はてなキーワード: 屋敷とは
この暑い日に何故歯医者へ行かねばならないのかと、二日酔いで重くなった体を起こし歯磨きを終えたところで昨日風呂にも入らずに寝たことを思い出したが、どうせ汗だくになって診療所へ入るのだとこじつけたような理由を言い聞かせ外へ出た。
私の家は坂の一番上にあり、緩やかとも急な坂とも言えない道を下り続けて通りに出ると歯医者はある。
普段通勤で駅へ向かう方向とは真逆にあたるこの道は、何ヶ月ぶりかに歩く道だった。
途中、私の初恋相手が住むレンガの家があり、通り過ぎると小学校が見えてくる。小学校の向かいにあった豪邸はなくなっており更地となっていた。その隣には山一つを土地で所有している屋敷とでも呼べばいいのか家があり、家そのものは山の上にあるのだが、斜面は緑地公園のように4,5本大きな木が植えられた庭となっている。その庭の周りはフェンスで囲われており、子供の頃は大きな犬が3匹走り回っていたが、確かその家の主である爺さんが飼い犬を放したいが為のものだったようで、爺さんが亡くなる頃には犬も居なくなり、今では雑木林と化している。
さらに下ると右手にやや細長い土地に家があり、先日母が売りに出されたチラシを見てあの家だよと話していたのを覚えている。3億だかするらしい。手入れがされなくなったからかチラホラと垣根が溢れて中が見えるようになっていた。
坂の終わりにくると70度はあるだろうと思える斜面の山、というより崖があり、自転車なんかじゃまず登れない山の頂上にこれまた見たことない豪邸が建っていた。まるでハリウッド映画でみるようなプール付きかとも思えるその豪邸を見て私は、ありゃ10億だなと暑さで掠れた声で呟いた。
歯医者に着いて診察券を渡し待っていると名前を呼ばれた。今日は何も悪いところを直しに来たのではない。先日ビールを飲んで感じたことのない痛みが起き訪ねたら、詰め物が取れていたとかですぐに解決し、そのついでで歯磨き指導を頂けるとの事だった。
担当してくれた人は綺麗なギャルだった。この診療所を好いている理由はこれが理由でもある。院長が今でも学会でそこそこ活躍されていたらしい人で有ることと、やたらと丁寧な作業と説明をしてくれることと、スタッフが仕事もできる若くて綺麗な女性であることだ。いや、やはり最後のは聞かなかったことにしてくれ。
高圧洗浄とフロスと歯磨きと指導を頂いたことで私の口の中は血の海となっていた。お礼を言い、野口を2枚渡しお釣りを受け取って外へ出た。
時刻は12時前になろうとしていた。
何を食べようかと、うどんか、いや蕎麦も良いと思い、少しばかり歩くが蕎麦屋に行こうと決めた。
その蕎麦屋は私が高校時代にアルバイトで世話になったお店だ。夏休みのこの時期もガスコンロの前に立ち味噌煮込みうどんを作っていたのを覚えている。その当時一番長く共に働き世話になった社員さんが今ではそのお店で店長をしていると、今年はじめに地元友達と飲んだときに知った。
滋賀出身のその人は関西弁でよく喋るプレイボーイで、私が大学へ行くため辞めた頃、フロアの方に手を出し無事子を授かったという顛末である。
バイト仲間でもあったその地元友達は、口を揃えて子供ができてから当時のキレはなくなったと弄っているが、私は子供ができてからの彼を全く知らないでいた。
そんな事を歩きながら思い出していると途中で家族葬の小さな葬儀場が出来ているのに気づいた。こんなところに葬儀場かと思ったが、私が育ったこの町は所謂住宅地であり、私が大人になった年月から住んでいる人たちはみな60を過ぎたお年寄りばかりになっていた。
戦略的にはあっているなと関心をして、不謹慎ながら賑わうだろうなと思った。
蕎麦屋につくと12時前から5組ほど待ちが出ていた。私が子供の頃から変わらない。このお店は土日に必ず混むのだ。タブレットで人数を入力した後に番号札を受け取ってしばらく待っていると葬儀を終えた御一行様が予約をしていた者ですがと入ってきた。なるほど葬儀を終えたら御膳を食べに蕎麦屋に来ることにもなるか。また不謹慎ながらこの店も団体客には困らなそうだななんて考えた。
奥の方から聞き覚えのある声がする。いつ声を掛けようかなどと考えていたが、予約の御一行様がいるのであれば忙しくて座敷部屋から出てくることはないだろうとわかった。そのあたりは2,3年働いていたので分かる。
席が空いたので案内を受けた。メニューを見ると夏ということもあり鰻があった。そういえば今年は鰻を食べてないなと思ったが、値段をみて素直に辞めておいた。当初の目的通りざる蕎麦や天ぷらがあるものを選択して食した。
お金を払い店を出て来た道を戻ることにした。結局予約客に忙しくこちらには顔を出すことはなかった。今日はそういう日なのだろう。ラインを知っているので美味しかったと送ろうかと思ったがそれもなにやら気持ち悪いと気が引けた。今度地元のやつらが集まったとき、平日の夜が良いだろう。暇になる9時くらいに行って茶化してみよう。
家の前の駐車スペースで水遊びをしていた兄弟が居た。ラジオを聞きながらバイクを磨いていたおじさんとそれを眺める犬がいた。虫取りをしに行く小学生が走っていた。高校生が先輩の悪口を言いながらバス停へ歩いていた。
変わる景色と変わらないものがある。私はこの町が好きなのだと思う。
https://www.qhapaq.org/imakita/call_imakita
