はてなキーワード: ボブ・ディランとは
書いてることは概ね間違ってないけど、結論は間違ってる。
大衆がシンプルでキャッチーな音楽を求めるという見方は全く間違っていないし、実際にその理屈のもとで大成功を収めたベリー・ゴーディ・Jrという人物がいる。彼はもともとジャズが好きで、ジャズ中心のレコードショップを開いていたのだけれど、売れるのはより音楽的に簡素で演奏技術も高度でないドゥー・ワップやダンス向きのジャンプ・ブルースやロックンロールで、自分が売りたいものが全く売れなかったという苦い経験があり、そこから“リズムが豊かでわかりやすく楽しい音楽を作る会社”であるモータウン・レコードを創設し、ミラクルズ、スプリームス、ジャクソン・ファイヴといったミュージシャンを輩出していったという経歴がある。
音楽理論的に高度であるということが音楽的に優れている、という見方は極めて安直で、音楽理論的に高度な音楽は音楽理論的に高度な音楽なのであって、優れた音楽であることとは直結しない。
アメリカ、及び現代の音楽史を語る上で、アメリカの黒人奴隷(強制労働者)が生み出したブルースは欠かせないけれど、ブルース自体はごく僅かなコード進行からなる、元増田の言葉を借りて言うなら“音楽理論的に低レベルな”音楽だ。けれども、ブルースが持つ音楽的価値というのは極めて大きなもので、黒人がより高度な音楽教育を習得するようになった1950年代以降においてもシンプルなギター演奏だけで音楽を作り続けるレッドベリーやライトニン・ホプキンスといった黒人ブルース・シンガーの評価は続いていたし、更には彼らの直系の影響下にはウディ・ガスリー、ボブ・ディランといったビッグネームがいて、彼らについてはもはや言うまでもない。
それに、理論的高度さを追求する人間はシンプルな音楽を“低レベル”であると見做している、というのも違う。
例えば増田の言う現代音楽の分野で成果を残しているフランク・ザッパのキャリアはドゥー・ワップやリズム&ブルースといったシンプルな黒人音楽の内面化から始まっているし、生涯に渡ってこうした音楽に興味を持ち続けていた。ロックの文脈ではアヴァンギャルド、ノイズ、シューゲイザーの先駆者であるルー・リードもボビー・ルイス、アイズレー・ブラザーズ、ファッツ・ドミノ、フレディ・キングといった50年代の黒人ポップスの愛聴者だったし、日本でも山下達郎のジェームズ・ブラウンはじめ60年代のソウル・ミュージックの愛好ぶりはよく知られているところ。
というように、わざわざ結論を書き直すまでもないけど「音楽理論的に高度な音楽だけが優れた音楽であるというわけではない」ってこと。
>アーティストでも、若いころは電子音バリバリの歌を歌っていたのが、歳を取るにつれアコースティックな静かめの曲ばかり歌うようになったとか
これのわかりやすい例にロッド・ステュアートがいて、彼も年齢を重ねるに連れてビバップ以前、あるいはポップス寄りのジャズ・スタンダード(わかりやすい音楽)を積極的に採り上げてカヴァーしてます
自分はこれまで村上春樹のノーベル文学賞受賞はないものだろうと考えていた。
なぜなら村上春樹の源流にある英文学作家のほとんどはノーベル文学賞を獲ってないからだ。
J・D・サリンジャーもカート・ヴォネガットもジョン・アーヴィングもリチャード・ブローティガンもレイモンド・カーヴァーもレイモンド・チャンドラーも獲っていない賞を何故村上春樹が獲れるのか?という話だ。
上記に示したような20世紀後半世代の英文学作家はノーベル賞を獲りにくい傾向にある。
おそらくこれはニューレフト以降の人文世界では「脱欧米中心主義」の考えが支配的であり、
文学の世界でも例外ではなく、マイノリティやポストコロニアル(被植民地)的視点、非欧米的な価値観が評価されやすいからだろう。
例えば同じ20世紀文学の新潮流でも、リョサやマルケスのようなラテンアメリカ文学の作家は獲っているが同世代の英米のビート・ジェネレーション作家(ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、リチャード・ブローティガン等)やポストモダン作家(トマス・ピンチョン、ドン・デリーロ、フィリップ・ロス等)は誰一人受賞していない。
あまりに欧米的な村上は、日本人作家でありながら上記のような英文学の系譜として評価されており
それ故に世界中で読まれ、それ故にノーベル賞の受賞は難しいだろうと思っていた。
だが去年のボブ・ディランの受賞で大きく流れが変わった
ボブ・ディランの受賞理由は歌手としてではなくビート・ジェネレーションを代表した文学としての評価だ
まるでこれまで無視してきた英文学作家の特定の世代をあわてて補填するかのような受賞である。
僕はこのボブディランの受賞で数年以内に村上春樹が獲るのではと予想した。
もしボブ・ディランがジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、リチャード・ブローティガンといった受賞しなかったビートニク作家を補填するものだとしたら
サリンジャー、ヴォネガットといった受賞しなかった英文学の作家達を補填するのに一番ちょうどいい作家は村上春樹だからだ(もしくはジョン・アーヴィング?)
これは結構驚いた。イシグロが受賞するにしてもまずは村上春樹が先に受賞するだろうと思っていたからだ。
この受賞で同じ日本(日系)人の受賞で不利になるのではいう声は多い。
英文学の系譜であり、良く言えば世界的な人気作家だが、悪く言えばマスであり通俗的な作家である。
これらの共通点はこれまでの村上春樹が受賞しないと思われていた理由であった。
(個人的な推測だと村上の過剰な性描写がセクシズムを理由に外された?)
