はてなキーワード: 希望の会とは
エッセイ漫画を読んでるとメンタル病んでる女性や障害がある女性に「でも支えてくれたのは彼くんでした!」と突然生えてくる現象、私もずーっっとそこを省略するななんで病んでて彼氏が出来るんだと思ってたので、長年メンタル病んでて今も病んでる自分がどうやって理解ある彼くんを作り夫くんにしたかを1サンプルとして書きます。
振り返って思ったけどドラマチック皆無の本当にそこらへんにある流れではあります。
あとODはしたことあるけどリスカとかはしたことないです。リスカじゃ死なないから。私は生きてる実感なんて欲しくなかった。
生い立ちとか:
母親は高卒後結婚、信仰宗教にどハマり、エセ科学自然派ママ、手のつけられないヒステリー、過干渉、軽い虐待(針を刺してくるとか)、娘より優位に立ちたがる、世間体重視で娘の気持ちは無視、脅す事で言うことを聞かせる
言っちゃいけないことをぽろっと言うし何が悪いか分かってない、おそらくアスペ
私が限界になって死にたい…って泣いた時、「来世の為に頑張らなあかん、その辺のスーパーのおばちゃんに良い精神科ないか聞いてこい」と言い放った。
は????
私 本が大好きな子供だった。真面目で勉強が好きなため中高一貫進学校、大学を有名大と言われるとこにいく、が、母親と父親にけちょんけちょんにされてるので対人関係で適切な関係がわからずとにかく他人が怖い、完璧に振る舞わないと刺されると思ってる
ストレスにより頭皮から体至る所に蕁麻疹が出来る、つねに不安感で寝られない、月1,2で動けなくなる
10才の時に生きるのが辛くて辛くて遺書を書く(理由はその時は分からなかった)
深夜まで勉強してることが唯一の生きてる証
高校の時に電車に乗れなくなり心療内科に連れて行って欲しいと両親に伝えるも劣化の如く怒られる、保険証を渡してもらえない。この時治療受けていれば…と今なら思う。
同時に拒食症発症。37kgになる。部活やってたので痩せてるんだねーと心配されず。親戚からは心配されたけど痩せてる自覚なし。生理止まる。
他人が怖いといいつつも親元から離れてすごす大学生活は快適だった。
母親に本なんて読まず友達と遊べ!いつも人気者でいろ!でも私よりチヤホヤされたら許さない!(母親には友達がいない)とかいう無理ゲーを押し付けられてたため、大学では友達一人も作らず勉強だけしていようと思っていたけど、母親の支配下じゃない友人関係はとても快適でとても楽しい時間だった。今でも思い出す。
が、唯一の取り柄だった勉強で一番を取れない、週二の徹夜で実験レポと実習とバイト、なにより友達から聞く「家族像」がうちとは違いすぎて、あれ?と思うことが増える。
年末が近づくと動悸が強くなる。
抗うつ剤、抗不安剤飲みながら就活、希望の会社に入れるも動悸と不安感がすごく、新入社員ということで肉体的にも辛くなり不眠悪化、二年頑張るも「もしかして一生このままなのかな…」と絶望して退職
その後は休養と転職を7回くらい繰り返して、無職だったりぽんこつ会社員をしてたりしました。
給料と環境は一番初めの会社が一番良かった。拘束時間長かったけど楽しい仕事だった。
でも長時間働くと動悸と不安感で辛すぎるので、8時間勤務の事務職しかできなくなった。それもしんどかったけど。ゆるい会社はひどい男尊女卑で、客層も悪くて初めはびっくりした。B to Bの電話で開口一番怒鳴ってくるクライアントとかいた。
生理休暇を使った結果激減した手取りの額(11万)見ながら、私の価値ってこれだけしかないんだなぁー…と逆に乾いた笑いが出るくらいにはなった。この時30歳。(まだメンタル疾患が大変すぎて鬱と体調不良の波がありすぎて恋愛どころではない。)仕事で本当に酷いモラハラがあって、よし、死のう!と思い立ち通帳やら自分用の仕事道具を鋏で切って捨てて、スッキリして、いや死ななくていいだろと思い直し次の日から診断書あるんで休職しまーすと電話し、気になってた漫画読んだりゲームやったりした。従業員を人として扱ってたらこんな事にならないんだから会社は反省しろ。という気分だった。
相当やさぐれていた。脳がバカになっていたのでゲームや漫画は面白かったけど記憶はあまりないです。メガテン、ポケモン、ニーア、サクナヒメとかとても助けられたことは覚えてる。
その時なんとなくもう一つやりたいことがあった。大学の専攻で学んでいた事だった。家のノートPCでも出来たので、ちまちまやるようになった。
全然頭働かなかったけど、技術を理解するたびに面白いと思えるようになった。
一人で作品公開してるとちらほら反応が貰えた。ネットで人と交流するようになった。
一年半の休職期間が終わり、そのうち、まぁまた働いてもいいか…と思ってモラハラ会社は退職し転職でまた事務職に就いた。
新しい会社も微妙だったが、やる事やったら定時で帰っても怒られないのは助かった。
もうしぶとく一人でひっそり生きていこうと思い始めた。同じ趣味のネット友達と作業しながら会話するのが私の楽しみになった。
ネットで技術情報交流サーバーがあった、そこで一人もくもくと作業やってたのが未来の彼氏(夫)くんだった。
ネットではいろんな人と話してたのでいつから会話したのかわからないけど、この人と話してると居心地いいなぁと思うようになった。初めて人にときめいた。これは直感なので理由がないです。言葉や発想が優しかったとかそんな感じです。
やってたゲームが面白そうと言われたので一緒にやってみませんか?と誘ったら遊んでくれた。
何回も遊んで色々話すようになって、住んでるところが近かったので会いましょうとなった。
ですが私はすでに30才超えてる。彼くんは私より若かった。年齢は伝えたが会っておばさんかよ!と失望されるしかない、ここから恋愛は無理でしょー…と思ってたら向こうも気に入ってくれたみたいでまた遊ぶようになった。
彼くんは私より若かったけど話は合った。というか勉強して合わせてくれてたらしい。
で、デート繰り返して告白されて同棲を二年してプロポーズされて結婚した。(ここをもっと詳しく書けたらいいけど映画とか美味しいもの食べに行ったり旅行行ったり、付き合い期間が長いから婚約とかで普通すぎて)
多分夫くんの結婚の決め手は
・私が好物の料理作ってくれる
とからへんだと思う。
夫くんになるまで、とタイトルに書いたけど平凡な日常になるように
彼くんに心配をかけない、負担をかけない、っていう気持ちで暮らしてた気がします。そう心がけても体調不良で迷惑かけるからね
極力私はメンヘラを隠してました。病名は伝えてたけど、もうほぼ元気なんだー、みたいな。付き合ってる時は調子いい時に会うようにしてました。
まぁそれでも、迷惑はかけてる。
今聞いたら同棲したてのころ、体調やメンタルがやばくて泣いてたらしい。
ただ、
理解ある夫くんは自分が疲れたら適宜休んでる。辛いことがあったら辛かったよーって話してくる。
辛い時は頑張らなくていいんだ、というのが衝撃だった。言葉では知ってても実際の行動ってこんなんなんだ!
ので、私も休むようになった。
夫くんは私が休むと褒めてくれるし代わりに家事してくれたりマッサージしてくれる。
理解ある彼くんを見つけて夫くんにするまでの所、やっぱり詳しく書こうとするとその辺に転がってる話と同じになってしまう。
メンヘラ女にも調子がいい時があって、その時に接してきた優しい男性が趣味が合うから彼女に選んでるんではないか?
と言う身も蓋もない話になってしまった。
エッセイ漫画を読んでるとメンタル病んでる女性や障害がある女性に「でも支えてくれたのは彼くんでした!」と突然生えてくる現象、私もずーっっとそこを省略するななんで病んでて彼氏が出来るんだと思ってたので、長年メンタル病んでて今も病んでる自分がどうやって理解ある彼くんを作り夫くんにしたかを1サンプルとして書きます。
振り返って思ったけどドラマチック皆無の本当にそこらへんにある流れではあります。
あとODはしたことあるけどリスカとかはしたことないです。リスカじゃ死なないから。私は生きてる実感なんて欲しくなかった。
生い立ちとか:
母親は高卒後結婚、信仰宗教にどハマり、エセ科学自然派ママ、手のつけられないヒステリー、過干渉、軽い虐待(針を刺してくるとか)、娘より優位に立ちたがる、世間体重視で娘の気持ちは無視、脅す事で言うことを聞かせる
言っちゃいけないことをぽろっと言うし何が悪いか分かってない、おそらくアスペ
私が限界になって死にたい…って泣いた時、「来世の為に頑張らなあかん、その辺のスーパーのおばちゃんに良い精神科ないか聞いてこい」と言い放った。
は????