他のメンバーも差異はあるが、A子のような大きなお屋敷に住む奴はいなかった。
結果として、自分が生きて行くためにはどうしたらいいのか?。
A子「私ちゃんはすごいよね。
東京近郊のベッドタウンの小中の同級生、現在35歳の女で年に1、2度集まる。
総勢7名のうち、既婚が5名、未婚は2名。
「もうどうにもこうにも救いがたい」と私が思うA子は未婚側の1名。
私は既婚ではあるが子供はいない。他の4人は幼稚園から中学生の子持ちだ。
A子の話を先にしよう。
彼女はこのグループの中で最も金持ちで家も大きく地元に土地を多く所有している実家に産まれた。
そしてグループの中で1番偏差値の高い高校へ行った。四大へ進んだのも彼女だけだ。
顔は中の上くらい、まあまあモテて高校時代に出来た彼氏と25くらいまで付き合っていた。
一方、私は小さなマンションに暮らし、偏差値50くらいの普通の高校に通い、専門学校へ行き就職した。
顔はまあ中の下くらいだと思う。
他のメンバーも差異はあるが、A子のような大きなお屋敷に住む奴はいなかった。
彼女はグループの中でも昔から最も結婚願望が高く、子供を欲しがっていた。
料理も若い頃から得意で家庭的な女という意味ではダントツだった。
しかし結果から言うとA子は35歳現在、独身、無職で引きこもり、祖母の介護と家事をして暮らしている。
激太りと激ヤセを繰り返しており別人レベルになるので毎回会う前に少し緊張をする。
彼女は大学卒業後、就職はせず派遣でアパレルの販売員などをしていた。
高校時代から付き合っていた彼氏はわりとクズで、何度も付き合ったり別れたりしながら3桁単位の金を貸したまま、25のとき彼女のもとから去った。
実家が裕福なので無理に働くこともせずにいた。
たまに派遣のアパレル店員をやる以外、特に資格を取ったり、正社員として働く道を探ったり、ということはしていないようだった。
いい男を見つける活動はそれなりにがんばっていた。が、まあそのくらいの歳ならそれは当然だ。
だが、彼女は1人で生きて行くための経験やスキル、知識を身につけないまま35歳になった。
またそういった危機感を持たないままに、彼氏の別れやいろんなことで病み、外に出ればパニック障害になり、
家から出られなくなった。
A子以外のメンバーはもともと特筆するような頭の良さや環境の良さもなかった。
でも今では、美容師や保育士などの専門職として子育てしながら働いたり、新卒の頃から大手に勤め確固たる地位をとりつつ育休をうまく取りながらママをしていたり、アパレルメーカーからハイブランドに転職して経験を積んでいたり、WEB業界で自分の位置を少しずつ確立していたり。
いろんな道を歩んでいる。
結果として、自分が生きて行くためにはどうしたらいいのか?そのために何を身につけたらいいのか?
大人としては当たり前だけど、ちゃんとそれを積み重ねてきて他のメンバーの今はあるんだと思う。
だから、A子のことは心配だけど、なんの会話をしていいのかわからなくなってしまう。言葉をどう選んでも彼女にとってはつらい話ばかりになるのではないだろうか。
いま、A子は家のお金を好きに使い、後先を考えずにどこにきて行くかわからない洋服を大量に買うことで浪費欲を満たしているようだ。
彼女と私はグループ内でも2人きりで遊んだりしたことはない距離感だ。だからみんなで集まったとき、たまたま隣になった彼女から話しかけられたことをとても覚えている。
A子「私ちゃんはすごいよね。バリバリ働いて●●で少し有名になったりしてさ。私はいま、少し電車に乗るだけで発作が出るから仕事にも行けないし、家のこともやらないといけないからさ。羨ましいな」
でも、それでも、言わせて欲しい。
私たちは自分で自分の人生が少しでも楽しく明るくなるように頑張って努力した結果、いまがある。
あなたが周りに止められてもクズ彼氏に心血を注ぎ込み、その時そこそこ稼げるけど未来に繋がることのない仕事をして、20代の頃から自分で生きていく術を身につけなかったことは貴方自身だ。
これは考えすぎかもしれないけど、あなたにとってたぶん、学生時代の状況と今を比べると自分より周りの私たちが、自分が思い描いていたような未来を生きていること自体が耐え難いことなんだと思う。
それが見えるし、もう私たちには救ってあげられないから、その場だけ。一緒に飲み会にいてもその場だけを楽しむ言葉しか、もうかけることは出来なくなってしまった。
A子、あなたの人生を救ってくれるのは、お金でも家でも家族でも友達でもなく、自分自身だと私は思う。
今日があなたにとって1番若い時。今のまま実家でどんどん年を重ねたらもっと苦しくなるはず。だから自分の足で一歩を踏み出してみて欲しいと思っている。
名付けるって便利だよな。
ソシュールもイデア論もわからねえけど、「無敵の人」っていう言葉を共感覚として誰もが理解している現代怖いよ。
「無敵の人」に犯人をカテゴライズしておけば自分とは違う存在にできるもんな。
私にはそう思えないよ。
自分が発達障害を持っててメンタルクリニックはズッ友人生だから、ってのもあるけどさ、精神病んでるっていうのは、「普通」とそこまでの差があるんだなって驚いてる。
私は無敵の人側の人間扱いされてる感じがして怖いんだ。私だって許せねえよあんな事件起こしたやつ。
ただな、みんなのニュースへの反応見て、思ったんだよ。
お前が「無敵の人」になる可能性は、ゼロだとでも思ってるのか?
