はてなキーワード: 冷や水とは
ここだけは褒めて良い。タイトルを読めばいいだろ!で済ませずちゃんと挨拶が出来ている
いきなり「私は許すかも知れないが、馬主が許すかな?」の太宰メソッドかよ
だが待って欲しい。フクキタルをナマケモノと呼んだり、ライスシャワーアンチがいきなり登場したのはこの作品ではなかっただろうか?あれで不快になった人もいるのでは?
具体的と言いたいならFF14のハラスメントガイドラインレベルを用意してこい。
考え方を害するの定義が曖昧すぎる。もしも間違った信念を信じ切っている人が偶然真実を突きつけられて発狂したとして、それは彼を害していないのだろうか?これではなんでもありだ。
ゴルシが飛び蹴りを繰り返し、全ウマ娘に入浴シーンがある、そんな作品を作っておいてこれを言えるのは凄いな。
特定の信条に何を入れるのかが難しすぎる。「歴代最強競走馬は○○なんだ!」の信条を持つ人からすればその馬が最強であると証明するのが難しいゲームは貶められていると感じるのでは?
「反社会的な」とは?具体的じゃないがすごい
具体的だな。実に具体的だね。
「俺は許すが、馬名の管理会社が許すかな?」
当てはまるものの具体性を示して欲しいんだよな。権利者さまなんだから「こっちが権利侵害だと感じたら法的措置を検討します」でいいのに「上記」といちいちつけて具体性のない具体的な話を始めることが自らの手で自らを貶めているようなものだよ。
これって「俺がファン活動じゃないと判断したらファン活動とは認めない」ってことなんだよな。正しい。だが、その正しさを受け入れられるような精神的に成熟した人間を相手にする商売とはいい難いだろソシャゲは。
かえって混乱を招いている。こんなレスバがしたいだけの連中のガイドライン棒にしかならんものを作っても界隈が荒れるだけ。「俺が批判したいのはコイツなのに、何故かそうじゃないファンが尻込みしたら困る!」と思うなら、もう個別に注意して晒し上げていくしかねーんだって。それが界隈に冷や水を浴びせることになるのを恐れて半端なことをしても結局余計自体は悪化する。「俺の権利を侵害するな」と「権利侵害とはコイツらのことだ」の組み合わせが結局最もスキがないのよ。
褒められる箇所が2箇所になったぜ。ようやく具体的な話が出来たじゃねえか。こういうのは俺はちゃんと褒めるぞ。
「○○はそんなんじゃないよ~~~」を散々やっておいてこういう事言うのやめろよ。ウマ娘公式が定義した「競走馬○○ってこういう馬ですよね!」がカイロスはうさみちゃんじゃないよ~~~現象を引き起こしている可能性について意図的に無自覚になることで問題を埋めるスタイルやめろ。
これだが、何度も国語力でブクマカ揶揄するエントリ書いてる国語増田だろうが、この件では元増田の方が頭が悪い。これは国語の問題じゃない。
https://anond.hatelabo.jp/20211006074457
この反応見て「また引っかかってる、頂きだ」と思ったのだろうが、そもそも麻生がやってる事って一般的な国家の政治家と記者の質疑応答じゃない。
映画の真似なんだよ。
「菅は顔が悪くて人気が無い。俺達喧嘩上等のワルだからな(ニヤリ)」っていうのをやってる。
確かに論われてるブクマカは文章を最後まで読んで(ニヤリ)の辺りで意味が転換されているのを読み取れていない。
だがそれより重要なのは、高校以上の国語の小説読解問題みたいな文章が新聞に載っているという事だ。
それはつまり、なんで麻生氏が新聞記者の前でクライム映画やピカレスクロマンの真似をしてそれが新聞に掲載されているかって事だ。
「早稲田一文の文章みたいなのが新聞に載っててブクマカが読み取れてない!」で喜んでいたらそこで読解終了なんだよ。
新聞の記事というのは「見出し-結論-本文-結論」と書かなければならない文章の筆頭だ。会社でこの記事のフォーマットで報告書を書いたらどうなるか考えてみたらいい。そこにはそもそも映画の真似をして良いという合意すらない。
一方、ルポルタージュなどはこの記事のような釣りタイトル→後半で意味の転換が許される。これは最初から腰を据えて読む長文だからだ。
だがこのような短文記事ではそんな余地があるはずがない。見出しは結論を要約する惹句である必要がある。
なぜ麻生氏が映画等の真似をして答え、コメントの最後で意味が転換されるという構造のままに記事にされるかというと、そこに記者と政治家の合意があるからだ。
これが海外メディアであれば、「クライム映画のノリで最後の台詞で意味が転換されるよ」「麻生氏はマフィアのような服を好む人物だよ」という文脈で記事を書いてくれただろうか?そのまま「顔が悪いと言った」でお仕舞だ。
紙幅があれば説明を付けるだろうが、それは「麻生氏はワルぶる事を好むナルシストとして有名だ」「日本には記者クラブ制度があり政治家は顔馴染みの記者とツーカーのぬるま湯の風土にいる」「日本の政治部記者は映画のワルのようなコメントをするとその舞台装置のままに記事を書いてくれる」というものになるだろう。
だからあの記事を読んで得る情報というのは、「麻生氏は年の割には洒落た事が出来る」という事のほかに「癒着で舞台装置作ってそれを公器に載せてやがる」「朝日の政治部はバカ」というものだ。それがメディアリテラシーだ。
だが元増田は早稲田一文現代文問題の構造を見つけて喜んでしまっているのでそこで情報処理が遮断されているのだ。馬鹿者である。
日本は移民社会に舵を切ったので、日本語の機智を持たない話者というものを考えていかねばならない。出版産業や新聞というのは国民意識、国民国家という想像の共同体の基盤である。
「リンガ・フランカとしての日本語」というのを意識していかないと永住権を持つ人間でも「ガイジン」のままなのだ。
それなのに政治記事でこんな内輪ネタやっててどうすんだってことだ。結論要旨-本文-結論の順で書けよ。とんねるずの業界ネタが今の若者に受けてるかとか類推しろよってことだ。
だからこの記事はある問題意識を惹起させる。それは「麻生と朝日新聞政治部に冷や水ぶっかけろ」だ。
上演されるべきでない場面で上演された舞台に疑問を抱かないでどうする。
サンデルのトロッコ問題への回答で「そんな問題を提起する者を殺す」というソリューションがあっただろう。それでいいんだ。
それなのに早稲田一文入試問題構造を見つけてそこに固執してしまいマウントを取ったつもりで情報処理停止してしまう元増田は愚鈍の極みである。
カラシイロノシャーツッス 竹内まりや/September ( からし色のシャツ追いながら とびのった電車のドア )