とはいえ無根拠に騒いでいたこれまでよりかは村上春樹が受賞に近くなったといえるだろう。
カズオ・イシグロが受賞する文学賞の選考過程に村上春樹の名前が上がらないはずがない。
このボブディランからカズオ・イシグロという流れは驚いた人も多いと思う。
ノーベル文学賞を含めた学術的な場での世界文学の評価が大きなパラダイムシフトを迎えてるのは間違いない。
そしてこの傾向は村上春樹の受賞に極めて有利な状況だろう。
というか長々と話したが簡単なことだ。
J・D・サリンジャーもカート・ヴォネガットもジョン・アーヴィングもリチャード・ブローティガンもレイモンド・カーヴァーもレイモンド・チャンドラーも獲っていない賞を村上春樹が獲ることはありえないが
ボブ・ディランとカズオ・イシグロが受賞した賞なら村上春樹が受賞する可能性は十分にありえるということだ。
追記
https://anond.hatelabo.jp/20171006224419
上記を受けての記事です。
日本のコミックがそこまで海外に読まれなかった頃はよしもとばななとか辻仁成がコンスタントに賞を取れてたのだが今はもう…。
春樹より近いとされた津島佑子は近年他界したし、石牟礼道子を出す人もいるがこの人は全ての賞を拒否している。(個人的には『苦海浄土』についてそこまでの作品だとは思わない。)
あとは現代詩で吉増剛造と谷川俊太郎が挙げられてるが、ボブ・ディランが獲った今スタイルを逆行するものを出されてもキツい。
演劇?歌舞伎役者と宝塚とジャニーズが未だに尊重される自体終わっておる。
ジャーナリズム?嘘しか書かない立花隆が未だに偉そうだしなあ。
ということでここ10年のノーベル文学賞受賞者の受賞理由をご紹介します。
ドリス・レッシング 「女性の経験を叙事詩的に描いた。懐疑と激情、予見力をもって、分裂する現代社会〔分断された文明〕を吟味し、題材にした」
ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ 「新しい旅立ち、詩的な冒険、官能的な喜びの作家であり、支配的な文明を超越した人間性の探」
ヘルタ・ミュラー 「韻文の濃密さと散文の率直さをもって疎外された人びとの風景を描き出している」
マリオ・バルガス・リョサ 「権力構造を明確に描き出し、個人の抵抗と反抗、挫折を鋭く描写した」
莫言 「幻覚を伴ったリアリズムによって、民話、歴史、現代を融合させた」
「わかったぞ!」
「わかりましたか」
「完全にわかった。
エロ漫画コレクター、江口快楽天氏(享年46歳)を殺害した犯人がな! 江口夫人の淹れてくれたお茶を飲んでピンとひらめいたよ。残念ながらキミの出る幕はなさそうだ、探偵くん」
「では、警部の名推理を拝聴しましょうか」
「見ろ。江口氏は『至近距離で真正面から』『刃物でめったざし』されている。
なのに、抵抗した痕跡がない。
被害者は刺される直前まで犯人に対して油断しきっていたんだ。つまり、顔見知りの犯行だな。
被害者が風呂上がりでタオル一枚の素っ裸だったことからも、それが伺える。
となれば、事件当夜に現場となった江口邸内にいて、かつ被害者と最も親しかった人物――結婚十年目を迎えた妻の薔薇族氏(41歳)、夫婦の一粒種である絵留王くん(18歳)、古くからの親友であるボブ・ディラン氏(75歳)の三人に絞られる。
被害者は毎日決まった時間帯に入浴していた。犯人は湯浴みをおえた被害者を彼の書斎で待ち受けて凶行に及んだとおぼしい。この時間帯とその直後にアリバイのない人間が犯人だ。
容疑者三名のうち絵留王くんは自室で夏休みの宿題――ゆうちょアイディア貯金箱コンクールに出品するための貯金箱づくり――に励んでいた。その姿は他ならぬ君によって目撃されている。
奥さんの薔薇族氏は近所の奥様方と夏コミ同人誌製作の追いこみをしていた。
アリバイがないのはゲスト・ルームで作曲をしていたディラン氏だけ。
彼こそ犯人だ!」
「警部。落ち着いて。
それに『正面からめったざし』なんですよ? 被害者氏は即死したわけじゃない。
いくら親しかろうが、殺意むきだしで襲い掛かってきている相手に対してまったく抵抗しないなんておおかしいでしょう」
「む、むう。言われてみれば……では、外部犯の可能性が否定できないということか。またふりだしからだな」
「いえ、警部の目のつけどころはいいと思います。
犯行の難しさ、内部犯であろうと外部犯であろうと一緒です。
ただ、なにか……欠けているピースが……」
「そうか! 警部、被害者の左手に握られたものを見てください」
「左手? おっ、この人間工学に基づいたハンドグリップとモノリスの叡智を思わせる漆黒のボディーは……
「そのとおり。
紙のように薄く感じられるよう、これまでの Kindle よりも20%以上軽く、平均で30%も薄くなり、人間工学に基づいた、左右で薄さのことなるデザインを採用、最も薄い箇所でわずか3.4mm。
それでいて、高剛性プレーティングを施したフレームと kindle 史上最強のカバーガラスを採用し、軽さを追求するとともに、いつでも気軽に持ち歩ける耐久性をも実現した Kindle 最新にして最強のニューモデルです」
「ぶっちゃけ、容量とCPUが旧モデルと変わんないから要らないと思っていたが、
こうして直に触ってみると超欲しくなるな。しかし、これがどうかしたのか?」
「警部、その Oasis にダウンロードされている書籍をチェックしてください」
「おう。……んん、立ち上がりが遅いな。
やはり性能が……うわっ」
「フフ。そこに表示されているのは、無修正のエロ漫画ですね? しかも一番破廉恥なシーン」
「!? なぜ、画面を見もしないでそれを!?」
「奥さん。この kindle は被害者本人が購入したものですか?」
「い、いえ。それは絵留王が主人の誕生日プレゼントにと昨晩渡したものです。あらかじめ容量いっぱいに購入していたエロ漫画といっしょに」
「でしょうね。つまり、絵留王、キミが快楽天氏殺害の犯人だ!」
「警部。死体をよく見てください。被害者は俯けに倒れているのに、タオルは尻の上にかぶさった格好になっている。おかしいとは思いませんか? 普通、タオルを腰に巻いたまま倒れたなら、タオルはちんこと床のあいだに挟まれるはずです。
もうひとつあります。遺体発見当時、風呂場から現場となった書斎へ続くカーペットに足跡や染みは見あたりませんでした」
「な、なに? なぜ教えてくれなかった」
「訊かれませんでしたから。
そして、これが一番重要ですが――なぜ風呂上がりの被害者の手に kindle が握られていたか、ということです」
「風呂場で使ってたんじゃないか? kindle は防水機能もピカイチだからな。Waterfiの加工が施され、完璧な防水加工となっている。真水でも海水でも、ともかく200フィート以上の深さに時間無制限で耐えることができる。たとえばスキューバダイビングにでかけて、海の底に腰を落ち着けながら『海底二万里』を読むことができるわけだ。これはちょっとした「経験」になり得るかもしれない。」
「その割に kindle 本体に水滴はついていません日本人は臆病だから、風呂場で読むなら絶対ジップロックに入れますよ。しかしそのジップロックの形跡も見当たらない。
わかりますか、警部? あらゆる証拠が『被害者は風呂に入っていなかった』ことを示唆しているのですよ。
では、風呂に入ってなかったとすれば何をやっていたのか。なぜ kindle oasis がここにあるのか。
裸族でも風呂上がりでもない大の男が裸体を晒す理由――となると、ひとつしかありませんね」
「!! オナニーか!」
「新しいテクノロジーを手に入れたら、まずエロいことで試したくなる。おっさんに普遍の心理です。
「わかるなあ。だがね、探偵君、風呂がオナニーになっただけで何が違うのかね」
警部は、風呂に入るなら自慰行為をやる前がいいですか? やったあとがいいですか?」
「そりゃあ、した後だろ」
「そう。被害者は風呂に入る前にkinオナを行っていた可能性が高い。
犯行の推定時刻が『定時の入浴直後』から『定時の入浴前』にずれるわけです。この差は大きい」
「そうか、入浴中〜入浴後にあった絵留王氏と薔薇族氏のアリバイが崩れるわけだな」
「そして、もう一つの大きなメリット。それこそ今回の大きな謎を説明するものです。
『真正面から抵抗を受けずに何度も刺す』ことを可能にしたのです!!!」
「おお〜〜〜〜!!!
って、い、いや、待ってくれ探偵くん。
いくら自慰中だったからといって、刺されてるのに気づかないのはいくらなんでもおかしいぞ」
「……警部。あなた、さっき Oasis を立ち上げたときになんて仰ってました?」
「えっ? たしか、『立ち上がるのが遅い』と……ああああああ!!!!」
つまり、書庫がほぼ満杯ならマンガのページ送り速度はイライラするほど遅くなるのです!
これはkinオナにあたっては致命的な欠陥となる!
「そのときに発揮される強力な集中力! そして分泌されるアドレナリンが被害者に『刃物で刺されている』痛みを認識させなかったんだ!」
ところで、ディラン氏、江口快楽天氏はオナニーするときは全裸になる派でしたか?」
「いや。いつもズボンとパンツだけを脱いでいた。『全裸オナニーなど文明化されてないサルのやることだ』とね」
そう、犯人が衣服を持ち去ったからです。どうしても『kinオナの最中に殺害した』と思われたくなかった。
それはアリバイ工作のためでもあり――そして、Oasis が自らと結びつくことを過剰に恐れたからだ。
絵留「……証拠は……あるのかよ?」
探偵「あなたが部屋で作っていた貯金箱……私も直に見て驚きましたよ。
――血の付着した衣服があしらわれているんですからね!」
“!?"