私 本が大好きな子供だった。真面目で勉強が好きなため中高一貫進学校、大学を有名大と言われるとこにいく、が、母親と父親にけちょんけちょんにされてるので対人関係で適切な関係がわからずとにかく他人が怖い、完璧に振る舞わないと刺されると思ってる
ストレスにより頭皮から体至る所に蕁麻疹が出来る、つねに不安感で寝られない、月1,2で動けなくなる
10才の時に生きるのが辛くて辛くて遺書を書く(理由はその時は分からなかった)
深夜まで勉強してることが唯一の生きてる証
高校の時に電車に乗れなくなり心療内科に連れて行って欲しいと両親に伝えるも劣化の如く怒られる、保険証を渡してもらえない。この時治療受けていれば…と今なら思う。
同時に拒食症発症。37kgになる。部活やってたので痩せてるんだねーと心配されず。親戚からは心配されたけど痩せてる自覚なし。生理止まる。
他人が怖いといいつつも親元から離れてすごす大学生活は快適だった。
母親に本なんて読まず友達と遊べ!いつも人気者でいろ!でも私よりチヤホヤされたら許さない!(母親には友達がいない)とかいう無理ゲーを押し付けられてたため、大学では友達一人も作らず勉強だけしていようと思っていたけど、母親の支配下じゃない友人関係はとても快適でとても楽しい時間だった。今でも思い出す。
が、唯一の取り柄だった勉強で一番を取れない、週二の徹夜で実験レポと実習とバイト、なにより友達から聞く「家族像」がうちとは違いすぎて、あれ?と思うことが増える。
年末が近づくと動悸が強くなる。
抗うつ剤、抗不安剤飲みながら就活、希望の会社に入れるも動悸と不安感がすごく、新入社員ということで肉体的にも辛くなり不眠悪化、二年頑張るも「もしかして一生このままなのかな…」と絶望して退職
その後は休養と転職を7回くらい繰り返して、無職だったりぽんこつ会社員をしてたりしました。
給料と環境は一番初めの会社が一番良かった。拘束時間長かったけど楽しい仕事だった。
でも長時間働くと動悸と不安感で辛すぎるので、8時間勤務の事務職しかできなくなった。それもしんどかったけど。ゆるい会社はひどい男尊女卑で、客層も悪くて初めはびっくりした。B to Bの電話で開口一番怒鳴ってくるクライアントとかいた。
生理休暇を使った結果激減した手取りの額(11万)見ながら、私の価値ってこれだけしかないんだなぁー…と逆に乾いた笑いが出るくらいにはなった。この時30歳。(まだメンタル疾患が大変すぎて鬱と体調不良の波がありすぎて恋愛どころではない。)仕事で本当に酷いモラハラがあって、よし、死のう!と思い立ち通帳やら自分用の仕事道具を鋏で切って捨てて、スッキリして、いや死ななくていいだろと思い直し次の日から診断書あるんで休職しまーすと電話し、気になってた漫画読んだりゲームやったりした。従業員を人として扱ってたらこんな事にならないんだから会社は反省しろ。という気分だった。
相当やさぐれていた。脳がバカになっていたのでゲームや漫画は面白かったけど記憶はあまりないです。メガテン、ポケモン、ニーア、サクナヒメとかとても助けられたことは覚えてる。
その時なんとなくもう一つやりたいことがあった。大学の専攻で学んでいた事だった。家のノートPCでも出来たので、ちまちまやるようになった。
全然頭働かなかったけど、技術を理解するたびに面白いと思えるようになった。
一人で作品公開してるとちらほら反応が貰えた。ネットで人と交流するようになった。
一年半の休職期間が終わり、そのうち、まぁまた働いてもいいか…と思ってモラハラ会社は退職し転職でまた事務職に就いた。
新しい会社も微妙だったが、やる事やったら定時で帰っても怒られないのは助かった。
もうしぶとく一人でひっそり生きていこうと思い始めた。同じ趣味のネット友達と作業しながら会話するのが私の楽しみになった。
ネットで技術情報交流サーバーがあった、そこで一人もくもくと作業やってたのが未来の彼氏(夫)くんだった。
ネットではいろんな人と話してたのでいつから会話したのかわからないけど、この人と話してると居心地いいなぁと思うようになった。初めて人にときめいた。これは直感なので理由がないです。言葉や発想が優しかったとかそんな感じです。
やってたゲームが面白そうと言われたので一緒にやってみませんか?と誘ったら遊んでくれた。
何回も遊んで色々話すようになって、住んでるところが近かったので会いましょうとなった。
ですが私はすでに30才超えてる。彼くんは私より若かった。年齢は伝えたが会っておばさんかよ!と失望されるしかない、ここから恋愛は無理でしょー…と思ってたら向こうも気に入ってくれたみたいでまた遊ぶようになった。
彼くんは私より若かったけど話は合った。というか勉強して合わせてくれてたらしい。
で、デート繰り返して告白されて同棲を二年してプロポーズされて結婚した。(ここをもっと詳しく書けたらいいけど映画とか美味しいもの食べに行ったり旅行行ったり、付き合い期間が長いから婚約とかで普通すぎて)
多分夫くんの結婚の決め手は
・私が好物の料理作ってくれる
とからへんだと思う。
夫くんになるまで、とタイトルに書いたけど平凡な日常になるように
彼くんに心配をかけない、負担をかけない、っていう気持ちで暮らしてた気がします。そう心がけても体調不良で迷惑かけるからね
極力私はメンヘラを隠してました。病名は伝えてたけど、もうほぼ元気なんだー、みたいな。付き合ってる時は調子いい時に会うようにしてました。
まぁそれでも、迷惑はかけてる。
今聞いたら同棲したてのころ、体調やメンタルがやばくて泣いてたらしい。
ただ、
理解ある夫くんは自分が疲れたら適宜休んでる。辛いことがあったら辛かったよーって話してくる。
辛い時は頑張らなくていいんだ、というのが衝撃だった。言葉では知ってても実際の行動ってこんなんなんだ!
ので、私も休むようになった。
夫くんは私が休むと褒めてくれるし代わりに家事してくれたりマッサージしてくれる。
理解ある彼くんを見つけて夫くんにするまでの所、やっぱり詳しく書こうとするとその辺に転がってる話と同じになってしまう。
メンヘラ女にも調子がいい時があって、その時に接してきた優しい男性が趣味が合うから彼女に選んでるんではないか?
と言う身も蓋もない話になってしまった。
エッセイ漫画を読んでるとメンタル病んでる女性や障害がある女性に「でも支えてくれたのは彼くんでした!」と突然生えてくる現象、私もずーっっとそこを省略するななんで病んでて彼氏が出来るんだと思ってたので、長年メンタル病んでて今も病んでる自分がどうやって理解ある彼くんを作り夫くんにしたかを1サンプルとして書きます。
振り返って思ったけどドラマチック皆無の本当にそこらへんにある流れではあります。
あとODはしたことあるけどリスカとかはしたことないです。リスカじゃ死なないから。
生い立ちとか:
母親は高卒後結婚、信仰宗教にどハマり、エセ科学自然派ママ、手のつけられないヒステリー、過干渉、軽い虐待(針を刺してくるとか)、娘より優位に立ちたがる、世間体重視で娘の気持ちは無視、脅す事で言うことを聞かせる
言っちゃいけないことをぽろっと言うし何が悪いか分かってない、おそらくアスペ
私が限界になって死にたい…って泣いた時、「来世の為に頑張らなあかん、その辺のスーパーのおばちゃんに良い精神科ないか聞いてこい」と言い放った。
は????
私 本が大好きな子供だった。真面目で勉強が好きなため中高一貫進学校、大学を有名大と言われるとこにいく、が、母親と父親にけちょんけちょんにされてるので対人関係で適切な関係がわからずとにかく他人が怖い、完璧に振る舞わないと刺されると思ってる
ストレスにより頭皮から体至る所に蕁麻疹が出来る、つねに不安感で寝られない、月1,2で動けなくなる
10才の時に生きるのが辛くて辛くて遺書を書く(理由はその時は分からなかった)
深夜まで勉強してることが唯一の生きてる証
高校の時に電車に乗れなくなり心療内科に連れて行って欲しいと両親に伝えるも劣化の如く怒られる、保険証を渡してもらえない。この時治療受けていれば…と今なら思う。
同時に拒食症発症。37kgになる。部活やってたので痩せてるんだねーと心配されず。親戚からは心配されたけど痩せてる自覚なし。生理止まる。
他人が怖いといいつつも親元から離れてすごす大学生活は快適だった。
母親に本なんて読まず友達と遊べ!いつも人気者でいろ!でも私よりチヤホヤされたら許さない!(母親には友達がいない)とかいう無理ゲーを押し付けられてたため、大学では友達一人も作らず勉強だけしていようと思っていたけど、母親の支配下じゃない友人関係はとても快適でとても楽しい時間だった。今でも思い出す。
が、唯一の取り柄だった勉強で一番を取れない、週二の徹夜で実験レポと実習とバイト、なにより友達から聞く「家族像」がうちとは違いすぎて、あれ?と思うことが増える。
年末が近づくと動悸が強くなる。
抗うつ剤、抗不安剤飲みながら就活、希望の会社に入れるも動悸と不安感がすごく、新入社員ということで肉体的にも辛くなり不眠悪化、二年頑張るも「もしかして一生このままなのかな…」と絶望して退職
その後は休養と転職を7回くらい繰り返して、無職だったりぽんこつ会社員をしてたりしました。
給料と環境は一番初めの会社が一番良かった。拘束時間長かったけど楽しい仕事だった。
でも長時間働くと動悸と不安感で辛すぎるので、8時間勤務の事務職しかできなくなった。それもしんどかったけど。ゆるい会社はひどい男尊女卑で、客層も悪くて初めはびっくりした。B to Bの電話で開口一番怒鳴ってくるクライアントとかいた。
激減した手取りの額(11万)見ながら、私の価値ってこれだけしかないんだなぁー…と逆に乾いた笑いが出るくらいにはなった。この時30歳。(まだメンタル疾患が大変すぎて鬱と体調不良の波がありすぎて恋愛どころではない。)仕事で本当に酷いモラハラがあって、よし、死のう!と思い立ち通帳やら自分用の仕事道具を鋏で切って捨てて、スッキリして、いや死ななくていいだろと思い直し次の日から診断書あるんで休職しまーすと電話し、気になってた漫画読んだりゲームやったりした。従業員を人として扱ってたらこんな事にならないんだから会社は反省しろ。という気分だった。
相当やさぐれていた。脳がバカになっていたのでゲームや漫画は面白かったけど記憶はあまりないです。メガテン、ニーア、サクナヒメとかとても助けられたことは覚えてる。
その時なんとなくもう一つやりたいことがあった。大学の専攻で学んでいた事だった。家のノートPCでも出来たので、ちまちまやるようになった。
全然頭働かなかったけど、技術を理解するたびに面白いと思えるようになった。
一人で作品公開してるとちらほら反応が貰えた。ネットで人と交流するようになった。
一年半の休職期間が終わり、そのうち、まぁまた働いてもいいか…と思ってモラハラ会社は退職し転職でまた事務職に就いた。
新しい会社も微妙だったが、やる事やったら定時で帰っても怒られないのは助かった。
もうしぶとく一人でひっそり生きていこうと思い始めた。同じ趣味のネット友達と作業しながら会話するのが私の楽しみになった。
ネットで技術情報交流サーバーがあった、そこで一人もくもくと作業やってたのが未来の彼氏(夫)くんだった。
ネットではいろんな人と話してたのでいつから会話したのかわからないけど、この人と話してると居心地いいなぁと思うようになった。初めて人にときめいた。これは直感なので理由がないです。言葉や発想が優しかったとかそんな感じです。
何回も遊んで色々話すようになって、住んでるところが近かったので会いましょうとなった。
ですが私はすでに30才超えてる。彼くんは私より若かった。年齢は伝えたが会っておばさんかよ!と失望されるしかない、ここから恋愛は無理でしょー…と思ってたら向こうも気に入ってくれたみたいでまた遊ぶようになった。
彼くんは私より若かったけど話は合った。合わせてくれてたのかもしれないけど。
で、デート繰り返して告白されて同棲を二年して結婚した。(ここをもっと詳しく書けたらいいけど映画とか美味しいもの食べに行ったり旅行行ったり、付き合い期間が長いから婚約とかで普通すぎて)
夫くんになるまで、とタイトルに書いたけど平凡な日常が積まれただけな気がします。
彼くんに心配をかけない、負担をかけない、っていう気持ちで暮らしてた気がします。そう心がけても体調不良で迷惑かけるからね…
極力私はメンヘラを隠してました。病名は伝えてたけど、もうほぼ元気なんだー、みたいな。付き合ってる時は調子いい時に会うようにしてました。
まぁそれでも、ダメな日はやってくる。体調が悪くてデートをキャンセルしたこともある。それも数回。迷惑はかけてる。
ただ、
理解ある夫くんは自分が疲れたら適宜休んでる。辛いことがあったら辛かったよーって話してくる。
辛い時は頑張らなくていいんだ、というのが衝撃だった。言葉では知ってても実際の行動ってこんなんなんだ!二人とも疲れてる時は二人でダウンしてればいいんだ!?(もし子供が生まれたら…二人ともちょっとずつ頑張りつつ壊れる前に外部サポート頼む?)
