にボディーガードが100名詰めてます、とかなら行けるだろうけど。
例えばコンビニの列に横入りする人、みたいなのは店員が1人で注意してもなんとかなる。1対1だから。
これが、例えばプレステ5を買う列に20人が大量横入りする、だとシステムで対応しないと個別じゃ弾けない。
色んなお店が頭を悩ませて、整理券だとか抽選だとか事前申し込みだとかに対応するのが、システム。
頭に思い描いて欲しいのは、お正月に浅草寺に押し寄せる初詣客、ね。
捌く人数が1000人を超えると、列管理とは全く違う管理が必要になります。
ここに至ると、多少の順番の前後とか横入りとか細かいことは無視する必要がある。
滞り無く「部隊」を移動させることが最優先であって、大抵「強権」を持った人が必要になる。
安全を考えると、「実力行使するぞ」という実行力を持った警備員が居ないと無理です。
このパチ屋の話http://anond.hatelabo.jp/20150805120855は、すごい面白いし有能。
訓練された客がいるというおかげではあるものの、インセンティブの与え方もコントロールも上手い。
ただ、1000人を4人で捌くのは大したものだけど、単純に1万人を40人とはいかない。
報道を聞く限りでは、そこまで到達してないと思うなあ。もっと前で破綻してる。
炎天下の幕張メッセに5万5千人来場、誘導スタッフ50人。1500人あたり1人の「誘導員」。
86人救護室、11人救急搬送、2万人は入場できず、という状況だったらしい。
たぶんマトモなイベント屋が間に入ってない。これ、社員の仕切りだと思う。
無料のイベントってことで、カネかけたく無かったんじゃないかなあ。
フツーに考えて、保安要員(警備員ね)が居ないとかアリエナイもの。
1番がかの有名なコミケットで、群衆を整然とした列に落としこんで、キチンと管理してる。
2番は初詣の警察の誘導とかね。大量の警備員で気合で守らせる。バックアップも十分用意する。
状況を伝え聞く限りでは2万人規模のイベントやる体制じゃない。
辞めると思う。いや冗談だけどさ。
自分だったら、まずキャパを把握する、次にボトルネック(一番細い通路)を確認する。
そうすると、流量(入ってくる量)と、ハコ(入れる量)からの算数になる。
例えば、ざっくりこんなことが判る。
どんなに風呂桶がでかくても、蛇口からひねった水の勢いでしか溜まらない。
つまり、チョロチョロとしか水が入らないなら、満杯になるにはすごい時間がかかるのは判るだろ?
んで、50人総出で、一斉に列形成に走る。会場内に入れちゃえばあとは適当に捌いて貰えば良いんだから。
9時開場で、すんげえ溜まっちゃってたら、もう入口側から対処していくしか無い。
準備不足では絶対に群集管理は出来ない。無理矢理にでも列管理するしか無くなる。
個別の質問には極力答えずに「この位置の人達は、最低でも何時間待ち」というのを叫んで回る必要がある。
そして、キャパを超えた人数には、「この位置では入場制限になるので、入れません」とハッキリ言って追い返す必要があった。
「まず入れません。会場入りした人が出た場合のキャンセル列だと思って下さい」と伝える必要がある。
キャンセル待ちって言い方にすると、どうしても帰れない人(遠方から来たとか)以外は、大抵諦めてくれる。
徹底的に追い返して、管理できる列を管理する。こまめに広報する。
列管理は「ルール違反者を弾く」のがポイント。並んだ人はルールを守る人。
群衆管理は「歩兵の大移動」。ルールを守らせる人が居ないと並ばない。
例の幕張メッセのイベントは「後ろの群衆を追い返す決断が出来なかった」のが一番の悪手。
たぶん暴動が怖くなってほとんど表に出ないっていう作戦に出たんだろうけど、まあ近隣迷惑だよな。