探偵「工作に使ったハサミを鑑識に回せばそれが凶器として使われたどうかはわかります。刺すだけではなく、遺体から服を切り離すのにもつかわれたのでしょう」
絵留「……クソッ……俺の負けだよ……」
警部「しかし……なぜだ。絵留王くんはエロ漫画読書界のホープとして、父子鷹でがんばってきたんじゃなかったのか?」
探偵「まさしく快楽天氏の英才教育こそが今回の動機なのでしょう。ですよね? 絵留王さん――いや、絵留王ちゃん?」
絵留「!? ……フッ、名前とヤドクガエル先生の描いたような外見のせいでたいがい勘違いされるんだがな。すると俺の『本当の年齢』も知っているわけか」
探偵「ええ。あなたは18歳じゃない。戸籍上はまだ小学生のはずです」
探偵「いかにも。貯金箱コンクールの応募資格は『小学生のみ』です。いい大人が夏休みの宿題に作るようなもんじゃありません」
警部「だが、なぜ江口一家は絵留王ちゃんがあたかも18歳であるかのようにふるまっていたんだ?」
探偵「さっきご自分で仰ってたじゃないですか。『エロ漫画読書界のホープ』だったって。エロ漫画を読めるのは何歳からですか?」
警部「!? まさか――」
絵留「……そうだよ。あのクソ親父は、この12年ずっと俺を『18歳の成人男子』として扱ってきた。まだハイハイもおぼつかねえころから、朝から晩までエロ漫画、エロゲ、エロ同人漬け……。
冗談じゃねえ……俺には俺の人生がある。健全な小学生の女児としての、な。あいつは結局こどもを愛してなんかいなかった……」
探偵「……それは違います。絵留王ちゃん。なぜ快楽天氏はクソ性能の Oasis でオナニーをしていたと思いますか? 彼ほどのエロ漫画マニアなら、さっさと合理性を優先して、紙の書籍に切り替えてたはずです。しかし死ぬまで Oasis を手放さなかった――」
絵留「……え…まさか……プレゼントだったからだっていうのかよ? 俺からの誕生日プレゼントだったから、どんなクソ性能でも使ってたんだって……
そんな……オレは…‥じゃあなんで……うわあああ〜〜(泣き崩れる」
「今回もイヤな事件だったな……」
「kindle は使うものによって悪にも善にもなります。エロ漫画もまたそうなのでしょう」
「そうだな……わかっている……わかっているが……くそっ! やりきれない……」
「ぼくも同じ気持です……もし彼らが kindle Oasis ではなくアレさえ持っていればと思うと」
「アレとは?」
「フフフ、これですよ(バッ」
「あ、黒いシルエットを燦然と穿つ青白い光!!!それは、君、『kindle paperwhite のマンガモデル』じゃないか!」
「いかにも! 通常の Paperwhite の8倍、32GBのストレージを実現し、マンガなら約700冊を保存可能!
快速ページターン機能を使えばマンガのページおくりのスピードが33%アップします!
さらにはピンチ&ズーム機能で細部まで書き込まれた作品でも簡単に拡大が可能!
まさにマンガ大国ニッポンのために生まれた読書デバイスです!」
「なんてこった、これさえあれば今回の被害者も刺されたときにすぐに気づいて、ちゃんと娘と話し合いの場が持てたはず…‥」
「起こってしまったことは変えようがありません。しかし、新たな悲劇を防ぐことは……あれ? 警部、どうしたんですか? ニヤニヤして」
「フフ、こんなこともあろうかと私も既に購入していたのだよ。マンガモデルをな! ほらここに」
警部!
それ、ダイナマイトですよ!」
「ば、爆発する〜〜〜!!!」
ドカーーーーン!!
「う、うーん……あれ? 生きてる。警部も……」
「どうやら助かったようだな……」
「!? 警部! あの断崖の上ッ!」
「あ、あの人影はッ!」
(慈愛に満ちた微笑みを浮かべて立ち去っていくボブ・ディラン)
「……助けてくれたのか」
「おそらく、ノーベル賞委員会の刺客が警部の気づかないうちにマンガモデルとダイナマイトをすり替えていたんでしょう。あの場に居合わせていたディラン氏を爆殺するために……」
「あの屋敷に刺客が?」
「警部が冒頭で飲んでいたお茶、あれを手渡すときにすりかえが行われたのでしょう。お茶にアンフェタミンを混ぜることで警部の注意を散漫にさせ、違和感に気づかせなかった。
興奮作用で普段はにぶい警部が突然推理をひらめいてしまったのです。
それをきっかけに事件がスピード解決したせいで、かなり遅れてダイナマイトが爆発した」
「まさか薔薇族夫人がノーベル賞委員会の手先だったなんて…‥なんてやつらだ。ん? 待てよ?
おい、今は2017年8月だぞ。ノーベル賞授賞式はもう去年の暮に終わったじゃないか。
結局、ディラン氏は会場に来なかった。
「警部。ボブ・ディランは信義の男です。
彼は一度結んだ約束を絶対に違えない。
授賞式に行くといったならば、かならず来ます」
「しかし現に――」
「現にディラン氏は去年の10月に『授賞式に来るか?』と訊ねられて、なんと答えていましたか?
『行くとも。可能ならね』ですよ。
――ことばどおりなら、彼には『行くことが不可能になる』可能性があったことになります」
「それが委員会による妨害工作だと? ノーベル賞委員会はディラン氏を授賞式に出したかったんじゃないのか?
そのために受賞スピーチは代わりに歌でやっていいだとか、さんざん譲歩してきたんじゃなかったのか。
そもそもディラン氏を殺して彼らに何の得があるんだ?」
「ノーベル賞委員会はひとまとめにされがちですが、実態は各カテゴリーごとに分かれていて一枚岩じゃない。
特に文学賞はスウェーデン・アカデミーが担当しており、科学関連を司る本家スウェーデン王立科学アカデミーからは独立しています」
「違うとはいっても、同じスウェーデンのアカデミーなんだろ? そんな喧嘩する理由が……」
「あるんです。王立科学アカデミーを設立したのはフレデリク一世。スウェーデン・アカデミーはグスタフ三世です。対立の歴史詳しく説明すると長くなるので省きますけれど、簡単にいえば、二つのアカデミーのもつ「本家」意識のぶつかりあいですね。
『元祖』である科学アカデミーにあの時の騒動に苦々しい思いを抱いていた。ポップ歌手風情に受賞させた上に、ノーベル賞全体の権威をコケにされたわけですからね。
だから、彼らはこう考えた。
『授賞式にこさせなければ、受賞はできない』。
殺してしまっては『死後受賞』になるので授賞式まで生かさず殺さずにしようとしたんです。
もっとも、ディラン氏は3万9211人のノーベル・ニンジャ部隊を相手に傷一つ負わなかったようですが――
ともあれ、目的は達成された。彼は2016年の授賞式に現れませんでした」
「だったらこれ以上ディラン氏に関わり合いになる必要はないじゃないか。何も殺すなんて……」
文学賞を二度獲った例はありませんが……ライナス・ポーリングの例を考えてみてください。
彼は54年に科学賞、62年に平和賞という異なるカテゴリーで受賞をはたしています。
愛と平和を歌ったボブ・ディランなら――いつか『平和賞受賞』もありうる」
「そうか。平和賞だけはスウェーデンじゃなくてノルウェーのノーベル委員会の管轄だから……」
ふだんからちゃらんぽらんな選考をしている平和賞委員会ですから、なおさらね」
「だから二度目の受賞――平和賞に選ばれる前にディランを殺そうとした」
「そう、本年度受賞者が発表される10月までに、ね。去年四万人近い手駒を失ってしまった王立科学アカデミーには、今年のディラン氏の来瑞を止める手立てはありません。
ディラン氏は今度こそ授賞式に現れることでしょう。それが『可能』なんですからね」
「今回の事件も実はディラン氏が発端だったんです。
江口夫婦のうち薔薇族夫人は科学アカデミー側の人間でした。かたや夫の快楽天氏は文学アカデミー側。二人は敵対する組織に属しながらも愛によって結ばれた、いわばノーベルロミオとノーベルジュリエット。
ところが、夫がディラン氏を科学アカデミーの刺客から匿うことに決めたとき、調和は亀裂が走った。
彼女が何より許せなかったのは『自分への愛』より『ディラン氏への愛』を選んだことだったのかもしれません。その憎しみが彼女の心を悪魔に変えた。
考えてみてください。
いくら教育法に難点があったからといって、小学生が父親を殺そうとしますか?