ので、私も夫くんが疲れてる時はして欲しいことを同じようにする。
周りの人がダウンしてる姿ってあまり目に入らなかったから、みんなちゃんと休んでるんだと分かって嬉しかった。
理解ある彼くんを見つけて夫くんにするまでの所、やっぱり詳しく書こうとするとその辺に転がってる話と同じになってしまう。
メンヘラ女にも調子がいい時があって、その時に接してきた優しい男性が趣味が合うから彼女に選んでるんではないか?
と言う身も蓋もない話になってしまった。
これ系の評価はどこで何してるのか分からないと全然参考にならない。
早出/残業しないと仕事終わらないとか、公文書偽造、誰かの金で何か買ってもらう、法令違反、入札云々を見るに、たぶんはてなーの想像するような脳筋自衛隊の仕事内容ではない。
元陸自として知ってる範囲では、大抵の隊員達は課業開始少し前に来て課業終了と共に帰っていく。幹部とか係陸曹とかでなければ脳筋隊員には「今日終わらせないと帰れない仕事」というものがほぼないし、あってもそれは「充足率が低いから」ではない。
給与に関しては下っ端でも営内で衣食住付なんだから最賃どころではないし、毎年昇給する。定期預金も利率めっちゃいい(と書こうとして調べたら今は1%切ってるのか。。。)
男気ジャンケンは普通は休憩時のジュース代orアイス代*人数分くらいなもので食事で男気ジャンケンというのは寡聞にして知らない。当然ジャンケンに負ければ払わなくていいのだから確率的には普通に払ってるのと変わりない。
書きぶりから営外者かつ長く務めらた後に辞めて苦労した方かなとお見受けするが、休日深夜でも頻繁に緊急呼び出しとか育休中でも電話鳴り止まないとか、接待ゴルフとか、自分の知ってる世界とは違うめちゃくちゃ特殊な部隊にいらっしゃったみたいだ。
当直の割合が高いってどういう意味だ。何に対して割合が高いんだ。
あげく勝手に早退?
まあ緊急呼出は絶対というのは自衛隊なんだからそらそうよだけど、この元増田の部隊では一体何が起きていたんだ。。。
自衛隊の職務内容、世間一般からずれすぎて役に立たない問題は同意だけれども、世間は自衛隊好きと嫌いの会社に二分されるわけではなく、大抵の会社にとってはどーでもいいこと。引き合いに出されてる引越しバイトは大変な仕事だし、きちんと勤め上げたならそれは立派な職歴だ。希望の会社に入れなかったのだとしたらそれは単に個人とその会社のミスマッチと考えた方がいい。
もうなんか後半は突っ込むのも疲れる内容の羅列だな。嘘とは言わないけど、この元増田がいたみたいな部隊が全部ではない、というか無茶苦茶特殊だと思う。入ってくるのはなめた脳筋だけ、とあるけど脳筋部隊はもっとまともな遵法精神を持ってまともに仕事してます。
一つだけ言えるのは海外旅行に興味があるなら、自衛隊はあまりおすすめしないとだけ。自衛隊員は自由に海外に行けず毎度海外渡航申請が必要になるからめんどくさい。海空はそれなりに海外と関わりあるだろうけど、いずれにしろ自由な旅行とは違うし。
小学生の時は足が速い奴に嫉妬してドッヂボールを磨きまくりクラスで一番の剛速球を投げれるようになった
肩の強さは今でも役立ってる
中学生の時はクラスの人気者に嫉妬してとにかく面白いを研究して学年一のひょうきんものになった
高校生の時はイケメンに嫉妬してとにかく勉強して学年で3番目くらいの難関大学に入った
学歴はなんだかんだ役立つ
大学生の時は頭いい奴に嫉妬して学年5位くらいのGPAをとった
このまま働いてれば金に困らず人生安牌だね、そう思ってた
2年たった今、会社に嫌気がさしている
嫉妬しなくなったんじゃなく、嫉妬できるようなまぶしい人がいないんだよ
感情がなくなってきた、性欲がなくなってきた、他人に興味がわかなくなってきた
過去の自分より劣化してきた、一日をはやく過ぎろとしか感じなくなってきた
嫉妬が生きがいです
不景気のどん底での就職だったから仕方がないと自分に言い聞かせて頑張ってきたけどもう限界
自分が企画して苦労して8割仕上げた仕事を後から来た先輩に、「これからの仕上げはもっと大変だから俺も手伝う」と言われて、最終的にはその先輩がメインの担当になって、私はアシスタント的なポジションになってしまった。この時から、作るより奪ったほうが簡単で楽して評価されること気付かされた。次は一人で仕上げた。すると、その時の上司は私が仕事を仕上げたと同時に早期リタイア制度を使って会社を辞めてしまったから誰も評価してくれず辛酸をなめる結果となった。
どうなってんの?この会社?と思って管理職に目を向けてみると、派閥争いや幹部の御機嫌とりばかり。会社には、ある程度システム化された固定収入があるため、労力は内部の権力争いといった違うところに振り分けられていた。
イメージ的には、迂回できない道路の先頭をトロトロと幹部の乗った古い高級車が走っていて、後ろが大渋滞。渋滞の最後尾のほうは急いでいても急げない状態た。そんなクソみたいな会社です。
幼稚舎から大学まで慶應。その人の両親も兄弟も慶應内部。インターナショナルのダブルスクールで英語ペラペラ。実家は渋谷区の某所に戸建て。バイトは週に1、2回だけでいつも部活で使う虫取り網みたいな棒背負ってきてた。バイト代は全額小遣い。
一方私も慶應だったけど上京して一人暮らしの外部生。学費は払ってもらってたし、サークルもしてたから楽しかったけど、親の提示した予算をはみ出した分の家賃と公共料金は自分持ち。もちろん服とかコスメも欲しいからセフレと同じ居酒屋で週に4回か5回バイトしてた。
就活になって四季報とかネット、上京していた中高の先輩、外部生のOB(内部のOBも丁寧に教えてくれるけど正直外部生の就活の参考にならない)に話聞いたりして女性でもガンガン仕事でき、結婚と出産育児からの復帰例がたくさんある環境の業界と企業を研究した。インターンもしたし練習用も兼ねてたくさん面接し、結果的に希望していた業界の第一希望の会社に入れた。
一方のセフレ君は「四季報ってどこで手に入るの?」状態。インターンもしてない。てか虫取り網でボールばっかり追いかけて筋トレで忙しいからそんな暇ないよね。就活大丈夫かな〜なんて心配してたら突然「内定決まったよ」って。財閥系総合商社に内定貰ったそう。ちなみに私は希望してなかったけど商社希望だった女子の友達(外部生)はさんざん研究して面接練習したものの、最終面接まで辿り着けなかった。
「やっぱり格差社会だよな〜、てか女ってだけでやっぱ不利なとこもあるしな〜」って思ってた時に、たまたま選挙が近かったので、私の部屋で彼とセックスした後に政治の話してた。と言ってもセフレ君はべつに考えちゃいない。「自民党かな。今まで自民が長くやってきたし、今の世の中に不満とかないしね」だそう。ないよね。不満なんて。
若者は自民党支持って聞くけど、その中にはセフレ君みたいな感じの男子がいっぱいいるんだろうな。まあ日本の支配層にいるおじさんたちも、きっと若い頃はセフレ君みたいな感じの人だったんだろうし。
※本エントリの内容は実話です。ですが,特定避けのために一部フィクションを入れています。
当時専門学生だった私の友人は,当時の彼氏にいろいろな場所で性行為をさせられていた。避妊を繰り返し要求するも断られ,嫌われるのも波風をたてるのも不安で言われるがまま行為に付き合った。そして当然のことながら彼女は妊娠してしまった,それは専門も卒業が決まり,希望の会社に内定が出てからのことだった。彼女は子供を産むと決め,せっかく決まった職場も出産のために諦めることとなった。当初,その彼氏は責任を取ると言っていたが,寸前まで悩み,妊娠させたことを自分の親にも言わなかった。それどころか,「妊娠していること自体を誰にも言うな」と彼女を脅したのだった。
結局,寸前になって彼女は親に相談し,子供は無事産まれた。しかし彼は責任を取らない方向に舵を切った。妊娠させたにもかかわらず,彼は自分の親にはそのことを明確に告げず,彼の親は彼女の子が別の男の子供だと言い張り,民間のDNA検査までさせた。彼の親の疑いに反して,彼女の子供は彼との子供だという結果が出た。当然のことだ。
それまでも彼と彼の親は彼女に対してまるで遅延行為のようにやり取りを煩雑にしたり,脅したり,難癖をつけたりした。ただ彼女の子供のことなどまるでどうでもよく,自分たちが起こしたことの責任から逃れたいかのようだった。今でも彼は,先の検査結果を受けて任意認知を行うという口約束を取り付けておきながら,手続きを滞らせてその責任から逃げ続けている。しかも,自分の子供であることを認めてから”養育費”の名目で彼が彼女に渡したのは””月あたり一万円””だった。養育費の相場を大きく下回る金額だ。任意で応答しないのならばもう強制認知しかない。私は彼女を全力で支援する。
残念なことに,彼女もその家族も様々な制度に疎い。それを知ってか知らずか,彼は彼女とまともに連絡をとらない。彼女は今でも彼の不協力や今後の裁判についてのストレスなどで体調を崩し,日々仕事もできないまま子育てに追われ,支援に繋がるための個人の時間も取れないままでいる事を放置して,彼は今でも好きにやっている。自分から選んで避妊をせずした生中出しセックスの末に産まれた子供のことはどうでもいいのか??この先子供が認知”すら”してもらえず,何十年と経済的困難を抱えて生きていくのを尻目に生きる間の人生は楽しいか??責任から逃げられると思うなよ。
恥を知れ。クソ野郎。
この時期は退職者が多くなる時期ですね。そして新卒者が早い人では研修とかあってるのかな?
