はてなキーワード: ドン・デリーロとは
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岡田知子&調邦行 訳「現代カンボジア短編集2」(カンボジア)
早速だが大同生命がやってる“アジアの現代文芸”シリーズはマジですげえよ。インドネシアとかスリランカ、ラオス、イランみたいな東南アジアから南アジアくらいまでの、日本じゃ見過ごされがちな国の文学しか訳してねえんだから。しかも電子書籍として無料で読めるしな (https://www.daido-life-fd.or.jp/business/publication/ebook) この「現代カンボジア短編集2」なんかクメール・ルージュ以前から90年代生まれまで、ガチの現代作家の短編しか入ってねえ。マジでこんなん読んだことねえわ。将来、浪漫主義とかフランス現代思想とかじゃなくて「アジアの現代文芸に影響を受けました!」って新世代の小説家、現れねえかなあ。
キンキントゥー/斎藤紋子「短編集 買い物かご」(ミャンマー)
同じく大同生命の“アジアの現代文芸”シリーズからなんやが、今も大変な状況にあるミャンマーの文学もこのシリーズでは10冊くらい読める。特にオムニバスの短編集がかなり出てて「ミャンマー現代女性短編集」やら「二十一世紀ミャンマー作品集」やらオススメなんだけども、より読みやすくかつ俺が一番最初に読んだって意味で思い入れあるこの「買い物かご」薦めたいね。市場って空間と買い物って行為を通じて、ミャンマーに生きる市井の人々の息遣いを知れるんだ。ニュースの報道見ると同時に、こういう文学を読むのも重要やね。
カルロス・フランス/富田広樹「僕の目で君自身を見ることができたなら」(チリ)
これはアレや、男と男のチンコ比べ本や。そしてその男と男ってのがドイツ人画家のヨハン・モーリッツ・ルゲンダスとイギリス人生物学者のチャールズ・ダーウィンで、それだけでもスゲーのに、そのチンコ比べでチリ大地震まで起こるから超壮大や。体長の何倍もデカいペニスを持つっていうフジツボまで出てきて、近年稀に見るほどのチンコ本だよ、コイツは。正直ミソジニーキツくてそういう意味じゃアカンけども、流麗華麗な文体で男たちのチンコ比べが描かれる様は一読の価値ありや。読んでどんな思いを抱いても責任は持たんけどな。
この人はどっちか言うと、サスペンス小説の方向性で受容されてるんだが、俺はこの本を“ドン・デリーロが書かなかった最良のドン・デリーロ作品”みたいに思ってる。テロリズム、パラノイア、不条理……訳者の上岡伸雄、実際デリーロの訳者だしね。デリーロの「墜ちてゆく男」とエイミー・ウォルドマンの「サブミッション」と、この「ザ・ゼロ」で上岡9.11三部作や。中でも娯楽作に舵切ってるからこれがいっちゃん読みやすい、分厚いのにリーダビリティ満載や。だが「美しき廃墟」以降、ウォルター作品が訳されてねえ。
レーナ・クルーン/末延弘子「スフィンクスか、ロボットか」(フィンランド)
レーナ・クルーンの本はね、読んでると涙ちょちょぎれちまうのよ、これが。この子供たちに向けて書かれた本なんかは少年少女の瑞々しい姿を描いていて微笑ましい一方で、俺ら大人が読むと、こう大人になるってこと、成熟するってことで失われる何かについて思いを馳せざるを得なくなってさ、それで俺、涙ちょちょぎれるんや。3つの短めな中篇が入ってるんだが、中でも表題作の「スフィンクスか、ロボットか」が一番いい。ラスト、マジ残酷すぎやろ。読んで言葉失っちゃったよ。
にしても児童文学ってのは扱いがムズいよ。児童文学ってのは何よりも子供たちに真摯に向きあうからこそ生まれる素晴らしい存在だが、その児童文学って括りが大人にとって読むに値しないように思わせる。かといって、例外的に大人がその素晴らしさを語る際に「これは児童文学以上に“文学”だ!」とか言いそうになるが、こりゃ結局児童文学を下位のカテゴリーに入れてるからこその物言いだよな。児童文学の出版に関わる全ての人々、そして何よりも子供たちに礼を欠く態度や。俺はこういうのに陥らんように、児童文学オススメしていきたいよな。
