はてなキーワード: 社会言語学とは
不正確な記憶でブコメ書いた上に、憶測を加えてしまったが、それが違っていたようだ。
Ciniiで役割語、老人などで出てきた論文にちょうどそのことを論じているものがあったので勉強もかねて増田に書いてみた。
論文1本だけで断言的なことは言えないかもしれないが、参考にはなるんじゃないかと。
『「役割語から考える自称詞 「わし」 の方言性と出現時期』黒崎佐仁子 (2011)からの孫引きになるが、以下のような理由らしい。
金水(2007)は,「そうじゃ,わしが知っておる」のようなアニメやマンガに登場する博士および老人の言葉の特徴を以下のようにまとめている。
⑸ 「A=B」の関係を表すとき,標準語では B の後ろに「だ」をつけるが,老人語・博士語で は「じゃ」をつける。また否定を表す表現として,標準語では動詞の後ろに「ない」をつけるが,老人語・博士語では「ん」をつける。さらに,一人称代名詞として,老人語・博士語ではよく「わし(博士語では,さらに「吾輩」)を用いる。(p. 98)
金水(2003:4)は「これらの特徴の対立は,実はそのまま日本の東西方言の対立に重なる」として,以下のような表を提示している。
博士語 標準語 西日本方言 東日本方言 断定 ~じゃ ~だ ~じゃ、~や ~だ 打消 知らん、知らぬ 知らない 知らん、知らへん 知らない、知らねえ
西日本方言の断定表現として「じゃ」と「や」が挙げられているが,このうち「じゃ」のみが博士語として認識される。この理由は,真田(1990)が述べているように「や」が「じゃ」の変種として新しく生み出されたものであるため,「や」が西日本方言として認知されるより前に「じゃ」が 博士語・老人語として定着したからだと考えられる。
江戸時代の言語使用特徴に関しては,佐藤(2002)が分かりやすく解説している。
(略)
当時の人々は「上方語的な言い方が伝統的に正しい」(小松 1985:21)という意識を持っていた。そのため,「若年・壮年層の人物が,いち早く江戸の新共通語である東国的表現を自分たちの言葉として駆使していた時点で,老年層は未だ上方語的表現を規範的な言葉として手放さなかったというような構図が,江戸においてある程度現実に存在した」(金水 2003:26)と考えられ,「明治期に入ると,江戸語の文法を受け継いで新しい〈標準語〉が形成されていく。
ところが文芸作品,演劇作品の中では,伝統的に「老人」=上方風の話し方という構図がそのまま受け継がれていく」(金水 2003:27)という過程を経て,アニメ・マンガの博士語・老人語が確立していったのである。
西日本方言のじゃ→やの変化とマンガの成立の時期からして、老人役割語ができたのは大正・戦前くらいかな、と想像していたが、どうやらもっと古いらしい。
江戸時代に老人役割語の原型がすでにあったらしいのはびっくりだ。伝統の慣性の力の大きさを感じる。
翻訳研究の方ではそうなってるのね。それは知らなかった。ただ、
特にTargetが複数言語であるとき、権利者のAgentはAuthorizedなTranslatedなBase Textを指定したりして、Relay Translationをむしろ広範囲に要求したりすることすらある。
というとき、その媒介言語はたいてい英語じゃないですか、それって英語帝国主義じゃないの? っていう異議が社会言語学からは出てくるところだと思う。
「英語が中心だという前提で行動するのはよくない、もっと多様な言語を尊重しないと」という立場と、「クオリティのためなら英語からの重訳でいいっしょ」という立場は真っ向からぶつかっていて、今回はその衝突の表面化かなって。
もちろんフランス語はアフリカとかに自言語を押し付けてきた側じゃないんですか? って言われたらそれはそうなんだけど、それは英語帝国主義の免罪にはならんからねえ。
このへん、増田としては、「実用的に考えれば世界のあちこちで英語が通じるのは非常に楽チン」であることは認めるのだが、しかし、「英語を介して翻訳するのは元の言語への敬意に欠けるだろう。基本的に元の言語に敬意を払うべきだ」っていう考え方も支持するので、「凡人が海外旅行で英語しか使えないのは仕方ないけど、きちんとした出版社がきちんとした学術書を出すなら原語から訳すべきだ」という主張になる。自分勝手と言われたらそうかもしれないが、まあ現実的に研究対象国+研究対象国からの移民がいる地域でしか現地語喋れないんだよねぇ、語学苦手マンですまんな。