まあ期が変るので新しいことが始まる時期ですね。
僕は新卒で入った会社を退職し今は有給消化中です。。。ギリギリ?三年働いたのかな。多分。
そこで色々と制度を調べたり人生の模索をやったりしている最中なのですが、そこでどうしても
この匿名ダイアリーを通してこれからの僕と同様人生を模索する方々や、新卒でなんとなく決まった
会社(希望の会社に入る)に入社する後輩の方々の皆様に共有したいことがあったので書いていきたい
と思います。(もしも友人やご家族が退職などで迷われていたら是非この話を共有してあげてください)
1、教育訓練校
意外と知らない人が多いのですが、離職後すぐに訓練校に通うと通っている間失業手当がでます。もしも選択した
コースが2年間なら2年間でます。(もちろん前職で雇用保険に入っていることが対象です。入っていなくとも無料
で受けることができます!)
これは本当だれでも受けれるんです。
このコースには定員は少ないですが保育士のコースもありました!!凄いですよね!
労働者や離職者が、自ら費用を負担して、厚生労働大臣が指定する教育訓練講座を受講し修了した場合、本人がそ
の教育訓練施設に支払った経費の一部を支給する雇用保険の給付制度です。
平成26年10月から、教育訓練給付金は、従来の枠組みを引き継いだ「一般教育訓練の教育訓練給付金」と、拡充
された「専門実践教育訓練の教育訓練給付金」の2本立てになります。
この制度は最低でも専門学校に入る年まで2年間雇用保険に加入していることが必須条件となります。(詳しい条件
については厚労省のHPへ⇒http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/shokugyounouryoku/career_formation/kyouiku/index.html)
この制度を活用することで授業料の40%(最高で年間32万円!最大3年間受けれるので96万円)が受け取れて卒業後1年間働けば
よく転職を考えるなら3年は働けと言われますが、『人生やり直すなら2年働け!』です。
こう書くと多くの方から叩かれそうですが。
新卒で入ったからと言ってその会社で一生働かなくてもいいと思うんです。だってもっと自分
やあなたを必要とする人はいますから。そんなあなたが無理に傷ついて人生を棒にふってしまう
よりもせっかくなら制度を利用して人生やり直してもいいんではないでしょうか?
僕は辞める時に『社会はあまくない!!!』『考えが甘い!!!』と散々言われました。
でも本当にそうなのかな?と疑問に思いました。
人それぞれ考える社会像はあると思いますが僕は『社会は時には甘い』と思います。だってやり直す
もしもこの会社間違えたな〜とか、もう精神的に無理!と思ったら上記の制度がある事を思い出して
ください。
そして1時間でもいいから最寄りのハローワークに行くもしくは電話してどんなコースが自分の地区に
あるのか調べてみ下さい。
より多くの方が病んでいく昨今です。もしも周りで仕事で病んでしまいそうな人がそばにいたらこんな
道があるよってことを教えてあげてください。
私「どうもー。〇〇(部署名)ボーイでーす。あ、いま、部長から承認印をいただきました。
こんなんなんぼあってもいいですからね」
相方「いやーいうても今年も終わりですね。色々ありましたけど、あっという間で。」
私「ほんまやねー」
相方「なんでもリモートリモートで、こないだ学生時代の後輩から就活の相談のってください、って連絡あったのよ」
私「そら大変やねぇ。どんな話したの?」
相方「なんか、希望の会社のことを言うててんけど、後輩が言うには、“上場してる大企業”って」
私「そら弊社よー。自分で言うのもあれやけど上場してるし一応は大企業やからね。他には?」
相方「後輩言うには、“みんなハツラツと働いてイキイキしてるところ”って言うねん」
私「そら弊社と違うわ。うちの会社、みんな死んだような目で働いて、にらみ合って仕事してるからね。部署間のいざこざがすごいのよ。みんなイキイキするのはタバコのときと金曜の定時後だけやねんから」
私「後輩の希望はうちじゃなさそうやな。他には?」
私「そら弊社よ。海外の圧力におされてまずいのよ。いくら産業のコメ言うても厳しいところがあるからねぇ」
私「そら弊社と違うわ。若手は少ない給料で働いて残業代を稼ぐしかないからねぇ」
相方「“若手のうちから仕事を任されて、責任感がある”って言うてたよ」
私「そら弊社よ。人が少ないから体力があって安い給料で働く若い子に仕事を沢山振るのよ。なんとかしようと頑張るからねぇ」
相方「“失敗しても上司のフォローが手厚いから、何でも挑戦できる”ってことも言うてたで」
私「そら弊社と違うわ。上司は報告を求めるのに別にフォローはせぇへんからねー、弊社は。ミスしたらどうやって挽回するねんって詰められるだけやからね」
相方「そうかー。そういえば“福利厚生がいいですよね”言うてたよ」
私「そら弊社よ。曲がりなりにも大企業やからね。社員寮も社宅もあるからね」
私「そら弊社と違うわ。社食がこれまたおいしくないのよ。工場の社食なんて、うどんと揚げ物定食しかないし、バレンタインはちっこいチョコしかくれないのよ」
私「それはやく言うてよ。どこよ」
本当に嘘をついたことがない。
幼少期は親に「こっそりゲームしてたでしょ!」「塾サボったでしょ!」とか言われても、目を泳がせまくりながら「えっと~あの~」とか言ったり、あるいは口先でごまかしたりはしたけど、その際に「していないこと」を「した」と言ったり、「した」ことを「していない」と言ったり、とにかく事実と異なる内容を口に出したことは一切ない。
就活の面接でも本当に第一志望の会社以外には「第一志望です」とは口が裂けても言わなかったし(そのかわり「第一志望群です」とは言った)、他の質問にも絶対に正直に話した。
女の子にささやく甘い言葉というのも本当に好きな一人にしか言ってない。
親や妻の手料理もおいしくない時に「美味しい」とは絶対に言わない。
2ちゃんねるやこういった場で釣りの書き込みをしたこともない。本当に誓って言うが、嘘を言ったことが無い。
教育の賜物なのかなんなのか、嘘を言うことに対して心からの拒否感があり、良い嘘を思いついたとしてもついぞ口に出すことができないのだ。
だから、自己診断のアンケートみたいなので「嘘をついたことが無い」という質問には必ず「はい」を選択している。
ところが最近、アンケートに頻出のこの質問は「回答の信頼度を測定するために聞かれている」ということを知った。
つまり、「人生において嘘をついたことがない人などいないから、この質問にはいと答えた人はアンケートに対して誠実に向き合っていない」というのだ。
ということは今まで自分が答えてきたアンケートはすべて無効にされていたということなのか。
そんな馬鹿な。
なんで「嘘をついたことが無い人などいない」と言える?
それこそ嘘だ。嘘を使わなくとも人生なんていくらでもうまくやれる。
嘘を使わなくたって、まともな大人に育つし、希望の会社に就職できるし、好きな人と結婚だってできて、何年でも仲良くやれる。
むしろ「こいつは嘘をつけないやつだから、今の誉め言葉はおべんちゃらではないんだろう」みたいに受け取ってもらえたり、ポジティブな効果しかない。
みんな何をそんなに偽ることがあるんだろう?
去年、あまり仲の良くない親戚からとんでもないクレームが来た。
いわく、「うちの子の就活がうまく行かないのはお前の家のせいだ」と。
うちは父が労働基準監督署に勤めている。
身内にそういう職の人間がいると企業がビビってしまうのだという。
いや、企業が身元調査したらダメだし。(厳密にはダメではないけど限りなく黒いグレー)
仮にOKだとしても、そこまでして労基署との関わりを避けるような会社はますますもってダメだろ。
念のため具体的な社名を聞いたら、おそらくコンプライアンスガチガチであろう有名企業ばかり。
…そんなことがあったのに、正月の親戚顔合わせでは嬉しそうに我が子の就活成功を報告していた。
あんな恫喝まがいの電話かけてきたくせに解決したらしれっとスルーか!
