はてなキーワード: 裁量とは
同じ部署の先輩がいる。俺より4つだか年上。4年前からこの会社でアルバイトしてるらしい。部下の俺から見ても断然仕事のできる人間で、何でバイトなんだ?って入社した時からすごい疑問だった。
しかし部長もその成績は認めてて、先輩にこの春から正社員登用を打診してた。それを聞いた先輩すげー喜んでた。やっと交通費が出るって。今まで支給されてなかったんだと。マジかよ。
部長も実際、滅茶苦茶乗り気だった。先輩が仕事できるから、裁量が増えるのはいいことだって。俺から見たらいやいや遅すぎんだろって感じだったけど。
部長が役員に話を通してて、社長も前向きに検討するみたいな感じで、俺の同期も「あの先輩、4月からは正社員なんだろ?ようやく報われるんだな」って、一緒に密かに喜んでた。
しかし4月、先輩は人生のどん底みたいな顔をして出社してきた。
なんかあったのか?と思って俺は先輩を喫煙所に誘った。
先輩の話を聞いて俺は耳を疑った。土壇場になって、先輩の正社員契約を取りやめられたんだって、
新卒で入社してから3年、社長が気分にムラのある人間だと知っていた。自分の思う通りにいかないとすぐ八つ当たりして、デケェ子供みたいだなと思ってた。
でも、だからってそんなことあるかよ。3月半ばまであんなノリ気だったくせに。ふざけんなよ!!!
まだ何の戦力にもならねえ新卒は平気で15人とか取って、やれランチだ入社祝いだってやるくせに、アホみたいに投資してるくせに。4年前からずっと会社に貢献してきた人間一人を社員にできねえのかよ。クソなのか?頭おかしいだろ。新卒に投資するなとは言わねえけど、それより先に投資すべき人がいんだろ。ふざけんなよ。先輩とはいえ、あの人は俺が正社員待遇受けてるの恥ずかしくなるぐらい仕事できるんだぞ。あの人いねえと仕事回らねえんだぞ。なんでいま貢献してる人間を評価できねえんだ?やっぱクソなのか?頭湧いてんのか?
先輩は一言だけ「殺したくなったわ」って言って、黙りこんだ。
正社員とバイトの格差はいろんなところにある。交通費が出ないし、俺んとこは実績に合わせてボーナスが数万円ほどでるんだけど、バイトの先輩にはそれもない。
社長にはもっと自分の足元を見てほしい。誰がどれだけ頑張って仕事周ってるのかを本当に知ってほしい。そりゃオッサンだし、若くて可愛い新人に目を引かれる年頃かもしれねえけど、新人ばっか集めたって仕事が回らねえんだよ。指示して教えてくれる上司がいないとさ。ホント現場のそういう所分かってくれねえのな。いつか俺が上に立った時も見てくれねーのかな。そう思ったらすっっっげーーーー辞めてえ。
https://cf.cpcdn.com/info/assets/wp-content/uploads/20160303081613/kabunushishousyuu12.pdf#page=62
この手の監査報告書は、脱税・横領が後に発覚したとしても、基本的に「問題ありません」と書かれていたりする場合がほとんどであるが、
クックパッドの招集通知には岩倉正和監査委員の佐野氏に対する恨み辛み憎しみが、これでもかと言わんばかり書かれていて本当に面白い。
(そして、最後はふざけんな!と罵りながらも、法的にはギリギリの事をされててぐぬぬ、と言わざるを得ないという締め方になっていて、哀愁を誘う本当に良い文章である)
佐野陽光 取締役が、当社に対して、他の株主3名と共に、「株主提案書」を送付した事実が生じており、かかる事実及び 本事業年度中に生じたそれに関連する事項について、監査委員として、全監査委員が合意した前記監査意見に 補足して、以下、意見を述べる。
口頭から「ヒトコト言わせて貰わないと腹の虫が収まらない!」とブチ切れモード全開。
当社社外取締役から上記株主提案書、 特に、上記の客観的事実に反する「提案の理由」について質問されたのに対して、合理的な理由なく、一切の説明を拒否し、更に、外部の弁護士に委任して、上記株主総会において取締役選任議案について委任状争奪戦 を行う準備を進めた。
実際に戦争を仕掛けたのは佐野氏の側だった模様。自分の意見が通らないので、問答無用で喧嘩を始めたようだ。
なお、佐野取締役は、同取締役会に出席しており、当社代表執行役穐田誉 輝取締役と共に、特別利害関係人として決議には参加しなかったが、上記決議後、同取締役会において、同勧告書を受け入れる旨、取締役会に対して表明した。
すごい。例の無茶苦茶な株主提案を提出する直前まで、佐野氏は同意をした風を装っていたようだ。他の取締役にして見れば、まさに寝耳に水だったのだろう。奇襲というべきか。
佐野取締役の行動については(中略)一切の説明を拒否しながら、当社の取締役としての立場を離れて、自らが当社の総株主の議決権の数に対する 43.581%の議決権を保有する株主としての立場に基づき、かかる議決権保有比率を奇貨として、上記2015年 12月18日付取締役会決議を無意味なものとし、かつ同決議で採用されなかった自らの考える事業計画を通そう とするべく、現執行部と上記合意を結んで当社の経営体制を変更しようとしたものであり
佐野氏がやったことは単に自分のエゴを通したいだけのワガママ。説明すらまともにしない無責任な行動。しかも自分の影響力が絶大だって分かっててやってるのが汚すぎる。と、岩倉さんはおっしゃっています。
当社の企業価値の最大 化と少数株主の利益の正当な保護に反するおそれがあり、その方法も含めて、妥当ではなかったものと指摘せ ざるを得ないものである。
なお、もし仮に、日本法上、取締役が株主に対していわゆる信認義務(fiduciary duty)を負うのであれば、佐野取締役の行動は、当該信認義務に違反するおそれがあると思料するものであ る。
おめーのやったこと、見方によれば立派な犯罪だぞ!?とブチ切れ。
次に、執行部については、第一に、佐野取締役の前記の諸行動は、その持株比率からして、少なくとも株主、 投資家の判断に重大な影響を与えるものであることは明らかであるにもかかわらず、社外取締役からの要請を 受けても、その内容を適切かつ適時に開示せず、中途半端な内容及び時機に遅れた開示(特に、佐野取締役らの 株主提案書を受領したにもかかわらず、社外取締役からの要請を受けても、受領の事実及びその内容を速やか に開示しなかった。)
第2に、佐野取締役が当社の総株主 の議決権の数に対する43.581%の議決権を保有するため、佐野取締役が準備していた当社第12回定時株主総会 における委任状争奪戦で敗れることを恐れて、2015年12月18日の当社取締役会決議に反する内容の合意を佐 野取締役と結んだ点において、問題なしとは言えないと指摘せざるを得ないものである。
そして佐野氏だけでなく、佐野氏にビビって自分たちの保身に走った執行部にもブチ切れ。「俺ら外部の人間から指摘するまで、株主提案の受領を公開しなかったよね?ふざけてるの?」
ここまで怒り心頭の岩倉氏、どう考えても理不尽極まりないクソな状況に憤慨しつつも、非合法スレスレで行われた本件に関して為す術もなく、辛酸を舐めて捨てセリフを吐いて報告を終える。
これを一方的に非難することまではできないもの と考えられ、経営判断原則で認められる経営者の合理的裁量の範囲をギリギリ超えないものと評価すべきもの と思料されるところである。
世間の認識とは裏腹に(もしくは意味予想通りに?)これ、原因はどう考えても佐野氏のような気がするが…金の力とは恐ろしい。
好きな人ができたらしい。
長年付き合っての授かり婚だったが、妻がキャリアを続けられるよう、妻が大好きな飲み会も週2〜3は行けるように、全力で育児をしてきた(自分の裁量で仕事量を決められる職種なので実現できた)。その結果がこれである。
籍から抜けた今も、平日育児50%50%で共同生活は続いているが(そういう約束で別れた)、時が来たらいずれ別居するらしい。
もちろん、息子のことを考えて再婚の可能性を最大限に模索している。
土日に男とお泊まりされるのが苦しいが、息子を想うと出て行けと言えないのがやりきれない。
時間が経てばベビーシッターの方と同居しているような気分になれるのだろうか?