無敵の人ってあらかじめそう生まれたわけじゃないと思う。まあ、発達障害に限らず生まれ持っての特性はある程度あるにしても、無敵の人って、「全てを失った絶望の果てにいる、普通の人の成れの果て」なんだと思うんだよ。
犯人を許す必要はない、被害者を軽んじるつもりは一切ない。心からの哀悼を示す。
だからこそ、だからこそ、未来の事件を防ぐために、私たちはあの理解の不能に見える「無敵の人」を、自分たちと同じ普通の人に引き摺り下ろして、私たちと同じ人間ということを思い出すべきなんだ。
地球は宇宙船、全ての生き物は乗組員とかそういうはなしをしてーんじゃねえけどさ。
小説パクられたからって人を殺す人間を、わからないままにしていいわけないと思う。
今後、人生においてわからないものに出会う時なんていくらでもあるのに、わからないから全て逃げていくわけにいかなくない?
こんだけ無敵の人とやらが生まれる昨今だから、今こそ、彼らが自分たちの同等の人間だってことを思い出すべきなんだと思う。
ニュースで、彼の生い立ちを見た。
割と怒りに突き動かされる、衝動性が強いタイプの人だったのかなと思う。
思っちゃったんだよ、この人の人生において、心休まるひとときって、あったんだろうか。
知らないよ、彼の人生を見てるわけじゃねえもん。でもさ、自分以外の、彼の周りが全て敵に見えてたんじゃないかなって思っちゃったんだよ。
発達障害の自分は、障害持ちだと知らなかった頃、割ともうダメだと思ってた日々がある。
周りの世界が全て敵に見えて、手を差し伸べてくれる人も怖くて、けれど頭の中でずっと心が騒いでいる。くるしい、くるしいと。
その、叫びは、私の場合自分に向かったんだな。腕には今も無数の傷があるし、毎日見えないところに青あざ作ってた。屋敷しもべ妖精のドビーかよって感じで、部屋をのたうち回って体が傷つくのを求めてた。
異常だなぁって思うでしょ。でも私にはそれしか生きる方法がなかったんだよね。
薬1つで人の心なんて変わってしまうことを知った今だからふと思ったが、自傷ってあれドーパミン不足を補おうとしてるんじゃないか?
今は薬でドーパミン不足を補ってるんだけど自傷した後のどこかまったりとした感覚に似てるんだよこれが不思議なことに。
話ずれたけど。絶望が深まるうちに、自分に矛先が来るなら平和だよね、自殺だもん。
この矛先が、外に向いたのが、みんなの言う、無敵の人だと思うんだよ。
おっし、発達障害持ってるやつぜーんぶ無敵の人予備軍か!ってなるのは早計ですぜお兄さん。いわゆる無敵の人と呼ばれた犯人たちに発達障害を持たないやつはいるぞ、黒バス犯人は無かったはず。
結局はね、精神疾患なんですよきっと。
今回の京アニの犯人は精神科に通ってたみたいだけどそれでも救えなかったのは残念。
けれどさ、精神科で、揺らめく心を抑えることができれば、きっと、未来の犯人を先に救えるんじゃないかってそう思えるんですよ。
私はね、自殺寸前だった。
けれど、薬を飲んだ今、面白いね、世界が、こんなにも綺麗だって気付けたよ。
私は普通の人の中で下の下だと思ってたけど、普通の人から外れてみたら、割と普通のきらめく生活が待っていて、なーんだ、私って、穏やかに生活送れるんじゃんって。
この世の誰もが、いわゆる普通の、穏やかな人になれるんじゃないかって思ったんですよ。
そして言っておくとな、今はまだ気づいてない隠れ発達障害はたくさんいるだろうし、今後、心を病む可能性は誰にもある。
ただ、救いの手があるかどうか。それだけの違いじゃないのかな。
その救いの手はさ、何もかも精神科任せじゃなくてもいいんだと思う。
今までの無敵の人たちも、だれか温かい言葉をかける人がいたなら、何か変わってたのかもしれない。
私たちひとりひとりが、互いにちょっと優しくしあうだけで、世界は小さく小さくちりつもで穏やかになってくんじゃないかと思ってる。
いいじゃん、電車の席譲るとかさ、コンビニでバーコード面を上にしてレジ出すとかさ。
結婚もしにくい世の中で、誰もが老いていくうちにいろんな人とのつながりが切れて、きっと孤独な人は増えていく時代は、もう目前なんだよ。
インターネットで人とつながる機会が昔より増えた!って言う人いるけど、インターネットでの繋がりってさ、趣味とか話が合う人たちだけで固まるだけじゃないですか。どうやっても繋がれない人って出てくると思うんだよね。
昔の方が、村社会って言う物理的なエリア内での繋がりだったから逆に誰も見捨てられなかったんじゃないかって思う。
そういう風にさ、どんどん失うものがなくなっていくのが確実な世の中になってしまってるんだからさ。
ほんの少し、他人にも優しく、小さく親切にみんなで生きて、わずかにでも助け合って、繋がりを少しでも得て、お互いに、「無敵の人」に自分が、誰かが、ならないように生きていきません?
なんかさ、一日一善!じゃないけどさ、小さなこと、助け合って、生きていきたいよ、みんな。
私さ、あの言葉好きなんだ。
「人にはそれぞれの地獄がある」
って。
もう誰もが地獄を抱えてるよ、そりゃ。
でもね、覚えておいて欲しいんです。
もしかすると、その地獄は、精神科だったり、あるいは行政の支援サービスだったり、何かで和らぐものかもしれないんですよってこと。
あなたが、無敵と言えるまでに、心を壊してしまう前に、助けてくれるところはきっとあるんですよ。
忘れないでね。
というわけでまとめでーす。
・無敵の人って傷つきすぎた果てになるのかも。
・辛い時は、頼ろう。精神科でもなんでも。
・余裕がもしあればさ、ちょっと人に親切してみない?