ちょっと前に、エヴァンゲリオンの英語版字幕が話題になってたじゃん。カヲルくんの「好きってことさ」を従来の字幕では「love」と訳してたんだけど、新しい字幕で「like」になって、これは同性愛要素を消し去ろうとしている! ってポリコレ連中に燃やされたの。増田はあれを見て「英語帝国主義がポリコレ面してるの醜悪だな」って思ったよ。日本語で辞書も引けない連中が英語版だけ見て字幕に文句つけるのありえないでしょ、って思うんだけど(日本の映画ファンは英和辞書引いた上で戸田奈津子に文句つけてたよね)、英語圏の連中はそれが当たり前だって思ってる。英語圏のリベラル連中ってポリコレがどうこう言ってはいるけど骨の髄まで英語帝国主義者なんだよな。
ちょっと脱線というか恨み言になっちゃったけど、要するに英語訳がまかり通って原文を尊重しないってのはこういう事態なわけで、日本人のオタクだからこそピケティの重訳に怒ってるというのはある。「日本の小説の翻訳なんて、英語版からでオッケーっしょw 日本語ムズいし、翻訳者確保できねーしw」ってフランス人に言われたくないもの。きちんと日本語から訳せ、俺たちの文化に敬意を払え、って言いたくならない? だったら我々もなるべく直訳をするべきじゃない?
ただ、これはもうほんとうに思想の違いなので「日本人だけど別に英語帝国主義でいいです。日本のアニメも英語訳が標準でいいです、無理して海外オタクが日本語勉強する必要ないよ」と言われたら、あっ、そう……ってなっちゃうんだけど、個別の文化への尊重こそが人文系のコアにあるところなので、まあそれに同意する人文系研究者は少なかろうよ、とは思う。
metamix 英語論文なぞいらん日本語で事足りるって話はまあいいけど、理系なら学部生ですらやらされることを文系だと教授クラスでもやらなくていいんだーフーンみたいな感想
お互いの分野で必須タスクが違うだけだろ……英語以外の外国語を読まなくていい理系はずいぶん楽ですね,って言われたらどう思うよ? 私は修論書くにあたって複数のヨーロッパの言語読んだし,東洋史だと修士でも複数の現地語+複数のヨーロッパ言語を読むのが当然みたいな分野もあるけど,理系は英語だけ読んでりゃいいんだっけ? ふーん.
dot 学術言語は一理あるとも思うけど、査読有りが理系のローカルルールという言説には面食らう。記述言語も査読有り無しも最終的には学術論文としての品質をどう担保するのかというところに帰結すると思うんだ。
slimebeth この問題、英語も査読も不要、理系が絶対と思うなみたいな捨て台詞をいろんな人が吐いてくのに「では代わりにどういう制度や方法論で研究の質を担保してるのか」を未だに誰も一言も言わないの底知れぬ闇感すごい…
本当に疑問なんだけど,こういう主張するひとたちって「まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される」っていう箇所が読めてないの? 査読つき雑誌はある,査読つきの業績は重要である,しかし査読がないからといってダメであることを意味しない,ってそんなに難しい話かね.
ていうかこういうひとたち,普段は査読通った論文なら無批判に盲信してるんですか? 論文は批判的・懐疑的に読まれ,瑕疵があれば後発の研究によって批判されたり乗り越えられたり無視されたりするものだ……というのは文理を問わぬ学問の常識だと思っていたのだが,「査読がないとどうやって研究の質を担保するの?」などと吐かす一部の理系はどうやら査読を通ってさえいればアッサリと先行研究を信じてしまうらしい.どっちが権威主義なんだか.
reuteri ペレルマンは査読されてないが多くの人から批判的にチェックされるでしょ?そのチェックの有無が科学にとって重要で、「学界の権威が言っているから正しい」という世界は科学ではないのですよ。日本語については同意
藁人形叩かれても困るんですよねぇ.