ふと思うのは、自分が育児の主導権を握ってしまったことによって、元妻が母親になる機会を奪ってしまったのだろうか、ということ。
(完ミ・0歳から保育園・帰りの遅い元妻を待たずに息子と二人で寝るなど)
もっと魅力的な男性になって、妻を男から取り戻すのが理想なのだが、心がいわゆるステレオタイプとしての「母親」になってしまった。
日本政府の現在の方向性に少なからず疑問を持ちながらも、どう行動すればよいのかわからない人々がいるはずである。
私がこれから書く内容はデモや集会への参加を促すものではない。私に言わせればデモや政府への反対集会は表面的な抵抗に過ぎない。必要なのはまず政府が何かを理解することである。
政府とは何だろうか?それはシステムだ。だがそのシステムを動かすにはエネルギーが必要だ。現在この国ではそのエネルギーは兵役や労働役などの形ではなくもっぱら徴税の形で調達されている。
そして、その徴税で政府に渡されるのはそもそも政府が保証したのでなくては、何ら価値のない紙幣だ。つまり、政府は紙幣の価値を保証することによって、エネルギーが滞りなくシステムを動かせるように調整していると言える。
この滅亡への道を加速しながら進んでいくシステムを止めるために我々が取れる行動は二つある。
一つはそのシステムを外部から停止させること。革命である。これはあまりにもよく知られすぎている。
もう一つはそのシステムを内部から停止させることである。システムの維持にはエネルギーが必要である。そしてそのエネルギーは人々が政府を信用することだけによって価値を持つ、紙幣によって調達されている。ならばエネルギーを減少させるためにはその紙幣の価値を下げてしまえば良い。端的に言えば政府に対して「現在のあなたたちのやり方を支持しない」と言うことを伝えたいのであれば、「この紙幣に自分はもはや価値を見出さない」と表明するだけで良い。
ではどうやって表明するのか。まず、今すぐには使うことがないであろう貯金を日本円ベースではなく、別のもので置き換えることだ。外貨は手っ取り早いが、実のところどの国も内実は統制・計画経済という似たりよったりの内容である。また、国家主体を信頼しなければならないという点で損失のリスクは大きい。
では金はどうか。しかし、いざ金を蓄えると言っても家に置くわけにもいかない。やはり金庫を使ったりせいぜい「金を持っているという権利書」をやりとりすることしかできない。それに、金の価値は需要によって左右される。つまり、金原子を用いた革命的な産業が興ることによって金価格は上昇し、代替素材として安価な炭素が使えるようになれば価格は下落する。多くの人々の人生にとって金とは表面を眺めて楽しむ程度の使い方しかないはずだが、こうした別の要因で需給が左右されるのは資産の置き場所として適切とは言えない。
暗号通貨はどうだろうか。例えばビットコインには開発者コミュニティが存在している。彼ら自身が保有するビットコインの価値を上げたいと思うならば、より安全な貨幣を作り、信用を得る以外にない。もし開発者たちが利用者たちの声を聞かなくなれば、利用者たちは開発者を信用しなくなり、結果としてビットコインは暴落するだろう。他にも実用に耐えうる暗号通貨と開発者たちは存在している。ビットコインを使わなくても別の暗号通貨の割合を増やせばよいだけだ。
翻って、現実の国家では、貨幣の発行機会は政府によって独占されている。いくら独自の「ポイント」を考案しようが、それが日本円ベースで取引されていることは明らかだ。だから政府は国民を舐めきっている。いくら誤った方法で貨幣を作り、裁量で人々の価値に介入しようとも、誰もシステムのエネルギーを滞らせずに使ってくれるからだ。
政府が隠し切れない量の借金に振り回されていることは誰もが知っているはずだ。簡単に言えば事態はこういうことだ。一昨日は頼まれたので一万円貸したら一万二千円になって戻ってきた。昨日は頼まれて十万円貸したら十三万円になって戻ってきた。今日、利子をつけて返すから百万円を貸してくれと言われている。金額が少ないうちは誰かが貸してやるだろう。しかしいつまでもは続かない。この借金をどうにかするためにはすべて踏み倒すか、自分で貨幣を大量に刷って「言われた分は返しました」と言うしかないだろう。このようなことがあった後も、政府の発行する貨幣が唯一の貨幣として信用され使われるのであれば、いずれ同じことを繰り返すだろう。
もし我々が政府のエネルギーの使い方が間違っていると気づかせたいのであれば、貨幣が独占されたものだとみなすのをやめることだ。そして、常により信頼できる暗号通貨のような資産への乗り換えを検討すべきだ。もしあなたが反政府デモに参加した帰り道に、政府の発行した貨幣で飲み物を買って飲んだことがあるのであれば、それは政府に対する暗黙の支持を表明したのと同じである。
つまるところあなたは代わりに通貨としてのビットコインを日本円と交換して、その買い物をビットコインで決済すべきだったのだ。
*筆者はビットコインを全面的に支持しているわけではないが、有名な暗号通貨ということで代表としてビットコインの名前を出している。暗号通貨は詐欺が多く、現状をよく調べずに買うのは危険であると警告しておく。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
幸福と同じように、不幸の解釈は多岐にわたるから一概にはいえないが、一応は手軽な方法がある。
幸福を認めないことさ。
逆に言えば、幸福でありたいならば認めればいい。
幸福の解釈が最終的に個人の裁量に委ねられる以上、客観的に分析すればするほど大抵の場合において結論は陳腐になる。
幸福の全貌が「その程度」のものだと思ったとき、君は不幸になれるだろうさ。
逆に幸福になりたければ、不幸について分析すればいいわけだな。
知らないほうがいい、やめておけ。
人は気に入らない人間が出てきたら、その人が何か酷い目に合ってほしいと思っているのさ。
立場や状況、程度が違うだけで、“この世界”でもそういう人たちは多いだろう?