てにをはが上手いこと使えていないだけじゃなくて、単語や専門用語を間違えて使っておられる方も以前はおられました。今いるかどうかはさておいて。
そういう物事を間違えるタイミングというのは、何かしら惰性で行っていたり、激情に駆られていたりするものなので
増田での作業をする時ぐらいは一度冷静になって、使っている言葉の意味を検索してみると激情に冷や水をかけられず、現場での二次災害三次災害を引き起こさずに済むかと思われます
ということで本日は【道具の適切な使用よいか】で行きたいと思います。
RT数100以上のみ
@nmcmnc
午後1:19 · 2021年7月23日·feather for iOS
@nmcmnc
戦闘機飛ばしただけでご機嫌になっちゃう人に冷や水ぶっかけて嫌な気分にさせたいから書いてるに決まってるじゃん
木村知
@kimuratomo
ブルーインパルス、自衛隊の宣伝以外にどんな効用があるのか要検証だ。むろん大好きな人は嬉しかろうが、まったく興味ない人もいる。励まされた医療従事者もいただろうが、空を見上げるヒマすらなかった医療従事者がほとんど。少なくとも国民こぞって讃えてるモノじゃない。血税投入されてるモノだが。
@uchu1dane
ブルーインパルス…何か悪いものでも空中散布しているのでしょうか?
うるさいだけで必要ないです😔
医療現場で空を見上げる時は 自分たちの力が及ばず患者さんが亡くなった時の涙を堪える時だけですから。
Hiromi1961
@Hiromi19611
それを平和の祭典のために、医療者を励ますために使うのが、私の中では整理できません。
いざとなったら、戦争のための、人を殺傷するための戦闘機を見上げて感動するって、ちょっと感覚まひしてませんか?
SAKOMOMI 🙋♀️
@SAKOMOMI
あとブルーインパルスは戦闘機なので、わたしはポジティブな気持ちで見上げることは絶対にできない。さらに移動手段としての飛行機すら、二酸化炭素の排出量の多さから電車を選択する人もいるなか、無駄に飛行機を飛ばすことにはデメリットしかないと思う。本当にすべてがきつい。
ぷえ🍰わきまえるって美味しいの?
@pueteen
税金は使わないでください。
午後9:08 · 2021年7月23日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/TotalDeepDoku/status/1418663229031546881
@kyokosakaino
ブルーインパルスって
持ち上げられるようになったの?
いま多くの日本人が
オリンピックとコロナ感染爆発という躁鬱両方の情報に晒されている。
まるで熱い湯につかりながら冷や水を浴びせられるような状態で、
多くの人が躁鬱どちらの精神状態になればいいか分からず混乱しているように思う。
この矛盾したような状態から自分を守る一つの方法は、どちらか片方の情報を遮断することだ。
オリンピックとコロナのいずれかの情報を見ないようにすることで、精神的な混乱を避けることができる。
その結果、コロナなんて知ったことかと飲み歩く人が現れる一方で、
オリンピックなんて見たくもないという人も現れてくる。
心理的な観点からは、これらはいずれも自己防衛の両極の事例だと思う。
コロナはただの風邪派や、過剰な選手叩きをする人は、それらの極端に先鋭化した事例だ。
この躁鬱の分断は、オリンピックが終わりコロナのピークが過ぎてからも残り続けると思う。
塊としてみた時に、はてな民って人格の騙されやすさは異常だなとknoaの件で改めて思った。
https://anond.hatelabo.jp/20210721135308
https://anond.hatelabo.jp/20210726195557
彼に犯罪歴があるかどうか?は、この際には問題ではないと思う。前科があったとしても清算が終われば、それを批判の種にするべきではない。
実際に、雇用する、結婚する、交流を持つとなれば、再犯率の高い性犯罪者をどう考えるか?という問題は自衛のためにも無視できないが、ネット上でそれは関係ない。
彼に関する問題は、専門家でも何でもない商学部卒の素人が、何の根拠もなく信頼に値しない占いを、予想と名付けて公開して専門家面してしまっている事にのみある。
通常、「予測」というのは、根拠となる理論とそれを発表した論文などがあり、数理モデルが説明され、世界中の誰もが再検証できるし妥当性の判断が出来ると言う前提でのみ価値を持つ。
何が正しいのか?正しさとは何か?って視点が、knoa予想を信奉してしまう人たちには、ごっそりと抜け落ちてると思う。
もちろん、はてなにも初めからknoa予想を占いと断じて否定していた人たちもいるが、彼らは明かに少数派だった。
はてなの過去を振り返ってみると、似たような連中は他にもいた。記憶に新しい所だと、国会ウォッチャーがいる。
共謀罪で馴染みがあるであろう、組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律、が制定された時に増田で活躍した人物で
共謀罪を設定する事に反対して、各国の条文などを、意図的に単語を抜いて翻訳する事で、危険性を訴えていた輩だった。
やはり一部のブックマーカーは、ロジックに見過ごせない粗があると疑い原文を当たって、国会ウォッチャーの英語力の不足などではない明かな嘘があると増田やコメントで指摘をしていたが
この時もはてな民の多数は、国会ウォッチャーの詐欺を真に受けて、ほらみたことか!と大騒ぎしていて全体としては信奉している状態に見えた。
民主党政権が誕生した時に、詐欺フェストにたいして、「財源が見当たらないし出来るはずがない、何故信じる人がいるのか分からん」と言った声を
押し流して民主党に支持が集まったように。そうあって欲しい、そうだったらいいなって意見を、無条件に信じてしまう人が多いんだろうね。
コロナ占いの件で言えば、感染者が増える方が政府の批判が出来て、オリンピック批判が出来て都合がいいから、それに乗っかるし
共謀罪の件で言っても、共謀罪に反対出来るのが都合がいいから、乗っかってしまう。
総体としてはてな民を眺めた時に、客観的で論理的な視点や考え方と言うのが、ごっそりと抜けているように見える。
何が正しいのか?本当に正しいと言えるのか?という視点と、蓋然性を求める姿勢を持たない事は非常に危険なことだと思う。
世の中を間違った方向に動かしてしまうだけでなく、個人個人も詐欺にあったりと被害を受けやすくなる。
主張に明らかな間違いはないのか?
