はてなキーワード: 群衆とは
二番目には割と共感してしまう。シモも入れるならありかと思う。
ただ元増田だが、マジメに考えるなら4つとか3つ以前に、発明という言葉の意味を考えて欲しい。
確認していないが1.と4.は明らかに文語からであり、擬音語を書き文字に持ち込んだに過ぎない。
3.に関しては印象は強いのかもしれないが、主要キャラクターが正論や驚くような台詞を力強く言う際での使用だとすると、これも明らかに発明とは言い難い。
申し訳ない事にそれも確認していないが、同じ用例は3.以前に数多くあった記憶があるからだ。また、形容詞的に使われる擬音語としては日常的に多くあったようにも思う。
そして2.だが、あの独特な使い方に関してはあまり類を見ない気もする。ただ、作者の師事していた漫画家の有名作品ではもしかすると存在するかもしれない。
馬やバイクの登場が多く、群衆の足音などでもあったかもしれないので判然としないが、『発明』と言うのであればメメタア、やドギュゥウン、等を挙げた方がスジは良いのではないだろうか。
重箱の隅のように感じられたら申し訳ないのだが、本当に全く悪気はなく、発明それ自体の価値と、漫画全体をも陥れない為を思って書いてみた。
「ドライブに行かないか?」と僕は言った。「ウホウホ」とゴリラと言った。
海を見たことがないゴリラのために、僕は海岸沿いの景色のよい道を選んで運転した。ゴリラは「ウホウホ」と無邪気そうに喜んだ。
しばらくしてゴリラはバナナを僕によこした。一緒に食べよう、ということだ。ドライブしながら食べるバナナは、いつもより甘く、ほとんどバナナとは思えないほど美味しかった。
僕たちは食べ終えたバナナの皮をあたりかまわず窓から放り投げて、ドライブを続けた。
しばらくして、トウモロコシ畑を襲撃するイナゴの群れのように、夥しいパトカーが僕たちの車に近づいてきた。
停車した僕たちを取り囲んだパトカーのスピーカーから「手を上げて今すぐ車から出てきなさい」と声がした。警察官たちはひとり残らず銃をこちら側に向けていた。
やれやれ、仕方なく僕が車から降りると、一人の警官が「危ないからそこを離れなさい」と叫んだ。彼の銃口は車内のゴリラに向けられていた。警官たちはゴリラを射殺するつもりなのだ。
僕は警官に顔を向けたまま「ここでおとなしく撃たれるよりは、いっそ逃げよう」ってゴリラに言った。
そう言い終えた途端、僕の体は宙に浮かび上がり、ヒルトンが神宮球場のスタンドに放つホームランのように、爽やかな午後の空に放物線を描いた。もちろんそれはゴリラが僕を持ち上げ、警察の包囲の外側へ投げ飛ばしたのだ。
着地すると同時に、警官たちの銃声とゴリラの咆哮が耳をつらぬいた。僕はどうすることも出来ず、必死に走り、その場から逃げだした。
それ以来、ゴリラの消息は分からなかった。僕は時折「あいつは無事に逃げられたのだろうか」と思いながら、それまでの生活に戻っていった。
ある日のこと、僕は新聞の地方欄の片隅に、こんな記事を見つける。「ゴリラ捕まる、処刑は今日」
僕が街の広場に着いた頃には、すでに群衆が断頭台とゴリラを取り囲んでいた。
人混みをかき分けてゴリラに近づこうとする僕とゴリラの目があった。ゴリラは驚いた顔をして「俺のことはいいから、早くここから立ち去れ」と目で合図をした。
「そんなことは出来ない」と僕は目で答えた。ゴリラが僕にしたように、僕も自分の命を投げ打ってでもゴリラを助けないといけない。絶対に助けないと。
けれどもそう思えば思うほど、僕はベトナムの沼地に踏み込んだアメリカ兵のように動けなくなった。百人の小人が両手をつかまえて、体を左右から引き裂いているような心持ちだった。
「だから」と、僕は彼女に言った。「僕はゴリラとドライブには行かないんだ。もうあんな目にはあいたくないからね」
「きっと楽しいけど、僕はゴリラとドライブに行ったらいけないんだ。そういう運命なんだよ」と僕は答えた。