自分にとって「気に入らない対象」に、アレコレ言いたくなる衝動に駆られた覚えがあって、実際に行動に移した人は少なくない。
マンガ、アニメなどでも、酷い人格の登場人物が好き勝手立ち回る→主人公などが制裁するという構図は珍しくないな。
もちろん、君のようにそれを低俗だと思うのは間違っていない。
ストレスを抱える→それを解消するというのを一つのコンテンツでやっている。
マッチポンプというのかな。
ストレスを解消したいがために、わざわざストレスを抱えさせるという本末転倒なことをしているわけだ。
そして、それを求める人間がいて、そんな人が少なくない。
とはいえ、ストレスは人を動かす原動力、脂質みたいなものだよ。
形にこだわらないなら、人がそれらを求めるのは自然の成り行きだろう。
まあ、「気に入らない対象」と「制裁」が分離している我々は健全もいいところだな。
対象が何であれ、「死ね」だとか物騒な言葉は使わない方が良いだろう。
人を呪わば穴二つというし、逆に君が「死ね」と思われても同情の余地はないからな。
……日本も君には死んで欲しいってさ。
まあ、日本の方が先に死んでも、日本に住んでる君はどちらにしろ死ぬけどな。
HAHAHA……移民しよう。
仕事ができない後輩の面倒を見ている。
社内で仕事ができないと噂の彼。いくつか仕事を振ってみたが確かにできない。遅い。
ほんとに噂通りという印象。
本質的に仕事ができないと言うより、仕事のやり方がまだ分かっていないんだろう。
・分からないことがあったら聞く。
・一発完成を狙わず刻む。
こういうことが重要で、みんなそのステップから信頼を得て仕事ができるようになってきた。
どっかの誰かの仕事で躓く
↓
噂が立つ
↓
↓
噂が広まる
↓
↓
仕事にやる気がでない
この流れが抜け出せてない。
こっちも抜け出そうとして裁量を任せたりするけどことごとく悪い結果しか出さないから、最低限しか御願いできなくなってきている。
ストリップを見に行ったら筋少と初音ミクとかまってちゃんが流れて驚いた、という話。
かなり長文です。
初めて触れた「ストリップ」という文化についても色々思うところはあるんだけれども、
ここでは自分の初のストリップで強烈な印象を残した「栗鳥巣」というストリッパーについて書きたい。
その前に、まず当日のショーの流れを説明する。
まぁ、だいたい同じようなもんだろう。
30分のうち、前半15分は音楽に合わせて踊る。いわゆる「ストリップ」のイメージ通りのやつ。
後半15分は写真撮影の時間となっており、お客さんの好きなポーズで、あるいはツーショットで1枚500円。
撮影希望者がいなくなったら最後に軽くもうひと踊りして終わり。
というのを5人が順番にやったら、全員登場のカーテンコール。
これを1セットとして約3時間、日に4セットやって23時ごろに閉幕となる。
ちなみに客は一度入場料を払えば、入退出自由となる。
ここについてはどうやら選曲、振り付け、おそらく衣装もストリッパー自身の裁量に委ねられているらしい。
つまり各人の個性というか、センスが問われるわけで、実際、ストリッパーそれぞれにまったく異なるショーだった。
またある人は「フラメンコステップを踏む妖艶な婦人」を演出し、
それで件の栗鳥巣はなにをしたかというと「サルに扮してのロープ芸」だった。
天井のフックにロープを引っかけてブラブラしたり、なんというかアクロバティックな見世物だった。
bgmはずっとサルに関する曲で、しょっぱな筋少の「おサル音頭」が流れた時は内心苦笑した。
「申年だしね。この人はそういう芸風の人なのね…」くらいにしか、この時は思っていなかった。
さて、一人のストリッパーは日に4回ステージに立つと先に書いたが、
4回とも同じ内容ではなく、2種類のショーを交互にやるということには見ていて気付いた。
そしてショーの中には「あるコンセプト(アイドルとか)のもとひたすら踊る」パターンもあるが、
「ストーリー仕立て」になっているパターンもあることも知った。
これは大変難しいことであると思う。
「音楽と衣装とダンスだけで物語を表現してほしい。15分で。脱ぎも入れて」というのは、
なんの知識も手ほどきもない人に突然できるものではないだろう。
実際、その日のショーでも物語を取り入れたものはいくつかあったが、
話の流れで「服が脱げてゆく」のが自然であったためしはなく、
「そこでなんでおっぱじまっちゃうの」といった突っ込み所満載のものとなっていた。
そして栗鳥巣の2回目のショーが始まった。
まず流れた曲は初音ミクだった。
カクカクとしたダンスは少しずつ有機的になり、熱を帯びていった。
そしてラストに「ロックンロールは鳴り止まないっ」が大音量で流れはじめた。
そのショーは、性行為で「人間らしさ=エロス」の発露を表現するという、
しっかりとした物語になっていた。
整合性があるというと大げさかもしれない。
話としてもベッタベタかもしれない。
ただ、下手すると「脱いどきゃいいんだろ」ともなりかねない世界において、
正直なところちょっと、いやかなり感動した。
この人の舞台は、また見に行きたいと思った。
ただそういったことよりも(そういった部分も含めてだが)
なんでそんなに非モテが卑屈なのかといえば
「何事においても出来ないということの原因は人格にある」
自分の裁量ではどうすることも出来ない事柄に対するコンプレックスがあることで、
「好きの反対は嫌いではなく無関心」と誰かがいったように、
彼らは自分が求められないという状況に強い拒絶感を抱いている。
どこで歪んでしまったのか、
組織や対人関係の上で然るべき機能を果たせない不能な存在だからだと考えている。
これは自らの出自に関して、
強烈なエリート意識を持つことにより
逆説的に自尊心を高めようとするためだと僕は推測している。
なぜなら彼らは自分の行いを他人が認めてくれると思っていないから。
他人が自分に寛容な印象を持っているという確証を得ることを経て、
ようやく自分の行動が他人にとって意味のあるものになると彼らは信じている。
拗らせた非モテというのは、
下手をすればコミュニティから締め出されるという感覚を持っている。
こういった人間からすれば増田の言動は仲間だと認めていないというに等しい。
セックスすら彼らからすれば「敵ではない」という意思表示でしかないのだ。
劣等な人格の持主だからというような結論で収めてしまうのは如何なものかと思う。
彼らが非モテであるのは幼児的なマインドで行動するからというのは間違いではないが
他人との関係の築く際に着目する所が初期段階で停まっているだけなのだ。
・これを書いてる人は何者か。
地方自治体で税金のお仕事を数年やっていましたが、大ざっぱな性格故に自分には公務員は向いていないなーと思っており、夫(民間企業)の転勤と妊娠をきっかけに退職し、今は専業主婦。
昔税金の仕事をやってたんだーとママ友に言うと、「あれって値切れないの?」「踏み倒せないの?」と興味本位で聞かれることがよくあるので、そのへんを書いてみます。
まず、基本的には値切れません。当然です。
ただし、税金が高すぎる正当な理由があると思ったときは、主張したほうがいい。
たとえば、「果物は税率3パーセント、野菜は1パーセント」みたいな規定があって、自分の買ったアボカドに3パーセントの税がかけられている、なんてとき。
「果物は税率3パーセント、野菜は1パーセント」という規定は変えられないけれど、何を果物と認定するかについては裁量が効いたりします。
アボカドは野菜だろ? 植物学的分類とか知らねーけど実際甘くないしサラダに入れるし野菜じゃん!と主張すれば、1パーセントにしてくれることもあります。
・税金は踏み倒せるか?