http://anond.hatelabo.jp/20150716232738
元増田はぼくにピース又吉の受賞記事を紹介し、それからぼくの口にペニスをつっこんで、文明の進歩が欲しいならまずは死ぬことだと言った。元増田とぼくは旧知の間柄だ。おまえは元増田と知り合いか、ぼくは始終そう訊かれている。
ぼくの喉の奥に亀頭を食いこませて、元増田は言う。「心配するな、おれたちは死なない」
陰茎に開いた尿道口が舌に触れる。ぬめった感触の大部分は包皮だ。元増田の陰茎の大部分は皮がかむっている。見栄えのするペニスを欲しいなら、包皮を取り除いたあと尿道にカンガルーの骨を挿入して陰茎の下部をナイフで穿てばいい。尿道割礼したペニスは、勃起したときに扁平になる。強そうに見える。
「これは文学の死じゃない」元増田が言う。「おれたちは新しい文学になるんだ。増田文学。名無しのままで永遠に生きる」
ぼくは舌でペニスを頬に避けて言う。元増田、それじゃまるきり京都の大学生だ。
ぼくらが立っているホッテントリカテゴリは十分後には更新される。内容のない時事ネタを一文あたり三倍の濃度で薄めて、村民をidコールする。サブカルネタも適宜加える。次に、ブクマの加虐心をそそる致命的な脇の甘さポイントを一箇所作る。300users超えの記事ができる。
ぼくらの足の下にある百九十一カテゴリのどこかで伊藤プロジェクト悪ふざけコミッティ所属のブクマbotどもが暴れ回り、古い文学を最後の一片まで破壊している。
昔から、愛は憎しみと紙一重と言うだろう。見ろよ、逆もまた真なりだ。
亀頭を口に突っこまれて陰茎を噛んでいると、こうやってタイプするくらいしかできない。
ぼくらに残された時間は十分。
また一記事、クソみたいな与太記事が吹き上がり、漏れだした憎悪が鳩の群れみたいにルサンチマンを反射しながら散っていき、悪ふざけbotたちの手で押し出された注目記事がはてなのトップの下部に現れ、ついには火を吹き、拡散し、炎上する魔法の飛行物体になって群衆に飲み込まれる。
クソ人気増田記事のハウツーは、ドナルド・キーンの文学史を見ても書いてない。
ホッテントリの三製法。その一、等量の紋切り型と悪意を混ぜあわせる。その二、等量のライフハックネタと悪意を混ぜあわせる。その三、等量の下ネタと悪意を混ぜあわせる。
ブクマの集め方なら訊いてくれ。威力抜群のブラック企業の告発法も。
あと八分。
「いまやこのインターネットはおれたちのものだ、全世界がおれたちのものだ」元増田が言う。
「古代人どもが爆釣だ」
この結末を知っていたら、書店員になって本屋大賞受賞作の帯にコメントを寄せているほうがよほど幸せだっただろう。
ぼくらは文学になるのかもしれないし、ならないのかもしれない。やめろ、とぼくは言う。待てよ、とぼくは言う。
「作者の死」を書き残さなかったとしたら、バルトは文学の記憶に残っていただろうか。
三分。
ぼくは舌でペニスを頬に避けて言う。文学になりたいなら、元増田、ぼくが文学にしてやるよ。最初にここにいたのはぼくらなんだ。昔からぼくらしかいなかったし、この先もずっとぼくらしかいない。
ぼくは何もかもトラバしている。
残り一分。
うーん。
元少年Aは重大な罪を犯したが、中川氏はそうではない。そしてそれこそが決定的であり、それを捨象して議論をおこなってはいけない。あなたの論法は宮崎勤をもってコミケにいる群衆を犯罪者予備軍と煽ったマスコミが使ったものだよ。
どっちも「相手の気持ちが分からない」人間だからどっちも「仕方ない」という話をした積もりなんだけど、伝わっているかな。
どっちも同じだから「許せねえ」なんて話をした積もりはないので、「あなたの論法は…」以下のくだりには釈然としないんだけど?