「じゃあ、これから私とドライブするのはどうかしら?」と彼女は言った。「もちろん、ゴリラほどには楽しくないかも知れないけれど、そんな悲しい思いはしないと思うわ」
「悪くないね」と僕は言った。
レッドスターなんかほとんど見たことないからウホウホ無邪気に喜ぶんだろうな。
で、一緒にグリーンスターなんかつけたりして。
いつもより辛口だねなんて言ったりして。
だけど、そのあとブクマのタグをポイポイと投げ捨てたのはいけなかった。
びっくりしたんだろうね。後からきたブクマカが「増田でうんこを投げてる増田がいます」って警察に通報しちゃって。
警察もびっくりしたのか、たくさんのカラースターもってきて俺たちを取り囲んで、「手を上げて今すぐはてな村から出てきなさい」って。銃まで取り出して言うんだ。
仕方がないからキーボードから手を離すんだけど、警察は俺に向かって「危ないからPCから離れなさい」って言うんだ。きっとはてなーを撃つつもりなんだろう。
だから俺は、「ここでおとなしく撃たれるよりは、いっそ逃げよう」ってはてなーに言ったんだ。
そしたらはてなーは俺を片手で持ち上げると、警察の包囲の外側へ思いっきり投げ飛ばしたんだ。
銃声と咆哮を後ろに聞きながら、俺はどうすることもできなくて必死に走って逃げた。
俺は、「あいつは無事に逃げられたのだろうか」なんて思いながら元の生活に戻ったんだけど、ある日、新聞を見たらこう書いてあるんだ。「はてなー捕まる、処刑は今日」
街の広場に着くと、もうだいぶ群衆が詰め掛けていて、真ん中には断頭台とはてなーがいるんだ。
俺は人混みをかき分けて近づこうとするんだけど、それに気づいたはてなーは驚いた顔をして目で合図をするんだ。
そこで俺はこう思うんだ。はてなーが俺にしたように、俺も自分の命を投げ打ってはてなーを助けないといけない。絶対に助けないといけないって。
きっと楽しいけど、行ったらいけないんだ。
海なんかほとんど見たことないからウホウホ無邪気に喜ぶんだろうな。
で、一緒にバナナなんか食べたりして。
いつもより美味しいねなんて言ったりして。
だけど、そのあとバナナの皮をポイポイと投げ捨てたのはいけなかった。
びっくりしたんだろうね。後ろの車が「車からバナナを投げてるゴリラがいます」って警察に通報しちゃって。
警察もびっくりしたのか、たくさんのパトカーでやってきて俺たちを取り囲んで、「手を上げて今すぐ車から出てきなさい」って。銃まで取り出して言うんだ。
仕方がないから車から降りるんだけど、警察は俺に向かって「危ないからそこから離れなさい」って言うんだ。きっとゴリラを撃つつもりなんだろう。
だから俺は、「ここでおとなしく撃たれるよりは、いっそ逃げよう」ってゴリラに言ったんだ。
そしたらゴリラは俺を片手で持ち上げると、警察の包囲の外側へ思いっきり投げ飛ばしたんだ。
銃声と咆哮を後ろに聞きながら、俺はどうすることもできなくて必死に走って逃げた。
俺は、「あいつは無事に逃げられたのだろうか」なんて思いながら元の生活に戻ったんだけど、ある日、新聞を見たらこう書いてあるんだ。「ゴリラ捕まる、処刑は今日」
街の広場に着くと、もうだいぶ群衆が詰め掛けていて、真ん中には断頭台とゴリラがいるんだ。
俺は人混みをかき分けて近づこうとするんだけど、それに気づいたゴリラは驚いた顔をして目で合図をするんだ。
そこで俺はこう思うんだ。ゴリラが俺にしたように、俺も自分の命を投げ打ってゴリラを助けないといけない。絶対に助けないといけないって。
きっと楽しいけど、行ったらいけないんだ。
ロシア政府はロシア国内での『ポケモンGO』の使用を禁止した。その代わりにロシア政府は、モスクワ市政府監修の『ディスカバー・モスクワ』というロシアの歴史にゆかりのあるキャラクターを捕まえるゲームアプリを8月末までに提供するとしている。
ロシア政府が『ポケモンGO』を禁止した理由として、ロシア上院国防安全保障委員会のクリンツェビッチ第1副委員長は「群衆を集めたり特定の情報を拡散したりして、政変を起こす道具として使われる可能性がある」と指摘した。