主張に実現可能性はあるのか?
と言った視点は常々持っておきたいものだと思う。自分の中に基準をもたないと、籠池や菅野完やショーンKみたいな山師に常に騙される事になる。
ワクチンや放射線に関するデマを信じて行動を大きく変えてしまえば、人生にも少なからぬインパクトが出てしまう。場合によっては、自身や近しい人が死ぬ事になる。
客観的な視点を常に持っていても、博士を取得した人が、きちんと論文が書かれてデータを提示されていれば、素人には容易に嘘を見抜くことは難しい時はある。
STAPとか、事実を積み重ねて再検証して嘘であると断定するのは、素人には労力的にも能力的にも無理だし、騙されるのをゼロには出来ないとも思う。常に絶対に間違わない人はいないだろう。
だが、knoaや国会ウォッチャー、詐欺フェスト程度の信じるに値しない意見を信じてしまうのは、誰にでも簡単に止められるのではないか。騙されやすさは改善出来るはずだし
信じるに足る根拠があるかどうか?くらいは、平均的な知能を持つ人には簡単に考えることが出来るはずだ。この姿勢は、真に知的な態度だと思う。
knoaの件で冷や水かけられた人は、これを機に少し自分を顧みて、客観的で騙されにくい、そんな知的な人間になってみてはどうか。
「いい加減、 男とのヘテロな恋愛こそが女性を幸せにするって洗脳するのやめてほしい。 」
っていうけれど、『男とのヘテロ恋愛』を肯定するような作品ってそんなにある?最近の著名作品って寧ろ男女の恋愛を否定するような内容が多くない?
ディズニーはズートピア・モアナと女主人公で恋愛要素の無い話が続いているし
新作のラーヤも女同士のライバル関係を前面に出していて男女の恋愛要素は全く無し
MCUの新作のブラック・ウィドウも姉妹愛推しで男女恋愛は排除されてるっぽいし
キャプテン・マーベルとかも一見素敵なイケメンに見える男が実は悪役でしたーみたいなストーリーだし
プリキュアでも敵の男キャラとのロマンス売りしてセットの人形まで出しておきながら実はDV男でただのやられ役ですプギャーみたいな事をやって
寧ろヘテロ恋愛ものを好きな女性に冷や水を浴びせかけるような作品ばかりじゃない?
2020年東京オリンピックは、大盛況で幕を閉じた。
開催国の日本はメダルラッシュに沸き、経済も上向いて最高の一年となった。
そんな明るい未来を予感させる年が終わり、翌年の2021年初頭、冷や水を浴びせるがごとく、凶悪なウイルスが人類を襲った。
突然変異を起こしたこの病原体は、例年の流行とは一線を画し、高い感染力と致死性を備えた最悪のウイルスだった。
この年、新型インフルエンザによる死者は世界人口の3割に達し、各国は大混乱に陥った。
しかもウイルスは毎年変異を繰り返し、有効打と期待されたワクチンさえも効果は限定的だった。
翌年以降も猛威を振るい続け、どの国も例外なくインフラや経済基盤に大きな打撃を受けた。
人類は衰退の一途を辿った。
労働人口が激減する穴を埋めるべく、積極的な投資が行われ、技術革新が起きた。
AIのおかげで高い精度の未来予測が可能となり、遺伝子操作の分野でも大きな成果があった。
何よりもタイムマシン理論の構築は、人類の知性のみでは到達不可能だったと言われている。
一部では目覚ましい科学の発達を見せながらも、人類滅亡は目前に控えていた。
新型インフルエンザウイルスの蔓延により生産性は激減し、深刻な食料不足になっていた。
それを引き金に各地で紛争が勃発。
もしも新型インフルエンザが発生した2021年の前の年、2020年に毒性の低いウイルスが流行していたら?