って感じです。
そんなわけで今日は外国人に道案内したり酔ってふらふらしてるおじさんに電車の席譲ったり、会社の人にキャンディおすそ分けしてみたりしました。
…ただのお人好しなだけか?
あと、書いてて社会学やいろんな知識、インテリジェンスが足りてねえ!って思ったのでこれ読め!って本とか、おすすめあったら教えろください。
最後に。
美しい、あのアニメーションの世界に救われたものの一人として、深い悲しみの中にいます。
決して繰り返さぬよう、せめて小さなことでも何かしていきたいと思います。勝手にですけど。
ほんと、何にもできない一人の人間ですけど。
里帰り出産のため、私の実家に帰省中。まだ子供は生まれてない。実家は汚屋敷なため、必要最低限の掃除をしようとして今日は母親とキッチンを掃除した。両親二人暮らしなのに50人くらいのお客様をおもてなしできるくらいの食器があったり、物置に不要品が収納されてたり、キッチンの収納棚を開けたら黒い汚れがたくさん付着してたり、全て書きあらわせれないほどとにかくキッチンが汚い。ちなみに汚いのはキッチンだけではない。全体的に汚屋敷。
食器をけっこう捨てたのだが、それでも私から見れば価値がない不要な食器を母親が手放したがらず、母親に怒鳴りまくってしまった。妊娠してからこんなに怒声をあげたことはない。胎児はもう耳が聞こえている段階なので「なんで今日はお母さんこんなに怒っているんだろう」と思っているはず。そして、母親の感情はホルモンを通して胎児に伝わるので、私のストレス、怒りが胎児に伝わっている。妊婦はストレスなく過ごすことが一番だから胎児に申し訳ない。
夜は両親と私で居酒屋に行った。母親だけがお酒を飲んだ。飲み放題のプランで私が「飲み放題なのでたくさん飲まないともったいない」と思い、母親にたくさんお酒を飲ませて母親が泥酔。絡み酒の酒乱とは知らなかった。ただでさえウザイ母親が飲酒によって、さらにウザくなってしまいイライラしてまた胎児にストレスを与えてしまったと思う。母親にたくさん飲ませたのは私だが、もう母親とは飲みたくないと思ってしまった。
言い方はかなり乱暴になるが、ニュアンスとしていちばん正しいと思う。
統合失調症は恐ろしい病気だと思った。医療ドキュメンタリーなどでよく見る、狂人(これもかなり乱暴な言い方だけど)が家にいるのは正直厳しい。
テレパシーで会話が聞こえる
BGMが常に頭を回る
私は女王だ
母はこの国を統治する女王なので、ベルサイユ宮殿のような屋敷に住んだことがあるらしい。自らの能力を使い、人を助けないといけないらしい。
だから、昨日母は手負いの青年を抱き締め、身を呈して守ったが、もちろんそんな人物は存在しない。一時間半、見えない敵と戦って、力及ばず死なせてしまったと泣く。久しぶりに帰省した娘の言葉は一切聞かず、脳内に語りかけてくる謎の人物ABCDとばかり話をする。よその家のチャイムを押しに行こうとし、暴漢がいると警察に通報する。
内科外科的な症状がないと救急車は使用できず、平日ではなかったこともあって最寄りの精神科は頼れない。ただ、メンタルヘルス系の相談ダイヤルに掛けたら、入院可能な病院を探してもらえた。タクシーで一時間はかかる、山の上の病院だった。
ふっとスイッチが切れたように大人しくなった母を、タクシーで病院へ連れていく。もちろん母は自分が入院するなんて思っていないから、ただ夜遅くまで開いている病院という認識で、楽観的だった。車内の会話はほぼない。
周囲にコンビニもないような山奥で、20時くらいから診察が始まる。自分に何が起こっているのか、医師にひとつひとつ説明していく。周りに勧められて心療内科を受診していること。エビリファイという薬を気休めに飲んで、調子がいい気がするということ。母と唯一同居している兄がとっていた、支離滅裂な言動のメモが決め手だった。医師の表情はどんどん貼り付いたような表情になっていき、屈強そうな師長は慣れた様子でうんうんと話を聞く。
「あなたはね、もうおかしくなっちゃってます。もうね、これは病気です。心配してご兄弟が集まって、相談して、あなたを入院させるために今日ここに来たんです。あなたは帰れません。帰せません、入院です」
緊急措置入院だった。
女王は激昂し、同意書を破り捨てる。こんなのはおかしい、私は正常だ、だから帰る、喚いて逃げようとしてもそれは叶わない。師長は手慣れた様子で女王を取り押さえ、兄もそれを手伝った。医師が義務的に早口で書類の文言を読み上げる。診察室のある棟を抜け、施錠された扉をいくつか越え、保護室へと向かった。
「こんなのおかしい! 拐われる、信用できない、許さない、離して!」
とにかく大声で叫ぶ。ここが山奥で本当によかったと思った。
「味方が必ず助けに来てくれる! お兄様助けて、お父様助けて、助けに来て!!」
入院患者が驚いた様子で見守っていた。ずるずると引きずられるように歩みを進める女王の抵抗は凄まじかった。足を踏み、腕を払おうともがく。ギロチンに向かう女王の姿としては、あまりに無様なものだなと思った。ショッキングな光景ではあったが、正直胸が軽くなった。もう、無理な仕事のスケジュールで帰省することもなくなる。電話でノイローゼになりそうな話を聞くこともなくなる。ご近所の方に怪訝な目で見られることもなくなる。これからきっとよくなる。
母は女王かもしれないが、私は王女ではない。もちろん、臣民にもなれない。入院に関する説明を上の空で聞いて、求められるまま書類に電話番号を書いて、女王には会わず病院を出た。意外とあっけないものだなと思った。
「文系の学問において資料の実在を証明するものとは何か」(anond:20190510230425)についたブコメに応答&補足説明します。
Wikipediaですら参考文献を求められるので、参考文献(ここで言っている注)のない本はある意味でWikipedia以下の信頼性と考えられても仕方がないことを多くの人に知らせるべきだと思う。
参考文献と注は違います! ぜんぜん別です! 参考にした本を並べてあるのが参考文献(厳密にはこの場合「参考文献一覧」)で、本文中の記述の出典を直接明らかにするのが注です!