また、ロシア共産党のポロネンコフ下院議員は「『ポケモンGO』はアメリカの情報機関によって作られた可能性がある」と言っており、こうした疑念が使用禁止に結び付いた可能性が高いと報じられている。
レイトショーの回を観に行った。
まずとなりの席に座ってたババアが最悪。
七対の触手を落ち着くなくうねうね蠢かせて視界を塞ぐし、十七秒間隔で先端からオレンジ色の膿汁みたいなものを撒き散らす。
入場前に持たされた3DLSDを服用すると、光の世界へジャック・イン。
おれたちはもうゴジラだ。
アーチ型に列に並べられた、八十ほどあるパイプ椅子のうち、その日使われているのはたった五脚だった。わたしたちは互いに離れて座っていた。わたしたちは一人になるためにここに来たのだ。自己省察、つまりは失われた人生を結果論で批判したいという欲求。それは宗教の信者が抱く祈りへの欲求くらいにやむにやまれぬものだった。
シンゴジは昔の大作の映画みたいに、本編上映中に休憩時間が挟まっていて、そのあいだトイレにも行かず、ホットドッグを補充しようとしないやつは十五分間のニュースを観させられる。その一コーナーは株式市場報告だった。素人くさい二人の女の子が、熱心にその日の市場の動向を報告するのだ。
私は見て、聞いた。女の子たちは私の娘だった。オオクニヌシとアマツヒコネ、十歳と十二万歳。二人の母親が電話でぶっきらぼうに、娘たちがTOHOシンデレラに選ばれてこれこれの番組に出ることになったと教えてくれた。
二人は画面で無表情にアラブ首長国連邦で急速に進展している状況について報告していた。
「東京株式市場には深刻な影響は出ていないと政府はコメントしています」
「ドバイは国民ひとりあたりの負債が世界一多い」オオクニヌシが言った。「そして、建築バブルもはじけ、もはやドバイは借金を〜〜〜(聞き取れない)へ返せません」
「何十億かの誤差はありますが」
「負債を負ったこの都市国家は、六ヶ月の返済猶予を諸銀行に求めています」
「ダウ・ジョーンズが下がった」
「ドイツ銀行」
「下がった」
「また下がった」
「ホンコンのハンセン指数」
「どんどん下がる」
「下がった、下がった、下がった」
以前の人生は毎分のように自分を書き換えていく。四年後にも私はここにいて、この薄暗い客席で悲惨に座って石原さとみのルー語を聴いているのだろう。
自由になった未来などなかなか想像できない。信じられるものなど何一つない。
日本は立ち直りなどしない。
この二十数年、いや、この六十五年間、立ち直ってこなかった。
立ち直ったのは監督の鬱だけだ。
「恐怖は増すばかりです」
「数字の恐怖、拡大していく損失の恐怖」
「恐怖とはゴジラのことです。話題はゴジラです。ゴジラには収益性があります。五百八十億ドル、それとも八百億ドル?」
「速報です。ハリウッド版ゴジラを製作しているレジェンダリー・ピクチャーズが中国企業に買収されました」
「速報です。エヴァンゲリオンはもう誰も観ていません」
「なぜなら誰もが観ているからです」
戦争、休戦、無秩序に右往左往する群衆のインスピレーションとなってきたサッカーとゴジラと映画。どれも世界で熱狂的に愛されている。あるオブジェクトを追い回し、草地や芝生や都市で行われ、国全体が高揚や悲嘆に身を悶える。
もしゴジラがアメリカの発明品だったならば、古くからの清教徒的な本性に導かれて、マスターベーション禁止という原則にのっとった作品にならざるをえなかっただろう、とヨーロッパの知識人が唱えたりしないだろうか。
これはいま私が考えていることのうち、以前は決して考える必要のなかったことの一つだ。
肌が音を立てながらが溶けていくのを感じる。
性器が溶解していくのを感じる。
それがなぜか妙に心地いい。