感染対策が十分に行われた翌年、新型インフルエンザは感染を拡大することができずに消滅する、というシミュレーションをはじき出した。
試作品のタイムマシンは、人間のような大きな質量を運ぶことができなかったが、微小な病原体であれば、過去へ送り込むことが可能であった。
遺伝子操作で新型インフルエンザウイルスのRNAを組み込むことにより、感染力だけが強く毒性の弱いウイルスが作成された。
遺伝子を組み込む毒性の弱いウイルスには、風邪の原因としても有名なコロナウイルスが選択された。
タイムマシンは、2020年へ、遺伝子操作したコロナウイルスを送りだした。
人類が袋小路に迷い込むことなく、より良い未来をつかみ取ることを願って。
◇◇◇◇
2020年初頭、突如発生した新型コロナウイルスはいくつかの国でパンデミックを引き起こした。
大きな犠牲を払いつつも、各国は隔離政策を打ち出し、少しずつではあるが封じ込めることに成功した。
翌年の2021年、新型インフルエンザが爆発的に広がるはずであったが、高熱を出した患者はすぐに隔離、他者へ感染することなく、人知れず消滅した。
こうして、新型インフルエンザが人類を追い詰める未来は消え、新型コロナで混乱する世界線へと改変された。
新型コロナは、新型インフルエンザを知らない人類にとっては大きな痛手となったもの、数年のうちに克服された。
この新型コロナ騒動で、一人負けの様相を呈した国が日本だった。
新型インフルエンザよりも一年早く発生した新型コロナのせいで、東京オリンピックは中止となった。
期待していた五輪特需も無くなり経済が衰退。日本はみるみるうちに失速していった。
そんな日本が打開策として打ち出したのが、かつての栄光、科学技術立国日本の復活であった。
とは言え、一度失われた物を手に入れるのは容易なことではない。
場当たり的な政策を繰り返し、国内外の失笑を買うことが多かった。
それは空間に不思議な亀裂があるという、今までに発見されていない現象だった。
実のところ、この亀裂はタイムマシンが新型コロナウイルスを送り出した際に生じたものだった。
タイムマシンが過去に物質を送るのはピッチャーがキャッチャーへ向けてボールを投げるのに似ている。
時空とはピッチャーとキャッチャーの間にある障子のようなもので、途中を通る時、空間に亀裂が入る。
2030年から2020年の間には新型コロナウイルスが通過した亀裂が発生しており、日本の研究チームが偶然にもそれを発見したのであった。
新型インフルエンザ世界線ではAIの発達によりパラダイムシフトが発生したが、AIが未発達な新型コロナ世界線ではあり得ない。
しかし、何もないところから考えを飛躍させるのは無理であっても、観測できる事象があれば、類推は可能だった。
落ちぶれた日本には他にできることもないので、この研究に力を注いだ。
ピッチャーが投げたボールの途中の軌道を観測すれば、それがどこから発生し、どこへ向けたものなのか推測できる。
時間的に連続した亀裂を観測することで、これが2030年から2020年へと微小な何かを送りつけた結果であると仮説が立てられた。
この仮説には様々な飛躍があり、突っ込みどころも多かったが、偶然にも正鵠を射ていた。
そして2020年という終着点は、日本にとって忌々しい年だった。
新型コロナは未来から「悪意によって」送りつけられたウイルスである。
そう結論づけた日本はこの過去へ向けたボールを撃ち落とすことにした。
ピッチャーが2030年から2020年へ投げたボールの軌道上にいる今、そこへ大きなエネルギーをぶつけ、ウイルスのような小さな物体を消滅させることは、それほど難しいことではなかった。
これが他の国の発見であれば、もう少し慎重な対応をしたかもしれない。
2030年から2020年へめがけて送られた新型コロナウイルスは、こうして途中で破壊された。
2020年に新型コロナが感染爆発を起こさなくなったことで、2021年に新型インフルエンザが大流行した。
新型コロナ世界線は消滅し、再び新型インフルエンザ世界線へと戻った。
こうして世界は2020年から2030年の間で、新型インフルエンザ世界線と新型コロナ世界線を繰り返すこととなった。
人類は2つのウイルスに繰り返しパンデミックされる監獄へ囚われた。
◇◇◇◇
この様子を興味深く観察する、高次の存在があった。
彼は驚きと興奮を持ってこの事態を観察していた。
文明が未発達で精神的にも未成熟な地球の生命体が、まさか時間を操る術を身につけるとは想像していなかったのだ。
ただ、感心はしたものの、地獄絵図をループするだけの人類にはすぐに飽きた。
宇宙全体を見渡せば、地球よりも優れた生命体は数多く存在した。
そう判断した後の彼の行動は速かった。
奇しくもその日、日本では何度目かの東京オリンピック開会式が開かれていた。
オリンピック開会式の段階では、新型インフルエンザウイルスも発生していなかった。
聖火台に火を灯す、オリンピックを象徴する儀式の始まる瞬間。その時はやってきた。
100万度を超える高温のプラズマが電子レンジよろしく地球をチンした。
こうして人類は終わりを迎えた。
この時、ループを繰り返した東京オリンピックは10回目の開催だった。
ごりんじゅう。
ご臨終。
お後がよろしいようで。
ただ放っておいてほしいだけなのに、社会がチクチクと攻撃してくる辛さ。
自分は結婚に向いてないので非婚を選んだ女だけど、とても覚えがある。
5年前くらいまで、女にも「結婚しなければいけない」圧力があった。
32歳までに結婚しないとだめだ〜とか
今は子供いらなくても後で後悔するぞ〜とか
欲しくなったときにはもう遅いぞ〜とか
今考えると「脅し」みたいな事を言う人が殆どで、はてなのブコメでも「結婚しないのは酸っぱい葡萄だ」が人気コメだった。
理由は、結婚や育児周りの女性への負担のあまりの大変さが可視化されていったからだった。
フルタイム共働きで、家事育児の大部分を期待され、保育園やマタハラや育休明けの異動、一人産めば二人目を所望され、義両親の介護まで期待されて、無理難題は尽きることなく。
「やってらんねーよ」
全力で趣味を楽しむ女性も増えていき、そんな楽しそうな人に対して「でもでも結婚が〜、出産が〜」と冷や水をかける女性は居なくなった。
中高年男性でこれをやる人はまだいる…けど、そんなのは老害のセクハラとして一蹴できるくらいには、女性は自分を大事にできるようになった。
これはフェミニズムのおかげ。
一連の弱者男性の議論を見ていると、あの頃悩んでいた自分を思い出す。
最初から自分は結婚にも育児にも向いてないとわかってたのに、無理をして婚活をしては毎日疲れていた。
今は自分のために時間を使い、スッキリと充実した日々を過ごせている。
もし、いまだ「結婚、出産して一人前」の押し付けが強い世の中だったら、ここまで心穏やかではいられなかっただろうと思う。
女性が自分の幸せを選択できるように意識を変えていったように、男社会(=一般社会?)も早く、結婚は人生に不可欠なものではない、という価値観の変化が起きればいい。
一人前かどうかは既婚未婚で決まるものではないし、人生は人それぞれであり、人の人生に対して茶々を入れることは恥ずべきことである。
それを共通認識として皆が持てるようになればいい。
◎どんな漫画?