http://iuraichiro.com/perkthim.htm
あとイスマイル・カダレ、とうとう死んじまってこれまた泣けたよ。そんな今だからこそぜひともアルバニア文学翻訳者の井浦伊知郎のサイトを見てくれ。カダレの自伝小説「石の町の記録」や代表作「大いなる孤独の冬」の翻訳がこっから読める。他にもカダレに並ぶ大小説家ドリテロ・アゴリの「裸の騎士」とかアルバニア文学の名著がめちゃ置いてある。マジで信じられねえよ、これは。
自分はこれまで村上春樹のノーベル文学賞受賞はないものだろうと考えていた。
なぜなら村上春樹の源流にある英文学作家のほとんどはノーベル文学賞を獲ってないからだ。
J・D・サリンジャーもカート・ヴォネガットもジョン・アーヴィングもリチャード・ブローティガンもレイモンド・カーヴァーもレイモンド・チャンドラーも獲っていない賞を何故村上春樹が獲れるのか?という話だ。
上記に示したような20世紀後半世代の英文学作家はノーベル賞を獲りにくい傾向にある。
おそらくこれはニューレフト以降の人文世界では「脱欧米中心主義」の考えが支配的であり、
文学の世界でも例外ではなく、マイノリティやポストコロニアル(被植民地)的視点、非欧米的な価値観が評価されやすいからだろう。
例えば同じ20世紀文学の新潮流でも、リョサやマルケスのようなラテンアメリカ文学の作家は獲っているが同世代の英米のビート・ジェネレーション作家(ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、リチャード・ブローティガン等)やポストモダン作家(トマス・ピンチョン、ドン・デリーロ、フィリップ・ロス等)は誰一人受賞していない。
あまりに欧米的な村上は、日本人作家でありながら上記のような英文学の系譜として評価されており
それ故に世界中で読まれ、それ故にノーベル賞の受賞は難しいだろうと思っていた。
だが去年のボブ・ディランの受賞で大きく流れが変わった
ボブ・ディランの受賞理由は歌手としてではなくビート・ジェネレーションを代表した文学としての評価だ
まるでこれまで無視してきた英文学作家の特定の世代をあわてて補填するかのような受賞である。
僕はこのボブディランの受賞で数年以内に村上春樹が獲るのではと予想した。
もしボブ・ディランがジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、リチャード・ブローティガンといった受賞しなかったビートニク作家を補填するものだとしたら
サリンジャー、ヴォネガットといった受賞しなかった英文学の作家達を補填するのに一番ちょうどいい作家は村上春樹だからだ(もしくはジョン・アーヴィング?)
これは結構驚いた。イシグロが受賞するにしてもまずは村上春樹が先に受賞するだろうと思っていたからだ。
この受賞で同じ日本(日系)人の受賞で不利になるのではいう声は多い。
英文学の系譜であり、良く言えば世界的な人気作家だが、悪く言えばマスであり通俗的な作家である。
これらの共通点はこれまでの村上春樹が受賞しないと思われていた理由であった。
(個人的な推測だと村上の過剰な性描写がセクシズムを理由に外された?)
とはいえ無根拠に騒いでいたこれまでよりかは村上春樹が受賞に近くなったといえるだろう。
カズオ・イシグロが受賞する文学賞の選考過程に村上春樹の名前が上がらないはずがない。
このボブディランからカズオ・イシグロという流れは驚いた人も多いと思う。
ノーベル文学賞を含めた学術的な場での世界文学の評価が大きなパラダイムシフトを迎えてるのは間違いない。
そしてこの傾向は村上春樹の受賞に極めて有利な状況だろう。
というか長々と話したが簡単なことだ。
J・D・サリンジャーもカート・ヴォネガットもジョン・アーヴィングもリチャード・ブローティガンもレイモンド・カーヴァーもレイモンド・チャンドラーも獲っていない賞を村上春樹が獲ることはありえないが
ボブ・ディランとカズオ・イシグロが受賞した賞なら村上春樹が受賞する可能性は十分にありえるということだ。
追記
https://anond.hatelabo.jp/20171006224419
上記を受けての記事です。