みなさん、もう「シン・ゴジラ」は見ました?自分は「島本和彦氏の敗北宣言」(http://togetter.com/li/1006140)を知って、興味がわいたので今日見てきました。
結果、自分としては大変おもしろかったです。傑作だと思います。
しかしながら、見る人を選ぶ映画のようで、例えばYahoo!映画での評価(http://movies.yahoo.co.jp/movie/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%82%B8%E3%83%A9/354182/review/)は1と5が目立つ結果となっています。その中でこの映画の欠点として言われている理由のひとつに「一般市民の登場人物がいなくて感情移入が出来ない」というものがあります。
確かに、この映画の中では一般市民は群衆として描かれるだけで、主要人物としてはもちろんサブキャラとしても出てきません。出てくるのは政治家、官僚、自衛隊員ぐらいです。庵野監督がどういう意図でこういう構成としたのかは知る由もありませんが、ひとつ可能性を思いついたので書いておきます。
みなさん2011年3月11日に起こったことと、それに続く数日のことはまだ覚えていらっしゃるでしょう。
津波に町が呑みこまれたり、原発の屋根が吹き飛んだり、放射性物質の飛散状況を気にしたり、そのくせ月曜日には会社や学校に普通に通っていた私たちです。知らないことなら映画のスクリーン上で俳優が演じて見せることに意味があるでしょうが、見る人が既にそのような体験をしているのなら、不必要ということではないでしょうか。
皆さんPokemon Go やっていますか?僕はやってるよ。すげー楽しい。
僕は職業がデザイナーで、周りもファッションや建築やデザイン系の友達が多いんだけど、オシャレでクールな奴はPokemon Goをやたら敵対視してるんだよね。聞いてみると、公共の空間で周りを見ないでスマホばっかりしている光景が美しくない、とのこと。確かにスマホの小さな画面に顔と近づけてピコピコしているのはあまりかっこいいものではないよね。だから、街でポケモンに興じている群衆を群衆を見て「うわぁ、キモ」みたいな感じで見下してるポストがFBとかにあがってくる。
でもね、そういうふうに物事の表層的な部分だけを捉えて他者を見下すというのはどうなのよ、って思うわけ。
自分はさすがにソーシャルメディアでポケモントレーナー(LV. 16)であることを公言してないけど、普通に街でやっています。僕はデザイナーだけどギークでもあるので、拡張現実やGPSとゲームリンクという部分でかなり胸熱の部分があって、割とすんなり入っていけたんだけどね。
なんかモヤモヤした。
全体的に面白かったんだけどね。
泣かしどころかと思ったらそっちか!ってなったし。
最後の流れ
みたいな。
なんつーかカイルは救われてないんじゃないのかと。
結局キャンビーは社会的に制裁は受けるっぽいけどカイル死んじゃってるしね。
最後、プラスチック爆弾付ベスト(実際はただの粘土)を着せられた
キャンビーに向かってカイルが言うんだ、謝れ、って。間違ってたと言えって。
銃を突き付けられ、起爆装置のリモコンを目の前にかざされ、脅された状態で
キャンビーは悪かった、wrongと叫ぶ。
それを聞いたカイルは納得したかのように、目的が達成されたかのようにリーの方を振り向き
起爆装置をキャンビーへ放り投げる。(スイッチから手を離すと爆発する設定だったが実際は粘土なので爆発はしない)
瞬間、周りを取り囲んでいた狙撃隊から発砲され、カイルは命を落とす。
キャンビーの企みによって全財産を失わされ(自業自得の面があるにせよ)
テレビ局に乗り込んでキャスターを人質にとってまでやりたかったことが
悪かった、といわせることだったのかなぁと。
エピローグ、ニュースで、キャンビーが起爆装置を放り投げられた時に慌てふためくカットが
コラ動画としてvineで拡散しているというニュースがあった。