もちろん基本的には踏み倒せません。財産がある人には容赦なく差し押さえします。
ただ、常習犯でない限り、ちょっと延滞したくらいですぐ差し押さえはしないのでご安心を。督促状2回くらいは無視しても大丈夫。多分。
差し押さえを確実に回避するためには、電話して相談することです。
お金がなくて全額は無理だけど、ほんの少しでも払える分だけ払っていきたいんです、という態度を見せて、月3000円でも払っていれば、差し押さえはしません。
ちなみに、生活保護レベルでお金に困っているときは、債務を帳消しにしてもらえることもあります。そこらへんも要相談。
とにかく、滞納者に財産がある限り、ありとあらゆる手段で調査して差し押さえるので、差し押さえられたら困る!という時は正直に相談すること。そして、ほんの少しずつでも払うことが重要です。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20160219013645
まとめサイトで取り上げられたこともあって多くの意見が寄せられているこの話題だが、このエントリーの筆者(以下筆者)の考えはおよそ普通の女性(筆者が本当に女性かは、そもそも釣りかもしれないとかキリがないのでさておき)が陵辱という言葉に対して抱くであろう普通の考え方だと思う。
さて事の発端は女子差別撤廃条約の定例報告会が2月16日に行われたが、この条約の批准状況を検討する同条約委員会から今回の報告会のテーマの一つ(しかもまとめサイトの見出しにあるような筆頭扱いではなく実際の質疑項目としては7番目)として女性に対する性的暴力を伴うビデオゲームや漫画の販売を「禁止」することを求めたものが波紋を呼んだことだ。
まず念頭に置きたいのは、この委員会には安保理決議や国連総会のような権限は無く数多ある国連関連機関のひとつに過ぎないことと、国際的な批判だとかの重々しい話ではなく委員会を構成するのは各国から選ばれた弁護士など専門家であって国家の代弁者が集う場ではないということだ。
また定例報告会とあるように日本だけが特別に呼びだされて叱咤されたのではなく、直近ではアイスランドやスウェーデンを含めた数か国が同様に報告会を行っている。
そして日本においてはゲームマンガの話だけでなく雇用や年金での男女格差など複数の議題があったものだ。
この委員会がどういうところに突っ込むかを言えば、アイスランドに対しては最高裁判事が男性しかいない点や強姦事件での有罪の少なさを指摘する。スウェーデンに対しては割礼と強制結婚の防止に関するデータの提出を求めるなど、一見してかなり細かい。つまり女子差別と見なせるものは手当たり次第とも言えよう。
話を戻そう。政治的には無視できないものの影響力は微々たるもので昨日と変わらぬ明日が来る程度の見解というのが今回の報告ということになり(国連の威を借りたい各種団体はいるが)しかしこういったことをきっかけに色々と考えるのは良いことだ。
冒頭リンク先の話はまさにそうで、ひとまずリンク先筆者の意見を要約すると以下のようらしい。
妄想は自由だけど、形にして世に流通させるのはまた別だよ。そんなもんはせめて、裏の世界で超高額で売買するか、無償でひっそりとやり取りしてほしい。
その理由は、そういった表現まで法で肯定されていたら、怖くて、不快で、侮辱的で、女性の名誉を毀損されてると感じるから。
「被害者が、実在する特定の属性を持っていること」「その属性を持っている存在を、その属性を持っていない存在が危害を加えること」「加害行為がその作品のメインコンテンツであり、その描写によって快楽・興奮を得ることが目的に作られている」この3つが揃った時、その作品は表現の自由の範疇を超えてしまう。ゆえにそれなりの規制はあってしかるべきということ。
中略省略は挟んでいるが概ねこうだ。特別な意見という感じではなく、ごく普通の感覚と言えるだろう。
しかしこのような普通の感覚とされるものが本人が想像しない危険性をはらんでいることに注意したい。
憲法で保障されている表現の自由だが、古くはチャタレイ事件でわいせつの定義が成され、公共の福祉のためにならわいせつ物の規制は妥当であるとされた。つまり公共の福祉に反しないということが表現の自由の大前提にある。
近年でそれを強く受けているのが松文館事件で、成人向けマンガにおける消し処理の甘さを指摘したものだが、どのような成人向け作品もいつ告訴されるかわからないしされれば有罪は免れないことを改めて認識させられたものだ。
定義そのものは変わらないが社会の変化とともにわいせつの要件に合致するかは変わる。チャタレイ夫人の恋人にしろ悪徳の栄えにしろ現在は文庫化され気軽に手に入る。つまり今現在悪だとされたものが数十年先にどう判断されるかはわからないのだ。無論、今は悪だとされれば裁判にかけられれば有罪になることに変わりはない。
怖くて、不快で、侮辱的で、女性の名誉を毀損されてると感じるから表現は規制されるのではない。公共の福祉に反するから規制されるのであって、法的には代表的なのはわいせつ図がに当たるから違法となる。誰かが不快だからという理由で規制してしまうことは表現のみならずあらゆるものを違法としてしまえる危険な考えであり、この先も健全な法の精神がある限りそれは守られるだろう。
先述したようにあらゆる成人向け作品は現在でもいくらでも禁止できる。だがそれは陵辱物に限ることではないし、また販売を特定の書店に限るなどの規制ではなく違法な出版物として流通そのものを禁止することになる。いくら筆者が「全面禁止しろよ」とは言ってないとしても、法で規制しろということは即ち禁止しろということになる。
現在は法ではなくその下の条例単位で成人向けとそうでない作品が分かれている。先述したように作品のジャンルではなく性的表現そのものが法的に重要なのであって、陵辱も純愛もそこには関係ない。この手の話は東京都青少年健全育成条例改正や児童ポルノ法改正などで過去に各所で散々出尽くしているが、行政も出版社もすでに作品のジャンルではなくもっと大きな単位での区分けがされている。コンビニで成人向け雑誌が他の雑誌とは別に置かれているのはそういう理由だ。
コンビニ雑誌の表紙やスマホ広告に載せるなよという筆者の言葉には、最近もコンビニにおける成人向け雑誌の表紙に女子高生が~という似たような話題があったと思う。これに関しては出版社や広告代理店などが対応する問題であって難しい。スマホに関しては広告表示に関する設定やアプリを導入する自衛策があるし、コンビニ雑誌についてはコーナーが明らかに区分けされている以上、不快なら見るなというほか無い。存在自体が不愉快だというのであれば、それは行き着く先はやはりそういった出版物そのものを禁止するべきだという論になるだろう。なにしろ全てのコンビニや書店から撤廃され特定の小さな通販サイトでしか買えないとなって筆者がそれに満足したとしても、世の中には筆者より恐らく強力で熱心な団体が存在する。今回の女子差別撤廃条約委員会の見解についても各種民間団体が絡んでおり、そもそも今回の見解では規制ではなく女子に対する性的暴力ゲームマンガの廃止を求めている。筆者は廃止された所で安全安心な世の中が得られるだけだろうが、それは当初のこっそりやれという目的から外れているが、筆者は何ら疑問の声を挙げないだろう。結局は自分の不快なものを消し去りたいだけと言えてしまうのだ。そうではないと言うのなら、ならば筆者は禁止すると法が言い出した時に「そこまではしなくて良い」と声を上げられるだろうか?