という心の声を直接ぶちまけてしまうとクソ面倒なことになるので増田にぶちまけた。
次何かあるとしたら「うちの子が会社と揉めている!労基署の出番だろ!来い!」かなあ。
はぁ~
大型連休で仕事から離れることができてホッとしている一方、時間がありすぎて仕事や人生について考え過ぎ、毎晩真っ暗の中、布団の上で自然と涙してしまうようになってしまった。
端的に言えば、仕事に対するモチベーションが地を這っていて、かといって自分が何をやりたいのかもはっきりとせず、ただ将来に対する希望が見いだせない状況に陥っている。
正直どうしたら良いかわからないので、何かアドバイスが有ればコメントいただければと思う。
現在新卒2年目で、今の会社は学生時代の専攻とは異なるものの、第一希望の会社であった。就職活動はトントン拍子で進み、苦労することはなかったが、違和感は入社してからすぐに感じた。
説明会では自らをベンチャーと称していたものの、ほとんどが大手企業から転職してきた中途社員で占められていることもあり、入社前に思い描いていたITベンチャーのような自由闊達な雰囲気は全く感じなかった。後者のような環境を志望していた自分にとって、肩透かしを食らった。
しかしそれ以上にミスマッチを感じたのは業務内容であり、メーカーと言いつつも仕様以外はすべて外注に任せきりで、自分たちはプロジェクトの管理と、出来上がってきた製品の評価をするだけであった。研究寄りの開発がしたかった自分にとってこれは大きな誤算だった。就活中の面接でも上記は伝えていて、そういうことができるという話であったのでこの点は失敗というよりほかない。また曲がりなりにもベンチャーを称しているのにもかかわらず、肝心の開発は丸投げし、あまつさえ不具合が出ようものなら全力で外注先に詰め寄り、自らを顧みることをしない体質には疑問を感じずにはいられなかった。
そして追い打ちをかけるように、最近ではメンターの社員から、専攻が違うために理解が追いつかない点をなじられることが多くなり、精神的につらい日々が続いている。
できれば学生時代の研究の延長線上に、専門性を突き詰めていきたいと考えているが、転職しようにも学生時代の研究内容は社会に何の役にも立たない基礎研究で、直接生かせるような業務はなく、かといって博士課程への進学もそこまで研究に熱中できるかは甚だ疑問である。
仕事を辞めたいと思って半年経つが、将来が見えないまま時間だけが過ぎ、結局鬱々としたものを抱えながら毎日表面だけはなんとか取り繕って仕事に向かっている。でもこの連休中、仕事のことを考えただけで心拍数が上がるのを感じ、寝る前には自然と涙が流れるようになって、正直限界を感じている。
同期は勤務地が異なるので会えず、友達も関西にはいない。一人暮らしのため相談できる相手もおらず、生まれて初めて孤独を感じる。家に閉じこもるのは良くないと思いつつ外出するも気分が晴れることは無く、結局何もしないまま帰宅してしまう。
将来について、考えれば考える程自分が何をしたいのかわからなくなり、正直疲れてしまった。
どうしたら良いのかわからない。
親は団塊世代で当時は給料も右肩上がりの時代で、それなりの中流家庭だったと思う。
兄が通っていた地元の塾に自分も行かせてもらい、兄は一足先に中学受験をして某私立中高一貫校へ進学した。
自分は最初の塾(兄と同じ)で、『御三家も狙える』と言われ、有名な大手進学塾へ通うようになった。
毎週土日のどちらかには親に連れて行ってもらって都内へテストを受けに行き、自分は純粋に楽しんでいたが、それに付きあう親は大変だったろうと思う。
そしてその頃から、どうやら兄は道を徐々に踏み外していったらしい。
具体的に中学生の兄の身に何があってそうなったのかは今でも知らない。
兄は万引きなど軽犯罪を繰り返すようになり、親が警察に行くこともたびたびあった(当時、自分にはそれらの事実は知らされなかった)。
自分と兄はひとつ屋根の下に暮らしていたが、部屋は別々で元々仲の良い兄妹でもなかったし、
自分は中学高校(御三家の一つに受かった)で良い友人に恵まれ学生生活を楽しんでいて、兄のことはほぼ眼中になかった。
ただ、それでも兄や両親を見ていて、『兄が道を踏み外しつつある』こと、『親が兄の対応で大変らしいこと』は雰囲気でわかった。
だから、自分まで親に負担をかけてはいけないな、と子供ながらに思っていた。
別に親のためにいい子でいようと思ったわけではない。
道を踏み外していく兄を尊敬できなかった、いや、心から軽蔑していた。ああはなりたくない、と思っていただけだ。
学校の友人の兄弟はみな出来が良くて、どこに出しても恥ずかしくない「まっとうな」人達で、比べると自分の兄が恥ずかしかった。
学歴なんかの問題じゃない、今でもそれで兄を差別する気はない。
犯罪を犯すこと(万引き以外にも路駐やら何かでしょっちゅう警察から電話があった。警察をバカにし、遵法精神などまるでなかった)、
それで親に多大なる迷惑と心労をかけていたこと、それを反省もせずにまた繰り返すこと。
兄の心理など知る由もないし、なにか彼の思春期に問題があったのかもしれない。
だがだからといって兄の行為が正当化される訳もない。繰り返すならなおさら弁護の余地もない。
私は心の底から兄を嫌い、軽蔑し、しかし表にはそれを出さずに、ただ兄とは接触しないようにしていた。
(なぜなら、兄は短気で暴力に訴える人間だったからだ。一度自分がそういった態度を見せた時、夜中に枕元に金属バッドを持ってすごんできたのは忘れられない。
そしてそういった基質もまた、私の兄への侮蔑をより強める結果になった)
そして兄は高校を(なんとか)卒業し、大学へは行かずにフリーターになった。
親はどこでもいいから大学へ行かせたかったようだが、兄本人が『大学でやりたいことがない』と進学しなかった(ここは兄が正しいと思う)。
ありがちな話だが、兄は音楽の道を進もうとしたらしい。バンドを組んで、いわゆるバンドマンになった。
音楽活動の実態は何をしてるのかさっぱりわからなかったが、さほど身を入れてやっている様子もなく、芽も出なかった。だが諦めきれないのか、フリーターをしながらだらだらと続けていた。
自分が高校を卒業し大学へ進学した後も、兄はその生活をしばらく続けていた。
そのうち、兄は一人の女性(Aさん)と知り合った。そして二人は結婚を考える仲になった。
Aさんはとても良い女性だった。自分や両親とも仲良くしてくれて、兄は大嫌いだがこんな姉ができるなんてほんとに嬉しい、ようやく兄が自分にとって良い行いをしてくれたと思った。
しかしここで、両親は最大の過ちを犯した。
何を思ったのか、兄にマンションを買い与えたのだ。親の名義でローンを組んで、兄と彼女の新居にしろと兄に与えた。
フリーターの兄に月々のマンションに係る支払が払えるはずもない。それはすべて親が払っていたのだ。しかも結婚も確定しないうちに買って与えた。
呆気に取られた。納得できないが親の気持ちになって考えてみれば、『Aさんに逃げられないように、住居が確定していれば結婚生活も楽になるだろう』ということだったのかもしれない。
『妹は大学へ行かせてやったのだから、兄にも何か与えねば』と思ったのかもしれない(しかし自分は国立大で、学費をトータルしてもマンション費用の20%にもならないのだが)。
兄は別に特段の感謝をする様子でもなく、当たり前のようにそれを受け取った。
そしてその後、結婚が決まっても一向に定職につこうとせずに自堕落な生活を続ける兄は、Aさんに愛想をつかされて結婚前に出ていかれた。
(兄はAさんに入れ込んでいたらしく相当なショックを受けていたが、自分から見れば当たり前だばーかとしか思えなかった)
この頃からだろうか、自分が『親は兄を贔屓している』と思うようになったのは。正確には、『親は兄を甘やかしている(自分には厳しいのに)』と感じ始めたのは。
自分は親に言われた。『私立大に行かせる金はないし仕送りをする余裕もないから、家から通える国立大にしろ』と。
親の言うことに従おうとしたわけではなかったが、自分の行きたい大学はその条件を満たしていたので、結果として親ののぞみを叶えた形になった。
しかし心のどこかに、『親ののぞみを叶えたい』という気持ちがなかったとは言えない。兄で苦労させられている親を見てきて、自分だけは親が誇れる子供でいようとしたのかもしれない。
通おうと思えば通えたが、一人暮らしに憧れていたこともあり、親の援助は一切受けずに一人暮らしを始めた。貯金とバイトでなんとかまかない、4年間それを続けた。
親が兄にマンションを買い与えるまではそれも納得していた。だが、親がそれをした時、自分の中で不公平だという気持ちが生じた。
根底に『「親に迷惑ばかりかける穀潰しでろくでなしの」兄に、なぜそんなに金をかけて甘やかすのか?』という考えも当然あった。
自分にとって兄は「いないほうがマシ」で、存在する事で何もいいことがない、迷惑なだけの存在だった。
グレてようがフリーターだろうが、優しい兄なら愛せたろう。だが、兄としての優しさを見せてくれたことなど数える程もない(その数回も小学生以下の時だけ)。
家庭を持って子を為し、親に孫の顔を見せて安心させてくれたなら、「普通」で「まっとう」な人間になってくれたなら、それで兄を見直すこともできただろう。
しかし兄は正真正銘のクズなので、逆の道にしか行かなかったのだ(それについては後述)。自分が兄を見直す機会はおそらく死ぬまで来ないだろう。
(余談だが、なかにし礼氏の小説の再現ドラマ(兄との関係を描いたもの)を見た時、心からなかにし礼氏に共感した。自堕落でお調子者で弟にとって迷惑な兄。
なかにし礼氏が兄の葬式後につぶやく、『兄さん、死んでくれてありがとう』がわかりすぎて辛かった。
何年先かわからないが、おそらく自分も兄が死んだ時、『死んでくれてありがとう』と心から思うだろう。自分が先に死ぬかもしれないが)
Aさんに逃げられた後、しばらく兄は自堕落な生活をしていた(親が金を払っているマンションで一人ぐらし)。
自分は何度も親に『マンションから出て行かせろ、でなければ兄は自立できない』と言ったが、親は『そんなこと実際にできるわけがない』『目の届かないところに行かせるほうが不安だ』と言って聞かなかった。
この頃から、自分の中で『兄が駄目になったのは親の(甘やかしの)せいではないのか』『親は己の見栄しか考えてないのではないか』という疑念が湧いてきた。
やがて自分は大学を卒業して、氷河期の中なんとか上場企業に就職を決めた。
希望の会社からは内定が出ず、文系でプログラムなど全くわからないのにSEになることになったが、就職できただけでよしとするしかなかった。
親の反応は『とりあえず上場企業だから、外への体裁が整った』というものだった。親にとって自分は見栄のための存在なのだなということが、徐々にわかってきていた。
同じ頃、兄もようやく某リフォーム会社で営業として働きはじめた。
兄の営業成績は良かった(もともと外面だけは良い)ので、いっときは小金持ちになれたらしい。外車を買ったが、マンションの金を親に返す気はさらさら無いようだった。
その外車がポンコツなのかあるいは外車とはそういうものなのか、しょっちゅう壊れて修理代がかかった。あまり乗らないせいもあっただろう。
乗らないのなら売ればいいのに『売っても二束三文にしかならない』と兄は言い張り、親はなぜか修理代を肩代わりして払ってやっていた。
(散々修理代を払って直して、最後にはやはり壊れ、ろくに乗りもしないままに結局二束三文で売ったようだった)
マンションの支払いは親が続けていた。このころようやく、月々の管理費や積立金などの維持費だけは兄が支払うようになったようだった。
そのうち、バツイチ子持ちの女性Bさんと知り合い、今度は結婚した。Bさんについては自分はほとんど知らない。
その頃自分は向いていない仕事かつ長時間労働で心身を病みかけており、朝焼けの街を徹夜明けで泣きながら一人家路についたりしていたので、兄のことなど構う暇もなかった。
結婚式には一応出た。ストレスで過食気味になりむくんだ顔の自分が愛想笑いを浮かべて写っている写真は見返したくもない。
兄の結婚になんの感慨もなく、『これで普通の人間になってくれれば』と願っただけだった。兄に望むただ一つのことは『普通の家庭を築いてくれ』で、それ以上は望まなかった。
営業成績が良いのに浮かれ、独立すると言って仕事を辞めた兄だったが、ろくなノウハウもない個人のリフォーム営業がそうそう上手く行くわけもない。
あっという間に生活は行き詰まり、さっさとBさんに逃げられた(どうやら浮気されていたようだが、それを追い詰める気力もなかったようだった)。
そしてまた、マンションで自堕落な生活に戻った(もちろんマンション維持費は親払いに戻った)。
自分はずっと『兄を甘やかしすぎだ、マンションから追い出せ、マンションを売ってしまえ、でなければ兄は自立しない』と親に言い続けていたが、ずっとでもでもだってで聞き流された。
『(万引きなどの)前科があるから、追い出したら何をするかわからない。もっと悪いことになるかもしれない』『どれだけ言ってもあいつはこちらの言うことを聞かない』。これが親の言い分だった。
しみじみ、親も兄も情けなく、どうしようもないと思った。『お前は冷たい』と言われた。
『そもそも最初にあれが道を踏み外した時、お前の中学受験にかかりきりで、親としてろくに関わってやれなかったのが悪かったから』と。
そう言われて自分にどうしろと? 責任を感じろというのだろうか? もうとっくに成人していい年になった兄を憐れめと? 親でもない自分がなぜ親と同じ感情を共有せねばならないのか?