今っぽいなぁと思った。キャンビーがしたことに対して、規制を強めようという動きが出るとか。
なにかしらの運動が起こるとか。そういうんじゃなくて、面白おかしく編集して
嘲り笑う対象にするだけで終わり。(海外なんちゃら法で罰が与えられるってニュースもあったけどさ)
みんななんとかならないかな、と思っているんだけど、なにもしない、なにもできない。
周りには野次馬がたくさんいて、番組でやっていたダンスを踊っていたり、カイルを応援していたり。
またウォール街占拠だ!って息巻いていたり。
でもカイルが、イヤホンをリーに渡しに来たロンを撃ってしまう。
カイルはその中で、違うんだ、間違っただけなんだ、と独り言ちる。
やっぱり、解決してないんだよね。この一つの事件としては一定の収束をむかえたけどさ。
ジョディ・フォスターが答えを示してないって言ってたっけ。うん、問題提起の映画なんだなぁと。
この先どうなるんだろうね、どうしたいの?って聞かれてるみたいだった。
いつも彼らはどこかにを読んだ。小川洋子の短編集はいつも難しい。いかにも文学って感じだけど、不思議と心地よい感じがするのが面白いと思う。
個人的に一番分かりやすくて感じ入ったのが、ビーバーの話だった。場面描写が美しくて脳裏にありありと浮かんでくるのが素敵だったし、ビーバーの生き様と登場人物の生き様をリフレインさせていいるのが理解しやすかった。質実剛健というとニュアンスが変わるのだろうけど、慎ましやかであることとか堅実に過ごすこととか着実に生きることを、あるいはそうあったことを讃歌している一編で読後感がとても良かった。
兎の話は熱に浮かされた人々の醜さというか残酷さが現れていた内容だったと思う。個人個人は取るに足らない悪しか持っていないのだろうに、大衆や群衆になるとこうも悪臭を撒き散らすのかって感じの物語で、ざらざらした読後感が残ってしまった。
小鷺の話は奇妙でユーモラスだったし、蝸牛の話は不気味でホラーちっくだった。馬の話は不安感を、チーターの話は喪失を描いていたんだと思う。犬の話は(他のもだけど)よくわかんなかった。
最後の竜の落し子の話もこれまたよく分かんなかったんだけど、場面がどんどん幻想的に、現実世界と地続きなのに風景画のような美しさに満ちていくのが印象的だった。先人たちが何かを書き残した洞窟だったり、鐘楼だけが突き出た湖だったり。美しい旅の話だった。
折角の短編集なので、一編一編じっくりと味わうのがいいと思う。一気に読むのは、いろんな作風の余韻が混ざり合って悪酔いするかのような感覚に陥るからおすすめしない。
有名になると、過剰な叩きを受けやすくなる。
ネットの炎上は基本的にはお祭りなので、盛り上がりやすい有名人のバッシングにモチベーションが湧く傾向がある。そこに正義だの平等だのはない。
だとするなら、何も成果を挙げず、名もなき群衆の一人として生きるのが一番得をできる。
匿名でひたすら他人のあげ足をとり続けるのが合理的な行動指針となる。地獄だ。
有名無名によって変わるとしたら、影響力の差だ。
テレビに出ている芸能人がポリコレに反した発言をするのと、そんじょそこらのおっさんが同じ発言をするのでは、影響範囲は前者の方が大きい。
その発言によって傷つく人数やポリコレに反した思想が身につく人数は、前者の方が多いであろう。
有名人が悪行を働く方がより罪が重いというのも一理はある。
また、罪を犯した人間を全員叩くというのも、手間がかかりすぎるので現実的ではなかろう。一挙手一投足が注目される有名の方が、悪行が明るみにでやすい。
それでも私は、素晴らしい業績をあげた人ほど中傷におびえながら清廉潔白に生きなければならないという、有名税的な考え方を認めたくはない。
国立競技場の問題とか、裏金(?)の問題とかで、「もう東京五輪なんかやめてしまえ!」という声が日増しに高まっているけど、
確実に中止にする方法がいくつかある。
一つは、開催の1か月ぐらい前に、東京を震源とするM8ぐらいの地震が起きて、10万人ぐらい死ぬこと。