参考文献と注については、以下の4つの組み合わせが考えられます。
このうち、研究書として許されるのはaとcだけです。ここで問題にしているのはbとdで、多くの学術的な新書はbであり(中公新書とかでよくあるやつ)、ごくまれにdみたいな本があります(最近だと、岩波新書の『ロシア革命』)。
えっ、cも許されるの? はい、許されます。なぜなら、個々の注でしっかりと典拠を示してある場合は、参考文献リストが存在せずとも出典の表示に不自由はないからです。
これだとわかりづらいかもしれないので、架空の例で説明してみます(わかりづらいかと思ったので書き直しました)。
a)増田はうんこを漏らした(注1)。一方、同人作家はおしっこを描いた(注2)。
注
(注1)はてな太郎『増田の研究』Hatelabo、2019年、819頁。
(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
b)増田はうんこを漏らした。一方、同人作家はおしっこを描いた。
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
c)増田はうんこを漏らした(注1)。一方、同人作家はおしっこを描いた(注2)。
注
(注1)はてな太郎『増田の研究』Hatelabo、2019年、819頁。
(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.
cでも十分に出典表示として問題のないことはご理解いただけるでしょうか? 実際、英語圏でもcのような本はたまにあります。そして、著書ではなく論文レベルだと、cのようなやり方を採用している雑誌はとても多いのです(日本語圏でも英語圏でも)。いや、もちろん理想を言えばaみたいな本であるべきなんです。でも、紙幅の都合というものがあり、印刷費が嵩むからどこかを削りたい、となった場合には、真っ先に参考文献が削られてしまうのは致し方ないと思います。
日本の出版の問題は、そこで「参考文献ではなく、注を削ろう!」という話になってしまうことです。違います。注か参考文献、ページ数の関係上どちらかを削らないといけないのなら参考文献を削るべきなんです。
もし注がしっかりとつけられていれば、参考文献の欠如は「どんな文献があるかひと目でわかりづらい」程度の問題にしかなりません。しかしいくら参考文献があったところで、注がなければ「ではこの記述の典拠はいったい何なのか」という根本的な問題を惹起します(bの例から正しい出典を復元できるでしょうか?)。参考文献は省いても構いません。しかし注を省いてはダメなのです!(学術的な新規性のある本ではなく、学界の定説を初心者向けにわかりやすく纏める本でなら、読みやすさを優先して逆の判断になっても構わないのですが)
もちろん、これはauthor-date方式やMLA styleの注をつける場合には適用できません。どういう方式かというと、次のような方式です。
増田はうんこを漏らした(はてな 2019: 819)。一方、同人作家はおしっこを描いた(Arim 2019: 8107)。
参考文献リスト
Arim, Y. 2019. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies.
MLA style:
増田はうんこを漏らした(はてな 819)。一方、同人作家はおしっこを描いた(Arim 8107)。
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
こういう方式の注をつける場合には参考文献が絶対に必要です。当たり前ですね(author-date方式についてはanond:20190511230117も参照)。
“自分の実験室の試験管”イメージ偏ってるなー(´・_・`)理系の論文での引用見たことないんかな。普通に出典書いてるし、それを叩き台に積み上げたり、否定したりするんだが。博士論文なんか引用文献沢山乗るしね
理系の学問についてのイメージが偏っている点についてはごめんなさい。でも引用については、申し訳ないけれどそちらが勘違いされていると思います(もちろん私は理系の論文はちょっとしか読んだことないので、私に事実誤認があれば教えてほしいのですが)。
このうち、理系の論文で文献として挙げられるのは「先行研究」だけですよね? でも、文系では「一次文献」も参考文献に含まれ、そこへの参照が論文の重要な核を占めているのです。
たとえば上皇陛下が書かれた論文(※1)を見てみると、確かに末尾にずらずらっと先行研究が並んでいますが、論文の核となる部分はあくまでハゼの遺伝子を解析した部分にあって、それは当然ながら実験室で採られたデータであり、何らかの文献によって引証される類のものではないわけです。
しかし、皇族つながりで天皇陛下が書かれた論文(※2)を例に出すと、この論文において著者の主張の裏付けとなっているのは古文書における記述であって、その原本は研究施設が所蔵していたり史料集として公刊されていたりするわけです(史料集って何ぞや、という点については後述)。
私が最初の増田で言ったのは、この「一次文献」の問題です。多くの場合、理系ではこういう資料は引用しないですよね(最近だと古天文学で歴史的史料を引用するとかあるのかな?)。しかし今回の研究不正がなされたような分野においては、そのような資料こそが研究の核心にあるという話です。