『ずっとそう言い続けて兄を甘やかして、それで状況が好転したか? 好転する見込みがあるというのか? 兄の自立を妨げているだけではないのか?』
そう言っても、親は同じ言い訳を繰り返して兄への甘やかし(マンション与え)をやめようとしなかった。
自分の中で、兄への嫌悪と親への嫌悪の比率は徐々に逆転していった。兄がどれほどのクズだろうが、どんな人生を送ろうがもはやどうでもいい。
自分と同じ親のもとで、恵まれた環境で育ったにも関わらず、兄は自ら堕ちていったのだ。兄の人生は兄のもの、好きに生きればいいしどこでのたれ死のうが勝手にすればいい。
兄よりも、そんな兄を甘やかし続ける親のほうに不信と不満が募っていった。なるほど、親がこうして甘やかすから兄は更生できないのだと納得した。
そして『兄が自分よりも甘やかされてる事実』にどうしても納得できなかった。自分を特別扱いしろというのではない、兄を特別扱いするのが耐えられなかったのだ。同じ子供として平等に扱ってほしかった。
自分の大学時代、兄は親が与えたマンションでゆうゆうと一人暮らしして、自分は仕送りを一切受けられずに生活費のすべてを自力で稼いだ。
就職してから、兄は親が与えたマンションで好き勝手に暮らして、自分は親に金を入れていた。家に金を入れるのは当然だと思う気持ちもあったが、理不尽だと思う気持ちはどうしても拭えなかった。
その気持ちに耐えられず、『兄と比べてあまりにも不平等だ、兄にも金を支払わせろ、兄を甘やかすのもいい加減にしろ』と泣いて言ったら、『じゃあこれからお前も金は入れなくていい』と言われた(そうじゃないだろ)。
家庭のことや仕事のことなど色々あり、結局自分は新卒で入った会社を3年ほどで辞めてしまった。親に『30までにやりたい道(フリーランス)で食っていく目処をたてる』と誓い、宣言どおりに28で目処を立てた。
兄は親が見つけてきた非正規パートの仕事をなんとかこなし、その頃にはそこそこ年季も入って板についてきていた。新しい彼女(Cさん)もできたようで、マンションで一緒に暮らし始めた。
だが、そんな矢先。兄が、クスリで捕まった。
最初に一報を聞いた時、親はともかく、自分は『まあ、あるだろうな。やっぱりな』としか思わなかった(基本的に兄の人格を信頼していないので、何を起こしたと聞いても『やりかねない』としか思わない)。
もちろん家族の誰も気づいていなかった。家族の目の届かないマンションでずっとやってきたものらしい。
自分は『言わんこっちゃない、だからマンションから追い出せとあれほど言ったのに、甘やかし続けた結果がこれだ』と親に言った。親は『そんなこと今更言っても仕方ない』としか言わなかった。
そこからの詳細は省くが、兄は執行猶予がついて戻ってきて、兄を見捨てなかったCさん(菩薩かよ)と今でも親の与えたマンションで暮らしている。Cさんが見張っているので再犯はないと思いたい。
Cさんには敬意と感謝しかない。彼女がいなかったら兄はもっとだめになっただろう。
しばらくCさんに食わせてもらっていた兄だが、今はまた派遣で職について、そこでの仕事も軌道にのってきたようだ。今度こそは歳も歳なので落ち着いたと思いたい。
(ちなみに、また維持費だけは払うようになったが、購入費は一切払っておらず、名義は父のまま。毎年実家よりも高い固定資産税を払っているのも父)
兄はもうどうでもよく、二度と犯罪を犯すなCさんにだけは迷惑をかけるなCさんだけは大切にしろとしか思っていない。
残念なことに、自分の中で兄の見方が変わることはこの先死ぬまでない。今の兄と表面上でも付き合えるのはCさんあってこそだ。Cさんを姉と慕っても、兄を兄と慕うことは生涯ない。
きょうだいは他人の始まりとはよく言ったもので、兄への気持ちはもうこれでいいと落ち着いている。
だが、「未だに」なのか、「今だからこそ今まで積もり積もったものが」なのか、自分の中で親へのわだかまりだけはどうしても消えない。考えると落ち着かず、心がざわつく。
もう親も老い、自分もいい年だ。親も人間であり、それも見栄っぱりで子供を平等に扱わず贔屓するようなできの悪い人間だったんだと納得するしかないとわかっているのに、
自分はどうしても、親に『自分たちが間違っていた』と言ってほしい。子育ての過ちを認め、自分がどれほど辛い思いをしたかを理解し、悪かったと謝ってほしい。
だが、過去に喧嘩した時の経験から、親は絶対に自分の過ちを認めない、ましてや子供から言われる言葉を決して正面から受け止めないとわかっている。
『それが親に対して言う言葉か』『何様のつもりだ』『はいはい、全部こっちのせいだって言いたいんでしょう』…そう言って絶対に絶対に自分の過ちを認めない。老いた今、なおさら頑なになり認めないだろう。
自分は自分なりに、親の期待には応えてきたと思う。教育で親に金をかけてもらった事は感謝しているが、それだけの成果をちゃんと出し、結果をだした。
なのになぜ、自分は兄と同じに扱われなかったのだろう。自分だけが要求され、応え続けねばならず、それなのにそれを評価もされなかったのだろう。
これを言うと嫌な人間だと思われるだろうが、客観的に見て自分のほうが親に貢献しているしまともな人間として育った(少なくとも前科ものでなく、親に迷惑をかけていない)という自負があるだけに、やるせない思いがある。
本来なら自分のほうが親に贔屓されて然るべきではないのかという思いがあることは否定しないが、贔屓してほしいとは言わないしするべきでもない。
ただ自分に求めるものは兄にも求め、兄に与えたものは自分にも与えてほしい、子供の間に差をつけないで平等に接してほしかっただけだ。
男女の差だというのならばなおさら、兄には『長男』としての役割と責務を求めるべきだったろうに、なぜ私が長男の役割も果たさねばならないのだろう。
兄が結婚した時、自分は『兄が孫を作ってくれたらそれだけが兄の親孝行だ、自分にも兄がいた意味がある。せめてそれくらい孝行しやがれ』とわずかに期待したが、兄は子供を作る間もなく離婚した(そもそも作る気もない)。
母は自分にだけ言う、兄には絶対に言わないのに、『老後の楽しみがほしい、孫が見たい』と。
子供はジジババの楽しみのために産むもんじゃねえし産んでおしまいじゃない、何ならあなたがたが育ててくれんの? 育てる金あるの? と応えたら沈黙した。
そんなに孫が見たいなら兄に言ってくれ、男なんだから自分よりよほど確率が高いだろうと言ったら、『あの子に育てられるわけがない』。『何を言っても無駄』と言って、兄には20年以上何も要求しない。
『精子バンクとかあるでしょう』『50歳で産んだって例もあるし』とまで言われた日には本当に失望した。
50歳で産んだ女性はほぼ卵子提供で母方の遺伝子は入らないし、養子じゃ嫌だってんならそれ(母方の遺伝子が入らない)も嫌なんだろうに。
そもそも出産までにどれだけ苦労したか(流産だって何度も経験してるはず)、不妊治療にどれだけお金がかかったかわかってて言っているのか、そして不妊治療と高齢出産がどれだけ母体に負担がかかると思っているのか。
娘の体など、自分の楽しみのためにはどうなってもいいのだろう。
孫の立場にしたって、父親がいない家庭に生まれることになるのだが、そういったことを考えてもいないのだろう。ただ、自分が欲しいから、だ。
私の結婚も、自分の見栄だけのためにしてほしかったらしい。大切なのは見栄と体裁で、娘の幸福などどうでもよかった。
『結婚しない女はなにか問題があると思われる』なんて言われても、それはあなただけの醜い価値観だろう、未婚率が三割の時代にそんな事思うほうが少数派だ。
図らずも未婚女性への「己の偏見」を曝け出したことにも気づかずに、『あなたのために言っている、それが世間だ』などと諭してくる醜さ。兄にも同じことを言えばいいのに。
『結婚しろ』と言われるのが嫌で、それを避けるために誰でもいい、一回結婚さえすれば文句を言われまいと思って結婚したけれど、上手く行くわけもなく2年も経たずに破綻。
(付き合っていた人とは、兄の事件で別れざるを得なかった。結婚した人には家族ぐるみで兄のことを隠した。そんな結婚うまくいくわけもなかったし相手には申し訳ないことをしたと思う)
その時の言葉も『せめて2年は持たせろ、外聞が悪い』『相手の親に私(母)の顔が立たない』『どうせお前のわがままだろう』…出てくるのは己の見栄と体裁のための言葉だけで、一度も娘の心情を慮る言葉は出てこなかった。
兄が同じように2年程度で破綻した時、兄に同じ言葉を突きつけたなら、そういう人なのだと納得もできたかもしれない。だが、兄の離婚に関して親は兄に何も言わなかったのだ。
私はどちらだろうか。
第1希望の大学にもいけず、第1希望の会社にも入れず、浪人し留年し、トントン拍子とは程遠い道を歩いてきた人間が、社会人になったからといってテキパキ働けるわけがなかったのだ。
「どうして聞かないの?」
「どうして聞けないの?」
「どうしてすぐ報告しないの?」
言われるたびにまたやってしまったと思う。
報告しないといけないこと、連絡しないといけないこと、相談しないといけないことがわからない。
指示されなきゃ動けないこともあれば、勝手に行動して指導されることもしばしば。
やる気はある。真面目に頑張っているつもりなのだが、どうにもうまくいかない。
周りに迷惑をかけているんだろうなと思う。
けど辞めたくない。一人前に働けるようになりたい。
でもその道は遠い気がする。
有能な働き者か有能な怠け者になりたかった…。
そんな私は無能な怠け者か働き者か…。
https://togetter.com/li/1204475
毎年恒例だけど、また騒いでる。
こんなの昔からあるよ。
そもそも、新卒向けの採用サイトからの応募って、本気度の低い就活生があちこち投げ込んで来るから企業側も迷惑なんだよ。
入社してきた新人に聞いたら、周囲が「とにかく数を打て」と教えるわ、システムが「去年内定した先輩は、○○○通出しています」と煽ってくる。
結果、真面目な生徒ほど、バカみたいな数の申し込みをするらしい。
(この応募数によって、企業がサービス会社に支払う金額も変わってくるような話も聞いたことがある。つまり、我々はサービス会社に踊らされているのだ)