theta 日本には日本のXX学、米国には米国のXX学、印度には印度ののXX学があって相互に互換性が無いのなら、それは普遍性のある学問なのかなという疑問がある。
こういうレベルの説明から始めなきゃいけないの本当に馬鹿げてると思うんだけど,日本の西欧研究なら西欧諸言語の先行研究は当然追いかけているし,英語圏の日本研究者は日本語の先行研究読んでますよ.ドイツ人のドイツ史研究者と日本人のドイツ史学者は同じ学問に従事していて,同じ問題意識を共有している.ただ,日本の西洋史研究は日本の歴史学という別の文脈の中にも置かれていて,そちらから影響を受けて「日本の西洋史研究」独自の色を出すこともあるし,アメリカでは日本研究者と東南アジア研究者が共同プロジェクトで独自の問題意識を深めているかもしれない.そういう意味で各国の研究には多かれ少なかれその国の事情に根ざした独自性があるわけ.そして,時には「本国」以外での研究潮流が「本国」での研究に影響を及ぼすことだってある(たとえば前世紀末から今世紀初頭にかけてのアメリカのソ連史研究が典型的かな).日本の中国学はフランスや台湾の中国学と微妙に違っているかもしれないけれど,それでも同じ中国学なんだ.
kingate だとして。最先端は何処よ?学術・研究論文で最先端に批評貰う必要があるんじゃねぇの?ローカル内容でも批評貰わんと正否は出ないでしょ、総論として。で、あの学者モドキはその総論に後ろ足で砂掛けたの。
分野によるとしか言いようがないし,別に最先端は複数あってもいいんじゃないかと思わなくもないが.たとえば私が研究対象にしている地域については間違いなく英語でのショボい研究蓄積なんかよりも現地語での研究が最先端だけど,私は現地での最先端の研究をフォローしているし,現地人の使っていない資料とかも使って彼らと勝負しているつもりでいるよ(現地人だからこそ盲点になってる資料みたいなのがあるんだよなぁ).
iyochoo 国内のアカデミアを重視するか、世界のアカデミアを重視するか。両方の言語で書いてくれると助かる人が多いです。
「世界のアカデミア」なんて幻想で,各国別のアカデミアが併存してるんだよなぁ.もちろんそれらの間に橋を架ける必要はあるけれど.
(……)恐らく査読文化のないという文系の分野では、被参照数によって論文の質を予測するというように思うのですが、被参照数というのは流行の研究をしている事で他の研究者が参照しやすい環境がないと伸びにくい物です。ニッチな分野の研究をしているが、優れた研究であるのに査読も行われず、誰も参照してないという論文があるとして、研究を行う者はその論文を如何にして見つけて評価するのでしょう?文系の研究者は、研究を開始するまでに、かなり無駄な調査時間を必要とするのだろうなという事を想像しますね。(……)
ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.
そもそも,査読はあるし重要だが,査読がなくても良い論文であれば評価の対象たりうる,という話を少なくとも私はしていたわけで,それを「査読文化がない」と要約されても困惑するわけですが,まあ全ての論文が査読を受けているわけではないという状況を「査読文化がない」と書いているのだろうと好意的に解釈するとして.
当たり前ですが文系でも「レベルの高い査読誌」「査読はないがレベルの高い雑誌」「レベルの低い査読誌」「無査読紀要」ではチェックの優先順位や論文の重みは違います.当たり前ですね? 査読はしていないけれど,その分野では定評がありよく読まれる雑誌,というものが存在し,たとえばそのへんの査読をつけた院生向け紀要とかよりも圧倒的に読まれる,というような状況がある中で,査読がないからといって無価値扱いするのは不当だ,という話を私はしていたわけです.
なので,ニッチだけど優れた研究をしている人は,よく読まれる媒体に論文を投稿すればよろしい.というか人文系の研究対象って,研究水準の深化に伴ってどんどんニッチになっていく傾向があったりしますしー.
そもそも人文系の多くでは被引用数を重視する文化はあまりありませーん.理由のひとつとして「正確な被引用数を測定するのが困難」というのが挙げられます.著書も業績になり得る上に各国が自国語で研究する世界において,外国語も含めた紙の本での被引用数なんて管理しきれないのでー.私も自分の論文の被引用数なんて知りません.外国語で書いたやつは3ヶ国語くらいで引用されて,日本語のやつも紙の本に1回引用されたかな? でも他にも引用されてるかもしれないので,これは最低限の数字っすね.周りで被引用数なんて気にしてる人見たことないなぁ(私に指摘されて初めて自分の論文が他人の著書に引用されてることに気づいた先輩とかいたっけ).そもそも,引用されてむっちゃdisられてても1回引用とカウントするわけですよね? それ本当に論文の質の指標になるんですか?