でもそれで10万人が死ぬのはさすがに忍びない。でも一人だけ死んで中止になる方法がある。
東京都出身。東京都千代田区在住。82歳男性。職業は言えないけど今も現役で仕事をしている。
群衆の前で手を振ったり、全国各地を訪ねたり、古い車を乗り回したりしている。
この人が開催の1か月ぐらい前に死んだらさすがに中止になるのではなかろうかと。
理由:「増田といえばやはりこれ」(17歳)、「画面から匂い立つようなウンコ臭を期待してしまいますわ」(17歳)、「真理があると思う」(20歳)、「増田が脱糞してると私も脱糞しても大丈夫なんだ!というポジティブな気持ちになれる」(17歳)
理由:「増田の価値は主語の大きさで決まる!」(17歳)、「主語の小さい腰抜け増田とは付き合いたくないでありますな」(17+n歳)、「虚勢を張っている増田の見栄っ張りな姿にグッとくる」(17歳)
理由:「増田の外にはばたくビッグな増田に惚れる」(17歳)、「最低でも2000users稼がない増田には価値が無い」(17歳)、「ネット言論ってかんじがなんかいい」(17歳)
理由:「普段は声なき群衆である女性たちのリアルな叫びが聞けるのは増田だけ!」(17歳)、「むしろ国会にとりあげられないような1万字くらいのだらだら陰鬱な増田が好き」(17歳)、「ちょっとブクマがつくて慌てた様子で追記をかくところが可愛い」(17歳)
理由:「狙ってるのか天然なのか、釣りなのかマジなのかギリギリの感覚が味わえて濡れる」(71歳)、「難易度は低いけど、確実にブクマを稼ぐぞ、という増田のギラギラした若さが見えていい」(17歳)、「俺も見下されたい」(17歳)
その他……「増田常連ブクマカに絶対ブクマされない忍増田」(一切の慣れ合いを排除したサムライ的姿勢がかっこいい、17歳)、「すいようび」(ミステリアスな感じに惹かれる、17歳)、「店長」(隠し切れないオーラに脱帽ですわ!、41歳)、「増田文学」(カクヨムには負けてほしくない!、17歳)、「エロ増田」(あんまりないから見つかるとラッキーな気分に、17歳)、「スパム」(正体不明で絶対に権力に屈しないところが男らしい、17歳)、「レビュー系増田」(いちいち個人のブログをチェックする手間がはぶけて助かる、17歳)、「料理レシピ系増田」(家庭的な増田さんが素敵だと思います、17歳)、「お嬢鯖」(気高い、17歳)、「人気記事パロディ系増田」(他人の尻馬に乗るさもしさがいかにも増田!って感じですがすがしいよね!、17歳)、
ナディアとか。
らきすたとか。
デュラララとか。
エヴァとか。
(wikipedia調べ)
何か震災や被災があるたびに「かわいそう」とか「心配」とか「助かってください」とか
ツイッタやらSNSやら掲示板でやらヤフゴミやらここやらどうでもいいわ、
兎に角いろんなところで心配してそれにいいねとか拡散してるやつらのことな。
そして震災後の対応にシビアな意見を見つけたらイナゴのように肉も骨も食い散らかして攻撃していくやつらのことな。
こいつらの行動原理は主に2つ。
「心配する心優しい私を認めて欲しい」
1つ目は、糞みたいな自分の日常から脱却したい忘れたいという願望。
1999年ノストラダムスの予言に熱狂して信じてしまうようなタイプ。
地震や津波などの天災によって引き起こされる非日常感をエンジョイしてる。
台風きたり地震きたら興奮してドキドキしてアドレナリン出るやつ。
日常から解放される快感を味わいたいために特に関係の無い地域のやつでも
拡散に必死になったり参加してる気分を味わいたいのはなるべく長く被災状態(非日常感)を味わい尽くしたいから。
2つ目は、人から優しいと思われたい・優しい行為をしている自分は認められてもいいはずだという承認欲求。
そして自分と同じことをしている人間を見かけて褒めること、いいねすることで自分の行為も同時に肯定して
承認欲求を満たそうという考え。