大昔のような、ハガキで会社案内請求して、書類選考はすべて直筆で学校一括か個別郵送った時と違って、ボタン一個で済むからやみくもに応募できるのも問題。
これもさ、学歴フィルターとかかけられる原因の一つだと思うんだよ。
…とは言いつつも、そういう罪作りなサービス使わないと、ウチみたいな最弱中小企業なんてマトモに新卒採用できないんだけどさ。
ウチの会社は中小なんで、学歴フィルターなんてかけてないようだけど、それでも毎年大変。
会社説明会のために、スーツ着て昼食も早めに済ませて、13時開始でも30分以上も早く来る非常識な就活生のために、出入り口で直立不動のまま、人事はずーっと待ってるのよ。
なのにさ、連絡もなくドタキャンしやがる。それも一人や二人じゃない。
いつだったかは、参加予定者全員ドタキャンだよ。あまりのことに笑うしかない。
さらに、面接も連絡なくドタキャンする学生もいるもんだから、そういう学生の出身校を調べるわけよ。
そしたら、ほとんどが名前も聞いたこともない大学だったりするんだよね。
中小のウチでもそうなんだから、大手企業なんてそういう学生が死ぬほど沸いているはず。
社会に出てだいぶ経つけど、学歴じゃないとは思いつつも、やっぱりたまーにおかしいのがいるわけよ。
実際、部下にもいた。
やってはいけないと言ってることはやるのに、やってねと言ってもやってない。息を吐くように平気で嘘もつく。
第二新卒だったから、新人教育しなくていいはずだよね?と思っていたら、新人教育の枠に収まらないやつだった。
面接とかではハキハキ話せるんだが、本当に何もかもダメ。メモも満足に取れない。
何度か指示した後にメモを確認したが、こちらが一言も言ってない文言が並んでいる。
理由を聞いたら「言葉をど忘れしたので、似ている言葉で書いた」とほざきやがった。
だから、毎回指示内容と違うことしやがったのか!って思ったよ。
要領がわかっていないのか、指示をしだすと、要点をメモするんじゃなくて全部メモしようとする。
観察すると本当にダメダメなので、メモは大切なキーワードを書き留めること、相手の話に追いつけなくなったら、一度話を確認させてくださいって話を切って、そこまでの内容を確認するんだよ?と教えたら「なるほど」って返事しやがった。
なるほどじゃねえ、あほんだら!
こんな懇切丁寧にメモの取り方教えたのオマエがはじめてだ!
色々手を変え品を変え、色々やってみたがダメだった。
なんかの病気でいてくれた方が、ずっと楽だと思えるほど。
以前いた会社で、ろくな教育も授けられないまま「力不足」の烙印押されて、前職では社員になれなかった若者が第二新卒で入ってきたことがあった。
みんなで寄ってたかって教育したら、あっというまに仕事ができるようになった。
入社したての頃はオドオドして挨拶するのがやっと。電話応対もまともにできないし、気遣いもできなかった。もう、生きているだけで精一杯という感じ。
でも、3ヶ月も経たないうちに電話対応も完璧、誰よりも気遣いできるようになり、「能力不足」で社員になれなかったのが嘘のような若者になった。
だから、当人のせいだけにして、前の職場はなんにもしないまま放り出したんだなーって怒りが湧いたことがあったのよ。
この仕事のできない部下も、前職で正社員になれなかったもんだから、最初は同じパターンだと思っていたんだけど、コイツは違った。
本当に仕事できないうえに、「自分はできてる」って思えるプライドがどこから湧いて来るのか?って思えるほど酷かった。
なんか、話が大幅に脱線した。
本当にね。大変だったんだよ。
ウチの会社は、能力不足では社員見送りとか解雇とかないので、本当に悪い意味で良い会社なんだけどさ、それゆえに、入り口でこういうヤツを阻止しようっていう考えが働くようになる。
多分、他の会社もそうだと思う。
変なの入れると人事は責められるし、配属先探すのも一苦労、解雇だって簡単じゃないからね。
もちろん、名の知れた国立大学卒でも困ったヤツはいるので、一概に学歴だけが問題になるわけじゃない。
でも、そういう困ったヤツは、底辺に近づけば近づくほど遭遇率が高くなる。
遭遇率を低くするためには、ある程度はフィルターかけるしかないんだよね。
でもさ。
そういう会社は希望の会社なんだろうし、大手だったりするのかもしれないけど、自分を足切りしようとする会社に入社できたら、人生バラ色になるの?気持ちいい?
会社は学校と違って能力差が歴然とするし、仕事できる奴は目に見えて優遇される(こともある)。
その中で実力発揮するのは、生半可な努力では済まない。
それに、卒業大学別の派閥がある会社もあるから、どこの派閥にも入れず辛い思いする可能性だってある。
学歴フィルターしょうがないじゃん!って言ってる私も学歴はない。専門学校卒だ。
新卒で入った会社は超零細企業で、就職氷河期+景気の悪さで社員になるのも数年かかったし、待遇はブラックに近い超グレー企業だった。
周囲を見渡せば、苦労して入社しても1年後には能力不足でリストラとか普通にあった時代だ(マトモな教育してないんだから能力不足はしかたないのだが)。
でも、それから幾年も経って。
転職を幾度かして、やや大きめの中小企業の管理職をやっている。部下は全員大卒だ。
技術系の職業なので経験がものをいっている部分はあると思うけど、ここまでくると学歴もクソもなくなってくる。
様々な会社を渡り歩くには、その会社で吸い取れるだけの能力を吸収して、入った頃とは比べ物にならないスキルを得るしかない。
必要なのは自分の能力一つだ。そこまでくると学歴は関係なくなってくる。
エスカレーターみたいに、一度乗っかれば、なにもしなくても幸福の最上階まで連れていってもらえるものではないし、誰もがハッピーエンドになるわけじゃないんだよ。
学校とは違った、いつ終わるとも知れない超絶競走が始まるんだよ。
楽しいことや嬉しいこともある反面、ものすごい不条理と理不尽に彩られた世界。
自分の考え方・行動の仕方一つで、どんなに環境が良くてもバッドエンドになることだってある。
だから、最初から自分を受け入れない会社なんて無視すれば良い。
あなたのことを教えてください、一緒に働きましょう。という企業を探すべきだ。
あと、大手の方が安定していて福利厚生もしっかりしてると思っているなら、企業研究に失敗していると思う。
ウチは中小企業なので、大手のような給料は望めないかもしれない(悪くはないが)。
が、会社もそれをよく知っているので、大手顔負けの福利厚生を用意していて、それをウリにしている。
育休なんて男も女も使ってるし、すべての制度はしっかり運用されている。
そういう中小企業もいっぱいあるから、名の知れた大手だけ行こうとすると結構もったいないことになる。
就活生が会社を選ぶように、会社も就活生を選んでいる。お互い様だ。
だからこそ。
差別だなんだと思う前に、自分を足切りした会社など無視すればいい。
1、私の自己紹介
私は現在、東京の大学4年生です。そう、就活真っ盛りの就活生です。しかし、就活真っ盛りなのに、今、私はベトナムに旅行に来ています。しかも2週間も。日本人のベトナムのビザなし滞在期間は15日と定められているのですが、私は15日いっぱいベトナムに滞在する予定です。どうして就活生の私がこの就活の大事な時期にベトナムに滞在するのか?自分でも正直よくわかりません。私がベトナムに滞在する事を決めたのはおよそ1ヶ月前のことです。それまで送っていたマンネリ化している生活から脱却するために、海外旅行を決めたのでした。「海外にしばらく行けば、気持ちがリフレッシュされるっしょ!」そんな軽い気持ちでベトナム滞在を決めたのでした。さて、実際にベトナムにきてどうでしょう?私の現在抱いている感情は「はやく日本に帰りたい」その一点です。就活生というポジションでありながら海外、それも日に日に日焼けにより真っ黒になって行く自分を鏡で見ているうちに、どんどん自分の心も黒くなって行くばかりです。率直にいうと、現在の自分は自暴自棄になっているのだと思います。私は現在日本では自動車教習所に通っており、まだ免許取得をしていないのですが、ベトナムでは免許の提示無しにも簡単にバイクをレンタルし、運転することができます。好奇心があり自暴自棄になっている私には、ここベトナムでバイクを運転する他ありませんでした。ベトナムでの無免許運転は本当は違法です。しかしそんなこと知らず、自分がやりたい、ただその一点でバイクを借り、ただでさえバイクの交通量が異常に多いベトナム、ダナンの街中を、気づけば今までバイクも跨った事さえない自分が乗り回しているのでした。バイクに乗っている間は色んなところを見に行きたい、ただその一点です。警察に捕まったらどうしよう、事故を起こしたらどうしよう、そんな事は頭の片隅にも置かれていませんでした。バイクから降り、ホテルでゆっくりくつろいで夜になればなるほど、「自分はいったいベトナムに来て何をしているのだろう」「こんな適当な判断で適当な生活をしていていいのだろうか」「日本に帰って日焼けをした姿で学校の、そしてアルバイト先の皆んなに会ったらなんと言われるのだろうか」と、どんどんと不安が募ってきます。また、自分は今就活生で、友達はどんどんと希望の会社に内定を手に入れ、大学の単位もすでに取り終え、今の時期は卒業旅行のためのアルバイトに精を尽くしているのですが、自分はどうでしょう。学校にもいかないで、またアルバイトもさぼって海外へ放浪し、自分が本当は今しなければ行けない「学校の単位を取る」「アルバイトに行く」「自動車免許を取得する」といったタスクを消化しきれていません。こんな生活を送っていて良いのでしょうか。と思う一方で、「長期間海外旅行に行くことが出来るのは今しかない」「就職したら自分の好きなように行動できない」などという思いもあり、非常に葛藤しているというのが正直なところです。ベトナムに来て改めて自分自身を見つめ返すと、直さなければ行けない点、直さなくても良い点、両方あると思います。しかし現在の自分は、直さなければ行けない点ばかり深く考え込んでしまい、どんよりとした感情になってしまっています。これはいけないことだと自分で思います。自分にとって最高の状態はどのようなものかというと、学校の単位を取り、アルバイトに行き、自動車免許を取得し、海外旅行に積極的に行き、自分の好きな事を思いっきり楽しむ、これら全てのことをやり遂げる必要があると思います。そのためにはどうすればいいか?それらの内何かを抑え込む必要はあるのか?この事は深く考えるべきことだと思っています。