東日本大震災で家族を失った15歳の作者がホームレスになって生きるカラーTwitter漫画。
◎何でこんな日記書くの?ほっとけばいいじゃん
タイトル記事の漫画がこれからバズりそうなので、今のうちに冷や水をぶっかけておこうと思った。
というのも、自分も被災で家族を亡くしたり、親戚の人生が破綻したりして地獄を見たサイドの人間なんだよね。
あの震災を『お涙頂戴感動ポルノ』にパッケージして商売の種にしようって人間がものすごく気に入らねえから。
◎まず騙されないで欲しい事
最初にハッキリ、結論から言わせてもらうとステマ案件と思われる。
そして描いてる人間、100%プロ。見る人が見れば一発でわかる。
可愛い動物で主人公を表現するあざとさだとか、塗りの見やすさだとか、コマ割・ネームの視線誘導だとか…
(今はイラストレーターや漫画家、編集の方がツイッターにごまんといると思うので、聞いてみればいいんじゃないでしょうか)
このままだと、テキトーな出版社から「SNS発の感動震災漫画が単行本化!描きおろし○○ページ」なんて思考力ゼロのカスみたいな煽りつけて、
単価1500円くらいの原価率が良い書籍サイズ単行本になるのが目に見えてるね。感動をありがとうってやつだ。
売る時期は2022年の3月とかに合わせるんじゃないかな。ページ数的にも丁度よくなりそうだし。安易~。
まず、「プロが体験をTwitterで綴ったらあかんのか?」と思われるでしょう。別に事実を伝えてくれて、我々が得るものがあるならいいじゃないかと。
あかんのです。
何故なら、現在の作者様は
「震災の記憶を風化させないために当時の事を漫画で発信していきます。みなさんに当時の様子を知っていただけたらと思います。」なんて表明をしているからです。
要は、これはビジネス目的ではないのだとおっしゃられています。
(「ただし後で出版しないとは言っていない」というのがミソです)
これは、錯誤を招く表現です。「可哀想な無名の被災者が、震災の悲惨さと孤児の辛さを漫画で伝える物語」を作り上げているのです。
ステルスマーケティングが何故悪なのか、というのと被るテーマですが、
「あたかも災害への意識を高めたりだとか、被災して苦労した人々への追悼の意を表現するための無料サービス作品」と錯覚させておきながら、
実は後の出版化・金銭化のための布石、というのは詐欺行為なのです。プロが、無名の人間を装うことは倫理に反することなのです。
別にこれを猫漫画とかでやって、同じようなシステムで金儲けをしても私は何も言おうと思いません。
でも、今回の漫画は震災を商売の種にしようとしている。これを、被災者への冒涜だと私は考えます。
──いやお前の妄想じゃん。何で今出版がどうとかの話してんの?というツッコミが聞こえますが、上にも書いたようにこの作品はほぼ確定的にプロが描いています。
そしてプロが慈善事業をするならば、しかるべき舞台=媒体というものがあります。
プロが本当に世論に震災の恐怖を伝えたければ、初めから政府広報でもいいし、地元の自治体の広報誌でもいい。
SNS媒体の方が良いというのであれば、それこそ初めからWEBメディアを通して発表するべきなのです。
そして「売上は被災地に寄付します」とでも言って広告費や単行本の売上を被災地に流す。
何故彼はそうはしなかったのか?簡単なことです。
商売として、SNS発の方が見栄えがいいからです。いかにもドラマティックだからです。そういう宣伝手法だからです。
100%と断定は勿論できませんが、これは同じ表現者からの告発だと思っていただいて構いません。
みなさん、騙されてはいけません。
「SNS発の美しい物語」の登場人物には、読者の皆様も含まれています。
貴方達の応援ツイートが宣伝文やらニュースでピックアップされて、商品に添えるリボンになるのは規定事項だと思われます。
そうならなかったら?