そりゃいろんな嗜好があるから、中には、対象を虐げたり傷つけたりしないと駄目な人もいるかもしれないけど、それって異常者か精神疾患ではないの?病院行けよ。
筆者は最初には嗜好と言いつつ特定の嗜好については健常者ではないとしている。性的嗜好というのは千差万別だがある種の思想を持っている場合は矯正するべきだ、というのは他者に対する尊厳を踏みにじる行為だ。50年前のアメリカならば白人に逆らう黒人は矯正するべきだとなるし、50年前の日本なら夫に逆らう妻は矯正するべきだとなる。いずれもその時代には当たり前のことであり、しかし現代人から見ればひどく差別的だろう。だからといって他者を傷つけるという行為が50年後に許容されるとは思わないが、しかし現代でも黒人差別や亭主関白を頭の中で考えることを誰が違法にできるだろうか。
特にこれは性的嗜好という、教育的思想などと違い本能に関わる難しい問題だ。法では正しい性道徳という考えがあるが、これを基本にして正しい嗜好を持つように義務付けられるような世界が筆者は望ましいのだろうか。無論、そんなことになれば事態は正しい性道徳に限らず、正しい社会規範や正しい労働者など、あらゆる面で模範的で優秀たる人間性を義務付けられるのは想像に難くないが、まさか筆者に都合の悪い趣味嗜好だけ消える世の中になると考えるほど筆者は愚かではないだろう。
いずれはこうした性的嗜好も脳機能の解明によりそのプロセスが明らかになるだろうが、まだ犯してもいない罪に対し犯罪的思考を消し去ることを是とするならば、それは個々の人格を倫理的かつ道徳的に操作しても良いということであり、当然筆者もその対象として正しい真人間にされる覚悟はあるだろうか? 少なくともこの筆者には、他者の人格を一方的に精神疾患と判定するという独善的な思想を治療する必要あり、と判断されるのではないだろうか。
現実的に、女性が男性に性的虐待を加えるというのは、①腕力・体格差があるので〈無理矢理〉が成立しにくい。②女性が見ず知らずの男性をいきなり襲っても、反撃されて傷つけられる可能性が高く、現実の犯罪率から言っても一般の男性にとってリアリティが無い。③むしろやってほしい、多少痛くてもご褒美、という嗜好の男性も散見される。
まず①に関しては、近年強姦罪が男性被害者に適用されないことが問題視されているように男性の女性からの性的被害については筆者のような「ありえない」という考え方が男女ともに強いので泣き寝入りするケースが女性の性的被害より深刻である。さらに女性被害者のような支援も充実していない。②も同様だが、犯罪率という観点について指摘がある。犯罪における男女比は細かく分けるとだいぶ違うが、総じて女性が20%ほどである。無視できるほどの数字ではなく、具体的には平成26年の殺人犯967人のうち227人は女性である。これをリアリティが無いという数値とは言えないし、また最近ではデートDVに関する大阪での調査で女性から暴力を受ける男性が倍以上の率であることが明らかになるなど、暴力で女性が敵わないからリアリティが無いというのは例え話の喩え話にしても筆者の知識不足である。③にも関連することだが、筆者自身は陵辱系ゲームマンガに対して怖くて、不快で、侮辱的で、女性の名誉を毀損されてると感じるから規制して欲しいと語るのに、ならば男性の性的被害者に関してはとなるとリアリティの無さやあろうことか一部の男性は好むからという理由で蔑ろにしている。
このことから
や
などの言葉に一切重みを感じられない。
筆者が女性として一般的な恐怖を感じるのと同様に、また筆者は女性として男性に対する陵辱などに想像が及ばないし世の男性が実はBLゲームの表現に恐怖しているかもしれないなどという考えもない。故に男性に対し筆者は、思慮が足りないなどということは出来ず、陵辱ゲームに対する意見も自身の嫌悪感からの消し去りたいという個人的要求が第一であると知るべきだろう。
「被害者が、実在する特定の属性を持っていること」「その属性を持っている存在を、その属性を持っていない存在が危害を加えること」「加害行為がその作品のメインコンテンツであり、その描写によって快楽・興奮を得ることが目的に作られている」
を筆者は規制されるべきものとしている。二番目でちゃっかり同性愛物を省いているのはわざとか天然かはさておき、いずれもどうとでも解釈できるものであり、極めて危険極まりない規制理由である。
まず第一の
被害者という言葉について、そもそも創作表現上の被害者とはなんだろうか。作中で犯罪被害に遭う存在だとして、それを現実の法で守れというのはナンセンスな話だ。大体被害者の定義はどうするのか。家が燃えたら家は被害者だから作者は建造物放火罪になるのだろうか。人間だと限ってもその属性は幅広い。誰かを殺せばその人物の役職が大統領だから実在する特定の属性になるから規制だと出来てしまう。性別に限らず年齢も服装も人種も、なにもかもが属性である以上、そもそも創作表現で一切の犯罪被害者は出せないことになる。ミステリーでも刑事物でもだ。
第二に
は、これこそ差別的だ。男性が男性を殺すのは良いが男性が女性を殺す表現は駄目だとか、それに属性の定義が難しい。男性同士の殺人であっても片方が日本人で片方がアメリカ人なら属性を持ってないから規制対象だろうか。双子であっても服が違うから駄目だとか、どうとでも言える。
第三に
これもまたどうとでも解釈できる。大体だ、その描写によって誰が快楽・興奮を得るのかが不明だ。推測するに筆者にしてみれば病的な嗜好を持つ読者なのだろうが、表現規制より悪質な思想規制がここにある。なにしろ読者が興奮すればすべてアウトにできるわけだが、虫オスがメスを組み伏せる交尾の動画に興奮する人間がいたらそれはアウトにできるのだろうか? アウトに出来るのならこれほど馬鹿げた話はないが、出来ないというのならそれは筆者の嫌悪感に基づく趣味嗜好の篩分けを是とする危険な考え方だ。「普通の人は虫の交尾に興奮しない」を後者の定義としてセーフの条件にするならば、同様に「普通の人は陵辱物に嫌悪感を抱くので興奮しない」と出来るのだが、そこを捻じ曲げてアウトにしたいならば「こういうのに興奮する人がいるから」や「これだけは例外」など法に頼らない独善的な判断でなくてはならない。
仮に筆者の希望通りに陵辱物といえるものが規制され目につかなくなったとして筆者は満足するだろうか? 一時的には満足するかもしれないが、まず一度自分の願いが達成された万能感と高揚感、そして正義感は覚え続けることだろう。そしてそもそも筆者は女性を性的対象とする作品に目をつけるだろう。なにしろ成人向け作品そのものが性的にかつ男性向けとしてあるならば、当然そこに映る女性は純愛にせよ男性にとって都合の良い女性に違いない。それを筆者は不快だと言わないでいられるだろうか、それとも女性が現実味のない都合の良い存在として描かれておりそういうのを好む男性がいるのだと不快を覚えるだろうか。私はきっと次の規制対象に選ぶだろうと推測する。
そうやって限りない規制を繰り返しついに女性を性的に取り扱うことも差別的に取り扱うこともない輝かしい作品ばかりになったとしよう。筆者はようやく安堵するどころか、さらに不安を募らせるのではないのだろうか。なにしろ事の発端はそういった陵辱物を好む男性がいることであり、そこに恐怖や嫌悪を覚えていたのである。たかが創作表現で描写されている行為にすら嫌悪していた筆者が、果たして我慢できるだろうか。
人格改造か、去勢義務化か、男性の隔離か。筆者は妄言だと笑い飛ばしたいだろうが、筆者の考えの行き着く先はこうなのだと私は言いたい。筆者がなにかに恐怖を抱き続ける限り、目に見えなくなったからといって安堵することはないし、対象を滅ぼしたとしてもまだ生き残りがいるかもしれないと恐怖し続けるだけだ。
程々で良い、少しで良いなどという考えは行政や国といった単位に上がった時、当初の理念とは大きく外れてさらに巨大な制限となる。最近も児童ポルノ法改正で様々な規制への波及を危ぶむ声が出ていたのは、つまり個人での裁量によるあれは良いこれはダメという基準は法律に存在しないということだ。
最初の話になるが、女子差別撤廃条約委員会は陵辱ゲームマンガの「禁止」を求めている。これを錦の御旗として掲げ、その通りだと禁止を呼びかけることはできるし、この先にそういった団体が動くことは目に見えている。だがその禁止が成った時に、一つの創作表現が失われることに筆者は恐らく何も抱くことはない。むしろ嫌悪するものが消え去って小躍りしたくなるだろう。だが筆者の語る所の病気である嗜好の持ち主たちは悲しむだろう。そんな奴らが悲しんだ所で筆者は何も困らないが、しかし筆者が趣味嗜好とするものが何らかの形で規制を受ける時、彼らは味方することはないしむしろ仕掛け人かもしれない。
筆者は自分が悲しむ対象になるようなことは無いと思っているだろうが、表現の自由に手をかけるとはそういうことだ。たかが創作物というものに負の感情を根底とした規制をかけられるということは、創作物以上に影響力のある現実的存在にも同様に手をかけられるということだ。筆者が好む筆者が健全で正しいと思う存在が、誰かにとって不快で汚らわしい存在でないと言い切れるだろうか?