そう、絵留王ちゃんは悪魔から禁断の果実を知らないうちに与えられてしまっていたがために、あんな凶行に及んだのです。
「娘を薬物で操ったのか……」
「夫人の親玉は世界に冠たるスウェーデン王立科学アカデミー……薬物の調達くらい、朝飯前でしょう」
「彼女は実の母親ではありません。快楽天氏と薔薇族夫人が結婚したのは十年前。絵留王ちゃんは十二歳です。
……警部、絵留王ちゃんの面立ちは誰かに似ているとおもいませんでしたか? 快楽天氏でも、夫人でもなく――」
「――ボブ・ディランに!」
「快楽天氏は十二年前は『彼』ではなく『彼女』でした。絵留王ちゃんはボブ・ディラン氏と(当時女性だった)快楽天氏とのあいだの子供だったのです!」
「そんな……娘も夫人にとっては憎しみの対象だったのか」
「あの一家もまたノーベル賞騒動の被害者なのかもしれません……」
「いや、最も憎むべきは……
アンフェタミンだ!
こんな薬物さえなければ……」
「安易な薬物乱用の恐ろしさを学びましたね…‥。
薬物乱用は、単に乱用者自身の精神や身体上の問題にとどまらず、家庭内暴力などによる家庭の崩壊、さらには、殺人放火等悲惨な事件の原因にもなり、社会全体への問題と発展するといいます」
「そうだ……薬物は、使用しているうちにやめられなくなるという"依存性"と、乱用による"幻覚"、"妄想"に伴う自傷、他害の危険性がある。
一度だけのつもりがいつの間にか中毒となり、一度しかない人生が取り返しのつかないものとなるのだ……」
「このような薬物乱用の恐ろしさを十分に知っていただき、薬物乱用問題を考える際に以下のサイトを参考にしていただきたいと思います。
「完」
「どういうことですか? いきなりスウェーデンまで呼び出して……」
「ミスター・山中、お忙しいところをすまない。が、なにせコトがコトでな。ボブ・ディランの件はご存知だろう?」
「ええ、そりゃあまあ……」
「クソ文学アカデミーめ。だから文学に賞を与えるのは反対なんだ。
たかだかポップ歌手ごときに国王陛下と委員会の威厳を汚させるわけにはいかん。
そこで……ここにディラン氏の毛髪があるわけだが」
「いや……その……
なんていうか……
よく誤解されますけど、ips細胞ってそういうんじゃないんで……」
「どうした? 万能細胞ならクローンくらい楽勝だろ? 出し惜しみするなよ」
「できないこともないっちゃないんですけど……向いてないっていうか……」
「逆らうつもりはないんですけど、ただ……」
「問答無用! しょせん、アジアのサルか。信用した私がバカだったわ!
存命の受賞者が一人いなくなるのはさびしいが――是非もなし!(ジャキッ)」
「うわあ! う、撃つなァ!」
ドキューーーンン!!
「う……撃たれて……ないのか?
でもさっきの銃声は……?
う、うわああ!
委員会の人が死んでる!」
「フッ……間一髪だったな。怪我はないかい? ジャパニーズ・ボーイ」
「あ、あなたは――
ボブ・ディラン!!
助けてくれたんですね!?
でも、どうして?
「声なき人々の叫びを聞き届ける……それがオレの生き様なのさ」
「カッコイイ……やっぱりボブ・ディランはヒーローだったんだ。
ボブ・ディラン!」
――どれほどの道を歩かねばならぬのか
男と呼ばれるために
どれほど鳩は飛び続けねばならぬのか
砂の上で安らげるために
どれほどの弾がうたれねばならぬのか
殺戮をやめさせるために
その答えは 風に吹かれて
(『風に吹かれて』の歌詞と夕陽をバッグに荒野を去っていくボブ・ディランの背中。それを見つめる山中伸弥教授の目には熱いものが溢れている。そう、彼の無垢な涙こそ、ディランにとってのメダル――ノーベル賞などよりももっと価値のある勲章なのだ)
毎年、この時期になると村上春樹がノーベル賞を取るんじゃないか、と話題になる。
で、なぜかハルキストや母校の関係者は本気で受賞を信じて、そのたびにガッカリするわけだが、彼らはノーベル賞の特性をまったくわかっていないと言っていいだろう。
なぜなら、ノーベル財団が村上春樹に受賞させる理由が、まったくないからだ。
理系の部門と違い、平和賞と文学賞は受賞理由に政治性を重視しているからだ。
平和賞や文学賞は、功労者や優れた結果を残した人に与えられるわけではなく、ノーベル財団から世界へのメッセージ、意思表明に近い。
今回のボブ・ディランに関しては、ドナルド・トランプに代表されるような排他的なナショナリズムに傾きがちな人々に対して、「あの頃の公民権運動や戦争反対に燃えた、反骨の気風はどこに行ったんだ?」というメッセージに近い。ボブ・ディランが良い歌を作ったから受賞、ではないのだ。与えるべき受賞理由、メッセージがあるとノーベル財団が判断したから与えられたのだ。これがジョン・レノンが生きていたら、100パーセント彼に与えられただろう。
莫言やアリス・マンローに与えられたのはアジア文学、女性文学に目を向けましょう、というメッセージだし、それを通した一部の国や差別の現状への牽制である。
これに対して、村上春樹はどうか?彼が受賞したとしても、なんのメッセージにもならないのである。
村上春樹の特徴はその無国籍性や非政治性であり、それが理由で世界的にも売れているのだが、それゆえ、ノーベル財団が彼に受賞させる理由がないのだ。
村上春樹がノーベル賞を受賞しても、世界に対してなんのメッセージにも、牽制にもならない。
それを意識してか、最近の村上春樹は政治的なメッセージを受賞コメントなどで言ったりしているが、どれも抽象的なお題目で、彼が言う必然性がない。彼の国籍や生い立ちに裏付けされた「凄み」がないので、受賞にはほど遠い。
ノーベル賞はアイデンティティと政治性、そして文学性が合わさり、さらにノーベル財団が伝えたいメッセージと合致した人物に与えられる。村上春樹はどれも欠けている。ノーベル賞とは一番遠い人物だと言っていい。おそらく、次に取るのはサルマン・ラシュディだ。
村上春樹はノーベル賞を取ることは絶対にない。彼はただ「すごく人気がある」というだけで、受賞させるほどの理由がない。音楽でいえば「GLAY」や「ラルク」みたいなもので、彼らがいくら人気でも、政治的に権威ある賞を取らないのは当然だろう。
あのなあ。
ノーベル賞ってのは、勝った負けたじゃねーんだよ。その発想、いかにも頭悪いからリアルで他人に言うなよ? だいたい勝ち負けってなら先に取ってたやつは勝ちか?負けか? 取られたらその時点で負け? チャンピオンベルトかよ。そうじゃねーだろ。「その人の作品自体偉大であるとともに、そのジャンルで他に類のないぐらい偉大な影響を与えたことに感謝と畏敬の念を込めて表彰します!」ってことだろ。変なたとえだけど「命を救ったのですごいです表彰状」みたいなもんだろ。たとえば町の中学生が「命を救いました表彰状」をもらったとしたらその町の警察官と消防署の皆さんは全員「負け」なのか? 違うだろ?
ボブ・ディランはフォークシンガーで、でもその歌詞は実質「詩」と言っていいボリュームや質の高さをもっていて、その作品群は、時代性から同時代や後世の多くの文学に(村上春樹も含めて)多大な影響を与えたことは間違いないだろ。むしろ今まで表彰されてこなかったのが不当なだけで。「ハルキにやるならそもそもボブディランにやらなきゃならねえ」って話になるのは、なんだか理解できる気もするねえ。
というわけで、そういうものが評価されるようになったんだ。「第2の文学」って言いぐさは少し気に入らないが、いい時代になったと素直に喜んでる文学者が大半じゃないかと思うよ。
「映像の世紀プレミアム」は、1995年度に放送された「映像の世紀」と2015年度に放送された「新・映像の世紀」を合体させ、さらにこれまでの放送にはなかった新たな映像を追加。
各回90分という長い時間をかけてたっぷりとお見せする豪華版です。
新旧2つのシリーズでは映像が誕生してから100年余りの歴史を編年体で描きましたが、今回の番組では芸術・女性・兵器などのテーマ毎に年間4本を放送します。
なんとかこの日までは生きてみようと思ったんだ。
ライブ映像が好きで、好きなミュージシャンのライブ映像をよく漁っているんだけど、彼らが若いころの(若いってほどでもないかもしれないけど)映像を見ていると、表情や全身から大量の熱を振りまいていて、そのエネルギーを見ていると泣けてくる。あるいは、今となっては見せない一生懸命感とかね。
そんなわけで、おれが涙した映像を紹介させてほしい。
それぞれのファンにとっては既知のものばかりだろうが、その辺はご容赦願いたい。
https://www.youtube.com/watch?v=3od114a4o7Y
1982 のライブ映像らしい。彼は 1949 生まれらしいので、33 かそこら。年をとっても自信たっぷりで確信にみちた表情は変わらなかった彼だが、晩年はやはり体も縮んで声が出てないところも多かった。このライブ映像では声はもちろん、表情からも体からも、あらゆるところから熱を発しており、その輝きはおれの涙腺を強烈にキックするわけです。残念なことに彼は 2011 に他界。
彼を知らない人はまずは 49:40- の Alien を聴いてみてほしい。ついでに言うとこの映像に含まれない名曲もたくさんあるので興味あれば掘り下げていただければ。
https://www.youtube.com/watch?v=9ZNVhiOY_ug
ギターを手にする人にとってはスライドギターの人として、映画好きの人にとってはヴィム・ヴェンダースの劇版の作家として、もっとも一般的にはブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの仕掛け人として知られる Ry Cooder。この映像は日本の BS で流れたモノらしく 1987(日本語字幕では88と表記されてるけど。。) のライブ映像とのことで、このとき彼は 40 かそこら。
ゴスペル/テックメックス/カリビアン といった要素のミックスなんだけど、それぞれのプレイヤーがズブズブに土着音楽をやってる感が強い。それを一つにしているのは Ry Cooder の才能という他なく。。それぞれのプレイヤーがそれぞれのバックボーンから全力で音を発しているにもかかわらず、たった一点に収束するその集中力と音楽への愛情はおれの胸を深く打つのです。
https://www.youtube.com/watch?v=EkM3Wiy7j5Q
ジャズを聴かない人にとっては「誰?」って感じかもしれませんが、長年にわたって最重要プレイヤーの一人。ジャズ界隈で活動してるんだけど、彼もまたアメリカンルーツミュージックの求道者。(ただ、多作で時期によってやってることが全然違うため一言で説明しずらい人でもある。)
この映像は彼が 42 ぐらいの時のものでボブ・ディランのカバー。カバーを良くやる人で、いずれもオリジナルのもっとも重要なエレメントをきっちり握っている。
また、彼は客演で非常に良い仕事をする人。驚くほどあちこちに顔を出しており、どこに行っても自分の世界全開にもかかわらず、それがその曲の重要な要素を際立たせるという触媒のような人です。
映像の演奏は奇をてらわないアレンジで、美しいコードの上で朴訥としたメロがフォーキーさを増しており、それはやさしくおれの心に触れるのです。
結構大変そうなアレンジを楽器にかじりつくように弾いていて、弾き終わった後に見せる表情は今となってはあまり見られないものではないかと。
https://www.youtube.com/watch?v=lYbrrbbnXnA
現在では WAR と LOW RIDER BAND の 2つに分裂してしまった WAR の 76 年(だそうだ) gypsy man のライブ映像。キンキンに集中したライブ演奏は 70年代の WAR の特筆すべき点の一つだと思う。なかでもこの映像の BB ディッカーソン のガッツあふれるベースは何度聴いてもおれの胸の奥に熱いものをあふれさせてくれるのです。
個人的には、ディッカーソンはソウル/ファンクにおいて最重要ベーシストの一人だと思うんだけど、あまり注目されない(おれが知らないだけで、ベーマガなんかで特集されてるのかもしれないけど)のでぜひ。
WAR は主要メンバーの何人かはすでに他界しているが、ディッカーソンは LOW RIDER BAND で健在なもよう。
https://www.youtube.com/watch?v=wln_zQsynNY
spilit が凄いのでこちらもぜひ。ダルな前半からサックスソロをきっかけとして風景が変わっていくこの流れは WAR にしかできないと確信できる。
https://www.youtube.com/watch?v=zSnbV1FrIhA
最近ではベースはTMスティーブンスに弾かせて、自分は歌ったり叫んだり、ライブハウスの壁を登ったりしている Bootsy ですが、ただただ全力で音楽をやっていたころがあったようで。
I'd Rather be with you は今でもライブのハイライトなわけですが、若いころは熱の入り方が全然違う。映像は 1976 年とのことで、51年生まれの彼は 25歳?ですね。。そら熱も入るわ。wiki 見ると、75 年ぐらいまで P-funk 界隈とかかわっていたようで、映像は初リーダーアルバムが出た年。
funk 独特の時間をかけてじわじわ熱を込めていく前半のあの感じから、キックとコーラスがモゴモゴと盛り上げていく中盤、そしてついに歪んだベースソロに入って行く流れ、もう涙腺崩壊するしかないという。
(承前)
http://anond.hatelabo.jp/20150214223556
――スティーヴ・レイシーは独立独歩のソプラノ・サックス奏者です。サックスといえばアルトかテナーだった50年代からソプラノを吹いていました。
Evidence (1961) http://youtu.be/X9SBzQw2IJY?t=5m42s
( ・3・) 面白いテーマの曲だな。真面目な顔で冗談を言っているような。
――セロニアス・モンクが書いた曲です。レイシーはモンクの曲をたくさん演奏しています。一方、ハリウッドやブロードウェイの曲はとりあげない。レパートリーに関しては人文系の古本屋の主人みたいなところがあります。
( ・3・) みすず書房とか白水社とか、そういう本ばかり並んでいるわけだ。
――白水社といえば、レイシーはサミュエル・ベケットと面識があって、ベケットのテクストに基づいた作品も発表しています。
( ・3・) 「真夜中だ。雨が窓に打ちつけている」
――「真夜中ではなかった。雨は降っていなかった」――と、ベケットごっこはともかく、演奏はどうでしょう?
( ・3・) まっすぐな音だな。あまりヴィブラートをかけない。アタックの瞬間から音程の中心を目指している。必ずしも正確な音程というわけではないけれど。ソロのとり方としては、テーマとの関連性を保って、構成を考えながら吹いているように聴こえる。言うべきことだけを言って余計なことはしゃべらない。
――そういう点では、プレイヤーの資質としてはマイルス・デイヴィスに近いのかもしれません。マイルスとも少しだけ共演したことがあるのですが、もし正式にバンドに加わっていたら歴史が変わったかも。 [6]
Reincarnation of a Lovebird (1987) http://youtu.be/FbaKNB4cIlc
――こちらは後年の録音。ギル・エヴァンスという編曲の仕事で有名な人がエレピを弾いています。この人も指だけ達者に動くのとは対極にいるタイプで、柔らかい音色で中和されていますが、ずいぶん込み入った和声です。
( ・3・) そこらじゅうで半音がぶつかってるな。
――でも美しい。
――昔、レコードを扱う仕事をしていたので確信をもって言えるのですが、日本でいちばん人気のあるジャズ・ミュージシャンはビル・エヴァンスです。マイルス・デイヴィスよりもリスナーの裾野は広いかもしれません。
( ・3・) 俺でも『ワルツ・フォー・デビー』を持ってるくらいだからな。でもどうして「とりあえずエヴァンスを聴け」みたいな風潮になってるんだ?
――まず、彼がピアニストだということ。もしベース奏者だったらここまでの人気は得られません。それから、ロマン派や印象派に慣れた耳で聴いても違和感がないこと。ジャズに関心がなくてもエヴァンスは聴く、というケースは大いにありうるでしょう。最後に、みもふたもない言い方ですが、彼が白人で、細身で、眼鏡をかけていたこと。
( ・3・) 知的で繊細に見えるのな。
――知的で繊細なジャンキーでした。もっとも、最後の要素はなかったことにされがちなのですが……。
――はい。エヴァンスやチェット・ベイカーに深く共感してしまう人は、モルヒネの代用として聴いているのではないかと思います。「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」という有名な曲をとりあげたいのですが、エヴァンスの前に、まず歌の入ったものから。フランク・シナトラのヴァージョンです。
My Funny Valentine (Sinatra, 1953) http://youtu.be/z9lXbgD01e4
( ・3・) 金の力に満ちた声だな。His voice is full of money.
――マフィアを怒らせるようなことを言わないでください。折り目の正しい編曲で、ポップスとしては非の打ちどころがありません。ボブ・ディランの新譜はシナトラのカヴァー集らしいのですが、ディランが子供のころにラジオで流れていたのはこういう音楽です。当時のアメリカ人にとっては、ほとんど無意識に刷り込まれた声と言っていいでしょう。
My Funny Valentine (Baker, 1954) http://youtu.be/jvXywhJpOKs
( ・3・) 出た、いけすかないイケメン。
――チェット・ベイカー。午前三時の音楽です。もう夜が明けることはないんじゃないかという気がしてくる。どんな曲か覚えたところで、エヴァンスを聴いてみましょう。
My Funny Valentine (Evans and Hall, 1962) http://youtu.be/ReOms_FY7EU
( ・3・) 速い。
――速い。そしてちょっと信じられないクオリティの演奏です。ジャズではいつでも誰でもこれくらいできて当然かというと、そんなことはないので安心してください。
――別のテイクではちがうことをしているので、ほとんど即興だと思います。決まっているのはコード進行だけ。
( ・3・) コードの構成音をぱらぱら弾いてもこうはならんわな。自分の頭の中にあるモチーフを発展させるのと、相手の音を聴いて反応するのと――そういう意味ではチェスに似ている。
――この演奏は一対一ですからね。集中力は同じくらい必要かもしれません。しかも持ち時間はゼロという。互いに相手の出方を読んでいるうちに一種のテレパシーが起こって、3分50秒あたりにはふたりの脳がつながっているような瞬間があります。
( ・3・) このギターを弾いてるのは?
――ああ、忘れていました。ジム・ホール。偉大なギタリストです。悪魔に魂を売って人並み外れた演奏技術を手に入れるというブルースの伝説がありますが、ジム・ホールの場合は魂ではなく頭髪を犠牲にしました。
( ・3・) また好き勝手な話をつくって……。
――いえ、本人がそう語っています。ジミー・ジューフリーのバンドにいたころ、どう演奏すればいいのか悩んで髪が薄くなったと。 [7] でも、髪なんていくらでもくれてやればいいんですよ。肉体は滅びますが芸術は永遠です。
( ・3・) ジミー・ジューフリーって、あのドラムのいない現代音楽みたいなジャズをやってた人か。そりゃ大変だったろうな。
持参したCDを一通りかけて、そろそろ日が傾いてきた。彼はライナーノーツをめくりながら「はーん」「ふーん」などとつぶやいていたが、夕食の邪魔にならないうちにおいとましたほうがよさそうだ。
「もう帰るのか?」
「そうか。わざわざ悪かったな。よし、ちーちゃん、お客様にご挨拶だ」
彼はそう言って猫を抱き上げたが、ちーちゃんは腕をまっすぐにつっぱって、できるだけ彼から離れたがっているようだった。
「きょう持ってきてくれたCDは、うちに置いていっていいからな」
「置いていっていい?」
「だってほら、いちど聴いただけじゃよく分からんだろ。そのかわりと言ってはなんだが、シュニトケの弦楽四重奏曲集を貸してやろう。何番が優れていると思うか感想を聞かせてくれ」
まだCDは返ってこない。「返してほしけりゃ取りに来い」と彼は笑うが、その目はハシビロコウのように鋭い。ただ来いというだけではなくて、また別のCDを持って来させる魂胆なのだ。わたしはどうすればいいのだろう? ただひとつの慰めは、彼の娘さん――父親との血のつながりが疑われるかわいらしさの娘さん――の耳に、エリック・ドルフィーやオーネット・コールマンが届いているかもしれないということだ。サックスを始めた彼女の頭にたくさんのはてなが浮かばんことを。
http://www.nicovideo.jp/mylist/34787975
[2] http://www.nytimes.com/2009/10/18/books/excerpt-thelonious-monk.html
[3] http://nprmusic.tumblr.com/post/80268731045/
[4] Frederick J. Spencer. Jazz and Death: Medical Profiles of Jazz Greats. University Press of Mississippi, 2002. p. 36. "A diet of honey is not recommended for anyone, and especially not for a diabetic, or prediabetic, patient."
[5] http://www.furious.com/perfect/ericdolphy2.html "'Eric Dolphy died from an overdose of honey,' arranger/band leader Gil Evans believed. 'Everybody thinks that he died from an overdose of dope but he was on a health kick. He got instant diabetes. He didn't know he had it.'"
[6] http://www.pointofdeparture.org/archives/PoD-17/PoD17WhatsNew.html
[7] http://downbeat.com/default.asp?sect=stories&subsect=story_detail&sid=1111
https://twitter.com/sahoobb/status/505525364521570304
要するに、「音楽の話をせずに」、「好きなもんを好きな様に聞けば」いいのだ。
そうやって過ごせれば、こんなに平和なことはないなんて赤ん坊でもわかる。そうやって過ごせればどんなにいいか。
「音楽に国境はない」。とても有名で、とてもすてきな言葉だ。たぶんボブ・ディランの歌詞だろう。音楽関係の名言の九割はボブ・ディランの口から発しているとされおり、すごく有り難い。
ところが現実はボブ・ディランではない。各国の土着・民族音楽に使用されている音源はおのおので笑えるくらいに異なり、「国境なんてないんだ」などとほざいて通じるように聞こえる西洋音階によるポップチャート侵略主義の結果に過ぎない。しかしだ。ここはあえてボブ・ディランに百歩譲りたい。音楽に国境はない。その呑気なテーゼを容認したうえで、ボブ・ディランはこう付言する。
http://b.hatena.ne.jp/entry/togech.jp/2014/08/30/12027
ここにコメントを書いているブクマカ(死語)は全員、本質を見誤っている。
音楽の話において、人が他人を見下すのはそいつがマイナージャンルを好きだからではない。過去の自分を見ているからでもない。人間は見下すように生まれた動物だから、というのはちょっとあるが、決定的ではない。
女が泣くのは、音楽の話をコミュニケーションの道具に使うからだ。
そもそも音楽の話はコミュニケーションの媒介として非常に燃費が悪い。なんせ、実物がないとその曲がどういうものか、ぼんやりとすらわからない。小説や漫画には筋がある、映画には役者がいる、スポーツには様式化されたアクションが、アイドルや芸能人にはゴシップが、文学にもゴシップが、それぞれ素人にも言語化しやすい形で道具として可視状態にある。
音楽には何もない。楽器に触れたこともない素人二人が互いに片方しか知らない曲の話をする場合、だいたいはエモーショナルでよくわからない表現に頼るしかない。あるいは「いいんだよ」だ。「うまく言えないけど、とにかくヤバイの」。これでは何も伝わらない。即時性を重要視するコミュニケーションの現場では、音楽など、口下手な二人の間で放置され冷めたフライドポテトよりも価値がない。すくなくとも冷めたポテトは「まずい」という互いがすぐに了解しあえる話題のフックを備えている。
なんだ、当たり前の話じゃないか、そんなことは昔からわかっているよ、とあんたは言うだろう。
ところがあんたは昔とおなじくらいに何もわかっちゃいない。
順序を間違えている。
人は他人を見下す生き物であり、だから、音楽の話でコミュニケーションを取ろうとすると悲劇が起こる、あんたはそう考えている。でなければ、あんた以外の誰かはそう考えている。
違う。逆だ。
音楽の話でコミュニケーションを取ろうとするから、他人を見下す生き物としての人の顔が顕現してしまうのだ。これは理屈でも論理でもなく、真理だ。
音楽は門戸がビッチの(ピー)なみにガバガバに広い。食べ物と似た感覚で「うまい」と「まずい」を直感的に判断できる。その直感は、一見まじりけなく、自分の本質、アーイデーンティーティがぁーー♪に直結しているように思われる。
だが、アウトプットしようとなると、童貞のケツ穴のごとく狭窄だ。和音? コード進行? ポリフォニック? Perfumeのゴリラ?
なんだそれは? なんだそれは? なんだそのわけのわからない……専門用語は?
そして、俺を含めた素人の九割はその意味を知ろうとしない。「しろうと」だけに。これは駄洒落でも冗談でもなく、真理だ。いや、ほんとうに。
ゆえに、聞く行為そのものが直感的な好みへ直ケツし、下痢気味の短腸生物のごとく未消化でそのまま「おれのアイデンティティ」へ繋がる。
すると、どうなる?
コミュニケーションバトラーたちは「○○を聞いている俺=俺自身」で勝負するしかなくなる。変化球も切り札も伏せカードも強欲な壺もない、各種ジュアルルールも適用されない生の殴り合い。怯んではならない。ダウンしてはならない。なぜなら、その曲は「俺」の魂そのものであるからだ。
それはかつて冷戦下で想定された最悪のシナリオに酷似している。発動されてしまった相互確証破壊戦略。スクリーンを飛び出してしまったスター・ウォーズ。後には誰も残らない。灰と水曜日以外、残らない。
20XX年、ここは音楽の話の核の炎に包まれた日本だ。モヒカン(ゲスの極み乙女。)が汚物(イグザイル)をルールする日本だ。
みんなが音楽の話をしている。フェイスブックで、twitterで、日常会話で、好きなアーティストを主張しまくっている。もう手遅れだ。
最初の女の嘆きに戻ろう。すまない。君には嘘をついた。「君一人が黙ればすむ」だなんて。
でも、さっき言ったように、ほんとうはもう全世界的に手遅れなの、君一人が黙ってももうダメなの、ごめんね、でもほんとうです。
しかし、本当のおわりが来る前に試みることができる解決策が二つ、ある。もちろん、択一だ。どちらかが正解のコードかもしれないし、どちらを切っても結局爆発するのかもしれない。なんであれ、やってみるだけの価値はある。
一つ目、耳を塞いで今君のいるコミュニティ(フィジカルなものもバーチャルなものも)から遁走し、誰も音楽になんてプリミティブな代物以上の興味を持たない新天地(老人ホームがおすすめだ)を探し出し、そこに逃げ込んで、鼓膜を破り、二度とiPhoneの再生ボタンを押さないことだ。
二つ目――これはきみが臆病者でない場合のプランだ、当然、保険はきかない。
とりあえず、だれでもいい、きみの周囲のモヒカンを無作為に選び出し、襟を拳で持ち上げ、殴れ。
ボコボコにしろ。そして、耳をかっぽじってよく言い聞かせるのだ。
「これから二度と私の前で、音楽の話なんてするんじゃないよ」と。
相手は腫れ上がったクチビルで言い返すだろう。「勘弁してくれ、音楽は俺の魂なんだ」と。
言ってやれ。「あんたは○○○かい? 音楽なんざいくらでも聞きな、あたしは『音楽の話』をするな、って言ってんだ!!」
それから、相手の携帯を出すように命じろ。ロック解除のパスワードを聞き出したなら、フェイスブックとその他諸々のSNSへアクセスしろ。まず、プロフィール欄の「好きな音楽」を抹消しろ。twitterのプロフィールは「わたしは卑怯なネオナチの豚野郎です」と書き換えろ。
それから、そいつが過去にweb上で行ったあらゆる音楽関係の発言を消してまわれ。終わったら、君はその携帯を愛をもって持ち主に返却するか、悪魔の笑みを浮かべて膝で叩き割るか、電子レンジでチンするか、そのどれかを選べる。この選択は択一ではない。
君に関係する豚野郎どもの携帯がすべてアルミのメルトチーズと化したころ、君はようやくお気に入りのイヤフォンであるATH-CKN70を耳孔に接続できる。
もはや君の周囲で音楽の話をする豚はいない。君に話しかける人間もいない。誰にも邪魔されない。
本物の安寧と平和が手に入る。
本物の安寧と平和、いい言葉だ。きっとボブ・ディランが作ったに違いない。あるいは残りの一割を司るアジカンの眼鏡が。
ピース。
(訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)
村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。
ところがその目論見は外れることになる。
期待していたのは、バルセロナやパリやベルリンのような街だった。
そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ、劇場、文学、シットコム、フィルム・ノワール、オペラ、ロックといった、
西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタンな世界都市を私は期待していた。
誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。
実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。
そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。
アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、
私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。
最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、
どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。
私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。
そして蜂の巣状のガラス製ピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき、
ついにユキという村上のアシスタントに見つけてもらうことができた。
あまりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。
実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。
そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。
村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初の記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなたの最初の記憶はなにかと尋ねる。
それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。
彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。
流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル。
そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。
「明確に覚えている」と彼は言う。
「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」
村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。
その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶は自分の中にある、と感じた。
ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。
村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分の記憶を写し込んでいたのだ。
村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中、
週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。
その結果、電力、公衆衛生、メディア、政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。
大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。
この本はアジアで数百万部を売り上げ、
まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。
62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学の最高峰としての地位を確かなものにしている。
疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界の大使となった。
そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。
アメリカによる戦後占領を受けた1949年の京都、日本の前首都である。
「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。
「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。
「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。
彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、
そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である。
彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説とジャズに没頭して十代を過ごした。
二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブを東京で開いた。
掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、
作家としての村上のキャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。
どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生を根底から変えてしまう。
29歳の村上は地元の野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴ・ヒルトンというアメリカ人助っ人バッターが二塁打を打つのを見ていた。
平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上は天啓に打たれた。
そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。
そして彼は書いた。
数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。
それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。
アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。
わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。
『名犬ラッシー』、『ミッキーマウス・クラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲、フランスの映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディラン、マーヴィン・ゲイ、エルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストック、サム・ペキンパー、ピーター・ポール&マリー。
以上はごく一部に過ぎない。
そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本の芸術の引用がまったくない。
村上作品のこうした傾向は日本の批評家をしばしば苛立たせている。
そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆に時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。
「時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。
30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。
すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。
彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。
そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。
「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」
そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。
30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンル(SF、ファンタジー、リアリズム、ハードボイルド)と様々な文化(日本、アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。
どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。
そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。
彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。
なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。
とはいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。
特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。
安全な言葉遣いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。
私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。
数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。
彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロン掛けが好きだという)。
靴は履いていない。
彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップでブラックコーヒーを飲んだ。
その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からのお気に入りの小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。
話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。
その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。
「大きいな」と村上は言った。
「電話帳みたいだ」
日本のビートルズは誰か、という質問にリットーミュージックの社長が「フリッパーズ・ギターだ」と確言したというニュースを見たことがある。発表した曲群に駄作が1曲もない、というのがその理由だったと思うが、実は俺もそう思う。無論フリッパーズが「バンド」なのかと言われると躊躇するところがない訳ではないが、俺の主観でも、彼らの作品には駄作がない。アルバムたった3枚で解散しちゃったけど。
しかし再度「日本のビートルズは誰か」という、どうでもいい人にとっては本当にどうでもいい質問に立ち返ってみると、リットーミュージックの社長さんは重要な観点に触れていないことに気づく。音楽のクオリティ、これはもちろん重要だが、実はビートルズをビートルズたらしめているのは、4人のキャラ立ちの凄さだ。ジョン・ポール・ジョージ・リンゴ、という4人の住み分け具合は見事だ。
例えば、ビートルズより格好いいバンドというのはいる。俺にとってはザ・クラッシュだ。特にジョー・ミック・ポールの3人が革パンで立った時の格好よさは異常。或いはビートルズより演奏が上手いバンドというのも結構いるだろう。レッド・ツェッペリンを始めとするハードロック勢やヘビメタなんかにうようよいそうだが、俺の好みでもザ・ポリスは上手かった。さらに、ビートルズより芸術的なバンドというのもいただろう。ピンク・フロイドなんかのプログレ連中もそうだろうし、最近ではレディオヘッドなんかもそれっぽいが、ブライアン・ウィルソンが神がかっていた時のビーチ・ボーイズは、俺の感覚ではビートルズよりも真に美的だったと思う。前衛的、と言い換えてもベルベット・アンダーグラウンドやフランク・ザッパがいる。ビートルズよりノれるバンド、などと言ったらそこかしこで手が挙がりそうだし、ビートルズより現代的なバンドは、という問いには答える必要もないぐらいだ。(余談だがローリング・ストーンズは実に興味深い立ち位置にいることに気づいた。いずれ考えてみよう)
ここで「しかしビートルズほどメンバーがキャラ立ちしているバンドはいない。その意味で真の日本のビートルズははっぴいえんどやYMOなのだ」なんて阿呆なことを書こうと思ってたのだが、もっと重要なことに気づいた。結局ほとんどのロックバンドがビートルズの影響を受けているのだ。格好よさや上手さや芸術性など、どの特性においてもビートルズを上回るバンドは現れたのだろうが、ビートルズほど人々の支持を得て、生活様式(a way of life)に広く深く影響を与えたバンドはいない。
例えばアメリカ人ならニルバーナは凄いとか、イギリス人ならザ・スミスは素晴らしいとか、ヘビメタ好きならメタリカは偉大だとか、ヒップホップ好きならATCQは完璧だとか、歴史家ならバディ・ホリー&ザ・クリケッツの先進性はどうなんだとか、それこそカウント・ベイシー楽団は、とかそういう話にもなりそうだが、とにかくそれらを一掃できるのが「だってビートルズほど影響与えてないんじゃん?」という一言だ。
まあだから、結局ビートルズが凄い理由は、その影響力だよね。訴求力と言い換えてもいいかも。ポールのメロディアスな名曲群はアジアを中心にいまだに根強い人気があるし、ジョンの野太い傑作群に対しては皮肉屋のイギリス人もいまだに評価せざるを得ない。そして多分3日後に世界中で同時発売される全作品のリマスター盤も売れるのでしょう。この人気・影響力がいつまで続くのかは、神のみぞ知るということだろうが、2009年9月の時点でビートルズより影響力を持ったバンドは出ていない。
ちなみに以上の話はあくまでバンドの話。影響力の話を持ち出すならバンドに限る必要はあまりない気もする。アメリカ人ならエルヴィスの影響力は強大だと言いたいだろうし、少なくともビートルズはボブ・ディランより影響力があったという結論に素直にうなづいてはくれないだろう。個人的には、それでもビートルズはその両者より影響力を持ったと思っているが、じゃあJ.S.バッハはどうなんだと言われたら平伏するしかない。
しかしバンドと、アーティスト個人とは、何かが違うのだ。もしかするとこの違いに同意してくれる人でないと、俺の考えるビートルズの本当の凄さは共有できないのかも知れない。何が違うのかと考えてみると(考えるものでもないのかも知れないが)、結局は最初に話した4人のキャラ立ちとか、そういう話になる気がする。ジョンのソロである「イマジン」と、ポール中心とはいえ4人のバンドで作った「ヘイ・ジュード」のあいだに決定的な差異を見るのは、もしかしたら単なる思い込みかも知れない。メンバーの人生のストーリーに比重を置いたロマンティックすぎる見方なのかも知れない。
それでも、一人のソロ・アーティストが助っ人を雇って作った作品と、たとえ名義上であれ、複数のアーティストが協働して作り上げた作品を同質のものだとは考えたくない。ビートルズはキャラ立ちしたソロ・アーティストが、ひとつの曲に対して、自らのアイデアをぶつけ合って作品を作り上げていくタイプのアーティストだった。本人たちの言葉によれば、スタジオでのアイデアは誰が提案したものであれ全く公平に扱われ、有効なものであれば必ず採用されたという。特に後期、そして特にジョンとポールの間ではアイデアの競争のような状態になっていたようだ。
アップルやEMIの企画次第ではあるが、将来、ビートルズの人気が落ちることもありえるだろう。しかし音楽好きの間では、彼らの音楽は愛され続ける気がする。その理由が結局、ビートルズの何が凄かったかという問いに対して、自分が最も満足できる答えでもある。つまり、曲から聞き取れるアイデアの豊かさが半端じゃない、ということだ。ビートルズは結局、アイデアが凄い。