本当にキツい
あれ音量もありえないくらい大きいけど、何よりそこかしこで色んな広告が爆音で鳴ってて
ミックスされてる
グッチャグチャに聞こえる
俺のいた時には鳥のさえずりも爆音で鳴ってた
その場にいた群衆で気にしてる人は誰もいない
あの空間に普段からいる人達が文化形成の一部を担っているとしたら
耳は確実に腐っている
音楽とか語れない身体になってるよたぶん
フェス向きの4つ打ちEDMしか理解できないチンパンジーみたいになってる原因が分かった気がする
ごめん言いすぎた
そういう原因の一つだと思うんだよ
まあもう二度とあそこには行かねえ
あと電車な
人の声も大きくならざるを得ないし
電車との距離も近すぎてホームに来た瞬間にプァンッッってやられるともう瀕死だよ
乗ったら乗ったでフィィイ”イ”イ”イ”とかギャァアア”ア”ーーーとか
もう死ぬ
なんでみんな平気なの
承「自分の何倍もある巨人と戦う緊迫感のあるアクションシーンだけでも見ものなのに」
転「差し込まれる倫理観とか葛藤とかの心理描写がリアルで面白いんだよ」
結「これだけ色んな所で話題になってるんだから、原作だけでも見とかないと損してるよ絶対」
もしこれで相手が「それってどんな世界なの?」と聞かれたら城壁の話をすればいいし、「どうやって戦うの?」と聞かれたら立体機動の話、「どの辺がリアルな描写なの?」と聞かれたら登場人物の人間ドラマとか群衆の愚行とかの話とかをして会話を広げていけばいいんじゃないかな
起承転結をつくるコツは、面白いと感じた部分をある程度レイヤー分けしておくことで、一番面白いと感じてる部分を「転」に持ってくると、相手の興味をひきやすいかも
ただ、相手がどの部分に興味を持つかは相手になってみないとわからないので、まずはおおまかに面白いと感じた部分を並べてみるだけでも良いと思う
そもそも会話はその行為自体を楽しむものでもあるので、ストーリーを詳細に伝えようとし過ぎると会話のほうで破綻してしまうのが大体失敗するパターンだと思う
増田は相手に興味を持ってもらいたいとして一生懸命になっているのだと思うのだけど、相手が何に興味を持つかなんて分かるはずがないので、自分が面白いと感じた部分だけを伝えれば十分
それで相手が興味を持たなかったとしても、増田に当然責任はないし、それに相手が「俺を楽しませてみろ」スタンスである場合も多く、ただ増田の話を批判して優越感を持ちたいだけの場合もある
ズイショさんが言ってたから、オレの私家版を公開しとくわ。
これに3つ以上引っかかったらブコメ待ち、ビジネス界隈ならやまもとい<検閲されました>さん待ちになる。
「私は」「自分は」でなく、自分を含む某かのグループを持ってくる。
これが「スリランカでは」等の記述者と関係の無い対象に言及していると、間違いや勘違いは指摘されたらそれで終わり。
あくまでもポイントは、「俺はこう思う」を「日本男児はこう思う」と、群衆の一員になろうとするところ。
煽り文は『自分の意見を、誰かの意見だってことにしないと表現できないチキン』
「だと思います」「と定義されています」「と聞きました」でなく、断言する。
ポイントは「俺はこう思う」を「いや、普通そうでしょう」と、自分の感情を共通認識にしようとするところ。
先に謝っておくが殴る。もしくは、殴ったことを無かったことにしようとする。
「オマエはクソだ」「ビッチが」「だから友達居ないんだよ」ではなく、回避したり冗談にしたりする。
さらに高度な応用として「本当だとすればトンデモナイことだ」がある。
これもポイントは、「俺はオマエが嫌いだ」ではなく「口汚く罵るけどレトリックだよ?」と、暴行をじゃれあいと呼ぶところ。
煽り文は『主題は別にあるなら、品のない物言いはお控えになってはいかがでしょうか』
もしくは『本当でなかった場合は、当然本人に土下座して詫び入れますよね?』