東北の当時の様子はそれなりに知ってますが、まあ事実を元にしたフィクションって印象ですね。
どこまでは嘘、どこまでは本当、なんて話はしてもしょうがない。そういう風に作ってあるのがまた憎らしい所です。
真実なんてものは、誰かのフィルターを通して表現された時点で曖昧になるものなのです。「これは嘘あれは本当」なんてファクトチェックをかの漫画に行うことは、大して意味持たないんです。
不幸にも家族を失った可愛らしいクマの主人公。混乱するが本質は思いやりのある東北の人達。
心の底から笑わせてくれます。読者が求めているものをよくわかっていらっしゃる。
その責任感が、現状の漫画からはあまり感じられないように思います。
まあ当然ですね、なんたってプロではなく無名の人物が描いた漫画という体になっているのですから。
「Fukushima50」の映画が、事実と異なる表現があるだの、人をむやみに美化しているだの批判されても、私はあの映画のスタッフをリスペクトします。
何故ならば、彼らはしっかりと名前を出し、正規の手続きを踏み、表現を行っているからです。
匿名で、責任をとらなくていい立場から、あたかも知ったかのように物を申す事が如何に無責任なのか?それはこの記事を見ればわかるでしょう。
読者に押しつけているものが、批判なのか感動ポルノなのかという違いだけです。
しかも半匿名でありながら、被災者という「被害者の道徳的正しさ」を利用するのは、最高に卑怯なことです。
◎読者の方へ
あの漫画は、間違いなく正しく読者の求めるものを考えて描かれています。
みんな、震災や人の本当のグロテスクさなんてものは、見たくないのです。
でも、本当に震災の大変さを、孤児として生きる大変さを伝えるなら、あの漫画はあまりにも、不気味なほどに清潔なのです。
そして、わざとツッコミどころを残している。何故なら、議論が盛り上がると作品が盛り上がり、それは結果的に金になるからです。
しかも、そのツッコミどころは、おそらく被災した役場や教師、都会の人の冷たさといったものを対象とするように、恣意的な方向性を持たされている。
最後は人ではなく、時代や環境が悪いという結論が出るように誘導されている。ああ、なんて正しいんでしょう。誰も不幸にならない。
被災者をテーマにしていなければ、私も拍手喝采をするでしょう。
あの漫画は、読者の皆さんの善意を誤作動させるように作ってあるのです。
冷たい計算の元に、ネームが切られ、写植が打ち込まれ、着色されています。
しかし、おそらく、皆様が思っているほど、あの漫画は善なるものではないと、一歩距離を置いて読んで欲しいのです。
◎最後に作者の方に、一つだけ
本当に震災のことを伝えたいなら、ちゃんとしてください。頼むから。
「別に日記だし?崇高な目的を勝手に感じるのはそっちじゃん?」と言わんばかりの、プロフィールの「プロとして正しい書き方」が、本当に卑怯に見えます。
10年経っても、まだ苦しい人がいるんです。
https://anond.hatelabo.jp/20210318185716
最初に言っておくと、“擁護”という言葉、muchonovさんこそが批判されているというフェイズにおいてその様に用いられる“擁護”という言葉は、ただの批判回避でしかありません。『「xx批判」に対する批判』を「xx擁護」という事にしておくと、あくまで批判されてるのはxxだけという事に出来て、「xx批判」こそが批判されてる事実を誤魔化せる、そういう小手先のテクニックです。これはその意図の有無に関わらず、です。
自分は、著作物に対する著作者の諸権利には二次利用者の表現の自由に優越する要素が確実にあると思う。だから、著作権を持つコンテンツホルダーに対して二次利用者が配慮を示すこと自体は、何らおかしなことじゃない。「コンテンツに対する権利を持ってる人達がガチで怒ったらどうなるかわからないから、謙抑的にやりましょう」というのは二次利用者としてごく常識的な判断だし、自分だって似た状況が発生したらフツーに相手の「お願い」に従うし、何ならゴロニャンする。日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい。
いやいや、意味わかんないですよ、これ。
だって「発端」のブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/4699940658477561058/comment/muchonov)は
「好意の多寡」云々と強弁してるけど、勇壮な表現の自由戦士たちが権利者の意向には簡単にゴロニャンするという構図は変わらない。自分たちからオモチャを取り上げる権利を持つ相手に屈服してるだけ
ですよね。
それに対してこちらが、それは“事実上の『私は「表現の自由」について全く理解していません』宣言”だよねと指摘して、そこにmuchonovさんから返ってきたブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/4699974732078626146/comment/muchonov)が
そうかなあ? 自分は著作物に対する著作者の諸権利は二次利用者の表現の自由に優越すると考える一方で、元増田は「グロく描こうが殺そうが馬刺しにして食おうがなんでもあり」だと言ってるんですけど。
この時点で、もうだいぶ「????」なんですが、これについてこちらが『“著作物に対する著作者の諸権利は二次利用者の表現の自由に優越すると考える”様なmuchonovさんが“コンテンツホルダーの意向には簡単にゴロニャン”とか言っちゃうの、さすがに意味不明すぎでは。』と指摘して、それに対する応答が上の増田なわけですよね?(こちらへの応答だけのつもりではないにせよ)
日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい。
とか仰ってますけど、笑ったの、他ならぬmuchonovさん自身ですよね。その“笑われても構わない”って、それ「笑う側のmuchonovさん」からしたらつまりは「“表現の自由戦士”たちは、おとなしく我々に笑われてろ」の意味なわけですよね?うん、やばいですね☆
って、muchonovさんの中では、「著作権」と「表現の自由」が、かめはめ波の撃ち合いか何かみたいになっていて、「著作権」の方が勝ってる…という様なイメージなのでしょうか?