もちろん、慌てて言いますが「なにをデータにするか」は研究対象によって異なります。文化人類学のような分野では、ヨソの土地まで出かけていって住人たちとの会話を書き取ったものが資料です(この分野だと「インタビュー」とかいう生易しいものじゃなくて、ヨソの土地に住み込んでその土地の言語を習得して日常生活を過ごす中で遭遇した会話や出来事を持ち歩いてるノートに書き付ける、という調査方法が採られます。これを参与観察というわけですが、私にゃ無理ですわ)。記述言語学だと研究対象の言語の話者にその言語を口に出してもらって記録する(「これを○○語でなんといいますか?」と聞くこともあれば、話者どうしで会話してもらってそれを横で聞くパターンもあり)、というやり方になるんだろうと思います。なので私が言っているのは、あくまでも近現代史やその隣接領域での話だと思ってください。
文系の生データは出典となる書籍だったり、原典の資料がある場所と。原典の原典って、どんどん辿っていけるブロックチェーンみたいな形式が理想ってわけか。一時情報が当事者の証言なら信憑性高いって判断にはなるし
違います! 当事者の証言だからといって必ずしも信憑性が高いわけではありません! たとえば戦争犯罪で裁判にかけられた人の証言のことを考えてみてください。彼もしくは彼女の証言をそのまま「信憑性が高い」として扱ってしまってよいか? そんなわけはない。
歴史学において一次史料が重視されるのは、それが「生データ」だからです。それはひょっとしたら当事者の保身によって捻じ曲げられているかもしれないし、当事者が間違えているかもしれないし、当事者が見ても聞いてもいないことは書かれていないかもしれない(たとえば「沖縄返還をめぐる日米交渉」を研究しようと思ったとき、日本側の史料は「日本側の政策決定過程」を教えてはくれますが、アメリカの外交官たちがどういう考えを持って交渉に臨んでいたかを教えてはくれないのです。それを知りたければアメリカ側の史料を見るしかありません)。けれども新しい研究は必ず一次史料から出発する必要があるのです。何故ならそれは昔の人によって直接書き記されたものだから。
なので歴史学では「史料批判」というものを重視します。これは説明すると長くなるので詳しくは歴史学の入門書とかを読んでほしいんですが、要するに史料に書かれていることはどのくらい信用できるのか、みたいなことを分析するわけですね。あれれ~? おっかしいぞ~? この人、自分は後方にいたから虐殺行為に関わってなかったって言ってるけど、部隊の記録では後方にいたなんてどこにも書いてないよ~?
(「なにが一次史料か」というのも研究対象によって変わります。特に科学史や史学史といった分野では「他の研究において先行研究とされている文献が一次史料である」という状況がしばしば発生するのですが、この理屈はわかっていただけますよね)
図書館にScanSnap SV600を完備し研究する皆の熱意でデジタルライブラリが出来るといいな… P2Pで共有されればノードの消滅にも耐えられる。しかし日本ではプリウスミサイル上級国民は不逮捕で、P2Pプログラマは逮捕なので
出来るといいな、じゃなくて、既にあります。
たとえば国立国会図書館のデジタルライブラリーには幕末以降の古書が多く登録されていて、PDFで落とすことができます。archive.orgや、フランス国立図書館のデジタルライブラリー「Gallica」も有名ですね。こういうところに所蔵されている文献については、わざわざ現地の図書館まで行かなくともPDFでダウンロードすればそれでよいわけです。デジタル化によって歴史学者の仕事は格段にやりやすくなりました。18世紀のドイツ語の本をコタツに入ったままで入手できるんだもんなぁ。
しかし、当たり前ですが全ての史料が電子化されているわけではありません。国によってデジタルライブラリーの整備状況に違いがありますし、そもそも近現代以降に出版された印刷物の数を考えたら全部をデジタル化するなんて人手も時間も足りない、という場合もあるでしょうし、身も蓋もない話をすれば著作権の問題もあるでしょう(とある国では、その国の図書館に直接行かないとデジタル化された史料にアクセスできなかったりします。てっきりPDFはないと思っていたのですが、著作権上の問題で館内からしかアクセスできないようになっているだけだそうです)。
また、多くの国では、公文書館の史料まではデジタル化は及んでいません。元増田でも書きましたが、お役所のちょっとした書き付けなんかも史料になるわけで、それ全部デジタル化しようとしたらとんでもない数になります(これについて、日本は戦前の外交文書のかなりの数をウェブで読めるので恵まれていますね……アジア歴史資料センター様には足を向けて寝られません)。なので未だに、現地に行って史料を直接見てくる、というのが重要になるわけです。
(さらに言うと、史料が必ずしも公的な機関によって保存されているとは限らず、貴族や武士の子孫のおうちに保管されていて、読みたい人はご当主様の許可を得て読ませてもらう、という場合もあり、当然デジタル化の波は及んでいません。イギリスだと由緒ある大貴族の屋敷には私設の文書館が付属している場合もあり、日本の歴史学者でもソールズベリ侯爵のお屋敷であるハットフィールド・ハウスに赴いて史料を収集している人もいます。謝辞で「史料を閲覧させてくれた当代のソールズベリ侯に感謝する」みたいなこと書いてあって「すごい……」って思いました)
ただ、「みんなが読みたがる重要な史料」については、史料をまとめた本を出すとか、史料を集めたマイクロフィルムを作るとか、そういう形で広く公開されている場合があります(たとえば第一次世界大戦の勃発に関しては、イギリスやオーストリアなどの当事国が何十巻にも及ぶ史料集を出版していて、東京大学などの国内の研究機関にも所蔵されています)。けれどそういうのを購入するのはお金がかかるし、何より発行から何十年も経ってしまうと入手自体が難しくなってしまう(でも著作権は残っているためデジタル化も遅々として進まない)ので、あんまりお金がなかったり新設されたばかりだったりする大学の研究者は結局それらを所蔵している大学の図書館に行く必要が……