「成功できない」「幸せにはなれない」「間違っている」ではなく、語尾を曖昧に濁す。
ポイントは、単なるイヤミや攻撃を、自分の感想として言うところ。
大抵の場合は合わせ技になっているが、相手に直接言及せずに、非難をする。
奉行は「てれすこ」の事を「すてれんきょう」と呼ばない、と暗に読める書き方にする。
江戸ならこんなもん打首ですよ。
(補足:「自分なら児童を保護するが(普通の人は保護しない)」という括弧無しの書き方な)
相手にボールを投げる。細かく相手に同意を求めるので、一々否定していられないようにする。
断定するのではなく、「~ではないでしょうか」「ですよね」「間違っているでしょうか?」
相手に意見を求めているのではなく、同意や追認を求めているのがポイント。
免責入れとけば何言っても良いと思ってて、罵倒してみたり、
俺が俺がではなく、オマエもそう思うよな、な?と絡んでくる感じで、
上から目線でソース無くこれが一般論でござい、とやると、釣果高いイメージ。
大きなポイントは「責任関連を他に押し付けつつ、言いたいことだけ言う」という、
公共空間で気持ち良く排出された時点で周りにとっては負け、みたいな状況かな。
正直「あの人トイレ行かないタイプなんだって奥さん」みたいな吹聴だけが対策かなー
私家版に解説付けただけなんだけど、公開の直接のキッカケはこれね
Rlee1984
大は小を兼ねる、ってこともあるよね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20141006214523
んなわけあるかい。
投石はしたいけど逮捕は嫌だから、群衆に紛れて投げます、みたいな卑怯なチキンを許してはイカン。
まあ、増田利用者は呪詛を投げつける存在に過ぎないので犬に噛まれたと思ってもらうしか無いのですが、
前述のブクマのようなクソみたいな意見表明、とまでは言いませんが、あまりにどうでも良いコメントを残していると
はてブ利用者は幸せにはなれないと言う気がしますし、自分は承認欲求の為に生活を切り売りは勿論しませんし、
このエントリを読むのは当然知的レベルの高い高等遊民のみなさんだと思いますので理解できないとは思いませんが、
無名の人だとPVが稼げないので、炎上を狙って釣り針だらけの雑な記事を載せるメディアは死滅した方が良いと考えるのは
私だけでしょうか?
○朝食:なし
○昼食:ナポリタン
○調子
ただたんに眠ってただけど思うけど、なんか不安だ。
○Halo3ODST
このゲームはHalo2とHalo3の間に起きた事件を、スパルタンではない海兵隊の視点で追った作品です。
まずは、チュートリアル代わりのミッション01「軌道降下」を攻略。
さすがに何ともなくクリア。
Haloおなじみの敵たちが懐かしいですね。
今回は何やら女性と怪しい関係にある「バック」さんを操作することに。
デアとのイチャイチャばなしがもあるも、デアさんは死んで?しまった模様。(絶対あとから出てくると思うけど)
北朝鮮独立記念壁画が中世のフレスコ画みたいだったので、キリスト教的に解釈してみた。
画像はこれ wikipedia 画像
中心となるのは、三人の人物。すべての父なる金日成、そのひとり子金正日、そして、偉大なる父と人民への橋渡しをする聖霊(金日成の右側女子)で、三位一体を象徴している。父なる金日成は純白の上着に一つだけ勲章をつけている。これは、金日成が比類なき行動によって現在の立場に立ったことを示す。後ろの群衆には大きな勲章を多数つけている人がいるが、群衆がいかに多大なる努力を払い、結果を出しとその結果の勲章を授与されたとしても、金日成の行った唯一の行動が最も偉大であり、父を超えることは不可能、ということである。