自身が自由でありたいと思うのならば、他者の自由も許容しなければならない。それは現在のこの国において公共の福祉という最低限度の規制を受けるが、それ以上に自分自身の負の感情を理由とする個人的要求を、同様の理由で合致した他者と共謀して排除しようという試みは慎むべきだろう。現実に犯罪を犯せば処罰される。逆に言えば犯罪を犯さないかぎり自由であり、それを無理矢理に犯罪者に仕立てあげて住み心地を良くしようなどという考えを持つならば、あなたもまた誰かに犯罪者として告発され自由を奪われることを許容しなければならない。
世の中には不快と思えるものが多くある。しかしそれをすべて排除して生きたいというのは無理のある話だし、かといってすべて許容するのも無理な話だ。
しかしコンビニ雑誌の表紙が不快ならば、あなたは見ないでやり過ごすことが出来る。 Permalink | 記事への反応(3) | 09:02
我が家のしきたりでは、高校を卒業し18歳の春をむかえると、子供は家を出て各自の裁量で生活することになっていた。
もし進学したければ、学費は出してもらえたが、それ以外の生活費は基本的に自分で出さなければいけなかった。
俺はというと、地方の国公立大学に進学を決めていたので、大学近くの安い学生寮に入ることにした。
学生寮といっても住んでいる連中は、大学や専門学校生はもちろん、ミュージシャンの卵やフリーターなどおおよそ金のない若者の見本市のようだった。
ミユは、白磁器のようなすべすべとした肌で、墨でひいたような黒髪を鎖骨まで伸ばし、前髪は切れ長の目の上で揃えていて、一見クールな印象だったが
それでいてあまり高くない鼻と薄く小さい口に幼さが残り、ちょうど子供から大人へ移り変わるところといった顔立ちをしていた。
冬場はいつも暖かそうなクリーム色のとっくりセーターと黒いタイツを身につけていて、そのふっくらとした女性的な体の線に心乱された男も少なくなかった。
容姿は目立つのに、自分から目立とうとはせず、ひとりのときは絵を描いていて、みんなといるときはバカな話をニコニコと聞いているような子だった。
つづくかも?
http://anond.hatelabo.jp/20160123131828
最新の技術をバンバン取り入れて、自分の裁量でどんどん動けて。
華やかな世界。私も行ってみたい。
だけど行かないのは、今の自分の仕事に誇りを持っているからです。
そりゃー、ちょっとしたスクリプトひとつに過剰反応もしますよ。
極端な話、原子力発電所のシステムだったらそんなこと絶対に許されないでしょう?
増田の主張が間違ってるって言いたいわけじゃないよ。
むしろ涙無しには読めないよ。
行き過ぎた保守主義で組織が硬化してワケのワカランことになってるのは、私も何度も目の当たりにしてきたし、
だけど、こんな雁字搦めの状態でも何かできることはないか、変えられることはないか、って
もう三人目。
社内結婚だった奥様もつられてうつ病になったと風の便りで聞いた。
裁量ないのに30過ぎたら全員自動的に役職つけて、裁量労働制適用。
断ったら私のように閑職のコールセンターに飛ばされる。
クビにはならないけど、出世はない。
出世はないけど、ほぼ定時で帰れるし土日もきちんと休める。
http://blog.tinect.jp/?p=19867
僕も昔は他人からの指摘に過剰反応していた気がするし、今でもちょっと「むっ」とすることはもちろんあるのだけど、そこを耐え忍べるかは正に「人間の器」なんだと思う。
大企業の新卒から、中小企業の経営よりまで20代で色んな立場を経験させていただいたのだけど、基本みんな他人にあれこれ言われることを好まないので言い方とタイミングはかなり気を遣う。特に「相手の間違いを指摘する」場合は。上司はもちろん嫌がるし、部下も大体嫌がるよね。特に中小企業にいる大企業出身者なんて、組織が嫌で飛び出たような人が一定数いるから、そもそもの気質が「他人からあれこれ言われたくない」とかだったりするんですよね・・・・・
けど、残念ながら30代やそこらで「完璧」に仕事こなせる人なんていないんですよ。僕もそう。何かしろほころびは出る。その時に「こうしたほうがいいと思うよ」と言わないといけないんですよね。加えて、何言ってるかよくわかんない人とか、失敗が多い人に対しては首輪をつける(普通よりも詳細な報告を求めるとか)しないといけなくなってしまいます。ほおっておくと失敗するし・・・・大体そういう人の言い訳って「そんな話は聞いていない」なので、余計に「じゃぁ、もっと細かく指示するね」となってより締め付けをするしかなくなるので本人にとっては悪循環なんですよね・・・・
(余談だけど、「そんな話聞いてませんから無理です」は一見合理的なのだけど、「細かく管理しないといけないやつ認定」されて自分の首絞めるだけなので、言い訳としてはあまりお勧めしないです)
文中の下記の記述は正にその通りだなーと思う。ジャニーズくらいに大規模になっているならまだしも、中小企業では致命傷になりかねない。
だが一方で彼は思う。この2つが「その経営者の限界」を決める。
どれほど言葉と行動を一致させることができるか
これが「経営者の器」なのではないか。
会社がもうかっている時はいいんですよ。何もしなくてもキャッシュが入ってくるので経営の仕事なんてほとんどない。問題は、拡大をしようとするときや、キャッシュフローが悪化しているとき。
いずれの場合も、無い袖を無理やり降る話なので凄く不愉快な現実に直面しなくてはいけないです。何をしようとしても「お金がない」とか「時間がない」という現実に直面します。社員からもあれこれ心配事を投げかけられます。たいていの場合、これまでの業務と全く違うことをせざるを得なくなるので不安が募るし、「どうにかしたい」という思いがあるからこそ色んなアイディアを言いたくなるんですよね。
これが一部の経営者にとっては面白くなかったりするみたいです。経営者もアホではないので、それなりに頭使ってあれこれ考えていて「そのくらい考えとるわ!」とか思うだろうし、そもそも「ままならない現状」にイライラしてるんですよ。けど、なんとかしなきゃって意識で頑張ってるわけなんですよねその人なりに。まー、けど大体どうにもなりません(笑)
その時に、実直に他人の意見を聞けるかどうかが1つの分かれ目になるのかなと個人的には思います。つらい現実をどれだけ直視して、対策を打てるか。
なにも、「言うことを聞け」と言っているわけではないです。重要なのは、社員の不安・問題の解消と、現実を直視することです。あぁ胃が痛い・・・・
そもそも、万能な人間を仮定することなんかバカバカしいわけで、各々が努力して少しでもいい結果を出すしかないんですよ。その時に「おいお前ら、俺の言うことを聞け!」とか自分万能説を振りかざしても意味はないんです。逆に「あなたの言った通りにします」だけの機械みたいな人もいらないんですよね。だって俺が言ってたこと間違ってたら会社つぶれちゃうじゃんwww それに、人がいるなら直列よりは並列に仕事進めるほうがリスクが下がるし、早く進むわけです。