これの素晴らしいところは評価数の多ければ多いほど心配コメントを評価する自分も承認されるので
発信すら不要で支持するだけシェアするだけで満たすことが可能ということ。
表だって心配せずともいいね押すだけやシェアするだけの水面下の心配宗もいる。
なので心配宗を批判するとこの水面下の人間からもカウンターパンチをもらうことになり意外なところから攻撃を食らいやすい。
現実主義者から程遠い意見が生まれるのもなるべくメルヘンチックな脳をしているほうが心配宗に適しているからだ。
やってることは「グリーンマイル見てごっつ泣いたわシェアしょ」レベル。
伝家の宝刀は、
・人でなし
・良心の欠片もないのか
・偽善も善
などなど。
心配する自分VS心配しない人でなしという構図を簡単に作り出しやすいため、
群衆を味方につけやすく、自分の中身の無い行動にも正当性を作り出しやすい。
簡単に言うと、
「私はブログを愛していました。毎日真剣にコミュニケーションしていたつもりです。周りにはいつもブロガーがいました。トラックバックとソーシャルブックマークで繋がっていたんです。オタクもサブカルも主義者もいたし、道化、変態もいました。ユーチューバ―のおままごとと違って、正真正銘の道化や変態です。
仕事が終わると、いつもラップトップに張り付いてアンテナをチェックしました。寸暇を惜しまずブログを読み、ブログを書きました。私にとってブログとは、自由になるための手段でした。彼らもそう思っていたでしょう。しがらみに揉まれず、率直な意見をぶつけあう空間。誹謗中傷と批判の区別のつかない人間もいましたが、自由のうちにそういうノイズが混じるのは仕方のないことです。それでもノイズを我慢してブログを続けられたのは率直に意見交換ができたからです。
ときには自分自身への囚われからも自由になれました。私は一人ではなかったからです。信頼できるブロガーからの批判になら、私は耳を傾けることができました。他者の批判は、自分自身の防衛機制を照らす小さな灯です。あまり利口ではない私と彼らでも、知恵を出し合い、意見を出し合い、一人ではたどり着けない何かをアウフヘーベンできました。私にとって、web2.0とはそういう経験だったのです。
ときに讃えあい、ときに批判しあい、ときに潰しあい、そうやってブログを楽しんでいました。土日祝日もブログを欠かしませんでした。アカウント生命を賭けた戦も何度もやりましたし、痴情のもつれがブログをクラッシュさせるところも何度も見ました。人間の最も汚い部分から最も尊い部分まで、すべてがそこにあったのです。
あなた達にはご理解いただきにくいところかもしれませんが、ほんらいブログとは自由なのです。ガンジス川のほとりのように。そして私も!彼らも!ブロガー!!だったのです!」
Yes!
Yes!
Yes!
『賛成多数、汝を戦闘ブロガーと認定する。“獰猛危険”の烙印を施した後、はてなシティ引き回しのうえ、“ゲットー”での謹慎蟄居を命ずる。今後は市民に対するいかなるコミュニケーションも許可しない。良いな?id:○○○○』
「なぜですか!私はコミュニケーションがしたいだけなのです!自由なブロガーの!ブロガーの自由をお認めくださいませ!」
『ならぬ。汝ら戦闘ブロガーは、今という時には不要な存在なのだ。命(アカウント)があるだけでもありがたいと思え』
「どうして手斧を投げてはならぬのですか!どうして討論してはならぬのですか!」
『討論など今のブロゴスフィアには要らぬ。
やれ!』
「や、やめ、ギョワーーーー」
焼きゴテが押し当てられ、男の額には“獰猛危険!”という烙印。
倒れ込み、牢に投げ込まれる男。
『市民諸君!また一人の戦闘ブロガーを適正に処分した!シティの平和は守られ、ますます繁栄するであろう!』
※この台本はフィクションです。登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです。