はてなキーワード: 名犬ラッシーとは
いつもだと自分のパソコン開くんですが。今日は藤津さんのパソコンで。
コメンタリー上映会2回目。まだ喋る内容がある。というかしゃべる時間が足りない。映画をポーズで止めたかった。
キャラクター作りについて。すずさんがそこにいるということを目標のひとつとしていた。これはマイマイ新子の頃から。
絵空事では無く。肉付け。外側の世界を充実させることで、結果的にパーソナリティを描けるのではないか。
世界の構成要素を本物で描く。我々の作るアニメーションはファンタジーとなるのだが、日常空間から逸脱することでファンタジーを描くのだが、実際の世界を描くことでファンタジーにリアリティが与えられる。
名犬ラッシーから。ラッシーはイギリスが舞台。エリザベステイラーの時代。アメリカのホームドラマの影響で作ろうとしてた。ロケハンにも行けなかったので、行ったことの無いヨークシャの炭鉱を想像と調べたことの組み合わせで作っていった。
町に住んでいる人達を準レギュラーにすることで、街自体を描く。そうやってストーリーにしていった。炭鉱の浮沈や犬を手放すことになったサブシーンを描いていく。考えながら走りながら作っていった。
町を本物らしく見せる鍵は町自体に歴史があるという背景。町の川側から町を描くシーン。その世界を裏側から描写する。立体的に書き割りでは無い町。
アリーテ姫。リアリティのあるファンタジー。国がどうやって運営されているかとかが描きこまれていた。城下の職人の暮らしを描くことで、アリーテの気持ちや世界を描いた。
大学入った頃に観た、高畑勲さんの作品の影響もある。ハイジの話し。ドイツの町に住むことになって、ハイジはクララとピクニックに行くが、楽しんでいたクララが突然限界がきて辛そうになる。二面性。リアルな世界。
当時はすごいめんとくさいなと思った。学生の頃はみえてない。世界がみえてなかった。
人間を描くのはめんどくさいなと思った。名探偵ホームズはやりやすかった。宮崎駿さんが、人間の深みとか書くつもりの無い人だったから。
魔女の宅急便の時にそのあたりに踏み込んだ。普通の人がどう生きてるか。成長していくか。心の構造、精神発達心理学など。伊丹十三さんとか岸田秀さんの唯幻論。人はどうできているか。
1人の人の中には複数の個性のバランス。その場に応じて表面に出てくる割合が変わっていく。
アリーテ姫は原作は単純なキャラ。悪役の魔法使いボックス。原作は主人公はクレバーでは無いが、ボックスの悪役を掘り下げたことで、アリーテ姫は機転がきいた子になる。
自分を偽って生きているのが、自分たちの正体ではないか?虚飾の魔法使い。本当の人生を生きていない人の描きこみがアリーテ姫から始まった。
ブラックラグーンの作り込み。原作が途中から追いつかなかったので、ストーリーを聞いて描いていった。
この世界の片隅にの径子の台詞。径子は自分で自分の道を選んだから。すずとりんはそうじゃない。ブラックラグーンのOVA。周りのキャラにも、そうじゃない人生があったというエンディング。悪漢たちの別の顔。
自分が選んだ道を歩いていけてる訳ではない。だからこそ、そういうありたかった人生に触れることでその人間を描く。
原作を超えたところを描きこんだブラックラグーン。立体的な背景。タイのような舞台。タイは基本的に外国の支配を受けていないが、南の一部はインドネシア領フランスに占領されたりしていた。
最初は丸山さんは監督無しで3話ごとに交代でやる予定だった。さすがにそれはまずいだろうと基本設定決めるところをやってたら、丸山さんが監督を全く考えてなかったので気が付いたら監督していた。
ブラックラグーンはこれまでの片渕監督の作品のイメージと違うので、ペンネームでやるかという話しがあった。マイマイ新子と同時期。
うまくいかなかった人生を書いたブラックラグーン。マイマイ新子の周りの大人たちは上手くいってない。原作には1000年前の設定は無かった。国府の話しは出た。
でも、1000年前の話しが出たら、そこをふくらませてそこに見えない世界を描くのがファンタジーであり、そこを描き込むのが本能みたいなもの。
1000年前のことをきちんと調べることでファンタジーの描きこみができる。実際の280回くらいの発掘調査報告書を読んで、その中の図を集めて今の地図に重ねる。でも全然足りない。国衙の調査でも足りない。でも道路などがわかる。1000年前と今の間にもいろんな世界がある。
1000年前の世界の1000年前の話し。1000年前が真ん中。
ブラックラグーンはタイに取材にいこうとしてたら、洪水でいけなかった。ベトナムや香港などは行った。
マイマイ新子は3回くらいしか現地に行ってない。終わった後の探検隊は10回。そちらの方が多い。
発掘調査報告書がメイン。古本屋から写真など。干拓地のきーこ。カネボウの工場社宅。そのカネボウの最後の工場長から写真などをもらえた。
事前の知識を持ってロケハンに行かないと見てもわからない。塀のイメージなど発掘している現地でイメージが湧くためには知識が無いと出来ない。
事前に知っているからこそ、現地で発掘している人と話しがきちんと理解し合える。情報をもらえる。今でもあって昨日も泊まらせてもらった。
ハイジのクララの矛盾。マイマイ新子では子供たちは純粋だけど、周りは思ったように生きられてない。
マイマイ新子は金魚が戻ってきたのが最後。原作者の体験らしい。死んだはずの金魚がまた出てくるという思いが子供の世界。おじいちゃんの死の原作での書き込みを外して。
原作者は男女の性愛を描く人。それを入れなかった代わりに死の表現がにじみ出ている。死を描くための映画にしたくなかった。
普通に歳をとって死んだおじいちゃんの話しは重くしたくなかった。で、ヤクザの話しを膨らませた。
この世界の片隅にのすずさんは大人。少女から大人への端境期という面が原作より強いと原作者から言われた。すずさんは18歳で自分の意思とは関係無く嫁にいかされる。
すずさんは自分が空っぽだと思っていたが、実は中にはたくさんあった。
マイマイ新子のきーこ。新子に対して現実的な子。自分には無い想像力を持った新子をうらやましいと思っている。きーこと新子は2人とも主人公。
すずは自分の内側にあるものから変化する。空っぽな人はいないが、それを表に出せないタイプのすず。アニメーションやってる人も普通の人。
日本のアニメはドキュメンタリー性を持って進化してきたと思う。記録性。
年齢層が上がってきた。巨人の星。読売巨人軍や二軍。実際にある世界を描くようになってきた。オバケのQ太郎とは違う。観る年齢層があがる。
長くつしたのピッピやルパンの企画書を見つけた。タバコや銃のブランドの定義。ピストルで済ませるのでは無くワルサーP38。ルパン三世カリオストロでは赤いきつねやコカコーラを描いてる。
日本のアニメにそういうリアルを描く流れができた。母を訪ねて三千里は、周りの人間のリアリティが入ってきて、中学生くらいがみられる作品。
手塚治虫さんの漫画の描き方の本。アシスタントに車を描けといったらできなかった。手塚治虫さんの言う車は抽象的な車だったが、今は実際の車。
この世界の片隅にでは実名のある描きこみ。実現できなかったすずさん。抽象的な戦時中ではなく、現実のカケラを組み合わせた。
出来るだけ背景を捉える。人物のサイズを大きくしがちだが、もっと背景を描く。背景にあるものの存在感。
効果音やBGMについて。この世界の片隅にでは、出来るだけ実写の音響でということをお願いした。アニメの表現より実写の表現。BGM無しでも良いかとも思ったが、BGMで心理描写ができた。
いつもだと自分のパソコン開くんですが。今日は藤津さんのパソコンで。
コメンタリー上映会2回目。まだ喋る内容がある。というかしゃべる時間が足りない。映画をポーズで止めたかった。
キャラクター作りについて。すずさんがそこにいるということを目標のひとつとしていた。これはマイマイ新子の頃から。
絵空事では無く。肉付け。外側の世界を充実させることで、結果的にパーソナリティを描けるのではないか。
世界の構成要素を本物で描く。我々の作るアニメーションはファンタジーとなるのだが、日常空間から逸脱することでファンタジーを描くのだが、実際の世界を描くことでファンタジーにリアリティが与えられる。
名犬ラッシーから。ラッシーはイギリスが舞台。エリザベステイラーの時代。アメリカのホームドラマの影響で作ろうとしてた。ロケハンにも行けなかったので、行ったことの無いヨークシャの炭鉱を想像と調べたことの組み合わせで作っていった。
町に住んでいる人達を準レギュラーにすることで、街自体を描く。そうやってストーリーにしていった。炭鉱の浮沈や犬を手放すことになったサブシーンを描いていく。考えながら走りながら作っていった。
町を本物らしく見せる鍵は町自体に歴史があるという背景。町の川側から町を描くシーン。その世界を裏側から描写する。立体的に書き割りでは無い町。
アリーテ姫。リアリティのあるファンタジー。国がどうやって運営されているかとかが描きこまれていた。城下の職人の暮らしを描くことで、アリーテの気持ちや世界を描いた。
大学入った頃に観た、高畑勲さんの作品の影響もある。ハイジの話し。ドイツの町に住むことになって、ハイジはクララとピクニックに行くが、楽しんでいたクララが突然限界がきて辛そうになる。二面性。リアルな世界。
当時はすごいめんとくさいなと思った。学生の頃はみえてない。世界がみえてなかった。
人間を描くのはめんどくさいなと思った。名探偵ホームズはやりやすかった。宮崎駿さんが、人間の深みとか書くつもりの無い人だったから。
魔女の宅急便の時にそのあたりに踏み込んだ。普通の人がどう生きてるか。成長していくか。心の構造、精神発達心理学など。伊丹十三さんとか岸田秀さんの唯幻論。人はどうできているか。
1人の人の中には複数の個性のバランス。その場に応じて表面に出てくる割合が変わっていく。
アリーテ姫は原作は単純なキャラ。悪役の魔法使いボックス。原作は主人公はクレバーでは無いが、ボックスの悪役を掘り下げたことで、アリーテ姫は機転がきいた子になる。
自分を偽って生きているのが、自分たちの正体ではないか?虚飾の魔法使い。本当の人生を生きていない人の描きこみがアリーテ姫から始まった。
ブラックラグーンの作り込み。原作が途中から追いつかなかったので、ストーリーを聞いて描いていった。
この世界の片隅にの径子の台詞。径子は自分で自分の道を選んだから。すずとりんはそうじゃない。ブラックラグーンのOVA。周りのキャラにも、そうじゃない人生があったというエンディング。悪漢たちの別の顔。
自分が選んだ道を歩いていけてる訳ではない。だからこそ、そういうありたかった人生に触れることでその人間を描く。
原作を超えたところを描きこんだブラックラグーン。立体的な背景。タイのような舞台。タイは基本的に外国の支配を受けていないが、南の一部はインドネシア領フランスに占領されたりしていた。
最初は丸山さんは監督無しで3話ごとに交代でやる予定だった。さすがにそれはまずいだろうと基本設定決めるところをやってたら、丸山さんが監督を全く考えてなかったので気が付いたら監督していた。
ブラックラグーンはこれまでの片渕監督の作品のイメージと違うので、ペンネームでやるかという話しがあった。マイマイ新子と同時期。
うまくいかなかった人生を書いたブラックラグーン。マイマイ新子の周りの大人たちは上手くいってない。原作には1000年前の設定は無かった。国府の話しは出た。
でも、1000年前の話しが出たら、そこをふくらませてそこに見えない世界を描くのがファンタジーであり、そこを描き込むのが本能みたいなもの。
1000年前のことをきちんと調べることでファンタジーの描きこみができる。実際の280回くらいの発掘調査報告書を読んで、その中の図を集めて今の地図に重ねる。でも全然足りない。国衙の調査でも足りない。でも道路などがわかる。1000年前と今の間にもいろんな世界がある。
1000年前の世界の1000年前の話し。1000年前が真ん中。
ブラックラグーンはタイに取材にいこうとしてたら、洪水でいけなかった。ベトナムや香港などは行った。
マイマイ新子は3回くらいしか現地に行ってない。終わった後の探検隊は10回。そちらの方が多い。
発掘調査報告書がメイン。古本屋から写真など。干拓地のきーこ。カネボウの工場社宅。そのカネボウの最後の工場長から写真などをもらえた。
事前の知識を持ってロケハンに行かないと見てもわからない。塀のイメージなど発掘している現地でイメージが湧くためには知識が無いと出来ない。
事前に知っているからこそ、現地で発掘している人と話しがきちんと理解し合える。情報をもらえる。今でもあって昨日も泊まらせてもらった。
ハイジのクララの矛盾。マイマイ新子では子供たちは純粋だけど、周りは思ったように生きられてない。
マイマイ新子は金魚が戻ってきたのが最後。原作者の体験らしい。死んだはずの金魚がまた出てくるという思いが子供の世界。おじいちゃんの死の原作での書き込みを外して。
原作者は男女の性愛を描く人。それを入れなかった代わりに死の表現がにじみ出ている。死を描くための映画にしたくなかった。
普通に歳をとって死んだおじいちゃんの話しは重くしたくなかった。で、ヤクザの話しを膨らませた。
この世界の片隅にのすずさんは大人。少女から大人への端境期という面が原作より強いと原作者から言われた。すずさんは18歳で自分の意思とは関係無く嫁にいかされる。
すずさんは自分が空っぽだと思っていたが、実は中にはたくさんあった。
マイマイ新子のきーこ。新子に対して現実的な子。自分には無い想像力を持った新子をうらやましいと思っている。きーこと新子は2人とも主人公。
すずは自分の内側にあるものから変化する。空っぽな人はいないが、それを表に出せないタイプのすず。アニメーションやってる人も普通の人。
日本のアニメはドキュメンタリー性を持って進化してきたと思う。記録性。
年齢層が上がってきた。巨人の星。読売巨人軍や二軍。実際にある世界を描くようになってきた。オバケのQ太郎とは違う。観る年齢層があがる。
長くつしたのピッピやルパンの企画書を見つけた。タバコや銃のブランドの定義。ピストルで済ませるのでは無くワルサーP38。ルパン三世カリオストロでは赤いきつねやコカコーラを描いてる。
日本のアニメにそういうリアルを描く流れができた。母を訪ねて三千里は、周りの人間のリアリティが入ってきて、中学生くらいがみられる作品。
手塚治虫さんの漫画の描き方の本。アシスタントに車を描けといったらできなかった。手塚治虫さんの言う車は抽象的な車だったが、今は実際の車。
この世界の片隅にでは実名のある描きこみ。実現できなかったすずさん。抽象的な戦時中ではなく、現実のカケラを組み合わせた。
出来るだけ背景を捉える。人物のサイズを大きくしがちだが、もっと背景を描く。背景にあるものの存在感。
効果音やBGMについて。この世界の片隅にでは、出来るだけ実写の音響でということをお願いした。アニメの表現より実写の表現。BGM無しでも良いかとも思ったが、BGMで心理描写ができた。
「この世界の片隅に」の監督はジブリの初期スタッフで宮崎駿の一番弟子のような存在。庵野監督と同い年。
名探偵ホームズの脚本や名犬ラッシーの監督であり、BLACK LAGOONの監督でもある。
ちょびっツやカードキャプターさくら、あずきちゃんなどの可愛い女の子アニメの演出も手がけ
マイマイ新子と千年の魔法では海外の賞も複数受賞。
「魔女の宅急便」で企画から脚本からモデルとなる舞台の視察をして世界観を作ったのに
スポンサーから「宮崎駿じゃないと認めない」と言われて監督から演出補という肩書に下ろされることになったのち
映画完成後ジブリを去った人だということは勿論知っているよね。
パン屋の美術設定まで作ったところで降りることになったみたいだね
宮崎駿がキキをメイちゃんみたいなキャラに変更する提案にしたらしいけど、元の案が採用されたんだってね。
なんか鈴木Pが落ち込んだ片渕監督を「あんたは最後まで立ち会うべき」と現場に残らせたらしいね。
まぁそういう話を知っているからこそ、魔女の宅急便という映画が他の宮崎作品とは違うなということも実感できるし
宮崎駿好きならきっと当然知っているんだと思う。
うんまぁ多分みんな知ってるよね。
なんか「アラ、いいですね?」と思った文章だったので俺専用コピペメモ
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「さぁ今夜もやって参りました、紳士による紳士のためのシルクハットなお時間
90年代アメリカでどれだけ長い時間怒張を維持できるかという『勃起マラソン』が行われましたが
この勃起とは何が勃起したのを指すのでしょうか?はいジュピター!え、手挙げてない?
その時の記録は40時間、叩きだしたのはわずか18歳の少年だったというのだから地球の未来も明るい
だが1971年にはすでにイタリアでそれ以上の記録が出ていたのだ
ムーンスパイラルハートアタックが約6480回ぶち込める計算だ妖魔よ
その勃起を支えたネタは何だったのかというとなんと『名犬ラッシー』
まぁワンワンスタイルと言い換えれば古今東西ますらお奮い立つもやむをえない無双体位であるな
ワンワーン!よしいいぞサターンもっとだ!もっとわたしを鳴かせてくれ!コードネームはセーラーVだ!
今だ、セーラームーン!」
「はいっ!」
-----------------------------------------------------------------------------------------
(訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)
村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。
ところがその目論見は外れることになる。
期待していたのは、バルセロナやパリやベルリンのような街だった。
そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ、劇場、文学、シットコム、フィルム・ノワール、オペラ、ロックといった、
西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタンな世界都市を私は期待していた。
誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。
実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。
そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。
アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、
私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。
最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、
どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。
私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。
そして蜂の巣状のガラス製ピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき、
ついにユキという村上のアシスタントに見つけてもらうことができた。
あまりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。
実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。
そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。
村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初の記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなたの最初の記憶はなにかと尋ねる。
それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。
彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。
流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル。
そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。
「明確に覚えている」と彼は言う。
「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」
村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。
その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶は自分の中にある、と感じた。
ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。
村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分の記憶を写し込んでいたのだ。
村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中、
週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。
その結果、電力、公衆衛生、メディア、政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。
大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。
この本はアジアで数百万部を売り上げ、
まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。
62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学の最高峰としての地位を確かなものにしている。
疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界の大使となった。
そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。
アメリカによる戦後占領を受けた1949年の京都、日本の前首都である。
「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。
「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。
「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。
彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、
そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である。
彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説とジャズに没頭して十代を過ごした。
二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブを東京で開いた。
掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、
作家としての村上のキャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。
どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生を根底から変えてしまう。
29歳の村上は地元の野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴ・ヒルトンというアメリカ人助っ人バッターが二塁打を打つのを見ていた。
平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上は天啓に打たれた。
そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。
そして彼は書いた。
数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。
それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。
アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。
わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。
『名犬ラッシー』、『ミッキーマウス・クラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲、フランスの映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディラン、マーヴィン・ゲイ、エルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストック、サム・ペキンパー、ピーター・ポール&マリー。
以上はごく一部に過ぎない。
そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本の芸術の引用がまったくない。
村上作品のこうした傾向は日本の批評家をしばしば苛立たせている。
そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆に時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。
「時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。
30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。
すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。
彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。
そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。
「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」
そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。
30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンル(SF、ファンタジー、リアリズム、ハードボイルド)と様々な文化(日本、アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。
どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。
そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。
彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。
なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。
とはいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。
特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。
安全な言葉遣いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。
私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。
数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。
彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロン掛けが好きだという)。
靴は履いていない。
彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップでブラックコーヒーを飲んだ。
その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からのお気に入りの小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。
話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。
その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。
「大きいな」と村上は言った。
「電話帳みたいだ」