なので、経営者としてはまず第一に必要なヒト・モノ・カネを調達することはもちろんですが、得るべき結果を明示すること(ビジョンとかに近いかも)と、結果に向けた裁量をある程度みんなに持たせること、方向が間違っている人には適切に誘導することが必要です。
困難な状況だからこそ、「指示」ではなく客観的な「目標」を掲げたうえで、みんなで創造的な方法をもって挑んでいけるような環境をつくるべく、あれこれとディスカッションしていける環境を用意することこそが経営者のお仕事なんじゃないでしょうか。そのためには、経営者が聞く耳をもってディスカッションに当たらないと始まりません。コミュ力って創造的な仕事を他人とするために必要な最も基本的な能力なんですよねー結局。
色んなことを思う昨今ですが、結局人間としての成熟度が高くないと企業の成長がそこで止まってしまうというのはリアルにそうなんだよなーと思う昨今でした。
今はどこのカラケーも事務所批判一色なので、まとまった意見を書けるこちらに書いておきます。
最初に言っておきますが、当職は14回MMD杯で恒心を知った所謂新芋です。もともとなんJを見る人間ではありませんし、ニコニコ動画における淫夢などの”例のアレ”系を知ったのすら比較的最近ですので、多くの教徒と感覚がズレていると思います。もし事務所さんがこれを読んで、くっさいホモガキに援護され不快に思ったらすみません。
証明はできませんが、当職は事務所さんとは一切Twitterなどでコンタクトを取ったことはありません。今から書くことは全て自分の意見です。
まず、Dのニコ生コミュの件に関しては、ここでは言及しません。というのも、当職はDのキャスをあまり見ていませんでしたし、生放送のコミュにも申請していませんので、wikiで得られる以上の情報を持っていません。
そもそも、教徒の方がどれほどコミックマーケット及びコミケと関連の深いサブカルに関し造詣があるのか当職はよくわかりませんが、恒心以外の界隈で、これほどまでに「コミケにサークル参加しただけで界隈全体からバッシングされる」ジャンルを当職は見たことがありません。あと、コミケに参加するために匿名掲示板の住民の承認(理解)が必要なジャンルも初めて見ました。普通、同人活動ってもっと自由なものですよ。(コミケのルールの範囲で)自由に創作したり物を作ったりして、その頒布物を通して同じ趣味を持つ人と交流するのが一般的なコミケの楽しみ方だと思います。特に中小サークルはそういう傾向が強いでしょう。嫌なものは見なければいいし、どのような物を出すのかはサークルに一任されていますから、逆にジャンルの多くの人がサークルに文句をつけることは(そのジャンルのアンチでなければ)普通はしません。大事なことなので二度書きますが、サークル主が匿名掲示板の住民の機嫌を伺って参加不参加を決めたりすることは一般的ではありません。なんJでどうかは知りませんが、コミケ(というか同人界隈)では一般的ではないんです。
あと、どうも教徒の方の多くが音楽事務所さんのサークルをコミケにおける「恒心教の代表」のような捉え方をしているような気がするのですが、そのような捉え方も一般的でないと言わざるをえないと思います。コミケはあくまで”個人”の表現を発表する一つの場です。企業ブースに宗教として出したのなら、”ジャンルの代表者”になるのかもしれませんが、個人ブースの裁量はサークルに一任されています。何が言いたいかというと、教徒が「恒心教の代表者」として事務所さんのサークルを扱い、事務所さんの同人活動に口を挟むのは一般的ではないことだということです。
当職も、冬コミの頒布物の値段を相手によって変えていたというのが本当ならそれはいけないことだと思いますが、はっきり言って叩くには根拠が薄すぎるのではと思います。もともとアンチがたくさんいるわけですから、事務所を陥れようとする人が値段を偽って報告することも考えられますし(何を思ったか事務所との会話を録音してニコ動にあげたらうっかり自分の顔をセルフ開示したうえに本垢丸出しで引退したTwitter教徒もいたみたいですね)、頒布物が捌けないことを理由に途中で値段を下げるのは特に中小サークルでは十分にありえることでは?と思います。夏コミ後の引退撤回の件も、取り立てて叩くようなことではないですよね。まあ釈明のブロマガ書かないのはどうかと思いますが。サークル主として批判があればしっかり説明するのが常識的な行動でしょう。
ところで、事務所のTwitter垢に明らかにコミケについてまともに知らないであろうウンフェ垢が見当違いなリプをつけていたのを見て思ったのですが、教徒の中にコミックマーケットや関連の深いサブカルをよく知っている方はどの程度いるのでしょうか。もしそのような知識もなくなんJ的な感覚で事務所叩きをしているのだとしたら、某伊藤君ではありませんが視野が狭いと言わざるを得ないと思います。コミケにはコミケの常識があります。なんJや匿名掲示板の常識を押し付けるのは視野が狭い以上の何者でもないですよね。
仮にどんな人がいようが、必要だって人が必要である理由を合理的にのべてるのに、
自分目線で「まともでない」意見を持ち出したとこで、それが他人の自由を制限する理由になんかならんと思うけどね。
合憲判決だって、裁判官個々に合憲か違憲かの違いはあれど、姓を維持したいっつう社会的要請があることまでは共通して認めてるわけで。
夫婦同氏制度が憲法24条に違反してると言う立場をとる、木内裁判官の意見(PDF21ページ目から)。
同氏制度による憲法上の権利利益の制約が許容されるものか否かは,憲法24条にいう個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き,国会の立法裁量の範囲を超えるか否かの観点から判断されるべきことは多数意見の述べるとおりである。
ここで重要なのは,問題となる合理性とは,夫婦が同氏であることの合理性ではなく,夫婦同氏に例外を許さないことの合理性であり,立法裁量の合理性という場合,単に,夫婦同氏となることに合理性があるということだけでは足りず,夫婦同氏に例外を許さないことに合理性があるといえなければならないことである。
俺も推薦に入ったところに入社せざるを得ない、選択肢がなくなる状況が嫌だったから、推薦を使わずに東京のITベンチャーに入社した。
地方工学部院卒だと、周りは基本推薦で大手の重厚長大な企業に就職決めるが、自分の様なケースは珍しかった。
留学から帰ってきて、いかに日本人は決められたレールの上を走る人が多いか嘆いていたりしてたので、そこのところはあまり迷わなかった。
