ブクマの上位に挙がっていた「かわいい人にかわいいと言うのは、僕としては結構ありえない 」って記事だが、
これに同意できない。(記事のURL:https://note.com/yasuharakenta/n/ne19f1e86e899)
痴漢とか、通り魔とか、「おかしてー(犯したいの意)」とか言うのが駄目ってのは同意、当たり前だが。
元記事はかなりまとまりがなくて、主張が曖昧なので批判しにくいが、
・付き合いたいのなら容姿のことに言及するのは方法として上手くない
とか多分そんな感じのことを主張していると思う。
(注:元記事はモテ戦略をメインで扱っているが、容姿への言及自体の悪性も割と強く主張している。)
で、考えるまでもなく、これらの主張の正当性は状況や人に依存する。
見ず知らずの人に急に「かわいい」とか言われても怖いだけなのは当然。
でも、インカレサークルの新歓で気になる異性にアプローチすることは自然なことだ。
普通手っ取り早く好みの異性を見つけるための場所だろう(知らんけど)。
また人の恋人観なんてのはかなり多様で、精神的に分かりあうのを大切にする人もいれば、
とにかく好みの容姿を持つセックスの相手を見つけたい人もいる。
後者の場合だったら、欲望むき出しのアプローチがむしろ上手くいって、
丁重に接するのは面倒がられるだけかもしれない。
例えば元記事の場面でもこういう風に盛り上がる場合もある訳だ。
先輩「かわいいねー」
後輩「えー、そんなことないですよ」
先輩「いや、かわいいって!」
後輩「そうですかー笑?ありがとうございます!」
後輩「はめないでください笑」
飲み会の場でこういう軽薄なやり取りは、アイスブレイキングの機能もあるし、
なにより彼らはこれを楽しんでいる。楽しんでいる人にとっては、
勝手に慮った態度で冷や水を浴びせてくるやつの方がよっぽどキモい。
ここには「本当は君はこんなコミュニケーションを求めてないはずだ」っていう
決めつけがあるし、実のところそれは自分の願望を投影してるだけ。うっせぇわって話。
あと元記事には「かわいい」と言うのは「やりたい」と言うのと同じなんて書いてあるが、
これは目を疑うレベルの妄言。美しいものに感動したことはないのだろうか?
また馬鹿らしいだけでなく、容姿に言及する人を性欲に支配された粗野な人であるかのように
TikTokの性的なコメントだっていつも不快なわけではなく、喜ぶ人だって沢山いるだろう。
それを容姿への肯定と理解して喜ぶ人もいれば、内容はどうであれバズることに快感を感じる人もいるし、
twitterに裏アカ女子なんてのが沢山いることからしてもこんなことは明らかだろう。
ただ勿論、容姿への言及に傷つく人もいて、だから問題は傷つく人がいるからやめるべきなのかということ。
世間には快より不快の除去を優先するのが当たり前と考える人が結構いるが、そんなルールはない。
そして容姿への言及によって生じる快不快はどちらもときに重大で、人生を変えてしまうほどの影響をもつこともある。
これは相対的な立場をとって、どっちつかずでごまかそうというのではなくて、私たちは容易にそういう人たちを想像できるし、
場合によっては知ってさえいる。
キモくて性的なコメントであれ、容姿を褒められ、それをきっかけにファッションや美容に興味が出て、
自己変革に成功した人だっているだろう。「良心的」な人間の「良心的」なコメントでのみ人は良く変われるなんてのは
人間のアンビバレントなあり方を無視している。キモいけど嬉しいことだってある。
で、ここまで来ると、この問題はよくある多様性の受容の議論と相似であることに気づく。
つまり、自分にとって不快だけれども、他人にとって快だから存在を受け入れようという話。
だから私は人には容姿への言及をする自由があり、それは悪いことではないことを受け入れるべきだと言いたい(一応言っておくと私は他人の容姿には基本言及しない)。
勿論、同じ論理を使って、容姿への言及が不快な人にとっては「容姿への言及があること」が不快で、「容姿への言及がないこと」が快なのだから、
容姿への言及をしたい人は、「容姿への言及がないこと」を受け入れるべきだと論理的には言えるのだが、
実際にその論理が受容され、浸透することはないだろう。
なぜなら容姿への言及は明白な悪でなく、人のコミュニケーションの自由(≒言論の自由)が保証されることは明白な善だからだ。
ヘイトスピーチでさえ直ちには規制されなかったのだ、言論の自由の価値は理念的にも実際的にもどこまでも重い。
一応注意しておくと、「容姿への言及の自由を受け入れろ」ってことで、「自分に向けられたそれを受け入れろ」って話ではない。
つまり、あなたが容姿に言及されて不快であれば、それに苦言を呈すのは自由だが、
相手が社会的な悪事をなしたわけではなくて、相手があなたにとって不快な発言をしたに過ぎないということ。
そしてそれを喜ぶ人もいることを認めるべきだということ。
自分にそういう発言が向けられるのを予防したかったら、そういう禁止令を確立しようとするのでなくて、
つまり、そういうことを言う人間と同じコミュニティに属さないというのが一番簡単だろう。
あとはそういうのが嫌な人間だということを常々アピールしておくとか。
(注:会社で上司から言い寄られるとか、バイト先の客がしつこく絡んでくるとかは対処しにくいが、
これらは粘着的な気質、ストーカー気質の問題で、容姿への言及がなくなったところで解決しない。)
こう言うと、「何故被害者側が労を取らなくてはならないのか」とか
そういう人は世界が自分のためにできているわけではないことを受け入れなくてはならない。
元記事のような主張を、何故か個々人の精神を尊重するヒューマニズム的な考えと捉える人もいるようだが、
とかなんとか色々書いた挙句、私の根底にある考えがうまく表せていない気がするのでここに文脈を無視して書くが、
私は他人と関わるときにしばしば生じる想像を超えた事態――例えば、人と話すうちに一度も考えたことのない内容が口から流れ出たり、他人の思いがけない側面が表れたりするーー
に遭遇するとき、強く人間の魅力というものを感じる。異質な人間を許容することはときに誰も悪くないのに悲劇をもたらすことはあるけれども、
別にお前は続ければいいんじゃない?影でキツいキモいって言われて嫌われるだけだけど。
あれは禁止令ではなく考えの表明なので、まぁどうでもいいといえばいいくらいの扱いでいいんじゃね 自分はあの言語化によって、ちょっとだけ頭の中の不快な感覚のブラックボックス...