もう何度も述べてきている事ですが
「表現の自由」で最も重要なのは『価値観の自由競争(市場)』。『公権力からの自由』はあくまでその手段の一つ(もちろん重要だが)。『表現の自由度』はその結果。
です。
これは、『絶対に「正しい」とされる、そんな「思想」は存在しない。だからこそ、「思想」の媒体たる「表現」は常に「自由競争」の下にあらねばならない。』事こそが、「表現の自由」の根幹である、という話です。
また、「市場」の中で自身の「効用」を最大化する事は、個々の主体が持つ権利であるべきだから、という考えに基づくものでもあります。
ですから、もしこれを否定しようとするならば、『全人類が、それぞれの権利を放棄してでもコミットすべき、絶対に「正しい」とされる「思想」が存在する』と主張し、証明しなければなりません。完全に狂気であり、全知全能の神の召喚でも試みた方が早いレベルだと思います。
つまるところ、その根幹が「自由市場」である以上、各々の「私的所有(財産)」を認める事は「表現の自由」に織り込み済みだと考えるべきです。「表現の自由」vs「著作権」、どちらの方が“優越する”か(アクセルとブレーキ、どちらの方が強いか)みたいな話とは違います。
ですから、“日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして”も、「私的所有」を認める事に“ギャップ”はありませんし、もちろん笑われる理由も存在しません。
これはmuchonovさんに限った話ではないと思いますが、恐らく『「権利がある」というのは、「その“権利”を行使した時に不評を買わない権利がある」の意味ではない』という事を理解されていないか、もしくは失念されています。
他の言い方をすれば、『「ルール」に従うか/逆らうか』と『「ルール」を肯定するか/否定するか』は、それぞれ別の事柄だという話でもあります。
(一応言っておくと、個人的には例の“お願い”について、曖昧であり「忖度学級会」を誘発するものだとして、2018年6月時点で批判的にコメントしています。)
また、「私的所有」を認めるという事は、その是非(その「大きさ」の妥当性や、そもそもの有無等)を問わないという意味ではありません。それは「表現の自由」とは別個の問題として論じる事ですし、今回の流れで言えば、もう少し著作権に関する是非は、議論の俎上に載ってもよいだろうと考えます(個人的には著作権はもっと「小さく」していくべきだと考えていますし、むしろ逆に「大きく」なる傾向のある現状については危惧しています)。
実際、話題になった「馬名のパブリシティ権」の話は、その辺りが問われた件だとも言えるかもしれません。もちろん逆に、「せやかて、やっぱ馬名については馬主が優先的ステークホルダーであるべきやろ」と主張するのも、それはそれで一つの考えでしょう。
どうであるかと、どうあるべきかは、やはりそれも別の事柄なのですから。
muchonovさんは二者の関係を「権利者と利用者の力関係」と述べており、もちろん嘘ではないのですが、それ以前にまず「供給主体と需要主体」の関係である事を忘れてはなりません。
コンテンツの二次利用は権利者のお目こぼしのもとで成り立ってるグレーゾーンで、『お願い』を無視し続ければより厳しい使用規制が課せられたり、コンテンツ自体が供給されなくなっちゃう危険があるから、みんなそれを避けるために『お願い』を遵守してる。
供給側としては、コンテンツに対する需要がなくなってしまう事こそが最も恐れる事態の一つであり、つまり(馬主のご機嫌よりもよほど)需要側のご機嫌こそを気にしなければならないわけです。趣味で製作しているアートか何かではないのですから。
恐らくは、だからこそ曖昧な“お願い”なのであり、また2018年6月20日なのでしょう(せめてアニメ放映中には冷や水を浴びせたくない、夏コミが控えてる、ゲームはしばらくリリースできそうにない…というタイミング)。
そしてもし、muchonovさんが記した様な「逆転現象」が起こるのだとしたら、それこそが「惚れた弱み」であり、正に元増田が述べていた状態そのものなのです。
「お客様は神様」と「殿様商売」との間で揺れ動く、その実に「自由市場」的な動きの中で「表現」の在り方も変動するというのは、むしろとても「表現の自由」的である、とすら言えるでしょう(元増田に、そこまでの考えがあったとは思わないし、個人的にはやはり「忖度学級会」には否定的だが)。
にもかかわらず、それを“バカみたいじゃん。”と切って捨てるmuchonovさんの発言のほうが、よっぽど“バカみたい”なのではないでしょうか。
HanPanna 価値観の自由競争というのはrag_enさんの造語なので、法学だと思わないように(もし学説があれば教えて下さい)"思想の自由市場"について知りたいならコチラのブログのが良いです。https://arecolle.hatenablog.com/entry/2021/03/06/124923
“法学”ってどこから出てきたん?というか、『公権力からの自由』はあくまでその手段の一つでしかないよ(大切だけどね)って話、してありますよね?ちゃんと読んでます?
なんか理解されてないようですけど、その箇所への反論は「ちゃんとできるようにしてある」んですよ。つまり『全人類が、それぞれの権利を放棄してでもコミットすべき、絶対に「正しい」とされる「思想」が存在する』と主張し、証明してみせればいいだけなんです。はい、頑張ってください。
まぁ、HanPannaさんが同じ話題でやらかすの、これで3回目ですし、間違った事でも言い続ければ押し通せるみたいなの、完全にオカルトなんで勘弁してください(HanPannaさんに許可を頂ければ、過去のやりとりも晒しますよ)。
あとリンク先、よりにもよってU.G.R.R.の人かよ…ギャグで言ってるのか?ってのが正直な感想ですけど、ぶっちゃけ謎の(マジで謎の)出禁を食らってるので(とはいえ、さすがに閲覧不可は無視するが)言及は避けておきます。やさしみ。
Silica ところでこの"価値観の自由競争"の中では寛容のパラドックスはどうなるんだろう、この人の言う"SJ"的な価値観がその競争に勝利したらどうなるの?