子なる金正日は、父の左側に控えており、こちらをまっすぐ見ている。子もわれわれ人民を救う責任を持っており、それは偉大なる父の子であるという唯一の属性によるものであることが、勲章の不在、絵の中での立場、視線によって表現されている。また、朝鮮半島の特性を色濃く示す背面の群衆と異なり、子の表情は完璧な左右対称で美しく描かれており、生まれながらのギリシャ的な完璧性を表現している。
右側にいて、父と手をつないでいる幼女は、聖霊である。父及び子は生まれながらに汚れを持たない完璧な存在であって、原罪を抱える人民とは関わりを持てない。それをつなぐのが聖霊であり、わずかに左に傾げた首は、父及び子の完璧性を備えていないことを象徴している。完璧でない存在でありながら、父とつないだ右手は父との強いつながりを表し、そのつながりは聖なる数字である3つの風船を通じて人民とつながっていく。聖霊の人間との類似は、通常よりかなり短いチマチョゴリにも表されており、「人民よ、産めよ、増やせよ、地に満ちよ」という教えを象徴している。幼女はこの絵のなかでの唯一の非軍人でもあり、非軍人が多く、幼女を愛する大衆を象徴している。
三位のみだけ、こちらを見ており、後ろの人はみな父なる金日成を見ていることは、後ろの人は神との立場では、我々人民と同じ立場にあり、我々を救う立場にはないことを表す。人民を救うのはあくまで三位一体の神であり、個々の人民ではないのである。
後ろの群衆のうち、子のすぐ後ろにいる女性は父なる金日成とともにあり、子なる金正日を生んだ聖母である。聖母の純潔は青い長めのスカートに象徴されており、聖母の銃を備えた軍服は父への忠誠を表している。
その他の男性は、父の軍勢である。父の右後ろにいる男性が陸軍の長、聖母の左にいるセーラー服の男性が海軍の長、陸軍の長の右にいる男性が空軍の長である。聖なる抗日戦線は陸軍中心であったため、陸軍のカーキ色の軍服を来た人が最も多い。空軍の長は戦死したため、代理の存在になっており、陸軍及び海軍の長が備える勲章を備えていないかわりに、遺影を左手に持っている。
聖なる抗日戦線で多数の人間が父に従い、戦死した。ただし、北朝鮮においては死は終わりではなく、天で永遠の喜びと父の栄光をたたえ続けるのである。それを象徴しているのが右上に書かれている天国にいる人民である。父の栄光をたたえ、歓喜の叫び声をあげている。
青春なんていらない。ただ、一度でいいからJKとやりたかった。
清らかな制服に身を包み、長い髪をなびかせながら笑顔で歩くJKたちは、頭部から胸を経てローファーへと至る俺の視線にはまるで気付かない。強い日差しの下、薄着の上半身と短いスカートの下半身から、若々しいフェロモンを漂わせ、やや離れたところにいる俺の鼻をも貫く。けっして全てのJKが可愛いわけではない。集団の中には見目の劣った者もあるようだけれども、特別な装いと齢とが皆に均しくJKという身分を与える。卒業してから制服を着ても女がJKに成り得ないのは、これが一生に一度だけ許されるかけがえのない地位であることを証している。
ある時、電車の座席上のJKが勉強する手を止め、真っ直ぐ前を見、どこか恍惚している風な所を見かけた。窓からさし込む夕日がつややかな髪の毛に照り映え、ほどよく膨らむ胸と、ていねいに閉じられた脚とが、安らかな目元とともに彼女をとりわけ美しいJKに仕立て上げた。俺は目を離せなかった。その眼差しは悩んでいるわけでも憂えているわけでもなく、ただただ清廉で、それでいてぬくもりがあふれていた。何者にも負けない堅い意志と何者をも包み込むやさしい母性があった。俺はなぜか切なくなった。やがて終点に着くと席を立ち、すみやかに改札へ向かおうとするが、俺も負けじと足の動きを速め、彼女の全身を横目でちらと窺う。けれどもそれも長くは続かなかった。彼女の進む方向と自分の進む方向とは相容れなかった。彼女は群衆に混じり淡雪のようにはかなく消えた。