(……)一方で世界の社会学者は、インパクトファクターの高い査読付き国際学術誌に投稿している様ですね。アメリカだと、テニュアになるためには当たり前の様に要求される実績の一つですし、それが世界標準でしょう。(……)
それはアメリカの社会学者が自国語で論文を書いているだけでは……?
というか,日本語圏の社会学者でも英文学術誌に投稿してる人はいますし,英文学術誌に投稿してる非英語圏の学者でも,それとは別に母国語の論文書いてたりしますし.英語以外の言語での論文が載ってる社会学の学術誌,探すとあちこちにありましたよー.
韓国語> http://www.ksa21.or.kr/kjs/
中国語(簡体字)> http://sociology.cssn.cn/xskw/shxyj/
中国語(繁体字)> http://tsa.sinica.edu.tw/publish_01-1.php
ロシア語> http://www.isras.ru/Sociologicalmagazine.html
フランス語> https://journals.openedition.org/sociologie/index.html
ポーランド語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=240
リトアニア語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=1027
カタルーニャ語> https://www.raco.cat/index.php/RevistaSociologia/index
ところで日本社会学会は和文雑誌の『社会学評論』以外にもちゃんと英文の学術誌持ってるんですよねー> https://onlinelibrary.wiley.com/journal/14756781
いやほんと,テキトーな知識でよその学問分野に軽々しく口を出して,正しいこと言ってるならともかくめっちゃ的外れとか,生きてて恥ずかしくないんですかね?
death6coin “ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.”攻撃的ですねぇ
理系の研究事情や査読制度を知りもせず「理系の研究は権威主義だ! 定説にとらわれて思考が硬直している!」とかわめく連中に,これまで理系のひとはどんな目線を向けてきたっけ? 冷ややかな目線を向けて嘲笑ってきたよね.もちろんそれはまったくもって正しいよ.理系の事情を知りもしないのに思い込みで的外れな批判をするのは愚かな行為であり嘲笑に値する.文系に向けて似たようなことをわめく連中にも同様の態度を取らせてもらうというだけ.
これは本当にそう.最近だと三元社なんかが琉球諸語・日本語対訳の出版物を出していたりするけど,言語復興運動家の著書とか学術誌のコラム止まりで,琉球諸語で書かれた学術論文は残念ながら見たことがない.琉球諸語は最近書記法の整備とか色々進んでいるから,今後はそういう方向に期待したいよね.もちろん琉球諸語で書かれた論文を査読できるひとはそう多くないと思うけれど,査読なしで論文を発表することも許されているという文系の事情を積極的に活用して中身のしっかりした琉球諸語論文を発表していくひとが出てきたらいいなと思う.
それに対しては2つの論点から応答したい.1点目に,「日本語は過去の豊かな蓄積を持ち,現在も多くの学術論文を生産し続けている言語である」という前提条件を忘れてもらっては困るということ.日本について研究している学者は日本語で論文を書くわけで,この点が方言とは違う(大阪弁を研究する者のほぼ全てが標準語で論文を書いているし,山形弁で書かれたヨーロッパ史の高度な研究は現段階では存在しない).
第2に.もちろん書いていいです.少数民族が独自の民族として生き残っていこうとするには何らかの形で文章語を持つことが(必要ではないが)望ましく,実際にヨーロッパでは人口数万人の少数民族でも自分たちの言語で書かれた学術誌を持っている場合もある(もちろんその場合,当該言語や当該言語で書かれた文学,当該民族の歴史といった限られたテーマについての論文を書くので精一杯だったりするのだが.ちなみにそういう少数民族の学術誌に少数言語で論文を載せてる日本人研究者もいる).それに,言語と方言とのあいだに本質的な違いはなく,たまたま政治権力を持ち規範が整備された言語変種が「言語」とされ,「言語」と見做されなかった地域的変種が「方言」と見做されているだけ,というのが社会言語学の常識であり,実際に気仙沼方言は方言ではなく独自の「ケセン語」だと主張して聖書を翻訳したお医者さんなんかもいる.上で書いたように,宮古語と日本語のバイリンガルのコラムを載せている学術誌もある(コラム止まりで,論文ではないけど).なのでたとえば,鹿児島大学で薩摩弁を公用語にした紀要が出版されてもよいと思うし,もしその紀要に優れた論文が次々に掲載されたとしたら先行研究を読むために薩摩弁を学ぶひとも出てくるかもしれない.そしてそれは,悪いことでは決してない.
きゃーお恥ずかしい.ご指摘ありがとうございます.訂正しました.