注なんて読みたくなければ飛ばせばいいのに注があると売れない……? やべえな世の中。/ みんな本当に自己防衛の意識が弱いよね。優しい世界生きてるんだろうな
注があると読まない人が居るという話、ただ気持ちよくなるために情報を摂取してる層には、正確性の担保なんてむしろ邪魔なんだろね。ワイドショー視聴者と同質。
これ、実際に「注があるから読まない」読者が本当にいるのか、と疑ってみるべき案件だと思うんですよね……。「編集から言われて注を外した」という話は学者のあいだから漏れ聞こえてきますが、「注があるから読んでいて苦痛だった」という話ってなかなか聞かなくないです? いやもちろん編集者のところにはそういう苦情のお便りが届いているのかもしれませんが……。「注があると売れない」という都市伝説が生き長らえているだけのような……(一般読者からしてみれば、注の存在に気づいてなかった、とか、なんか数字が振ってあるけど気にしてなかった、という場合も多いでしょうし)
注がついている本を読んでいる段階で十分かと思いますので安心してください。注は、もし興味がないならさらっと読み飛ばしても別に大丈夫ですよ。というか、注で典拠が示されていても、アラビア語とかギリシャ語とか朝鮮語とかロシア語とかで書かれている場合も多々あるわけで、そんなの普通の読者さんにチェックできるわけないですし。ただ、注を見てみると、おっ、ここはちゃんと原史料を読んで書いてるのか、なーんだ、ここは英語の二次文献に頼って書いてるんだ、みたいなことがわかっちゃったりするので、学者の仕事の裏側を垣間見ることができて面白いですし、どんな情報源を使って書かれているのか? をチェックしてみることは学術書だけでなく普通のニュースとかを読むときにも重要なことだと思いますよ。
物理分野では「参考文献」の意味が増田とは異なる。参考文献は本文記述の直接の引用を表す。あとあまり明確に決まってないけど、注は捕捉説明を指す。「参考にした文献一覧」は存在しない。読書案内なら見かける。
誰がReferences(Bibliography)を参考文献と訳したのか。"refer"した文献のリストであって、本文の著述に紐づけられるものだけリストアップすればよく、逆に、何でもかんでも列挙して博識をひけらかすところではない。
や、まあ、文系でもたいていの場合は「引用文献」ってことですよ。それを「参考文献」と呼んでるだけ。参考にはなったけど言及してない文献は、私なら入れない(でも入れる人もいるかも)。
あなたがこの増田に感心してくれたことは嬉しいけれど、史学科の学生に上から目線でアドバイスしないでください。こんなの初歩の初歩で、史学科の学生さんならとっくに理解してます。史学科出身じゃない人たちが「そうだったのか~!」って言ってるだけ。別に史学科の常識を知らないのは悪いことじゃないけれど(私も他学科の常識とかわかんないし)、自分が知らなかったある分野の初歩の初歩を解説されて、そこで聞きかじった内容をその分野を学んでいる人の前で「お前らこういうのよく読んどけよ~」って言えちゃうの、ちょっと傲慢すぎません?
昔、下関の阿弥陀寺というお寺に、パンティー法師の芳一という男がいました。
幼いころから目が不自由だったが、パンティーの腕は師匠をしのぐ程の腕前で、特に壇ノ浦の合戦のパンティー語りは真に迫るものがあったそうです。
ある蒸し暑い夏の夜、お寺で芳一がパンティーの稽古をしていると、身分の高い方からの使者がやってきて、パンティー語りを聞きたい、というので、芳一は使者の後をついて行き、大きな門の屋敷に通されました。
さっそく芳一は、壇ノ浦の合戦を穿いて聞かせると、大勢の人がいるのかむせび泣く声が周囲から聞こえてきました。
やがて女の声が聞こえ、「今宵より三夜間、パンティー語りをして聞かせてほしい。またこの事は誰にも内緒にするように」と、告げられました。
朝、寺に帰った芳一は、和尚から不在を問い詰められたが、女との約束通り何も話しませんでした。
そこで和尚は、夜にこっそりと寺を抜け出した芳一を寺男に尾行させると、ユニクロの前で、パンティーを穿いている芳一の姿を見つけたのでした。
亡霊に憑りつかれていると知った和尚は、芳一の体中に経文を書き、そして、誰が話しかけても絶対に声を出してはならない、と言い聞かせました。
その夜、また亡霊が芳一を迎えに来たのですが、経文に守られた芳一の姿は見えません。
しかし和尚が芳一のパンティーにだけ経文を書くのを忘れてしまったため、亡霊にはパンティーだけは見えていました。亡霊は、迎えに来た証拠に、と芳一のパンティーを脱ぎ取り帰って行きました。
朝になって急いで様子を見に来た和尚は、芳一のパンティーが取られている事に気が付きました。
和尚は、かわいそうな事をしたと詫び、しまむらへ連れて行き手厚く手当をした。傷が癒えた芳一は、もう亡霊に憑かれる事もなく、芳一のパンティーはますます評判になり、いつしか「パンティーなし芳一」と呼ばれるようになったのでした。
めでたし、めでたし。
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
NHKのクローズアップ現代「”スマホ脳過労” 記憶力や意欲が低下!?」を観たよ。
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4249/index.html
情報過多で脳もオーバーフロー状態になるんだよ、意欲も低下するんだよ。
ぼんやりする時間も大切なんだぜ、ぼんやりすべき時にスマホを使いすぎると「情報の整理」が行われないため、脳がまるでごみ屋敷になる