2、私が目指しているもの
私が目指している本当のものはどのようなことなのでしょうか?自分で考えた結果、簡単にいうとおそらくこういうことだと思います。「自分自身で価値を生み出し、自分自身で稼ぐ力を身につける」結局、自分は周りの環境に揺らぐことなく、自分のやりたいことをどんどんやっていく必要があるのだと思います。そのためには費用と時間が必要となります。先に述べていませんでしたが、私は現在、内定を一社から頂いています。ウェブやアプリ制作会社のシステムエンジニアとして、内定をいただきました。内定の承諾の連絡も済ませました。しかしそれでも、未だに「本当にこれで良いのだろうか」と心のどこかで思ってしまっています。なぜなら、就職したら自分の持つ時間の大半を会社に注がなければいけないから。「やりがいのある仕事なら充実できる」という人もいますが、実際どうでしょう?現在の私の思うところでは、自分自身で稼ぐ力を身に付けることができるのか?という点に対して、会社で働く事に少なからず疑問が生じています。私のようなまだ1回も正社員として働いたことのない人間が言うのもおこがましいことだとは思いますが・・・。ただ、どうでしょう、アルバイトでは基本的に時給で働きますよね。正社員も基本的に固定給で働きますよね。(会社によるかもしれませんが、基本的に。)それって、自分で稼ぐ力が付かなくてもお金がもらえるってことですよね。その様な条件でこの先ずっと生活をしていくと考えたら、正直、恐ろしさを感じています。自分で稼げる様になりたい。私は強くそう思っています。そのためにどうしたら良いか?私なりに色々考えました。ものの転売をして稼ぐ、株やfxをして稼ぐ、アフィリエイトをして稼ぐ、などなど・・・稼ぐ手段にはあらゆる物があると思いますが、私は、形ない0の状態からものを生み出して稼ぎたい、という思いから、自分にとって一番可能性がありそうな文章で稼ぐ、というものに興味を持ちました。文章で稼ぐには、人々を惹きつける魅力ある文章を書かなければいけないと思います。私はこの記事を書くことで、私の文章がどれくらいの人を惹きつけることができるか、自分自身の力試しの様な思いを込めてこの文章を書いています。批判でもなんでも構いません。私の書いたこの記事を読んで、どう思ったか、「駄文」の一言でも結構ですので、何かリアクションを頂けると幸いに思います。自分の集中力が切れてきたので、とりあえずここまでで文章を投稿しようと思います。何かリアクションをいただけたら幸いです。
就活生。
希望の会社に入ることができませんでした。
上記のどちらかに行くか、もう一年就職活動をするか迷ってます。
高校生の時から目指していた仕事があり、大学生活はその仕事に就くことを中心に考えて過ごしました。ですが採用試験では全く通らず、別の職業を受験したところ①の内定を貰いました。しかし希望の職種ではなかったため就職活動を続け②を貰いました。
ですが今更になり、会社の規模や仕事の範囲、知らない土地での暮らし、自分はここで長く働き続けられるのだろうかと不安に思い、就職浪人を考えるようになりました。
一方で、同じ職業を目指した友人たちは、見知らぬ土地で働くことに腹をくくっています。僕だけが、規模や土地など、理由をつけて実力に似合わないわがままを言っています。
仕事の大きさと土地を重視するなら、①の会社に入れば良いと人に言われ、やりたい仕事を諦めたつもりでしたが、毎日、やっぱりあの仕事がしたいという思いが膨らんできてしまいます。
まず すいません順番変えまして獣医学部新設について通告していた内容について
昨年でございますけれども 山本農水大臣は 加計学園理事長の加計孝太郎氏と面談をされたと
ゆうふうに 委員会で答弁がありました
私が農林水産大臣に就任したためにご挨拶したいという趣旨で来られまして 大臣室で
お会いさせていただきました その際に 大臣就任お喜びの言葉を頂戴した次第でございます
民進党の宮崎岳志議員への答弁の中で農水省のほうから獣医学部新設のお話があったと
ゆうふうに報告されております
まあ 確かに大臣就任のお祝いであったというふうに思うんですけれども
加計孝太郎理事長 そして問題の 豊田三郎氏も ご一緒にお会いになったと
衆議院の地方創生特別委員会で認めておりますけれども 獣医学部新設においてどのような
お話があったんでしょうか
山本有三:短時間でございます また 就任のご挨拶等いただいてただその 陳情という正式なものでは
ありませんでしたので 私のほうといたしましては今 定かではございません
森ゆうこ:役所がその話が 獣医学部新設についての話があったのか なかったのか それだけ まず
言ってください
山本有三:そのときに その話があったかどうかについての記憶は 定かではありません
森ゆうこ:ないんですか 役所のほうからそういう話があったと きちんと
4月25日の衆議院特別地方創生委員会で答弁あったんですよ 忘れちゃったんですか
あったんでしょ
山本有三:あったかもしれませんが 森ゆうこ:駄目駄目そんな答弁 :私としては農林水産省の所管の
局長を 同席させて 陳情を頂いたと いう記憶はございません 森ゆうこ:そんなこと聞いてないよ
森ゆうこ:まあつまり獣医学部新設についての話はあった ということでよろしいですね
山本有三:くどいようでございますが 8月23日 その話の 陳情の書類を頂いた訳でもありませんし
まああったんですね
まあなかったんですか じゃあ
山本有三:8月23日にメモを取っているわけでもありませんし記録をしているメモがある訳でもありませんし
私どもといたしましては 会話の内容を今 再現するということはかなり困難でございまして
あったのかもしれませんが 記憶にございません
森ゆうこ:なかったんですか
なかったらなかってはっきり言ってください なかったんですか あったんですかどっちですか
山本有三:会話の記憶が 森ゆうこ:そんなこと聞いてないでしょ
:脳裏に鮮明に焼きついているわけではございませんので
音声は放送しておりません
山本有三:当時の その 8月23日以降に 私がどういう話があったかと言う話を 局の方に 四国における
獣医学部の新設における話も会話も出たと言うように言っている訳でございますので
確実に 四国における 獣医学部の新設についての話があったと言うことでございました
じゃあ文科省にお聞きします 松野文科大臣と昨年の9月6日に 同じく加計孝太郎理事長同じく豊田三郎氏
面会しておりますけれども えー 獣医学部新設についての話は あったんでしょうか
松尾泰樹文部科学大臣担当審議官:えー そのときは大臣就任の挨拶のみでありまして 獣医学部新設についての話は
あがっていないと言うふうに聞いております
森ゆうこ:農水省ではその話があったのになんで文科省ではなかったんですか
誰から聞いてきたんですかそれ ほんとなんですかそれ
就任の挨拶のみであり獣医学部新設の話はあがっていないと 言うことでございました
森ゆうこ:おかしいですねえ なんで農水大臣にだけそういう話をして 肝心の文科大臣にしないんですか
ございますけれども文教協会は6月30日をもって解散の予定と 言うことです
それで えー内閣府副大臣 去年の11月9日の案文原案そしてその合意に至る経緯等
これ出せないと 言う返事をわざわざ しに来たんですけれどもそれ出してください
案文 そしてその合意に至る経緯 どうですか
松本洋平:えー以前から答弁をさせて頂いてるとおりで 大変恐縮ではございますけれども
検討途中のものでありまして お出しをすることは差し控えさせて頂きたいと 思います
森ゆうこ:もう終わった話なので桜井委員からもお話がありますけれども 当然あるべき資料なんで出さないんですか
森友学園問題と一緒じゃないですか 今 意思決定がどう行われたかずっと問題になっているんだから
そこを全部開示しなきゃ疑い晴れないでしょ
それでこないだあの コントのような答弁があったんですけれども
事前に安倍総理にいつ だれがどのように説明をしたんでしょうか
しかるべきときとかこのあいだみたいにふざけた答弁はやめてください
具体的にお答え頂きたいと思います
松本洋平:昨年11月9日の特区諮問会議におきまして事前に特区ワーキンググループ 内閣府 文部科学省
農林水産省との間で事務的な調整を11月2日に終えた訳でありますけれども
11月9日に段取りの説明とともに事務方から説明を行ったと言うふうに聞いております
松本洋平:先ほどお答えさせて頂きましたけれども特区諮問会議当日
段取りの説明とともに事務方から説明をおこなった と言うふうに聞いております
森ゆうこ:まああの答弁を控える内容でもないのに その何回も私のその 貴重な
農業競争力強化推進条約 各条文の具体的な意味について お聞きをしたいところはたくさんあって
えーそしてそのように 通告をしておった訳でございます えーまず第4条 農業関連事業者
他にも出てくるんですけれども ここはあの 国籍は問わないと えーグローバル企業そして
全ての企業が対象であると言うふうに確認をさせて頂きたいと思います大臣
山本有三:これは国籍資本のありよう関係なく行ってるものが含まれます
森ゆうこ:第4条ではわが国の農業が将来にわたって持続的に発展することが
農業関連生産事業の発展につながることを踏まえ 等々書いておりますけれども
まあそういうことを志しているグローバル企業であるとどのように判断するんでしょうか
グローバル企業ってのは利益を得ることの まあ会社ってのはそういうもんですけどね だけど
でもわが国の企業であればそういことも考える いろいろやり取りするなかで
分かるかもしれませんけれども そのグローバル企業が参入したいと言うときに
わが国の農業を発展することを目的としてると どうやって 判断するんでしょうか
具体的に大臣お答えください
続きはwebで