ブクマの上位に挙がっていた「かわいい人にかわいいと言うのは、僕としては結構ありえない 」って記事だが、
これに同意できない。(記事のURL:https://note.com/yasuharakenta/n/ne19f1e86e899)
痴漢とか、通り魔とか、「おかしてー(犯したいの意)」とか言うのが駄目ってのは同意、当たり前だが。
元記事はかなりまとまりがなくて、主張が曖昧なので批判しにくいが、
・付き合いたいのなら容姿のことに言及するのは方法として上手くない
とか多分そんな感じのことを主張していると思う。
(注:元記事はモテ戦略をメインで扱っているが、容姿への言及自体の悪性も割と強く主張している。)
で、考えるまでもなく、これらの主張の正当性は状況や人に依存する。
見ず知らずの人に急に「かわいい」とか言われても怖いだけなのは当然。
でも、インカレサークルの新歓で気になる異性にアプローチすることは自然なことだ。
普通手っ取り早く好みの異性を見つけるための場所だろう(知らんけど)。
また人の恋人観なんてのはかなり多様で、精神的に分かりあうのを大切にする人もいれば、
とにかく好みの容姿を持つセックスの相手を見つけたい人もいる。
後者の場合だったら、欲望むき出しのアプローチがむしろ上手くいって、
丁重に接するのは面倒がられるだけかもしれない。
例えば元記事の場面でもこういう風に盛り上がる場合もある訳だ。
先輩「かわいいねー」
後輩「えー、そんなことないですよ」
先輩「いや、かわいいって!」
後輩「そうですかー笑?ありがとうございます!」
後輩「はめないでください笑」
飲み会の場でこういう軽薄なやり取りは、アイスブレイキングの機能もあるし、
なにより彼らはこれを楽しんでいる。楽しんでいる人にとっては、
勝手に慮った態度で冷や水を浴びせてくるやつの方がよっぽどキモい。
ここには「本当は君はこんなコミュニケーションを求めてないはずだ」っていう
決めつけがあるし、実のところそれは自分の願望を投影してるだけ。うっせぇわって話。
あと元記事には「かわいい」と言うのは「やりたい」と言うのと同じなんて書いてあるが、
これは目を疑うレベルの妄言。美しいものに感動したことはないのだろうか?
また馬鹿らしいだけでなく、容姿に言及する人を性欲に支配された粗野な人であるかのように
TikTokの性的なコメントだっていつも不快なわけではなく、喜ぶ人だって沢山いるだろう。
それを容姿への肯定と理解して喜ぶ人もいれば、内容はどうであれバズることに快感を感じる人もいるし、
twitterに裏アカ女子なんてのが沢山いることからしてもこんなことは明らかだろう。
ただ勿論、容姿への言及に傷つく人もいて、だから問題は傷つく人がいるからやめるべきなのかということ。
世間には快より不快の除去を優先するのが当たり前と考える人が結構いるが、そんなルールはない。
そして容姿への言及によって生じる快不快はどちらもときに重大で、人生を変えてしまうほどの影響をもつこともある。
これは相対的な立場をとって、どっちつかずでごまかそうというのではなくて、私たちは容易にそういう人たちを想像できるし、
場合によっては知ってさえいる。
キモくて性的なコメントであれ、容姿を褒められ、それをきっかけにファッションや美容に興味が出て、
自己変革に成功した人だっているだろう。「良心的」な人間の「良心的」なコメントでのみ人は良く変われるなんてのは
人間のアンビバレントなあり方を無視している。キモいけど嬉しいことだってある。
で、ここまで来ると、この問題はよくある多様性の受容の議論と相似であることに気づく。
つまり、自分にとって不快だけれども、他人にとって快だから存在を受け入れようという話。
だから私は人には容姿への言及をする自由があり、それは悪いことではないことを受け入れるべきだと言いたい(一応言っておくと私は他人の容姿には基本言及しない)。
勿論、同じ論理を使って、容姿への言及が不快な人にとっては「容姿への言及があること」が不快で、「容姿への言及がないこと」が快なのだから、
容姿への言及をしたい人は、「容姿への言及がないこと」を受け入れるべきだと論理的には言えるのだが、
実際にその論理が受容され、浸透することはないだろう。
なぜなら容姿への言及は明白な悪でなく、人のコミュニケーションの自由(≒言論の自由)が保証されることは明白な善だからだ。
ヘイトスピーチでさえ直ちには規制されなかったのだ、言論の自由の価値は理念的にも実際的にもどこまでも重い。
一応注意しておくと、「容姿への言及の自由を受け入れろ」ってことで、「自分に向けられたそれを受け入れろ」って話ではない。
つまり、あなたが容姿に言及されて不快であれば、それに苦言を呈すのは自由だが、
相手が社会的な悪事をなしたわけではなくて、相手があなたにとって不快な発言をしたに過ぎないということ。
そしてそれを喜ぶ人もいることを認めるべきだということ。
自分にそういう発言が向けられるのを予防したかったら、そういう禁止令を確立しようとするのでなくて、
つまり、そういうことを言う人間と同じコミュニティに属さないというのが一番簡単だろう。
あとはそういうのが嫌な人間だということを常々アピールしておくとか。
(注:会社で上司から言い寄られるとか、バイト先の客がしつこく絡んでくるとかは対処しにくいが、
これらは粘着的な気質、ストーカー気質の問題で、容姿への言及がなくなったところで解決しない。)
こう言うと、「何故被害者側が労を取らなくてはならないのか」とか
そういう人は世界が自分のためにできているわけではないことを受け入れなくてはならない。
元記事のような主張を、何故か個々人の精神を尊重するヒューマニズム的な考えと捉える人もいるようだが、
とかなんとか色々書いた挙句、私の根底にある考えがうまく表せていない気がするのでここに文脈を無視して書くが、
私は他人と関わるときにしばしば生じる想像を超えた事態――例えば、人と話すうちに一度も考えたことのない内容が口から流れ出たり、他人の思いがけない側面が表れたりするーー
に遭遇するとき、強く人間の魅力というものを感じる。異質な人間を許容することはときに誰も悪くないのに悲劇をもたらすことはあるけれども、