ただ自分の力で切り開いていかないと行けない、と腹だけは括った。
入社してからは、エンジニアとしてサービス開発に携わった。学生時代の研究では他の人とソースを共有して開発することはまれだったので、gitでの管理やコーディング規約に基づく実装、設計、テストなど、サービスを継続的に開発し続けるための手法はとても参考になった。プログラミングはできるほうだと自負しており、そこそこ成果を残せたと思う。ただ打ち合わせがとても多いこと、ベンチャーと言いつつ期待していたほど意思決定が早いわけではないこと、1年目の新卒にそこまで裁量があるわけでもないことに不満を抱えていた。
数百人規模でベンチャー気質を求めてはいけない。ある程度成長したベンチャーは、考え方も能力も様々な人がたくさん入社して人が増え、少人数だとうまく行っていたこともなかなかうまくいかなくなる。制度作りをしていかないといけないがまだ追いついていない、という状態だった。
本当に個々の裁量の広さ、意思決定の速さを求めるなら、数人規模のスタートアップだと思う。
(ベンチャーという和製英語はとても定義が曖昧なので、ベンチャーを名乗る会社はやめたほうがいい。響きがいいだけ)
また、速度よりも保守性を重視して書かなければいけないところに少しモヤモヤを感じていた。研究では、いかに効率的で処理コストが低くできるか、といったことをしていたので、本質的な処理を書きたいとも思った。
エンジニアはプライベートでも勉強すべき、という風潮がなにかと話題になるが、自分で未来を切り開いていくためには必須だと思う。なので外部の勉強会に行きまくり、刺激を受け、とても刺激を受けた。こういうのは地方だとほとんど経験できないので、これだけでもきてよかったと思う。
勉強会はただ行くだけでは、刺激を受けただけで意味がない。なので勉強して発表できるようネタを作り、発表を繰り返した。
そうしているうちに、勉強会で知り合ったとあるスタートアップのプロダクトの開発を手伝うようになった。
自分の方向性とも合いそうだし、なにより面白いプロダクトで、貢献したいと思った。
結構きつかったけど、充実感があり、また身に付けたい技術を触ることができていたので、楽しかった。
また勉強会の露出の効果があって、イベントの技術スタッフとして呼ばれることも出てきて、いい時は日給10万くらいもらってた。
そんな感じで実力も自信も付けてきた頃に、スタートアップでフルで働かないかとお誘いがあった。
もうやめる気でいるときに、研究開発部の長から引き止められた。
かなり積極的に外部で活動してきたことが評価されていたらしく、以前から興味を持ってくれていたようだ。
その部署には、自分が尊敬している研究者がいて、前から気にはなっていた。
その人の元で働いてみないか、と打診された。
自分のなりたい将来像を考えた時、どちらがその能力を伸ばすのに適しているか、ひたすら考えたところ、残るほうがいいという結論になった。
ざっくり言うと、エンジニアよりリサーチャーのほうが性に合っていた。
会社名義で記事を書いて何度かバズって、中央省庁から問い合わせが来ていろいろ繋がったり、海外からなにか協力してできないか、とメールが来た。
業務で学んだことを生かして個人ブログに書いたらすごいバズって、仕事で会う社外の人が皆知ってくれてる状態になって仕事を進めやすくなった。
その後は、裁量を与えてもらって自由に研究開発を行っている。任せてもらっている以上、もちろん成果は出す。
入社する前に思い描いてたよりはるかにうまくいってしまったのだが、要因は、社外での活動を積極的に行い、社外認知度を上げたことだと思う。
社名がなくても、個人で仕事が来るくらいになること。
いくら社内で認知されようと、仕事ができようと、それは社内でしか通用せず、社外に出ても通用しない可能性がある。
高学歴なら大企業行っとけ。可能ならリクルートに行け。できるやつはどこにいても出てくる。転職しても前職が大企業だとなんだかんだ説得力がある。もしお前に実力がなかったとしても、大企業ならある程度寄生できるだろう。
ガチのスタートアップは優秀で即戦力な奴しか採らないから、学生時代にIT企業でバイトでもしてない限り新卒じゃ無理だ。
ベンチャー気質のIT企業入って、外部勉強会に参加しつつ何年か修行したあとに行け。参加するだけじゃ何も起きないから、発表しろ。
今回は下世話関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
恐らく君がいっているのは主に女性に対して、だろう。
だから、どうしてもこのテの話題で女性側の立場がクローズアップされるのは自然ではある。
偏った天秤に、両方とも同じ重りを乗せても偏ったままだからな。
チカンによる冤罪うんぬんという新たな問題も出てくるわけだが、それはまた別の問題だ。
事例としては数年前、服の上から写真を撮った人が有罪になった話は有名か。
当時は、「いずれ見ただけで捕まる世の中が来そう」と割と本気で思っていた記憶がある。
そういえば数年前、教え子の一人が言っていた話を思い出すなあ。
下世話なことで盛り上がりたい年頃なのは分かるが、さすがに低俗すぎたので叱りつけたね。
君にとっての「ゴール」とは何だ。
まあ、それもいいだろう。
「何をもってゴールとするか」という話だ。
また、そのゴールは個々で決めるべき、ということでもない。
例えばサッカーのゴールは誰が決めている。
君以外の“誰か”だろう。
だが、それに参加する人々は、その“誰か”が決めたゴールに向けてボールをシュートする。
それが誰かにとって「ゴール」なら、それは他の人にとってもゴール、ということはあるだろう。
ならば、結婚することを「ゴールイン」と呼称して、それを周知とすることに何ら問題はない。
まさか「サッカーと人生は違う」だなんて、すっ呆けたことは言わないよな。
君がそう思わないことは結構だ。
だが、例えばそこをゴールと定めている人に、「ゴールじゃない」と冷や水をぶっかける行為が、理知的だと思っているのならばやめたほうがいい。
「ゴール」はある。だが、それは終わりでもないし、一つだけでもないんだ。
だから誰かにとってのゴールが、君にとってはゴールじゃないからといって、そこまで目くじら立てる必要はないんじゃないかな。
それが誰の定めたゴールかなんてことは重要じゃない。
シュートするかどうかだよ。
……ゴールできなかったら?
学ぶべき教訓はこうだ。
「人生は続く」
勝負の命運を分けるPK戦でシュートをミスした、とあるサッカー選手の言葉さ。
彼はゴールを逃した人間だが、また別のゴールに向かうしかないんだ。
ゴールしても、ゴールしなくても。
その気があるなら、君もシュートしてみることだよ。
その気がないのなら、それもまたいいだろう。いずれにしても人生は続く。
私としては、死ぬまでゴールが一つもない人生は辛いだけだがね。