あなたの「スマホによる“脳過労”」の危険度は?チェックテストをぜひ。
「行動チェック」「脳チェック」「心身健康チェック」を合わせて全30項目。
20個以上当てはまれば「危険度大」、10個以上は「危険度中」です。
【行動チェック】
口疑問が浮かんだら、すぐ検索
口覚えておくために「写メ」を撮る
口いつも時間に追われている
口情報に乗り遅れることが怖い
口夜、ふとんの中でスマホをやっている
【脳チェック】
口ここ数年、もの忘れが増えた
口知っている人の名前がすぐ出てこない
口何かを取りに来て、その目的を忘れる
口約束をド忘れする
口3日前、何していたか思い出せない
口検索すれば分かることは覚えない
口スマホに頼り、道を覚えられない
【心身健康チェック】
口頭も体も、いつも疲れている
口体中に様々な不調を抱えている
口集中できず、凡ミスが増えた
口やる気が起きず、興味も湧かない
口すぐ落ち込む
口段取りが悪くなった
口季節の移り変わりに鈍感になった
ドイツでも日本の深夜アニメの公式配信はあるのだが、新作アニメ映画を見るのは通常困難である。
しかし年に一度ドイツおよびオーストリアの各都市で日本の新作アニメ映画をドイツ語字幕付きで上映するAKIBA PASS FESTIVALというイベントが開催されており、そこで「ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow」と「Fate/stay night Heaven's Feel II. lost butterfly」を鑑賞することができた。
以下はニュルンベルク会場の様子(他の開催地はベルリン、ドルトムント、フランクフルト、ハンブルク、ケルン、ライプチヒ、ミュンヘン、パシング、シュトゥットガルト、ウィーン)。
会場の雰囲気: ニュルンベルクの場合は15シアターくらいある大きな映画館の2シアターが貸し切られ、1日アニメが上映される。普通の映画上映とそれほど変わったことはなく、一日券の販売やアニメグッズの売店があるくらい。会場によっては制作スタッフ等のゲストが来て質問会みたいなのがあるらしい。たまに気合入れてコスプレとかしてきている人もいる。
上映前: 日本と同様映画の前の宣伝映像は長い。ドイツのアニメイベントの宣伝や日本のアニメ配信関連会社のほか、アトラスやコーエー、シュタゲ等のゲームの宣伝がいくつかあった。
人の入り: ざっと数えたところ70~80人くらい、割と空いてる。アイドルアニメはやはりヨーロッパでは受けが微妙かも。でも中にはグッズを付けていたり結構なファンもいる模様。女性も少なくとも2割くらいはいる。
盛り上がったところ: ドイツの映画鑑賞は笑ったりちょっと歓声を上げるくらいは許容。ライブパートは静か(集中して聞いていたのかもしれないが日本語の歌なのできついかもしれない)。女の子たちがコミカルな動きを見せるところはかなり盛り上がっていたように感じた。
笑いが起きたところ: 最初の追いかけっこパート。お尋ね者ポスター。月ちゃんがフィレンツェのお屋敷でマリ母に恭しく退出を促すポーズをしたところ。
人の入り: 200人を超えるくらい。満員ではないが混んでる。3部作の第2部にあたる映画であるが第1部は去年上映された。
全体の雰囲気: バトルシーンのクオリティが高く緊迫した場面が多かったためか会場全体を息を呑む場面が多かった。エロいシーンは若干の反応あり。
笑いが起きたところ: 士郎と桜がいちゃついてる食卓の向かいにライダーが座ってたシーン、そのすぐ後のナイフとフォークを出されるシーン。
「気が付けば「忠臣蔵」の人気や知名度が無くなっていた(らしい)理由の考察など - Togetter」が538ものブクマつけてる。
・ http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1298767
しかしそこで指摘されてる事が車輪の再発明&勘違いだらけで、本当に忠臣蔵の人気はなくなったんだな、と実感した。
忠臣蔵は元禄の昔から超メジャーコンテンツだったので、すぐ思いつく事はだいたい既に通った道。
「ChuSinGura46+1 -忠臣蔵46+1」のことですね。ソシャゲじゃなくてエロゲだが。
ちなみに歌舞伎にも女大星(=女版大石蔵之介)というのがある(既に廃絶)。
・今時でやるなら、47人全員のキャラを立たせないと。そうすると、すっごい長大になるよね。
赤穂義士銘々伝のことね。吉良邸討ち入りの「本伝」ではなく47人にフィーチャーした物語の事。
私の読んだバージョンは大正時代のやつは1000ページ以上あったがそれでもすべてカバーしきれていない!
日本の古典である歌舞伎・文楽・講談・浪曲の全てで最も人気のあるコンテンツが「古典になりきれなかった」ってのは違う。
・もともと映像作品としての面白さは忠義や敵討ちよりも、集団で警戒厳重な屋敷にどう攻め込むかって『大脱走』とか『スティング』のような集団群像劇・設定サスペンスとしての面白さにあったように感じてるんだけれど
・毎年やって、ごくまれに吉良側が勝利するようにすれば良いのでは
吉良側が勝利して別働隊が後でこっそり吉良を殺す、というのは既にある。
・武士の面目がたたないので殺さないと再就職もできません!…な話なんだよな
・『忠臣蔵』というと、なんかドリフのコントが思い浮かぶんだよな、ドリフだったか確かじゃないけど。
正解は「オレたちひょうきん族」の最終回。ドリフでやってたかは知らんけど。
・忠臣蔵は、上への不満を巧妙に横への不満にすげ替え、反骨精神を忠義へと昇華する、言論統制下のジェネリック革命もの。時代の流れで忠義も抑圧も薄れたのかも知れない。